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「百学連環」を読む:術の区別を比べる

2012年 5月 18日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第58回 術の区別を比べる

 今回は、前回引用した『ウェブスター英語辞典』(1865年版)の「ART」の項目と、第56回で見た西先生による「術(art)」の説明について比べながら検討してみます。

 まず、あちこち行き来する手間を省くため、検討の材料を改めて並べておきましょう。まずは「百学連環」で「術」の区別をしているくだり。

「術」にも二つの区別がある。つまり、Mechanical Art と Liberal Artの二つだ。原語に従うなら、「機械の術」と「上品の術」という意味だが、このように訳すのは適切とは言えない。それぞれ「技術」と「芸術」と訳してよいだろう。「技」とは、手足や体を働かせるという意味の字であり、例えば大工などのように身体を働かせるものはすべてこれに該当する。「芸」とは、精神を働かせるという意味であり、例えば詩や文章を作ることなどがすべてこれに該当する。mechanicalはtradeと同じである。つまり、「商い」という字だ。英語に Mechanical Art というものがある。これは「商売」のことである。
また、Useful Art と Polite Artという区別もある。
さらに、Industrious Art と Fine Arts という区別もある。このように、「術」についてはいろいろな語があるが、大まかには同じような意味であり、いずれにしても二つに区別されるということである。

(「百學連環」第17~19段落の現代語訳)

 それから『ウェブスター英語辞典』はこうでした。

2. 〔アートとは〕特定の行為を容易に行えるようにする規則の体系である。「サイエンス」や理論に基づく原理とは対照的なもの。例えば、建築のアートや彫刻のアートなどがある。

☞アートは、「手芸(Useful)」「技術(mechanic)」「工芸(industrial)」と「芸術(liberal)」「美術(polite)」「美術(fine)」に分けられる。「技術(Mechanic arts)」とは、精神というよりは、もっぱら手や体に関わるもので、例えば服や日用品をつくることなどである。こうしたアートは「手仕事(trades)」とも呼ばれる。これに対して「芸術(Liberal Arts)」あるいは「美術(Polite Arts)」とは、もっぱら精神や想像力に関わるものであり、例えば詩や音楽や絵画など〔をつくること〕である。かつて「リベラル・アーツ」という言葉は、学問(sciences)や哲学、あるいはアカデミーでの教育の全系統(circle)などを意味するために用いられていた。このため、アートの学位といったり、アートの修士や学士号というものがあるのだ。

 さて、両者をいま一度改めて見直してみると、どんなことが見えてくるでしょうか(『ウェブスター英語辞典』のことを、以下では「ウェブスター」と略記します)。

 まず気づくのは、西先生は「術」の分類を、A) Mechanical & Liberal、B) Useful & Poilte、C) Industrial & Fineと対にしているのに対して、ウェブスターのほうではとりたてて対にしてはいないということです。

 敢えて言えば、ウェブスターでは、useful、mechanic、industrialが同系列のようにこの順に並べられ、それに続いて別系統のようにしてliberal、polite、fineが並んでいることから、a) Useful & Liberal、b) Mechanic & Polite、c) Industrial & Fineという対を想定することはできます。

 すると、西先生とウェブスターとで、対が一致しているのはCとcだけで、残りは入れ違いになっていることが分かります。

 ただし、ウェブスターのほうでもそれに続く部分では、Mechanicに対して、Liberal or Politeと対応させています。取り扱いの大きさから言えば、PoliteよりはLiberalが主であるとも読めるでしょう。すると、ウェブスターはMechanicとLiberalを対にしているとも考えられます。

 これは推測に過ぎませんが、西先生はこのMechanicとLiberalの対応を念頭に、上で見た「百学連環」での説明を組み立てたのではないかと思います。そして、六つあるアートの分類のうち、先に述べたようにCとcは一致していますから、残った二つを組み合わせると、これがBのようにUseful & Politeとなるわけです。

 そのつもりで、西先生が講義のためにつくった覚書の該当箇所を覗いてみると、果たしてそのように六つの「術」が並べられている様子が見えます(下図)。

58_1_l.jpg

 ついでに図を見ておくと、industriousの下にnuttige、fine artsの下にschoone kunsten、さらに行をかえてshöneと記されています。nuttigeはオランダ語で「有用な」といった意味、schoone kunstenは「ファイン・アート」つまり「美術」のことです。shöneは、ひょっとしたらドイツ語のschöne(美しい、美術))のことかもしれません。

 いずれにしても「術」を、「体」によるものか、「精神」によるものか、という二つに大別している点で、西先生とウェブスターは一致しています。人間を体/精神という二つの要素で捉える心身二元論の考え方は、こんなところにもひょっこり顔を出しているわけです(実はこれが「百学連環」でも後に大きな問題となります)。

 また、この区別が大事なのであって、上で検討したようなどれとどれが対であるかといったことは、講義の下敷きであるウェブスターの記述から考えても、二の次と見てよさそうです。

 さて、次に面白いのは「mechanical」は「trade」と同義であると説明するところです。これもまたウェブスターに見える説明ですが、西先生は「trade」を「商売」と訳しています。「百学連環」の現代語訳では、「手仕事」と訳してみました。

 ここでもう一つ目に留まるのは、ウェブスターでは一貫して「mechanic」と記しているのに対して、「百学連環」では「mechanical」と書いていることです。これは些細な違いではありますが、ちょっと気になります。

 試しに先ほどの覚書〈図)を見てみると、そこには「mechanic & liberal」とありますね。ということは、西先生は『ウェブスター英語辞典』を調べて、手元の覚書には同辞典と同じように「mechanic」と記した。けれども、講義の際に「mechanical」と述べたか、この講義を筆記した永見がそう記したか。そんな経緯を想像してみることができます。

 ついでのことながら、この大変似ている二つの言葉、mechanicとmechanicalを『オックスフォード英語辞典(OED)』で調べてみると、mechanicalのほうは15世紀の用例が出ており、mechanicのほうは最も古い用例がそれより100年下って16世紀です。

