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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(40)

2010年 11月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(40) 職曹司の雪山作り~賭けの結末~

 長保元年正月3日、定子と共に参内する際、清少納言は木守(こもり)という者に雪山の見張りを言いつけました。木守とは庭木番を意味する呼称で、職曹司の土塀のあたりに住みついている身分の低い男です。そして7日まで宮中に滞在して里下がりした後も、何度も従者を職曹司に遣わし、木守に雪山を守るよう注意させていました。

 賭けの決着日は1月15日でした。14日の夜になって大雨が降り、雪山が消えるのではないかと清少納言は夜も寝ずに嘆きます。その狂ったような様子を女房たちは笑います。無理やり起こされ雪山の様子を見に行かされた下人の報告では、まだ座布団の大きさくらい残っていて、木守がしっかり守っているということでした。清少納言はうれしくなって、明日の朝になったら、消え残っている雪のきれいな部分を取って盆に小さな雪山を作り、それに和歌を添えて定子にお目にかけようと思います。

 早朝、清少納言は下人に命じて雪を取りに行かせます。しかし、下人は空の入れ物を手に提げて戻り、雪はすっかり無くなっていたというのです。昨夜まで残っていたはずなのに、そんなことがあるものか、と清少納言は納得できません。雪は残っていたかという定子からの仰せ言には、自分が賭けに勝つのを妬んだ誰かが取り棄ててしまったのだと返事をしました。

 1月20日に定子の御前に参上した清少納言は、このことをまず申し上げ悔しがります。せっかく素晴らしい歌を詠んでお目に掛けようと思っていたのにと憤慨する清少納言。そんな彼女を見て、定子は大笑いしながら真相を話します。残った雪山を取り棄てたのは実は定子だったのです。驚き、嘆く清少納言に対して、定子は、お前が勝ったのも同然なのだから用意した歌を披露せよと言います。しかしとてもそんな気分になれません。一条天皇も、清少納言は定子のお気に入り女房だと思っていたのに、この一件でわからなくなったなと口を挟みます。

 さて、定子はなぜ、雪を取り棄ててしまったのでしょうか。これについては、定子の清少納言に対する深い配慮を読み取る解釈がされています。すなわち清少納言がもしここで一人勝ちしてしまったら、他の女房たちの反感を買うのではないか。かつて同僚女房たちからスパイ容疑をかけられ、仲間外れにされた経験のある清少納言です。定子サロンの中にその火種がまだ残っているかもしれない。そこで清少納言の今後の立場を慮り、後宮をまとめる主人の立場から判断してとった行動だったという解釈です。

 確かにそのような考え方もできるでしょう。定子後宮が置かれた社会的立場は依然厳しく、女房たちの心中には不安や焦燥感が常に渦巻いていたはずです。ここでは清少納言の方も、あえて笑われ者役を演じているように見えます。サロン内の平穏を保つために笑いが有効であることを、定子も清少納言も心得ていたのではないでしょうか。また、作者の立場から考えると、不如意な生活の中でも屈することなく明るい雰囲気の定子サロンを描くことが、社会に対して中宮定子の存在をアピールすることになったと思います。

 清少納言が正月休暇を終えて再出仕した時、定子は天皇と同席していました。長保元年正月3日から少なくとも20日までの2週間以上の期間、定子が内裏にとどまって、一条天皇と共に過ごしたことが示されています。雪山の段は、笑われ者を買って出た清少納言自身の話の顚末に、一条天皇と水入らずの一時を過ごす中宮定子の姿がしっかりと書き留められている章段なのです。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(39)

2010年 11月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(39) 職曹司の雪山作り~定子参内の意味~

 雪山の賭けの途中で定子が内裏に参入したことは、歴史上、重大な事件だったと前回書きました。それは、長徳の変以降に定子が初めて参内したことを言っているだけではありません。現存している他の歴史資料に見えず、『枕草子』のみに記されているこの時の定子参内が事実であったことは、同年冬に一条天皇の第2子が誕生することによって証明されます。生まれたのは男児でした。定子腹の第一皇子の誕生は、中関白家再興の可能性が生まれたことを意味しています。つまり、道長に傾いていた政権の行方を中関白家に引き戻しかねない重大事件だったのです。

