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人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(最終回)

2012年 5月 17日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

では、「巫琴」ちゃんの出生届の受理を求めた家事審判は、結局どうなったのでしょう。東京家庭裁判所は、平成23年9月21日、この不服申立を却下しました。審判文を見てみましょう。

本件では,本件不受理処分後に,申立人が,新たな出生届を東京都北区長に提出し,これが受理されたことが認められる。そうすると,本件のように,既に出生届を受理されたものについて,その名を変更するにあたっては,戸籍法上の名の変更によることは格別,受理された出生届に代えて別の出生届を提出することはできないから,本件申立ては申立ての利益を欠き,不適法である。よって,その余の点について判断するまでもなく,本件申立ては不適法であることが明らかであるので,これを却下することとし,主文のとおり審判する。

「法第107条の2の潜脱」とまでは言っていないものの、全くの門前払いです。「巫」が「常用平易」かどうか判断すらすることなく、東京家庭裁判所は、北区長の意見書を、全面的に受け入れたわけです。

この審判に納得のいかなかった「巫琴」ちゃんの両親は、平成23年10月6日、東京高等裁判所に即時抗告[平成23年(ラ)第2003号]をおこないました。しかし、東京高等裁判所も原審を支持し、平成23年11月7日、両親の抗告を退けました。「巫」が「常用平易」かどうか判断するまでもなく、別の漢字で出生届を出し直してしまった場合は、出生届の不受理処分に対する不服申立すらできない、ということを、裁判所みずからが認めた形になってしまったわけです。

このような形で、「巫」が「常用平易」かどうかの判断を、東京家庭裁判所も東京高等裁判所も、回避することにしました。ただ、それもいたしかたないところは、あるのです。もし、「巫」が「常用平易」だと高等裁判所が判断した場合、法務省は、また戸籍法施行規則を改正して、「巫」を人名用漢字に追加しなければならなくなります。一方、「巫」が「常用平易」ではないと高等裁判所が判断した場合、今後、法務省は「巫」を人名用漢字に追加したくても追加できません。どちらにしろ、影響がかなり大きいので、おいそれと「常用平易」かどうか判断を示すわけには行かなくなってきているのです。

ただ、それならば、と筆者は思ってしまうのです。「巫空」ちゃん(第1回参照)の場合のように、つい、うっかり出生届を受理してしまう戸籍窓口が、もっと全国にあってもいいのではないか。出生届が受理されて戸籍に載りさえすれば、たとえ人名用漢字に含まれていない漢字でも、子供の名づけに使えてしまいます。そういう「うっかり」の多い自治体は、子供が少なくなっている昨今、それはそれで町おこしになるのでは、と思うのです。もちろん、そういう戸籍窓口に対しては、法務局からの指導も、さらには法務省からの査察も入るでしょうから、自治体にとってはイバラの道でしょう。でも、そういう「うっかり」の多い自治体が増えてくれることを、筆者としては願ってやまないのです。

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

「人名用漢字の新字旧字」(関連書籍:『新しい常用漢字と人名用漢字』)の特別編「『巫』は常用平易か」は今回で終了します。
来週からは、一時休止していた「タイプライターに魅せられた男たち」を毎週木曜日午前に掲載します。

人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第4回)

2012年 5月 10日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第4回)

平成12年5月23日、愛知県佐屋町のとある夫婦のもとに、男の子が誕生しました。両親は、子供に「矜持」と名づけ、6月3日、佐屋町役場に出生届を提出しました。しかし佐屋町役場は、この出生届を受理しませんでした。「矜」が、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむをえず両親は、「矜持」を「協持」に変えて、6月5日、出生届を再提出しました。さらに6月28日、両親は名古屋家庭裁判所に不服申立[平成12年(家)第1826号]をおこないました。子供の名づけを制限するのは憲法違反なので、「矜持」と名づけた出生届を佐屋町長に受理させるか、さもなくば子供の名を「協持」から「矜持」に改名させてほしい、と申し立てたのです。

