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「百学連環」を読む:新たなる百学連環へ向けて

2013年 11月 8日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第133回 新たなる百学連環へ向けて

 日本が、欧米の文化を本格的に導入しようと動き始めた幕末から明治期にかけて、現在私たちが馴染んでいる各種学術領域やそのための言葉も移入・翻訳されました。大学における学部学科やその分類などの基礎が模索され、据えられたのもこの時期です。

 これは想像してみるしかありませんが、これまで自分たちが使う言語のなかになかったような(あるいはあっても意識していなかったような)、未知の発想、未知の概念を、しかも異語で書かれたものを、なんとかして日本語に移し入れるというのは、いったい全体どういうことだったのでしょうか。

 現在、私たちは先達がつくってくれた、そして目下もつくられつつある、さまざまな辞書や事典を使うことができます。身の回りに当たり前のようにあるために、ついそのありがたみを忘れそうになりますが、もし辞書がなかったらと想像してみると、その便利さが身に沁みてきます。

 例えば、英和辞典のように、異語と母語を対応してみせてくれる辞書が手元(手元どころか世の中)になかったら、誰かが「英語のこの言葉は、日本語ではこの言葉と対応する」と調べ上げておいてくれなかったら、異語で書かれた本を前にして、どうすることができるでしょうか。幕末から明治期にかけて欧米文化に遭遇し、咀嚼しようとした人びとは、まさにそうした助けが乏しい状況で、学術なら学術に向き合ったわけです(中国語と英語を対応させた華英などを利用できたとしても)。

 今回、本連載で読んできた「百学連環」講義は、そうした文化の大転換期を生き、大きな役割を果たした人物の一人、西周が私塾で門下生に向けて欧米学術の全貌を示さんとして行った講義でした。

 西先生は、欧米の学術を文字通り身をもって受けとめ、従来の漢籍の教養をフル活用しながら、しかしそこには収まりきらない知識や発想に対して、新たな日本語を創造し、ときに工夫を重ね、現代にいたるまで使われ続けることになる言葉の礎を築いたのでした。この「百学連環」のとりわけ「総論」は、そうした営みのエッセンスが煮詰められた稀有な記録と言ってよいと思います。

 弟子の永見裕が筆録した「百学連環」講義の全体を読んでいると、「ともかく、彼の地で行われている学術なるものの全体を見渡してやるぞ」という意気込みが伝わってくるようです。これは、生半可な興味や好奇心では、とてもそこまでできるようなことではないとも思います。

 もちろん、未知のものごとに接するにあたり、その全容を確認することは、学術に限らず重要な取り組み方です。全体を見ずに部分だけで物事に取り組むのは、言うなれば自分の手しか見ずに麻雀を打ったり、自分の手しか気にせず将棋やチェスを指すようなものです。あるいは、もう少し学術寄りの譬えをするなら、ある単語の意味を、その単語だけから理解しようとするようなものといってもよいかもしれません。

 百学を見渡してみるということは、上の譬えに乗っていえば、麻雀の場を見ること、将棋やチェスで相手の指し手や盤面を見ること、ある単語を他の単語との関係の中で見ようとすることに相当します。ある学術の位置や価値を知るには、学術全体の様子、他の諸学術との違いを確認してみるに越したことはない、というわけです。

 これは考えてみれば当たり前のことのようです。しかし、実際にどうかといえば、とても自明視できる状況ではないとも思うのです。そもそも私たちは、小中高あるいは大学や専門学校などでなにかを学ぶ際、学術が複数の科目に分かれていることについて、「なぜそうなっているのか」と、考える機会は存外少ないのではないでしょうか。

 例えば、国語と数学が別の科目であることは当たり前のことであり、どうかすれば両者はまるきり関係のないものだ、という理解(勘違い)がまかり通っているように思います。

 他方、本連載で「エンサイクロペディア(Encyclopedia)」や「エンチクロペディー(Enzyklopädie)」について検討した際、こうした名前を冠した講義では、学術全体や当該学術領域全体に関して広く見渡すことが目指されているという様子を見ました。法律を解説する講義の冒頭で、学問論が展開されている例などもありましたね。

 そして、西先生が「エンサイクロペディア」を「百学連環」と見事な言葉で受けとめてみせたことに現れているように、諸学がどのように「連環」しているのか/いないのか、という問題意識がそこにはありました。

 学術史を追跡していると、ある時期まではこうした学術全体を見渡そうとする仕事が少なからず存在していたことが分かります。しかし、諸領域の専門分化が進めば進むほど、そのような試みは稀になってきました。

 そのなれの果てが、私たち自身の受けた教育に現れた諸学術の姿にあったと言えるでしょう。それぞれの学術領域が分かれてあることは、はなから当然のことに過ぎず、なぜそのように分かれているのか、それぞれの学術はどのように連環しあっているのかという視点や問題意識はほとんど失われているように思われます。

 果たしてそれでよいだろうか。大丈夫だろうか。いや、むしろ細分化が進めば進むほど、知識が増えれば増えるほど、その全体を見渡すための地図が必要なのではないだろうか。一つにはそんな関心から、「百学連環」をじっくり読んでみるということに取り組み始めました。そこには、新たな地図をつくるための手がかりがあるのではないかと思ってのことです。

 首尾のほどは、ここまでの道のりをご覧いただいた読者諸賢に判断を委ねるほかはありません。私自身はといえば、西先生がやってみせたような「百学連環」という観点に立った学術論というものは、やはり必要だという思いを改めて強くしたところです。

 それも、できれば学術に携わる人びとの間だけでなく、それこそ義務教育の課程も含めて、すべての人が一応は「こういうことだ」と理解できるような、必要になるつど開いて見られるような、そんな形であらわされた学術の地図があればいいのにと思います。仮にそうした地図をつくる場合には、「百学連環」講義で整理されたことも解かれずに終わった問題も含めて、重要な手がかりを示してくれるはずです。

 そのような底意地に加えて、本連載にはもう少し地に足のついた目的もありました。それは、「百学連環」のテキストを、手軽に読める形にすることです。これは学術に携わる人であれば、一度は眼を通しておきたいテキストだと思うからです。

 いえ、「百学連環」は、『西周全集』第四巻に収められていますから、その気になれば図書館などで読めます(ついでに申せば、この第四巻は、古本でなかなか手に入らない本の一つです)。

 しかし、注釈なしにそのまますんなり読めるかというと、そうもゆかないものです。できれば、この文章を手にしやすくすると同時に、現代の読者にも読みやすい形にしたいと考えた次第です。埋もれかかった古典をもう一度手に取り直し、埃を吹き払って現在の眼で見直してみること。少し格好をつけて言うなら、これはそんな人文学の試みでもあったわけです。

 もっとよい適任者がいらっしゃるはずであるところを、私のような者がしゃしゃり出ることになったのは、巡り合わせの悪戯でありました。

 さて、最後になりましたが、このような連載に快く場所を提供していただいた三省堂のみなさまにこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。

 編集部の荻野真友子さんにこの企画のお声かけいただいた折りには、よもや足かけ3年も続くとは思っておりませんでした。なにしろ「百学連環」の「総論」は短い文章ですし、もう少しさっさと読み進んで、せいぜい1年もあれば終わるだろうという見込みでした。ところが、読めば読むほど調べることが出てきて、気づけばこのような長期連載となったのは、まったく見通しが甘かったというしかありませぬ。とんだ遅読であります。毎週の連載にあたっては、荻野さんをはじめ、木宮志野さん、山本康一さんのお世話になりました。ありがとうございます。

