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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(50)(最終回)

2011年 5月 31日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(50) 清少納言のその後(最終回)

 皇后定子崩御という出来事が、一条天皇や中関白家一族だけでなく、当時の貴族たちに大きな衝撃を与えたことを見てきました。それは、『枕草子』に書き留められた明るく誇り高い定子が、作者が創造した虚構の姿ではなく、定子自身が人々の気持ちを引きつけるだけの人格を備えた后であったことを証明しています。

 そんな主人を心から敬愛し、最期まで傍にいたであろう清少納言は、定子崩御後、どうしたのでしょうか。定子がいなくなった後の『枕草子』日記的章段の記事がないことからも、作者は宮仕えを引退したというのが、これまで最も支持されてきた考え方でした。それから再婚してしばらく地方に暮らした後、都に戻り、定子の葬られた鳥辺野陵の近くで定子の菩提を弔いつつ一生を終えたというのです。それは理想的な主従のあり方として誰もが納得しやすい筋書きですが、読者の想像に依拠した確証のない推測でもあります。

 もっと現実的な様々な可能性を考えてみると、勤め先を失った女房が新たな職を探して移るということがあります。たとえば、彰子中宮の後宮に清少納言が仕えたという説もあるのですが、それは紫式部との関係から否定しておきましょう。清少納言と紫式部が同僚女房であったら、紫式部は日記に清少納言批判を書く必要はなかったからです。

 勤務先としては、定子の長女の修子内親王家が一番妥当なのではないかと考えます。定子の3人の遺児のうち、敦康親王は皇位継承に絡んで一時、彰子の養子にされたり、隆家が自邸に連れていったり、道長方との間で常に緊張関係を強いられていました。また、定子の命と引き替えに誕生した媄子内親王は、わずか9歳で亡くなっています。中関白家の中では修子内親王が一番長寿で、60代まで生きており、『枕草子』に登場している宰相の君も一時期出仕していたようです。修子内親王家であれば清少納言も比較的穏やかに出仕生活を続けられたのではないかと推察します。

 清少納言の出仕継続に私がこだわるのは、『枕草子』が定子崩御後、しばらくしてからまとめられ、公表されたのではないかと考えているからです。『枕草子』という作品は、中関白家の栄華から没落に至る歴史的動向を、事件当時から少し離れた時点でとらえ直した作者が、確かなビジョンの下でまとめ上げた作品だと考えます。作者が定子とあまりにも近い位置にいたからこそ、時間的に離れた位置に立つことが必要だったと思うのです。

 経済的なバックアップなしに文学作品を書き上げ、それを流布することが極めて難しい時代、作者が『枕草子』を発表するためには上流貴族社会に身を置いていることが必要になります。つまり、定子崩御後もどこかで出仕生活を続けながら、作品発表の機会を窺っていたと考えます。作者が『枕草子』に託した思いは何だったのでしょう。定子が最後まで心を残した敦康親王の皇位継承を、定子後宮の優秀さという面から後押しするためだったと考えることもできます。しかし、政治的状況はそれほど甘いものではありませんでした。定子の遺志に報いたのは、第一皇子立太子を断念せざるを得なかった一条天皇の無念の思いだけでした。

 しかし、『枕草子』を書き上げた時、作者の心には女房としての役目を超えた別の思いも生まれていたのではないでしょうか。自らの価値観を信じて誇りを持って生き抜き、その死が人々の心を揺り動かした中宮定子という一人の女性の姿を記し留めること。その女性に仕えることを生涯の誇りとした自分の生き方を語ること。摂関政治体制下の社会にあって精一杯生きる道を探ってきた、立場の違う二人の女性の生の軌跡として、この作品は書き残されたのではないかと私は感じています。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきました。

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(49)

2011年 4月 19日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(49) 定子の遺詠

 『後拾遺和歌集』(第4番目の勅撰和歌集)の哀傷巻は、定子の歌から始まっています。

 一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷(かたびら)の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に
  夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
  知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな
(一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付けられていた手紙を見つけたところ、天皇にも御見せくださいというように、歌が3首書き付けられていた、その中に
  夜通しお約束したことをお忘れでなければ、私の事を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色を知りたいと存じます
  誰も知る人のいない現生との別れ路に、今はもうこれで、と心細い気持ちで急ぎ出立することです)

 最初の歌は、定子から一条天皇に宛てた遺詠です。道長側の圧力が強くなっていた最終時期、一条天皇と定子はわずかな邂逅の時間を惜しんで夜通し共に過ごしていたのでしょう。その時交わした言葉を支えにしてきた定子が、断ち難い一条天皇への恋情を歌ったものです。