 また、OEDのmechanicの項目にこんなことが記されています。

形容詞としては、MECHANICALに比べてずっと後になってから使われるようになった。使われ始めた時分は、いくぶんラテン語に近い感覚〔意味〕だった。

 これらの語源に当たるラテン語はmechanicusです。語の形からいっても、mechanicのほうがラテン語に似ているというわけでしょう。

 さて、ここではウェブスターの項目で、西先生が触れていないところまで訳出しておきましたが、そこに現れる「リベラル・アーツ」については、後ほど「百学連環」でも俎上に載せられることになります。

 実は「リベラル・アーツ」とは、「百学連環」という言葉そのものとも深い関わりのあるものでした(例えば、第12回「円環をなした教養」を参照)。西先生の講義に沿いながら、追々改めて考えてみたいと思います。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

「百学連環」を読む:『ウェブスター英語辞典』の定義

2012年 5月 11日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第57回 『ウェブスター英語辞典』の定義

 さて、前回見た「術」の二分類は、『ウェブスター英語辞典』にも現れると述べました。今回はそのことを検討してみましょう。

 じつを言うと、私たちは既にその文章を一度目にしています。第33回「術の定義の出典を追う」で引用した件の文章を、改めて眺めることにしましょう。こんな文章でした。

2. A system of rules, serving to facilitate the performance of certain actions; opposed to science, or to speculative principles; as the art of building or engraving. Arts are divided into useful or mechanic, and liberal or polite. The mechanic arts are those in which the hands and body are more concerned than the mind; as in making clothes, and utensils. These art are called trades. The liberal or polite arts are those in which the mind or imagination is chiefly concerned; as poetry, music and painting.

 In America, literature and the elegant arts must grow up side by side with the coarser plants of daily necessity.

(Noah Webster, American Dictionary of the English Language, Vol.I, 1828. 文中のイタリック体は原書のもの)

 文章全体の検討は後ですることにして、ここではまずイタリックになっている部分を見ておきたいと思います。とりわけ「アート(術)」を分類する言葉にご注目ください。こういう順に並びます。

・useful
・mechanic
・liberal
・polite

 前回検討した西先生の分類(表にしてみました)と比べると、二つばかり少ないことに気づきます。そう、IndustrialとFineが見あたりません。これはどうしたことか。

 ところで、上で引用した文章は、1828年版の『ウェブスター英語辞典』に載っていたものでした。ここで思い出したいことがあります。第42回「どの『ウェブスター英語辞典』か」での推測です。

 私たちは、『ウェブスター英語辞典』のいくつかの版を比べて、断定はできないけれども、どうやら1865年版であれば、「百学連環」講義の内容と一致することが多く、時期的にも西先生が参照しえたのではないかと述べました。

 そこで、「ART」の項目について、1865年版から引用してみます。

2. A system of rules serving to facilitate the performance of certain actions ; opposed to science, or to speculative principles; as, the art of building or engraving.

☞Arts are divided into useful, mechanic, or industrial, and liberal, polite, or fine. The mechanic arts are those in which the hands and body are more concerned than the mind, as in making clothes and utensils. These arts are called trades. The liberal or polite arts are those in which the mind or Imagination is chiefly concerned, as poetry, music, and painting. Formerly the term liberal arts was used to denote the sciences and philosophy, or the circle of academical education; hence, degrees in the arts; master and bachelor of arts.

(Noah Webster, An American Dictionary of the English Language, Thoroughly revised, and greatly enlarged and improved by Chauncey A. Goodrich and Noah Porter, 1865, p.78. 文中のイタリック体は原書のもの)

 この1865年版では、先の1828年版には見えなかったIndustrialとFineも登場していますね。

 「百学連環」の理解にとっても大切な文章なので、全体を日本語に訳しておきます。

2. 〔アートとは〕特定の行為を容易に行えるようにする規則の体系である。「サイエンス」や理論に基づく原理とは対照的なもの。例えば、建築のアートや彫刻のアートなどがある。

☞アートは、「手芸(Useful)」「技術(mechanic)」「工芸(industrial)」と「芸術(liberal)」「美術(polite)」「美術(fine)」に分けられる。「技術(Mechanic arts)」とは、精神というよりは、もっぱら手や体に関わるもので、例えば服や日用品をつくることなどである。こうしたアートは「手仕事(trades)」とも呼ばれる。これに対して「芸術(Liberal Arts)」あるいは「美術(Polite Arts)」とは、もっぱら精神や想像力に関わるものであり、例えば詩や音楽や絵画など〔をつくること〕である。かつて「リベラル・アーツ」という言葉は、学問(sciences)や哲学、あるいはアカデミーでの教育の全系統(circle)などを意味するために用いられていた。このため、アートの学位といったり、アートの修士や学士号というものがあるのだ。

 前回同様、politeとfineをいずれも「美術」と訳すなど、若干苦しいところもありますが、大筋の意味は取れると思います。

 これを前回の西先生の言葉を重ねて読むとどんなことが見えてくるか。次回、検討してみることにしましょう。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
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時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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「百学連環」を読む:「技術」と「芸術」

2012年 5月 4日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第56回 「技術」と「芸術」

 西先生は、「学」に続いて「術」についても、二つの区別をします。少し長くなりますが、まとめて見てみます。

術に亦二ツの區別あり。Mechanical Art and Liberal Art. 原語に從ふときは則ち器械の術、又上品の術と云ふ意なれと、今此の如く譯するも適當ならさるへし。故に技術、藝術と譯して可なるへし。技は支體を勞するの字義なれは、總て身體を働かす大工の如きもの是なり。藝は心思を勞する義にして、總て心思を働かし詩文を作る等のもの是なり。mechanicalはtradeと同し。則ち商ヒと云ふ字なり。英に於てMechanical Artと云ふあり。商賣と云ふと同し。
又 Useful Art and Polite Art.
又 Industrious Art and Fine Arts. 此の如く術に於て種々の語ありと雖も大槪意を同ふし、只二ツの區別あるのみなり。