この申立に対し佐屋町長は、子の名を「協持」とする出生届がすでに受理されているので、新たな出生届を受理しなおすことなどできない、と主張しました。また、「協持」から「矜持」への改名についても、「矜」は常用漢字でも人名用漢字でもないので許すべきではない、という意見でした。そういう形で名の変更を許すと、子供の名づけに使える漢字を制限している意味がなくなる、というのです。佐屋町長の意見を受けて、名古屋家庭裁判所は、平成12年9月29日、両親の申立を棄却しました。子供の名づけに使える漢字を制限しているのは憲法違反ではないし、また、子供の名を変更する「正当な事由」があるとは認められない、というのが棄却理由でした。この審判に納得のいかなかった両親は、平成12年10月6日、即時抗告をおこないました。「矜持」ちゃんの改名に関する争いの場は、名古屋高等裁判所の抗告審[平成12年(ラ)第282号]に移りました。

平成13年2月16日、名古屋高等裁判所は、両親の即時抗告を棄却しました。一旦「協持」と命名された以上、これを変更するには「正当な事由」が必要だが、本件に関しては「正当な事由」がないので、「協持」という名をいかなる名に変更するかにかかわらず、名の変更は認められない、というのが名古屋高等裁判所の結論でした。「矜」が人名用漢字であろうがなかろうが関係なく、「協持」という名を変更するためには、以下に示すような「正当な事由」がなければならない、というのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

この決定に対し、両親は、平成13年2月23日、憲法違反を理由として、最高裁判所に特別抗告[平成13年(ク)第250号]をおこないました。しかし、最高裁判所第一小法廷は平成13年6月25日、子供の名づけを制限するのは憲法違反ではない、として両親の申立を退けました。こうして「矜持」ちゃんは、戸籍上は「協持」ちゃんとして生きていくことになったのです。

最終回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
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編集部から

全5回の予定で「人名用漢字の新字旧字」の特別編を木曜日に掲載いたします。
好評発売中の単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もお引き立てのほどよろしくお願いいたします。
「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載中です。

人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第3回)

2012年 5月 3日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第3回)

さて、「巫琴」ちゃんの出生届を受理するよう求めた不服申立[東京家庭裁判所平成23年(家)第7488号]に対して、東京都北区長は全面的に争う構えを見せました。北区長が東京家庭裁判所に提出した意見書を見てみましょう。

申立人は,平成23年7月25日に提出した出生届を同月20日に提出した出生届と差し替えた上で,当該出生届を受理するよう求める本件不服申立てをしている。しかし,一度受理された出生届の子の名を変更するためには,正当な事由を備えていることにより家庭裁判所の許可を得た名の変更届(法第107条の2)によるべきであって,受理された出生届の子の名を別の名に差し替える届出を認めることは,法第107条の2の潜脱であり,許されない。

「法第107条の2の潜脱」って、何だか意味がよくわかりませんね。この部分を読み解くためには、戸籍法に関わる家事審判について、多少、理解が必要になります。平成19年5月11日改正(平成20年5月1日施行)の戸籍法第121条は、出生届の不受理に対する不服申立について、以下のように規定しています。

第百二十一条    戸籍事件(第百二十四条に規定する請求に係るものを除く。)について、市町村長の処分を不当とする者は、家庭裁判所に不服の申立てをすることができる。

「巫琴」ちゃんの両親は、北区長の処分(出生届の不受理)に対して不服があったので、この戸籍法第121条にしたがって、東京家庭裁判所に不服申立をおこなったわけです。一方、戸籍法第107条の2には、以下の規定があります。

第百七条の二    正当な事由によって名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。

北区役所としては、とりあえず別の漢字で出生届を受理してしまったのだから、それを「巫琴」に変更するのなら、戸籍法第121条じゃなくて、戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更として申し立てるべきだ、という主張なわけです。それを北区長は「法第107条の2の潜脱」と称しているわけです。一見もっともな主張に見えますね。でも、そこには落とし穴があるのです。戸籍法第107条の2の冒頭にある「正当な事由」という部分です。

戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更許可を申し立てる場合には、「正当な事由」が必要となります。そして、裁判所が現時点で認めている「正当な事由」は、おおまかには、以下の7つなのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

端的に言えば北区長は、東京家庭裁判所が名の変更を認めないだろう、という点も見越した上で、あえて「法第107条の2の潜脱」を主張しました。その背後には、平成12年に起こったある事件があったのです。

第4回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第2回)

2012年 4月 26日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第2回)

それでは家庭裁判所が、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字を、戸籍法第50条で言うところの「常用平易」だと認めた例は、あるのでしょうか。実は「穹」が、その一例なのです。(『民事月報』平成20年5月号141~172頁)

平成18年のこと、大阪市都島区のとある夫婦のもとに、男の子が誕生しました。両親は、子供の名に「穹」を含む出生届を提出しようとしたのですが、都島区役所は、この出生届を受理しませんでした。当時「穹」は、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむを得ず両親は、「名未定」とした出生届を提出し、都島区役所は「名未定」の出生届を受理しました。その上で両親は、大阪家庭裁判所に不服申立[平成18年(家)第7444号]をおこないました。子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう都島区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

平成19年4月10日、大阪家庭裁判所は両親の主張を認め、都島区長に対して、子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう命令しました。「穹」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字であり、これを人名用漢字に収録していない戸籍法施行規則の方がおかしい、と審判したのです。ところがこの審判に対し、都島区長は即時抗告しました。大阪家庭裁判所の審判には納得がいかないので、高等裁判所に判断してほしい、ということです。「穹」が常用平易かどうか、争いの場は大阪高等裁判所の抗告審[平成19年(ラ)第486号]に移りました。

平成20年3月18日、大阪高等裁判所は都島区長の抗告を棄却し、あらためて都島区長に対して、子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう命令しました。「穹」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字であり、これを人名用漢字に収録していない戸籍法施行規則の方がおかしい、と判示したのです。確かに「穹」は、常用漢字の「窮」より平易なのは間違いありません。また、「蒼穹」や「天穹」などの熟語に用いられていて、しかもJIS X 0213の第2水準漢字でもあるので、「穹」は常用されていると考えられる、というのが大阪高等裁判所の判断でした。両親の全面勝訴です。大阪高等裁判所の決定を受けて、都島区役所は、子供の名に「穹」を含む出生届を受理しました。

この大阪高等裁判所の決定に対し、法務省民事局は、「曽」を子供の名づけに認めた最高裁判所決定[平成15年(許)第37号]と整合性を保っていない、というコメントを『民事月報』平成20年9月号に発表しました。少なくとも、第2水準漢字が「常用」されているという論理はおかしいし、実際、第2水準漢字3390字のうち人名用漢字は190字しかない、と指摘したのです。しかし、そう言いながらも法務省は、平成21年4月30日、「穹」と「祷」を人名用漢字に追加しました。大阪高等裁判所の決定にしたがって、戸籍法施行規則を改正したのです。

第3回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
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人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第1回)

2012年 4月 19日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第1回)

平成23年5月11日、北海道中頓別町のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「巫空」と名づけ、中頓別町役場に出生届を提出しました。中頓別町役場は、この出生届を受理し、戸籍に「巫空」ちゃんを登載しました。ところがその後、中頓別町役場は、ある間違いに気づきました。「巫」は常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけには使えなかったのです。「巫空」ちゃんの出生届は、本来、受理できないものだったのです。しかし、いったん受理してしまった出生届は、もちろんそれはそれで有効なものです。そこで中頓別町役場は、両親に戸籍訂正をお願いすることにしました。「巫空」ちゃんの名を、別の名に訂正してもらうよう、お願いすることにしたのです。

平成23年7月19日、東京都北区のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「巫琴」と名づけ、7月20日、北区役所に出生届を提出しました。しかし北区役所は、この出生届を受理しませんでした。「巫」が、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむをえず両親は、「巫」を別の常用漢字に変えて、7月25日、出生届を再提出しました。さらに7月29日、両親は東京家庭裁判所に不服申立[平成23年(家)第7488号]をおこないました。「巫」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字なので、「巫琴」と名づけた出生届を受理するよう東京都北区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

