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漢字の現在:済州島の文字

2015年 5月 18日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第290回 済州島の文字

 前回の記事から、1年が過ぎてしまった。この間、ことばと漢字を巡る仕事に追われ、一つ一つ対応していたのだが、ことばと漢字に関して新たに考えさせられることが増えてきた。韓国の南端にある済州島で開催された漢字に関する学会のことを書きつつ、触れていきたいと思う。

「品」の略字

 韓国の人が書く手書きのハングルは、今や横書きがほとんどで、崩したり続けたりした字形が目立つ。「ㄹ(リウル)」や「ㄷ(ティウッ)」(それより1画多い「t」の有気音の部分においても)が「乙」のように書かれる。なるほど、リウルを終声を表すために合字に取り込んだ韓国の国字では、「石」などの下に「乙」となったのも分かるような気がする。文字史の中では、チベット系の字形が影響しているとも言われるハングルだが、いずれにせよすでに独自の変化が生じていた。

 日本人は男性作家、若年女性などが「口」をしばしば「○」とサラッと書いて済ますが、こちらでは、「ㅁ」(m)をそう書けば、さすがに別の要素「ㅇ」(母音ないし音節末のngを表す)との衝突が起きるために、決して「○」とはならない。ここは日本人の速写による字形やかわいさ(漢字は丸くないので可愛くないとの評も女子学生から聞いた)を表出するための丸文字とは異なる。韓国でも、丸文字のようなものは見られるが、この角の有無が、字としての示差特徴として機能しているのである。

 横書きでは、ハングルの構成要素が下にはみ出したものもフォントにある。タイプライターなどでの苦しい表現がむしろデザインとして残ったものだろうが、かえって語末の発音が明示されて読みやすさが増す可能性がある。

 「ㅃ(双(サン)ピウプ)」では、日本でよく見る「品」の略字(「品」の略字(「品」の下の口口を日を90度倒した形))のように、縦線を共有するフォントも多数出回っている。そのように線をつなげて書く人も韓国では多く、そうしても元のように見えるし、気づいても隣接する線が重複していたことは自明なので、そこに目くじらを立てる人は少なそうだ。隣接する縦線が統合されることで、すっきりと見える効果も生じる。これは、中国では甲骨文字の時代から存在した書法であり、「兼筆」などと呼ばれている。音声面で、体育を「たいく」という類と似ている((機械が)「ピッて言う」は「ピッって言う」と書く人もいる)。形態素の面でも、「小学校校長」を「小学校長」とする類と共通性がある(「老老介護」「英英辞典」のように統合できない例もある)。

 古くにはあった非円唇後舌半広母音[ʌ]を表したとされる点の「ㆍ」(アレア)という過去の時代のハングルも、商品名などで散見される。しかし、これを読めない韓国から留学している大学院生もいて驚かされる。彼の国では、日本以上に古典離れが確実に進んでいるようだ。

 日本人が真似たハングルは、全体の形状だけでなく、ついはねてしまう筆法、筆勢などに違いが出るようだ。韓国の人たちの手で書く漢字には、字形、簡体字・繁体字を真似たような字体(「発」の末画の「ノ」と「一」とが離れる、「覧」の「臣」は「リ(垂直)」となるなど)にも特徴が現れていた。竹冠の形の個性も、中国に近いことがある。「人」に点を添加することも、古い中国の筆跡からであろう。小学校の国語教科書に、漢字を復活させてハングルと併記することを検討しているとの報道はごく最近のことであり、それ以前の状況である。

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 空港で韓国人の職員は、洋数字の「8」を、「6」のように書いて、そのまま「g」のような形になるように、2回とも書き上げていた。あるいは日本の金融界の字が影響したものなのだろうか。「E」も「乙」のように書いてから「一」を加えて仕上げていた。50歳くらいの女性だったが、韓国からの留学生の中にもそのように書く人がいた。こうした外来の字の書き方や形の相違は、何に起因するものなのだろうか。

 大学の封筒には、漢字が古印体で印刷されていた。今の日本と同じ字体だったが、「研究」の「研」だけはいわゆる康煕字典体で、旁の横線2本が切れた「硏」だった。一方、漢語だが「貴下」は、ハングルによって表記されていた。この意味はどのように理解されているのだろう。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「春の漢字」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

漢字の現在:春の漢字

2014年 5月 5日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第289回 春の漢字

 赤門をくぐる。昔、最高学府とは、この大学だけを指すことばだと思っていた。教室にも、さすがに眼光の鋭い受講者が多い。他大のレビューシートにはなかなか現れない語が、みな速書きながら読み取りやすい字形で書かれる。

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 この春には、縁あって旧著を一新したものも上梓した(『訓読みのはなし』 角川ソフィア文庫)。本をよく書きますね、と言われることがあるが、実際にはそれほど世には送れていない。私は急げば内容も表現も雑になりかねないので、編集の方々に迷惑をかけているが、ペースを守っていきたいと思っている。

