著者ごとのアーカイブ

濱川先生の思い出

2009年 2月 9日 月曜日 筆者: 赤司 英一郎

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(38)

ムージルを読んでいたら etwas hinter den Sinnen (感覚の奥にあるなにか)という表現が出てきた。ムージルといえば現実や自我の解体をとらえた作家というふうに評価されることがあるが、むしろ、現実や自我を解体しても解体しても解体されえないものを見つめていた。この語句の置かれている文は、ihre Sinne waren ganz wach und empfindlich, aber etwas hinter den Sinnen wollte still sein, sich dehnen, die Welt über sich hingleiten lassen . . .(かの女の感覚はすっかり目覚めて敏感になったが、感覚の奥にあるなにかが静まって広がり、その上に世界を滑らせようとした…)である。そのつどの感覚は、その奥にあるなにかの上で生起している、と考えられている。そのつどの思考についても同じようなことがいえるのであり、言語化することのむずかしいこの「なにか」が、人びとの意識や感覚の奥にあるさまをムージルは見ていた。

それは各人の精神の構えのようなもの、あるいは人柄の地や骨組のようなものである。このところ日本では、いや世界でもそうかもしれない、わかりやすい言葉遣いや人びとに安心をさそう表現、つまるところは言語化され媒介されるものばかりが尊重されているから、そうした言葉の奥に控えているものにはあまり目が向けられないが、そもそも人の魅力とはそうした場所から発せられるのではないだろうか。このように書きながら、濱川祥枝先生(クラウン独和辞典第2版までの編修主幹で、第3版から監修にまわられ、2年前に逝去された)のことを思い出している。レッシングに心服され、ゲーテとシラー、トーマス・マンとムージル、フロイトとユングの翻訳にもたずさわれた先生には、いつも精神の大きな構えが感じられた。また、ルートヴィヒ・トーマやレーナ・クリストを愛されたことには、それぞれに固有の人生にとらわれた者たちへの温かいまなざしが感じられる。

辞書の仕事とは、まさに言葉自体を扱うものであるが、先生はけっして言葉だけを見ておられたのではなかったと思うのである。大学院生時代に出席した、辞書をよむ演習が忘れられない。Paul の辞書を主なテキストとし、各学生には、割りふられた語についてGrimm をふくむ他の辞書を調べて発表することが求められた。そのため学生は、ある一つの語が時代や作家によってどのように異なるニュアンスで使われたかを自分で整理しなくてはならず、辞書室にある様ざまな辞書におのずと触れるようになっていた。授業のなかで例文をとおして学んだのは、一つひとつの言葉の重さと同時に、言葉にあらわれた、その言葉を使う精神のかたちであり、時代精神のありかたであった。辞書の仕事に参加するようになっても、この演習の続きに出席していると思えるときがあった。それだけに、先生のいない編修会議は寂しい。

そんな先生がお好きだったお酒の話でこの拙文を閉じる。ドイツでは先生はいつもミュンヒェンに滞在されたが、そこから列車で一時間ほどのオーストリアのインスブルックに昼食に行った、と伺ったことがある。レストランで飲むワインがきれいな赤紫色で、うまいのです、と。古い映画を観ていたら、それとおぼしいワインが出てきた。「Valpolicelliというアルプスで採れる葡萄でつくられた」ワインで、「山の空気が沁みこんでいる」からおいしいという。このワインだったのでしょうかと尋ねてみたいが、もうかなわない。それから、北ドイツが話題に上ったときのこと。Pharisäer というラム酒の入ったコーヒーがあるのです、見た目にはアルコール入りとわからないので、そんな名前で呼ばれるのでしょう、と笑いながら話された。先日ふとそれを思い出したので、調べてみると、他の辞書には「パリサイ人」や「偽善者」といった意味しか載っていないのに、クラウン独和辞典には「ファリゼーア(ラム酒と泡立てたクリームを入れたコーヒー)」とある。これはきっと先生が書き込まれたにちがいない。いつの日かこのコーヒーを注文してみよう。


【筆者プロフィール】
赤司 英一郎(あかし・えいいちろう)
東京学芸大学教授
専門はドイツ・オーストリア文学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

中欧の地図 その2

2008年 8月 4日 月曜日 筆者: 赤司 英一郎

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(20)

『クラウン独和』第4版を監修された故濱川祥枝先生からは、有形無形にたくさんのものを授かったが、その一つに、著名な旅行案内書〈ベーデカー〉の『オーストリア・ハンガリー』(1913年出版)がある。いまの世界地図から消えてしまった、かつてのハプスブルク帝国内の、様ざまな都市や交通について、その本で調べることができる。

たしか最初に開いたのは、「フューメ (Fiume)」のページであった。そこには「クロアチア語でRieka。古代ローマ時代はTarsatica、中世はSt.Veit am Flaum。ハンガリーで唯一の海港、人口5万、云々」と紹介されている。このページを開いたのは、ローベルト・ムージルの短篇『トンカ』のつぎの一節が気になっていたからである。