 長保元年11月7日敦康(あつやす)親王誕生の日、宮中では道長が、一条天皇の御前に多くの殿上人を集め、長女彰子の女御宣下の儀を挙行しました。皇子誕生の当日に合わせて、12歳の娘を天皇后にする道長の焦りが推察されます。

 ところで、『枕草子』の日記的章段では年月日が明確に記された章段はそれほど多くありません。特に日にちまで記されるのは、特別な行事が行われたか、何らかの事情でその日を書きとめる必要がある場合と考えられます。しかし、雪山の段では、12月中旬に大雪が積もった日から清少納言が予想した雪山消失の当日まで、作者は日にちを詳細に追って記しています。話の展開が、賭けの勝敗を決する日に向かって進められているのですから当然なのですが、その日にち記載の途中に定子参内の日付が入り込んでおり、それが特別なこととして扱われていないところに、かえって問題がありそうです。

 中関白家に重大な慶事をもたらすことになる定子参内は、『枕草子』に書きとめる必要のある記事だったと考えます。『紫式部日記』が彰子の産んだ敦成(あつひら)、敦良(あつなが)両親王の誕生記録であることから見れば、『枕草子』にも敦康親王誕生の記事があってもいいと思われるのですが、それはありません。そもそも皇子誕生の事実こそ、道長の政権掌握を最も脅かすものでした。その記事を書くことは、すでに政権の中心にある道長を刺激することになります。当時の社会情勢から考えて、敦康親王の身の危険を招く不安もあったでしょう。そこで作者は、雪山の賭けを利用して皇子誕生の発端となる出来事、つまり天皇の要請による定子参内の日を暗に示しておいたのではないでしょうか。

 そのように考えると、この段の登場人物の中に、内裏の一条天皇と職曹司の中宮定子を結びつける役割を担った人物がいることに気付きます。それは、天皇から定子への文を届けにきて清少納言に歌を詠みかけた式部丞忠隆と、定子から常陸の介の話を聞いて興味を示す天皇付きの女房右近内侍です。ちなみに常陸の介は、ここで右近登場を導く役目を担っています。

 『枕草子』の記事からは、一条天皇がこの時、政治的状況によって長い間、仲を引き裂かれていた最愛の妻に何とかして会おうと思い、忠隆や右近という身近な使いを職曹司に遣わして、内内に定子参内を働きかけていたことが読み取れます。作者はそのことを、自分自身の笑い話として展開していく雪山の賭けの話に取り込んで、しっかりと書き記したのだと思います。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(38)

2010年 10月 26日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(38) 職曹司の雪山作り~賭けの始まり~

 長徳4年12月中旬、京都に大雪が降りました。大雪といっても、平安貴族たちの日常に一興を添える程度の量だったようで、あちらこちらの御殿の庭で雪山が作られたと、内裏からの使者が清少納言に話しています。

 職曹司の女房たちも、最初は下級の女官たちに雪を運ばせ、縁側に小さな山を作っていたのですが、そのうち、庭に本当の雪山を作ろうということになり、本格的な雪山作りが始まりました。

 雪山作りの作業は中宮からの命令として下されたため、清掃係りの宮中役人や職曹司勤めの役人が次々と集まって、日当まで補充されることになります。それを聞きつけた者がさらに加わって、総勢20名ほどの男たちの手で制作したというのですから、かなり大きな雪山が完成したことでしょう。

 職曹司の役人たちが報酬を受け取って退出した後、中宮定子は女房たちに、「この雪山はいつまで消えないであるかしら」と問いかけます。女房たちが、「十日はあるだろう」「十数日はあるだろう」など、年内の期日ばかりを予想する中で、清少納言だけが翌年正月の中旬という遠い日にちを答えます。中宮も「そこまではもたないだろう」と思っている様子、他の女房たちも皆、口をそろえて、「年末まではもたないだろう」と言うので、さすがの清少納言も自信がなくなってきます。心中では、「あまり遠い日にちを言ってしまったかな。皆が言うように、そこまではもたないだろうな。せめて年明け早々と言えばよかった」と後悔するのですが、そこは彼女らしく、「一度口に出したことは撤回しないでおこう」と意地を張ります。