 次の歌は、死期の間近な事を悟った定子の辞世歌です。あの世には既に旅立った両親、藤原道隆と高階貴子もいるという考えは定子の心に浮かばなかったようです。それより現世に残していく夫や幼い子供たちの方に、何十倍も心引かれていたのでしょう。どんなに心残りな気持ちだったろうと思います。

 さて、『後拾遺和歌集』が採録していない定子の3首目の歌は、先の2首と共に『栄花物語』に記されています。それは、自分の葬儀の方法を示唆するものでした。

 煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ(煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください)

 亡くなった後に煙や雲になるのは、当時一般的だった火葬による葬儀を意味しています。そのようにならないというのは、定子が火葬ではなく土葬を希望したからです。土葬だから、土の上に生える草葉の露を私だと見てくれと言うのです。その言葉に従って、定子は土葬に付されました。

 なぜ、定子は火葬ではなく土葬を望んだのでしょうか。それはやはり現世に大きな未練が残っていたからではないかと私は考えます。火葬にされ煙となって天上に消えてしまうより、この世の土に残って子供たちを見守りたいと願ったのではないでしょうか。自分が亡くなった後の事をあらかじめ考え、きちんと伝えることの出来る人だった定子、后として十分な資質が推し量られます。

 定子の葬儀は12月27日、年末の冷たい雪の降る日に行われました。『栄花物語』では、伊周、隆家、僧都の君ら、『枕草子』にも登場する同腹の兄弟たちが参列し、次々に悲しみの和歌を詠む様子が描かれています。また同じ頃、葬儀に参列できない一条天皇の様子は次のように記されています。

 内には、今宵ぞかしと思しめしやりて、よもすがら御殿籠らず思ほし明かさせたまひて、御袖の氷もところせく思しめされて、世の常の御有様ならば、霞まん野辺もながめさせたまふべきを、いかにせんとのみ思しめされて、
  野辺までに心ばかりは通へどもわが行幸とも知らずやあるらん
などぞ思しめし明かしける。
(天皇は、葬儀が今夜だったと思いをはせられ、一晩中お休みにならずに定子の事を思いながら夜をお明かしになり、涙に濡れた袖が凍るのもやりきれない気持ちで、世間一般の火葬であれば、煙に霞む野辺をそれと眺めることができるだろうに、土葬では何の目当てもなくどうしたものかとばかりお思いになり、
  葬儀場の鳥辺野まで心だけはあなたを慕って通っていくが、私が訪れたとも気づかないことだろう、などとお思い続けて夜を明かされた。)

 定子を見送ることのできない一条天皇の切ない思いが伝わってきます。それから11年後、32歳で崩御した一条天皇が、その三日前、出家した時に詠んだ歌は次のものでした。

  露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき(露のようにはかない身がかりそめに宿った現世にあなたを置いて、出家してしまうのは悲しいことです)

 これが、現世に残る中宮彰子に対するものではなく、先に、「草葉の露を私と見よ」と歌った定子の遺詠に対応する歌であったという説があるのも頷ける気がします。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(48)

2011年 3月 29日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(48) 定子崩御~歴史資料から~

 『枕草子』には、定子が長保2年12月に崩じた事についてはいっさい書かれていません。前々回お話した三条宮での5月の記事が、定子の最後の姿を記したものでした。したがって、『枕草子』では、三条宮の定子と皇子たちのその後については分からないまま、作品が終わっていることになります。

 史実によれば、長保2年の8月に定子は再度今内裏に参入しますが、20日程で退出しています。それが一条天皇との最後の別れでした。その4ヶ月後に3人目の御子を出産した直後、わずか24歳で命を落とす定子の運命と、彼女の死が世間に与えた影響については複数の歴史資料に記されています。

 『権記』によれば、長保2年12月15日、東西の山にわたって二筋の白雲が現れるという天象が見られ、それは后に関わる予兆を意味していたとあります。また、皇女誕生後、定子の後産が難航し、16日の寅の刻の終り頃(午前5時前)に崩御したことが内裏に伝えられています。その直後、女院詮子が危篤状態に陥り大騒ぎになって、加持祈祷を行ったところ、関白道隆あるいは二条参議(伊周)の霊が現れたという興味深い記事も記されています。定子崩御に対する道長側の人々の受け止め方は複雑だったと思われます。

 注目すべきは、定子の死から49日目の長保3年2月4日の記事で、左大臣道長の養子になっていた源成信(23歳)と右大臣顕光の息子藤原重家(25歳)が、突然、三井寺に向かい、一緒に出家していることです。将来有望な若君達の出家は、二人の父大臣はもとより世間の人々をおおいに驚かせました。成信は『枕草子』にも登場する人物であり、かれらの出家には定子崩御が大きく影響しているとも見られます。