 少子化の中、また学術研究がしにくい時代に大学に職を得、頑張って本を出せば本の売れない時代になっていた。学生は新聞もほとんど読まず、テレビも見なくなってきた。

 耳にする研究のための予算獲得合戦は、お隣の韓国でも熾烈なのだそうだ。日本よりも人口が少ないだけに、競争社会はより厳しいそうだ。ここしばらく書き続けている済州島で開かれた国際学会に参加してみて、やはりそこでも痛感したことは、漢字の研究者は日本以外の世界の国々には多いが、その関心のほとんどが漢字の起源(字源)、古代に向いているという現実だった。しかも日本で一般には人気のある字源説は、ほとんど顧みられていないことも分かる。世界中の漢字研究を結集する学会はまだない。

 「異体字」「異形字」という用語が中国語での発表で使われている。「異体字」は韓国語でもそのまま朝鮮漢字音で読まれて使われている。この用語が飛び交うようになったのは戦後のことで、学史的な研究を編んだならば日本が主導したものと分かることだろう。

 韓国は漢字を使わなくなってきたのに、漢字研究はまだ盛んである。ふだんの生活の中で使われないからこそ、康煕字典体のままでその煩瑣さが問題視されないのかもしれない。台湾にだって、かつては簡易化すべきかどうかという激しい議論があった。

 日本は皮肉なことに、漢字を字体はともかくこれほど複雑に使うことで日本語を表記しているのに、そして大抵の人が漢字で困ってもいるのに、現在に至るまでの動態に迫ろうとする研究があまりなされない。中国、韓国では自国の文字史を解明しようとする研究が盛んになってきている。

 懇親会では、中国語が飛び交う。「白酒」は、「しろざけ」ならばともかく、「パイチウ」はアルコール度数が高い。イッキ(一気飲み)で悲惨な事故も起きている。中国語圏の人たちはそれで親睦を深めるが、とくに日本人には無理は禁物のようだ。それでも、日本人の間で認知度が高まってきて、好きだという人もいる。「白湯」も「さゆ」よりも「パイタン」という読みが学生たちから出てくるようになってきた。この「湯」は中国ではスープの意であるため重言となるが、外来語の場合には「ハングル文字」(クルは文字の意 ハングル語は仮名語のような言い方)など、原語を知らない限り、やむを得ないものが多い。「重言」は、和語や漢語であっても時には仕方ない。「仮名文字」も「名」に文字の意があったといっても現代人には通じにくい。むしろ読み取りやすく、聞き取りやすくしている機能も見逃せない。

 そういう非公式的な場を含めて、済州島で出会った方々の名前について、見ておこう。相変わらず私を含め日本人の姓名はもとより漢字がほとんどだが、字数や字種、読みが中国っぽくない。欧米人は、姓名をマテオリッチの頃と同様に、漢字3字で音訳をしているので、むしろ漢民族風だ。国名「芬蘭」(フィンランド)のように、姓名を3字とも草冠でそろえたフランス人女性もいらした。お話を伺うと、そこはかとなくオリエント学の流れと香りも感じられた。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「済州島の鰒」でした。

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漢字の現在:済州島の鰒

2014年 3月 31日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第288回 済州島の鰒

 ここ済州島は、奇しくもアワビの名産地であるという。発表するテーマも、たまたまアワビを意味する「蚫」の国字・国訓説、「鮑」の国訓説に対して、日・中・韓の各種の古代文字資料を用いて、新たな疑問を呈するというものにしていた。

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 予稿が長くなったので、発表で話す箇所を絞らないといけない。中国語部分でも同様にしておかないと、うまく通訳してもらえないだろう。データも持っていかないといけないし、通訳して下さる先生とも事前に相談しておかないと、と気が急く。

 日本では、「鮑」か「蚫」という1字を訓読みでアワビと読ませるが、ひらがな・カタカナでも表記されている。寿司や中華料理の品書きでは「鮑」が優勢か。韓国では「全鰒」(チョンボク)という漢語らしき語をもっぱらハングルで書くようになっている。古くは「全卜」などとも表記されており、いずれか、あるいはいずれもが同音字による当て字なのかもしれない。中国語圏では「鮑魚」(バオユイ)と書かれる。

 済州島の食堂で出たスープにも、小さめのアワビがいくつも入っていた。アワビの子供かと思うほど、どれも小さい。江戸時代にも、アワビとトコブシはどう違うのかという同定に関する議論がなされていた。今では、貝殻の穴の数が5個以下のものはアワビ、6個以上はトコブシなどと規定されているようだ。4-5個と6-8個と、倍くらい違うのだともいう。スープの中に沈む貝を見る限り、穴は3つくらいだろうか(帰国後には、同じ頃にこの島にたまたま来ていたという人から、大きいアワビも食べたと聞いた)。