(「百學連環」第17~19段落)

 以上の文中に現れるいくつかの英単語の左側に、次のような日本語が添えられています。

Mechanical Art 器械技
Liberal Art 上品藝
Useful 必要
Polite Art 開磨 の字にして則奇麗の意なり。
Industrious 勉強
Fine 奇麗

 では、訳してみましょう。

「術」にも二つの区別がある。つまり、Mechanical Art と Liberal Artの二つだ。原語に従うなら、「機械の術」と「上品の術」という意味だが、このように訳すのは適切とは言えない。それぞれ「技術」と「芸術」と訳してよいだろう。「技」とは、手足や体を働かせるという意味の字であり、例えば大工などのように身体を働かせるものはすべてこれに該当する。「芸」とは、精神を働かせるという意味であり、例えば詩や文章を作ることなどがすべてこれに該当する。mechanicalはtradeと同じである。つまり、「商い」という字だ。英語に Mechanical Art というものがある。これは「商売」のことである。
また、Useful Art と Polite Artという区別もある。
さらに、Industrious Art と Fine Arts という区別もある。このように、「術」についてはいろいろな語があるが、大まかには同じような意味であり、いずれにしても二つに区別されるということである。

 「術」については、随分とヴァリエーションが豊かですね。都合三組の対が現れています。表の形で整理してみます。

A  B 
技術(Mechanical Art = Trade)  芸術(Liberal Art) 
手芸(Useful Art)  美術(Polite Art) 
工芸(Industrial Art)  美術(Fine Art) 

 この表では、西先生が訳語を特に示していないものについても、仮に訳して提示しておきました。Polite ArtとFine Artをどちらも「美術」としており、区別できていないのは苦しいところ。また、西先生は、Fine Artsだけ複数形にしていますが、表では単数形に揃えてあります。さらに、思うところがあって、IndustriousをIndustrialとしました。理由は次回述べます。

 どちらかと言えば、向かって左側には実用に重きを置いたアートが、右側には必ずしも実用を志向しないアートが並んでいるといってもよいでしょう(もっとも、なにをもって「実用」とするか次第ではありますが)。

 さて、気になるのはこうした英語による「術」の区別の出所です。とはいえ、もうお察しかもしれません。私たちは以前、西先生が『ウェブスター英語辞典』を参照しているらしいということを検討したことがありました(例えば、第42回「どの『ウェブスター英語辞典』か」の前後)。

 実は、上記の区別もまた、『ウェブスター英語辞典』の「ART」の項目に現れるのです。次回、その原文を確認することにしましょう。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:「単純の学」と「適用の学」

2012年 4月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第55回 「単純の学」と「適用の学」

 儒学の観点からの議論を終えて、西先生は再び欧文脈に戻ってゆきます。

theory, practiceの如く學に二ツの區別あり。Pure Science and Applied Science. 單純の學とは理に就て論し、適用の學とは實事に就て論するなり。之を算術に依て譬ふときは、2+2=4 pure. 是則ち單純の理に當てゝ用ゆるなり。2犬+2鳥=4匹 applied. 是亦學なりと雖も、業に就て用ゆるを云ふ。是則ち學の區別なり。

(「百學連環」第16段落)

 上記の文中、「Pure」の左には「單純」という語が、「Applied」の左には「適用」という語が、また「業」の右には「實事」と添えてあります。

 訳してみましょう。

「観察(theory)」と「実際(practice)」の区別と同じように、「学」には二つの区別がある。Pure Science と Applied Scienceの二つだ。「単純の学(Pure Science)」とは、理について論じるものである。「適用の学(Applied Science)」とは、実際の事について論じるものである。これを算術で喩えてみよう。「2+2=4」という場合、これはpure(単純)である。つまり、〔数学の算術の知識を〕単純の理に対して使っている。また、「2犬+2鳥=4匹」という場合、これはapplied(適用)だ。こちらも学ではあるけれども、実際の事に対して使っているのである。これがつまり、学の区別である。

 「学」と「術」の定義、そして「知行」の検討を終えて、今度は「学」と「術」の内訳をさらに見てゆこうというところ。まずは学について、このような区別が導入されました。

 いくつか補足しながら見ておきます。

 theoryとpracticeについては、第45回「観察と実践」で見たように、西先生が「学」にも「術」にも、「theory(観察)」と「practice(実際)」という区別があると論じていましたね。

 そして、「学(Science)」にも「Pure」と「Applied」という二つの区別があるというわけです。この区別がなにに由来しているかということは、もう少し読み進めてから検討することにします。英語が持ち出されていることから、なんとなく出所の推測はつきそうです。

 さて、Pureといえば、よく「純粋な」と訳されたりもします。ここで西先生は「単純」としていますね。現在の英和辞典でも、pureを引くと、「きれいな」「純粋な」「高潔な」「潔白な」と並んで、「(学問など)純粋の、理論的な」とか「全くの」「単なる」などの訳語が並びます(『リーダーズ英和辞典 第2版』 )。この言葉だけでは、いま一つ意味が判然としないところですが、次に併置されるAppliedと対にすると腑に落ちます。

 西先生はAppliedを「適用」と訳しています。現在では「応用」と訳す場合が多いかもしれません。つまり、当世風に言えば「応用学」ですね。「適用(応用)」が、より具体的な話だとすれば、「単純(純粋)」とは、より抽象的な話だと捉えることもできるでしょう。

 両者の区別をいっそうはっきりさせるため、西先生は具体例を出しています。「単純の学」のほうでは「2+2=4」という数学で見慣れた形の式が提示されています。それぞれの数字には、単位などがついておらず、いわば抽象的な数同士の関係を示した式。

