タイプライターに魅せられた男たち・第154回

山下芳太郎(9)

筆者:
2014年10月30日

実は秘書官交代の3日前にあたる1906年4月17日、西園寺と山下は呉にいました。大蔵省次官の若槻礼次郎とともに、満洲・朝鮮の視察旅行に向かう途中、呉の海軍工廠に立ち寄ったのです。この視察旅行は、西園寺の海外出張に、若槻や山下など20人が随行していたにもかかわらず、「若槻次官一行」と呼ばれる奇妙な視察旅行でした。のちに若槻は、こう回想しています。

この時の随行者は、大蔵省からは予算課長の市来乙彦と私、外務省からは政務局長の山座円次郎、農商務省は満洲の農業などを見させるつもりか農務局長の酒匂常明、逓信省からは鉄道の技師の野村竜太郎、それから陸軍からは砲兵課長の山口勝、これは頭も良く、大へん好い人であった。その外に名前は忘れたが工兵課長。また別に旅行中のプログラムを作ったり、宿舎の世話をしたりするために、陸軍から数人の世話係が出ていた。そして西園寺公は住友出の秘書官を一人連れて行かれただけで、海軍の人は誰もいなく、総勢二十人ばかりであった。
しかしこの西園寺首相の満洲旅行は、公用として名前を出さない、外国語でいうインコグニトーということであった。インコグニトーというのは、私的旅行若しくは微行ということだ。それだからわれわれは事実は西園寺さんの随員だが、表面は何処へ行っても「若槻次官一行」と称し、西園寺公一行とはいわなかった。

あくまで「お忍び」の西園寺は、4月20日づけの書類を出発前に準備した上で、遼東半島へと向かったのです。一行は、大連に上陸し、旅順へと移動しました。山下にとっては、1年3ヶ月ぶりの旅順でした。西園寺の馬車と、山下の馬車がはぐれてしまう、という騒動があったものの、激戦地だった旅順要塞の視察を終え、次に一行は、営口から遼陽を経由して、奉天へと向かいました。ただ、遼東半島から奉天周辺の鉄道は、帝国陸軍が突貫工事で引いた軌間3フィート半(レール間の幅が日本国内と同じ1067mm)の区間と、過去にロシアが引いた軌間5フィート(レール間の幅がロシア国内と同じ1524mm)の区間が、あちこち混在していて、列車の直通運転はおろか、蒸気機関車のやりくりすら出来ない状態にありました。

撫順の炭坑では、西園寺みずからカンテラを付けて、採掘中の坑道深く降りて行ったため、もちろん山下たちも、それに付き合わされる羽目になりました。奉天では、盛京将軍の趙爾巽や、満洲側の武官たちを招いて、連日連夜の酒宴が催されました。ただ、この視察旅行で西園寺は、「糖尿病」と称して酒をほとんど飲まず、平野水や炭酸水ばかりを飲んでいたようです。その代役として、若槻や山下は連日連夜、酒を飲み続けていたわけですが、酒好きの西園寺にしては不思議ともいえる行動でした。

山下芳太郎(10)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。