 先週の「串」という字に関する発表も、北京で聞いて下さっていた中国、台湾や韓国の方が何人もここにおいでになっていた。その最初の発表を覚えていて、話しかけてくださる。「串鮑」という食品もあったくらいで、何かとご縁を感じる。訴えかけた研究成果が国境まで越えて、異国の漢字研究者の心に届いたとすると、素直に嬉しく思う。

 いろいろなことがつながってくるのが漢字の面白いところだ。直前に「日本経済新聞」に「蚫」の字のことが取り上げてもらえたのも全くの偶然だったが、それを通訳を担当くださる方が人から教えられて読んでくださっていた、ということもそこで知った。

 今回は、せっかくの韓国ではあるが焼き肉は、なしだ。済州島まで来ると、食文化も人柄もだいぶ韓国本土とは違っていた。

 移動のための団体バス車内のモニターの画面に、今度は「渉(旧字体)地岬」と表示された。そして岬のことを韓国の固有語で「コジ」と言っている、つまり「串」だ! 海に面した地形の実際は車窓からは分かりにくいが、たぶん尖った岬なのだろう。韓国では今でもこの語が「串」(音読みはチョンなど)の「訓読み」となって、珍しいことに各地の地名に漢字表記としては保持されている。

 バス車内のビデオは、中国人向けに作られていた。

  柱状節離

病名かと思うと、洞窟の説明で、やはり中国語なのだろう。観光地では、係員に客の国籍の比率を尋ねられた。中国人が多いと伝えると、施設内を走る列車内の放送は、中国語のテープとなっていた。

 海外で受ける歓待には、いつも忝いものがある。こちらの食事は物価の点でやや安めだが、やはり昼から随分とご馳走が出てきた。逆に日本にいらしてくださった時には、とても同じようなお持てなしができない、とこぼす声をよく聞く。中国人の先生方に、盛りそばの上だか大だかを奮発して出したところ、こんなの食えるか、というふうになったとの笑い話もあるそうだ。日本人式の気持ちで、お返しするしかない。

 出された食べ物は残したらもったいないと躾けられたが、残させるのが大陸やここでのもてなし方だそうだ。本場の参鶏湯をいただく。骨付きの鶏肉が大きく、これは日本では3人前だ、と笑いが出る。太い高麗人参も贅沢にもまるまる1本浸かっている。

 店名が珍しく漢字であるのは、伝統料理を感じさせるためだろう。その「秘」は、示偏の旧字体ではなく、この俗字体のままであり、「苑」の草冠は「十十」となった筆字であった。ロゴになっており、1968年からとある。箸袋や、韓国らしい鉄の匙(毒で変色するため、昔、王様が使ったとされる)の袋、おしぼりの袋に、そのように印刷されていた。サムゲタンは「參鷄湯」と旧字体となっていたが、草冠は付いていない。この「湯」は、中国語と同じくスープの意である。この店では、珍しく店名にハングル表記がなかった。

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漢字の現在:済州島で見たフォントの字体

2014年 2月 24日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第287回 済州島で見たフォントの字体

 済州島を巡るバスの車内モニターに映った動画に、「城邑」と出た。この地名では、「邑」という字がきちんと意味を持っているようだ。この島にも民俗村が設けられていた。バスは雰囲気だけを動画で流して、そこを通過する。

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 島の名前である「済州島」と、行政区画としての「済州道」とは、韓国語では同音となり(細かくは道の方が母音が伸びるが、長短の区別も失われつつある)、ハングル表記でも区別を失う。文章中においても、文脈で必ず区別できるとは限らない。

 済州島でもらった日本語の名刺には、明朝体で「市」や「許」の1画目が縦線や横棒ではなく点、「内」という字は旧字体となっていた。

 「冬蟲夏草」「濟州道(しんにょうの点は1つ) 西歸浦市」ともあり、繁体字が多いが、「口座番号」の4字目は簡体字(略字・新字体)である。裏面を見ると、そこには「領收證」、「上のよう  丹を領收します.」とある。日本式略字の「円」はこの地では見慣れず、あるいは活字リストに見つけられず、形が似ている「丹」を入れたのだろう。

 教育関係の方々と交わした名刺には、中国や台湾の人向けなのか、康煕字典体の漢字が目立つ。「教(十をメ 旧)授(ツは下に開く 旧)」と印刷している韓国の人もいらした。「ソウル」やアパート名の部分は、ハングル表記だけという人もいらした。

 中国人でも、「鄭(続け字)州大学」と繁体字で印刷された名刺を渡して下さる人がいた。ロゴだろうか、標準的な字体として法律で定められている簡体字ではない。

 若い韓国人女性の名前に「孝順」があった。儒教的で、良い家のお嬢さんなのだそうだ。日本でも、昔ながらの「子」のつく女性は、成績がよい、虫歯が少ないといった調査結果を目にしたことがあるが、こうしたことを断定するためには、相当な規模の標本が必要なのだろう。