 さあ、雪山の賭けの始まりです。二十日頃に雨が降り、雪山は少し小さくなりました。清少納言は雪深い北陸の白山の観音様に向かって祈ります。雪山は消えないまま年を越し、一日の夜には新雪が降り積もりました。しかし、賭けの約束とは違うということで、中宮からクレームがつき、新雪は捨てられました。それでも消えそうもない雪山を見て、清少納言は賭けに勝ったと思います。

賭けの決着のつく日を皆が心待ちにしていたところ、正月三日に定子が内裏に参入することになりました。清少納言はもとより中宮まで、賭けの結果を直接見られないのを残念に思うのですが、実はこの突然の中宮参内は、歴史的に見ると大変重大な事件でした。

 長徳2年春、伊周・隆家の不祥事により内裏退出を余儀なくされた中宮定子は、それ以降も立て続けに起こった不幸を乗り越え、ようやく職曹司に参入し滞在していました。しかし、まだ内裏に入ることは許されない状況でした。長保元年正月の定子内裏参入は、二年近くの時を経て、久しぶりに一条天皇と中宮定子が再会することを意味しています。

 清少納言もどれほどこの時を待っていたかしれません。そんな二人の再会を意味する記述が、雪山の賭けの結果が見届けられなくなる理由として、さりげなく挟み込まれているのです。この時の定子参内は、公式記録には書き留められない極秘のものだったようです。それがなぜ、『枕草子』に記されたのか。当時の歴史的背景を対照させながらこの段を読むと、作者の意図していたことが見えてくるように思います。次回に続きます。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(37)

2010年 10月 12日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(37) 職曹司時代~常陸の介の登場~

 職曹司時代の長徳四年冬から長保元年正月までの時期を扱った章段に、中宮御前の雪山作りの話が記されています。『源氏物語』では、光源氏が紫の上に寝物語として、藤壺中宮の御前で作った雪山のことを語りますが、その歴史上で最も近い前例として挙げられるのが、『枕草子』のこの段です。

 「雪山の段」と呼ばれるこの章段は、初冬の精進日、一人の尼乞食が仏前の供物の下がりを求めて登場する場面から始まります。清少納言たちが面白半分に、「他の物は食べないで、仏様の供物だけ食べるなんて、尊いことよ」とちゃかすと、女は真面目に「それがないから供物をもらいたいのです」と答えます。同情した女房たちは女を近くに呼び寄せ、様々な食べ物を与えます。さらにあれこれと質問して答えさせているうちに、女は調子に乗って歌を歌い、舞い出しますが、それが下品な歌詞と踊りでしたから、定子のひんしゅくを買ってしまいます。その時歌った歌詞の一句から「常陸の介」と呼ばれるようになった尼乞食は、それから度々職曹司に顔を出すようになるのです。

 中宮が滞在する職曹司に、物乞いをする下衆(げす)が入り込んで来たということに少し驚きますが、広大な敷地に多くの建物が立ち並ぶ大内裏では、警備の対象とならない下衆女のたぐいなら容易に入ることができたのでしょう。

 常陸の介は、定子サロンの内部に登場してきた《笑われ者》です。作者がこれまで描いてきた、称賛すべき上流貴族たちが定子の周辺から姿を消した時、その代わりに選ばれた描写対象が、人寂しい没落家に入り込んでくる下衆たちだったのです。彼らは身分相応の言動で周囲の失笑を誘う存在です。しかし、作品内で生き生きと活動し、清少納言ら女房たちと関わりながら、新たな作品世界を形成していきます。

 ある日、常陸の介とは別の、もっと品のいい尼乞食が職曹司に現れたので、女房たちが彼女にいろいろ質問し、中宮からも着物が下されました。そこに常陸の介が来合わせ、様子を見てしまいます。それから急に職曹司に来なくなった常陸の介のことを、女房たちはすっかり忘れていました。

 12月中旬に積雪があり、御前で雪山作りが行われます。そして、この章段の主筋である雪山の賭けの途中で、常陸の介が再登場するのです。清少納言が常陸の介に、長い間、姿を見せなかった理由を問いかけたところ、彼女は自分の心境を和歌で答えます。

