著者ごとのアーカイブ

かこつけて(3)―ライン河の丈くらべ―

2010年 5月 24日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(92)

細かい日付は忘れてしまったが、3月の『朝日新聞』に「ライン川、本当は90キロ短かった」というベルリン特派員(支局長?)の記事が載っていた。ネタは『南ドイツ新聞』などらしいから、日本の他の新聞にも類似記事がみられたかもしれない。亡くなった友人に朝日のボンやヴィーンの支局長(といっても、部下は臨時・現地雇いらしかった)などを務めた大阿久という男がいたが、「ヨーロッパ関係の記事をセッセと送っても、日本ではアメリカが中心で大概ボツさ」と、ぼやいていた表情や、当時ドイツ連邦共和国の(暫定)首都はボン、今はとうとうベルリンか、などと妙な感慨にしばしふけっているうち、ふと湧いた心配の一滴がにわかにその輪を広げ始めた。というのは、15年ほど前に『ドイツ・ラインとワインの旅路』という本を出したことがあり、津田さんという写真家のすてきな画像を多くふくむ、まずまずの(?)本なのだが、誤植が幾つかあり、直したいとは思っても、今は古ボンしかないらしい。まぁ知らぬ顔の半兵衛でもよいようなものの、たしか源流行に関連してライン河の長さのことにもふれたはず、もしや間違ったことを書いてはいないか、気になりだしたのだ。本棚の隅から念のため残しておいた修正用の一本を取り出し……以下は、日付を忘れた記事切抜きと小著該当部分の引用だが……

「独メディアによると、独西部ケルン大学の研究者がライン川に関する本を執筆するため、20世紀初めごろの文献を調査していたところ、これまで定説とされてきた1320キロより短い、1230キロとの記述を見つけた。独の公文書などはライン川の長さを1320キロとしていたが、実際に最新の地図などで確認したところ、1233キロ前後であることが判明したという。調査では1932年に出版された事典に、百の位と十の位を取り違えたと見られる「1320キロ」の記述があった。60年ごろには間違った長さの1320キロがほぼ定着してしまったようだという。」

「こう書いて僕はふと疑問にとらわれた。ライン河は1320キロメートルと大概の本に書いてある。源流なるトゥマ湖の地図の裏にも確かそう載っていた。(中略)僕はなんだか落ちつかなくなって、ドライブ・マップと、その上をなぞれば距離換算ができる歯車つき計測器を取り出した。あまり正確ではないが、糸とピンを使うより手軽な、僕自慢の小道具だ。これで図面をたどってみると、どうやらコンスタンツから北海にそそぐ河口まで、2000キロ前後であるらしい。源泉からコンスタンツまでは2百数十キロ。給与額を見て喜んでいたら、税金や年金積立分をゴソッと引かれて、がっかりしたような気分である。」

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どうやら完全には間違いではない、身びいきでいえば、結構いい線をいっているようにもみえる。約千キロと2**キロを足せば、1320より1233に近いからだ。少しほっとしたのだが、もう少し考えてみると、ライン河の長さというとき、ボーデン湖の部分やオランダに入ってからの所謂デルタ地帯の部分をどう計測・加算するか、という問題があって、「正確には」決定できないのではないか、とまた余計な心配(?)が生じてしまった。もっとも、地球温暖化の影響はともかくとして、細かいことを言い出すときりがないかもしれない。ドナウ河についても『理科年表』―4年ほど前のものだが―には2850キロとあるが、これも数種の説があることは小著でもふれている。源流と河口の確定は、誕生と他界の社会的認定より実は厄介なのかもしれない。19世紀に大規模な河川整備工事が行われて、エルザス帰属問題もからむ「オーバーライン」が82キロほど短くなったことだけは確かだが。


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

かこつけて(2)―『マーモット』―

2010年 2月 15日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(80)