 『栄花物語』では、「とりべ野」巻の前半に定子の崩御と葬送の記事を大きく取り上げています。藤原道長を理想的人物とし、その栄華を描くことを目的とした作品に定子を大きく扱うのはなぜなのでしょう。作者は道長の定子に対する政治的措置の記述を微妙に避けながら、ひたすら同情の姿勢で中関白家の悲哀を詳細に書き綴ります。すなわち定子の死は、当時、世間の人々が心を動かさずにいられない出来事であり、取り上げるに値する物語的要素を備えていたということでしょう。定子崩御直後の記事を紹介しましょう。

 「御殿油近う持て来」とて、帥殿御顔を見たてまつりたまふに、むげになき御気色なり。あさましくてかい探りたてまつりたまへば、やがて冷えさせたまひにけり。あないみじと惑ふほどに、僧たちさまよひ、なほ御誦経しきりにて、内にも外にもいとど額をつきののしれど、何のかひもなくてやませたまひぬれば、帥殿は抱きたてまつらせたまひて、声も惜しまず泣きたまふ。
(「明かりを近くに持って来い」と命じて、帥殿(伊周)が定子の御顔を拝見されると、まったく息のないご様子である。これは大変だと驚いて、お身体を手で探り申されると、もうすっかり冷たくなっていらっしゃった。ああ、とんでもない事になったと動揺している間、僧たちはうろうろ歩き回りながら誦経の声を絶やさず、部屋の中でも外でも何度も額を床につけて大声で祈るが、何の甲斐もなくそのまま亡くなってしまわれたので、伊周は定子をお抱き申し上げて声も惜しまずお泣きになる。)

 定子の最期を看取ったのは兄の伊周でした。最愛の妹の死に直面して惑乱し号泣する姿が具体的に記されています。伊周にとって、定子が政治的に重要な人物だったことは言うまでもなく、精神的にも大きな支えだったことは間違いないと思います。

 次は、最愛の妻を亡くしてもその葬儀に立ち会うことさえ許されない一条天皇の記述です。

 内にも聞こしめして、あはれ、いかにものを思しつらむ、げにあるべくもあらず思ほしたりし御有様をと、あはれに悲しう思しめさる。宮たちいと幼きさまにて、いかにと、尽きせず思し嘆かせたまふ。
(天皇も定子の訃報をお聞きになって、ああ、どんなに辛い気持ちでいらしたか、本当にもう生きていられないように思い沈んだご様子だったのに、といたわしく悲しくお思いになる。宮たちはとても幼くて、どうしているかと、限りなく心配しお嘆きになる。)

 天皇の立場上、どうにもならない面があっただけに、悔やみきれない思いが残っていたことでしょう。幼い皇子たちへの父親の思いも切実に感じられます。定子の方も最期まで夫への思い、我が子への思いを遺して旅立って行ったのでした。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(47)

2011年 3月 15日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(47) 定子と乳母との別れ

 『枕草子』の三巻本系の本が三条宮の段の次に語る、一つの短い章段を紹介しましょう。定子の傍に乳母として長年仕えてきた女房が、地方に下ることになった話です。これが、いつ、どこでの出来事なのかは示されていませんが、乳母が定子の元から去らねばならない状況を考えると、やはり中関白家没落後の話ではないかと推測されます。

 大輔の命婦(たいふのみょうぶ)と呼ばれるその乳母との別れに際して、定子は扇を贈りました。扇の片面には、日がうららかに差している田舎の家々の風景が描かれており、反対側の面には、都の立派な御殿に雨がたくさん降っている風景に次の歌が書かれていました。

 あかねさす日に向ひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらむと
(明るく輝く日に向かって旅立っても、思い出してください。都では晴れぬ長雨の中で物思いに沈んでいるであろうと)

大輔の命婦が旅立つ先は、現在の宮崎県に当たる日向(ひゅうが)の国でした。明るくのんびりとした南国へ行っても、都で物思いをしている私の事を忘れないでね、と最後に乳母に甘えた定子の気持ちが素直に歌われています。注目したいのはこの歌の後、章段末尾に記された作者の言葉です。

 御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、え行くまじけれ。
(中宮様の御直筆でお書きになっているのは、本当にしみじみと悲しいことです。このような主人の様子を拝見して、そのままお置き申し上げて行くことなど、どうしてできるでしょうか)

『枕草子』の中で、清少納言が定子に対して「あはれ」という語を使った唯一の例です。先行き不安定な主人にこのまま仕えているより、地方官の役職が決まった夫と堅実な生活を送る方を選択するのは、当時の中下流階級の女性が生きていくために当然の判断だと思います。時勢の流れとはいえ、最も親しい乳母からも見捨てられた定子の悲しみを傍で感じ、清少納言は思わずこれまで抑えてきた思いを吐き出してしまったのでしょう。自分だけは最後まで定子の傍にいる、決して離れはしないという決意表明とも見られるところです。

