日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第86回 内キャラと外キャラについて

筆者:
2015年5月24日

「キャラクタ」と「キャラ」を区別するという伊藤剛氏の二分法がマンガ論を越えて諸方面の論者に援用されていったことは,それだけこのアイデアのインパクトの大きさを物語っている。だが,それらの論考の中で伊藤氏の「キャラ(Kyara)」概念がどれだけ忠実に採用されているか,あるいは変形が施されたにしても,その変形がどれだけ明示的に述べられているかは,正直いって私には疑問である―ということを前回述べたところ,伊藤氏から同感とのお声をtwitter上でいただいた(https://twitter.com/GoITO/status/597280112766124032)。ありがとうございます。

調子に乗って,伊藤氏の「キャラ(Kyara)」概念に対する私の理解をもう少し述べれば,これはマンガの登場人物が1つ1つのコマを越え,1話1話の話を越えてリアルに生きていると読者に感じさせる,マンガの登場人物のあり方を考える上で非常に根本的な概念である。この概念を,現実世界を生きる私たちが口にする「実はオレ,学校とバイト先でキャラ違うんだよね」といった(私が追求している)「キャラ」と同一視することには,無理があるように私は思う。しかしながら,「根本的」という一点においては,2つの「キャラ」は似ていないこともない。このことを,土井隆義氏の論考を私のものと対比させる形で述べてみたい。

若者が口にする「キャラ」という言葉を手がかりにして,人間像について考えるというスタンスは,私だけではなく土井氏にも共通している。また,考察の射程を若者に限らないという点でも両論は近い。但し,これはあくまで「近い」と言う以上のものではない。

土井氏が「若者に限らない」とするのは,次の(1)に記されているように,「「内キャラ」という固定的な人格イメージを人生の羅針盤に据えようとする心性」である。

(1) また,男ならイケメンかキモメンか,女ならモテか非モテか,今からの努力では変更が不可能と思われるような固定的な属性で,卑近な対人関係だけではなく,自分の人生までも大きく左右されるかのように考える若い人たちも増えています。自由意思に基づいて主体的に選択されたものとしてではなく,生まれもった素質によって宿命づけられたものとして,自分の人生の行方を捉えようとする人びとが増えているのです。このような現象は,内キャラという固定的な人格イメージを人生の羅針盤に据えようとする心性がもたらした帰結の一つといえるでしょう。
 では,このような心性は,若い世代の人びとだけに特有のものなのでしょうか。現在の日本を見渡してみると,じつはそうではないことに気づかされます。よく目を凝らせば,日本社会のさまざまな領域に,この心性の影を見てとることができるのです。

[土井隆義『キャラ化する/される子供たち―排除型社会における新たな人間像』岩波書店,p. 36,2009]

では「内キャラ」とは何か? ここでもまた,これまで多くの論者に対して述べてきた不満を繰り返さなければならないが,残念なことに,初出時点で特に説明がなされているわけではなく,はっきりした定義はなされていない。「内キャラ」と言う以上は「外キャラ」もあるのか?というと,これがあるのだが,これも特に説明はされていない。次の(2)(3)のような具合である。(2)は「外キャラ」の初出部分,(3)は「内キャラ」の初出部分である。

(2) こうしてみると,キャラクターのキャラ化は,人びとに共通の枠組を提供していた「大きな物語」が失われ,価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで,それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ,複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。

[同上,p. 23.]

(3) アイデンティティは,いくども揺らぎを繰り返しながら,社会生活のなかで徐々に構築されていくものですが,キャラは,対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても,生まれもった人格特性を示す内キャラにしても,あらかじめ出来上がっている固定的なものです。したがって,その輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても,それ自体は変化しないソリッドなものなのです。

[同上,p. 24.]

詳しい定義などなくても,以上の説明で確かに大体はわかる。しかも面白い。上掲(3)の冒頭にあるように,アイデンティティは予め定まっているものではなく「社会生活のなかで」構築されていくもの,「そもそも自己とは,対人関係のなかで構築されていくものです」(p. 60)と土井氏は論じられる。そしてコミュニケーション能力についても,「コミュニケーション能力は,相手との関係しだいで高くも低くもなりうるものです。それは,じつは個人が持っている能力ではなく,相手との関係の産物なのです」(p. 18)と説かれる。つまり徹底したインタラクション志向なのだろう。コミュニケーションの重要性がますます叫ばれている今日,土井氏は第1章のタイトルに「コミュニケーション偏重の時代」という,挑発的な文言を持ってこられる。「みんなが思っているような,お互いの不動の個性を尊重したコミュニケーションなんか,要らないよ」と仰りたいのではないか。

だが,詳しい定義がないと,やはり難しい箇所は残ってしまう。次の(4)は,(3)の直前の部分だが,(4)の最終部分では,人格のイメージがキャラの寄せ集めだとされている。

(4) それに対して,今日の若い世代は,アイデンティティという言葉で表わされるような一貫したものとしてではなく,キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして,自らの人格をイメージするようになっています。

[同上,pp. 23-24.]

しかし,先に挙げた(1)では,人格のイメージこそ「内キャラ」とされていたのではなかったか。。。

という具合に,解釈が難しい箇所をとりあえず外すと,大人と若者は,自身の人格のイメージの仕方こそ違っているものの(大人はアイデンティティといった一貫したものとしてイメージしているが若者はそうではない),固定的な「内キャラ」を尊重して人生を生きようとする点では同じだ,というのが土井氏の考えになる。

これに対して私は,大人論,若者論を避け,大人・若者のあり方に共通するものとして「キャラ(クタ)」という概念を考えている。私が言っているのは「多重人格のような特殊な症例を別とすれば,通常の人間は,状況ごとにスタイルを変えるだけで,人間自体は変わらない」という伝統的な人間観は実はあまり現実と合わない,むしろ「人間は,状況ごとに,意図的・非意図的を問わず,変わってしまう部分(キャラ)がある」と考えるべきということであって,これは若者であろうと大人であろうと,同じだと私は考えている。

伊藤氏の「キャラ(Kyara)」と私が追求している「キャラ」が,別物ではあるけれども,共に「根本的」ではあるというのは,一つにはこういうことである。(続)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。