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日本語・教育・語彙 第12回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(7):ことばの意味の美しさとは

2016年 10月 7日 金曜日 筆者: 松下達彦

第12回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(7):
ことばの意味の美しさとは

 前回は「ことばの美しさ」と呼ばれるものの一つとして、音の美しさについて考えてみた。固い、柔らかいといった、個別の音の持つイメージはあるものの、結局は、音そのものがもっている美しさというよりは、その言葉の意味につながっているイメージや、美しいものに触れていると思いたいという願望のなせる業ではないかと考えた。では、ことばの「意味」の美しさとは何だろうか。

 ことばの美しさを考えるとき、私がいつも思い出すエピソードがある。以前、大学で学ぶ留学生たちを引率して小学校を訪問し、小学校5年生と交流した授業でのことである。中国から来たある学生が、中国語について簡単な紹介をした。中国でも漢字を使うが発音は日本語とは全然違うという話をするために紙に「幸福」と大書して子どもたちに見せ、「シンフー」と、ゆっくり、はっきりと発音して見せた。その後、小学校の先生から送られてきた子どもの感想の中に、○○さんが教えてくれた「シンフー」という言葉は、とても美しいことばだと思った、幸せが伝わってきた、というのがあった。おそらく「幸福」という漢字を見せずに「シンフー」と発音しても、美しいという感想は出てこなかったに違いない。また、この学生が、気持ちを込めてゆっくりと発音したことが、「幸福」という感じをよく伝えていた。ラジオ講座のゲストの発音をテープで聞いても、おそらく美しいという感想はなかったに違いない。「幸福」という語の意味だけが美しさを運んだわけではない。

 また、詩人の茨木のり子の「美しい言葉とは」という文章を、高校生の頃に国語の教科書で読んだ記憶がある。改めて調べてみると、発見を持った言葉、正確な言葉、と並んで、「体験の組織化」がなされた言葉は美しいと述べられ、例として石垣りんの詩「崖」が取り上げられている。この詩は、戦時中にサイパン島で追い詰められて身を投げた女性たちのことをうたったもので、心地よさを残すような美ではない。心に突き刺さるような鋭さのある詩であろう。「体験の組織化」とは難しい表現だが、体験をただそのまま述べるのではなく、時間をかけて体の中を潜り抜け、沈殿したことばを、反芻し、練りあげることを「組織化」と呼んでいるように思う。高校生の当時、私は、これを「美しい」と呼ぶことにある種の違和感を覚えたが、だからこそ印象に残っているのだろう。茨木は、印象に残る言葉は美しい言葉である、とも述べている。茨木の言う美しさは、簡単に死なない「ことばの生命力」とでも呼ぶべきものに違いない。

 ことばの意味の美しさとは、結局、ことばの形式そのものの美しさではなく、「ことばで表現されているものの美しさ」であるから、ある言語で醜いものを表現すれば醜い言語になるし、美しいものを表現すれば美しい言語になる。したがって、特定の○○語(例えば日本語)を美しいと称える態度は、その意味でも大いに怪しい。

 「日本語は美しい」は誤っているとしても「美しい日本語」はある、という議論は可能である。ただ、その場合も、表されているものが美しいだけかもしれないし、その言葉の使い手が美しいのかもしれない。表されているものが美しいのであれば、それを○○語に訳しても美しいに違いない。「美しい○○語」ということになる。ことばの使い手が美しいのであれば、ほかの人が言っても美しくないものが、その人の言葉になると美しくなるのかもしれない。(上述の茨城のり子も、美しい言葉を真似してもその人と同じ美しさを維持することはできず、「言葉とは、その人間に固有のもの」で、普遍的に美しい言葉があるのかどうか疑わしいと述べている。)例えば吉永小百合が詩の朗読をすれば、それが原爆の詩であったとしても、ある種の美しさを感じる気がする。それは詩の内容が真実を伝える鍛えられた言葉であるからなのか、詩の朗読が上手いからなのか、読み手が美しいからなのか。おそらくは、それらが複合的にある種の美を形成しているのだろう。

 詩も文学も言語による芸術である。そのような芸術を数多く生み出せる言語は、美を生み出せる言語である。しかし、同じ言語でも表現の仕方でいくらでも醜くなる。例えば「日本語は美しい」という人間でも日本語によるヘイトスピーチを美しいとは言わないだろう。

 

参考文献

茨木のり子(1983)「美しい言葉とは」大岡信・谷川俊太郎編『現代の詩人 7 茨木のり子』中央公論新社(初出『図書』1970年3月号)

 

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【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は第4金曜日を予定しております。

日本語・教育・語彙 第11回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(6):ことばの音の美しさとは

2016年 8月 26日 金曜日 筆者: 松下達彦

第11回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(6):
ことばの音の美しさとは

 第7回から第10回までは、「正しい日本語」を定めにくいケースについて、上位語による下位語の代用(例:「静かな住宅街」)、語彙不足が引き起こす隠喩(メタファー)的な意味拡張(例:「海に包まれた街」「木の掃除機」)、擬音語・擬態語(例:「ガビーン」)を取り上げてきた。これらは日本語ナショナリズムに対するささやかな抵抗のつもりで、「ことばをたくさん知っていればいいというものでもない」という例として書いてきた。知らなくても困らない、あるいは知らないことが逆におもしろい表現を生むという例を挙げてきた。そのようにしてことばは時代を経て変化しているのである。

