カテゴリー:コラム

続 10分でわかるカタカナ語 第4回 ガバナンス

2017年 3月 25日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「ガバナンス」の意味と使い方

どういう意味?

 「統治・支配・管理」のことです。

もう少し詳しく教えて

 ガバナンス(governance)は英語で「組織などをまとめあげるために方針やルールなどを決めて、それらを組織内にあまねく行き渡らせて実行させること」という意味で、「統治・支配・管理」という語に相当します。

 「統治」というと「権力者」が「国」を治めるイメージを思い浮かべますが、ガバナンスの主体は「権力者」とは限りませんし、ガバナンスの対象も「国」とは限りません。

 例えば近年では、コーポレートガバナンス(企業統治)という概念をよく見聞きします。この概念の場合、ガバナンスの主体は「株主」などで、ガバナンスの対象は「企業」ということになります。

どんな時に登場する言葉?

 政治や経営の分野でよく登場する語ですが、実は「統治すべき組織・仕組み」が存在するあらゆる分野で使われる言葉でもあります。例えば情報通信の分野では、国際的な通信ネットワークであるインターネットの運営や管理のことを「インターネットガバナンス」と呼んでいます。

どんな経緯でこの語を使うように?

 マスメディアでガバナンスという言葉をよく見かけるようになったのは1990年代のことでした。例えば新聞では、「ガバナンス」が登場する記事数が1990年代後半に増えました(注:毎日・朝日・産経・読売調べ)。これは当時、コーポレートガバナンスの概念が注目されたことが背景にあります。なぜ、この時代に注目度が高くなったのかは後述します。

ガバナンスの使い方を実例で教えて!

ガバナンスを強化する

 ガバナンスと結びつきやすい言葉には「強化・向上・改善・確立・改革・発揮」などがあります。例えば「強化」の場合は「ガバナンス(の)強化」とか「ガバナンスを強化する」などの表現が可能です。このような表現によって「統治の影響力を強める」ことを表現できるわけです。

ガバナンス体制

 結びつきやすい言葉は、ほかに「体制・機能・構造」などもあります。例えば「体制」の場合は「ガバナンス体制」という複合語を作ることができます。これは「統治のための体制」を意味します。

コーポレートガバナンス(企業統治)

 株主などの利害関係者が、企業の経営を監視することを言います。経営陣による経営の私物化(それに伴う不利益)を防ぐこと、さらには企業の不祥事を防ぐことを目的としています。この場合、ガバナンスの主体は「株主などの利害関係者」、ガバナンスの対象は「企業(狭義には経営陣)」となります。

 この概念は1960年代のアメリカで誕生しました。当時、企業の様々な非倫理的な行動(黒人の雇用差別など)が問題になっていたことが背景にあります。いっぽう、日本で同概念が注目されたのは1990年代のことでした。バブル崩壊で倒産する企業が相次ぎ、経営健全化の手段として米国型の企業統治が注目されたためです。2000年代には企業の不祥事が相次いだことから、それを防ぐ方法としての企業統治も注目されました。

グローバルガバナンス

 環境問題や難民問題などの国際的な問題に対処する際、従来のように「国家」だけが主体になるのではなく、国家・企業・NGO(非政府組織)などの多様な主体が関与する仕組みのことをグローバルガバナンスと呼びます。この概念が登場したのは1992年のこと。冷戦後の国際社会で、社会課題の複雑化や広範化が進んだことが概念誕生の背景にありました。

言い換えたい場合は?

 多くは「統治」で言い換え可能です。コーポレートガバナンスを「企業統治」と言い換える場合が好例でしょう。「統治」につきまといがちな「国を治めるイメージ」を避けたい場合は「管理」や「運営」を使った言い換えも試してみてください。

 なおガバナンスが登場する文脈によっては「統治」ではなく「統治能力」「統治手法」などと言い換えると良い場合もあります。「ガバナンスの向上」を「統治能力の向上」と言い換えたり、「ガバナンス改革」を「統治手法の改革」と言い換えたりする場合がそうです。

 グローバルガバナンスのように単純な言い換えが困難な概念もあります。その場合は文章などで意味を補足するのが良いでしょう。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

舵取り ガバナンス(governance)に近い語として、「政府」を意味するガバメント(government)があります。そしてこれらの語源をたどると、ギリシャ語の kubernan に行き着きます(参考:New Oxford American Dictionary)。「舵取(かじと)り」を意味する言葉です。

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◆この連載の目次は⇒「続 10分でわかるカタカナ語」目次へ

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【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

*

【編集部から】

 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
 毎週土曜日更新。

【関連書籍】

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人名用漢字の新字旧字:「仐」と「傘」と「繖」

2017年 3月 23日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第129回 「仐」と「傘」と「繖」