「アンコナとフューメのあいだに、あるいはおそらくミッデルケルケと見知らぬ町のあいだにも、灯台が立ち、そこから放たれる光が夜毎、扇をあおぐように海の上で明滅しています。扇の一閃、それから無となり、それからまた何かとなります。そしてフェンナの谷には、うすゆき草が咲いています。

これは地理学でしょうか、植物学でしょうか、航海術でしょうか。それは、幻です。たった一つだけ、一回だけ、永遠にそこにあり、それゆえ、いわば現実にないものです。あるいは、それは何でしょうか。」

主人公の青年は、母親に宛てたこの「ばかげた」手紙を投函しなかったが、1回しか起きなかったこと(マリアの処女懐胎に似たトンカの妊娠)に現実の価値をみとめてよいかどうかについて、深く煩悶し、省察していた。(いまの大学生はこんなことに悩んだりするのであろうか)。

ミッデルケルケというベルギーの海岸の町、それにインスブルック南方のフェンナの谷が出てくる理由はまだ判らない。しかし、アンコナとフューメに言及されていることは、最近、腑に落ちた。ムージルが未来の妻マルタとはじめて出会ったとき、マルタはあるイタリア人の妻であった。その結婚のためにカトリックに改宗していたマルタは、こんどは離婚のためにハンガリー人の養子とならなくてはならなかった。この離婚にまつわる裁判が、ブタペストとローマで開かれた。ムージルは、マルタのブタペストからローマへの旅にそっと寄り添った。その途次、フューメからアンコナまでの船旅で嵐に遭い、ほうほうの体で、アンコナに着いた。そのアンコナのホテルの宿帳に、ムージルはマルタを「妹」と詐称した。都市名には、いろんな記憶が付着している。

前回のエッセイでも述べたが、ハプスブルク帝国のときにドイツ語名を持った都市については、『クラウン独和』第4版の見開きの中欧の地図に、その名をカッコ内に示した。そのさい濱川先生の〈ベーデカー〉『オーストリア・ハンガリー』が大いに活躍したのはいうまでもない。

トーマス・マンの『ベニスに死す』で、旅心に誘われた主人公アッシェンバッハは、まずは列車でトリエステへ行き、そこから船でポーラ (Pola) へ、そしてアドリア海の島へ向かう。それから、その地になじめないのでベニスへと旅先を変えるのであるが、このポーラ(現在名プーラ (Pula))は、〈ベーデカー〉に、「1866年以来、オーストリア・ハンガリーの主要な軍港。人口36200人、大勢の駐屯軍。ローマ時代からすでにアドリア海の最重要の軍港の一つ、云々」とある。次回の改訂で書き入れたい都市名の一つである。


【筆者プロフィール】
赤司 英一郎(あかし・えいいちろう)
東京学芸大学教授
専門はドイツ・オーストリア文学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(7)

2008年 4月 28日 月曜日 筆者: 赤司 英一郎

【編集部から】
このたび『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

中欧の地図

ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い、という言いまわしがある。発音にまつわるジョークであるが、ことは固有名詞だけに、口もとを歪めたゲーテの顔を想像できる。わたしの勤務する大学で、知り合いのドイツの大学の先生の講演会があった。ポスターが貼り出されたが、「信行」の名が、誤って「伸之」となっていた。すぐに気づいて事なきをえたが、わざわざポスターを作り直さなくとも、本人以外は困惑したり不快に感じたりしなかったかもしれない。よほどの有名人でなければ、固有名詞は一般的な情勢には、あまり影響を与えない。とはいえ本人にとっては、アイデンティティと係わり、ときには死活問題となる。固有名詞は存在にふれている。

歴史は様ざまな存在をおおい隠してきた。たとえばイマヌエル・カントの場合。手もとの百科事典には、ケーニヒスベルク生れとある。だが、この地名は現在使われていないので、地図には見あたらない。『ブリキの太鼓』のギュンター・グラスは、ダンチヒ生れとあるが、現グダニスクと添えられている。かつて中欧で数百年のあいだ勢力を誇ったハプスブルク帝国は1918年に滅んだが、公用語がドイツ語であったので、プラハはプラーク、リュブリャーナはライバハ、ボルツァーノはボーツェンと呼ばれていた。ハプスブルク帝国時代の小説を読んでいると、どこの都市の話なのかわからないときがある。

今回の『クラウン独和』の改版で固有名詞を担当した。それをいいことに、表紙裏の地図にかつてのドイツ名を括弧に入れて表示することを提案した。これで少しは便利になった、と得意におもった。しかし、問題がないわけではない。ドイツ国歌に「マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで」とあり、現在、この歌詞は歌われていない。調べてみると、マース川はオランダに、メーメル川はリトアニアに、エッチュ川は北イタリアに、ベルト海峡はデンマークにある。ドイツ名を地図に記入することで、ドイツの古いナショナリズムに触れる居心地の悪さをおぼえた。だが、そこにはかつてドイツ語を使う人がいたということなのである。


【筆者プロフィール】
赤司 英一郎(あかし・えいいちろう)
東京学芸大学教授
専門はドイツ・オーストリア文学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

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