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耳の文化と目の文化(35)―地名の表記(9)―

2011年 12月 26日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(127)

スイスとオーストリアとに挟まれたアルプスの山間に日本の小豆島ぐらいの大きさの Liechtenstein リヒテンシュタインという公国がある。ここの公用語はドイツ語である。現代ドイツ語の正書法では ie という綴りは i の長音を表すから、この Liechtenstein という国名を見ると、リーヒテンシュタインと読みそうになってしまう。しかし、この Liecht- は中世語では「明るい、白く輝く」という意味の lieht [liəxt] であり、二重母音であった。また、Liechtenstein は「白く輝く岩山」という意味であった。この形容詞は現代ドイツ語では licht と短母音になったから、Liechtenstein という表記は中世語の綴りを残しているというわけである。ところで、ドイツにも同名や同じ形容詞を含む地名がある。例えば、ザクセン州には Lichtenstein があり、バイエルン州には Lichtenfels があるが、これらは licht と表記されている。

外来語は別として、ドイツ語の単一語の強勢は第一音節にある。しかし、ドイツの首都 Berlin ベルリーン、メクレンブルク=フォアポメルン州の州都 Schwerin シュヴェリーン、 ドイツ国境に近いポーランドの Szczecin シュチェチンのドイツ語名である Stettin シュテティーンなどは、最後の音節に強勢があり、母音は長音である。これらの地名がふつうのドイツ語のアクセントの位置とは異なるのは、これらがスラブ系言語起源のものだからである。

発音ということで言うならば、ゲーテが宰相を務めていたザクセン=ヴァイマル公国があった、現在のテューリンゲン州の Weimar ヴァイマル、メクレンブルク=フォアポメルン州のバルト海に臨む港町 Wismar ヴィスマル、また、ニーダーザクセン州にある、魔女が集まるというハルツ山地の麓の鉱山都市 Goslar ゴスラル、ゲーテの『若きウエルテルの悩み』の舞台となったヘッセン州の Wetzlar ヴェツラル、さらにはミュンヒェンを流れる川、Isar イーザルなどの地名の最後の音節も、例えば、日本では一般にはワイマール共和国と言われてきた場合のように、長く伸ばして読んでしまいそうである。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

【編集部から】

2008年2月『クラウン独和辞典』(第4版)の刊行を機に始めた本連載は、今回が最終回となります。長らくのご愛読ありがとうございました。

耳の文化と目の文化(34)―地名の表記(8)―

2011年 12月 12日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(125)

中部ドイツ、ザクセン=アンハルト州にある Wittenberg ヴィッテンベルクはルターが宗教改革を起こした町として有名であるが、この地名の Witten は低地ドイツ語の形容詞「白い」を意味する wit(英語:white)から来ており、-berg は「山」であるから、Wittenberg はもともとは「白い山」という意味だったことになる。ところで、Witten の en は形容詞の変化語尾、ないしは接合辞である。他方、同じ州のザーレ河畔にある、大聖堂で有名な Naumburg ナウムブルクの naum は「新しい」という意味の中世語の形容詞 niuwe と -burg「城塞」からできており、もともとは「あたらしい城塞」という意味であった。ただ、この naum- という形であるが、中世から近世にかけての表記では Nuwenburgum, Numburg, Nuwenburg, Nuenburc, Nawmborg などとなっているから、本来は変化語尾、ないしは接合辞だった en の n が -burg の両唇音 b に同化して同じく両唇音の m になったと考えられる。また、南西ドイツにあるバーデン=ヴュルテンベルク州の東半分、自動車メーカーのダイムラー=ベンツやポルシェのあるシュトゥットガルト、また、大学町のテュービンゲンなどのある地方は Württemberg ヴュルテンベルクと呼ばれる。この地方名の表記が公式に決められたのは1802年であるが、それ以前は時代を遡っていくと、1475年 Würtemperg,1153年 Werdeneberch,1139年 Wirdenberc,1092年 Wirtinisberg などとなっているから、Würtem の m も本来は n であった。後にこれが p(b) に同化して m になったと考えられる。同様にバイエルン州の、教会のたくさんある、カトリックの町 Bamberg も時代を遡って見ると、1174年 Bamberc,Bamberg,1138年 Babenberch,973年 Papinberc などの表記があるから、本来は「Papo/Babo(人名)の城塞」という意味であり、語尾は n であったのが b に引きずられて m になったと考えられる。
 