129kasa-new.png新字の「仐」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「繖」も、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。こんな妙なことになってしまった原因は、俗字の「傘」が常用漢字になってしまったからなのです。なお、新字の「仐」と俗字の「傘」は、いわゆる象形文字ですが、旧字の「繖」は、サンという音を「散」で表した形声文字だと考えられます。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されていました。標準漢字表の人部には「傘」が含まれていて、その直後に、カッコ書きで「仐」が添えられていました。「傘(仐)」となっていたわけです。簡易字体の「仐」は、「傘」の代わりに使っても差し支えない字、ということになっていました。一方、旧字の「繖」は、標準漢字表のどこにも含まれていませんでした。

昭和21年11月5日、国語審議会は当用漢字表1850字を、文部大臣に答申しました。ところが当用漢字表には、新字の「仐」も、俗字の「傘」も、旧字の「繖」も、収録されていませんでした。当用漢字表は、翌週11月16日に内閣告示されましたが、やはり「仐」も「傘」も「繖」も収録されていませんでした。そして、昭和23年1月1日に戸籍法が改正された結果、「仐」も「傘」も「繖」も子供の名づけに使えなくなってしまったのです。

昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表では、俗字の「傘」が収録されました。新字の「仐」も、旧字の「繖」も、カッコ書きにすら入っていませんでした。10月1日に常用漢字表は内閣告示され、俗字の「傘」は常用漢字になりました。この結果、俗字の「傘」が、子供の名づけに使えるようになりました。

平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、「常用平易」な漢字であればどんな漢字でも人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。旧字の「繖」は、JIS第2水準漢字で、漢字出現頻度数調査の結果が3回で、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区はありませんでした。新字の「仐」は、JIS第4水準漢字で、漢字出現頻度数調査の結果が0回で、出生届を拒否された管区はありませんでした。この結果、旧字の「繖」も、新字の「仐」も、「常用平易」とはみなされず、人名用漢字に追加されませんでした。

その一方で法務省は、平成23年12月26日に入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、俗字の「傘」に加え、新字の「仐」や旧字の「繖」が書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、俗字の「傘」はOKですが、新字の「仐」や旧字の「繖」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

続 10分でわかるカタカナ語 第3回 オルタナティブ

2017年 3月 18日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「オルタナティブ」の意味と使い方

どういう意味?

 「既存・主流のものに代わる(何か)」のことです。「オルタネイティブ」「オルターナティブ」ともいいます。

もう少し詳しく教えて

 オルタナティブ(alternative)は、もともとは「AとBから1つを選ぶ」、すなわち「二者択一」という意味です。そこで日本語の文章でも、オルタナティブがこの意味で使われる場合があります。例えば「コストと安全性はオルタナティブな関係であってはならない」といった用例がこれにあたります。ただし日本語では、このような使われ方はまれです。

 いっぽう英語では「Aに代わるB」という意味もあります。このうちAは、多くの場合「既存・主流の何か」を意味します。そこでオルタナティブは「既存・主流のものに代わる何か」という意味でも使われます。例えば「オルタナティブな政策」とは「既存・主流のものに代わる政策」を意味します。

どんな時に登場する言葉?

 あらゆる分野で登場する言葉です。また技術・貿易・医療・教育・音楽・投資などの分野では、オルタナティブ○○という語形の専門用語も存在します。

どんな経緯でこの語を使うように?

 オルタナティブという概念が注目されたのは1960~1970年代のこと。この時代にオルタナティブテクノロジー、オルタナティブトレード、オルタナティブメディシン(オルタナティブメディスン)といった新概念が相次いで登場しました。

 このうちオルタナティブテクノロジーは「省エネルギーまたは無公害の技術」のこと。具体的には、再生可能エネルギー(風力・太陽光など)の利用技術などをさします。またオルタナティブトレードは、現在で言う「フェアトレード(公正貿易)」のこと。さらにオルタナティブメディシンとは「西洋医学とは異なる医療的手法」、すなわち漢方、鍼灸(しんきゅう)、ヨガなどをさします。いずれの概念も、既存・主流の手法とは異なる手法を提示しています。

オルタナティブの使い方を実例で教えて!