 かつて清少納言にも宮仕え継続を迷った時期がありました。長徳2年の事件に付随して清少納言の周辺に渦巻いていた不穏な空気に耐えきれず、長らく里居生活をしていた時です。そんな時、定子は彼女らしい気転の利いた方法で、直に清少納言に働きかけてきました。定子の気持ちに感動し、再出仕を決意してからの清少納言は、もう、迷うことなく自分の行くべき道を定めていたのでしょう。

 ところで、この段で作者が漏らした言葉は、『枕草子』がこれまで描いてきた定子と作者の関係を崩しているようにも思われます。いかなる時にも悲しみを表面に出さず、女房たちを導いてきた主人を作者は描いてきたのではなかったでしょうか。しかし一方で、最後まで明るさを演出し続けた『枕草子』の底流に、定子の運命を悲しむ作者の真実の思いがあったことも確かでしょう。その思いは、育て親との別れを悲しむ定子の心情に作者の心が共鳴した際に思わず発動し、作品本来の意図を外れて筆が動いてしまったと推測することができます。

 悲運な主人への忠誠を改めて誓った清少納言ですが、その後、間もなく訪れる定子との永遠の別れを、この時は予想もしていなかったに違いありません。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(46)

2011年 3月 1日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(46) 三条宮での端午の節句

 長保2年春、今内裏に1ヶ月余り滞在した定子は再び平生昌邸に移御します。その時、定子は3人目の御子を宿していました。初めて移御した際に清少納言が散々文句を付けた生昌邸は、定子の最終的な滞在場所となり、三条宮と呼ばれます。

 『枕草子』の日記的章段の中で、年時がはっきりしている最後のものが、この三条宮での端午の節句の記事です。長保2年5月5日、三条宮には定子と二人の子供たち、それに道隆四女で定子の妹にあたる女性が同居していました。御匣殿(みくしげどの)と呼ばれるこの女性は、定子から幼い皇子・皇女の養育を託され、定子崩御後に子供たちを引き取ったようです。そのうち一条天皇に寵されるようになり懐妊しますが、出産を待たずに亡くなってしまう薄幸の女性でした。この時も妊娠中の姉の代わりに、姪と甥の着物に薬玉を付けるなどの世話をしています。

 さて、端午の節句の献上品の中に、風雅な薬玉と一緒に、「青ざし」という、青麦の粉で作った菓子がありました。清少納言は、お盆代わりの美しい硯の蓋に青い紙を敷いて、その上に「青ざし」をのせ、「これ籬(ませ)越しに候ふ」と言って定子に献上しました。清少納言の言葉には、『古今和歌六帖』という歌集に載る次の歌が踏まえられています。

ませ越しに麦はむ駒のはつはつに及ばぬ恋も我はするかな
(垣根越しに麦を食べる馬がほんのわずかしか食べられないように、手の届かない恋を私はしていることよ)

 これが麦の歌なので、麦でできた菓子に掛けたことは分かりますが、清少納言がこの歌で言いたかった事は何だったのでしょうか。第三句の「はつはつに」が、「ほんのわずかに」という意味を表すので、単に「わずかではありますが…」という言葉を添えたと考えることもできます。しかし、定子の反応はそこに留まっていませんでした。「青ざし」の敷き紙の端を破って、清少納言に次の歌を返したのです。

みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける
(人々がみな花よ蝶よといそいそ浮かれるこの日も、私の心の中をあなただけは分かってくれていたのですね)

 定子のいう「わが心」に先の『古今和歌六帖』の下句を響かせると、「私はなかなか手の届かない恋をしている」ということになりますが、これに当時の定子周辺の状況を照合してみると、一条天皇となかなか会えない辛い気持ちを清少納言に打ち明けたものとも読める歌になります。

 そんな定子の思いを無視して、「花や蝶や」といそいそ浮かれている「みな人」は、新中宮となった道長の娘の彰子に追従している世の人々になるのでしょうか。しかし、『枕草子』が定子の悲境に関わる歴史的状況をそこまで明確に記すとは思えません。ここはあえて歴史的背景を反映させない読みをしておきたい、というのが私の考えです。
 清少納言が「ほんのわずかですが…」という意味で添えた引用句に対して、定子は節句の行事に勤しむ妹や子供たち、女房たちを引き合いに出し、「みなが浮かれている中で、私に気を使ってくれるあなたこそ信頼できるわ」と、半ば冗談のように歌を返したとみます。そのように読むと、定子の和歌に対して記された「いとめでたし」という作者の賛辞が生きてきます。

 この段は、年時的に最後の章段であると同時に、今内裏に取材した他の長保2年の章段とは異なり、定子の姿がクローズアップされる唯一の段です。辛い状況の中でも決してめげず、女房たちの前ではあくまで主人としての姿を保っていた定子を、『枕草子』は最後まで描き続けたのだと思うのです。

