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モノが語る明治教育維新 第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)

2018年 6月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)


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 当時、小学校が注目された理由の一つに、擬洋風建築といわれる独特な校舎の造りがありました。これは、外国人居留地などにあった西洋式建築物を日本の伝統的建築法を身につけた大工棟梁等が見て回り、見よう見まねで洋風に仕立てたものをいいます。各地にこのような目新しい建築物が完成し、それを初めて見たときの人々の驚きや興奮が今でも時を超えて伝わってきます。前回ご紹介した学校もこのスタイルですが、明治10年江東区深川に校舎が落成した「明治学校」の様子を長谷川如是閑(大正デモクラシー期を代表する思想家・明治14年に「明治学校」入学)は、次のように語っています。

 「東京につくられたのは番町、鞆絵(ともえ)、常盤(ときわ)、愛日、明治、育英の六校で、私はそのうちの『明治』に入れられた。それらの学校はいずれもその頃丸ノ内の旧大名屋敷を取り払った跡に建てられた諸官庁と同じ、その頃『南京下見』といわれた、部厚の貫板を日本家屋の下見板のように重ねて、それに青ペンキを塗った二階造りの堂々たるもので、その玄関も官庁のそれと同じ、洋風のいかめしいつくりで、その玄関と正門との間には、やはりそのころの官庁の前庭に見られたような、大きい円形の植え込みがあって、それをめぐって玄関に入るような堂々たる構えだった」(日本経済新聞社編『私の履歴書 反骨の言論人』 日本経済新聞出版社)

 「南京下見」とは外壁工法の一種で、細長い板を横向きにして並べ、上板の下端が下板の上端に少し重なるように張り合わせたものを言います。絵図を見ただけでは分からない建築法や外壁の色、優雅なアプローチの様子などが分かり、貴重な証言です。そして、子どもの目から見ても小学校が庁舎に匹敵するほど立派な建物に映っていたことが伝わってきます。

 ちょうどこの頃、文部省学監のD. モルレーが東京府下の公立学校を視察しているのですが、双六に描かれている学校へ出向くことも多々ありました。その報告書である『学事巡視功程』(明治11年)の中で、校舎については次のようなことを述べています。学制頒布の頃に建設された校舎は構造が拙く、教室は狭小、天井は低く、教室の配置も勝手が悪いため生徒の出入りに混雑し、窓が小さく光線の取り入れ方に不備など多くの問題点があった。しかしながら本年、及び前2年間(明治9~11年)に造られた校舎は、大変進歩している、と評価しているのです。見よう見まねで形ばかり真似して建てられた当初の校舎も、数年でだいぶ改善されたようです。そして、“最も貴重なる小学校舎”として第一等から第三等まで各3校ずつを選んでいるのですが、その第一等に挙げられたのがこの「明治学校」であり、ともに名を連ねているのが次の「千代田学校」なのです(ちなみに、残りの1校は泰明学校)。


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 バルコニー付きの張り出し玄関が見事な「千代田学校」は、明治10年3月に馬喰町3丁目(現・中央区日本橋馬喰町1丁目)に開校しました。9月には府立商業夜学校を仮設し、夜間にも授業を行っていました。そのためでしょうか、双六では「千代田学校」だけが夜の風景で、絵図中10校もの学校に街灯が描かれている中で、ここのガス灯にだけ灯りがともされています。

 堅牢さも感じられるような豪壮な校舎ですが、モルレーの報告書によればその規模と建築費は、建坪136坪、教室数10室、建築費3,218円で、坪単価は23円67銭と算出されています。建築に必要な費用は所在地である第一大区十二小区の29箇町が集めた寄付で賄われましたが、報告書にわざわざ坪単価を記したのは、単価の高さが建築物の立派さと比例し、そのことが地元の人たちの学校に対する意識の高さを表すと考えたからなのです。ちなみに「明治学校」の坪単価は24円13銭と「千代田学校」と比べれば若干高く、先の“最も貴重なる小学校舎”に選ばれた第一等から第三等までの平均坪単価は、第一等が約27円、第二等が約15円、第三等が約13円と、やはり高価な順に並んでいます。

 モルレーは、このように人民自らが学事に関する資金を集め、校舎の建設費や運営費を拠出するのは自分たちであるとの自負心を持つようになったことはもっとも喜ぶべきことであり、このことは政府が働きかけた結果の表れであると、文部省のご意見番らしい見解を述べています。

 「学問は身を立るの財本」を前面に押し出し、国は受益者負担の意識を国民に浸透させたかったわけですが、それがようやく実を結び始めたのがこの頃でした。地域の一二を争うような立派な校舎の裏には、地元の教育を自分たちで支えたいと願う地域住民のプライドがあったのです。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。

2018年 6月 12日