うらやまし足もひかれずわたつうみのいかなる人に物たまふらむ
(うらやましいこと。歩けないほども沢山、どのような人に物をお与えになったのでしょう)

 下流の身分で一人前に詠じた和歌は、やはり身分相応のものでした。章段構成としては、この常陸の介の和歌を挟んで、前に内裏からの使者に対応する清少納言の歌、後に大斎院選子から定子へ贈られた歌、と和歌が三首、並んで配置されています。

 三首の和歌の中心に置かれているのが下衆の常陸の介の歌であり、彼女は詠歌の後、雪山の上をうろうろ歩き回って退出してしまいます。《笑われ者》常陸の介の役割は何だったのか、歴史的背景を対照させながら、後で改めて考えてみることにしましょう。

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専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(36)

2010年 9月 28日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(36) 笑われ者登場~源方弘(まさひろ)

 職曹司時代の章段を中関白家隆盛期の正暦5年頃の章段と比べてみると、ずいぶん印象が違うことに気づきます。その理由として、第一に登場人物が変化したことが挙げられます。

 正暦5年頃の章段では、関白道隆の下で栄える一族の伊周や隆家などがよく登場していました。そこでは華やかな衣装をまとった上流貴族たちが漢詩や和歌の教養を披露し、それに対して作者の最上級の称賛が贈られていました。一方、職曹司時代では、中関白家の人々の姿はすっかり消えています。栄華の世界から離れた定子を中心に、清少納言らサロン女房たちが日常的な生活の中で見聞きした些細な事件を取り上げ、題材にしています。

 そんな職曹司時代の章段で活躍するのは中下流階級の人々です。上流貴族が称賛の対象であったのに対して、中下流階級の人々は、貴族社会にそぐわない言動によって笑われる対象となります。今回は、「方弘は、いみじう人に笑はるる者かな」と章段の冒頭で紹介される源方弘の話をしましょう。

 方弘は、長徳二年正月に蔵人となり、宮中に出入りするようになった中流貴族です。彼は、『枕草子』の中で2つの章段に登場しますが、どちらの話でも笑われ者になっています。方弘のどういうところが笑われるのかというと、まずは奇妙な言葉遣いや言い回しです。それに、自らの失敗をつつみ隠さず大声で披露してしまうこと、立ち居振る舞いに注意が足りず、灯台をひっくり返したりして騒動を起こすことなどが加わります。

 言葉遣いに対して敏感なのは作家として当然のことでしょう。他の章段で、ある人物の田舎訛りを清少納言自身が直接からかう場面がありますが、方弘については、殿上人がさんざん彼を笑っている状況を第三者の立場で記しています。

 地方育ちの人間が、都会に出てきた当初、方言を使って笑われるのは現代社会でもよくあることです。方弘自身は自分が失態を演じているという自覚はなく、一生懸命に仕事をしていたのだと考えられますが、彼が頑張れば頑張るほど、周囲の失笑を買い、《笑われ者》のレッテルを貼られてしまうのが京の都の上流社会だったようです。

 しかし、どんなに笑われても、部下が人々から「どうしてあんな主人に仕えているのか」とまで言われても、方弘はめげません。体裁を気にして出仕できなくなるのは上流貴族のお坊ちゃまであり、受領階級出身の成り上がり貴族は骨太で逞しいのです。

 清少納言が方弘の噂をどんな風に受け止め、どう思っていたか、彼に対する作者の具体的なコメントは記されません。けれど、粗忽者方弘の人物像がなんと生き生きと描かれていることでしょう。この後、職曹司時代の章段には、方弘よりさらに下の階級の人物が登場し、定子サロンの生活の中に入り込んできます。上流貴族ばかりを見つめていた作者の視線が、時代背景の変化と共に変わり、その中で、《笑われ者》の役割が新たな作品形成の要として機能していくのです。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(35)

2010年 9月 14日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(35) 行成と清少納言の交流

 他人に迎合しない行成は、清少納言以外の女房たちからは敬遠されがちです。若い女房たちが、「行成様は本当にお付き合いしにくいこと。他の男性のように歌を歌って楽しんだりもせず、ちっとも面白くないわ」などと非難するのを聞いて、他の女房たちには声もかけません。そして、清少納言に向かって次のように言うのです。