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専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(45)

2011年 2月 15日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(45) 翁丸事件~長徳の変の記憶~

 今内裏を舞台とした章段で、天皇が可愛がっていた猫の紹介から始まる一風変わった話があります。その猫は宮中に伺候するために5位の位を得て、「命婦(みょうぶ)のおとど」という名を与えられ、人間の乳母が付けられ大切に世話されていたというのですから、やや尋常ではありません。『小右記』によれば長保元年9月19日に誕生し、猫付きの乳母が人々の笑いの種になっていたようです。

 長保2年の春には生まれて半年程になるこの子猫が縁側に出て寝ていたところ、乳母が「まあ、はしたない、中に入りなさい」と人間扱いをして呼びます。しかし相手は猫、当然ぐっすり寝ています。そこで乳母は犬に命じて猫を脅し入れるという強硬手段に出ます。犬は猫に走りかかり、猫は怯えて簾の中に駆け込むのですが、それを天皇がご覧になっていたから大変です。犬は打たれて島流しに、乳母は更迭という厳罰が下されます。

 この時、蔵人たちに打たれ追放された哀れな犬が、翁丸という名のこの章段の主人公です。翁丸は普段から今内裏に出入りして、女房たちにも顔なじみの犬だったようで、清少納言もその身の上を案じます。夕方、身体中を腫れあがらせた犬が震えながら歩いているのを見て、清少納言が「翁丸」と呼びますが、犬は返事をしません。食べ物を与えても食べないので、皆、確信が持てないままに、翁丸はもう死んだというから違う犬ではないかということになりました。

 次の朝、定子の身繕いに奉仕していた清少納言が、柱の下にうずくまっている昨夜の犬を見て、「ああ、昨日は翁丸をひどくたたいて、死んでしまったのは可哀想だった。生まれ変わって今度は何の身になったのだろう。どんなに辛かっただろう」と言った途端でした。犬がぶるぶる震えて涙を落したのです。やはり翁丸だったのか、昨夜は正体を隠していたのかと納得して、「翁丸か」と呼ぶと、ひれ伏してひどく鳴きます。それを聞いた天皇もこちらに来て、犬にもそのような心があったのだとお笑いになります。天皇付きの女房たちも皆集まって来て翁丸を呼ぶと、今度は反応するのでした。その後、翁丸は罪を許されたということです。

 この章段では定子の姿はほとんど描かれません。清少納言と共に翁丸の身の上を心配し、翁丸が正体を明かした時には安心して笑ったと書かれるのみです。犬を主人公にしたこんな不思議な話が、なぜ『枕草子』に書き留められたのでしょうか。この話は読者に何かを連想させます。翁丸は、乳母に命じられて何の考えもなく、天皇家の猫を脅したために、島流しの宣旨を受けてしまいました。女房たちは翁丸に同情して憐れむのですが、何一つできないまま事の成り行きを見守るしかありませんでした。そんな事態が歴史的なある事件と重なります。この章段の時点から4年前、定子の目前で伊周・隆家が左遷された長徳の変の出来事です。

 しかし、中関白家の失墜を招いた不幸な事件を、当家に仕える作者が取り上げることなどできたのでしょうか。いろいろな見解が取り沙汰されています。これについて、次のように考えてみてはどうでしょう。事件から、さらに定子崩御からかなりの時間が経過した時、作者にはどうしても目撃した事を書き留めておきたいという思いが残っていた。しかし、作者の立場では、こんな形で触れるのが精一杯だったのだと。
 
 奇特な動物譚として語り終えられるこの章段が、これまでと異なる作者の語りの位置を示しているように思われてなりません。それは後宮女房という役目の枠を越えた、歴史の生き証人としての位置だったというのは言い過ぎでしょうか。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(44)

2011年 2月 1日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(44) 今内裏の定子

 長保2年に定子が今内裏に参入したのは2回、2月12日から3月27日までと、8月8日から27日まで、合わせて1ヶ月程度の期間です。年末に最期の時を迎えるまで、大方は平生昌邸に滞在していました。しかし、『枕草子』に描かれた長保2年の章段は、短い今内裏滞在期間のものに集中しています。

 その今内裏章段における定子はこれまでとは異なり、具体的な姿や言動がほとんど描かれていません。しかし定子がまったく描かれない段であっても、今内裏にいる清少納言の背後に定子の存在があることは示されているのです。そんな章段内に、定子の代りに一条天皇の姿がこれまでになく生き生きと描き出されていることは前回見たとおりです。

