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『日本国語大辞典』をよむ―第28回 とまどうペリカン

2018年 2月 25日 日曜日 筆者: 今野 真二

第28回 とまどうペリカン

 外来語をどう書くかということについては、平成3(1991)年6月28日に、内閣告示第2号として示された「外来語の表記」がその「よりどころ」(「外来語の表記」「前書き」)となっている。

 外来語は改めていうまでもなく、日本語ではないので、まずその語をどのように聞く(=聞きなす)かということがあり、その次に、その日本語を母語としている人が聞きなした形をどのように文字化するか、ということがある。「聞きなし」は第3回のオノマトペ①の時に使った表現であるが、動物や虫の鳴き声をどのように聞きなすかということと原理的には同じと考えてよい。

 聞きなした形は1つであるが、それを文字化するにあたって、「ハチャトゥリヤン」「ハチヤトリヤン」という2つの書き方が考えられる、というのであれば、これは「書き方の問題」ということになる。Tunisiaという外国名の聞きなしは1つであるが、最初の部分を「テュ」と書くか「チュ」と書くか、ということは「書き方の問題」である。しかし、「エルサレム」と書いてあれば、もっとも自然な発音は「エルサレム」であり、「イエルサレム」あるいは「イェルサレム」と書いてあれば、やはり「イ~」と発音したくなる。この場合は、「エ~」という語形と「イ~」という語形と2つあるとみるのが(筆者は)自然だと思うので、語形が2つあることになる。そうであれば、これは聞きなしの問題、つまり「語形の問題」である。「外来語をどう書くか」という問いの「内実」は「語をどのような語形としてとらえるか=聞きなすか」ということと、聞きなした語形を「どう文字化するか」という2つが含まれていることになる。

コーヒー【珈琲】〔名〕({オランダ}koffie {英}coffee)《カヒー・カッヒー・カーヒー・コヒー・コッヒー・コーヒ・コッフィー》(1)芳香、苦味の強い焦げ茶色の飲料。カフェインを含むため覚醒作用のある嗜好品。(以下略)

 上には見出しの「コーヒー」を含めると、8種類のかたちがあげられている。これらの「かたち」は語形が8つあるのか、書き方が8つあるのか、それとも語形が幾つかあって、書き方も幾つかあるのか、ということになるが、それを見極めることは実は難しい。「語誌」欄には「コッヒー、カッヒーと促⾳の⼊る形は、明治二〇年頃まで比較的によく見られるが、 それ以降は一般にコーヒーの形が用いられるようになった」と記されている。『日本国語大辞典』は見出し「コーヒー」の語釈中に「八種類のかたち」をあげているので、(それらすべてを「書き方」のバリエーションとみているかどうかはわからないが)積極的に語形のバリエーションとみようとはしていないことになる。実際にはさらに多くのバリエーションがあることが推測できるが、8種類を超えてさらに多くのバリエーションをあげることは、いろいろな意味合いで難しいことは容易に推測できる。そう思う一方で、例えば明治期の小説などを読んでいて、現在は使わないかたちの外来語にであうことは多いので、何らかのかたちで、「現在は使わないかたち」を記しとどめていてくれるとありがたいと思う。ちょうど、読んでいた徳田秋声『凋落』(1924年、榎本書店)に「木暮(こくれ)は此(この)まゝ帰(かへ)る気(き)もしなかつたが、何処(どこ)かコーヒ店(てん)へでも入(はい)つて、咽喉(のど)を潤(うるほ)す必要(ひつえう)もあると考(かんが)へてゐたので、黙(だま)つて一緒(しよ)に行出(あるきだ)した」(264ページ)という行りがあった。ここでは「コーヒ」が使われている。

 pelicanという鳥はよく知られていると思う。ペリカン便という宅配便もあったし、万年筆にもある。斎藤茂吉の歌集『赤光』(1913年、東雲堂書店)を読んでいて、次の作品にであった。

ペリガンの嘴(くちはし)うすら赤くしてねむりけりかた/はらの水光(みづひかり)かも(冬来)

 はっきりと「ペリガン」と印刷されている。これが初めてだったら、誤植と判断するだろう。しかし、筆者は以前に「ペリガン」にであったことがあり、これが初めてではなかった。北原白秋の『邪宗門』に収められている「蜜の室」という作品に「色盲(しきまう)の瞳(ひとみ)の女(をんな)うらまどひ、/病(や)めるペリガンいま遠き湿地(しめぢ)になげく。」という行りがある。作品末尾には「四十一年八月」とあり、これに従えば、明治41(1908)年の作品であることになる。一方、同じ『邪宗門』に収められている「曇日」という作品には、「いづこにか、またもきけかし。/餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、/山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、」とあって、ここには「ベリガン」とある。初版だけでなく、再版(1911年)も改訂3版(1916年)も、「曇日」が「ベリガン」、「蜜の室」が「ペリガン」である。改訂3版の「本文」が基本的には大正10(1921)年にアルスから刊行された『白秋詩集』第2巻に受け継がれていく。そして、昭和5(1930)年にやはりアルスから刊行された『白秋全集』第1巻においては、白秋が作品に手入れをしたことが知られている。白秋は自身の作品が刊行される時にはさまざまなかたちで手入れをすることが多い。さてそこまでを視野に入れると、次のようになる。『近代語研究』(2017年)に収められている拙稿「「本文」の書き換え」では岩波版『白秋全集』に「ペリカン」とあると錯覚して記述しているので、ここで訂正しておきたい。

『邪宗門』初版 同再版 同改訂三版 白秋詩集 白秋全集 岩波版白秋全集

曇日  ベリガン ベリガン ベリガン ペリガン ペリカン ベリガン

蜜の室 ペリガン ペリガン ペリガン ペリガン ペリガン ペリガン

 上のことからすると、そもそも白秋は「ベリガン」「ペリガン」2語形を使っていたと思われる。現在一般的に使われている「ペリカン」はアルス版の『白秋全集』に至って初めてみられる。英語「pelican」の綴り、発音からすると、「ン」や「ペリン」は自然ではないように感じられるが、北原白秋も斎藤茂吉も使っている「ペリガン」はたしかにあった語形だと考えたい。

 明治期に出版された書物には誤植が多い。だから現在使っている語形ではない語形をみると、誤植だろうと考えてしまいやすいが、上のようなこともあるので、慎重な態度が求められる。さて、「ベリガン」「ペリガン」は……残念ながら『日本国語大辞典』の見出しにはなっていない。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。

2018年 2月 25日