 また、ここまでお付き合いくださった読者のみなさまにも、心から感謝いたします。twitterその他を通じて、「読んでいますよ」とお声かけいただいたことは、どれほど励みになったことでしょう。ありがとうございました。

 というわけで、これにておしまいです。機会がありましたら、またどこかでお目にかかりましょう。ご機嫌よう、さようなら。

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【編集部から】
約3年、連載を通して「百学連環」の内容そのものにも引き込まれましたが、一方「読む」行為についても考えさせられました。西周という人がどのようなものの見方をしていたか、当時の資料を可能なかぎりたどり見ることで、その述べているところがどのようなことなのか明らかにされていく、それを体験するかのようでした。
この連載は終了となりますが、少し時間をおきまして、まとまって読めるような形を考えております。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。この第133回で連載としては終了となります。

「百学連環」を読む:学術分類の行方

2013年 11月 1日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第132回 学術分類の行方

 さて、当初目標に掲げていた「百学連環」講義の「総論」を読み終わりました。あと2回ほど、この場をお借りして、補足と振り返りをしてみたいと思います。まずは補足から。

 第126回「普通学と個別学」で、西先生が学術全体を「普通学(common science)」と「個別学(particular science)」とに分ける様子を見ました。そこで挙げられていた具体例では、こんな具合に分類されていたのをご記憶でしょうか。

普通 歴史、算術、地理学
個別 植物学、物理学

 そして、この分け方を見て、ちょっと疑問を感じたと申しました。少なくとも私の感覚では、歴史や地理は個別具体的なことを扱う学であり、物理学こそ個別具体的なものを離れた一般抽象的なもの、普通の学であるように感じられたからです。つまり、西先生の意図やものの見方に迫り切れていない憾みがあったわけです。

 そういうつもりで、改めて「百学連環」における「普通学」と「個別学」の分類を見直すと、次の通りでした。

普通学(Common Science)
 歴史(History)
 地理学(Geography)
 文章学(Literature)
 数学(Mathematics)

個別学(Particular Science)
 心理上学(Intellectual Science)
 物理上学(Physical Science)

 これは第127回「「普通」とはなにか」で検討したことです。西先生は、現在を知るには過去を知る必要がある。だから「あらゆる諸学を「歴史」と見立ててもよいぐらいだ」と述べていましたね。

 この区別をどう見るか。これが問題です。

 私見ですが、ここで「普通学」と位置づけられている諸学は、どんな学問を専門とするかにかかわらず、全員が学んでおくべき学術の基礎、おおまかな物言いをお許しいただくとすれば、学術の道具(オルガノン)であるという見立てなのではないかと思います。

 「オルガノン(οργανον)」とは、古典ギリシア語で「道具」を意味する言葉です。これはアリストテレスの著作のうち、論理にかかわる諸作品に与えられた名前でもありました。論理は真理を探究する基本的な道具であるという発想です。

 そのような目で上記の分類を見直すと、歴史と地理学は、人間の文化全般を中心として(自然現象も含めて)、時間的・空間的な広がりのなかで捉える学問領域と言えるでしょう。地球という場所で学術を営む人間としては、基本となる学術であるというふうに考えてみることができます。

 また、文章学は、学術を営むにあたって不可欠の言葉に関わるもの。数学は、数や方程式や図形を駆使して、抽象概念を一義的に扱うためのものです。どちらも、それなくしては学術を営むことが難しいものです。

 このように考えると、上記の四領域が「普通学」に位置づけられていることも、理解しやすくなろうかと思います。ヨーロッパの「自由七科」という言い方になぞらえていえば、「自由四科」の基礎教養とでもなりましょうか。

 しかし、それであれば、自然がどうなっているかという理解や、人間精神の働きがどうなっているかという理解だって、学術を進めるうえでは重要な認識ではないか。このようにも考えられます。諸学術のなかで、なにをもって「普通」とするかということは、その分類を施す人の学術観、さらには世界観に大きく依存することでしょう。

 西先生も、この点については考えるところがあったようで、「覚書」に、この分類に関するメモがあります。筆書きのメモのうち読み解けていない文字もあるのですが、読み取れた部分を抜粋してみます。

此普通殊別ヲ今日學ノ上ノ區別ト見ルヘカラス
是其學術ノ性質ニ本テ立ルモノ也
(略)
只學フ上ニハ特ニ世ニ人ニ依リ處ニ随テ猶斟酌アルヘシ
譬ヘハ窮理ヲ普通ニ入ルヽカ如シ
又法学ノ一端ヲ普通ニ入ルカ如シ

(『西周全集』第4巻、宗高書房、333ページ)

 訳せばこうなりましょうか。

この「普通学」と「個別学」という分類は、現在の学に関する区別と見てはならない。
これは学術の性質に基づいて施した区別である。
(略)
学ぶ際には、とりわけ時代や人、場所などを考慮する必要がある。
例えば、物理学を普通学に入れるということもあれば、法学の一部を普通学に入れるということもあるだろう。

 このように、普通学/個別学という分類自体が、相対的なものであることを記しています。

 また、この問題については、『西周全集』の編者である大久保利謙氏も全集第4巻の「解説」で詳しく検討しています。そこで参照されている「覚書」では、要約すると次のことが検討事項として挙げられています。

・普通学に分類した学術の中には、広範にわたるために、普通学と言いがたいものもある。
・例えば、語源学(文学)、測地術(数学)などは個別学である。
・この普通学/個別学という分け方では説明できないこともある。
・歴史→文学と並べたが、この順序も再考の余地あり。
・歴史、文学は心理に属し、数学は物理に属し、地理は中間にある。

 一度は分類を立ててみたものの、満足していない様子が窺えます。大久保氏の解説によれば、西先生はこの後も、学問分類について検討を重ね、分類自体が変化していきました。やはり、前記の解説からその次第を抽出するとこうなります。

 まず、『明六雑誌』に連載した「知説」(明治7年)では、改めて次のように整理されます。

・学問を「普通の学」「物理の学」「心理の学」の三つに分類。
・普通の学には、文、数、史、地が属す。
・この四つの学は、心理と物理に属さず、両理を記述解釈する道具である。

 目立つのは、史、地、文、数という順序が、文、数、史、地と組み替えられていることです。先に置かれたものほど重視されると考えると、歴史と地理の位置が第3、4位に下げられたわけです。

 また、西先生は「日本文學會社創始ノ方法」(『西周全集』第2巻に収録)という講演で、東京学士会院の組織改革案に関連して学問分類を論じています。東京学士会院とは、欧米のアカデミーに倣って、1879年(明治12年)に設立された団体です。後に帝国学士院を経て、現在の日本学士院となります。これも要点をまとめると次の通りです。

・院内を心理諸学と物理諸学とに二分する。
・文学と数学は心理諸学と物理諸学の筆頭に置く。
・文学と数学は、諸学を貫通組織する学術であり、心理と物理の両方に関係するが、文学は心理諸学に関係が深く、数学は物理諸学に関係が深い。
・歴史は心理諸学の一つに分類。