 今度はことばの「美しさ」について考えてみたい。言語には基本的に形と意味がある。形には音と文字がある。文字の美しさは極めれば書道になるのであろうが、これはもう一般の言語使用を越えた芸術領域であるので、ここでは論じる用意がない。

 音の美しさについては、例えば母音の多く含まれる言語は柔らく聞こえるとか、子音が多ければリズミカルに聞こえやすいといったことがあるかもしれない。明治安田生命のウェブサイトによれば、2015年の女の子との名前(読み方)のトップ5はハナ、ユイ、メイ、アオイ、コハルで、k, t, s といった破裂や摩擦を含む音が非常に少ない。アオイに至ってはすべて母音である。(漢字の「葵」はすべての女の子の名前の中でトップである。)男の子の方のトップ5はハルト、ソウタ、ユウト、ハルキ、ユイトである。男の子の名前もさほど硬い感じはしないが、女の子に比べると明らかにk, t, sの割合は多い。女と男のどちらが「美しい」かということを論じるつもりはないが、性別の印象が音の印象と関係しているということは言えるであろう(音の印象に関する研究は間違いなく存在するが、それを正しく引用できるだけの知識はないのでやめておく)。

 ただ、音に対する印象がどの程度普遍的なものか、というのは、ちょっと怪しい。先日、日本語非母語の芥川賞作家の楊逸(ヤン・イー)が、シリン・ネザマフィ(作品が芥川賞候補になったイラン人作家)との対談で「日本語って、すごく速い」「速い分、リズム感が強くて、非常に響きがいい」(『文學界』2009年11月号)と語っているのを読み、驚いた。私はむしろ、楊逸の母語である中国語にそのような印象を持っていたからだ(ネザマフィも「中国語のほうが速い気がする」と述べている)。結局わかりにくいものはより速く聞こえるということなのだろうか。

 「○○語は美しい」とか「○○語は歌のように聞こえる」といったことを様々な言語について聞いたことがある。日本語を勉強している中国人が日本語についてそういうのを聞いたことがあるし、中国語を勉強している日本人から中国語についてそういうのを聞いたこともある。どちらも美しくて歌のような言語なのかもしれないが、音韻の体系は全くと言ってよいほど似ていない。

 結局のところ、音そのものがもっている美しさよりも、その言葉につながっている何かのイメージがそうさせているか、美しいものに触れていると思いたいという願望がそうさせているのではないかという気がする。例えば、フランスのファッションを美しいと思えば、フランス語まで美しく聞こえるというようなことではないかという気がしてならない。それと同じで、ナショナリストが「日本語を美しい」と称えたところで、そうかなと疑念を抱くわけである。言葉を美しいと思うこと自体に大した罪はない。むしろ好ましい面もあるだろう。それぞれの言語にそれなりの美しさがあるのかもしれない。しかし、根拠もなくある言語をほかの言語よりも美しいと外に向かって主張する態度には政治的なものを感じるのである。

 

参考文献

「【特別対談】私たちはなぜ日本語で書くのか/ 楊逸×シリン・ネザマフィ」『文學界』2009年11月号

 

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松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
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日本語・教育・語彙 第10回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(5):擬音語・擬態語をめぐって

2016年 7月 22日 金曜日 筆者: 松下達彦

第10回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(5):
擬音語・擬態語をめぐって

 「正しい日本語」をめぐって、第7回では「静かな住宅街」と「閑静な住宅街」について論じた。これは意味的な上位語(「静かな」)は、文脈の支えがあれば下位語(「閑静な」)の意味を表現し得る、ということであった。これはどちらも言語の規範的なルールにのっとった表現で、ただ、意味の限定の範囲の広さが異なるだけである。

 第8回では「海に包まれた街」という表現について、普通の表現ではないが、文芸的におもしろい表現として受け入れられる可能性について論じた。第9回では、子どもが発した「木の掃除機」「薬の賞味期限」などの表現について取り上げた。自分の知っている語の用法を本来は使われない文脈へ拡張することで、言語運用能力の不足を補う優れたストラテジーであることを論じ、同じようなことは留学生などの非母語話者にも頻繁に生じるということを説明した。第8回、第9回で論じたのは、実は隠喩(メタファー)による意味の拡張で、言語規範の一部をやむを得ず、あるいはわざと回避したうえで、意図したことを伝えるという技法であった。

 

 今回は、そもそも何が規範なのかを決めにくい例として、擬音語・擬態語(オノマトペとも言われる)を取り上げたい。

 擬音語・擬態語は、実は以前の日本語能力試験においては、範囲外だと公表されていた。日本語には擬音語・擬態語がたくさんあり、わからないと日常生活でもかなり不便だと思うが、それでも範囲外だった。おそらく、何が正解かを明快に説明するのが難しいと考えたからであろう。雨が降るのは、なぜザーザーでサーサーではないのか、と聞かれても、みんながそう呼んでいるから、としか言いようがないのだが、実は普通の言語はそのような自然発生的なルールでできているので、本来は擬音語・擬態語だけを特別扱いする理由はないはずである。では、なぜ特別扱いされたのであろうか。