 もう一つの例はちょっと面白いですね。「2犬+2鳥=4匹」という具合に、こちらはそれぞれの数字の後ろに名詞や単位がついています。目の前に2匹の犬と2羽の鳥がいて、「さて、ここには全部で何体の動物がいるかな?」と問われているような場面でしょうか。

 現代における学術の例で補足するなら、例えば「理論物理学」と「応用物理学」といった区別を思い出してみてもよいでしょう。前者は「Theoretical Physics」、後者は「Applied Physics」ですから、Pureとは違う言葉遣いです。でも、意味としてはほぼ同じと考えられます。

 理論物理学では、例えば、まだ実際に存在することが確認されていない素粒子を、理論の上で「こういう条件の下で存在しているはずだ」などと予測したりします。応用物理学では、例えば、シリコン半導体のように、電子部品の生産につながるものを研究していたりします。もっとも、こうした区別は、便宜のためのものですから、いつでも両者の境界をはっきり線引きできるとは限りません。

 西先生が解説している「単純の学」と「適用の学」も、多様な学術を整理して把握するための見立てだと、まずは捉えておきたいと思います。この発想は、後に「百学」の内実を一覧してみるときに役立つことになります。

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「百学連環」を読む:江戸の「学術」――貝原益軒の場合

2012年 4月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第54回 江戸の「学術」――貝原益軒の場合

 さて、「百学連環」の先を読み進める前に、「学術」という言葉について、ちょっと補足してみます。

 これまでのところ、ご覧のように西先生は、「学術」という漢語を、Science and Artという英語に対する訳語として採用していました。

 他方でこの言葉、古くは『続日本紀』(巻第九)にも見え、古くから漢語として使われていた様子が窺えます。

 今回はそこまで遡りませんが、貝原益軒(1630-1714)の文章と引き比べてみたいと思います。益軒は、江戸前期を生きた儒者。晩年に書いた『養生訓』で、いまでも広く知られていますね。

 彼は、当世風に言えば、江戸の「啓蒙思想家」とでも言うべき存在でした。儒学にまつわる著作はもちろんのこと、歴史書や風土記の類、『大和本草』のような現在でいう博物学書や、『和漢名数』といった辞典、『和俗童子訓』を初めとする教育書などなど、それこそ百学連環の博さを誇る知識人です。

 儒者たるもの、漢文で著述をするのが当たり前だった時代に、一般読者の便宜を考えて、仮名交じりの文章でたくさんの教科書を残してもいます。

 この益軒先生が書いたものに目を通してゆくと、実は、ここでこだわっている「学問」や「学術」といった言葉が頻出するのです。論より証拠。例えばこんな具合です。

道を学ばんと思はば、初学より道に深く志しをたてて、明師に従ひ、良友に交はり、学術を選ぶを主(むね)とすべし〔。〕 学術とは、学びやうの筋を云ふ。学びのすぢ悪しければ、一生つとめても、道をしらず。一たび迷ひぬれば、よき道に立ち帰りがたし。故に、まづ、学術を選ぶべし。

『大和俗訓』

 「学術」という言葉が見えますね。ただし、この「学術」は、西先生の翻訳語としての用法とは少し違っています。「学術とは、学びやうの筋」のこと。学び方の筋道、流儀あるいは素質といったところでしょうか。いまでも「筋がいい」とか「筋が悪い」と言います。

 そういえば、西先生は「百学連環」の中で、「術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生するもの」と説明していました(第26回)。「筋」という言葉も、筋道であるとか、筋が通るなど、道を移動してゆく趣きがあります。「学術とは、学びやうの筋」という言い方でも、「術」と「筋」とが同義語として意識されているようにも見えます。

 こういうわけですから、益軒先生の言う「学術」とは、「学と術」ではなく、「学の術」なのです。「学ぶための術」という意味ですね。

 彼は、「術」についてもたくさんの言葉を残しています。例えば、「術」をこんなふうに定義します。

人の身わざ多し。其事をつとむるみちを術と云。万(よろず)のわざつとめならふべき術あり。其術をしらざれば、其事をなしがたし。

(『養生訓』)

 これは自分の心身をきちんと世話して、長く生きるための「術」を説いた『養生訓』の一節です。人間の世界には、万の技があるけれど、技を身につけるには術を知らねばならないというわけです。それこそ「蓑をつくり、笠をはる」ことから、医術や学術まで、いかにして術を習得し、よりよく生きるかということを益軒先生は論じます。

 加えて益軒先生は、術を身につけるために必要な素養をこんなふうに述べてもいます。

諸芸をまなぶに、皆文学を本(もと)とすべし、文学なければ、わざ熟しても理にくらく、術ひきし。ひが事多けれど、無学にしては、わがあやまりをしらず。医を学ぶに、殊に文学を基(もとい)とすべし。文学なければ、医書をよみがたし。医道は、陰陽五行の理なる故、儒学のちから、易の理を以て、医道を明(あき)らむべし。しからざれば、医書をよむちからなくして、医道を知りがたし。

(『養生訓』)

 つまり、どんな技や芸を学ぶにしても、「文学」を押さえなければならないという助言です。ただし、ここで「文学」というのは、現代とは意味が違っています。益軒先生のいう「文学」とは、文字通り「文の学」のこと。言葉の学ですね。

 言葉に精通しなければ、言葉で書かれた知識に接して、これを吸収することも覚束ない。医学を修めるにも、とりわけ文学が基本である、という次第です。これはいまにも通じる議論ですね。もう少し先に進むと西先生も、これと似たような議論を展開しますので、その折りにまた、この益軒先生の言葉を思い出すことにしましょう。

 そして、これで最後にしますが、もう一つ見逃すわけにいかない言葉があります。益軒先生は、『大和俗訓』でこう主張しています。

学問の法は、知行の二を要とす。此の二を力(つと)むるを、致知力行とす。致知とは、知ることを極むるなり。力行とは、行ふことを力むるなり。(中略)知を先とし、行ひを後とす。萬のこと先(まづ)知らざれば行ひ難し。故に前後を云へば、知るを先とす。知るを行はん為なり。知つても行はざれば用なし。故に軽重をいへば、行ふを重しとす。知ると行ふとの二は、一を欠くべからざること、鳥の両翼の如く、車の両輪の如し。学問は、知と行と並び進むをよしとす。