○○のオルタナティブ

 既存・主流のものではない何かを表現する場合に「○○のオルタナティブ」と表現することができます。例えば「既存・主流のものに代わる政策」のことを「政策のオルタナティブ」と表現できます。

オルタナティブな○○

 また同様の意味を「オルタナティブな○○」とも表現できます。例えば「既存・主流のものに代わる政策」のことは「オルタナティブな政策」とも表現できます。「オルタナティブな技術」「オルタナティブな働き方」などとも使われます。

オルタナティブ教育

 オルタナティブを含む複合語はたくさんあります。例えば「オルタナティブ教育」(代替教育)とは「伝統的または正規のものとは異なる教育方法や教育機関」を総称する概念です。日本におけるフリースクールなどがこれに該当します。

オルタナティブロック

 ロック音楽の世界では、オルタナティブロック(略称はオルタナ)と呼ばれるジャンルがあります。1980年代に「既存の商業主義的なロックへの対抗」として広まった音楽的傾向とされます。

オルタナティブ投資

 投資の世界では株式や債券への投資が、伝統的あるいは主流の投資手法とされます。そのいっぽうで「これに含まれない投資手法」のことを、オルタナティブ投資(代替投資)と呼んでいます。具体的には不動産、プライベートエクイティ(未公開株)などへの投資や、ヘッジファンド(投機的な運用を行う投資信託)の投資手法がこれに含まれます。

言い換えたい場合は?

 まず「オルタナティブな○○」を言い換えたい場合は「従来とは異なる○○」「主流とは異なる○○」「代替的な○○」「代わりの○○」「もうひとつの○○」「別の○○」などの表現を試してみてください。また名詞の「オルタナティブ」を言い換える場合は「代替(手段・手法・案…)」「別の可能性」「代わりの選択肢」などの表現を試してみてください。

 さらに複合語の言い換えについては、オルタナティブを「代替」に差し替える方法が定着しています。例えばオルタナティブ投資は「代替投資」と言い換えることが可能です。ただし単純な言い換えだけでは、言葉の背景を伝えることが難しいかもしれません。その場合は「言い換えようとする言葉が、従来の概念や主流の概念とどう違うのか」という点を考えて、文章を補足してみてください。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

ALT (オルト/アルト)キー  パソコンをお使いの方は、キーボードの中に「Alt」と刻印されているキーが存在することをご存知のことでしょう。この Alt とは、 alternate(=代替・交互)の省略形。つまり alternative の親戚ということになります。

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【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

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 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
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大きく見やすい活字でカタカナ新語が引ける。約13,000語収録。詳細は こちら

広告の中のタイプライター(3):Remington Noiseless No.10

2017年 3月 16日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・補遺

『Fortune』1934年2月号

『Fortune』1934年2月号(写真はクリックで拡大)

1927年2月9日、レミントン・タイプライター社はランド・カーデックス社などと合併し、レミントン・ランド社になりました。レミントン・ランド社のタイプライター部門は、基本的にそれまでのレミントン・タイプライター社のモデルを踏襲しましたが、1933年3月のタイプライター60周年イベントと前後して、新たなモデルを発表しました。1933年12月に発売された「Remington Noiseless No.10」も、その1つです。「Remington Noiseless No.10」は、42キーのフロントストライク式タイプライターで、「Noiseless」の名の通り、静かさを売りにしていました。アーム(type arm)とプラテンの間が近接していて、印字の際の音が小さくなっており、さらにアームの上にカバーをかぶせることで、音が部屋に響かないよう設計されていたのです。

「Remington Noiseless No.10」のキー配列は、基本的にQWERTYです。キーボードの最下段の左右の端に「SHIFT KEY」が配置されており、それぞれ少し上に「SHIFT LOCK」があって、いずれのキーもプラテンを上下させることで、大文字小文字を打ち分けます。キーボードの最上段は、234567890-のシフト側に“#$%_&’()*が配置されているのが、上の広告から見て取れます。数字の「1」にあたるキーは無く、小文字の「l」で代用したようです。「2」の左側にあるキーは「BACK SPACE」(1文字戻す)、「-」の右上に少し離れているキーは「MARGIN RELEASE」(右端のマージンを越えてさらに右側に打つ)です。「3」と「0」のすぐ上にある赤いキー(広告はモノクロ)は、それぞれ「CLEAR KEY」と「SET KEY」で、タブ位置の解除と設定をおこないます。設定したタブ位置への移動は、「CLEAR KEY」と「SET KEY」の間にある長い「TABULATOR」キーでおこないます。「TABULATOR」キーのすぐ上にある金属製のツマミは、印字濃度を変化させます。ツマミを左端の0にすると、印字が薄くなり、その結果として、印字音が小さくなります。逆にツマミを右端にすると、印字音は大きくなりますが印字が濃くなり、カーボン紙を挟んだ複数枚の紙に印字できるようになります。

当時、レミントン・ランド社は、CBS(Columbia Broadcasting System)の金曜夜のラジオ番組『March of Time』に、スポンサーの1つとして名を連ねていました。番組の終わりには、もちろん「Remington Noiseless No.10」の広告も流れました(音声)。ただ、静かさが売りのはずの「Remington Noiseless No.10」を、どのようにしてラジオというメディアで広告するのか、なかなかに苦労があったようです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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モノが語る明治教育維新 第8回