去年も暮近い朝のことだ。久しぶりに寝坊した床の中で、とある歌曲をめぐって男女が楽しげに会話しつつ投稿の紹介をするFM番組をぼんやり聴いていた。むかし中学で習い好きだった「水うち清めし朝のちまたに、白露宿せる紅花黄花、花売る乙女の・・・」なる美しい詩句の『花売』という歌が、こともあろうに(原題)『モルモット』(作詞ゲーテ)とは何たる幻滅!といった趣旨の投書が披露され、にぎやかな話題になっていことが、段々明らかになった。作曲はなんとなんと(!)ベートーヴェン、短調の特徴あるメロディで、後でハーモニカでちょっとなぞってみると、ラとシが多く、結構息が苦しい。一葉の『たけくらべ』に、公立小に通う連中が唱歌は公立が本家というような顔をする、と(貧しい)私立の生徒が悔しがる叙述もあり、明治期の唱歌国策論をたまたま目にしたこともあって、少し気になるので本務の合間にぽつぽつ調べてみた。

意外だったのは手元のゲーテ作品集などに「マーモット」の詩が簡単にみつからなかったことである。実はこれは『プルンダースヴァイラー(がらくた村)歳の市の祭り』と題された、俄狂言や謝肉祭劇に類する滑稽風刺劇が出典で、歳の市をあてこんだ色々な登場人物中、芸を仕込んだアルプス・マーモット(鼠の仲間モルモットではなく、兎の仲間)を見世物に投げ銭を集めて旅暮らしをする少年が歌うものだった。1772年ごろ書かれた原作が1778年に宮廷人達の余興にも供されるため改作されたとき、この詩も付け加えられたようで、この「劇」自体ゲーテ作品としてはマイナーなものゆえ、専門家でもないと目につきにくいし、選集程度のものには収められていないようだ。僕がこれを漸くみつけたのは、『クラウン独和』第2代編集主幹・故濱川祥枝先生から頂戴したひげ文字の古い全集だった(ついでながら、最近あるインタヴューで有能かつ魅力的なさる女性編集者が濱川祥枝教授は同性とばかり勘違いしていることがわかり、僕得々として然らざる由縁を述べたてたものであります、合掌)。

4連(節)、総計24行のゲーテ詩『マーモット』だが、ドイツ語部は各連2行しかなく、残りは古風なフランス語リフレーンが各連3行、その変形1行から成っている。ドイツ語行をDとし、リフレーン行をFとし、変形をfとすると、各節は D1-F-D2-F-f-F となるわけだが、Fの部分が「このマーモットと共に」という意味であるのに対し、fの部分は厳密な意味は不明で、多分フランス語とイタリア語をもじった戯れ(si だっけ、la だっけ)であり、歌う少年が当時の世相を反映しサヴォア出身の貧しい旅芸人であることを垣間見せているともとれよう。使われる音は(日本やイタリア式)音階名でいえば、ラとシが頻出、ファとソは出てこない短調メロディで、一種独特の哀歓(と諧謔)がこもっている。さてこそベートーヴェン、一件落着、と言いたかったが、なお一つ疑問が残った。この曲は作品番号(Op)でいえば52-7だが、このあたりは「クロイツェル」(Op.47)やら「ヴァルトシュタイン」(Op.53)、「交響曲第3番」(55)など、大きな一級品が並ぶところだ。その片手間にちょいちょい、というわけではなく、出版こそ遅くなったが、どうやら青年期までをすごしたボン時代の作品らしい。それにしても、数多あるゲーテ詩の中で、よりによってなぜこれをベートーヴェンが選んだのだろうか、ライン河沿いの故郷ボンで実際このような旅芸人に出会う機会もあったのか、この詩に関しては友人仲間や師などの影響ないし情報があったのだろうか。印刷公刊されたのは1817年の「ゲーテ作品集」第9巻であるから、その遥か以前、おそらく二十歳前後には知っていたに違いないが、直接証拠はみつからない。父親がテノール歌手であったこともあってか、ベートーヴェンは歌曲と意外に長い付合いがあることだけは確かだが。