 では、なぜ定子の姿は描かれないのでしょうか。長保2年春の中宮参内について書かれた『栄花物語』の記事を見てみましょう。事の発端は、前年冬に生まれた皇子に会いたいと望んだ一条天皇の気持ちでした。なかなか言い出せない一条天皇の心を推察した道長が、中宮参内を提案し、これを辞退する定子には女院詮子が強く勧めたと記されています。『栄花物語』には、道長や詮子の寛容さを印象づける意図があったと思いますが、この時期、定子の動静は道長の意向によって左右されていたことが分かります。参内が実現して再会した一条天皇と定子の様子は次のように描かれています。

 よろづ心のどかに、宮に泣きみ笑ひみ、ただ御命を知らせたまはぬよしを夜昼語らひきこえさせたまへど、宮例の御有様におはしまさず、もの心細げにあはれなることどもをのみぞ申させたまふ。「このたびは参るにつつましうおぼえはべれど、今一度見たてまつり、また今宮の御有様うしろめたくて、かく思ひたちてはべりつるなり」と、まめやかにあはれに申させたまふを…
 (帝は何事につけても心穏やかに、中宮の前で泣いたり笑ったりしながら、自らの気持ちは変わらないが、命がいつ尽きるか知れないことを夜も昼もお話になるが、中宮はこれまにないご様子で、ただ心細そうに悲しいことばかりを申し上げなさる。「このたびの参内はご遠慮しようと思いましたが、今一度、お会いしたく、また生まれた宮の今後のことが気がかりで、このように思い立って参上したのです」と、真剣にしみじみと申し上げられるのを…)

ここには『枕草子』が決して語ることのない定子の姿があります。いかにも心細そうな様子で、悲しい思いを口にする定子は、なんと頼りなく痛々しい姿を見せていることでしょう。定子に会って、これまで抑えていた自分の思いを夢中で話し続けた一条天皇でしたが、いつもと違う様子に驚きます。定子は既に天皇の思いを受け止める心の余裕を持っていませんでした。自らのことは諦め、皇子の将来を案じる母としての思いを切々と訴えていたのです。

 これが長保2年の定子の実像だとしたら、『枕草子』に描かれなかったのも当然だと思います。華やかな後宮サロンの主人として輝いていた定子、不運の時代も女房たちへの目配りを忘れず穏やかな微笑みを保ち続けていた定子の姿が見られなくなった時、作者が描くべき定子はいなくなったのでしょう。それから一年を経ずに逝ってしまう定子の運命を知っていればなおさらのこと、死を予感する定子の言葉を書き記すことなど作者にはできなかったに違いありません。

 今内裏滞在期間は、皇子皇女をはさんで定子一家が集う最後の機会でした。定子の姿が描かれないにも関わらず、作者がその期間を何度も取り上げるのは、定子に捧げる鎮魂の想いからだったように感じます。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(43)

2011年 1月 18日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(43) 今内裏の一条天皇

 長保元年11月7日、定子は一条天皇の第1皇子を生みました。敦康(あつやす)親王です。起死回生を願う中関白家の希望の星でした。しかし、待ち望んでいた皇子誕生の様子について、『枕草子』はまったく記していません。『紫式部日記』が第2、第3皇子の誕生について詳しく取り上げているのとは対照的です。それは、敦康親王を差し置いて、彰子の産んだ皇子たちが次々と皇位を継承することになる歴史的事実と関わりがあるのかもしれません。

 ともあれ、敦康親王の誕生によって朝廷における中宮定子の存在価値が大きくなったのは確かでした。平生昌宅での不本意な出産ではありましたが、皇子誕生100日目の祝いの儀式は、父親である天皇同席の場で行うことになります。定子は晴れて皇子と共に内裏に参入し、一条天皇との対面を果たします。

 百日の儀(ももかのぎ)は長保2年2月18日で、定子の内裏参入はそれに先立つ2月12日でした。前年6月に本来の内裏が火災にあって修復中だったため、一条大宮の藤原為光邸を仮の内裏として使用していた時のことです。

 一条の院をば今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西東は渡殿にて、わたらせたまひ、まうのばらせたまふ道にて、前は壺なれば、前栽(せんざい)植ゑ、籬(ませ)結ひて、いとをかし。
(一条の院を今内裏と称します。天皇がいらっしゃる御殿は清涼殿ということで、その北側の御殿に中宮様はいらっしゃいます。建物の西と東は渡り廊下で、天皇がお渡りになり、また中宮様が参上なさる道になっていて、その前は壺庭なので、草木を植え垣根を作ってとても風情があります。)

 仮住まいながら、本来の内裏に似せて今内裏と称された一条院。清涼殿になぞらえた建物に天皇が住まわれ、中宮が北側のいわば後宮に相当する建物に滞在し、互いに行き来していたことが記されています。渡り廊下は二人を結ぶ道、壺庭は二人の邂逅を取り持つ美しい背景となっています。定子も一条も、そして清少納言たち女房も、この時をどれほど待ち望んでいたことでしょう。