2017年 3月 14日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第8回

 見て楽しい英語辞書の話です。

 幕末から明治にかけて、日本に空前の英語旋風が吹き荒れます。明治初年の新聞は銀座4丁目松葉軒でABC菓子の販売、神田旅籠町(はたごちょう)岡野谷で茶呑稽古英字煎餅(ちゃのみげいこえいじせんべい)が販売されたことを報じています。お茶請けにもアルファベットが侵入するフィーバーぶりです。

 何しろペリーによる砲丸外交で無理に開国を迫られたわけですから、国として諸外国との交渉に必要な会話力、西洋文明を知るために必要な洋書の翻訳能力を身に着けられるか否かは、死活問題です。幕府はその対策に安政3年蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を開設し、封建的な幕府としては珍しく、能力のある人物であれば地位や身分に関係なく人材を登用しました。そんな英語熱の時代の空気を開国後の民間人も共有していたことを感じさせる面白い英語辞書が、明治5年発行の『英国単語図解』です。

 蕃書調所から開成所と名を変えた幕府の洋学研究所は、慶応2年に『英吉利単語篇』(以下、単語篇)という英単語を1490語羅列しただけの学習書を出版します。その単語篇の図説対訳本として出版されたのが、この『英国単語図解』(以下、図解)です。

(写真はクリックで拡大)

  
『英吉利単語篇』        『英国単語図解』

図解では単語篇の前半740語を収録しており、第一篇の文具や学校に関する単語30語、第二篇の天候や地形など自然界の現象100語、第三篇の陸海軍の名称、人間関係の呼称、曜日、季節など210語、第四篇の人体、病名、建築物、日用品の名称など400語の4部構成になっています。

 これらの英単語は底本の存在が研究者により確認されており、第一篇がオランダ人ファン・デル・パイルの『英文典初歩』、第二篇から第四篇までがドイツで刊行された英独仏伊語の対訳単語集『Traveller’s Manual』から抜き出されたものだということが分かっています。

(写真はクリックで拡大)

 誌面は1ページを均等に10分割し、1コマに「master. マストル 師匠 シシヤウ」のように英単語とカタカナの発音表記、それに訳語とその読みを書いていますが、中には「post-office. ポストヲッフィス 飛脚館 セイフノヒキャクヤ」のような意訳も見受けられます。

この辞書のユニークな点は、なんといっても挿絵にあります。

(写真はクリックで拡大)


人物が旧態依然とした丁髷(ちょんまげ)の男性と日本髷(にほんまげ)の女性で描かれ、江戸と英単語というミスマッチな取り合わせがかえって新鮮に感じられます。表情も思わずクスッとしてしまうようなものが多く、「Laughing. ラァヒング 笑 ワラヒ」などは、“もらい泣き” ならぬ “もらい笑い” をしてしまいそうです。舶来ものの時計や椅子など見たことないものも、絵があることで分かりやすくなりますし、ハグキ、ウワアゴ、メノタマなど人体のパーツを表す英単語の挿絵も、インパクトが半端ではありません。

 江戸期の往来物(教科書)を見ていても感じますが、難しいものも絵入りにすることで誰もが楽しみながら学べる工夫をする、そんな日本人の持つセンスと知恵が現代のアニメ文化を築いたように思います。

 この本の著者、市川央坡は、文久元年の遣欧使節団の一員だった市川渡(清流)と同一人物といわれます。渡は旅行中の日記を元に『尾蠅(びよう)欧行漫録』という見聞録を残していますが、序文には「私は蟹行(横文字)の書物を学んだこともない」(『幕末欧州見聞録:尾蠅欧行漫録』新人物往来社)と書いています。ぶっつけ本番の海外旅行で自らが苦労したであろう外国語を楽しく学べる辞書があれば、との思いがこの本の誕生につながったのではないでしょうか。

 実は『英吉利単語篇』と『英国単語図解』の間には、中間的立場の辞書がもう一冊存在します。図解の版心書名(折目に書かれたタイトル)が題箋(表紙のタイトル)と違い、『対訳名物図編』とあるところから調べてみましたら、これは図解と同じ体裁ながら絵の部分が空白の辞書でした。慶応3年に市川が「彼ニノミ有テ我ニ無キ物」つまり外国製で知悉(ちしつ)していないものが少なからずあるので、挿絵の部分を空白のままで上梓(じょうし)したと述べています。この、絵の抜けた辞書を経て図解完成までに5年の歳月が費やされたわけで、市川の執念を感じさせます。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。