正書法ではふつうこのような環境による音の変化をいちいち記すことはなく、音素表記をするのが本来である。

ちなみに、首都ベルリンに次ぐ、ドイツ第二の大都会 Hamburg ハンブルクの Ham- は「川の湾曲部」を意味する初期中世ドイツ語 hamma,あるいは「柵で囲った放牧地」を意味する低地ドイツ語の hamme に由来するから、m はもともとの音である。他には、バイエルン州にある Krumbach クルムバッハも中世語の形容詞 krum[p]「曲がりくねった」-bach「川」であるからもともと m があったのである。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

【編集部から】

2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

耳の文化と目の文化(33)―地名の表記(7)―

2011年 11月 21日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(122)

ドイツ語正書法では [t] の音はtで表す。しかし、ギリシア語起源の Theater [tea:tɐ]「劇場」、Mathematik [matemati:k]「数学」、Mythe [my:tə]「神話」などの語はドイツ語では気息音のhがないにもかかわらず原語のまま th で表記される。

ところでこれとは関係はないが、ドイツ語圏の地名の中には [t] の音が th で表記されるものがある。中部ドイツの州の Thüringen テューリンゲン、バイエルン州の、ワーグナーの祝祭劇場で名高い Bayreuth バイロイト、ドイツで初めて鉄道がニュルンベルクから敷かれた Fürth フュルト、ドナウ河畔の Donauwörth ドーナウヴェルト、また、スイスの州の Thurgau トゥールガウや都市 Winterthur ヴィンタートゥーアなどである。

Thürigen の地名はゲルマン部族のひとつのテューリンゲン族に由来する。中世語では Duringen, Türingen などと書かれていたから t による表記でいいのだが、更にそれ以前の5世紀末にはラテン語で T[h]oringi, T[h]uringi と th による表記もあったので、近世以降はそれを基にしているとも考えられる。

Bayreuth の bay- は「バイエルン族」を意味する初期中世ドイツ語の Beiera、-reuth は「開墾地」を意味する riuti から来ている。従って、-reuth は -reut と表記してもいいものである。ちなみに、これには -rod[e], -rath, rad[e], -reut, ried などの異形がある(Gernrode ゲルンローデ(ザクセン=アンハルト州)、 Benrath ベンラート(ノルトライン=ヴェストファーレン州)、Autenried アウテンリート(バイエルン州))。

Fürth は Frankfurt フランクフルトの -furt と同じく、「歩いて渡れる川の浅瀬」を意味する語に由来するからこれも t の表記でいいものである。

Donauwörth の -wörth は中世語の「川中島」を意味する wert から来ているから、tの表記が本来である。-wörth は -werth、低地ドイツ語では -werder などの異形があり、このような地形は各地にあるので地名としては前に他の語をつけて区別している:Kaiserswerth カイザースヴェルト(ノルトライン=ヴェストファーレン州)、Finkenwerder フィンケンヴェルダー(ハンブルク州)。従って、Donauwörth はもともとは「ドナウ川の川中島」という意味である。

スイスの州名の Thurgau はこの州にある村のひとつ Turgi に由来する。従って、州名の Thurgau の th も t でもかまわないはずのものである。また、Winterthur という地名もケルト起源の名前にも基づくローマ人の居住地 Vitudurum に由来すると考えられているから、本来 -thur は tur と表記されてもいいものである。

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新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

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耳の文化と目の文化(32)―地名の表記(6)―

2011年 11月 14日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(121)

ドイツ語正書法では [f] の音は f で表記するが、Vater [fa:tɐ]「父親」、viel [fi:l]「たくさんの」、von [fɔn](前置詞)「…の」、verstehen [fɛɐʃte:ən]「理解する」などのように、v による歴史的表記のものが、少数ではあるが重要で頻繁に使われる語であるため、しぶとく残っている。(ちなみに、Universität [univɛrzitɛ:t]「大学」などの、ラテン語などからの借用語における v は [v] の音である。)