ともあれこのちょっといわくありげな曲が、ゲーテの詩と無関係に、明治の日本では唱歌のメロディとして採り入れられ、数種の歌詞をもつことになった。それらの歌詞はおよそ滑稽とは無関係な「詩的」情操豊かなものであること、たとえば大和田建樹作詞『あすの日和』では「夕山しづかに雲をおくりて、あらしのなごりは窓の小笹に・・・」とある。これらを一種の換骨奪胎と批判することは可能であろうし、賛美歌をふくめ民謡や西洋歌曲に独自の歌詞を付し取り入れた成長期近代日本の「唱歌」には、小国民育成の政治的意図が見え見えなものもあったようだが、ことばとメロディの調和を意識した努力があったことも確かであろう。『マーモット』の歌など原詩の意味を生かしメロディに載せるのはほとんど不可能かもしれない、と承知しつつ、通勤電車のつれづれに、駄句をひねってみた。

(1)渡り来た邦々(くにぐに)、ともはこのマーモット
   かつかつの暮しさ、ともはこのマーモット
   めぐりシいずラとて、ともはこのマーモット
(2)紳士にも遇い申(も)した、(F)、娘御には目がない、(F)、(f)(F)
(3)淑女にも遇い申(も)した、(F)、ちびっこにも目をくれた、(F)、(f)、(F)
(4)お情けです御喜捨を、(F)、若い衆(し)はひもじい、(F)、(f)、(F)

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「お粗末様で」と引っ込むべきところ、なお蛇足を付け加えれば、原詩の第2連(節)と第3連(節)には、hätt’ 及び täte という、接続法とみまがう語が出てくるが、これは南部方言の一種とみてよいだろう。『ファウスト』第1部でグレートヒェンが歌う「トゥーレの王」に類例がある。


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
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かこつけて(1)―一葉と漱石の「橋」―

2009年 11月 30日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(72)

樋口一葉に『十三夜』という短編小説がある。『たけくらべ』『にごりえ』に次ぐ佳作とされ、主情的ではあるが、社会変動の著しい明治中期の世相を連綿たる擬古文で書き残している。タイトルは、「中秋の名月」とならび賞玩される「後の月(十三夜)」、その片方だけ供え物をするのは片月見として忌む慣わしもあったそうな。因みに新暦ではあるが今年2009年10月は、中秋の名月と十三夜が同じ月の始めと終りにくる、かなり珍しい月でもあった。

さて話は、美しいが平凡な娘「お関」が、身分違いの高級官吏に偶然見初められ、躊躇つつも結局その「奥様」となり「お屋敷」暮らしをするようになりはした、ところが跡継ぎが産まれてからは手のひらをかえしたようなむごい夫の仕打ち、裏切りにいたたまれず、7年目の「後の月」の夜、しがない暮らしの父母の家に密かに逃げ帰るところから始まっている。「婚活」やら「肉食系」などという言葉がはやる今からいえば何とも消極的で一方的に弱い女性の立場のようだが、なにしろ「青鞜」以前、華族士族平民などと戸籍に記録された時代のことである。両親はむろん娘の「出世」を望外の幸せと喜んでいた。

とはいえ事情を詳しく聞くや、娘可愛さに母親は憤慨してまくしたてる。その言葉の中に「人橋たててやいやいと貰いたがる……」という文句があったのだ。それまでぼんやり活字をおっていた僕はおやっと思った。「人柱」とか(東西の)「掛橋」とかいう言葉には時々出くわすが、「人橋」というのは初めだったこと、それに、暫く前から気には掛かりながら追跡不調で放置していたドイツ語の表現を思い出したのである。

それは漱石が体調や精神的変調著しく新聞連載中に一度中断し、後に書き足した『行人』第4部「塵労」に出てくる文言で、いわく、「人から人へ掛け渡す橋はない(Keine Brücke führt von Mensch zu Mensch.)」。どうです、いかにもいかにもで、ちょっと気になる科白ではありませんか?