 百日の儀を無事に終えた後の2月20日頃、その渡り廊下の西側の間で天皇は笛を奏で、指南役の藤原高遠と共にめでたい高砂の曲を繰り返し吹き続けます。定子と会えない間に何度も練習し、上達した演奏の腕前を定子に聞かせたかったのでしょう。女房たちも御簾近くまで集まって拝見し、感無量の思いです。そこに記される、「『芹摘みし』などおぼゆる事こそなけれ」という言葉は、諸注釈書の引く和歌説話によれば、「芹摘みし」で始まる古歌の下の句「心にものは思はざりけむ」が現在の不幸を嘆く意味になるので、この時までは、そんな思いをすることがなかったと言っていることになります。実は、長保2年2月25日に彰子が中宮に立ち、定子は皇后に変えられるという事態が起きます。この章段に描かれているのは、日本史上初めての二后並立が道長の圧力によって断行される直前の、定子が一条天皇の唯一の后であった最後の一時なのでした。

 さて、その後、天皇はこっそりとおかしな曲を吹き出します。それは、宮中で評判の粗野な蔵人のことを揶揄して作られた歌でした。清少納言も図に乗って、もっと大きな音で吹くようにと天皇をけし掛けます。本人が聞いたらまずいからと躊躇していた天皇ですが、その人物が宮中にいないのを確認すると、今度はおおっぴらにその曲を吹き出しました。

 一条天皇はこの時21歳、4歳年上の定子にリードされがちだったかつての少年天皇は、為政者としての試練を乗り越えて一回りも二回りも大きく成長していました。一方、定子は一族の不運に弄ばれ、身体的にも精神的にも疲弊しています。天皇はそんな妻をいたわり、少年時代のような茶目っ気を見せてくれているのです。青年天皇の自信に満ちた姿がクローズアップされるこの段には、肝心の定子の姿が実際に描写されることはありません。今内裏で作者がとらえた一条天皇は、この時定子を支えてくれるもっとも重要な人物なのでした。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(42)

2010年 12月 21日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(42) 生昌邸行啓~没落期の笑い~

 行啓の騒動が一段落したその夜、女房たちが皆疲れてぐっすり寝込んでいる所に、生昌が清少納言を訪ねてきました。生昌は家主ですから、内鍵のない入口を承知していて、戸を少し開け、しゃがれた声で何度も、「そちらに伺ってもよろしいですか」と問いかけます。その姿は灯台の光に照らし出され、部屋の内側からは丸見えです。あまり可笑しいので、清少納言は隣で寝ていた若い女房を起こし、一緒になって生昌を笑い飛ばしてしまいます。

 夜間に男が女を訪ねるのは、恋愛関係を結びに来た場合と決まっています。そんな時にわざわざ、「そちらに行ってもいいか」と問う男はいるものか、また、そう言われて、「はい、どうぞ」と答える女はいない。中に入ろうと思うなら、何も言わずにそっと入ってくればいい。それが女房たちの心得ている上流貴族の恋愛作法でした。

 宮廷に上がったことのない中流階級の生昌が、そのような立ち居振る舞いを身につけていないのは仕方がありません。清少納言がそれにこだわるのは、御子を宿した中宮が、本来、滞在すべきでない身分の者の家に入らねばならない現実にやるせない思いを抱いているからであり、その憤懣を生昌に向けているのだと考えられます。

 生昌への攻撃はその後もさらに続きます。定子はこの時、数え年4歳(満年齢では2歳7カ月)になる長女修子内親王を伴っていました。生昌は、幼い皇女や付添いの女童たちのために、衣服や食膳などの日用品を調達しようと思い、中宮に伺いをたてます。しかし、彼の奇妙な言葉遣いがたちまち清少納言の嘲笑の槍玉にあがるのです。

 ここで、女房たちが徹底的に生昌を笑い者にするのはなぜなのでしょうか。長徳の変の時に、配流地から京に潜入した伊周の動向を生昌が道長に密告したので、作者がそれを意識しているのだと考える説もあります。しかし、彼女たちが嘲笑すればするほど、不器用ながらも一生懸命、中宮に奉仕しようとする生昌の実直さは浮き立ち、嘲笑する女房たちの方が理不尽に見えかねません。そうまでして作者が生昌を笑われ者にする意図は何なのでしょうか。

 実はこの章段には、生昌に対する女房たちの笑いの他に、もう一つの笑いが描かれています。それは、女房たちの背後に控える定子の笑いです。定子は、生昌をからかってヒステリックに笑う女房たちを諌め、穏やかに微笑んでいます。この章段は、生昌を笑う女房たちを定子が諌めるという話の繰り返しによって構成されているのです。作者の本当の目的は、生昌を笑うことではなくて、中宮定子の姿を描くことにあったと言ってもいいでしょう。