[f] の v による表記は地名ではけっこう残っている。とくに北ドイツで多く見られるようである。ニーダーザクセン州の Hannover ハノーファー、Vechta フェヒタ、ブレーメンとひとつの州を形成している Bremerhaven ブレーマーハーフェン、ブランデンブルク州と首都ベルリンを通ってエルベ川に流れ込む Havel ハーフェル川などの v はすべて [f] の音である。ただ、ビールの銘柄としても知られているニーダーザクセン州の Jever イェーファーはイェーヴァーとも発音される。また、Hannover の v は [f] の音であるが、Hannoveraner ハノヴェラーナー「ハノーファーの人」という派生語では、強勢が Hannover の v の前の [no] から Hannoveraner の v の後の [ra:] へ移動すると v は [v] の音になる。これはヴェルナーの法則と呼ばれるものであるが、このように v による表記は [f] と [v] がきわめて近い音であることを表している。

Bremerhaven の他にもニーダーザクセン州には Wilhelmshaven ヴィルヘルムスハーフェン、Cuxhaven クックスハーフェンがある。これらの語における haven は「港」の意味であり、これはもともと低地ドイツ語である。(ちなみに、英語にも haven「港」があり、その v は [v] の音である。)この低地ドイツ語が高地ドイツ語に入り、Hafen と f で書かれるようになった。従って、ラインラント=プファルツ州の Ludwigshafen ルードヴィヒスハーフェンもバーデン=ヴュルテンベルク州の Friedrichshafen フリードリヒスハーフェンも f で表記されている。

南ドイツにも v で書かれる地名として Vaihingen ファイヒンゲン、Villigen フィリゲンなどがある。これらの v も [f] の音を表している。ただ、Ravensburg ラーヴェンスブルクの v は [v] であるが、これもときに [f] の音で読まれることもあるようである。

ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市に製薬会社バイエルの本社がある Leverkusen レーヴァークーゼンがある。この v は [v] の音である。ただ、この町は化学者の Carl Leverkus にちなんで名付けられたので、人名に固有の要素もあるから一律には論じられないであろう。

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新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

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耳の文化と目の文化(31)―地名の表記(5)―

2011年 10月 24日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(118)

cで表記される地名は、これまで見てきたように、ラテン語に由来するものであればむしろcによる表記を近世以降にkに改めたものが多い。しかし、それでもなおcによる表記を保持しているものがある。それらはむしろ由来のわからなくなっている地名が多いようである。それは、まだ正書法の定まっていない時代に、cによる表記が目立つことから差異化などのために使われたものがそのまま受け継がれていると考えられる。また、人名などに由来するものであればその表記がそのまま受け継がれているようである。

ニーダーザクセン州のエルベ川の河口にCuxhavenクックスハーフェンという港町がある。havenは「港」であるが、cuxは低地ドイツ語の「堤防で囲んだ土地、干拓地」を意味するkoogに由来する。中世の表記にKuckeshaven、近世の表記にKoogshavenとあるから本来はcではなかったことになる。

バイエルン州の北部に位置するCoburgコーブルクは1530年にアウグスブルク帝国議会に出席できなかったルターが待機していた都市として知られている。burgは「城」を意味するのであろうが、coの語源は不明である。中世にはChoburc, Chonburchという表記もあり、一貫してc, chが使われている。

ブランデンブルク州のシュプレー河畔にあるCottbusコトブスは今日でもなおスラブ系のソルブ人が住んでいる。地名の語源はソルブ語の人名に由来すると考えられている。中世ではKottbuzと表記されることもあった。

ニーダーザクセン州のハルツ山の近くに鉱山都市として栄えたClausthalクラウスタールという都市がある。ここはノンアルコールビールの醸造所があったところとしても有名である。この地名は人名Nikolausニコラウス、Clausクラウスに関係があると思われる。Klausthalと表記されたこともあった。

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新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
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耳の文化と目の文化(30)―地名の表記(4)―

2011年 10月 17日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(117)