『日本国語大辞典』をよむ―第3回 オノマトペ①:キリギリスとコオロギ

2017年 3月 12日 日曜日 筆者: 今野 真二

第3回 オノマトペ①:キリギリスとコオロギ

 『日本国語大辞典』は見出し「オノマトペ」を「擬声語および擬態語。擬音語。オノマトペア」と説明している。これだけではわかりにくいので、見出し「ぎせいご(擬声語)」を調べてみると、「物の音や声などを表わすことば。表示される語音と、それによって表現される種々の自然音との間に、ある種の必然的関係、すなわち音象徴が存在することによって成立する語」と説明されている。

 『日本国語大辞典』は見出し「ガチャガチャ」の語義の【三】に「(鳴き声から転じて)昆虫「くつわむし(轡虫)」の異名」と記している。草むらで、「ガチャガチャ」というように聞こえる声で鳴いている虫を、その鳴き声から「ガチャガチャ」と呼ぶということで、これはオノマトペがそのまま虫の名前になった例といえよう。クツワムシの場合は、今は東京などでは、なかなか鳴き声を聞くことができないかもしれないが、筆者が子供の頃には家のまわりの草むらなどでよく鳴いていた。「ガチャガチャ」は実際の鳴き声にかなりちかい「聞きなし」といえそうだと思うが、それはもしかしたら、「あれマツムシが鳴いている チンチロチンチロチンチロリン」と始まる文部省唱歌「虫のこえ(蟲のこゑ)」(作詩作曲者不詳)の2番の歌詞「きりきりきりきり きりぎりす。がちゃがちゃがちゃがちゃ くつわむし」に、知らず知らずのうちに影響されているのかもしれない。この「虫のこえ」は明治43(1910)年に刊行された『尋常小学読本唱歌』に収められている。1998年に示された「小学校学習指導要領」において、第2学年の歌唱共通教材とされているので、今でも小学校2年生が歌っている歌だと思われる。この「虫のこえ」は2007年には「日本の歌百選」にも選ばれている。

 ところが、昭和7(1932)年に刊行された『新訂尋常小学唱歌』において、「きりぎりす」が「こほろぎや」に改められ、現在はこのかたちで定着している。『日本国語大辞典』で「きりぎりす」を調べてみると、「(1)昆虫「こおろぎ(蟋蟀)」の古名」とまず記されている。少しややこしい話になってきたが、できるだけわかりやすく説明してみよう。934年頃に成ったと考えられている『和名類聚抄』という辞書がある。この辞書をみると、「蟋蟀」という漢語に対して「木里木里須」と記されている。つまり「蟋蟀(シッシツ)」という漢語と対応する和語は「キリキリス」だという記事である。では「コオロギ」はどうなっているかといえば、「蜻蛚(セイレツ)」という漢語と対応する和語として「古保呂木」とある。漢語「シッシツ(蟋蟀)」は日本で現在いうところの「コオロギ」だと考えられている。ここだけをとりだすと、日本では古くは、現在「コオロギ」と呼んでいる昆虫を「キリキリス」と呼んでいたという推測を引き出す。こうした推測に基づいて、「虫のこえ」の歌詞中の「きりぎりす」が「こほろぎ」に改められたということだ。

 しかし、ここには実は難しい「問題」が潜んでいる。文献に記されている語から、それが実際にどのような昆虫だったか、花だったかなどを探るのは案外と難しい。文献に「コオロギ」と書いてあって、現在も同じ名前の昆虫がいれば、「ああこれだ」とまず思ってしまう。だいたいはそれでいいといえなくもないが、そうではない場合もある。しかし文献に記されている「情報」だけから、昆虫や植物を特定することは難しい。したがって、これは言語学においては扱わないことがらになる。言語が実際のどんなモノを指しているか、ということは、ある程度わかっていないと言語についての議論もできない場合もあるが、言語学の追究する課題ではない、と考えることになっている。

 辞書もこのあたりが実は難しい。百科事典であれば、現在「コオロギ」と呼ばれている昆虫の写真を載せて、あとはコオロギの生態などを記せばよい。現在刊行されている百科事典にはCDが付いているものもあるから、コオロギの鳴き声をそこに録音しておくこともできる。しかし国語辞書の場合は、そうもいかない。『日本国語大辞典』は、といえば、語義の(2)として「バッタ(直翅)目キリギリス科の昆虫。体長四~五センチメートル。(略)夏から秋にかけて野原の草むらに多く、長いうしろあしでよく跳躍する。(略)雄は「チョン、ギース」と鳴く。(以下略)」と記し、そばに挿絵があるが、挿絵には「螽蟖(2)」とキャプションがある。これは語義(1)の「蟋蟀(コオロギ)」ではなくて(2)の「螽蟖(キリギリス)」の挿絵だということを示している。『日本国語大辞典』は国語辞書(言語辞書)であるが、固有名詞も収めるなど、百科事典を兼ねているところがあるので、このようにして、語義記述において対応していることがわかる。