 このように、文学と数学の二つが「普通学」としての位置に残されています。この二つは心理、物理の両者に関わるものだという指摘にも注意しておきましょう。ここでは引用していませんが、西先生は「ここにご出席の先生方は、心理諸学(人文学)、物理諸学(自然科学)の両方に通じていらっしゃるわけですが」と、凄いことをさらりと述べてもいます。

 さて、いずれにしても、学術を遂行・記述する上で不可欠の言語に関わる学術が普通学と見なされているわけです。平たく言えば「読み書き算盤」、当世風に申せば「リテラシー」とでもなりましょうか。それが、時代や場所や人によって違ったり、変化するのは、先にも述べたように学術観や世界観によるわけです。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:心理と物理の関係

2013年 10月 25日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第131回 心理と物理の関係

 学問を物理学系と心理学系に分けた上で、その優劣が問題になっていたところでした。続きを読みましょう。

凡そ物理の開くに從ふて心理も又變易せさるへからす。譬へは父子あり、數百里を相隔てゝ在り。然るに子たるものゝ年々父に歸省せむと欲すとも數十日を費し、己レの勤めを缺く故に年々敢て歸省なす能はす。然れとも今物理開けて、蒸氣船あり蒸氣車ありて、數百里の用を數日に便することあれは、心理之に從ふて變易し、猶年々歸省し得るか如き、心理は物理に從ふて變易するか故に、物理は心理よりも學の主として重すへきものゝ様に見ゆるなり。然れとも物理を使役するものは心理にして、物理は心理に役せらるゝに至るなり。右物理心理の二ツを明かに了解し得るものハ、古來佛家家などの説に力、或は祈祷力、或ハ狐狸の誕なるは總て其理の據る所なきを知るへし。此の如きは歐羅巴中絶てこれなき所なれと、漢儒朱子の如きも未タ其惑を免かるゝこと能はす。

(「百學連環」第50段落第40文~第46文)

 訳してみます。

およそ物理が進展するに従って、心理もまた変わりゆくことになる。例えば、父子がいるとしよう。二人は何百キロも離れて暮らしている。だから、子が年ごとに父のもとへ帰省したいと思っても、数十日を要するし、それでは自分の仕事ができないので、毎年帰省するというわけにもいかない。だが、今日では物理が進展して、蒸気船もあれば蒸気車もある。何百キロの距離であっても数日で移動できるという便利なものだ。そこで、〔こうした物理的条件の変化によって〕心理もその変化にしたがって変わり、毎年帰省できるようになる。このように、心理は物理にしたがって変わりゆくので、物理は心理より中心的な学問として重視して用いられるようになったように見えるだろう。だが、物理を利用するのは心理であって、物理はあくまでも心理によって使われるようになるものだ。右に述べてきたように、物理と心理の二つをはっきりと理解できれば、昔から仏教や神道で言われてきた「神力」や「祈祷力」や「狐狸」といったものがまるで根拠のないデタラメなものであることが分かるはずだ。こうしたことは、ヨーロッパではすでに見られなくなったものだが、儒教や朱子学のようなものは、いまだにこうした惑いを免れていないのである。

 少し長くなりましたが、ここで述べられている具体例自体は、特に理解しがたい内容ではないと思います。物理が進展する、つまり、自然科学によって物質世界の性質や規則性が発見されるに従って、その発見を応用してさまざまな技術が発明されてゆきます。西先生からさらに百年を隔てる私たちは、飛行機や新幹線といった各種移動手段はもちろんのこと、コンピュータやそのネットワーク、個人が手軽に携帯できる小さな端末など、技術の粋を集めた道具を使っているところです。

 もう少し言えば、私たちは技術によって、人工的に自らの住む環境をさまざまに造り替えています。そうすることで、百年前なら到底不可能だったこと、例えば、Skypeなどのインターネット上のサーヴィスを使って、ネットにつながったコンピュータさえあれば、地球上のどの場所であれ(そうした通信が規制されていなければ)、テレビ電話で互いに顔を見ながら話し合うことができます。

 こうした物理環境が変化することによって、人の心理も変化を被るという指摘は頷けると思います。例えば、デジタルカメラやスマートフォンが普及した結果、利用者のなかには食事やお茶のテーブルを撮影して、twitterやfacebookといった各種ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス(SNS、インターネット上に設置されたコンピュータを経由して利用者同士が互いの投稿を閲覧したりやりとりをする仕組み)に投稿する人も少なくありません。というよりも、日常茶飯事となっています。こんなふうに行動する人は、ひょっとしたらカフェでお茶をする時にも、街を散歩している時にも、目に入る光景を「カメラで撮影して、SNSに投稿できるものか否か」という目で見るようになっているかもしれません。これも、物理の変化に伴って心理が変化する例です。

 あるいは、インターネットの普及以前なら、辞書を引いたりものを調べたりするのを面倒がっていた人でも、いまでは分からないことに遭遇したら、すぐにネットで検索する習慣がついているかもしれません。

 ともあれ、物理環境が変わることで、心理にも変化が及ぶという指摘は、時代を問わず言えることだろうと思います。

 では、物理のほうが主で、心理は従なのか。西先生はそのようには言っていませんが、敢えて図式的にはっきりさせれば、そういう構図でしょう。しかし、そうではない。物理を使うのは、あくまでも心理なのだと主張しています。前回見た箇所で、西先生は、物理と心理を軍事に譬えていました。どんな兵器や装置かというのが物理だとすれば、これをどんなふうに用いたり、作戦を立案するかが心理だということでしたね。ことは軍事に限らず、どのような物理であっても、人がそれをどのように使おうと考えるか次第、つまり心理次第であるというわけです。ここには、なにを「善し」とし、なにを「悪し」とするかといった、倫理の問題も関わってきます。

 また、このくだりの余白には、次のようなメモが見えます。

心理物理互に關渉するものなりといへとも、先心理開けて物理開ケ物理開ケて心理益明カナリ。

 訳せばこうなりましょうか。

心理と物理は相互に干渉するものだが、まずは心理が進展し、次に物理が進展する。そして物理が進展することで心理がまた明らかになる。

 鶏と卵のような話ではありますが、まず心理が先に進むと述べられています。自分が置かれた状況や経験からなにかを発想する。その発想に従って、環境を変化させる。環境の変化に応じて、また新たな発想が生まれる。映画『2001年宇宙の旅』の冒頭を思い出します。はるか太古の地球で、猿が動物の骨を手にしている。その骨がなにかの拍子で地面を打って、そこにあった骨に当たる。いま何が起きたのかと思いを凝らす猿。同じ動作を試すように繰り返し、発見が確信に変わる。この骨でものを叩くことができるぞ!

