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そのつど終りとする日日

2009年 2月 2日 月曜日 筆者: 藤井 忠

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(37)

クラウン独和執筆の頃のことを再び記します。単語の一つ一つについて原稿を書いていました。一語一語について、そのつど、終りとしていました。

辞書どくとくの制約のなかで、語義や用例など、ノートに書き出した諸々について、選択をし決断をします。選択・決断という大きな言葉を用いましたが、しかし、優柔不断な私には日日の執筆のなかで殊のほかこの事が意識されていました。

このようなときには、Resignationという言葉が浮かんできて心をとらえます。しかし一方には、限られたなかで、なお究めたいという気持がいきいきとあります。

最後は、三省堂特製の原稿用紙に書き記し(また何度か書き直したりして)、これで終り、とします。語によっては幾日かを、幾週間かを費やしました。場合によってはもっと多くの日日を経ていることもありました。頭はまだこの単語で燃えています。そっと枕に横たえたいが、眠るにはあまりにはげしく燃えたつのを感じています。

ところで、ある時から論文の原稿などはワープロに打ち込み始めました。文章が活字となって眼前にあり、自分の文をより客観的に見られるようになりました。しかも文の修正が実に容易になりました。だが、何時でも・何時までも・容易に修正できる、ということが、つまり無限に修正可能であるということが、微妙に作用してきたのです。「未完」であるという気分がいつもつきまとうのです。

さて、かくして一つの語について「終り」とすることができました。だが原稿は他の執筆者の眼を経ていくのであり、「完成」ではありません。この一語は形を得ることで、いまようやくその「途上」にある、と言ったほうがよいでしょう。私は机の上に置かれている語彙表にしたがって次の単語に向かうのであります。


【筆者プロフィール】
藤井 忠(ふじい・ただし)
横浜国立大学名誉教授
専門はオーストリア文学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(10)

2008年 5月 26日 月曜日 筆者: 藤井 忠

【編集部から】
このたび『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

この部屋のなかで

〈黒き鳥窓をよぎりて四角い空白に耐ふる朝となりけり〉。六十代半ばになって短歌を始めました。これは初めの頃の歌です。朝の倦怠は若い頃からありました。いまは、老いゆく者のそれです。目覚めのもやもやを断ち、一日を開始しなければなりません。曖昧な、危ない時間帯です。黒い影が窓を横切ったと思ったとき、茫漠たるものが意識されました。拒みえないものとして。歌は、[窓枠によって区切られた]四角い空白に「耐ふる」、となっております。辞書の仕事は、たいていは、こうした朝に始まる日日のなかでなされてきました。

机の上にさまざまの辞書を広げて、『クラウン独和』の原稿を書いておりました。部屋に入り、椅子に腰掛ければいいのです。だがこの部屋に入るのをひそかに避けようとしている自分に気づきます。何か理由をつくっては部屋に入るまいとしていました。そのうちに理由などこしらえることもなくなってゆくのであります。おそろしいことです。しかし幸いにも、私はすでにこの部屋のなかにおります。そして何時間も出ることはありません。

〈うたた寝の靄立ちくればうなじには堅き一枝生えいでてゐむ〉。うたた寝の朦朧のなか、ぼくのうなじから、木の枝が生え出ている、と、まどろみの中で感じているのです。椅子の背に凭れたままのうたた寝です。首筋が、硬くかたくなっています。――〈いまのこの椅子とひとつになりしわれ六本脚のけものなるらむ〉。じっと椅子に腰掛けているうちに椅子と一つになっていました。机に向かっているのは六本脚の獣、でありました。

〈身をかがめ辞書に耽るも朦朧のとき訪れるもこの部屋のなか〉。つまり、身をかがめて辞書を読み耽るのも・朦朧のときが訪れるのも・この部屋のなか、ということです。無論、食事のとき以外にも部屋を出ることがあります。たいていは、何をすることもなく戻ってくるのです。〈何せんと部屋を出でしか真夜中の体重計にのぼりをりたり〉。


【筆者プロフィール】
藤井 忠(ふじい・ただし)
横浜国立大学名誉教授
専門はオーストリア文学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員

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