 まろは、目はたたざまにつき、眉は額ざまに生ひあがり、鼻は横ざまなりとも、ただ口つき愛敬づき、頤(おとがひ)の下、頸(くび)清げに、声にくからざらむ人のみ思はしかるべき。
(ぼくは、目は縦向きに付き、眉は額の方に生え上がり、鼻は横向きであっても、ただ口元が魅力的で、あごの下や首がきれいで、声の感じのよい人だけに心ひかれるようだ。)

 これは行成の口説き文句です。ということは、この描写のどこかに清少納言の容貌について言っている部分があると思われます。

 この時、清少納言はまだ、行成に顔を見せるほど気を許してはいません。前半の目鼻立ちについては、行成が単に当時の美の基準と反対のことを言っているのだと考えます。縦向きについた大きな目と、額の方に生えあがった大胆な眉の造作は、平安美人とは程遠い顔立ちです。

 それに対して、口元と声の魅力を褒める後半は、清少納言について言っていると考えてもよさそうです。貴族女性は普段、扇で顔を隠していますから,顔の中心部分は見えません。それで、扇の下から見える口元やあご、首、そしていつも聞いている声を取り上げて褒めたのです。ちゃんと確認したものだけを褒める、行成らしい口説き文句です。清少納言も悪い気はしなかったでしょう。ただ、これでは、清少納言の顔立ちの全体像がいっこうに浮かばないのが残念です。

 さて、行成は中宮定子への取次役として、常に清少納言を呼び出していました。自室に下がっているときも御前まで上らせ、里下がりしているときには自ら里に足を運んでまで取次を申し入れます。清少納言が何を言っても、まったく聞く耳を持ちません。年上の宮仕え人として、清少納言が諭そうとしているうちに言い争いになり、行成が、「本当に、にくらしくなった。では、顔を見せるなよ」と言って、絶交状態になってしまいます。

 二人の交渉再開のきっかけは、仲むつまじく過ごす天皇と定子の姿でした。ある朝、一条天皇と連れ立って登場した定子に見とれていた清少納言の寝起きの顔を、行成が偶然見てしまい、それから後は、清少納言の部屋の簾をくぐって中に体を差し入れなどして話をするようになったと、書かれます。ちなみに簾の中に体半分を差し入れて話をする男性と、簾の中の女性の関係はかなり親しいと言えますが、それ以上の関係は推し量れません。

 ところで、この章段で作者が書きたかったことは、行成との交流の他にもう一つあったという見方ができます。行成と清少納言の絶交は、定子の久々の内裏参入を示す場面で解決していますが、この時期の定子の内裏参入は、世間から注目される事件でした。作者はその定子の姿を、行成と清少納言の交流を利用して描いたと見ることができると思われます。行成は、定子と一条天皇同席の場に肯定的な態度で伺候する人物として、この場面に最もふさわしかったのです。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(34)

2010年 8月 31日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(34) 頭弁行成の人物像

 藤原行成は一条摂政伊尹の孫で、美男薄命の歌人藤原義孝の息子です。とはいえ、養父になった祖父と実父を早くに亡くし、母方の実家で育てられたようです。彼を蔵人頭に大抜擢したのは、道長室明子の弟源俊賢(としかた)で、行成はその恩を忘れず、昇進してからも決して俊賢の上座に座らなかったと『大鏡』に書かれています。また、行成の書き遺した日記は『権記(ごんき)』として後世に伝えられ、貴重な歴史資料となっています。その記事からも推察されるように、実直な性格と実務能力の高さで一条天皇の信頼を得た有能な公卿でした。

 行成について、『大鏡』に語られた逸話の中から、『枕草子』より少し後の時代ですが、後一条天皇(一条天皇第2皇子で藤原彰子腹)の子供時代の話を紹介しましょう。ある時、天皇が玩具を持ってくるように命じると、人々は金や銀などで様々な工夫を凝らした豪華な物を作って献上しました。しかし、行成が独楽を献上すると、天皇は大変気に入り、それでばかり遊んでいたので、他の物はお蔵入りになってしまいました。