 奥さんが名刺を管理しているという中国の先生もいらした。訛りが強い中国人女性だった。そして漢字など知らなくても、中国語を話せる人は、中国にはたくさんいる。

 五つの味が混じり合った五味子茶の箱には、「茶(くさかんむりは十十)」が教科書体と古印体のような書体で、ハンコのように印刷されていた。日本人向けに、ゴシック体で「長時間熟成’発酵させたお茶で(改行),」などとある。改行の禁則が働いていないうえに、「,」を「’」と間違えて入れてしまった誤植が目に付く。

 「漢方」の「漢」と、「高級」の「級」が旧字体となっているのは、字体の細部については妥協した結果だろうか。日本でも意図的かどうかはともかく同様の代用行為は見られ、IVSなどが実現するとは思えなかった時期、JIS用語では「包摂」と呼ばれたものだった。

 「飲用方法」が明朝体で記された紙には、「飮み方法」「飲んで」「飲ん下さい」(ママ)と、JIS漢字の不統一に起因するような新旧字体の両用が見られる。日本語の印刷では珍しい韓国語風な分かち書きも、ところどころに施されている。そうした外国人による表記は、日本語の文字をコントロールすることの難しさをよく表している。そのような文字に関する不備とはうらはらに、このお茶はさっぱりと甘めでおいしい。

 簡体字の中では、「平(旧)」が明朝体・ゴシック体で現れている。日本では平凡社の社名でお馴染みのそれである。ゴシック体の「麗」は簡体字になっているが、なぜか「(麗-鹿)(麗-鹿)」と線が切れて設計されてしまっている。これも韓国で出回っているフォントのいたずらの一つだろうか。

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漢字の現在:済州島へ:漢字は見つかるか

2014年 1月 13日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第286回 済州島へ:漢字は見つかるか

 第284回で、「1F」が各国で「訓読み」されると述べた。ほかにも、「etc」は「エトセトラ」のほか、アメリカ人でも「アンドゥ・ソウ・オン」などと読む人がいるそうだ。日本では「などなど」「エトセトラ・エトセトラ」、中国では「deng3deng3」(等々)といった読みもなされている。

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 いよいよ済州島行きの飛行機に乗り込む。「エコノミークラス」は、もう少し良い名前はなかったのだろうか。「経済(舟+倉簡体字)(舟+倉簡体字)」は中国語であり、韓国語では「一般席」とハングルで書いてある。鉄道の「自由席」は、「指定席」よりもむしろよい名前を付けたものともいえそうだ。

 大韓航空機の機内では、トイレに「座席」だけが漢字で書かれていた。これは、誰のための表記なのだろうか。

 機内雑誌にはハングルばかりである。道中をともにする小学2年生は、そのハングルを見て「記号」、「何て書いてあるの?」「文字なの?」と尋ねる。「入口」をハングルで書いた「입구(ipku)」は「すごい変な」なんとか、と言っていた。

 近ごろ、女子学生は、ハングルをかわいいと言う。漢字はカクカクしているが(とくに明朝体は、という)、ハングルは丸があって可愛いと何人もが言う。韓流ブームのお陰もある。漢字も、隷書や楷書に変わる前は丸かった。明朝体と比べれば、丸ゴシック体はもちろん、ゴシック体さえもかわいいという。筆字らしさは、かわいさからほど遠く、古くさいのだろう。

 彼が日本語を探すと言って、見回すと、「あった」。

  300-600

表意文字であるアラビア数字だ。「51」も、日本人でも読めるからとのこと、確かにそう言える。「韓紙」への「ハンジ」というルビなども指摘する。そう言われて改めて見ると、確かに日本語の部分は文字体系がにぎやかだ。意味と読みとをおおまかに示せる。ハングルの中に、「名車」など、簡単な漢字だけ突然現れる。韓国人読者に対して目立たせるため、語義を特定するため、そして日本のように高級感を感じさせるためなのだろうか。

 この飛行機も出発がまた遅れ、2回連続で、出発前の機内食となった。

 非常口のことを「非常門」と、ハングルで書いてある。日本語の「非常口」と中国語の「太平門」を取り混ぜたようだ。これは、街中でも書いてあった。

 こうして数日の間に、抑揚の激しい声調言語である中国語の世界から、日本語の東京式アクセントの世界に戻り、韓国の無アクセントである標準語の世界へと移動する。かつて「案内(アンネ)マルスムル トゥリゲッスムニダー」と、金浦空港に響くテレビの映像で聞いた女性アナウンスの韓国語はアクセントはなくとも美しかった。日本語でも大阪のアクセントは抑揚の幅が大きい。韓国語も、釜山などアクセントを維持する地方もあるが、済州島方言はどうなのだろう。