 つまり、この猿は、それまでただの骨、動物の死骸に過ぎなかったものを、ものを叩くための棒として認識したのでした。この心理の変化によって、以後、骨は道具となり、他の群れとの戦い方も変わります。それまでとは戦いに臨む心理もおおいに変わったことでしょう。

 事柄の複雑さや単純さは別として、西先生が指摘していることは、そういうことではないかと思います。

 そして「総論」最後の文章です。

此書學術を以て相連ねて二編とし、學を以て前編とし、術の學に係はりて離るへからさるものは並ひ説くを要し、術を以て二編とす。ち第一編は普通の學を説き、第二編は殊別學、心理物理の二ツを説くを要す。

(「百學連環」第50段落第47文~第48文)

 訳します。

この書物では、学術を連ねて二編とする。前編では「学」を、後編では「術」を扱う。ただし、術が学に関係して分離すべきでないものについては併記する。つまり、第一編は「普通の学」、第二編は「個別の学」、つまり「心理」と「物理」の二つを説くことになる。

 「百学連環」本編の構成を説明したくだりです。ただ、この書き方は少し紛らわしいですね。そこで、同じ箇所を乙本で補うと、どうやらこういう構成であることが分かります。

第一編 学
・普通学
・個別学
 ・心理
 ・物理

第二編 術

 以上で、本連載当初の目標であった「百学連環」の「総論」を通読しました。連載を終わる前に、これまでの道のりを振り返って、補足と感想を述べたいと思います。もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。

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=社(U+FA4C)
=神(U+FA19)
=祈(U+FA4E)
=禱(U+79B1)
=虛(U+865B)
=卽(U+537D)

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:心理と物理を軍事に譬える

2013年 10月 18日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第130回 心理と物理を軍事に譬える

 学問は、「心理系学問」と「物理系学問」に分けることができるというくだりを読んでいたところでした。続きを見て参りましょう。例によって具体例が示されます。

心理、物理の二ツを譬へは軍をなすに其サを論し及ひ銃砲器械等に就て論するは物理なり。其の計策及ひ方略の如きは心理なり。凡そ物理は眼のる所に係はり心理は聞く所に係はるなり。故に盲人は物理を知らす、聾は心理を知らさるに似たり。物理は禽獣も知るものにして、心理は知ること能はす。

(「百學連環」第50段落第30文〜第34文)

 訳してみます。

心理と物理の二つを、軍事に譬えてみよう。軍の強さや、銃砲・装置などについて論じるのは物理である。軍の作戦や戦略は心理である。およそ物理は、眼に見えるものに関わっており、心理は聞くものに関わっている。眼の見えない人は物理を知らず、耳の聞こえない人は心理を知らないことに似ている。鳥や獣も物理は知っているが、心理を知ることはできない。

 心理と物理の区別を、まだそうした発想に馴染みのないかもしれない聴講者たちに、どう理解してもらうか。西先生の苦心が忍ばれます。軍に譬えて、兵器や装置などのモノに関わる側面を物理、そうしたモノを使ってどうするかといった企図などの人間の考えに関わる側面を心理というわけです。

 また、その次に書かれていることは、少し分かりづらいように思います。というのも、ここでは視覚を物理、聴覚を心理に割り当てていますが、これはどういうことでしょう。

 推測ですが、こんなふうに解釈できるかもしれません。人の心やその理は、そもそも眼に見えるものではない。誰かの心の状態を感知できるのは、その人が、口から発する言葉をもって、自分の心理(内心)を表現するからだ。だからその音としての言葉を聴き取ることが、心理の理解である——もしこう仮定すれば、西先生の言うことも理解できなくはありません。

 とはいえ、眼から見える表情や動作や文字で書かれる言葉などによっても、まったく同じではないとしても、同様の「心理」を推測できるはずです。同じように、物理は眼に見えるものだけに関わっているわけではないとも考えられます。そのように考えた場合、少々解しかねる譬えであります。。

 また、動物が心理を知ることはないというくだりについても、動物を飼ったことがある人なら、異論があるかもしれません。もっとも、いたずらを飼い主に見つけられた犬が、人間から見ると誠に申し訳なさそうな顔をしているというのは、あくまで人間が犬を擬人化して見ているからだとも言えます。とはいえ、それなら相手が人間で、他人の心理を本当に「知る」ことができるかといえば、これも怪しくなってきます。

 心理は耳で聞こえるものだという主張は理解しかねますが、基本的に物理は眼に見え、心理は眼に見えないという区別であれば、まだ飲み込みやすいとも思います。

 さて、こうした譬えに続いて、さらに心理と物理の議論が続きます。

心理と物理とは互に相關渉して分明に辨別なしかたきものとす。西洋近來に至りては物理大に開け、materialism の説に學は物理にありと云ふに至れり。然れとも是亦沈溺するの説にしてち從ふへきにあらす。心理の學なきときは禮義の道も自から廢するに至るへし。併シ近來は物理の心理に勝ち得る甚た大なりとす。

(「百學連環」第50段落第35文〜第39文)

 materialism の左側には「物理家」という漢語が添えられています。では、訳しましょう。

心理と物理は、互いに干渉しあって、はっきりと区別しがたいものだ。西洋では、近年になって物理がおおいに発展し、唯物論〔物質主義〕によれば「物理こそが学問である」と主張するに至っている。だが、これは〔唯物論という主義に〕溺れている説であり、むやみに従うべきものではない。心理に関する学がなければ、礼儀の道もやがて廃滅してしまうだろう。だが、近年においては、物理が心理をおおいに圧倒しかねない勢いになっている。

 先ほどは学問を心理学系と物理学系とに分類してみたわけですが、そうはいっても心理と物理は、はっきりすぱっと区別できるものではないと注意を促しています。

 しかし、ヨーロッパでは、唯物論(materiailsm)の立場があり、そこでは極端に言えば、心や精神などというものは実際には存在せず、本当に在るのは物質だけだと考えるわけです。「唯(ただ)物だけがある」とはよく訳したものですが、もう少しフラットに訳すとしたら「物質主義」とでもなるでしょうか。人間の体も物質であって、この仕組みや機能がしっかり解明された暁には、心や精神といった考え方は不要になるという次第です。

 そういえば、この「百学連環」が行われた明治3年(1870/71年)は、まだカール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)も存命で、1867年に『資本論』の第1巻を刊行したところ。フリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)とともに「史的唯物論(historischer Materialismus)」と呼ばれ、後にさまざまな人物によって発展されてゆくものの見方を鍛え上げている最中でした。西先生が、どこまで当時のそうした状況を念頭に置いていたかは分かりませんが、自然科学のますますの進展とあいまって、唯物論/物質主義の発想が学問を席巻し始めていたという認識が、ここには現れています。

 余談になりますが、「百学連環」本編の生産学、政治経済学について論じたくだりでは、マルクスの名前こそ見えませんが、ロバート・オーウェンの社会主義、サン・シモンの共産主義、シャルル・フーリエのフーリエ主義などが紹介されていました。

 さて、次回は物理が心理に勝りつつあるという状況について、もう少し議論が展開されます。いよいよ「百学連環」の「総論」最後のくだりです。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

「百学連環」を読む:心理と物理

2013年 10月 11日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第129回 心理と物理

 では、「総論」の続きに戻りましょう。学術全体を「普通」と「個別」に分けた後、さらに分類の話が続きます。

又學に Intellectual Science 及ひ Physical Science とて二ツあり。此心理上の學を歐羅巴中極りなく種々に呼ひなせり。mental, moral, spiritual, metaphysical 等なり。此中物理外の學と云ふを最も適當なりといへとも、〔是亦古き學派にして方今は陳腐に屬せり。凡そ物理外の學はち心理学なるか故に、〕又且ツ心理學たるものは幾何ありと極りあるものにあらす。

(「百學連環」第50段落第25文~第29文)

 ここでは、英語のうち次のものについて、その左側に漢語が添えられています。

 Intellectual  心理上ノ
 Physical  物理ノ
 mental  心性
 moral  禮義
 spiritual  
 metaphysical  物理外ノ