手元の古い版の注には「ドイツの諺」とあるが、K.F.W.Wanderの5巻本諺辞典をみても、Grimmその他2,3の辞典類をみても見当たらず、親友のハーバーマイアー君に聞いてもどこか地方の諺かもしれぬが自分は知らないという。漱石は弟子の小宮豊隆相手に独逸語に取り組んでいたし、Neue Rundschau なども覗いていたから、どこかで見つけ印象的に利用したのだろうから、あえて出典など問わずともいいようなものの、気になりだすと気になるもの、とりあえずインターネットで調べてみたら用例が4つ見つかった。といっても、そのうちの一つはローゼンツヴァイクの『救済の星(Der Stern der Hoffnung)』(1921) なる哲学書を引用する論文であるから、実質的には3例というべきだろう。

ローゼンツヴァイクは、知る人ぞ知る、ハイデガーと並ぶ現象学的実存(ないし先験)哲学の嚆矢ともみなされる存在で、その主著『救済の星』は英仏伊西など主要言語の翻訳はもちろん、最近は日本語の翻訳も出ているそうだ。ユダヤ系ドイツ人で大学の講壇を蹴ったせいもあってか、ハイデガーほど著名にはならなかったが、著作権問題は生じない没後70年を経て、フライブルク大学図書館が電子図書として公開している。僕もこれによって少し覗いてみたが、確かに上の文言が2度出てくる。しかし、文章は明晰なのだが、いかんせん門外漢にはチンプンカンプンだ。なんでも、神(Gott)と世界(Welt)と人間(Mensch)を互いに切り離せない三要素(Elemente)とみなし、論じ来たり論じ去って旧約聖書的な救済思想に至るらしいのだが、興味ある御仁は原文に当たるか翻訳書と格闘してほしい。僕はくじけかける途中で気づいてしまったのである、この書が世に出た頃(1921)には漱石はすでに泉下の人であったし、『行人』を書いたのは大正2(1913)年のことであったから、この文言の出典ではありえないことに。それに『グリトリ書簡集』(Gritli < Margrit Rosenstock-Huessy)と呼ばれる往復書簡集で、当のローゼンツヴァイクがこの文言を使いながら、「誰だかはっきりしないが、どこかに書いてあった」(1918.4.23)と言っているのである。

いま一つの用例はリヒァルト・フォスという人の『人二人(Zwei Menschen)』という長編小説にあった。主舞台は南チロル、激流アイザックでの救助をきっかけに愛し合うようになった若い男女貴族が、母親の信仰ゆえ男は聖職者に変身したため、永遠に結びつけない運命となる。「隔ての崖淵に二人は立つ。差し伸べる腕は空しく空を掴み、身にしみて知るはただ人間:男と女の大いなる悲劇である。人二人が一になることはできない、『人から人へ掛け渡す橋はない』ゆえに」、とまぁ『草枕』の画工風にさわりを訳してみたが、この作が世に出たのは1911年、当時40万部も売れたそうだから、何らかのきっかけで漱石の目にふれたかもしれない。といっても相当長い小説であるから全巻の半ばあたりに出てくるこの文言を直接そこから書き抜いたとも思えないのだが。日記・断片や書簡集にはヒントがみつからなかった。『行人』に出現する格言風ドイツ語(「孤独よ……」)の他の例は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』からの引用であることは明らかである。

お関の母親のいう「人橋」が、仲に人をたてて、の意味であることはいうまでもない。一葉の日記にはまたこんな歌もある。「たちまよふ 市(いち)のちまたの 塵のうちに つれなくすめる 月のかげ哉」。女ながらに戸主として、母と妹、そして己が身を養わんがため、悪戦苦闘する「晩年」、数えで23、満で21歳の頃の作である。

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【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

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【編集部から】
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『かのように』と『こころ』

2009年 7月 27日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(59)

漱石の『彼岸過迄』や『行人』の文体分析に関連して、ほぼ同時期の鷗外作品をのぞいていたら、今まで気にならなかったこんな一節が眼に飛び込んできた。「子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。」