 それは、擬音語・擬態語の創造性にあると思われる。時代の移り変わりとともに新しい語が次々に出てくるが、その多くはすでにある語構成要素の組み合わせやその短縮(例:「ドタキャン」「ボキャ貧」)であったり、外来語であったりする。まったく新しい語構成要素が作り出されることはほとんどないのであるが、その例外が擬音語・擬態語である。漫画を見れば、既存の語構成要素を含まない新語が次々に生み出されていることがわかる。いまでは定着度の高い表現と言える「ガーン」などもマンガに由来するという情報がネット上に散見される。定着度は不明だが、「ガビーン」もマンガに由来するようである。「ガチョーン」など、テレビ番組に由来すると言われるものもある。大野(2009)によれば、現代の短歌や俳句でも新しい擬音語・擬態語が使われているらしい。

 擬音語・擬態語は音や状態を言葉で表現したものなので、音や状態の切り取り方について、社会的に共通のルールを明確に説明しにくい以上、誤りだと言いにくいのであろう。しかも、同じことを表現するのに、他の言語にもオノマトペがあることが少なくない。以前、私が中国に留学していたころ、よく世界各地から来た留学生たちとオノマトペの話題になった。おまえの国の鶏はどう鳴くんだと聞かれて「コケコッコー」だと言ったら大笑いされたことがある。絶対そんなふうには鳴いていないというのだが、じゃあ、お前の国ではどう鳴くんだと聞くと、「オ、オオー」だという。どうも鳴き方が1回少ない気がするが、それを日本語の表現として使ったら間違いかと言われれば、そうとも言えない。そう聞こえたのだから、そう表現してもいいはずである。猫のことをニャーニャーではなく、ミューミューと鳴いていると書いたところで、それは誤りとはいえないであろう。

 しかも、オノマトペには複数の言語でかなり共通性の高いものとそうでないものがあるようだ。牛の鳴き声は中国でもモウモウらしい。英語の猫の鳴き声のミューミューは鼻音(鼻から抜く音)だという点ではニャーニャーと同じである。日本語でもミャーミャーは猫に使うであろう。コケコッコーとクックドゥルドゥルドゥー(英語)はかなり違うように見えるが、実は子音のほとんどが破裂音(k,dなど)で、二重子音(促音の「ッ」)を含んでいるという点では共通である。なまじっか共通性があるだけに、どれが正しい、という規範を決めるのも難しい。他言語の擬音語・擬態語を日本語に移し替えて使えば、それはそれでおもしろい表現として受け入れられるかもしれない。

 

参考文献

大野純子(2009)「現代短歌・俳句に見る新語オノマトペ ―既存のオノマトペからの派生をとりあげて―」『大正大學研究紀要 人間學部・文學部』94, pp.184-172.

 

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日本語・教育・語彙 第9回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(4):「木の掃除機(!?)」をめぐって

2016年 6月 24日 金曜日 筆者: 松下達彦

第9回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(4):
「木の掃除機(!?)」をめぐって

 前回、留学生の書いた作文に見られた「海に包まれた街」という表現を紹介した。これはおそらく「囲む」という語を知らなかったために「包む」で代用した結果、期せずして生まれたおもしろい隠喩(メタファー)である。街を小包のようなものに見立て、それを「包む」と表現したことで町全体が立体的に青く包まれているイメージを喚起する。

 語彙が不足しているために、他の語で代用した結果、ユニークな表現が生じるのは、母語話者の子どもにも頻繁にみられる。私の娘の幼児期のおもしろい表現に「木の掃除機」「薬の賞味期限」がある。近所の子どもが「男の犬」と言ったのを聞いたこともある。

 「木の掃除機」は箒(ほうき)のことである。彼女は先に掃除機を知っていて、そのあとで箒について学習したために、このような表現が生じた。「掃除機」が「機械」であるということを知らなかった一方で、掃除機が掃除をするために使われるという機能は理解していたのである。「掃除‘器’」と漢字を変えれば通じる表現かもしれないと思わずうなった。

 「薬の賞味期限」は「賞味期限」が「食品」に使われるということを無視して、それを薬に適用したために生まれた表現である。確かにおいしい薬もあるな、とほくそ笑んだ。「男の犬」は言うまでもなく、オスの犬のことだが、「男」が人間であるという意味を無視している。

 これらの例を見てわかるように、ある語の用法の拡張は、その語の意味を構成する複数の意味要素(意義素とも呼ばれる)の一部を回避することによって生じる。

 例えば「そよ風が微笑んでいる」と言えば風を人に見立てる擬人法(これも隠喩の一種)だが、これは「微笑む」は人がすることという意味要素を意図的に回避している。昔(おそらく1970年代)、「頭がピーマン」という表現が少し流行した。「頭が空っぽ」で中身がないという意味だが、「頭がピーマン」も「頭が空っぽ」も隠喩である。前者はピーマンが持つ属性のうち中が空っぽというところだけに着目し、食品であるという意味は完全に回避している。「頭が空っぽ」は頭を箱か何かに見立てた表現だと感じられるが、「空っぽ」が本来使われるべき物理的な空間の意味は回避されているのである。隠喩は類似性に基づく意味の拡張なので、何かと何かが似ていれば、その他の意味要素は回避される。ある部分が回避されて本来のところからズレることで表現としてのおもしろさが出てくるのである。