 手数料がかからない空港内で、日本円をウォン(圓)に換金しよう。銀行の封筒には、「濟州銀行」というゴシック体と、それにさらにデザインを加えたようなロゴがプリントされている。その日本語部分には、「両替所(戸の左上部分がつながるもの)(所の旧字体 左上部分がつながるもの)の位置案内(ここは新字体)」、「出國換錢所(戸の左上部分がつながるもの)(所の旧字体 左上部分がつながるもの)」、「龍潭2洞」と、ゴシック体で印刷されている。

 「樂しいご旅(|はレとハネる)(旅 |はレとハネる)行になりますように.」と明朝体で記されているのには、異国情緒が感じられる。こうしたことについては、現地にだって日本語に詳しい人はたくさんいるだろうに、と多くの人が不思議がるところだ。表内に並ぶ「日字(Date)」「使用内譯(Used)」「殘額(Rest)」は、意図したところは何語だったのだろうか。

 手提げ袋に「名品」とある。やはり簡単な漢字だ。ハングルの中で、ハンコのような陰文で「美」とだけあるビニール袋ももらった。韓国社会では、概してカワイイことよりも美しいことに価値が置かれる。一方、成績の中で中位を占める「美」はハングルとなって、日本人がドレミのミの意味を解さないのと同様に、「美」であることが忘れられつつある。

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『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「『大漢和辞典』に隠れていた朝鮮国字」でした。

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漢字の現在:『大漢和辞典』に隠れていた朝鮮国字

2013年 11月 25日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第285回 『大漢和辞典』に隠れていた朝鮮国字

 20年以上前に、大修館書店からもらった綺麗なパンフレットに、『大漢和辞典』は、東洋の漢字を網羅した、というような文句が記されていた。東洋文化に関する情報を収めた一大事典としての意味があるとそこで謳われており、収録漢字などの面からはやや大げさな気もしていたが、実際に中国や日本の漢字、漢字熟語などのほかに、朝鮮や越南の王朝の皇帝の名や主な地名は熟語欄に収録されていた。

 そこには、おそらく避諱に配慮したり、同世代を表す輩行字を選んだり、五行相通を願って部首を行列字として順に付けていったり、一族を表す部首を通字・系字のように選んだりしたためであろうが、なんらかの部首の付いた独特な人名用の漢字が散見される。しかし、あくまでも固有名詞の中の字であり、見出し字に来ることはまずない。『字彙補』辺りが文献から律儀に引いてきたものは、辛うじて載っている、という程度である。

 『大漢和辞典』は、見出しにはない字であっても、中身をよく見ていくと、部分的ながら、朝鮮の国字も確かに載っていたのである。「田」の「参考」に、朝鮮では「(水×田)(水×田)」と書く、という注記がなされている。『大漢和辞典』を眺めていた頃に気付いたことの一つだ。編纂時には、漢字に関するさまざまな知識を持った人たちが携わっていたことが、こういう一事からもうかがえる。

 これは、写真植字で印刷をする段階では、作字をしていたのであろうから、そのまま拡大をして見出しにも立てても良さそうなものだった。

 この記載は、諸橋轍次記念館に保管されている『大漢和辞典』の校正刷り2種のうち初めの段階、つまり戦前の段階から存在していたのであった。思えば、この当時、植民地となっていた朝鮮の国字である。もちろん見出しにないこともあって「国字」というマークを打ってはいない。どのような価値をここに見いだし、どうしてこの項目の中に埋没させることを選んだのだろうか。

 「(馬+卜)(馬+卜)」という形声文字は、朝鮮より先に植民地となっていた台湾で行われた造字のようで、「台湾で特殊の船をいふ(いつた)」とある。他書にはそれらしきものを指す同様の発音の語はある。本書の独自の立項だが、「國字」とマークを入れている。台湾の人も編纂に携わっており、そうした人が原稿に書き込んだ結果かと推測される。

 「(水×田)(水×田)」の記述がその後、校正を経て、「国訓」の付録のような扱いから、「参考」へと移動し、音読み情報などが少し変わっているのは、この間にも、すでに散逸した編纂用のゲラなどの資料があったことを示す。ともあれ刊行される最後の段階まで、この目立たない部分が削除されずにバトンタッチされ続けたことに感服する。

 こういう漢字に関する蘊蓄が、「回」という字の中でも「参考」に注記されている。魯迅の小説『孔乙己』の中で、茴香豆の「回」には4通りの書き方があると語られるシーンがあるのだが、それらは、と具体例を示して推測が記されている。そのうちの『宋元以来俗字譜』から引かれる俗字「(囗+中に丨丨丨)(囗+中に丨丨丨)」などは、見出しに立っておらず、補遺にも掲げられないものだった。

 これは、少なくとも魯迅のこの作の発表(1919年、これを収録した『吶喊』刊行は1923年)以後に、編纂に携わった誰かが書き加えたものであろう。この俗字を実際に魯迅が想起したかどうか、それは定かではない。ただ言えることは、校正刷りの段階では、新旧いずれにもまだ書き込まれてさえいない記載であった。

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【筆者プロフィール】

『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ローマ字の訓読」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

