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サイバン語と日常語の間―法廷用語言い換えコトハジメ 5

2008年 5月 25日 日曜日 筆者: 後藤 昭

被告人には裁判が分かっていたか

 「法廷用語の日常用語化」の作業で私たちが目指したのは、裁判員が、法廷でのやりとりを容易に理解できるようにすることである。そのために、法律家が裁判員に対してどう語るべきか、どう説明するべきかを考えてきた。これは、裁判員が参加する裁判を内実のあるものにするために、欠くことのできない作業であったと思う。

 しかし、刑事裁判が行われる法廷の風景を思い出し、そこにいる人々の顔を想像してみると、法律家でない人が常に重要な役割を担っていたことに気づく。それは、被告人である。被告人は法廷の不可欠の構成員であり、裁判の結果についてもっとも切実な利害を持つ当事者である。その被告人は、これまで法廷でのやりとりを理解していたであろうか。朗読される起訴状の意味が分かっていたであろうか。これまでの法廷でのやりとりが裁判員にとって理解しがたいものであるならば、それは被告人にとっても理解しがたいものであったに違いない。

 このことは、法廷通訳の役割を考えると、もっとはっきりする。私は、以前、日本への留学生に一定の研修をしたうえで、弁護士が外国人被疑者と面会するときの通訳を務めてもらうという計画に関わったことがある。それをきっかけに、さまざま言語の法廷通訳のために、手引き書や法律用語辞典が発行されているのを知った。法廷通訳のために研修会が行われ、熱心な通訳者たちは、独学でも法律を研究しているであろう。これらの機会を通じて、法廷通訳は、刑事裁判のしくみや法律用語について正確に理解し、的確な通訳ができるように訓練される。

 しかし、法廷通訳に裁判手続や法律用語の知識が要求されるということは、法廷でのやりとりの意味を正確に理解するには、日常用語の理解力では足りないことを意味している。それでは、通訳の付かないふつうの日本人の被告人は、どうなるか。日本語の日常用語しか知らない彼らには、裁判が理解できないことになる。これまでの刑事裁判では、被告人が裁判手続の進行や、裁判長から告げられることの意味を正確に理解できていたかどうか、非常に心許ない。

 このような問題は、おそらく外国にもあるだろう。カミュの小説「異邦人」の中に、主人公が法廷で被告人として聞いている議論が、自分とは別世界のできごとのように感じるという感覚が描かれている。作者は、現実の法廷を傍聴したか、あるいは裁判に関わった経験から着想を得て、法廷場面を詳しく書いたのかもしれない。この小説の哲学的な含意を理解することは、私には難しい。しかし、この場面を法律家的に解釈すれば、法廷での言葉遣いが、法律家ではない被告人に、隔絶感を生じさせるのだと思う。

 裁判員が参加する裁判では、法廷でのやりとりは日常言語の範囲で理解できるものでなければならない。一定の範囲で刑事裁判に特有な用語が登場することは避けられないけれども、法律家たちは、法律を学んだ経験のない人々にも容易に理解できるように、その意味を説明しなければならない。それに成功すれば、刑事裁判は被告人にとっても分かりやすいものになる。そのことには、裁判員制度の副産物という以上のだいじな意味があると思う。

筆者プロフィール

後藤昭(ごとう・あきら)
一橋大学大学院法学研究科教授。同大法科大学院長。法学博士。専門は刑事法・刑事司法。
研究分野は公的弁護制度や上訴制度、事実認定など多方面にわたる。
著書に『新版 わたしたちと裁判』(岩波ジュニア新書)、『捜査法の論理』(岩波書店)、共編・共著に『刑事訴訟法』『刑事法演習』(ともに有斐閣)、『実務家のための裁判員法入門』(現代人文社)、『岩波判例基本六法』(岩波書店)などがある。

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【編集部から】
来年から始まる裁判員制度。重大な刑事裁判に一般市民が裁判員として参加し、判決を下す制度です(⇒「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」)。
もし突然裁判員になったら……さまざまな不安が想像されます。自分以外にもっとふさわしい人がいるじゃないか、とは言っていられません。
不安な要素の一つとして、法廷で使われることばがわからなかったら、裁判の内容がわからなかったり、正しい判断ができないのではないか、ということが挙げられると思います。
日本弁護士連合会では「法廷用語の日常語化に関するプロジェクト」を発足、「これまで法律家だけが使ってきたことば、法廷でしか使われないことばを見直し、市民のみなさんが安心して参加できる法廷を作ろう」と、検討が重ねられてきました。
その報告書とともに、法律家向けに『裁判員時代の法廷用語』、一般の方向けに『やさしく読み解く裁判員のための法廷用語ハンドブック』の2冊が刊行されました。
ぜひこれを皆さまにご紹介したいと思い、このたびプロジェクトチームの方々からご寄稿いただいております。次回は「法と心理学」の専門家の先生が登場。

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