 また、〔〕でくくられた箇所には、編者による補足として「以下原文三十六字缺文、次に掲ぐる百學連環聞書に依つて補す」と右側に添えてあります。つまり、乙本から当該箇所を引用して挿入したという意味です。では、訳してみましょう。

また、学問には「心理系学問(Intellectual Science)」と「物理系学問(Physical Science)」の二つがある。この「心理系学問」については、ヨーロッパでも決まった呼び方があるわけではなく、「心性(mental)」「礼儀(moral)」「精神(spiritual)」「物理外(metaphysical)」など、いろいろな呼称がある。このうち「物理外」という言い方が最も適切だが、〔これはこれで古い学派であり、現在では陳腐になっている。また、物理外の学問とは、要するに心理学であるのだし〕かつ、心理学は何種類あるかといった決まりがあるわけでもない。

 今度は学問を「心理系学問」と「物理系学問」という二つに区別しています。これはちょうど前回、「個別学」を検討した際にも登場したものですね。

 また、Intellectual と同じように用いられる語がいくつか並べて紹介されています。それぞれの語に対応する訳語は、西先生の訳語をそのまま踏襲しておきました。少し注釈をつけるなら、moral とは現在「道徳」などと訳されたりもする語です。ただし、19世紀以前の哲学書などにおいては、moral とは必ずしも道徳のような意味だけを担っていたわけではなく、「精神(mind)」に関することというほどの意味で用いられていました。

 また、metaphysical を「物理外」と訳しているのは、分かりやすいと思います。この語は漢籍を援用して「形而上」と訳されたりもしますが、もとはと言えば、アリストテレスの全集を編んだ後世の編者が、ある書物について、「自然学(physics)」の後に置かれた書という意味で「メタフュシカ」と名付けたという話も伝わっています。

 同書は、この世界に存在するあらゆるもの(存在者)の根本、「存在」というなにかについて、その本質を明らかにすることを目指した書物でした。大変込み入ったややこしい話ですが、もうちょっとだけ言い換えてみます。つまり、物質としてこの世界に存在する具体的なもの(動植物や鉱物やその他)ではなく、むしろそうした存在するものを存在させている条件、原理を考え抜こうというわけです。

 こう聞くと、まったく雲を掴むような話に聞こえますが、実際にも後に「形而上学(metaphysics)」といえば、机上の空論といった否定的な意味や皮肉に使われるようにもなったようです。

 それはともかく、こうした態度でものを探究すること、具体的な事物や自然物を超えて探究することを「メタフュシカ」と呼ぶようになった。そんな西洋哲学史の一コマがあります。

 そのつもりで「百学連環」を見てみると、「第二編」中、西洋哲学史においてアリストテレスを紹介するくだりで、Metaphysics に言及しています。そこでは、「性理學」という訳語が与えられています(『西周全集』第4巻、172ページ)。その「性理」については、別のところで「サイコロジー」とルビを振っていたりもします(同書、149ページ)。また、ドイツ観念論を紹介するくだりでは Metaphysic School に「空理〔学派〕」との訳語を当てている例も見られます(同書、180ページ)。これらの訳語についても、本来は検討すべきところかもしれませんが、ここで読んでいる「総論」の範囲では、そこまで深追いせずともよいことなので、このくらいにしておきましょう。ただ、西先生は、この metaphysics という語を、文脈に応じてなんと訳すか考えていた痕跡を確認できればと思います。

 話を戻します。「心理系学問(Intellectual Science)」の Intellectual をさまざまに言い換えてみせているところでした。なかでも「物理外(形而上)」の位置付けは、その訳語に現れている通り「物理」の「外」であり、それはおおよそ「心理」のことであると論じられていますね。

 これは、世界や宇宙全体を、物質と精神の二種類に分けて捉える二元論的な見立てに則ったものといってよいでしょう。この発想は、例えば、ルネ・デカルトにおいてはっきりと言明され、精神と身体(物質)はどのように関わり合っているのかという心身二元論という大問題が明確になったのでした。

 ただし、西先生がデカルトを紹介した箇所では、かの方法的懐疑(物事を正しく認識するために、一旦は疑えるものは全部疑い尽くしてみるという方法)を紹介するに留まっています。

 では、西先生はこの心理と物理という区別について、どのような考えを持っているのでしょうか。実は本連載で読んでいる「百学連環」の「総論」も、残すところ1ページを切りました。その最後にいたる行は、心理と物理に関する検討に当たられています。読みながら考えてみることにしましょう。

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「百学連環」を読む:「個別」とはなにか

2013年 10月 4日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第128回 「個別」とはなにか

 さて、前回は「普遍学」と「個別学」のうち、前者について検討しました。続いて「個別学」についても見ておきましょう。

 すでに述べたように、素朴な疑問として、物理学がなぜ個別学に分類されるのかということが気になります。そこで、「百学連環」の本編のうち、関連する箇所を覗いてみることにします。

 まず、本編の「第二編」冒頭、これから個別学のパートに入りますよ、というところでこんなふうに述べられています。

Particular Science ち殊別學の性質に二ツの區別あり。Intellectual Science 及ひ Physical Science 是なり。心理上の學は分つて三種とす。第一 Theology 第二 Philosophy 第三 Politics & Law 等なり。

(「百學連環」第二編、『西周全集』第4巻、111ページ)

 英単語には、それぞれ次のような漢語が左側に添えられています。

 Intellectual  心理上ノ
 Physical  物理上ノ
 Science  學
 Theology  理學
 Philosophy  哲學
 Politics  政事
 Law  法律

 訳してみましょう。

「個別学(Particular Science)」には二つの性質がある。「心理系学問(Intellectual Science)」と「物理系学問(Physical Science)」である。心理学系はさらに三種類に分かれる。神学、哲学、政治・法学である。

 特に「個別学」とはなにかといった説明は見あたらず、西先生はそのまま神学と宗教の解説に入っています。人民によってなにを神とするかは違うとか、宗派の争いがあるといった概要を述べたうえで、そこからしばらく、日本、支那、天竺、百児西亜(ゾロアスター)、小亜細亜、耶蘇教、回々教という具合に、やや詳しく解説してゆきます。

 次に論じられる哲学も、論理学、生理学、存在論、倫理、政治哲学、美学の六分野に分けられると述べた後で、それぞれについて解説しています。ここでも、西洋の哲学史を辿ってから、中国に目を移し、人物や文化によって考え方が違うことに注目しています。「個別学」たる所以でありましょう。

 では、物理学はどうか。「第二編」の「第二」として「物理上学(Physical Science)」が俎上に載せられます。上記の現代語訳では、これを「物理系学問」と訳しました。その冒頭では、「物理上学」を「物理学(Physics)」「天文学」「化学」「博物誌」の四つに分けています。

 その上で「物理学」の解説が始まります。そこではまず、イギリスにおいて Physics は Natural Philosophy(物理上哲学)とも称されること。これは、Mental Philosophy(心理上哲学)に対するものであることが述べられます。Natural Philosophy とは、現在では「自然哲学」と訳されもします。「自然科学(Natural Science)」という名称が普及する以前、いまでいう科学に該当する領域を「自然哲学」と称していたのでした。