「クラ独」の編集には及び腰で携わってきたものの、格別深い縁もなければ社史の類をみたこともなかったので、ここに「三省堂」とあるのが現在の三省堂と直結するか咄嗟に不明ではあった。しかし何だか遠い親戚のうわさを思いも寄らぬ所で耳にしたような感じがした。で、念のため、某社の百科事典をみると、どうやらこれは紛れもなく我らが三省堂のことらしい。この小説は明治45年、すなわち1912年の初めに公になったが、三省堂の創業は1881(明治14)年、英和辞書や日本通史、『辞林』で大当たりする一方、独自の印刷技術も開発し、「日本百科(大)事典」の編纂を企て、壮図半ば「1912」年に一旦倒産、有志の協賛を得て1919年に10巻本のそれを完成させた、とある。鷗外の何気ない「三省堂の世界地図」云々が、こういう背景と特にかかわりがあるかどうかは別にして、ちょっと面白く感じた。

この小説は『かのように』という意味ありげなタイトルをもっている。五條秀麿という主人公がベルリン留学の途次に折々送る家信を受けとった父母を描いた場面だが、表題はファイインガー (Hans Vaihinger, 1852-1933) の主著 “Die Philosophie des Als Ob” (1911) からきている。およそ人知の根底には「意識した嘘」(仮説)があり、あたかも実在する「かのように(als ob)」、公理や神や霊魂の措定が不可避だとする哲学を引用して、「国史」記述上の神話と歴史の峻別問題に直面し懊悩する「高等遊民」を扱った「小説」である。紀元節問題も絡むのであろう、真に学術的な「国史」執筆の企図を韜晦せざるをえず鬱々と日を送る主人公は作者の一分身でもあろうか。

この年7月30日、天皇崩御、「明治」45年は直ちに「大正」元年となった。改元の乱発より「一世一元」法は物事を長期的視点で考える意味では改善ではあるが、12月25日を境とする大正15年・昭和元年の切り替えや、1月7日を境とする昭和・平成の切り替えなどを直視すれば、やはり中途半端といわざるをえまい。まさか大正元年の出生者数や昭和63年の死亡者数は極端に少ない、などとは中学生でもいうまいが。

漱石の『こころ』は明治天皇崩御後ほぼ丸3年経つ時期に書かれ、「私」なる青年が私淑する「先生」が「明治の精神に殉死する」遺言をもって終わっている。青年「私」の「先生」への傾倒ぶり(一部、二部)や、「先生」の遺書からなる三部における「私」(先生)の述懐と自決にやや独りよがり(ないし説明不足)の感がすること、その他細かな点をあげつらう向きもあるが、何よりも人のこころの頼りなさ・不気味さ・憐れさに視点を定め、リアルで凝縮した描写が重ねられる点において、時をおき何度読み返してもその都度ひきこまれる魅力をもっているように感じられる。そもそも「こころ」とは、精神でも霊魂でも性根でも情念でもない、何か翻訳しきれぬ、もやもやしたものである。いわゆる上代特殊仮名遣いでは、「コ」も「ロ」も乙類に属し、“kokoro”ではなく、“kökörö”と表示される興味ある語でもある。私の気付いた「こころ」の歌3例を提示して、この項を閉じることにしよう。

(1)万葉集巻3 柿本人麻呂歌 
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 毛思<努>尓 古所念
あふみのみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ

(2)万葉集巻5 山上憶良
伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
はしきよし かくのみからに したひこし いもがこころの すべもすべなさ

(3)古今和歌集巻20
かひがねを さやにもみしが けけれなく よこほりふせる さやのなかやま


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
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われ、なれ、おれ--藪睨み人称代名詞考

2009年 4月 20日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(48)