ゲルマン語以外の言語に由来するドイツの地名にはラテン系言語の他にはスラブ系言語に由来するものがある。これらの地名の中には、前回の場合とは反対に、本来はkによる表記でなくともc, chによって書かれることがある。

ザクセン州にあるKamenzカーメンツはレッシングの生まれた町であるが、この地名はスラブ系言語であるソルブ語の「石」を意味する語に由来する。近世にはCamenczという表記もあった。また、第二次世界大戦後、ドイツ民主共和国になってからの1953年からドイツ再統一の1990年までKarl-Marx-Stadtカール=マルクス=シュタットと呼ばれていた、ザクセン州のChemnitzケムニッツもKamenzと語源を同じくするが、ここはchでkの音を表している。この表記は1630年以降であり、それ以前はCameniz, Kameniz, Kemnitzと表記が変わっていった。

ゲルマン語に由来する地名の音[k]はもちろんkで表記する。バルト海に面した港町Kielキールの名前は「楔」を意味する中世低地ドイツ語のkilに由来する。これはKielが、海が陸地に深く入り込んで湾となったフィヨルドに臨んでいるという地形から来ている。

ただ、Kielをcで書かないのはラテン語に由来するものではないという理由だけではなく、前回のKehlもそうであるが、ci, ceのcは[k]ではなく、[ts]の音になるからである。ニーダーザクセン州にCelleツェレという町がある。この町の名前は「柄杓、池」を意味する中世ドイツ語のkelleに由来する。これだとCelleをcではなく、kで書いてもよさそうであるが、低地ドイツ語ではiやeの前のkは[ts]の音になるからであり、そのことがcによって表されているのである。

[ts]の音はドイツ語ではzで表記するのがふつうである。モーゼル河畔一帯はワインの一大産地であるが、その中流にZellツェルという町がある。ここにはワイン醸造と関係の深い修道院があったので、Zellという地名は「貯蔵室、居室」を意味するラテン語のcellaに由来すると考えられている。また実際に、中世ではCellaと表記されていた。

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新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
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耳の文化と目の文化(29)―地名の表記(3)―

2011年 10月 3日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(116)

ドイツ語の正書法では[k]の音はkで表し、cで書かれる語はラテン系言語からの外来語である(例:café「コーヒー店」)。また、本来cで表記される語であってもドイツ語の語としてはkで書かれるようになったものも多い(例:Kaffee「コーヒー」)。このことは地名に関しても言える。従って、ドイツの地名でありながらcで表記されたものはたいへん目立つように感じられる。

前回(第115回)、ウムラウトに関連して、Kölnケルンはローマ人によって建設された植民都市を意味するcoloniaに由来することを述べた。このKölnの表記はその語頭のkも本来はcであったがドイツ語の正書法に従いkになった。実際に、中世ではCöllenという表記もみられる。また、シュプレー河畔のベルリンにCöllnという地区があるが、これは1200年頃にライン河畔のKölnからやって来た入植者が故郷の町の名前に因んでつけた名前である。

紀元前後にローマ人が建設した植民都市はライン河畔の各地にある。ライン川にモーゼル川が流れ込む地点にあるKoblenzコブレンツはラテン語のconfluentes「合流」に由来し、1926年まではCoblenzと表記されていた。また、ライン川の発するボーデン湖に臨むKonstanzコンスタンツもローマ皇帝Constantius Chlorusの名前を冠したローマ人の要塞であったことによる。実際、中世ではConstantzと表記していた。

ラテン語に直接に由来しない場合もある。中部ドイツ、ヘッセン州にあるKasselカッセルはフランケン方言cassellaに基づくが、これはラテン語castellum「要塞」からの借用語である。Casselという表記も中世にはまだあった。また、南西ドイツのフライブルクからライン川を渡ってフランスのシュトラスブルク/ストラスブールへ向かう地点にKehlケールという町がある。この名前は中世ドイツ語のkanel「管、雨樋、溝、用水路、運河」に由来し、同じ意味のラテン語のcanalisからの借用語である。この場合、kanelはライン川の支流を指していると思われる。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

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耳の文化と目の文化(28)―地名の表記(2)―

2011年 4月 18日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(115)