漢字の現在:ローマ字の訓読

2013年 10月 28日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第284回 ローマ字の訓読

 昨年、東アジア内で種々の国際問題が表面化し、先鋭化する中、初めて韓国の済州島、現地読みでチェジュ(제주)島に向かった。

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 そこはローマ字ではよくJejuと綴るが、ジェジュよりもチェジュの方が原音に近い。韓国語では語頭に濁音が立たず、語中の清音(s音や濃音という発音などをのぞく)は自然に濁音化する。韓国のお好み焼き風の食品「チジミ」が「チヂミ」(지짐、찌짐)という仮名遣いでほぼ定着したのは、「縮み」と同様に同音の連呼による連濁とみなされた結果かと思われる。

 日本で、同じハングルが連続することがどこまで意識された結果だろうか。ともあれ、その現代仮名遣いは和語や漢語に適用されることは内閣告示・訓令で決まっているものの、外来語に適用されるものではなかったはずだ(別の内閣告示・訓令がある)。この先例にならえば、この島の名もカナ表記は「チェヂュ」となりそうなものだが、一貫しないのは日本の常である。その料理名は、ひらがなでも「ちぢみ」を見かける。

 成田のターミナルがどこになるのか、当日まで分からないというのも困る。早朝すぎてネットでもまだ出ていない。

 どうにか着いた成田空港では、場内で、

  深セン空港

とゴシック体で電光掲示板に表示されていた。「(土+川)(土+川)」という広東語の方言漢字がJIS第2水準に入らなかった影響は根深い。

 エスカレーターには、

  非常停止釦

とある。東京駅、新宿駅でもこの「釦」は用いられていた。

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 飛行場内では、多言語表示が見られる。

  1층(層) 1楼 1階

 これらは、「1F」ならば十分用途を足す。上記の韓国、中国、日本の各国語の漢字によるいずれの読みも可能なのである。第180回で韓国での使用に触発されてざっと触れたが、日本でもよく見られるものなので、ここで改めてより詳しく書こう。漢字にばかり、読みの自由さが指摘されるが、ローマ字だって場面によっては表意文字のように機能する。

 表音文字が表意文字として機能するのである。韓国語では「層」(chheung チュン)だが、中国語も「楼」(lou2 ロウ)のほか「層」(ceng2 ツォン)でも構わないそうだ。数字の表意性、超言語性の影響で、続くローマ字という表音文字までが記号のようになっているのか。あるいはローマ字が特定の文脈においては漢字的に使われ、文字がいきなり語義と結合して、読みのようにも見えるが、あくまでも意味と考えるとよいのか。ただの臨時の読みというには普遍的である。欧米人も、英語は当然だが、各国語で読むそうだ。

 心内での音声化、発話が多いのだろうが、もちろん読み上げも行われる。あるいは「F」は、漢字圏では漢字の代用と見るべきだろうか。語から見ると音読みだが、文字から見ると本来の読みから逸脱しており、その意味では「訓読み」といえる。日本語でいう訓読みは、和語という固有語などを出自とし、それを漢字にあてがって読む方法と読み方のことであった。漢文訓読がその原点であったと推測される。

 そこから外来語、さらに別の漢語出自の語での読みまで指すようになっている。漢字で本来的な読みではない読みを方言などであてがうことを中国でも「訓読」と読んでいる。読み方で「1F」を「1階」と読むのをどうとらえるかは、その観点によって変わってくる。

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『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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漢字の現在:パッと現れる「(イ+閃)」

2013年 10月 14日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第283回 パッと現れる「(イ+閃)(イ+閃)」

 『大漢和辞典』は、私にとってこの研究の世界に入る大きな原因を作ってくれた辞書だ。13巻にも及ぶ大部の漢和辞書であり、そこに難字が詰め込まれているのであるから、多少の瑕瑾があるのは当然だが、少年の頃には神々しく感じられ、漢字の世界へといざなわれた。今でも、中学生の頃にこれを買った、全部読んだなどという若者に会うと、ついつい声をかけてしまう。

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 5万字以上が収められた、その威容を誇る辞書には、それぞれの漢字や熟語に数多くの出典が用例文などとともに掲げられている。その中には、膨大な漢籍から適切な例を見付け出してきたものがある一方で、残念ながら時代の制約もあって孫引きされたような箇所もなくはないことが知られている。

 ともあれ、いわゆる漢字文化を検討する際には、避けて通ることのできない、東アジア、いや世界共有の一大文化財となっている。中国の研究者も、『大漢和辞典』が引けるようになるために、日本語を学習したという話も聞いた。

 韓国でも、これを基に、これを超えようとして大型辞書がいくつか編纂された。

 『漢語大字典』『漢語大詞典』のような中国の大型辞書ができた今でも、『大漢和辞典』と互いに引き比べると、補い合う記述が少なからず見つかる。

 この『大漢和辞典』の編纂過程を共同で追っている。ある方の紹介のお陰で、戦前から戦後にかけて、伝説ともなっているこの大作に費やされた刻苦の跡を、微かに、そして奇跡的に残っている物から確認をしているのである。