 自分の知っている語の意味を本来使われるべき文脈以外のところへ拡張することで、言語運用能力の不足を補うというのは、実はかなり優れた能力で、コミュニケーション上の方略[communication strategy]とも呼べるものである。そのようなことができれば、外国語学習の早い段階からその言葉を「使える」ようになる。そうして生まれた新しい表現が社会に広まって定着すると言語変化と呼ばれるようになる。「頭が空っぽ」や「頭の中が白くなる」なども初めは臨時的な表現として誰かが使ったのであろう。それが優れた表現であったために定着したものと思われる。「アクセスする」はコンピュータの普及に伴って用法が拡張している語だが、このように社会の変化に伴って用法が拡張することもある(注1)。

 このような表現を生み出すチャンスは、子どもや、留学生などの非母語話者にも十分にあり得ることであろう。表現をずらすことで言いたいことが何とか伝えられるようになるからである。

 

参考文献

注1:国立国語研究所(2006)「『外来語』言い換え提案 第1回~第4回 総集編」によると、「アクセス」は「定着に向かっている語だと思われ,「アクセス」をそのまま用いることにさほど問題のない場面も多いと思われる。ただし,60歳以上では半数以上が分からない語であり,言い換えや説明付与が望まれる場合も多い。」とされている。

 

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日本語・教育・語彙 第8回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(3):「海に包まれた街」をめぐって

2016年 5月 27日 金曜日 筆者: 松下達彦

第8回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(3):
「海に包まれた街」をめぐって

 以前、日本語の授業で自分の育った場所を紹介する作文課題を出したことがある。するとある学生が「大連は海に包まれた街です」と書いた。私は前回、ことばの正しさを「意図したとおりに通じる」「受け手の気分を害さない」の二つから説明できるとした。ここでは「海に囲まれた街」と言いたいことはよくわかった。その意味では、意図は通じていると思われるし、特に気分を害する表現でもない。

 日本語教育を担当していると、このような表現によく出会う。そして考えさせられる。これに赤ペンを入れるべきかどうか、と。「包む」と「囲む」を比べると、前者は立体的で、後者は平面的だ。大連は、ご存知の方もいるかと思うが、海に突き出した半島の町で、三方を海に「囲まれて」いる。

 だが、私は「海に包まれた街」という表現を見た瞬間に、かつて大連の海辺を訪れた時の青い空と青い海に「包まれた」ような、美しい光景を思い出した。いや、正確には街全体が立体的に包まれたようなイメージを喚起されたのである。

 「海に包まれた街」は隠喩(メタファー)である。「街」をモノに見立て、「海」を、それを包む布か紙に見立てたような比喩である。おそらくこれを書いた学生は、ただ「囲む」と「包む」の違いがわかっていなかったか、「囲む」という語を知らなかっただけであろう。この2語の違いは、日本語教師としては教えるべきであろう。しかし、「海に包まれた街」があまりに素敵な表現だったので、そこに赤を入れることはためらわれた。これは「月曜日」を「火曜日」と間違えるのとは、質もレベルも異なる“誤り”である。

 このことは、少し広げて考えると、近年、母語以外の言語で書く作家や、クリオール(二つの言語が混ざってできたピジン[pidgin]が母語化した言語)の作家が全世界的に注目を集めていることとも関係していると思われる。すなわち、母語使用者にはないような発想が新たな表現を生んでいるということである。

 私の好きな日本語作家のひとり、デビット・ゾペティは、スイスで生まれ育ったが、母親がアメリカ人で、家では英語、学校ではフランス語を使い、ドイツ語もイタリア語も身に着けて育った人である。そんな彼が日本語で書いたデビュー作『いちげんさん』(集英社)は、すばる文学賞を受賞し、芥川賞の候補にもなったが、そのレトリック(修辞、表現技巧)が評価された面が大いにあるであろうことは読んでみればすぐにわかる。

 ことばの規範(正しさ)も美しさも、その言語社会の中で時間をかけて作られていくものであり、その時々に少しずつ変化していくものである。母語でない人がそれを作ることに参加できないわけがない。

 

参考文献

デビット・ゾペティ(1997)『いちげんさん』集英社

 

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日本語・教育・語彙 第7回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(2):「静かな住宅街」をめぐって

2016年 4月 29日 金曜日 筆者: 松下達彦

第7回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(2):
「静かな住宅街」をめぐって

 前回は「日本語ブームの気持ち悪さ」というサブタイトルで、日本語ナショナリズムをめぐる論点として「正しさ」「美しさ」とは何かということ、暗誦教育の問題点、日本語力衰退の処方箋、古典的教養とは何か、という四つの論点を挙げた。まずは「正しさ」から攻めてみたい。

 「正しさ」とは何だろうか。一般的には倫理的に間違っていないとか、法を犯していないといったことのように思われる。justiceは正義と訳されることが多いが、正義といえば、平等などの人権思想を表す概念ではないかと思う。社会言語学や文法論では言語の規範について数多く論じられているが、少なくとも日本語に関しては、法によって規範的だと定められている言語体系はない。戸籍法の施行細則に規定されている人名用漢字を除けば、言語使用に制限はないように思われる。常用漢字のように内閣告示で示されているものや、文化審議会国語分科会(以前の国語審議会に相当)の答申などもあり、マスメディアがそれぞれ定めている表記やことば遣いの規範などもあるが、例えばそれを破ったからといって罪に問われることはない。