さて、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字、というのは、どういうものなのでしょう。戸籍法第50条は、子供の名づけに使える文字を、以下のように規定しています。

第五十条    子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
2    常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。

戸籍法施行規則第60条では、子供の名づけに使える文字を、以下のように制限しています。

第六十条    戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
   常用漢字表(平成二十二年内閣告示第二号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
   別表第二に掲げる漢字
   片仮名又は平仮名(変体仮名を除く。)

つまり、法律である戸籍法が「常用平易」という大枠を決めて、法務省令の戸籍法施行規則が、それを常用漢字と「別表第二に掲げる漢字」(人名用漢字)に制限している、という二段構えになっています。

しかも、この二段構えには、実は隙間があります。「常用平易」であるにもかかわらず、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字、というものが存在し得るのです。それはつまり、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字であっても、戸籍法に沿って「常用平易」であると認められれば、子供の名づけに使ってよい、ということになるわけです。そして、「常用平易」かどうかを判断するのは、区役所や町役場の戸籍窓口ではなく、家庭裁判所の仕事なのです。

第2回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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ドナルド・マレー(12)

2012年 4月 12日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第34回

1925年9月20日、マレーは60歳になりました。それを期にマレーは、電信業界から引退することを決めました。遠隔タイプライターに関するイギリス特許は、その大半をクリード社に売却しました。その後、マレー夫妻はロンドンを離れ、モナコのモンテカルロ郊外に落ち着きます。ここでマレーは、哲学書の執筆に取りかかりました。でも、マレー夫妻は、ずっとモナコに閉じこもっていたわけではありません。ニューヨークやサンフランシスコ、あるいは、甥のジョン(John O’Hara Cosgrave, II)がいるパリに、滞在したりもしていたようです。

1931年7月7日版ITA2 (『Telegraphen- und Fernsprech-Technik』誌1932年1月号)
1931年7月7日版ITA2 (『Telegraphen- und Fernsprech-Technik』誌1932年1月号)

その間にも、マレーの遠隔タイプライターは、世界を席巻していきました。背後には、論敵だったブースの姿がありました。1931年5月にスイスのベルンで開かれたCCIT(Comité Consultatif International des Communications Télégraphiques、国際電信通信諮問委員会)の席上、ブースは、マレー電信機の文字コードを、国際5単位電信コードに含めるよう提案したのです。この結果、マレーの文字コードは、ITA2 (International Telegraph Alphabet No. 2、国際電信アルファベット第2)という名で、世界中の遠隔タイプライターに用いられることが決まったのです。

一方、マレーは1939年から1940年にかけて、ロンドンのウィリアムズ&ノーゲート社から2巻組の哲学書を出版しました。『力の哲学』(The Philosophy of Power)というタイトルで、第1巻が『初等原理』(First Principles)、第2巻が『制御理論』(The Theory of Control)だったのですが、しかし、売れ行きはあまりかんばしくなかったようです。その後マレーは、第二次世界大戦中も執筆活動を続けました。そして1945年7月14日、レマン湖のほとり、静養先のテリテットで生涯を閉じます。79歳でした。メルボルンのヘンリー・ジョージ財団から出版された小冊子『オーストラリア、貧困か進歩か』(Australia: Poverty or Progress?)が、遺稿となりました。

戦後になってCCITは、CCITTそしてITU-Tへと組織変更されましたが、現在に至るまでITA2は守られ続けました。マレーの名は忘れ去られましたが、マレーが作った遠隔タイプライターの文字コードは、今も『ITU-T勧告S.1』として、世界中のテレタイプを繋いでいるのです。

(ドナルド・マレー終わり)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史?欧米と日本編?』(共立出版)などがある。

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ドナルド・マレー(11)