 その5万字の中に、まれに出典名が記されていない項目がある。それらには、かえってその字がどういう歴史的な背景を持つ字なのかという興味をそそられる。むしろこの大著の編纂過程の秘密を垣間見るきっかけを与えてくれる可能性があるものだ。

 個々の漢字の読みを見ていると、「パ」という信じがたいものだけが日本の字音のようにして示されている「(イ+閃)(イ+閃)」という項目がある(中国語音はウェード式の綴りでpa1、すなわちピンイン式ではba1 パー)。第1巻897ページ(1001番)、人部の10画の最後に吹き溜まりのような箇所に置かれていて、意味も、

  二人が初めて相會ふ意を表はす。

という。そんなところから、編纂時にふざけて造られ、入れられた字ではないか、1字くらいそういうものがあるのでは、と述べる、この辞書にたいへん詳しい方もいらした。ソフトウェアに隠されたイースターエッグのようなものか。あるいは複写防止のためのダミーなのか。

 ある日、原田種成氏によるこの大辞典に関する後年の述懐を読んでいたところ、ある時期、原稿に、『最新支那語大辞典』を取り込んだ、という一節に触れた。『大漢和辞典』の後書きなどの編纂工程に関する記述を具体化してくれるものとして、これは、とピンと来た。

 早速、石山福治編『最新支那語大辞典』(第一書房 1935年初版)を、古書店に注文し、さらに図書館でも調べてみると、新字をも採用していたその中国語辞典の紙面上にそれを見つけ得た。やはりこの「パ」という僻字は実はもとはそこにあったのであった。音は「ハ」となっているが、paという中国語の発音もローマ字で書かれていて、字義も等しかった。

 『大漢和辞典』は、新しめの辞書としては『中華大字典』『辞海』『辞源』『続辞源』までは書名を出してたが、その他の編著書名は示さなかったのだ。こういう使用例・他での収録例の乏しい字は、やはり辞書編纂・生成の秘密を解く突破口の一つとなり得るのである。

 なお、「(門+人)(門+人)」という字は、「急にとびだして人を驚かせるこえ」などという長い訓読みということで話題になることも多い。ただそれは実際には、漢文を訳したことによる説明的な語義に過ぎず、宋代の華南地方で使われた会意の俗字で、江戸時代にすでに面白がられ、やはり人を驚かす声で「ももんぐゎ」とも読まれた。かつて卒業論文を書く際に、古書の海に追い求めた漢字であった。

 この字は、パの字と字義で少し関係がありそうだが、字音はコク・ワクで遠い。ただこれも「閃」が基になっているに違いなく、この字の発生と使用に関連をもつ可能性はある。

 また、「(身+閃)(身+閃)」は、それよりも新しい字で、形声文字でセン、にげかくれる意なので、パとはより遠い。

 今度は、「(イ+閃)(イ+閃)」という会意風の新字が中国の何で使われていたのかが気になってくる。

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『漢字の現在』 『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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漢字の現在:変わる中国語、変わる漢字

2013年 9月 30日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第282回 変わる中国語、変わる漢字

 共産主義の象徴となった呼びかけや敬称の「同志」は、近年、中国では同性愛者という別の意味が生まれて広まってきた。単なる志を同じくする者という意味では使いにくくなった。「小姐(シャオジエ)」も、いかがわしい仕事に就いている人を指すようになったそうだ。

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 水道水は飲めない。「硬水」と印刷されたミネラルウォーターを手にする。日本では軟水が多く、これはお腹を壊す方ではないか、と疑う。仕方ないので、飲むとする。

 数百名が参集した研究会の記念撮影では、カメラの台が大きい。人いきれ、熱気が伝わってくる。140から150人くらいが乗ったか。後で各自でダウンロードしてと、URLが知らされた。中国では、IT化が著しい。

 最終日、中国の先生がお菓子屋さんでお土産を買って下さる。月餅はおいしそうだが、嵩張るために持ち帰れない。

 中国の飛行場では、「Eチケットお客様控え」を見せるために渡すと、係の男性は返してくれなかった。そこには気付いたことのメモなど書き込まなかったはずだが、少しだけ後ろ髪を引かれる。空港のターミナルを表す「1」と「I」は、注意をするように下の方に小さくは書かれていて、少なくともそこに書き込みはしていた。この数字は確かに互いに見分けが付きにくく、間違えてしまう人もいるのだろうと心配になる。

 空港内の韓国料理店には、「舎廊居」と看板が出ている。「sarangchae」という発音がハングルでも記されている。ここが中国だから、漢字表記を示したものかもしれない。

 「閉」の簡体字が隷書体で記されている。むろん隷書が実用されていた漢代には、そのような字形はなかった。草書を介したいわば「なんちゃって隷書」だ。日本だけの現象ではない。書体で雰囲気を醸しだすことに一役買っている手法である。