 中関白家没落後の日記段には、隆盛期以上に笑いが多く描かれています。その笑いは隆盛期のような充足感に満ちたものではなくて、切羽詰った後宮内に諧謔と一抹の明るさをもたらす笑いです。しかし、それによって中宮定子は以前と変わらぬ存在感を示しています。どんな環境の中にあっても、中宮としての威光を失うことなく、後宮の中心に描かれる定子。かつてのように華やかな衣装や教養に飾られた煌びやかな姿ではありませんが、常に周囲への心配りを忘れず、女房たちを支えて内面的に輝く姿が描かれます。

 もし、『枕草子』が書かれていなかったら、現代人は定子に対して、歴史に翻弄され、悲痛な日々に打ちひしがれて最期を迎える悲劇の后というイメージしか持てなかったのではないかと思います。作者は、心の中で生涯敬愛し続けた定子の姿を『枕草子』に書きとめたのです。

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専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(41)

2010年 12月 7日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(41) 生昌邸行啓~車の入らない門~

 長保元年8月9日、中宮定子は第2子出産のため、職曹司から出御することになります。通常、懐妊した后は里邸に入るのですが、定子の里邸の二条宮は長徳の変後に焼失してしまいました。中宮が参入するのに相応しい邸を持った貴族たちには、道長方の無言の圧力がかかっていたと思われます。出御先となった所は、当時、中宮職の大進だった平生昌の自宅でした。中宮職は中宮に関する事務を行う役所で、大進はその三等官、大臣と音は同じですが、地位は比べようもありません。

 一方、生昌にとっては、自分の家に中宮が滞在するなど思ってもみなかった一大事で、定子を迎え入れる準備に大奮闘したことでしょう。しかし、定子行啓が決まった時点から、ある問題が起こります。生昌宅には皇族が入るための門が備えられていなかったのです。

 そこで、「東の門は四足になして、それより御輿は入らせたまふ(東側の門は四足門に改造して、そこから中宮の御輿はお入りになる)。」ということになりました。四足門とは、門の2本の柱の前後に柱をさらに2本ずつ設けた格式の高い門です。すなわち中宮行啓のために東の門を改造したということですが、『小右記』には、「件宅板門屋、人々云、未聞御輿出入板門屋云々」とあり、生昌宅は板門屋で、人々は御輿が板門屋に出入りするなど聞いたことがないと言ったと記されています。

 『小右記』の筆者である藤原実資(さねすけ)は、当時の時勢下にあって道長におもねることなく、批判的な目を向けた人物でした。彼は、行啓当日に道長が早朝から人々を引き連れて宇治遊覧に出かけたことを記し、行啓を妨害する行為だと憤慨しています。定子の懐妊を無視しようとする道長と、道長に追従する貴族たちの動静を、最も敏感に感じ取っていたのは定子サロンの女房たちでした。孤立無援に等しい立場で必死に主人に仕え、中宮女房としてのプライドを保っていたと思われます。

 実際は四足門の体裁だけを整えた俄作りの板門だったけれど、中宮定子が板門の家に入るなど、清少納言には書くことができなかったのではないでしょうか。その代り、『枕草子』では、女房たちが入ろうとした北側の門が小さかった一件を大きく取り上げています。

 女房たちは車を屋敷内まで乗り入れるものと思って身なりを整えていなかったのに、門に車が入らなかったために下車して敷物の上を歩かねばならず、人々に見苦しい姿を見られてしまったのです。それが大変腹立たしかったと訴える清少納言に、定子は、どうして油断して身なりを整えなかったのかと諌めます。それでも気持ちが納まらない清少納言、そこに折悪しく現れた当家主人の生昌との会話を簡単に訳してみましょう。

清少納言:「おや、ひどい方がいらした。どうしてこんな狭い門の家に住んでいらっしゃるの」
生  昌:「家の程度を身分の程度に合わせているのでございます」
清少納言「でも、門だけは高く造った人もあるということよ」
生  昌:「これは、恐れ入った。それは于定国(うていこく)の事ですね。学問を積んだ者でないと知らない故事ですよ。私はたまたま漢学の道に入っていたのでなんとか理解できますが」
清少納言:「その道もご立派ではないようで。道に敷物を敷いても、皆、落っこちて大騒ぎしたんだから」
生  昌:「雨が降っていたので、そんなこともあったでしょう。いやはや、これ以上責められないよう失礼します」

 于定国は子孫の出世を予言して門を大きく建てた中国前漢の人です。中宮女房としての教養を見せつけながら生昌を退散させてしまった清少納言。この時、彼女が本当に抗議したかったのは、定子の門の一件だったと思います。でもそれは生昌に言っても仕方のないことです。この後も女房たちの鬱憤は生昌へと向けられていきます。

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