タイプライターに魅せられた男たち・第179回

山下芳太郎(34)

筆者:
2015年4月30日

同じ1920年11月1日、住友鋳鋼所は住友製鋼所に改称しました。そして12月1日、山下は、住友伸銅所の所長に就任しました。住友銀行の理事、住友伸銅所の所長、住友製鋼所の常務取締役、という三足のワラジを履いて、さらには仮名文字協会の会長まで務めるという奮闘ぶりでした。ただ、住友製鋼所では、微妙な内紛の火種が拡がりつつありました。支配人の工藤治人と、副支配人の細矢直が、派閥争いを始めていたのです。工藤は15年以上、住友で働いてきた人物で、途中5年間のドイツ留学を除いては、ずっと住友で鋳鋼に携わってきました。一方の細矢は、室蘭の日本製鋼所から引き抜かれた人物で、経験は長いものの、住友においては新参といえる存在でした。この二人の仲違いが、住友製鋼所での派閥争いへと発展しつつあったのです。ただ、派閥争いというものは、大なり小なり、どこの組織にもあるもので、この時点では、山下としても、あまり気には留めていなかったようです。

仮名文字協会の設立趣意書と併せる形で、山下は『国字改良論』という小冊子を自費出版していました。カタカナ横書きこそ、日本語の「書字」が進化すべき方向であり、漢字を駆逐し、ローマ字論者を排し、カタカナで日本語を表記する方向に進むべきだと、山下は『国字改良論』で強く主張しました。カタカナ活字を設計し、横書きカナタイプライターを製作することは、山下にとって、国字改良のための最重要課題だったのです。そんな山下に近づいてきたのが、米国貿易会社(American Trading Company)東京事務所のコーディー(John Kieran Ignatius Cody)という人物でした。コーディーは、米国貿易会社でレミントン・タイプライターの輸入をおこなっていて、発売されたばかりの「Remington Portable」をどう日本に売り込んでいくか、策を練っているところでした。仮名文字協会の設立を知ったコーディーは、山下に、「Remington Portable」のカナタイプライター化を持ちかけたのです。「Remington Portable」にカタカナを載せたモデルを作らないか、というのです。

ただ、「Remington Portable」にカタカナを載せるとなると、活字とキー配列を決めなければいけません。カタカナ活字に関しては、平尾がデザインした活字がすでにあるものの、キー配列に関しては、山下には何のアイデアも無かったのです。「Remington Portable」は2段シフト42キーですから、84字が収録可能です。山下の知る限り、逓信省では、すでに「和文スミス」という42キーのカナタイプライターが使われていました。しかし「和文スミス」は縦書きで、しかも小書きのカナ(ャュョッなど)がないため、そのキー配列は、山下にとって全く使えないものだったのです。山下は、新たなキー配列を設計する必要に迫られました。

山下芳太郎(35)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。