『大和俗訓』

 そう、これは第47回「知行とは何か」から読んできた西先生の言葉ともぴったり重なり合う議論なのです。益軒先生もまた、朱子学の発想を下敷きにしながら、このように考えたのでした。余談ながら、彼は最晩年に『大疑録』という本を書いて、朱子学を懐疑的に検討し直したりもしており、誠に興味が尽きない人物です。

 さて、こうして眺めてみると、西先生は西欧の学術を摂取しながらも、他方で伝統的な学問である儒学、朱子学にも棹さしていたことがいっそうくっきりと見えてきます。おそらく「学術」という言葉も、こうした先哲の用法を念頭において使っていたのでしょう。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

「百学連環」を読む:君子は和して同ぜず

2012年 4月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第53回 君子は和して同ぜず

 「知と行」を検討中の西先生は、続いてこう述べます。

君子は和而不同、小人同而不和と、是則ち表裏なり。故に學は善惡ともに知らされは其用なりかたし。其等を知り而して行ふ、之を術と云ふ。

(「百學連環」第15段落第3~5文)

 訳してみます。

〔『論語』に〕「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というが、これはつまり表裏のことだ。こういうわけで、学では、善も悪もどちらも知らなければ、うまく役立たないのだ。そのことを知り、そして行うこと。これを「術」と言うのである。

 これは『論語』の「子路第十三」からの引用です。「君子」と「小人」が対比されていますね。徳の高い人は、和して同ぜず。つまり、他の人たちと協調(協力)はするけれど、だからといってむやみと同調(雷同)するわけではない。それに対して、徳の低い人は、同じて和せず。つまり、他の人たちに同調はするけれど、協調はしないというわけです。

 この両者、つまり君子と小人は、表裏だと西先生は言います。どういうことでしょうか。両者はやることが逆なんだから、表裏だろうと言えばそうなのですが、私などはつい意味に引きずられてしまいます。そこで頭を整理するために、こんなふうに書き換えてみました。

  A  B 
君子  ○  × 
小人  ×  ○ 

 わざわざこんなことをせずともよさそうなものではありますが、ここまで形式化してしまうと、表裏であることもよく見えます。また、このように表現してみると、現実にありうるかどうかは別として、論理的にはAもBも○の場合、AもBも×の場合もありうるということも目に入りやすくなります(それぞれどういう場合なのかは、読者諸賢の考える楽しみのために措きます)。

 しかし、なぜここで「和而不同」が引用されたのでしょうか。単に表裏関係の例として持ち出されたのか、それとももう少し別の意図があるのか。そういえば、「表裏」という表現は、前回読んだ文章にもありました。訳文をもう一度読んでみます。

知については、上に向かう場合を知るだけでなく、それが下へ向かう場合についても知らなければならない。例えば、「善」について知るのであれば、同時に「害」についても知るようなもの。〔知の〕表裏を両方とも知るのでなければならない。

(「百學連環」第15段落第1~2文の現代語訳)

 こと知に関しては善悪(害)や表裏を共に知るべし。これが西先生の主張でした。

 「知る」ということに即して考えるなら、この「和而不同」のくだりで、君子と小人の両者が併置されていることがポイントではないかと思います。もしここで小人の例を出さず、君子についてだけ「和して同ぜず」と記されていたらどうでしょうか。上に掲げた表で言えば、「君子」の行だけがあって、「小人」の行がない状態です。

 もちろん、「君子和而不同」だけでも、ここから「そうではない状態」を推し量ることはできます。しかし、「小人同而不和」が併置されてこそ、「君子和而不同」がどういう状態であるかということが、いっそうはっきりするのも確かです。要するに比較によって「君子」と「小人」が互いに強調し合うのです。

 『論語』では、しばしばこうした対比が用いられています。例えば、「為政第二」にはこんな文言が見えます。

子曰、君子周而不比、小人比而不周
(子曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず)

 ここで「周」とは、分け隔てなく広く交わりを持つこと。「比」とは、特定の相手と馴れ合う付き合いのこと。やはり両者が対比されることで、君子の広さと小人の狭さがくっきり浮かび上がっています。文章の構造としても、「君子和而不同、小人同而不和」と同じ形をしていますね。

 このように考えてくると、西先生が引用した『論語』の一節もまた、それ自体が「君子」のみならず「小人」をも「知る」という形で、「上向」と「下向」の両方を知るという姿勢をとっていることが分かります。西先生は、『論語』もまた、物事の表裏を視野に入れているということを示唆したかったのかもしれません。

 知(学)としては表裏、善悪を共に弁えた上で、それを活用してなにごとかを成すこと。それが「術」であるというわけです。例えば、ある技術を使ってなにごとかを成そうという場合、その良い点と悪い点、メリットとデメリットを共によく知り、勘案した上で実践に移すこと。こう言えば当たり前のことのようでもありますが、毎日あちこちで起きていることを見ていると、あながち当たり前とも言い切れないのが人間の世界であります。

 さて、「知と行」にまつわる儒教の文脈からの検討はここで一旦おしまいです。次回からはまた欧文脈に戻ってゆきます。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:知は上向と下向で

2012年 4月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第52回 知は上向と下向で

 儒学の伝統に根ざした学術の検討が続きます。

知は其の上向を知るのみならす、又其の下向を知らさるへからす。善を知るときは又其害を知るか如き、表裏兩なから之を知らさるへからす。

(「百學連環」第15段落第1~2文)

 訳します。

知については、上に向かう場合を知るだけでなく、それが下へ向かう場合についても知らなければならない。例えば、「善」について知るのであれば、同時に「害」についても知るようなもの。〔知の〕表裏を両方とも知るのでなければならない。