 入管も、笑顔と会話が絶えない、緊張感が薄いときに当たったようだ。

 帰りの中国機は、搭乗後、膝掛けの毛布が来るのを待ってしまっていたら、早々となくなってしまうなど、「耐心」のようなものが求められた。「空中小姐」すなわちCA(スチュワーデス この小姐は別格だそうだ)たちがずっとお話をしているなど、日本とは全く違った立ち居振る舞いをしているのが印象的だった。羽田行き、ANAと共同運航便だが、日本語ができる客室乗務員は、少なくともエコノミークラスには搭乗していなかったようだ。出発が遅れに遅れ、離陸前に、機内食が配られる状況となり、仕方なく食べていると、離陸に向けて俄に動き出し、慌てて回収に入る。

 機内の地図では、「日本海」が太平洋上に記されていた。ソウルは「首尓」、ホーチミン市は「胡志明市」、漢字圏を越えてバンコクも「曼谷」と、漢字で、漢字を当てて表記することによって、世界を認知するのが中国の人々なのである。

 トイレには「尿布」、何だろう、おしめ、おむつのことだった。

 機内で見た中国の時代劇では、旗に記された文字がゴシック体や明朝体になっていた。いずれにせよ作り物ではあるが、時代が合わず、少し興が冷める。

 2時間を超える大幅な遅れのために、羽田といえども電車もモノレールも終わっており、タクシーでの帰りを余儀なくされた。深夜に着くと、数時間前まで元気だったという金魚が水が急に悪くなったのか、3匹とも変わり果てた姿になっていた。2時間早くに着いていたら、と思うと悲しさが増した。

 続けて、韓国の済州島での口頭発表が待っている。

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 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、『方言漢字』(角川学芸出版)

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【編集部から】
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漢字の現在:香港の方言漢字

2013年 9月 23日 月曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第281回 香港の方言漢字

 中国のテレビに戻ると、

  胡志明市 芽庄

と、画面に映ったベトナムの地図で出てきた。前者はホーチミン市、つまり旧サイゴンだが、後者はどこだろう。南部の慶和(カインホア)省(Tỉnh Khánh Hòa)の「ニャチャン」だった。どことなく漢字音らしからぬ響きではあるが、この漢字のベトナム式の音読みだったのか。

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  俺

一人称だが、中国では方言に残っている。『水滸伝』で役者が用い、字幕に現れた。

  娘

「niang2」、この字も字幕で出てきたが、おばさんが対象だった。

  “嚼”

「かむ」という1語、1字だけを強調するような字幕も見られた。

 繰り返し記号は、まず出てこない。「好好好」のように、口頭での発話には同じ漢字を3つでも4つでも並べる。ただし、日常の手書きとなると、「々」のような記号がほとんど2画の形で続け書きされるのである。

  到底

中国では、日本と違って「ついに、そもそも、なんといっても」の意で、副詞であっても当然、漢字で書かれている。こうした文法機能の面からも表記に迷いの生じる日本語はやはり特異である。「千万」も副詞で「ぜひとも」の意であっても名詞であっても漢字だが、韓国語となると、すでに「どういたしまして」という意味で用いても、常にハングルでしか書かれなくなっている。日本のような表記選択の悩みは、ガラパゴス的な状況とも言える。

 天気予報は、広い国土の都市の写真とともに、淡々と淀みなく早口で天気を告げていく。中央電視台の「欧陽智薇」という、印象に残っていた理知的な女性キャスターは、すでに別の人に替わっていた。

 夕刻、日本との領土問題が報道されるさなか、白酒(パイジウ)でのカンペイ(ここでは乾杯は字義通り)の勧めには参った。屈すると許容量が違うために後悔することになるので、無粋ながら固辞し続ける。

 香港の人に、早稲田大学の教育学部で1年間、学んだことがあるという人がいた。あの古めかしい建物の話がよく理解できる。香港には、丸顔で目が大きく、眼鏡を掛けた小さい人が多い、といえば紋切り型のイメージと非難されそうだ。実際にはこの人は大きめだった。

 「有」から「=」を取り除いた「(モウ 無いという意)」(モウ 無いという意)のような方言字は、習うことがないとのことだ。どこで覚えるのかと聞くと、雑誌だそうだ。そんな雑誌は買ってはいけない、と先生に言われたが、それでも読むのだそうだ。香港や広東では、そうした方言漢字は手紙で覚える、という人もいる。怒るという意味の「嬲」(ナオ)について聞こうとしたところで、ほかの方がおいでになって尋ねそびれた。

 かつて、香港映画の「モウマンタイ」は、「No probrem」の意で、北京語の「没有問題」が相当する。日本では「無問題」と表記されていたが、日本人の分かる漢字で「訓読み」させるのではなく、現地式にこの奇妙な方言漢字を用いていれば、別のインパクトを与えられたかもしれない。

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