 いずれにしても、ここには「物理」と「心理」を対で考える発想が見られることに注意しておきましょう。現在の分類の仕方でいえば、自然科学と人文学に対応する発想でもあります。

 さて、この「物理学」を論じるくだりで、いま私たちが注目している common と particular に関する説明があります。その箇所を見ておきましょう。

格物學と化學とは最も混雑し易きか故に、之を分明に區別せさるへからす。此二學は皆 matter を論するものにて、格物學はマットルの more common なるものに就て論し、化學はマットルの more particular なるものに就て論す。
 普通の物とは譬へは水に物を沈めるとし、石も沈ミ、鐵も沈ミ、鉛も、金も、銀も沈むか如き、是皆沈む物の普通たり。殊別とは一ツ一ツの物に就て論するものにて、譬へは金は金の引力あり、銀は銀の引力あり、鐵は鐵の引力ありと論するか如く、物に就て悉く區別して論するものなり。

(「百學連環」第二編、259-260ページ)

 上記中、matter には「物質」、common には「普通」、particular には「殊別」という漢語が左側に振られています。訳してみます。

物理学と化学はたいへん混同しやすいものだけに、はっきり区別する必要がある。この二つの学は、いずれも「物質(matter)」を論じるものだ。「物理学」では、物質について、より普通の側面を扱い、「化学」では、より個別の側面を扱う。
 ここで言う「普通」とはなにか。例えば、水に物を沈める場合で考えよう。石でも鉄でも鉛でも金でも銀でも、いずれも水に沈む。つまり、これらの物質はどれも水に沈む点で、共通の性質を持つ(普通である)。他方で「個別」とは、〔物質の共通性ではなく〕一つ一つの物質の性質のことだ。例えば、金には金の引力があり、銀には銀の引力があり、鉄には鉄の引力があるという具合に、物質をことごとく区別して論じるのが、個別ということである。

 ご覧のように、個別の物質に共通する性質を見てゆくのが「普通(common)」であり、むしろ個物の違いをそれぞれ見てゆくのが「個別(particular)」という区別のようです。

 西先生の見立てとしては、物理学も化学も物質という具体的な個物を扱う学問であり、物理学のほうは中でも普遍的な性質を扱うもの、化学は個別の性質を扱うものということでしょうか。

 普通学と個別学の分類基準が、今ひとつ腑に落ちません。といっても、分類というものは、必ずある観点の表明でもあります。西先生による学問分類の是非というよりは、その分類は、果たしてどういった発想からなされているかということを、できれば理解したいと思っています。

 再び「総論」に戻って、残る部分を読みながら考えてみることにしましょう。

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「百学連環」を読む:「普通」とはなにか

2013年 9月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第127回 「普通」とはなにか

 前回は、学術に「普通(common)」と「個別(particular)」という二つの性質があるという分類が論じられました。これは、「百学連環」という講義全体に関わることでもあります。今回はそのことを見ておきましょう。

 そこでまずは「百学連環」本編全体で、学術がどのように分類、配置されているかを眺めてみます。『西周全集』第4巻の巻頭には、編者の大久保利謙氏がつくった詳細な目次が掲げられています。そこでは、学術が大小四つの水準からなる階層構造で表現してあります。例えば、「普通学」の下に「歴史」があり、その下に「正史」があり、さらにその下に「万国史」があるという具合に、大分類から小分類へと細かくなっていきます。

 ここでは全体を概観したいので、大きいほうから二つの分類だけに注目して一覧してみましょう。ただし、particular については、「殊別」ではなく、前回お示しした現代語訳に合わせて「個別」と変えてあります。また、それぞれの漢語に対応する英語を括弧に入れて示します。

普通学(Common Science)
 歴史(History)
 地理学(Geography)
 文章学(Literature)
 数学(Mathematics)

個別学(Particular Science)
 心理上学(Intellectual Science)
 物理上学(Physical Science)

 前回、この分類に初めて触れたとき、ちょっと違和感があったと述べました。印象では、「歴史」や「地理学」は「個別学」のように思えるし、逆に「物理学」はむしろ「普通学」なのではないか、とも感じたからでした。

 では、西先生はどういう考えから、このような分類を施しているのでしょうか。本連載では、「百学連環」の「総論」を読んでいるのですが、ここでは、上記の疑問について検討するために、少し「本編」を読んでみようと思います。

 さて、上記のように「百学連環」第一編の筆頭に置かれているのが「普通学」の「第一 歴史」です。その冒頭で、西先生はこのように述べます。

Common Science ち普通の學の性質なるもの四ツあり。第一 History 第二 Geography 第三 Literature 第四 Mathematics 是なり。此四學は普通の性質たる如何となれは、第一 History なるものは古來ありし所の事跡を擧て書キ記し、所謂溫故知新の道理に適ふを以て普通とす。學者苟も今を知るを要せんには、必す先つ之を古に考へ知らさるへからす。

(「百學連環」第一編、『西周全集』第4巻、73ページ)

 例によって訳してみましょう。

「普通学(Common Science)」の性質をもつ学問には、次の四つがある。つまり、「歴史」「地理学」「文学」「数学」である。この四学が普通の性質を具えているとはどういうことか。例えば、第一に挙げた「歴史」は、古来の出来事を挙げて書き記す。これはいわゆる「温故知新」の道理にかなっている。だから「普通」なのである。学者は、いやしくも現在について知りたいと思えば、その前に過去について考え、知らなければならない。

 いかがでしょうか。第50回「温故知新」以来、何度かこのことの重要性が強調される場面を見てきました。過去を知ることで現在が分かる。過去のことは現在に通じる。歴史が普通学と言われるのは、どうやら過去から現在まで通じるものがあるという観点からのようです。

 いま見た箇所に続いて、西先生は具体例を挙げています。ここでは要約してご紹介しますと、こんな話です。「太陽とはなにか」ということについて、昔からいろいろな説が唱えられてきた。古代では巨大な火の塊と考えられていた。中古になって、太陽は火の塊などではなく、地球のような光を発しない天体だと見なされた。ところが現在は、古代と同様に、太陽は巨大な火の塊だと捉えられるようになった。こんな例を述べてから、次のように解説します。

史を以て普通の性質とするは略此の如く、古今に通するに依る故なり。
 凡そ學んて今をしらんには、必しも之を古に考へさるへからす。學は素より古へを知り、今を知り、彼れを知り、己レを知るを要するか故に、總て諸學を以て史と稱するも亦可なりとす。

(「百學連環」第一編、『西周全集』第4巻、73-74ページ)

 訳します。

歴史が「普通」の性質を具えているという意味は、大まかにいって以上のように、古今に通じることだからである。
 なにかを学んで現在を知ろうと思えば、過去を知る必要がある。学問とは、もとより過去を知り、現在を知り、彼を知り、己を知る必要があるものだ。だから、あらゆる諸学を「歴史」と見立ててもよいぐらいだ。

 このように、どうやら現在の歴史学ということで私たちが連想するよりはるかに大きな意味で、西先生は歴史が普通学であると考えているようです。歴史は個々の出来事を記すもの、という観点から見ると、個別学なのではないかと思えるのですが、どうやら西先生の見立ては、過去と現在に通じるものがあるということに力点があるようなのです。そして、それを「普通」、普(あまね)く通じる性質であると見ているのでした。