ドイツ語のウムラウトは、ある単語の語幹の母音[a, o, u]が変化語尾や接尾辞の中の母音iに引き寄せられて[ɛ/ɛ:, œ/ø:, Y/y:] になる現象である:rot [ro:t]「赤い」 > rötlich [rø:tlIç]「赤味をおびた」、 Macht [maxt]「力」> mächtig [mɛçtIç]「強力な」。また、名詞の複数語尾の-e, -erや形容詞の比較変化語尾の-er, -estのeもiが弱化したものである:Buch [bu:x]「本」> Bücher [by:çɐ]「複数の本」、Nacht [naxt]「夜」> Nächte [nɛçtə]「複数の夜」、kalt [kalt]「寒い」> kälter [kɛltɐ]「もっと寒い」, kältest [kɛltəst]「いちばん寒い」。さらに形容詞の比較変化語尾の-stや強変化動詞の人称変化語尾 -st, -tもiがeに弱化した後に脱落したものである:jung [jUŋ]「若い」> jüngst [jYŋst]「最も若い」、fahren [fa:rən]「乗り物で行く」> du fährst [fɛ:ɐst]「君は乗り物で行く」、er fährt [fɛ:ɐt]「彼は乗り物で行く」。

地名にあっても同じで、Eichstättの-stättはStadt「都市」と同語源の「場所」を意味するStätteから来ており、この語の語尾のeはiの弱化したものである。Kölnはラテン語のcolonia「(ローマの)植民地」から、Münchenは古代・中世ドイツ語のmunich「僧侶」に由来するが、いずれにも母音iがあるのが確認できる。

ちなみにこのウムラウトという現象はドイツ語だけに起こるものではなく、語の語幹の母音a, o, u の後の方に母音iが来るという音声的環境があればどの言語にでも見られる普遍的なものである。日本語でも、うまい>うめー、知らない>知らねー、おもしろい>おもしれー、などの例を挙げることができよう。

ノルトライン=ヴェストファーレン州のルール地方にDuisburg [dy:sbUrk] デュースブルクという工業都市がある。この都市の名前のuiは本来は2重母音であり、ウムラウト音ではなかったと考えられる。それがuiのuが後のiに引き寄せられて [y:] となった。しかし、綴りの方はもとのままというわけである。

i がつねにウムラウトを引き起こすかというと必ずしもそうではない。ボンの近郊にTroisdorfという地名があるが、これは [tro:sdɔrf] トゥロースドルフと発音する。つまり、i はウムラウト記号ではなく、長音記号なのである。他には中部ドイツのチューリンゲン州の北部にVoigtstedt という町があるが、ここも [fo:ktʃtɛt]フォークトシュテットと発音する。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


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耳の文化と目の文化(27)―地名の表記(1)―

2011年 4月 4日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(113)

地名などの表記はこれまで見てきたような正書法が当てはまらない場合がある。例えばウムラウトの表記である。ウムラウトは現在の正書法ではa, o, uの母音の上に点をふたつ(¨)つけて、ä、ö、üのように表す。これは地名といえども同じである:Eichstättアイヒシュテト、Kölnケルン、 Münchenミュンヒェン。

この母音の上にふたつの点をつける表記法はそれほど古いものではない。中世、近世では母音の後や母音の上にeを書いて表していた。母音の上にふたつの点をつける現在の表記法はこのeを″によって省略したことに由来する。

北西ドイツにUelzen [Yltsən]ユルツェンという2つの同名の町がある。ひとつはニーダーザクセン州に、もうひとつはノルトライン=ヴェストファーレン州にある。この地名の[Y]という音を表記するのにUeとするかÜとするかは揺れていたらしく、ノルトライン=ヴェストファーレン州のユルツェンなどは現在のような表記にすることが公式に決まったのは1961年とのことである。また、メクレンブルク=フォアポメルン州の最東端、バルト海に臨むところにUeckermündeという町がある。この町の名前は「Uecker/Ucker川の河口」という意味に由来する。この川の名前のuはもともとは長音だったが、その後、長音を表すeを加えて、Ueckerという表記が生まれ、さらにその後、eがウムラウト記号と解釈されてÜckerという表記も現れ、Ue/Üは短音になった。この川はブランデンブルク州から流れ出るのであるが、今日では連邦地理院によって、ブランデンブルク州ではUcker、メクレンブルク=フォラポメルン州ではUecker とすることが決められている。従って、河口の町Ueckermündeは[YkɐgəmYndə]ユカーゲミュンデと発音する。