 さて、漢語「シッシツ(蟋蟀)」は現在日本でいうところのコオロギだろうというところまで述べた。ところがである。『日本国語大辞典』の見出し「きりぎりす」の「語誌」欄をみると、漢語「セイレツ(蜻蛚)」と漢語「シッシツ(蟋蟀)」とは、中国では「同じものをいう」(『日本国語大辞典』第4巻587ページ第3段)。「同じもの」は同じ昆虫ということであろうが、そうなると、「じゃあなんで中国では同じ昆虫に2つの語があるんだ?」という疑問が生じてくるが、もしも「同じ」だとすると、日本語の「キリキリス(木里木里須)」と「コホロキ(古保呂木)」との関係はどうなるのか? という新たな疑問を引き出す。許されている字数がもうあまりないので、簡略にまとめざるを得ないが、筆者の意見をいえば、歌詞はもともとのままでよかったのではないかということだ。だって、「キリキリキリ」鳴く虫だから「キリキリス」という名前がついたはずなんだから。それが現在なんと呼んでいる昆虫にあたるかは、また別の話としてもよいだろう。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。

続 10分でわかるカタカナ語 第2回 エビデンス

2017年 3月 11日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「エビデンス」の意味と使い方

どういう意味?

 「根拠」や「証拠」のことです。

もう少し詳しく教えて

 エビデンスは英語の evidence を由来とするカタカナ語です。英語の evidence には主に(1)根拠・証拠(2)証言などの意味がありますが、日本語のエビデンスはおおよそ(1)の意味で使われます。なお evidence の語源は、ラテン語の evidentia です。 evidentia は「明白であること」や「根拠」を意味します。

どんな時に登場する言葉?

 広い分野で使われる言葉です。例えばビジネス一般では「何かを裏付けるための具体的な情報・資料」や「言質(げんち:証拠になる約束の言葉)」などを指すことが多いようです。また医療の分野では「その治療法が良いといえる証拠」のことをエビデンスと言います。また近年では政治の分野でもエビデンスの登場機会が増えました。「政策の立案・評価のための(科学的)根拠」を指すことが多いようです。このほか様々な業界で、エビデンスが登場します。

どんな経緯でこの語を使うように?

 一般社会でこの言葉が普及した時期は、ゼロ年代(2000年〜2009年)のことでした。例えば新聞でこの言葉が登場する記事の数は、ゼロ年代後半に増えています(注:朝日・読売・毎日・産経調べ)。また『現代用語の基礎知識』(自由国民社)では、2007年版以降にエビデンスの項目が登場しました。エビデンスの登場機会が増えた背景には、医療分野で EBM (evidence-based medicine)とよばれる新概念が注目されたことが関係しています。詳細は後述します。

エビデンスの使い方を実例で教えて!

エビデンスがない、エビデンスがある

 根拠・証拠の有無を語る場合に「エビデンスがある」「エビデンスがない」などと表現をすることが可能です。また証拠・根拠に立脚することを「エビデンスに基づく」と表現することもできます。このほか「エビデンスを得る」「エビデンスを収集する」などの言い方もあります。

EBM(根拠に基づく医療)

 1990年代以降の医療界で、 EBM(evidence-based medicine:エビデンス・ベースド・メディシン)とよばれる新概念が定着しました。これは「病気にかかった人に実際に使って、その効果が確かめられている医療」のことです(参考:国立国語研究所「『病院の言葉』を分かりやすくする提言」)。従前の医療がともすれば理論先行になりがちだったことの反省から誕生した概念でした。概念が誕生したのが1990年代初頭のこと。日本の医療界で注目されるようになったのは1990年代中盤のことです。以来、一般社会でもエビデンスというカタカナ語への注目度が高まりました。

そのほかの業界では?

 IT 業界では「開発したシステムがうまく動作しているかどうかを示すための証拠資料」を、エビデンスとよぶ習慣があります。また銀行業界では、融資の可否を判断するための資料(住民票、源泉徴収票など)などをエビデンスとよんでいます。

言い換えたい場合は?

 多くの場合、エビデンスを言い換える場合は「根拠・証拠・拠り所・裏付け」などの言葉が使えます。根拠・証拠の実態が「資料や情報」である場合「根拠となる資料」「証拠となる情報」などの言い換えも可能です。いっぽう医療分野におけるエビデンスの場合、単純に「根拠」と言い換えるだけでは「背景となる EBM の考え方」が伝わりにくいかもしれません。少々面倒ではありますが「その治療法が良いといえる証拠」などの文章表現を試してみてください。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

理解率はわずか8.5%  国立国語研究所が2009年にまとめた「『病院の言葉』を分かりやすくする提言」によると、エビデンスの認知率(言葉を見聞きした人の割合)は23.6%。理解率(意味を知る人の割合)に至っては、わずか8.5%しか存在しませんでした。エビデンスは「適切な言い換え」や「理解率の向上」が求められるカタカナ語のひとつといえるでしょう。