2012年 4月 5日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第33回

ボードとマレーとジーメンスの5穴鑽孔テープ符号

ボードとマレーとジーメンスの5穴鑽孔テープ符号

1922年10月、マレーは『The Post Office Electrical Engineers’ Journal』誌に掲載された、ある論文に目をとめました。「国際5単位電信コード」(An International 5-Unit Telegraph Code)と題されたその論文は、ロンドン中央電信局のブース(Augustus Clinton Booth)という人物が書いたもので、5穴の鑽孔テープを使った電信に関するものでした。

この頃、ロンドン中央電信局では、3種類の5穴鑽孔テープに悩まされていました。ボードの電信機と、マレーの電信機と、そしてジーメンス&ハルスケ社の電信機が、それぞれ5穴の鑽孔テープを用いていたのですが、互いに全く異なる文字コードを用いていて、鑽孔テープにも電気信号にも互換性が無かったのです。これらの文字コードを統一したい、というのが、ブースの論文の主張でした。文字コードが統一されれば、ボードとマレーとジーメンスの電信機の間で、電文を打ち直すことなく、そのまま中継が可能になるはずだ、という主張でした。また、統一するならば、マレーやジーメンスの文字コードではなく、ボードの電信機で用いられている文字コードに全て統一するのが、最もコストが少なくて済む、とブースは提言していました。

ボード電信機の文字コードを、ブースが推したのには、もちろん理由がありました。マレーやジーメンスの電信機では、送信機はタイプライター型であり、送信者は文字コードを記憶する必要はありません。しかし、ボード電信機の送信機は、5つのキーの組み合わせで文字を表現するので、送信者は文字コードを記憶している必要があります。すなわち、文字コードが変更された場合、ボード電信機の送信者は、文字コードを一から記憶しなおす必要が生じます。しかし、マレーやジーメンスの電信機では、文字コードが変わったとしても、キー配列さえ変更しなければ、問題は起こらないとブースは考えたのです。

ボード電信機の送信機

ボード電信機の送信機

マレーは即座に反論を書きました。『The Post Office Electrical Engineers’ Journal』誌1923年1月号から、反論の要点を抜き出してみましょう。第一の問題は、マレー電信機の文字コードを、ボード電信機と同じ文字コードにするのは不可能だ、という点でした。マレー電信機では、Qと1、Wと2、Eと3、Rと4、Tと5、Yと6、Uと7、Iと8、Oと9、Pと0に、それぞれ同じ文字コードを割り当てています。これらの文字を、それぞれ同じキーに配置しているからです。しかし、ボード電信機では、Aと1、Eと2、Yと3、Uと4、Oと5、Jと6、Gと7、Bと8、Cと9、Dと0に、それぞれ同じ文字コードが割り当てられていて、マレー電信機とは組み合わせが全く違うのです。第二の問題は、「○○○○○」という文字コードをどの文字に割り当てるか、という点です。マレーは、「○○○○○」を何も印字しない文字コードとすることで、鑽孔テープの打ち間違いを簡単に直せるようにしました。しかし、ボード電信機の文字コードでは、「○○○○○」は「P」に割り当てられていて、打ち間違いに関しては、非常に都合の悪いことになっています。そして最大の問題は、ボード電信機の文字コードを国際化したとして、アメリカにある3000台以上のマレー電信機を全部スクラップにするのか、という点でした。本来、このような国際的な取り決めは、イギリスやフランスのような小国が決めるべきものではなく、世界の実情、とりわけアメリカのような大国の実情に則して決めるべきことだ、とマレーは反論をしめくくっています。

(ドナルド・マレー(12)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史?欧米と日本編?』(共立出版)などがある。

http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

ドナルド・マレー(10)