 知について「上向」「下向」とはどういうことか、と思って読んでゆくと、「善」と「悪」の例が持ち出されます。西先生は、ことさら「上向」と「善」、「下向」と「悪」と対応させているわけではありませんが、語の並び順からいってもそう対比させてよいでしょう。

 ここでもまた上下という垂直方向の区別が現れています。そういえば『論語』には「上知」「下愚」といった対語もありました。どちらかと言えば上方向は優れたもの、価値の高いものを、下方向は劣ったもの、価値の低いものを意味している様子が窺えます。

 これまでよく検討してみたことがなかったのですが、古今東西のさまざまな文化において、上下に対するこうした価値づけはどんなふうになされてきたのでしょう。例えば、天上にある天国と地下にある地獄。王座は高きにあったり、上座下座も「上>下」という優劣観を前提にしています。なぜ上が優れ、下が劣るという対応になるのか。たいそう気になるところですが、ここでは措きます。

 さて、西先生の例に則って言えば、知については、善いことだけ知ろうとしても足りないのであって、同時にその反対とされる悪いことについても知るべきであるというわけです。

 もう一つ例を出しましょう。ときどき、ものを知るらしい人物が「Xはよくないから読まないほうがいい」と学生や若人にアドヴァイスしているのをお見かけします(Xには任意の人名や書名が入るとお考えください)。

 これは一見すると親切な助言です。助言の主は、ひょっとしたら自分でXを読んでみて、「ああ、こりゃダメだ。こんな本に付き合うのは、おおいなる時間と手間の無駄だ……」と感じた経験があるかもしれません。そうした自分の実感を込めて、まだそれを体験していない人に向けて、上のようなアドヴァイスをしたというところでしょうか。

 でも、こういう場合、助言を受け取る側としては、ちょっと立ち止まってみる必要があります。もしこの親切な助言を鵜呑みにして、「そうかXはよくないのか。じゃあ読まずにおこう」と思い込む学生がいるとしたら、よほどおめでたいことです。学術の徒としては、かえって問題でしょう(先達の言うことをよく聞いてエライと誉められるかもしれませんが……)。なぜなら、自分の眼や頭で現物を確認することなく、伝聞や他人の下した評価で価値判断をしてしまおうというわけですから。他の場合はともかくとして、学術の領域においては致命的です。

 この場合、「そうか、Aさん〔助言主〕はそう感じたのか。どれ、実際のところはどうだろう。自分の眼で確かめよう……」と考え、実践することのほうが、学術の取り組みとしてはよほど大切です。その上で、現在の自分はどう判断するかと考えてみればよいわけです。

 西先生はここで、「知は広いほうがよい」というここまでの主張の意味を敷衍しています。ともすると、人はよい(とされる)ものだけを知りたがり、悪い(とされる)ものを知りたがらない。そういう傾向に対して警告を発しているようにも読めます。「よいもの」だけを知ろうとする態度は一見合理的ですが、「悪いもの」との対比でこそ、いっそう「よいもの」のことが判るし、逆も真なりであることを考えると、本当に「合理的」かどうか怪しくなってきます。

 ここで西先生が例に採っている善し悪しという価値判断は、相対的なもの(状況によって変化しうるもの)だけにいっそうのこと対比や比較が重要になります。なぜなら、よりよく比較するためには、新旧も含めた広い知を視野に収めて検討せよというのが西先生の持論だからです。

 そう考えると、先のAさんの「助言」は、果たしてよい助言たり得ているのか。むしろAさんは、学生にこう言ったほうがよかったのではないでしょうか。「私はXについて、とてもよいとは思えない。でもそれはそれとして、君も自分で読んでごらんよ。なにがダメかを実感できれば、自分がその愚を繰り返さないためのよすがにもなるからね。それに、どうかしたら、こう言っている私の判断のほうにこそ問題があるかもしれないのだから」と。

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「百学連環」を読む:日新成功

2012年 3月 30日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第51回 日新成功

 「温故知新」の重要性を説いた西先生は、次にこう述べます。

日新成功と云ふあり。日に新たなるを好しとすると雖も、廣く古を知らすんは日新に至るの道なし。故に知は廣からされは行ヒかたし。十分の知を以て十分の事を行ふことは最も難きものなり。十分の知を以て五分の事を行はゝ始めて可なり。故に知は常に大なるを要す。

(「百學連環」第14段落)

 訳してみます。

「日新成功」と言われる。日々新しくなることはよいとして、広く過去を知らなければ、日々新たになりようもない。だから、知は広くなければ行いがたいのである。十分な知でもって十分なことを行うのは、最も難しいことだ。〔そうではなく〕十分な知でもって五分のことを行うというのであればどうにかとんとんであろう。だから、知はいつでも大きくあることが必要なのである。

 「日新成功」の「日新」は、『大学』の「伝二章」に見える「苟日新、日日新、又日新」の句を連想させます。「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たに」と読み下されるこの一文は、湯王(古代中国殷王朝の創設者)の洗盤に刻まれた言葉だとか。いつまでも古いままでいるのではなく、日ごと新しく新鮮であれというほどの意味でしょうか。

 そうすれば「成功」ですから、功を成すであろうという次第。もっとも『大学』のいま見た箇所には「成功」という言葉はありません。いずれどこからか持ってこられたのか、「日新成功」という言い回しがあったのか、勉強不足で詳らかにできておりませんが、西先生が言わんとすることは分かります。

 要するに、「温故知新」という主張について、少し角度を変えながら繰り返し強調しているわけです。

 では、「十分な知でもって十分なことを行うのは、最も難しいことだ」とは、どういうことでしょうか。ここにはなにか「知」と「行」に関する西先生の見立てが働いていそうです。

 本当はここも筆選びのような具体例が欲しいところですが、残念ながらそうした例示がありません。そこで、西先生の言葉を、自分なりに言い換えながら考えてみることにします。