 また、ある時、天皇に扇を献上することになり、人々は高価な骨や紙に、あまり知られない歌や詩などを書いたものを献上しました。それに対して、行成だけは特に豪華でもない造りの扇に、有名な白楽天の漢詩を表面は楷書で、裏面は草書体で心を込めて書いたものを献上したので、天皇は表と裏を交互に見比べて手箱に入れ、大切な宝物にしました。他の扇は最初に面白いと見ただけで終わってしまったということです。

 他愛ない話ではありますが、物事の道理や本質を見極めて、周囲に惑わされることなく実行する能力を備えた行成の人物像が浮かび上がります。後に道長の側近として働く官僚の一人となりますが、むやみに権力に迎合することはなく、中立的な立場で自らの職務を遂行する人物でした。

 清少納言が行成を信頼し、親しく交流したのも、彼が斉信とは対照的な政治的姿勢を持っていたからだと考えます。一方、行成も自分より年上の中宮女房に対して気を許し甘えるところもあって、前回紹介した逢坂の関の返歌などを寄こしたように思います。また、父親が有名歌人で、和歌を詠むのが不得手であると表明していたことは、清少納言と似通っています。二人には身分や立場を超えて、相通じるものがあったのではないでしょうか。

 『枕草子』の記事によれば、定子後宮における行成の評判は芳しいものではありませんでしたが、それは行成が、「いみじう見え聞えて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたる(人の目を引いたり評判になるような風雅な振舞いを特に見せることはなく、ただ自然体で普通の様子なので、人々は並の人物とばかり思い込んでいる)」ためだと言っています。しかし、彼の奥深い性格を清少納言だけは理解し、中宮定子に啓上していたこと、そんな清少納言のことを行成も知って、互いに信頼し合っていたことが記されています。二人の交流がどこまで発展したのか、気になるところは次回のお楽しみということにいたしましょう。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(33)

2010年 8月 17日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(33) 藤原行成の登場

 『枕草子』に登場する男性貴族のうち、その登場回数と身分で藤原斉信に並ぶのは、藤原行成です。斉信が頭中将から宰相中将に昇進して作品から消えていった代わりに、行成が頭弁(とうのべん)として登場し、職曹司時代の定子後宮に出入りします。ちなみに頭中将と頭弁は蔵人頭という官職で、中将から一人、弁官から一人が就任した蔵人所の長官です。天皇の身近で働く蔵人たちは中宮御所を訪れる機会も多い職柄なので、必然的に後宮窓口の清少納言と直接言葉を交わすことになります。

 斉信と行成は平安中期に四納言と称された有能な官僚たちのうちに数えられた人物です。その二人と、中宮の取次ぎ役として接したことは、清少納言の人生の中でどんなに誇らしく、晴れがましい事だったでしょう。清少納言は彼らとの交流を通じて、歌人の娘から才覚ある後宮女房へと、自らの人生を切り開いていく手応えを感じていたに違いありません。では、藤原行成との交流が始まったころ、二人の間に交わされた贈答歌を見ていきましょう。

 ある夜、職曹司で清少納言と話し込んでいた行成が、翌日は宮中の物忌だからと言って、子の刻(夜中の11時から1時ころまで)のうちに参内しました。翌朝、行成は、「今日はとても心残りな気分です。昨日は夜通し語り明かしたかったのに、鶏の声にせかされて…」という手紙を送ってきました。

 清少納言はその返事に、「たいそう夜更けに鳴いたという鳥の声は、孟嘗君(もうしょうくん)のでしょうか」と書きました。孟嘗君は中国の史書『史記』に見える古代戦国時代の斉(せい)の公族です。奏の兵にとらわれそうになって脱出し、夜半に函谷関(かんこくかん)に至ったところ、関所の門が閉じていました。函谷関は鶏の声を合図に開門することになっていたので、孟嘗君は従者の一人に鶏の鳴き声を真似させて関守をだまし、門を開けさせて無事逃れたという話があります。

 行成からは折り返し、「孟嘗君の故事にはそうあるが、私たちの間にあるのは逢坂の関所です」という返事が来ました。函谷関の話から、男女が逢う意を持った逢坂の関に話を変え、戯れかけてきたのです。それを受けて清少納言が詠んだのが、後に百人一首に採られる次の歌です。