しかし、eが常にウムラウトを表しているかといえば必ずしもそうではない。ノルトライン=ヴェストファーレン州のユルツェンの東方25キロばかりのところにSoestという町があるがこれは[zo:st]ゾーストと発音する。つまり、eはウムラウトを表しているのではなく、長音記号なのである。このような表記の地名として他にはシュレースウィヒ=ホルシュタイン州にItzehoe [Itsəho:]イツェホーという地名がある。

ちなみに、eや他にもiを長音表記に使うのは低地ドイツ語に見られる表記法であり、上の地名の例もすべて低地ドイツ語地域のものである。


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新田 春夫(にった・はるお)
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耳の文化と目の文化(26)―正書法を乱すもの(2)―

2011年 2月 14日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(109)

ドイツ語の正書法を乱すものとして他には外来語がある。外国語にはドイツ語にない音の語や同じアルファベットで書かれていても読み方、発音が異なる語がある。

Restaurant [rɛstorã:]「レストラン」やToilette [toalɛtə]「トイレ」はフランス語からの外来語であるが、綴りも発音も原語のままである。au はドイツ語の正書法では [au] の音を表しているが、[o] と発音し、rant は [rant] ではなく、鼻母音のまま [rã:] である。また、oi もドイツ語正書法では [oi] と読むところであるが、[oa] と発音される。

Friseur [frizø:ɐ]「美容師」もフランス語からの外来語である。eu はドイツ語では [ɔy] の音を表すが、原語のままに [ø:] と読まれる。しかし、[ø:] はドイツ語にもある音であり、ドイツ語では ö と表記するので、Frisör と綴ることも認められている。また、Büro [byro:]「事務所」もフランス語の bureau から来ており、発音は強勢が後にあるなどフランス語のままであるが、表記は完全にドイツ語化している。

Streik [ʃtraik]「ストライキ」は英語の strike [straik] から来ているが、語頭の st を [ʃt] と発音し、英語の i [ai] を ei と表記し、語尾の e を省略して、完全にドイツ語化している。

Café [kafe:]「喫茶店」(フランス語)、Cello [tʃɛlo]「チェロ」(イタリア語)、Computer [kɔnpju:tɐ](英語)は原語の書法と発音が保持されている。c はドイツ語では使われないから、これらは外来語であることがすぐわかる。

Violine [vIoli:nə]「ヴァイオリン」(イタリア語)、privat [priva:t]「私的な」(ラテン語)などのv、また、Journalist [ɜUrnalIst]「ジャーナリスト」(フランス語)、Job [dɜɔp]「アルバイト」(英語)などのjはドイツ語の正書法ではそれぞれ [f], [j]の音を表すが、これらも原語の音が保持されている。

Chaos [ka:os]「混沌」(ギリシア語)、Chef [ʃɛf]「主任」(フランス語)、Couch [kautʃ]「寝椅子」(英語)などのchはドイツ語では [ç, x]の音を表すが、これらは原語の音をほぼ保持している。また、Philosophie [filozofi:]「哲学」、Thema [te:ma]「テーマ」、Rhythmus [rYtmUs]「リズム」などはギリシア語であり、ph, th, rh は本来、気音を伴った p, t, r であるが、ドイツ語では [f, t, r] となっている。ただ、表記はギリシア語のままである。しかし、Mikrophon [mikrofo:n]「マイク」などの -phon は Mikrofon のように f で書いてもよく、Telephon [telefo:n]「電話」は古形であり、Telefon と書くとされる。また、Panther [pantɐ]「豹」、Thunfisch [tu:nfIʃ] 「マグロ」は Panter, Tunfisch と書いてもいい。


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新田 春夫(にった・はるお)
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