 ただし、上記の四学は普通学だといっても、その諸学の下に属するさまざまな学の中には、個別の性質をもったものもあるし、必ずしも普通/個別をきれいに区別できないこともあると西先生は注意を促しています(『西周全集』第4巻、108ページ)。

 次に、「個別」についても見ておくことにします。

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「百学連環」を読む:普通学と個別学

2013年 9月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第126回 普通学と個別学

 学と術は、あたかも二本の糸のようであり、それぞれの糸には個々の学や術が連なっている。これが前回読んだくだりで述べられた譬えでした。その話の最後で、西先生はこんなことを言っています。

今世上學術の多寡を論せんには、學を爲すものは少く術をなすものは多し。従來學術相關して、學あれは其術あるか如く並ひ行くものにあらす。

(「百學連環」第50段落第第14文~第15文)

 訳してみます。

現在の学術の多寡を論ずるなら、学をなすものは少なく、術をなすものが多い。従来から学術は、互いに関連しあって、学があればそれに関する術があるといった具合に〔同じぐらい〕並んであるものではない。

 つまり、学に対して術が並列して揃っているわけではない、という次第です。多少ということで言えば、学は少なく、術が多いというのですね。現在はどうなっているでしょうか。西先生の頃に比べて、学も相当に細分化されている印象がありますが、実際のところは分かりません。そもそも「学」や「術」をどのように区別したり、数えるかというやり方次第という面もありそうです。

 ともあれ、ここでの含意は、学と術が必ず対応して揃っているとは限らないということで理解しておけばよいでしょう。

 続きを読んで参りましょう。学術に焦点を当てたまま、いよいよ最後の話題へと転じてゆきます。

又學術に二ツの性質あり。一は common 一は particular 是なり。普通とは一理の萬事に係はるを云ひ、殊別とは唯タ一事に關するを云ふなり。譬へは算術の如きは今日の萬事より其他種々に關渉す、是普通なり。本草學の如き是を殊別とす。又窮理學の如きは殊別にして、史、算術、地理學の如きは是學問の普通の性質、ち今日學ふ所の普通なり。此の普通、殊別の二ツは學ひ行く所に就て論するにあらす。今學ひ行くには時あり、處あり、人あるものなれは、世に普通學と稱するなとは〔他の〕人より其人を指して云ふ語にして、學の性質に就て論するにあらす。是等も亦區別して了解せさるへからす。

(「百學連環」第50段落第第16文~第24文)

 common には「普通」、particular には「殊別」という漢語が、左側に添えてあります。訳してみましょう。

また、学術には二つの性質がある。一つは「普通(common)」、もう一つは「個別(particular)」である。「普通」とは、一理が万事に関わることを指す。「個別」とは、一事だけに関わることをいう。例えば、算術は、今日のあらゆること、その他さまざまなことに関わっている。つまり、算術は普通〔の学〕である。植物学は個別である。また、物理学も個別だ。歴史、算術、地理学は、学問に普通〔共通〕の性質を備えるものであり、今日学ぶものとしては普通のものだ。ただし、この「普通」「個別」という二つの区別は、学びについて論じたものではない〔ことに注意しよう〕。なにかを学ぼうと思えば、いつ、どこで、誰に学ぶかということが関わってくるものだ。世間で「普通学」と称しているものは、余人がある人を指して言う言葉であって、学そのものの性質について論じているわけではない。こうしたこともまた区別して理解する必要がある。

 さて、ここでは「百学連環」全体の構造に関わる大きな話が登場します。つまり、学術全体を大きく二分する性質が論じられています。その二つの性質について西先生は、common を「普通」、particular を「殊別」と訳しました。

 これを現代語としてなんと訳すかは、おおいに迷うところです。というのも、現在「普通」といえば、たいていは「ありふれているもの」といった意味で使われることのほうが多いように思います。「どこにでもいる普通の高校生」式の用法ですね。しかし、ここではその意味ではありません。「一理が万事に関わる」というわけですから、「普(あまね)く通じる」という意味です。

 気持ちとしては「普遍」「一般」「共通」とでも訳したいところですが、「普通」としておきました。西先生が注意しているように、当時使われていた「普通学」という言葉との重なり具合も見えるようにしておきたいと考えてのことです。ですから、分かりづらいと感じる向きは「普遍学」「一般学」「共通学」などと読み替えていただければと思います。また、particular のほうは、「個別」や「特殊」と言い換えてよいでしょう。

 このくだりの余白には、次のような図が掲げられています。

126_1_l.jpg

 向かって上の図は、一つの理が万事に対応していることを示したものだと思われます。つまり「普通」を表しているのでしょう。対する下の図は、一つの理が一事に対応していること、つまり「個別」を示しています。といっても、この図では一つの理が横棒に対応しているようにも見えますね。乙本で同じ図を見ると、この点が訂正されているようです。

126_1_l.jpg

 このように、一理から出た縦線は、短い横線に対応するように正されていますね。

 さらに面白いのは、その具体例です。西先生がここで挙げているものを、改めて分けて書くとこうなります。

普通 歴史、算術、地理学
個別 植物学、物理学

 私は、初めてここを読んだとき、「あれ?」と不思議に思いました。というのも、自分の感覚では、どちらかというと物理学は普通学で、むしろ歴史や地理学こそ個別学のように感じたからです。この疑問については、次回もう少し詳しく検討してみることにします。

 ここではあともう一点、世間でいう「普通学」と混同してはいけないという注意について見ておきましょう。世間で言われている「普通学」とは、おそらく、いまで言う「一般教養」を指していると思われます。例えば、「百学連環」講義からは少し後のものになりますが、元良勇次郎(1858-1912)の『教育新論』(中近堂、1884)の第2章に「普通学ト専門学ノ関係」という議論が出ています。現代でも、教養科目と専門科目といった区別は残っていますね。

 あるいは、木村知治『帝国議会衆議院撰挙人心得』(兎屋、1889)には、議員が備えるべきものとして学識が挙げられています。そこでは「普通の学識を有したるもの」である必要ありと論じられ、「普通学」とは何かという解説が施されていたりもします。そればかりか「普通学を充分修めたる人物にあらざれば如何に理屈を構ふるも徒に空論に陥り或は偏理となり……」と、専門学だけ学ぶのでは駄目だと釘を刺していたりします。

 西先生が、「世に普通學と稱するなとは〔他の〕人より其人を指して云ふ語」と言ったものも、「普通の学識を有す」という場合のように、人に属するものとしての学のことを指していたのだろうと思います。しかし、「百学連環」で言う「普通学/個別学」という区別は、そうではなく、学術そのものを分類するものの見方であるというわけです。

 次回は、「百学連環」における学術分類の全体を見渡しながら、「普通学」と「個別学」の違いについて、さらに検討してみることにしましょう。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

「百学連環」を読む:連環というイメージ

2013年 9月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第125回 連環というイメージ

 学術の体系と方法の話が終わって、いよいよこの「総論」の終わりにさしかかりました。『西周全集』でのテキストでは前回読んだ部分から改行なしに、話題が転じます。

右總論中學術に相關渉する所を以て種々に辯解せり。今此編を額して連環と呼なせしは、學術を種々の環に比し、是を二筋の糸を以て連ねたる如く、學と術と二ツに區別し、始終連ね了解せんことを要す。

(「百學連環」第50段落第11文~第12文)