オバマ氏の “Yes, we can!” が流行りかけ、たちまち凋んだようだが、その演説は「私(I)」ではなく「我々(we)」と呼びかけることを指摘する向きがあった。確かに選挙勝利演説2350語ほどのうち「私」は2‰足らず「我々」は26‰、一方6000語強の議会初演説では「私」が少し増えて12‰強、「我々」は18.5‰で、やはりオレ系は少し凹んでいる。こんな事が気になったのは、偶々ゲーテの『詩と真実』とシュレーバーの『ある神経症者の回想』の文体を並行して分析していたためだろう。後者Daniel Paul Schreber (1842~1911) は往時のザクセン王国判事の職にあるとき神経(精神?)に異常をきたし入院・隔離と復職・復権を繰り返して一種独特の体験記を書いたが、披見したS・フロイトが彼一流の解釈をし、今でも論議の的になっているためか、和訳すら存在している。原文は “z.B.” 、“u.s.w.” 、”wie” 、あるいは自己文の参照が多く、変に固まった閉鎖的な文体、といった印象をうけるが、この点は口述筆記を基盤にするゲーテと対照的であるのも当然であろう。細かなことは別にしてオバマ氏の例とからめ「私 “ich”」の使用率をみると、部分的に極めて高いことはあっても平均すると極端に高いわけではなかった。とりあえず一人称散文の代表として、ゾイメの自伝、ハイネの『思い出』、ビスマルクの自伝(一部)、それに無名氏の奇妙な小説『夜警』などを対照にとりあげて比較してみたのだが、シュレーバーは約21‰、ゲーテやビスマルクの16‰台にくらべれば高いが、ゾイメ(24‰)より低く、またハイネは抜群に低い(9‰弱)。ついでながら一般に接続詞 “und” の使用率は40‰前後を示すが、シュレーバーはこれが例外的に低く(16‰弱)、断断乎たる文を書くビスマルク(30‰)よりはるかに低い。「そして」ばかりでは小学生の文章だが、少なすぎると息苦しい感じを与えるように思われる。これが神経症や判事職と関連すると言いきれれば話しは面白いのだが、事はそう簡単ではない。

それにしても、古典語はさておき、人称代名詞が少なく安定しているヨーロッパの言語系にくらべると、日本語はなんともややこしいようだ。オレ、ワレ、ワイ、ワテ、おいら、わた(く)し(私)、わらは(妾)、あたし、あたい、あて、あっち、手前、それがし、やつがれ、余、予(輩)、自分、僕に拙者に我輩、おのれ(己)、古代ならば、あ・わ(吾、我)、ロドリゲスは17世紀初頭日本語の1人称を ”Vale” と転記、等等、1人称だけちょっと思い出しても結構な数で、おまけにワレやオノレなど状況次第で2人称にもなる。これを豊かとみることもできるし、「オレが、オレが」の嫌な社会になりにくい幸運な傍証ということもできるかもしれないが、自我ないし個の自覚の成立しにくい社会言語機構的表出かもしれず、『我と汝』などと簡明に省察するもかなわず、「オレオレ詐欺」に結構はまりやすい社会なのかもしれない……、まぁ下手な考察休むに似たりか。

実は現代日本語成立期の文学をぽつぽつ読み直すうち、「此乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない」という啖呵に共鳴し、これまで読まずに馬鹿にしていた『金色夜叉』に一応目を通してみたところ、「彼」がもっぱら「寛一」ではなく「宮さん」を指していること(そういえば漱石にも「彼」が女性を指す例もある)、そのうち「彼(か)の女」が「彼女」に、戦後中学生は「カノジョ」という音の響きに何となく胸ときめかした?となれば当節の小娘たちが「カレシー」などというのもまた宜なるかな、と、これ老の慨嘆。

注:‰ パー・ミル(per mill、千分率、プロミルとも)


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
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ダサイ話でごめんなさい

2009年 1月 26日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(36)

