日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第78回 物語と登場人物について

筆者:
2015年2月1日

この連載では本編も補遺も基本的に,現実世界に生きる人間の問題として「キャラ(クタ)」を取り上げている。たとえば「やだ,キャラかぶってるじゃん」(本編第8回)とか,「このグループでは私はいつのまにか姉御キャラになってしまう」(補遺第9回)とか,「しかもよ(上昇)」が『女』キャラの発話だとか,「しかもだよ」が『男』キャラの発話だとか(本編第67回),そういう「キャラ(クタ)」の話をしている。

だが,「キャラ(クタ)」にはフィクションに登場する人物,つまり「登場人物」(dramatis personae)という別の面もある。その関係でも,近年「キャラ(クタ)」論が盛んになっているようだ。

作家・新城カズマ氏は,「主に最近の日本国内もしくは先進諸国において商業的に流通する(し得る),エンターテインメント性の強いドラマチックなフィクション」を「物語」(ストーリー(ルビ))と呼び,この「物語」について「物語とはキャラクターである……少なくとも,キャラクターという観点から物語の構造と本質をよりよく見通し,その作成に役立てることは十分に可能である」と述べている(『物語工学論 入門篇 キャラクターをつくる』角川学芸出版,2009,p. 6)。

たしかに,人気を呼ぶフィクションを量産する秘訣は,何よりも登場人物の設定にあるのかもしれない。そしてそれは,登場人物と展開とをうまく融合させることなのかもしれない。新城氏が挙げる登場人物の7類型(『さまよえる跛行者』『塔の中の姫君』『二つの顔をもつ男』『武装戦闘美女』『時空を超える恋人たち』『あぶない賢者』『造物主を滅ぼすもの』)はいずれも単なる人物の類型ではなく,展開(たとえば『さまよえる跛行者』は常人が行かないところに行き着き,『塔の中の姫君』を救い出す)と結びついている点はこのことを示唆しているように思える。

ところで新城氏は同書の最終部で「物語とは(ほぼ)キャラクターであり,キャラクターとは(ほぼ)物語である」と述べている(p. 168)。ここで「(ほぼ)」が挿入されているのは,氏の主張がより厳密に述べ直されたものと理解できる。だが,私にはそれとは別に,後半のことばが少々ひっかかる。

登場人物とは(ほぼ)物語なのだろうか? 氏のテーマである「物語」からは外れてしまうことになるが,この問題を考えてみたい。つまり,登場人物は,なにかに登場してナンボのものなのか,登場するフィクションなしには成立しないのか,という問題である。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。