 まず、「十分」と「五分」という数字は、ものの喩えではありますが、あくまでも検討のために一旦文字通り素直に受け取ってみます。すると、こんなふうに考えてみることができます。

   【文】十分な知でもって十分なことを行う

   【式】知:行=10:10

 でも、これは最も難しいことだというわけでした。

   【文】十分な知でもって五分のことを行う

   【式】知:行=10:5

 このくらいであればなんとかなるという次第。

 仮にこの10対5という比率を書き換えればこうなりますね。

    知:行=2:1

 これを数式にすると、こうなります。

    行=知/2

 なんだか怪しげな話になってきましたが、要するに「知」に対して「行」は半分くらいだというわけです。

 なぜわざわざ数式にしたのかというと、こう書き直すことで、西先生の最後の言葉「知はいつでも大きくあることが必要なのである」の意味がはっきり目に見えるからです。

 この式の「知」に、ある値を入れると、「行」はそれを2で割った分だけになる。例えば、「知」に100を入れれば、結果として「行」は50になる。「知」をその5倍の500にすれば、「行」は250となる。つまり、より大きな「知」を入れたほうが、結果的にはより大きな「行」が得られるということです。

 もちろん先ほども申したように、これは検討のために敢えてしてみている簡単な思考実験みたいなものに過ぎません。別に西先生は、「知」と「行」の比率を「こうだ」と定めているわけでもありませんでした。ただ、こう考えてみることで、「知は広ければ広いほどよい行が得られる」という含意は、すっきり理解できるように思います。

 また、第47回で見たように、「知」は外から人間に入ってくるもの、いわば「入力(input)」であり、「行」は「知」を介して、人間の内から外へ出るもの、「出力(output)」という見立てでした。

 この図式をいまの話に重ねれば、「知」という「入力」が多ければ多いほど、「行」という「出力」も多くなる、というふうにも読み替えられそうですね。

 今回は、「温故知新」に関わる西先生の主張を機械的に読んでみましたが、そこで言われていること自体はシンプルです。言葉を補って言えば、「身につける知は狭いより広いほうがいい」ということであります。

 考えてみれば、「百学連環」という希有壮大な知のマップを広げてみようじゃないかというわけですから、「温故知新」はこの企ての屋台骨であるとも言えましょう。

 ただし、筆選びの例から窺えるように、そこには「より多くの選択肢(筆/知)があれば、いっそうよりよいもの(筆/知)を選べる可能性が高まる」という前提がありました。これは本当にそうなのかという疑問も含めて、引き続き考えて参ります。

 最後にまとめを兼ねて、今回読んだ文章を、さらに言い換えておきます。

知っていることを活用し尽くしてなにかを完璧に行うのは難しいことだ。せいぜい知っていることの半分も実行できたら御の字であろう。だからこそ、〔なにかをうまく行おうと思ったら〕なるべく広い知を持っていることが大切なのである。

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「百学連環」を読む:温故知新

2012年 3月 23日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第50回 温故知新

 おかげさまで連載も50回目を迎えました。2011年の4月に開始して、もうすぐ1年となります。みなさまのご愛読に感謝申しあげます。ありがとうございます。

 それにしても、これだけ回を重ねて、まだ4ページ目が終わるかどうかというところ。遅読の極みと申すべき読書であります。普通の読書が、車で道を飛ばす速さだとしたら、さしずめ徒歩でとことこ歩くといったところでしょうか。ただし、遅さには遅さのよさもあって、速度は出ない代わりに、車のスピードでは見落としてしまうかもしれないこともたくさん目に入ってきます。

 引き続き、西周先生による講義「百学連環」の記録、その巻頭に置かれた総論を読了するところまで進んで参りたいと念じております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 と、前口上はこのくらいにして、前回の続きを見てゆきましょう。西先生が、「学術」という西欧由来の発想に対して、「知行」という儒学の考え方を並べて検討しているところでした。こんなふうに議論は展開してゆきます。

溫古知新の道理なるあり。溫古とは徒らに古事を穿鑿するにあらす。廣く古へよりして善惡の事を溫ね、折中して今に行ヒ用ゆ。是則ち知新なり。古を溫ね今世を明察す。

(「百學連環」第11段落第1~5文)

 訳してみます。

「温故知新」という道理がある。「温故」とは、いたずらと古いことを根掘り葉掘り調べることではない。広く過去の善悪に関わることを研究し、よいところを取り合わせて現在において行い用いることだ。これがつまり「知新」である。要するに、過去を知った上で今の世における真相を見抜くのである。

 「温故知新」は日本でもよく知られている『論語』の一節ですね。なぜここで引用されているかと言えば、直前で学術の根源である「知行」の特徴を説いていたことに関係しています。つまり、「知は廣きを以てし」と、知は広さが大切であると論じられていたのでした。

 「温故知新」には、直接「広さ」についての言及はありません。しかし、その言わんとするところは、現在のことだけでなく、過去のことも視野に収めるべしということ、時間的な広がりの中でものを捉え考えることでした。西先生が「廣く古へより」と、「廣さ」という語を補って論じている所以です。

 さて、このくだりを記した欄外に次のような一文が見えます。

夫子云欲敏於行冝なるかな。

 これもまた『論語』からの引用ですね。ここで「夫子」とは、孔子のこと。訳せばこうなるでしょうか。

孔子が「〔君子は〕実行はすみやかにしたいと望むものだ」と言っているが、誠にもっともなことだ。

 『論語』の「理仁第四」に見える「子曰、君子欲訥於言、而敏於行」からの引用だと思われます。西先生がここで省略している「訥於言」を復元しておけば、「君子は、口は重たくとも、実行はすみやかにしたいと望むものだ」というわけです。『論語』では、「言うこと」と「行うこと」の関係で、後者を重んじるという対比がなされています。「学而第一」には、「敏於事而愼於言」、つまり、「事に敏にして言に慎み」というくだりもありました。