太宰治(津島修治)が旧制弘前高校から東京帝大仏文科に入ったのは1930(昭和5)年、21歳のことだった。第一作品集『晩年』(1936)の冒頭に置かれた小説『葉』の標語に、「選ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」いうヴェルレエヌの一句――故郷金木郊外の芦ノ湖公園にある記念碑には、表に日本語、裏にフランス語でこの句が彫られている――が、少々思わせぶりに掲げられているし、晩年の傑作とされ人気の高い小説に『ヴィヨンの妻』がある。おまけに往時京大には「太宰」某という仏文教授が活躍し、津島在学時の弘前高校には「鈴木信太郎」という校長がいた、というと、家長(兄)の意に反し小説家をめざす太宰・津島の仏文科志願の条件はそろっているようだ。ところが当人は実はフランス語が不得手で、単に入学試験がなかったことが仏文科を選んだ理由というし、筆名も太宰教授にあやかるものではなく太宰府に由来するとか、鈴木校長は『ヴィヨン訳詩集』で名高い鈴木信太郎東大教授とは無縁で、公金使い込みを指弾され津島をふくむ学生達に追い落とされた別人であったとか、調べてみると案外な事情がこぼれ出る。

作品に限っても、「青い花」やら「ダス・ゲマイネ」(津軽語では「ダカラ駄目ナンダ」という意味もあるらしいが)、クライストやらゲーテやらオイレンベルクやら、玉石混交ながらドイツ文学関係の言及が意外なほど多く、辰野先生への敬意はともかくとして、大学の授業にはほとんど出なかった仏文中退者には、高校でたたきこまれた獨語・独文学の影響が尾をひいているといえるのかもしれない。その際たるものが「古伝説と、シルレルの詩から」と明示された『走れメロス』であろう。シラー(Friedrich Schiller)の7行1連、計20連から成る雄勁直截な譚詩『人質(Bürgschaft)』は、主人公ダーモンの行動をひたすら追い、人質となる友の名すら出さないが、太宰の翻案作品はメロディーを思わせる名のメロスを主人公とし、その刎頸の交友をセリヌンティウスとして、さらに幾つかの小説的脚色を加えた470行、8600字余り。補足脚色した主な部分の第一は「暴君」に関するもので、その「邪知暴虐」ぶりと「ちょっとおくれて来るがいい」という悪魔的ささやき、第二は妹の婚礼と花婿へのことば、そして第三は最後の場面で、一瞬「信実」に背く邪念を抱いた友人同士が互いに殴りあい和解することと、ほとんど真裸のメロスに少女がマントを捧げるオチの場面である。むろん古伝説をしらない日本の読者には遥かに理解しやすく感激しやすく快い微笑すら促すものになっている。ただし勇み足もあるにはある。太宰は頃をあえて「初夏」とした。これは河の氾濫を念頭に日本の梅雨時を想定したのであろうが、シラクサ(シシリー島)付近では6月から8月にかけてほとんど雨は降らない。

例の如く「国松文庫」を整理していたら、太宰の『富嶽百景』(昭和18年1月初版)が収まっていた。新潮社から「昭和名作選集」の第28巻として出たもので、表題作品のほか『女生徒』や『駆け込み訴へ』など中期の問題作と並んで『走れメロス』が収録されている。初版1万2千部、定価1円、太宰の検印はあるが、和書の常で国松先生の蔵書印はない。


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【注】
国松文庫:『クラウン独和辞典』の礎を築かれた故国松孝二教授が一橋大学に寄贈された凡そ二万冊を収めている。


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

猫と文学―漱石「我輩は猫である」とホフマン「牡猫ムルの人生観」―

2008年 6月 30日 月曜日 筆者: 新井 皓士

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(15)

ネコ、フンジャッタ!ネコ、シンジャッタ?は、素人ピアニストの定番(!?)、それに近頃はペット用の墓地やら永代供養やら、社会施設も充実しつつあるらしい。だが犬猫など放し飼いが普通で専用食も特に商品化していなかった百年ほど前に遡ると、飼い猫が死んだからといってわざわざ書状で通知するのはかなり風変わりな奇特な行為であったに違いない。たかだか「一銭五厘」程度で人間男子の命も召集されかねない時代であったのだから。

