日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第88回 良き市民社会のお約束とカミングアウトについて

筆者:
2015年6月21日

前回の最後に述べた「良き市民社会のお約束」とは,「人格の多重分裂といったごく一部の病理的なケースを除けば,人間は変わらない。状況に応じて変わるのは,人間がスタイルを変えているだけで,人間自体は変わらない」という考えである。言い換えれば「私の前に現れているあなたは,本物のあなたでしょう。あなたは正体を偽って私の前に現れたりなどしていないと私は認めます。同じように,あなたの前に現れている私も,本物の私です。あなたと別れた後も,私は24時間365日,360度誰に対しても,こういう人間です」ということになる。

「良き市民社会のお約束」のもとではキャラ(クタ)はどうなるか。「あなたは自身を偽ってなどいない。あなたのその毛は地毛でしょう。同じように,私のこの毛も地毛です。世の中にカツラというものが存在していることは承知していますが,あなたも私もカツラではない。地毛ですね。そして田中さんも鈴木さんも,私たちのお友達は皆,カツラなどではなく,地毛ですね」ということになっている。「あなた,カツラでしょ?」と言えば相手は飛びすさるだろう。それは「あなたにも,私の知らない面がいろいろとおありでしょうね」という,考えてみれば当たり前のことでも口に出せばその場の空気を凍り付かせてしまうのと同じことである。「良き市民社会のお約束」のもとでは,人間には人格があり,その人格のもとでさまざまなスタイルを状況に応じて使い分けるだけであり,人間自体は状況ごとに変わったりしない。つまり,キャラ(クタ)などというものはない,ということにされる。

ところが,ところが,である。こういうお約束に対する違反が,時として「ま,みんな,やるよね」みたいな感じでカミングアウトし,認められてしまうことがあるんですね。たとえば化粧。自分の本当の姿を偽る点ではカツラと変わらないはずなのに,化粧については日本語社会はカミングアウト済みで,結果として街では化粧品屋が堂々と営業し,化粧のタブー性はかなり薄まっている。

とはいえ,「公の場での化粧は御法度」「「厚化粧」とはマイナスイメージのことば」「実際より化粧をしていないように見せる化粧法はあるが(ナチュラルメイク(第4回)),実際より化粧をしているように見せる化粧法はない」,といったことを考えていくと,やはり化粧も,自分を偽るタブーであるという面は否定できない。これが整形になると「疑惑」として取り沙汰されるほどのタブーになる。韓国語社会ではカミングアウトがなされ,お母さんが娘の誕生日にプチ整形のクーポン券をプレゼントしたりすることもあるらしいが,全面的な大がかりな整形になるとさすがにそう自由ではないという。つまりどのあたりでカミングアウトがなされるかは,個々の社会ごとに違っているが,自分の姿を変えることが基本的にタブーであることはどこでも変わらない。「キャラ」ということばを発して「自分は状況に応じて変わるのだ」と,一見あっけらかんとカミングアウトしているように思える若者たちも(前回),よく考えてみればこれをおおっぴらに実名でおこなっているわけではなく,匿名性の高いネットにこっそり書き込んでいるに過ぎない。

土井氏が書かれていることは(前回の(1)の後半),「大きな物語」というよりも「良き市民社会のお約束」についてのことではないのか。それは「大きな物語」が失われた今も依然として強い力を保ち,私たちの日常生活を支配しているのではないだろうか。「大きな物語」の喪失という時代の流れをどの程度認めるにしても,若者たちの(そして私の)言う「キャラ」が,それでただちに説明し尽くされるというわけではないだろう。

正直に言い足すなら,私が土井氏ほどには,「キャラ(クタ)」を「大きな物語」の喪失と結びつける気になれないのは,私が1960年~1970年代初頭の映画やテレビ番組を思い出すからでもある。土井氏は「大きな物語」の喪失前を「物語の主人公がその枠組に縛られていたキャラクターの時代」とされるのだが,映画『怪獣大戦争』(東宝,ベネディクト・プロ,1965年)の中では,怪獣ゴジラが,赤塚不二夫のマンガ『おそ松くん』のイヤミのギャグ「シェー!」をやらかしていた。映画『マジンガーZ対デビルマン』(東映,1973年)では,マジンガーZとデビルマンという,決して交わらないはずの両雄が並び立ってしまった。テレビ番組『ウルトラファイト』(円谷プロダクション,1970-1971年)では,ウルトラセブンや怪獣たち,宇宙人たちが,「地球を守る/征服する」などという本来のお題目とは何の関係もなく,勝手気ままに荒野でプロレスをやっていた。これらの登場人物たちの,本来の枠組からの逸脱ぶりを,私は興奮半分・幻滅半分で観ていたが,そこに大人どものご都合主義や商魂たくましさをうっすら感じることはあっても,「大きな物語」の喪失といったものを感じることはなかったのは,私が幼すぎたのだろうか。

伊藤剛氏は,氏の言われる「キャラ」がマンガにおいて確立し,登場人物が物語から離れて自立しだした時期を,日本では1920年代とされている(伊藤剛2003「Pity, Sympathy, and People discussing Me」東浩紀(編)『網状言論F改:ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』83-100,青土社,92-93)。二次創作も含めて物語が膨大な量で何十年にもわたって生み出されてきた現代は,1920年頃とは同じ状況にはないとされるが,それでも「キャラ」の確立を「大きな物語」の喪失とはさほど結びつけておられないように見える。この点でも氏の「キャラ」探求のスタンスは,より根源的なもののように私には感じられる。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。