2012年 3月 29日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第32回

『テレタイプ』初期モデル

『テレタイプ』初期モデル

1919年6月28日、ベルサイユ条約の調印により、世界大戦は正式に終結しました。それを待っていたかのように、1919年8月、モークラム社は『テレタイプ』を発表しました。遠隔タイプライターを意味する「Teletypewriter」を、さらに縮めて『Teletype』と命名されたこの機械は、モークラム印刷電信機の弱点を徹底的に改良し、送受信機としての耐久性を高めたものでした。すなわち、活字を埋め込んだ円筒を紙に叩きつけるのではなく、紙の方を活字ホイールに叩きつける構造になっていました。また、これを実現するために、印字に用いる紙を、通常のカット紙ではなく紙テープにしていました。印字を紙テープにおこなうことから、改行機構やキャリッジリターンは、全く搭載されていませんでした。

マレーが設計した文字コード
マレーが設計した文字コード
(クリックで大きい画像を表示)

ただし『テレタイプ』は、マレーの文字コードをそのまま採用していました。この文字コードは、ウェスタン・エレクトリック社製マレー電信機のために、マレーが設計したもので、キャリッジリターンが「---+-」に、改行が「-+---」に、それぞれ割り当てられていました。『テレタイプ』は、キャリッジリターンや改行を受け取っても、実際にキャリッジリターンや改行をおこなうわけではなく、それらに対応する特殊記号を印字するだけでしたが、マレー電信機と直接通信できるよう、キャリッジリターンや改行を送受信する仕組みが準備されていたのです。

これに対しマレーは、あくまで、改行機構や改ページ機構の改良に腐心していました。マレーは、『テレタイプ』が採用した紙テープ印字を、評価していなかったわけではないのです。しかし、複数のメッセージを、一台の遠隔タイプライターで次々に受信するような機構、そして、そのような機構を必要とする時代が必ず来ると、マレーは確信していました。そのために、遠隔タイプライターをもっともっと改良する必要があったのです。そのような改良の一つが、ファンフォールド紙(左右に紙送りのための穴が開けられた連続紙)に、カット紙を次々に装着するという、イギリス特許(G. B. Patent No.142598)でした。残念ながら、この特許は実用化されず、そのままオクラ入りとなりました。けれども、自らが信じる未来の遠隔タイプライターに必要な技術要件と、その実現可能性を徹底的に追及する、というのが、この時代のマレーの研究姿勢だったのです。

ドナルド・マレー(11)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史?欧米と日本編?』(共立出版)などがある。

http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

ドナルド・マレー(9)

2012年 3月 22日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第31回

1914年1月3日、ルシタニア号でリバプールを出帆したマレーは、1月9日ニューヨークに到着しました。ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社への特許譲渡手続、ウェスタン・エレクトリック社への技術供与、あるいは新聞のインタビューなど、マレーはアメリカでやるべき仕事が多々ありました。そして1914年1月25日、ニューヨーク・タイムズ紙の日曜版に、マレーのインタビュー記事が掲載されました。「タイプライターはまもなく電報の送受信機になるだろう」と題されたこの記事は、マレーの遠隔タイプライターを大々的に取り上げたものでした。このインタビューの中で、マレーは、大胆な予言をおこなっています。

この新しい多重システムによる電信回線が十分に多く準備されれば、各都市を経由して、北アメリカのいかなる重要な地点にも、自動的にメッセージを送ることができるようになるだろう。それは、ここ数年で可能となる。さらに興味ある可能性としては、ここ5年か6年の間に、鑽孔テープを介して同一のメッセージが、海底ケーブルや無線を通じて、送受信できるようになることだろう。もちろん技術的な困難さはあるが、それらは克服されると信じるに足る理由がある。少なくとも、大西洋横断ケーブルの仕事に従事する熟練の技術者たちは、それが可能になると信じている。タイプライターのキーボードを叩くだけで、ニューヨークとロンドンの間を、メッセージが行き来するようになるのだ。

ロンドンに戻ったマレーは、遠隔タイプライターで大西洋をまたぐべく、技術開発を続けましたが、マレーの夢は、そう簡単には進みませんでした。1914年8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告、即座にフランスへ援軍を派兵して、あっという間に戦火がヨーロッパに拡がってしまったのです。1915年5月7日、ドイツのU-20潜水艦が、リバプールに戻る途中のルシタニア号を撃沈し、状況はさらに悪化します。イギリス海軍が、ドーバー海峡や北海の機雷封鎖をおこない、結果として海底ケーブルをズタズタにしてしまいました。とても、遠隔タイプライターの通信実験ができるような状況ではなかったのです。