さて洋の東西でかかる奇特・超俗な御仁を代表したのは、西にホフマン、東に漱石、かたや1821年ベルリンにあって愛猫「ムル」の死亡を友人知己に手書きで通知、こなた正式の名こそなけれ「我輩は猫である」氏の会葬お断りを1908年に友人知己に書き送っている。

いずれもその飼い猫をして人語を解せしめ小説界の一主人公たらしめているのだから、まずは相応の浮世の義理を果たしたことになるのだろう。こんなことを思い出したのは、後者の一節に「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」とヤンゴトない飼い主の御身分をガールフレンド「三毛子」から一口に説明されて「我輩」が目をパチクリさせる場面があり、猫よりは額が広いと自認する我らにも直ちにはピンとこない論理で気になっていたからである。もっとも「天璋院様」なるものについては、最近NHKが大河ドラマと称する番組で大々的に国民啓蒙?につとめているので何だかわかったような気分になりかけるのだが、矢張りおかしなことには変わりがない。

ホフマンと漱石の、飼い猫死亡通知

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【注】

注1  ホフマン:飼い猫死亡通知
„In der Nacht vom 29. zum 30. November d.J.
entschlief nach kurzem aber schweren Leiden, zu
einem bessern Daseyn mein geliebter Zögling,
der Kater Murr im vierten Jahr seines hoff=
nungsvollen Alters, welches irn theilnehmenden
Gönnern und Freunden ganz ergebenst anzuzeigen
nicht ermangle. Wer den verewigten Jüngling
kannte, wird meinen tiefen Schmerz gerecht finden
und ihn – durch Schweigen ehren.
Berlin d.30 novber 1821. Hoffmann

注2  漱石:飼い猫死亡通知
 「辱知猫儀久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人『三四郎』執筆中につき、御会葬には及び不申候。以上
  九月十四日」


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(5)

2008年 4月 14日 月曜日 筆者: 新井 皓士

【編集部から】
このたび『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

芥川龍之介とドイツ語

芥川龍之介の『その頃の赤門生活』に、獨逸大使「グラアフ・レックスからアルントの詩集を四冊貰」った、という一節がある。帝大の英文科学生時代のようで、第一次大戦直前の頃らしい。贈与の理由は「獨乙語の出来のよかりし為」とされるが、芥川は「喜多床に髪を刈りに行きし時、獨乙語の先生に順を譲」った為だろうと主張する。ともあれ芥川は後にこのアルントを値六円で手放し「爾来星霜を閲すること十余、僕のアルントを知らざることは」当時と変わらずと嘯いているのだが、このアルント選集そのものと推定されるものが、最近みつかった。『クラ独』の礎を築かれた故国松孝二教授が一橋大学に寄贈された凡そ二万冊中に「獨語授業の思い出の為に、1914年3月、獨逸帝国大使」と旧字筆記体で書かれた献辞のある四巻本がそれで、第一巻の一部に芥川の自筆らしい書き込みがある。因みに大使は八月に帰国、七月末をもって帝大を去るのはケーベル「先生」だった。

『芥川龍之介全集』(H10.05)第8巻p. 516 「その頃の赤門生活」
「アルントの詩集を四冊貰えり」:
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『芥川龍之介全集』第14巻(1996.12.9発行)のp. 312 にケーベル先生(Raphael von Koebelr 1848-1923)について、〈1893年6月10日から1914年7月31日まで東京帝国大学哲学科教員を務め、西洋哲学、美学、ラテン語、ドイツ語、ドイツ文学を講じた〉とある(注88-13)。また注89-4に、独逸大使レックスについて、〈1914年8月第1次大戦で日本が対独宣戦布告した当時の駐日大使。同月29日国交断絶のため帰国した。〉とある


【筆者プロフィール】
新井 皓士(あらい・ひろし)
放送大学特任教授・東京多摩学習センター所長 一橋大学名誉教授 
専門はドイツ文学・文体統計学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

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