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◆この連載の目次は⇒「続 10分でわかるカタカナ語」目次へ

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【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

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【編集部から】

 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
 毎週土曜日更新。

【関連書籍】

●『コンサイスカタカナ語辞典 第4版』
定評あるカタカナ語辞典の第4版。約56,300語収録。詳細は こちら

●『見やすいカタカナ新語辞典』
大きく見やすい活字でカタカナ新語が引ける。約13,000語収録。詳細は こちら

人名用漢字の新字旧字:「弾」と「彈」

2017年 3月 9日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第128回 「弾」と「彈」

新字の「弾」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「彈」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり、新字の「弾」も旧字の「彈」も、出生届に書いてOK。どうして、こんなことになったのでしょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されており、弓部に、旧字の「彈」が含まれていました。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも旧字の「彈」が収録されていました。

昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表にも、旧字の「彈」が収録されていました。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。

字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。この活字字体整理案では、「彈」を「弾」へと整理することが提案されていました。

報告を受けた国語審議会では、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する主査委員会を組織しました。この間、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「彈」が収録されていたので、「彈」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。新字の「弾」は、子供の名づけに使えなくなりました。

昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表では、新字の「弾」が収録されていました。活字字体整理案に従った結果、新字の「弾」が当用漢字となり、旧字の「彈」は当用漢字ではなくなってしまったのです。当用漢字表にある旧字の「彈」と、当用漢字字体表にある新字の「弾」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「彈」も新字の「弾」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。つまり、昭和24年の時点で、旧字の「彈」も新字の「弾」も、どちらも出生届に書いてOKとなったのです。

昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表では、「弾(彈)」となっていました。これに対し、民事行政審議会は、常用漢字表のカッコ書きの旧字を子供の名づけに認めるかどうか、審議を続けていました。昭和56年4月22日の総会で、民事行政審議会は妥協案を選択します。常用漢字表のカッコ書きの旧字355組357字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを子供の名づけに認める、という妥協案です。昭和56年10月1日に常用漢字表は内閣告示され、「弾」は常用漢字になりました。同時に「彈」は人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、旧字の「彈」も新字の「弾」も、どちらも子供の名づけに使えるのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

続 10分でわかるカタカナ語 第1回 インテリジェンス

2017年 3月 4日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「インテリジェンス」の意味と使い方

どういう意味?

 「知能・知性」のことです。「諜報」「情報収集」の意味としても使われます。

もう少し詳しく教えて

 インテリジェンスは、英語の intelligence を由来とするカタカナ語です。基本的には「知能」や「知性」を意味します。

 intelligence の語源をたどると、おおもとはラテン語の inter と lego という言葉に行き着きます。このうち inter は「〜の間」、いっぽうの lego は「何かを集める、ひろい集める」という意味。これが組み合わさって「ものごとをうまく識別できる」つまり「理解力がある」という意味をもつようになりました。そこで intelligence は「知能・知性」を意味するわけです。

 いっぽう安全保障・軍事の世界でもインテリジェンスが登場します。この分野におけるインテリジェンスは、敵や国際情勢などに関する「情報収集」や「情報分析」の意味をもつのです。ラテン語で登場した「何かを集める」「ものごとをうまく識別する」というイメージが、一般とは異なる形で生きていることになります。

どんな時に登場する言葉?

 「知能」や「知性」を意味するインテリジェンスは、あらゆる分野で登場する言葉です。またインテリジェンスを含む複合語は、ビジネスや情報通信などの分野で登場することも多いようです。詳細は後で述べます。いっぽう「情報収集」を意味するインテリジェンスは軍事や政治の分野でよく登場します。

どんな経緯でこの語を使うように?

 日本語でインテリジェンスというカタカナ語が登場するようになったのは明治時代のことであるようです。ちなみに昭和初期の文献には、次のような用例が残っていました。物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦が、顔の美醜について記した文章です。「おでこは心の広さを現わし、小さく格好よく引きしまった鼻はインテリジェンスとデリカシーの表象であり、下がった目じりは慈愛と温情の示現である、という場合もあるであろう。」(「破片」1934年11月)この場合のインテリジェンスは「知性」を意味します。

インテリジェンスの使い方を実例で教えて!