 

 では、ことばについての「正しさ」とは何だろうか。私は一言でいえば「意図したとおりに通じる」ということと「受け手の気分を害さない」の二つで、ほとんど説明できると考えている。この二つは、言語の機能を二分する場合に言われる指示的機能[referential function]と感情的機能[emotive function](Ogden & Richards, 1923)とも対応する。

 「意図したとおりに通じる」ことには、実はいくつかのレベルがある。例えば「月曜日」のことを「火曜日」と言えば、待ち合わせには失敗するはずである。その意味では「月曜日」は「月曜日」であり、ほかの曜日ではありえない。月曜日というのは1週間の7日間のうち、日曜日の次の日であるということを了解しているからこそ、通じる概念である。カレンダーが存在し、それを社会で共有しているから通じるのである。日本語に規範を定めた法律はないと書いたが、実は学校教育によってある程度言葉の規範は作られ、受け継がれており、辞書や文法書にも言葉の規範は記述されている。

 では、「閑静な住宅街」を「静かな住宅街」と表現したらどうであろうか。「閑静」はgoo辞書(デジタル大辞泉)では「もの静かで、落ち着いたさま」と説明されている。「閑静な」はいろいろある「静かな」状態の一種であろう。言語学では、このような場合、「静かな」は「閑静な」の上位語であるというが、要は「静かな」は「閑静な」の意味の一部を表現していると言えるだろう。日本語教育の観点からは、「閑静な」は上級レベルの低頻度語であり、「静かな」は初級レベルの高頻度語である。「静かな」を知っていても「閑静な」を知らない学習者は多い。

 しかし、例えば「(この辺は)静かな住宅街です」と表現されれば、多くの場合、言葉の受け手は「静かで」「落ち着いた」「住宅街」すなわち「閑静な住宅街」という意味に理解するであろう。つまり言葉の送り手は意図したとおりに意味を伝えられる。一般的に「静かだが落ち着かない住宅街」というのは想定しにくいであろうし、「閑静な住宅街」が決まった表現としてよく使われるため「静かな」と言われたら「閑静な」を連想するということもあるからである。

 言語教育では、「静かな」のような語は他の多くの概念を表現するのに必要な基礎語で、「閑静な」「静粛な」などの多くの類義語の中心にあるプロトタイプ的な語と呼ばれ、使用頻度も高く、先に学ばれるべきだとされる。

 「閑静な」のような語は、洗練された[sophisticated]語と言い、頻度も基礎語よりは下がる。意味的にも基礎語に何か特別なニュアンス(この場合は「落ち着いた」)を加えた語であることが多い。知らないよりは知っているほうが良い。しかし、知らなければ生きていけないかと言えば、そうでもない。相対的な重要度は下がる。

 ことばの正しさをめぐる議論に立ち戻って言えば、「閑静な住宅街」を「静かな住宅街」としか言えなかったとしても、それを誤りだというのは言い過ぎであろう。ほぼ送り手の意図したとおりに理解されるだろうから。多くの日本語教師は、基礎語彙を駆使して難しいことを表現できる学習者に出会ったことがある。かなり多くのことは基礎的な語の組み合わせで表現できるのである。

 昔、中国に留学していたとき、「かなづち」を表す中国語を知らず、宿舎の管理人に「くぎを打つ道具」を貸してください、と言ったら「かなづち」が出てきた。「かなづち」は上級で「くぎ」は中級、「打つ」「道具」は初級語彙である。言語を学ぶときに初級レベルの基礎語彙が重要なわけである。

 

参考文献

Ogden, C.K. and Richards, I.A. (1923). The Meaning of Meaning. New York: Harcourt, Brace and World. (石橋幸太郎訳『意味の意味』新泉社)

 

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【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は不定期の金曜日を予定しております。

日本語・教育・語彙 第6回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(1):日本語ブームの気持ち悪さ

2016年 3月 11日 金曜日 筆者: 松下達彦

第6回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(1):
日本語ブームの気持ち悪さ

 日本語ブームと言われた時期がある。大野晋『日本語練習帳』(1999年、岩波書店)、齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(2001年、草思社)などがベストセラーになり、漢字検定の受験がブームになった時期である。(主催者のサイトによれば、2000年度に約158万人だった志願者が、わずか2年間で約204万人に増え、その後、2008年度の289万人まで増え続けていた。)このブームは規範的な日本語(いわゆる「正しい日本語」)や古典的教養の強調といった考え方を広めた。これらは例えば藤原正彦『国家の品格』(2005年、新潮社)、坂東真理子『女性の品格』(2007年、PHP研究所)などがベストセラーになったことにもつながっているように思われる。また、教育実践の面では暗誦や朗読を学校教育に広めることにもつながった。ブーム自体が続いているかどうかは定かではないが、基本的にこれらの考え方や実践がいまでもある程度広がっているとは言えるだろう。

 一方、これらの考え方や実践に対しては、さまざまな批判も出てきた。特に一連の「日本語ナショナリズム」批判は、これらの問題を主に権威主義的、中央集権的、国家主義(ナショナリズム)的な言語観を広めるという観点から批判してきた(小森2003牲川2006田林2003など)。