 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
 (夜のまだ明けないうちに鶏の鳴き真似でだまそうとしても、絶対に逢坂の関所は開かないし、そう簡単に私は許しませんよ。)

 この後、行成から、「逢坂は越えやすい関所だから鶏が鳴かなくても開けて待っているということですよ(あなたは実は私を待っているのではないですか)」という内容の和歌が来て、清少納言はそれ以上、返歌ができなくなります。しかし、口頭での二人の応酬はさらに続きます。その後訪れた行成が、この時の清少納言の手紙を殿上人の皆に見せたと言うと、清少納言の方では、「すばらしい事が伝わらないのは言った甲斐がないから、むしろお礼を言います。反対に、見苦しいものが散らないようにあなたの手紙はしっかり隠して人には決して見せません」と答えます。他の女房たちとは全く違う清少納言の反応を行成は大変面白がり、彼女のことが気に入ってしまいます。
 実は、行成から届いた手紙は、清少納言の手から定子と定子の弟隆円に渡されています。行成は名筆家でもありましたから、彼の書いたものは誰もが欲しがったのです。また、ここで交わされた行成との贈答は恋愛歌であっても個人的なものではなく、後宮女房としての公的な立場における清少納言のデモンストレーションであると考えると分かりやすいと思います。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)

『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(32)

2010年 8月 3日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(32) 職曹司時代「五月の御精進のほど」~庚申待(こうしんまち)の夜~

 中宮定子から詠歌御免の許しを得た清少納言は、「いと心やすくなりはべりぬ。今は歌のこと思ひかけじ(とても気が楽になりました。今はもう和歌のことは気にかけないでしょう)」と言っていました。そんな頃、庚申待をなさるということで、内大臣様が様々な準備を整えました。

 古代中国の道教思想に、人の腹の中に三尸(さんし)という虫が住んでいて、庚申の日に天に昇って人の罪状を天帝に告げ、寿命を縮めさせるという信仰があります。それが日本に伝来し、庚申の夜は三尸が天に昇らないように見張るため、種々の遊びをして夜を明かす風習になりました。その行事を庚申待と言います。ここで準備に奔走した内大臣は定子の兄の伊周です。

 さて、夜が更けゆくころ、題を出して、女房たちに歌を詠ませることになりました。一同が苦心して作歌に取り組んでいる中で、清少納言一人だけが中宮様の御前近くに伺候し、和歌以外の話ばかりしています。それに気付いた伊周が咎めると、清少納言は詠歌御免を賜った事を話しました。伊周は驚いて、どうしてそんなことを中宮が許されたのか、他の時はともかく今宵は詠めと、迫ります。しかし、清少納言はまったく聞き入れず、相変わらず詠歌に参加しようとしません。人々が皆、和歌を披露し、その評定が始まろうという時分、定子が文を走り書きして、清少納言に投げてよこしました。そこには一首の歌が書かれていました。

 元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる
(あの歌人元輔の子と言われるあなたが、今宵の歌会に加わらずにいるのですね)

歌人の子という肩書を負った清少納言の立場を十分に理解した上で、戯れかけてくる定子に対しては、詠歌御免を決め込んでいた彼女も思わず和歌を返さずにはいられませんでした。

 その人の後といはれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし(もし、私がその元輔の子といわれない身であったなら、今宵の歌会では真っ先に詠んだことでしょうに)

意地を張っていた清少納言も定子に対して負けを認めざるを得ません。女房たちの中で積極的に行動し、やや調子に乗ってしまう清少納言と、彼女を容認しながら優しく諫める中宮定子の交流を描くのは、職曹司時代の典型的な章段内容です。

ところで、この話の中に歴史的事実と異なっている部分が一箇所あります。それは、定子の兄伊周が内大臣として記されていることです。この章段は、職曹司時代の5月を扱っていますので、記事の年時は長徳4年か5年のいずれかの5月になります。伊周が長徳2年の変で内大臣の官位を剥奪されて大宰府権帥として左遷され、都に戻ったのは長徳3年の12月でした。その半年後から2年半後に相当する職曹司時代には、まだ正式な官職も定まっていない状態でした。『栄花物語』などは、この時期の伊周に対して、「前帥殿(さきのそちどの)」という呼称を用いています。『枕草子』のこの段の「内大臣殿」という呼称は間違いなのです。

