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日本語・教育・語彙 第14回 ことばの時事問題(1):なぜ「漢字ドリル」なのか

2017年 12月 22日 金曜日 筆者: 松下達彦

第14回 ことばの時事問題(1):なぜ「漢字ドリル」なのか

 これまで語彙教育の立場から、言語教育の民主化や「美しい日本語」「正しい日本語」といった言説に見る言語ナショナリズムの問題点について論じてきた。本当はこの流れで暗誦教育の問題点などを論じたいと思っていたところへ、今年の「新語・流行語大賞」に「うんこ漢字ドリル」がノミネートされるという時事的な話題が入ってきた。そこで、これからは「ことばの時事問題」と称して、何かタイムリーな話題があるときは、それを取り上げてみよう。

 

 さて、「うんこ漢字ドリル」である。ここでは、この漢字ドリルの功罪について、大真面目に応用言語学的な観点から論じてみたい。初めに研究者的な慎重さで言っておきたいが、この教材の良し悪しを確かめようと思ったら本当は実験をしなければならない。例えば、同じ材料語でうんこの例文を使った場合とそうでない場合で、その他の条件をそろえて(これがなかなか大変)、学習してもらった後、習得できたかどうかをテストして統計処理をするわけである。それも直後だけでなく、数週間後に遅延テストを行うべきであろう。

 しかし、現実にはそれは難しい。できるかもしれないが、私には時間も条件もそろわない。そこで、とりあえず先行研究で言われていることを参照しつつ、うんこ漢字ドリルの効果を予測してみたいと思うわけである。

 そう思って、まず書店へ出かけてみると、漢字ドリルのコーナーには「うんこ漢字ドリル」のほかにもおもしろそうな漢字ドリルが並んでいる。考えてみると、うんこ漢字ドリルだけを取り上げるのはフェアでない気もするし、どんな漢字ドリルがよいのかを考えてみることは、語彙教育に携わるものとして大切なことのような気もしてきた。これから数回にわたって、いくつかの漢字ドリルを取り上げて、どんな漢字ドリルがよいのかを論じてみたい。

 

 まず初めに、漢字ドリルを眺めていて一番に感じた疑問は、なぜ「単語ドリル」でなく「漢字ドリル」なのだろうか、ということである。意味・用法の基本単位は語であって字ではない。英単語の学習で、語の一部(例えばpre- や -tion)を取り出して、それを含む語をまとめて学習した人は多くないであろう(実は語構成成分を学習することには効果があるのだが)。しかし、日本語の学習では、語の一部であることの多い漢字を一つの重要な単位として学習するのである。

 漢字は形を覚えるのが大変である。しかも、一つ一つの字に意味がある。だからそれを練習したくなるのはある程度理解できる。しかし、「海」「町」のように単漢字が同時に一つの語であるケースもあれば、「非」「冊」のように単独では語にならない字も多い。「読」「聞」のように単漢字に語と同じような意味があるが、語となるために送り仮名を必要とするものもある。実際に漢字を使うときには必ず語の単位で使うはずだ。一つの字が全く異なるいくつもの用法を持っていることもある。用法を身につけるのは文の中での使い方を知らなければならない。そしてそれは漢字語に限ったことではない。

 例えば「それから」のような接続語や「しばしば」のような副詞、活用語である動詞、形容詞などにも、かな表記しかない語や通常はかな表記にする語も少なくない(「もたらす」「つぶやく」「きつい」「しつこい」など)。名詞には漢字語が多いが、外来語はカタカナであるし、「あきらめ」「いざこざ」のように普通はひらがなで書く名詞も少しはある。このようなかな表記の語について、漢字ドリル以外のところでドリル的に例文を学ぶことがどれぐらいあるだろうか。本当はそれも大切なのではないかと思う。

 それでも単語ドリルがあまりないのは、おそらく母語話者であれば話し言葉として大量の語彙を有するから漢字さえ学習すればそれを使えるようになるという前提が潜んでいるからであろう。しかし、それは本当だろうか。おそらくそうではないだろう。いや、おそらくではなく、まちがいなくその前提は誤っている。日常語であれば漢字の学習だけで使えるようになるが、学術語彙や文芸的な語彙などの非日常語になると意識的に学習しないと身につかない語も多い。大人向けの語彙本が売れ続けていることがそれを示しているようにも思う。それに、いまや学校教育の現場には日本語が母語ではない子どもがたくさんいるし、これからも増え続けるだろう。

 つまり、漢字を上位概念に立てるのではなく、意味・用法のより基本的な単位である語を上位概念にしてドリルを作成して、その中で必要に応じて漢字を学ぶというやり方を検討すべきである。事実、第二言語/外国語として日本語を学ぶ現場には(日本語話者が英語を学ぶときと同じように)単語の参考書や問題集がたくさんある。しかし、学習指導要領の中には学年別の漢字配当はあっても語彙配当はない。それをやると教科書に採録する文章を選ぶのに制限が多すぎて難しくなってしまうからかもしれない。しかし、制約ではなく基準として語彙を示すことぐらいはできるのではないだろうか。いずれにしても、どうも意味・用法の基本的な単位である語よりも、その一部でしかない漢字の方に意識が向きすぎていると思われるのである。

 

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【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
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2017年 12月 22日