 実は私自身も上述の日本語ブームに対して、気持ち悪さを感じている一人である。「日本語教育を仕事にしています」というと、しばしば日本語を愛し、素朴に日本語や日本文化の素晴らしさを広める愛国者のように思われたりするのであるが、実は、私に限らず、多くの日本語教師はそのような言われ方にある種の落ち着かない気分を感じている。しかし、ただ、気持ち悪がっているだけではいけないと思うので、これから数回にわたって、その理由について説明し、日本語の規範(「正しい日本語」)に対する考え方や「日本語の美しさ」をめぐる言説の問題点を解き明かしてみたいと思う。

 既存の日本語ナショナリズム批判には納得できる点が多く、大きく反対するところは少ない。ただ、そこでの議論は具体的に何が問題なのかをわかりやすく提示する力が欠けている。そこでここでは、留学生等に対する日本語教育を担当してきた経験から、できるだけ具体的な例を挙げ、わかりやすい表現で議論したいと思う。また、学術界のみで議論しても意味のない議論であるので、政策決定にかかわる人々を含む、専門でない人にも通じる議論を展開したい。引用もインターネットで読めるものを中心にしようと思う。実際の世論は読まれるところで作られていくと考えるからである。

 初回なので、おおよその論点を思いつくままに挙げてみる。

 第1に、「正しい日本語」についてであるが、私たち留学生教育担当者は、限られた語彙や文法表現でも、高いコミュニケーション能力を持つ学生がいること、また、その逆を知っている。それはなぜだろうか。一言でいえば「難しい日本語」をたくさん知っていれば日本語運用力やコミュニケーション力が上がるとは一概に言えないということである。「正しい日本語」や「美しい日本語」と考えられるような言葉を知らなくても人間性は伝わるものであるし、ことばの美しさには音の美しさと意味の美しさがあり、少なくとも後者は言葉そのものの中にあるというよりは、その言葉を使う人間や社会の中にある。

 第2に、「暗誦教育の問題点」である。暗誦がすべて悪いわけではないが、暗誦をたくさんすれば日本語力がつくなどというのは、リアリティを欠いた幻想、妄想に近い。いちばんの問題は、「コミュニケーションには相手がいる」ということを忘れさせる実践が広まることの弊害である。

 第3に、「日本語力衰退の処方箋」である。上述のブームの背景に日本語力の衰退という議論があることを取り上げ、その回復に必要な処方箋は決して名文の暗誦ではないということを論じたい。俗に言われる日本語力衰退には様々な側面があるが、一番問題なのはコミュニケーションの意欲が減退していることだと思われる。特に自分とは異質の人間と触れ合うことに臆病な若い世代が増えているようにも感じられる。この点を解決するには自尊感情を育てること、地域での場づくりなど、ことばの教育を超えた側面を持っていることを主張したい。

 第4に「古典的教養とは何か」ということである。いかなる芸術作品も読み手や社会背景との関係によって解釈が成立する。それを無視してただただ暗誦すれば教養が身につくなどというのは幻想も甚だしいと思う次第である。

 まだあるような気がするが、これらの点について、次回から順に述べていきたいと思う。

 

参考文献

小森陽一(2003)「日本語ブームとナショナリズム」『日本語教育』116, pp.1-4

牲川波都季(2006) 「戦後日本語教育史研究の課題―日本語ナショナリズムに関する文献レビューから」『横浜国立大学留学生センター教育研究論集』13, pp.31-51
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/1451/1/KJ00004471866.pdfで閲覧可能)

田林 葉(2003) 「ジェンダー、地域、年齢などによる差異と 「正しい」日本語の規範」『政策科学』10(3), pp.97-112
http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/103/103_08_tabayashi.pdf#search=’%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E+%E6%89%B9%E5%88%A4′で閲覧可能)

 

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松下達彦(まつした・たつひこ)
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第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
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日本語・教育・語彙 第5回 日本語教育の民主化と語彙(5):アイデンティティと語彙

2016年 1月 29日 金曜日 筆者: 松下達彦

第5回 日本語教育の民主化と語彙(5):
アイデンティティと語彙

 第二言語の習得にはアイデンティティが関係していると言われる。

 料理やサッカーやダンスなどの活動は、そういった活動が好きな人たちにとっては、優れた言語学習活動にもなり得る。それは、前回書いたように言葉が文脈化されるということもあるが、それに加えて参加者のアイデンティティに関係することであるからだと思う。

 杉原(2003)は、会話分析の手法で、会話参加者を「日本人/外国人」のようにカテゴリー化してしまいやすい質問として、「日本では……ですが、○○ではどうですか」というように文化や国籍に基づく質問と「日本語では……」と日本語使用について指摘することの2種類を指摘した。これらはいずれも日本語教育の場でも頻繁に見られる場面である。杉原はこの2種類をすべて避けるべきだとは言っていないが、一人ひとりの多様なアイデンティティが現れるような会話も含まれるべきであると述べている。

