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図鑑は愉しい! 第4回 図鑑との再会

2015年 3月 6日 金曜日 筆者: 豊島実和

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第4回の執筆者は、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』の翻訳を手がけた豊島実和さんです。

図鑑との再会

 初めて図鑑を買ってもらったのは、幼稚園に通っていた頃だった。青森県弘前市の豊かな自然の中で、向かいの家の大好きなおにいちゃんたちに連れられて、毎日野原を駆け回っていた私が手に入れた図鑑は、昆虫図鑑であった。(女の子にためらわずに昆虫図鑑を買い与えた両親は、なかなか勇気があったと思う。)

カラスアゲハ その頃の私は、本当に長い時間を虫と過ごしていた。昆虫用の網で、あるいは素手で、トンボや蝶々、セミを捕まえていたことは言うまでもない。おにいちゃんたちが、ジョロウグモ(黄色と黒の縞模様が入った比較的大きな蜘蛛)を巣から取って、蜘蛛のお尻から糸を引き出し、ヨーヨー遊びをするのだと教えてくれたこともあった。カマキリは本当にかっこいいと信じていたし、殿様バッタも最高だった。山の中の水辺で糸トンボを見つけた時など、心からときめいた。そんな私にとって、昆虫図鑑は宝物だった。知らない虫を見つけるたびに図鑑を開いた。糸トンボのページは、いつまででも眺めていたいほど美しかった。あの図鑑は、家が火事になった時に一緒に燃えてしまったのだろうか。どこの出版社のものであったのかも覚えていない。それでも、その年初めての赤トンボに出会った瞬間、見事なカラスアゲハが目の前を横切った瞬間には、今もふと、あの図鑑を思い出す。

 人間が世界を認識するということは、即ち、世界を構築する様々な事物に名前を付けていく過程であるという説を聞いたとき、なるほど、と思った。そのような視点から見た場合、子供にとって、図鑑は、世界を発見していく手助けをしてくれる地図となる。知らない物の名前を全て、大人に尋ねることも可能であろう。しかし、手元に図鑑があれば、特にそれが自分にとって関心のある分野の図鑑であったならば、子供は、自分の力で少しずつ世界を発見する愉しさを経験することができる。あのワクワクする感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。

 

 中学校、高校と進むにつれて、私の興味は、図鑑から辞書へと移っていった。挿絵や写真のあるページは特にじっくり眺めたが、文字だけでも充分に楽しかった。辞書には、知らない世界が詰まっていた。大学では英語学と言語学を専攻した。電子辞書が出回る以前のことで、教科書に加えて、紙の辞書を2冊も3冊も抱えて、千葉の自宅と東京の大学を往復した。家では『言語学大辞典』という、枕にもできないほど厚い辞典を毎日熟読して過ごした。正に、辞書が恋人だった。

 大人の辞書には、挿絵や写真はそれほど多くない。文字ばかりの世界に慣れ切っていた私に、昨年、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』という図鑑の翻訳の仕事が回ってきた。図鑑の翻訳とは何だろう、と、不思議に思った。図鑑、と聞いて、糸トンボを連想する私にとって、図鑑とは見るものであり、訳すべき文章など、ほとんどないように思えたのである。実物を見て驚いた。図や写真がふんだんに用いられており、確かに、図鑑と呼んで間違いないのだろう。しかし、読むべき文章の充実ぶりは、想像を遥かに超えていた。訳していて、引き込まれた。本当に愉しかった。

 最近、この手の図鑑が流行しつつあるのだと、出版社の方が教えてくれた。『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』はイギリスの出版社から出ているものであるが、イギリス本国でも人気があり、また、多くの国々で翻訳されているそうだ。表紙もなかなか凝っているので、インテリアとしても人気があるという。確かに、普段は飾っておいて、気が向いたときにパラパラと眺めることも、気になったページをじっくり読み込むこともできるだろう。最近の図鑑は、私の中の「図鑑」という概念を超えるものなのだと思い知った。

 初めての図鑑を開く子供は、そこに写真と名前が載っていれば、多くの場合、満足するだろう。しかし、大人になるにつれて、名前以上の情報を得たいと思うようになるはずだ。大人にとって、世界は既に単なる名前の羅列ではないからだ。名前の背後にある様々な事情を知ることで、我々は世界を理解していくのだと言えるだろう。この新種の図鑑は、そのような知識欲を充分に満たしてくれるものである。

 

 大人になった私は、もう蜘蛛のヨーヨーでは遊ばない。図鑑との縁も、一度は切れてしまっている。しかし、図鑑文化が新たな深まりを見せてくれたお陰で、あの頃とは少し違った形で、再び図鑑を愉しむことのできる時代がやって来た。これから、きっとまた、手に取るだけでワクワクするような図鑑に出会うことができるのだろう。その瞬間を想像するだけで、とても嬉しくなる。

 

【筆者プロフィール】

『グランドセンチュリー英和辞典 第3版』豊島実和(とよしま・みわ)
東京大学大学院総合文化研究科博士課程後期満期退学。現在、東京外国語大学、昭和大学ほか講師。専攻は英語学。訳書に、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』(ともに三省堂)がある。『グランドセンチュリー英和辞典』編集委員も務める。

 

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◆→次回第5回の執筆者は、三省堂書店(名古屋髙島屋店)の福澤いづみさんです。

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2015年 3月 6日