 続きをもう一段落読んでおきましょう。

孔子の語に信古好之ト、後儒誤りて徒らに古へを好ムとなすと雖も、是全く溫古知新の道理にして、廣く古への善惡を知りて其善を撰ひ、當今世の形勢に就て行ふを云なり。故に此語は古に通するを好ムと云ふ意なり。
又尚古の語あり。是亦同意なり。

(「百學連環」第12段落~第13段落)

 現代語にしてみます。

孔子の言葉に「信じて古えを好む」とあるが、後世の儒者は間違ってこれを「いたずらに古いことを好む」と解釈した。だが、この言葉は「温故知新」の道理そのものであって、広く過去の善いもの悪いものを知った上でそこから善いものを選び、現在の状勢の中で実践することを言っているのである。つまり、この言葉は「過去に通じることを好む」という意味なのである。
また、「尚古」という言葉もあるが、同じ意味だ。

 もはや贅言は不要でありましょう。私たちとしては、温故知新を重視する西先生が百学を見てゆく際に、こうしたことをどのように活かしているかということが気になります。例えば、歴史学の位置づけや、あるいは古代の言語の扱いなどにも、こうした考え方が反映されていると思います。続けて見て参りましょう。

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「百学連環」を読む:知は広く、行は細かく

2012年 3月 16日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第49回 知は広く、行は細かく

 西欧の学術観に続いて西先生が持ち出した「知行」とは、朱子学の文脈から出てきたものでした。しかも、西先生は、王陽明が唱えた「知行合一」、つまり「知」と「行」は、分けて捉えて済むものではなくて、両者は一体のものとして合一してあるという説を退けて、両者は区別されるものだと主張していたわけです。

 この議論は、なおしばらく続きます。どう展開するか見てみることにしましょう。

又知は廣きを以てし、行は細かなるを以てす。

(「百學連環」第10段落第1文)

 またしても「知」と「行」の違いが論じられていますね。訳します。

また、知は広さによってなすものであり、行は細かさでもってなすものだ。

 今度は広いか細かいかという違いです。知は広さ、行は細かさに関連づけられていますが、これはどういうことでしょうか。

 実は続く箇所では、以上の「知」と「行」の区別を前提として、具体例が挙げられます。これを見てみれば、知行の区別ということで、西先生がなにを念頭に置いているかがはっきりするかもしれません。少し長めになりますが、ここはまとめて読むことにします。

之を或る店に至りて筆を撰ひ求るに譬ふ。其を撰ふに、十本の中より撰ひ出すより、寧ロ百本の中より撰はゝ其善ものを得へし。其善ものを得て直に之を取り用ゆ、是則ち行なり。故に知は廣からんことを欲し、行は細かならんことを欲す。總て行は其知を以て善きを知り、之を直に行ふを云ふなり。學術と知行とは最も能く似たりと雖モ、自から其區別なかるへからす。知行は學術の源なり。

(「百學連環」第10段落第2~8文)

 訳してみましょう。

以上のことを、ある店に行って筆を選んで買い求めることに譬えてみることにしよう。筆を選ぼうと思ったら、十本から選ぶより、百本から選んだほうが、よりよいものを得られる。そのよい筆を手に入れて、すぐこれを手にして使うこと。これがつまり「行」である。このように「知」はいっそう広いことを欲するものだし、「行」はいっそう細かいことを欲するものだ。あらゆる「行」は、「知」によってよいものを見分け、それを行うことである。「学術」と「知行」は大変によく似ているものではあるが、自ずから区別されるべきものなのだ。つまり、「知行」は「学術」の源なのである。

 こういうくだりを読むと、具体例の大切さが身に沁みますね。「知行」という抽象的な議論だけではいささか捕らえどころに困る議論も、たいへん分かりやすくなっています。西先生が挙げている例は「筆」選びでしたが、筆を他のものに置き換えれば、これは誰もが経験のあるところでしょう。

 筆を買いに行く。できれば、よりよいものを選びたい。このとき十本の候補から選ぶのと百本の候補から選ぶのと、どちらがよりよいものに遭遇できそうか。世の中にはどんな筆があるかということを、できるだけ幅広く見知っているほうがよいだろう、というわけです。つまり、幅広い「知」があってこそ、それに続いていっそうよい選択が行える、という次第。

 ただ、この譬え話を読む限りでは、「行」がなぜ「細かさでもってなされる」のかは、今ひとつ分かりません。ここは、「乙本」のほうが説明として整然としています。同じ箇所を比べてみておきましょう。

譬へは今或る店に至りて、筆を撰ひ買ヒ求むるに、其を十本の中より撰ひ出すよりも寧ロ百本の中より撰はゝ、其善きものを得へし、是その知は廣からんことを欲する所なり、其善ものを得て直に取り用ゆるも、其用ゆる所の密ならさればなし、故に行は約かなるを欲するなり、(以下略)

 ここでは「知」と「広さ」、「行」と「細(約)かさ」の関係がきちんと述べられていますね。つまり、せっかく百本からよい筆を選んだとしても、「その筆を使う際に、精密な用い方をしなければ意味はない」というわけです。

 また少し余計なことを申せば、しかしどれだけたくさんの筆を目の前にしたとしても、そこからよい筆を選ぶには、実際にいろいろな筆を使って字を書いてみるという「行」の経験がなければ、実はうまく選べないのではなかろうか、などと思ったりもします。

 つまり、「知」ということのうちには、経験という過去の「行」もまた反映しているのではないか。もう少しはっきり云えば、「先知後行」と云うけれど、「知」は「行」の結果としても蓄積されるのではないか。そんな疑問も浮かんできます。

 しかし他方で、ヘブライ語の知識がない人には、ヘブライ語で書かれた文章が読めないという場合もあります。この場合、ヘブライ語の「知」を得て初めて、ヘブライ語を読むという「行」が可能となるわけですから、「先知後行」がきれいに当てはまりそうです。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
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編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

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