 誰でも性別、年齢はもちろん、趣味、専門、仕事、家族内での地位、母文化など多様なアイデンティティをもっている。そういったものが教室の場で浮かび出ることにより、学習者は委縮せずに自分らしさを出せるようになってくる。日本語学習者を「ただの日本語学習者」に押し込めていてはいけないのである。学習者はただ日本語学習者であるだけでなく、同時にアニメオタクであったり環境科学の研究者であったりもするのである。料理の好きな人は料理で交流することで自分を表現できる。例えば私が日本語の通じないところへ行けば言語的にはマイノリティ(少数者)になるが、同時に野球と将棋と歌が好きで、英語と中国語を話す応用言語学者で日本語教師で、夫で、父親で、名古屋出身で、阪神タイガース・ファンで……という具合にアイデンティティが層をなして重なっている。例えば英語を話すのに四苦八苦しているときに野球の話で盛り上がることができれば、私は「外国人」の地位を脱出し、野球ファンとして相手とつながれるのである。

 

 前回と今回は、コミュニケーションを言葉に頼りすぎないほうがよい場合があるということを書いた。人と人とが結びつくためには、学習者を学習者の地位に押し込めず、多様なアイデンティティを引き出すことが大切である。言葉が十分に使えないのであれば、言葉以外につながれる何かを探せばよい。そこで言葉が文脈化されていけば言葉が身についてくる。言葉を使う場合、音声や文法以上に、語彙が直接に人間のアイデンティティに関わり得るということは自然に理解されるであろう。それは語彙が音声や文法以上に直接に意味を担っているからである。

参考文献

杉原由美(2003)「地域の多文化間対話活動における参加者のカテゴリー化実践―エスノメソドロジーの視点から―」『世界の日本語教育』13、国際交流基金日本語国際センター
http://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/archive/globe/13/001__018.PDFで閲覧可能)

 

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第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
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日本語・教育・語彙 第4回 日本語教育の民主化と語彙(4):ことばの文脈化

2015年 12月 30日 水曜日 筆者: 松下達彦

第4回 日本語教育の民主化と語彙(4):
ことばの文脈化

 前回まで、第二言語教育(例えば日本で日本語が母語でない人に日本語を教えること)ではマイノリティ心理への配慮が必要なこと、音声や文法に比べて語彙には臨界期の影響が少ないため語彙に力を入れることでマイノリティ心理に配慮しやすいこと、リキャスト(誤った日本語を“さりげなく正しい形に直した返事”)が重要なスキルであること、などを述べてきた。今回は、「ことばを文脈化する」ことの重要性をマイノリティ心理の側面から述べてみたい。

 

 目標言語(勉強している言語)を使って友だちができればその言語を勉強する意欲は増すであろうし、その逆もまたしかりである。日本語でなかなか友達ができない、うまく人間関係がいかない、となると日本語を勉強するのがいやになりやすい、ということは自然に理解されるであろう。

 日本語ができなければ友達を作るのは難しいだろう、と思われるかもしれないが、実はそうとは言い切れないようである。日本語があまりできなくても友達をうまく作れる人もいるし、日本語がうまいのにうまく友達を作れない人もいる。友達をうまく作れる人は、その先日本語も上達することが多い。ことばができるようになって初めて友達が作れると思う人も多いが、実は逆で、友達がうまく作れる人がことばもうまくなると考えたほうがよいように思われてならない。

 私はことばが通じなくても心が通じたという経験について書かれたものを見つけてはストックしているが、例えば、沢木耕太郎『深夜特急』にはそのような旅の経験がつづられているし、池澤夏樹の小説『タマリンドの木』には主人公の日本人女性がカンボジアで動作を交えて子どもたちにクメール語(カンボジアの主要言語)を教えてもらうという経験が語られる印象的なシーンがある。聾(ろう)者の女優、忍足亜希子さんが以前、海外に出たときにことばの通じない人たちが、お互いを知るために何とかしてコミュニケートしようとしてきたという経験について書いていたのを読んだこともある。

 では、どうすればことばがあまりできないときに友達が作れるであろうか。ことばによるコミュニケーションに頼りすぎない、ということが大切である気がする。例えば、いっしょに料理をする、サッカーをする、ダンスをする、というように体を使う活動がよい。逆説的であるが、ことばを上達させるためには、ことばに頼りすぎないほうがよい、ということかもしれないのである。ことばに頼りすぎずにまずは人間関係を構築し、それからことばを習得していけばよい。

 ことばは人と人をつなぐものでもあるが、別の面からみれば、人と人を隔てるものでもある(と言っていたのは言語学者の津田幸男氏だったか)。すなわち、共通言語があればつながれるが、共通言語がない場合、ことばに頼ろうとするほど、かえって隔たってしまうのである。そんなときはことば以外のコミュニケーションツールから入るのがいいに違いない。

 料理やサッカーやダンスは、少ないことばで表現できるメディアである。また、ことばが文脈化[contextualize]されることも重要である。「ニンジンを」と言いながら「ニンジン」を手に取り、「切って」といいながら切れば、「ニンジン」「切って」の意味は理解しやすい。ことばと状況が1対1で結びつけばわかりやすい。以前、ある教え子がメキシコに短期留学して、エクササイズのクラスに参加したら、そこで覚えたスペイン語が一番よく覚えられたと語っていた。TPR [Total Physical Response](全身反応教授法)(Asher, 2009)やナチュラルアプローチ(Krashen & Terrell, 1983)と呼ばれる教授法にも、この考え方は通じているし、最近は記憶の身体性やらアフォーダンス[affordance]といった用語もしばしば聞かれるようになり、言語学習に演劇を取り入れる手法も増えてきている。