戦争が続く中も、マレーは、遠隔タイプライターの改良を続けました。創刊されたばかりの『The Telegraph and Telephone Journal』誌に、「押しボタン電信」(Press-the-Button Telegraphy)と題する連載記事を書いたり、ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社を譲渡先とするアメリカ特許(Nos.1401917,1170556,1352308,1276794)を申請したりしました。しかし、1917年4月6日、アメリカ合衆国もドイツに宣戦布告します。それまで中立を保っていたはずのアメリカも、戦争の渦へと巻き込まれていったのです。

ドナルド・マレー(10)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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ドナルド・マレー(8)

2012年 3月 15日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第30回

ウェスタン・エレクトリック社への技術供与の過程で、マレーはモークラム社を知ることになります。モークラム社は、シカゴのモートン(Joy Morton)とクラム(Charles Lyon Krum)が設立した電信機製造会社で、ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社にも電信機を納入していました。その一つが、モークラム印刷電信機(The Morkrum Printing Telegraph)だったのです。マレーが『The Post Office Electrical Engineers’ Journal』誌1913年7月号に書いた記事から、少し引用してみましょう。

今年の初め、私(マレー)はシカゴとニューヨークを訪ね、このシステムに関して十分な知見を得る機会があった。タイプライター型キーボードは取り外し可能で、システムは全て電動である。5つの+と-からなる信号が使われており、信号の直前には初期パルスとして+が1つ付加される。信号は、ボード(Jean Maurice Émile Baudot)やマレーのシステムと同様、真ん中の安定した部分だけが用いられる。このシステムはページ印刷式であり、送信者の手元にも印刷がおこなわれることから、送信者は自分が何を送ったかをその場で見ることができる。システムは、複数の交換可能なユニットから作られており、不意の故障も、予備のユニットと交換することで即座に対応可能である。また、送信機と受信機の間の外部的な同期機構や同期作業は一切不要で、文字信号の直前のパルスが同期を担ってくれる。

このモークラム印刷電信機は、1本の電信線を介して、双方向で1日9時間あたり平均800通の電文をやりとりできる、と、私はシカゴで説明を受けた。ニューヨークの電信会社で、私はそれを確認することができた。送信側は若い女性オペレータ1人、受信側も若い女性オペレータ1人で、このスピードが可能となっていた。

モークラム印刷電信機

モークラム印刷電信機

モークラム印刷電信機は、マレーが目指してきた遠隔タイプライターを、かなり理想的な形で実現していました。印字部分をコンパクトにするために、「Blickensderfer Electric」と同じ方法、すなわち活字を埋め込んだ円筒を回転させて、インクリボンと共に紙に叩きつける方法を実現していました。キーにはそれぞれ5つずつ電気接点がついていて、対応する電気信号を直接発生させる仕掛けになっていました。キャリッジリターンという最も重い機構は、プラテンを右端に動かすのではなく、活字円筒の方を左端に動かす、という逆転の発想で解決されていました。平均的なタイピストであれば、電信や鑽孔テープに関する知識がなくても、電文をやりとりできるようになっていたのです。

ただし、モークラム印刷電信機は、耐久性の点で、実は大きな課題を抱えていました。活字円筒が紙に叩きつけられる際に、円筒全体の荷重が活字一点にかかってしまうので、活字がすぐボロボロになってしまうのです。また、キャリッジリターンの最中に別のキーを押すと、左に動いている最中の活字円筒が紙に叩きつけられてしまうので、活字円筒が壊れてしまう可能性がありました。後者の問題は、キャリッジリターンの最中には信号を送れないようにする、という回路を組み込むことで解決がつきましたが、活字円筒の耐久性という課題自身は解決がつかなかったのです。

ドナルド・マレー(9)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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