 ではなぜ作者は伊周の官職呼称を間違って記したのでしょうか。実は、そのように考えることの方が間違っているとあえて言いましょう。『枕草子』に登場する中宮定子の兄伊周は、決して罪人であってはならないのです。彼が罪を負い左遷された過去の事件を表す呼称は、作者には用いることができなかったと考えるのが妥当だと思います。
 
職曹司時代の章段は一見明るく、平穏な日々を描いているようで、様々な歴史的内実を抱いた章段群です。そこに注意を払いながら読み進めていきたいと思います。 

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(31)

2010年 7月 20日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(31) 職曹司時代「五月の御精進のほど」~詠歌御免~

 ホトトギスの和歌を詠まずに帰った清少納言たちが、中宮定子に今すぐ詠むように言われて詠歌の相談をしていたところに、藤原公信から文が届けられます。彼は、あの卯の花車から引き抜いた枝に和歌を付けてよこしたのでした。返歌は早く返すほどいいというのが貴族社会の常識でしたから、先にこちらの和歌を詠まねばなりません。清少納言は侍女に自分の硯箱を部屋に取りに行かせますが、その様子を見ていた定子はじれったく思ったのでしょう、自らの硯箱を与えます。しかし、宰相の君と詠歌を譲り合っているうちに、降っていた雨が強くなり、ついに雷まで鳴り出しました。

 当時は避雷針などの設備もなく、建物も燃えやすい木造建築でしたから、落雷によって家屋が火事に見舞われることも多く、内裏も何度か焼失し建て直しています。とにかく恐ろしくて、格子をすべて引き下ろして回るうちに返歌どころではなくなります。

 やっと雷が去り、雨も少し止んできた頃には日暮れになっていました。そこで、あらためて返歌に取り掛かろうとしたところ、今度は雷見舞いに訪れた上達部たちへの対応に追われて取り紛れてしまいます。「今日はつくづく和歌に縁のない日なのだろう、こうなったらホトトギス探訪に出掛けたことさえあまり人に話さないようにしよう」と笑う清少納言ですが、定子の方は、「たった今だって詠めないことがあるものですか」と不満気です。

 それから2日ほどたって、ホトトギス探訪の時の話になり、宰相の君が、「どうでしたか、(明順が)自ら摘んだという下蕨(したわらび)のお味は」と清少納言にたずねます。中宮定子はそれを聞いて、「思い出すことといったら(食べ物の話だなんて)」とお笑いになり、紙を投げてよこしました。そこには、「下蕨こそ恋しかりけれ」という連歌の下句が書かれていたので、清少納言は、「郭公たづねて聞きし声よりも」と付けて返しました。その後、清少納言は定子に自分の和歌に対する思いを告白することになります。

…歌よむと言はれし末々は、すこし人よりまさりて、「そのをりの歌は、これこそありけれ。さは言へど、それが子なれば」など言はればこそ、かひある心地もしはべらめ。つゆとりわきたる方もなくて、さすがに歌がましう、われはと思へるさまに、最初によみ出ではべらむ、亡き人のためにもいとほしうはべる
(歌がうまいと言われた者の子孫は、少し人よりは優って、「その折りに詠んだ歌はこれであった。何といってもあの歌人の子なのだから」など言われてこそ、詠んだ甲斐のある気持ちもするでしょう。まったく優れた点もないのに、それでもいい歌だと思って、私こそはと得意な様子で最初に詠み出しますのは、亡き人のためにもふびんです)

 清少納言の曽祖父清原深養父(ふかやぶ)は『古今集』歌人、父清原元輔(もとすけ)は『後撰集』撰者であり、清原家は歌人の家としては名門でした。その家名を背負って出仕したであろう清少納言の和歌に対する自負心とプレッシャーが想像されます。『枕草子』には作者の豊富な和歌的知識が盛り込まれていますが、清少納言の歌作自体は少ない理由がそんなところにあったのだろうかと興味をひかれる逸話です。

 さて、清少納言は定子から、「歌を詠むか詠まないかは自由にすればよい、こちらからは詠めとは言わない」という詠歌御免の許しを得ることになりました。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。

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