 私自身も自己表現用の写真を使ったワークショップをすることがある。「私の1枚」と呼べるような自己表現用の写真に簡単な説明文を書いてきてもらう。それを身振り手振りも最大限に活用して、限られた数のキーワード以外はすべて「マママ」で話すというやり方で説明してもらう。「マママ語のワークショップ」と名付けているが、これをすると、いかに少ないことばでコミュニケートできるかということや、ことばの文脈化の重要性、ことばが足りない状況での心理について疑似的に体験することができる。

 ことばの文脈化という点では、写真・ビデオ鑑賞や制作、タウンウォーキング、マップ作りといった活動も悪くないはずである。教室での疑似的なタスク(例えば「お店屋さんごっこ」のような練習)ではなく、参加者同士の現実のコミュニケーションそのものになっていれば、単なることばの文脈化以上の意味があるように思う。

 

参考文献

Asher, J. J.(2009). Learning Another Language Through Actions. 7th Edition. Los Gatos, CA: Sky Oaks Productions. (初版1977.)

Krashen, S.D. & Terrell, T.D. (1983). The Natural Approach: Language Acquisition in the Classroom. London: Prentice Hall Europe.

 

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日本語・教育・語彙 第3回 日本語教育の民主化と語彙(3):リキャストの重要性

2015年 11月 27日 金曜日 筆者: 松下達彦

第3回 日本語教育の民主化と語彙(3):
リキャストの重要性

 リキャスト[recast]は日本語教師にとって欠かすことのできない重要なスキルである。リキャストとは、誤った日本語を“さりげなく正しい形に直した返事”である。

学生:お金、おろし、“きんこう”に行きました。
教師:ああ、“おかねをおろしに”“ぎんこう”に行ったんですね。
学生:はい、“きんこう”に行きました。

ここで教師は欠けていた助詞“を”“に”を加え、さらに“きんこう”を“ぎんこう”とさりげなく(暗示的に[implicitly])正しい形にして返事をしている。こうすれば正しい形を聞かせることができ、コミュニケーションの流れを壊すこともない。

 では正しい形を聞けば正しい形を習得できるかといえば、そのような保証はない。現に、上記の会話では学生は二度目も“きんこう”と言っていて正しく発音できていない。前回も説明したように、「ぎ」を「ぎ」と聞き取れていないとも考えられるし、聞き取れてはいるが「ぎ」と発音ができないとも考えられるが、そもそも(「ぎ」を「ぎ」と聞き取る能力があるのに)リキャストに気づいていない可能性もある。例えば(王2009)はリキャストに関する研究を概観し、「フィードバック直後に元の発話を修正する」成功アップテイクが18%~70%と、研究により大きく異なること、語彙や音韻のリキャストは気づかれやすく、アップテイクが成功しやすいことなどを指摘している。条件次第ではあるが、リキャストはある程度、成功アップテイクに結びつくということであろう。

 リキャストでもより強調されたリキャスト(上述の例では“ぎんこう”を少し強調して発音する、など)のほうが成功アップテイクになる率が高いとも報告されている。また、言語習得研究では、注意が向いていることが大切だということもよく言われる(Schmidt1990など)。心理学には「選択的注意[selective attention]」という概念がある。例えば毎日通っている場所にいつも同じ看板があるのに、改めて注意をして、初めてその看板の存在や内容に気がつくということがある。つまり注意をしていないと、目や耳に入っていても気がつかないということが多い。言語習得にも同じようなことがある。注意が向いていればそれだけ習得されやすいようである。

 

 前回まで、マイノリティ心理に配慮することが重要であることを述べてきた。日本で日本語母語の教師が日本語教育を行う場合には特に重要である。「教師」である上に、「母語話者」という「力」を持っているからである。その配慮として音声や文法ばかりに力を入れるのではなく、自己表現や生活場面の語彙に力を入れることが大切であることを主張した。

 目の前ではっきりと(明示的に[explicitly])「“きんこう”ではなくて“ぎんこう”です」という訂正をすることは、仮に言語習得に効果があるとしても、情意的[affective]な面の配慮に欠けていると学習者が委縮する。委縮しないとしても、いちいち訂正をしていたら会話の流れを壊してしまう。そんなときにはリキャストが有効である。こうすれば、仮に習得に結びつかなかったとしても、少なくとも学習者が学習を続ける意欲を壊すことなく、その場の活動に影響を与えることも少ない。そして、うまくいけば学習者が訂正に気づき、習得に結びつくこともある。訂正に気づけば自分が誤ったことに恥ずかしさを感じることはあるかもしれない。それでも、はっきりと訂正されるのに比べれば圧力は小さい。

 確かに、リキャストは明示的訂正(はっきり直すこと)に比べて習得の効果が薄いという研究も多い。活動の流れを壊すこともなく、直されて縮むこともなければ明示的に訂正したほうがよいであろう。訂正するかしないか、するならば明示的にするか暗示的にするか、活動の目的を考慮しつつ学習者の表情を見て、瞬時に判断する力が日本語教師には必要なのである。

 

参考文献

王文賢 (2009) 「第2言語習得におけるリキャストの効果―教室指導に関する研究の概観から―」『日本言語文化研究会論集』5

Schmidt, R. W. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11 (2), 129–158.

 

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共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

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