 訳してみましょう。

これまでのところ「総論」では、学術に関わることをさまざまに説明してきた。いま、この一編に「連環」という言葉を冠しているのは、学術をさまざまな「環」に譬え、この環を二本の糸に連ねたようなものとして、学と術の二つに区別したうえで、これらを連ねて理解しようというわけであった。

 「百学連環」という講義名は、この「総論」の最初に説明されていたように、そもそも Encyclopedia を訳したものでした(第8回参照)。この訳語そのものを改めて眺めれば、「百」の「学」が「連環」となっている、という形をしています。ここで「百」とは、具体的な数ではなくたくさんの、無数のというほどの意味でした。

 では、「連環」という言葉にはどんな含意があったか。そのことを、西先生は説明しています。一つ一つの学と術を、それぞれが一つの環であると見立てる。そして、それらの環が、学と術という二本の糸で連ねられている、そういうイメージです。

 このくだりには、図が添えられています。ご覧のように、水平方向に二本の線があり、そこに複数の環が連なっています。気になるのは垂直方向に引かれた線ですが、これについては先を読みながら考えましょう。

125_1_s.png

 連環があくまで譬えであることを念頭におきつつ、しかし、ここに示された図から思うことがあります。

 例えば、図の向かって上の線が「学」だとしましょう。学の糸にさまざまな個々の環(学)が並んでいます。もしこの図のように環が並ぶとしたら、それぞれの環は、糸の上でどこに位置するかという違いも出てきます。言い換えると、環の並び方も検討することができそうです。

 また、このように糸の上に一列になって環が並ぶとすれば、環同士の関係は比較的すっきりしています。例えば、ある環に注目すると、その環と直接関係しあうのは、その両隣の環というふうにも読めます。しかし、実際のところ、学や術の環は、もっと複雑に絡み合っていたりはしないでしょうか。例えば、五つの環が相互に結び合うような関わりのように。そんな疑問も湧いてきます。

 とはいえ、物事を整理する上では、こうした比較的簡単な図のほうがイメージしやすいはずです。それに先にも述べたように、これはまず学や術がばらばらにあるものではなく、相互に連なり合っていることを表すことを目的とする図でありましょう。上記したような疑問を問う前に、まずはこの図でもって西先生が表そうとしたことを十全に汲み取ることが先決です。

 話は次のように続きます。

しかし環に白色なるあり黒色なるありて、學術自から一樣ならさるものなるか故、是は區別せさるへからす。

(「百學連環」第50段落第13文)

 訳します。

しかし、環には白いものもあれば黒いものもある。一口に学術といっても一様ではない。だから区別する必要があるのだ。

 つまり、学術は連環になっているというけれど、そもそもどうして環が複数あるのかということを説明しています。学も術も、まとめていえば学であり術だが、その内実を見れば、いろいろな違うものがある。だから、それらを区別して、一つ一つの環(学や術)として分けて考える必要があるということです。

 ここで思い出しておきたいのは、第22回「学域を弁える」で読んだくだりです。現代語訳で該当箇所を見直しておきましょう。

一般に学問には学域がある。例えば、地理学には地理学の学域が、政治学には政治学の学域があって、そうした領域を越えてあれこれが混雑することはない。地理学には地理学の領域が、政治学には政治学の領域があり、どこからどこまでがその学の領域であるかをはっきり見て取り、その境界がどこにあるかを正しく区別しなければならない。

 この「総論」の冒頭近くで述べられていたこのことと、環を区別するということが呼応しているわけです。

 さて、図に描かれていた縦線の謎はまだ解けていませんでした。これについては、おそらくこの後に続く箇所を読むことで、その意味が分かるはずだと睨んでおります。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:方法とはなにか

2013年 9月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第124回 方法とはなにか

 「体系(system)」の話を終えて、次は「方法(method)」の検討に入ります。といっても、「体系」と比べると「方法」の議論はあっさりしています。「方法」を論じるくだりは、わずかに次の一文だけなのです。

method ち方法は regular mode peculiar to anything to be done にして、何事にもあれ條理立チ順序ありて極りたる仕方なり。

(「百學連環」第50段落第9文)

 英文には、例によってその左側に訳語が添えてあります。

 regular  極リタル
 mode  仕方
 peculiar  適當シタル
 anything  何事ニテモ
 done  爲スベキ

 また、細かいことですが、ここに出てくる英文と同じ文が、「百学連環覚書」にも記されています。そこでは、anything ではなく、”any thing”と2語になっています(『西周全集』第4巻、331ページ)。

 では訳してみましょう。

「方法(method)」とは、「どんなことであれ、なにかをする際に、そのことに固有の決まったやり方」のことだ。何事であれ、条理と順序があり、決まった仕方である。

 現代語訳では、英語の引用部分も日本語に訳出していますので、それに続く西先生の日本語による言い換えと重なって、やや冗語になっています。いずれにしても、なにかを行う際に、そのものごとに合わせて決められた手順というほどの意味ですね。

 西先生が、学には「体系」があり、術には「方法」があると言っていたことを思い出しましょう。また、method という言葉の語源について、第112回「雷の三段階」で述べたように、method とは、もともと古典ギリシア語で「道に沿ってゆく」というほどの意味でした。

 つまり、なんらかの術を行う際には、その術固有の道に沿って進んでゆくというわけです。それは、かつて道なき場所を先人が切り拓き、踏み固めてできた通り道であり、道があることで、私たちはそこを歩いてゆきやすくもなり、結果的に目的地へも到着しやすくなるのでした。ある術の方法を学び習得することで、その「方法」、道に沿って目的に向かって進めるようになる、という次第です。そう考えると、method とはなんとも含蓄のある言葉ではないでしょうか。

 さて、もう一つ検討しておきたいのは英文の出所です。本連載でお世話になっている1865年版の『ウェブスター英語辞典』を見ておきましょう。method の定義は三つ出ており、その最初にこう書かれています。

1. An orderly procedure or process; a rational way of investigating or exhibiting truth; regular mode or manner of doing any thing; characteristic manner.

(Noah Webster, An American Dictionary of the English Language, 1865, p.834)

 太字部分にご注目ください。西先生による英文とは異なっていますが、文章のかたちはとてもよく似ています。並べればこうなります。

百学連環:regular mode peculiar to anything to be done
英語辞典:regular mode or manner of doing any thing

 ご覧のように、西先生の文では、peculiar という語があって、これは上記の辞書には見られません。また、辞書では”mode or manner”と複数の語を挙げていますが、西先生の文では mode だけです。

 この違いはなにによるものか。西先生が実際に参照していた書物は、私たちがこの連載で参考にしている1865年版の辞書とは違うものであるという可能性もあります。その特定には、さらなる調査が必要ですが、いまは措きましょう。

 以上のように「方法」について述べたうえで、改めて「体系」と「方法」についてまとめられます。

凡そ學に規模なく術に方法なきときは學術と稱しかたしとす。

(「百學連環」第50段落第10文)

 訳します。

もし学に体系がなく、術に方法がない場合は、学術とはいえない。

 これは、第119回「体系と方法」で、「學には規模たるものなかるへからす。術には方法たるものなかるへからす」と述べたことと呼応しています。「体系」と「方法」の説明を終えるにあたって、いま一度強調したのだろうと思われます。

 さて、次回からは、いよいよこれまで読んできた「百学連環総論」全体のまとめに入ります。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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