インテリジェンスを感じる

 何かに知性の高さを感じるような場合「インテリジェンスを感じる」「インテリジェンスが高い」などと表現できます。また「知的な」とか「賢い」という意味を表現する場合に、インテリジェンスを形容動詞化して「インテリジェンスな○○」などと表現する場合もあります。「インテリジェンスな機能を追加する」などの表現です。

情報収集機関

 インテリジェンス(情報収集・分析)には多くの複合語が存在します。例えばインテリジェンスサービスやインテリジェンスエージェンシーとは「情報収集機関」のこと(この場合のエージェンシーは機関・局などの意味)。またカウンターインテリジェンスとは「相手に対抗して行う情報収集」を意味します。さらに近年では「情報通信技術を利用した情報収集」を意味するサイバーインテリジェンスという概念も登場しました。ちなみにサイバーとは「コンピューターネットワーク」に関係することを意味する接頭語です。

ビジネスインテリジェンス

 ビジネス(経営)の分野では「企業が蓄積する情報を経営に活用すること」をビジネスインテリジェンス(BI)と表現します。またそのために利用する「データ分析用のソフトウェア」のことを、 BI ツール、 BI システムなどと呼んでいます。

インテリジェント

 intelligence(インテリジェンス)は英語の名詞です。これに対応する形容詞が intelligent (インテリジェント)。この言葉も「知性がある」とか「賢い」などを意味します。この言葉は、日本語では複合語として登場することが多いようです。例えばインテリジェントビルは「高度な情報通信機器の設置・利用に便利な設備を持つビルディング」という意味。インテリジェント材料は「環境変化に自動的に反応できる材料」という意味です。

言い換えたい場合は?

 知能・知性を意味する場合のインテリジェンスは「知能」や「知性」などと言い換えることができます。ただし「人工知能」のように定着した訳語が存在する場合は、それをそのまま使ってください。また「ビジネスインテリジェンス」のように言い換えが難しい概念も存在します。その場合は「企業が蓄積する情報を経営に有効活用すること」などの説明を加えてみてください。

 いっぽう安全保障・軍事分野のインテリジェンスは「情報収集」や「情報活動」「情報収集・分析」と言い換えることが可能です。実際、新聞や書籍などでは、このような言い換えがよく登場します。なお相手が専門家である場合は「諜報(ちょうほう)」という定まった訳語を使う方法もあります。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

インテリは何の略? 知識人や知識階級を意味する「インテリ」という言葉。一見するとインテリジェンスまたはインテリジェントの省略形のように見えます。しかしインテリの語源は英語でなく、ロシア語で知識階級を意味するインテリゲンチャ(интеллигенция)です。

IQ の I は? 知能指数を意味する IQ は、intelligence quotient の略。つまり IQ の I とはインテリジェンスのことなのです。

AI の I も? 人工知能を意味する AI は、artificial intelligence(アーティフィシャルインテリジェンス)の略です。アーティフィシャルとは「人工」を意味します。

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【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

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【編集部から】

 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
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【関連書籍】

●『コンサイスカタカナ語辞典 第4版』
定評あるカタカナ語辞典の第4版。約56,300語収録。詳細は こちら

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大きく見やすい活字でカタカナ新語が引ける。約13,000語収録。詳細は こちら

広告の中のタイプライター(2):Royal KMM

2017年 3月 2日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・補遺

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『Life』1942年10月26日号(写真はクリックで拡大)

18台の「Royal KMM」を前に演説する男。演説台には、アメリカ海軍を象徴するかのような白頭鷲の模型と、アメリカ国旗をデフォルメした装飾。左上には「A message to the typewriters we sold before Pearl Harbor」の文字。18台の「Royal KMM」のラインフィード・レバーは、あたかも右腕を振り上げているかのようです。この広告は、何を意味しているのでしょう。

「Royal KMM」は、ロイヤル・タイプライター社が1938年に発売したフロントストライク式タイプライターです。それまでのロイヤル・タイプライター社のモデルと異なり、インクリボンが剥き出しになっておらず、金属製のカバーに「ROYAL」のロゴが特徴的です。キー数は42で、基本的にはQWERTY配列です。ただし、映画『ドボラック簡素化タイプライターキーボードにおける動作研究』(A Motion Study of the Dvorak Simplified Typewriter Keyboard)には、ドボラック式配列の「Royal KMM」も登場するので、他のキー配列もオプションで注文可能だったと考えられます。

1941年12月7日、日本軍はハワイ真珠湾(Pearl Harbor)を奇襲攻撃し、日米は開戦しました。これに伴い、ロイヤル・タイプライター社は、「Royal KMM」など民間向けタイプライターの生産を停止、軍需向け「Royal Arrow Portable」の生産に注力することになりました。そんな中、ロイヤル・タイプライター社は、いわゆる愛国主義的な広告を、各誌に掲載しました。その一つが、上の広告です。「A message to the typewriters we sold before Pearl Harbor」(真珠湾以前に我々が販売したタイプライターへのメッセージ)と題するこの広告は、その名のとおり、1941年以前にロイヤル・タイプライター社が販売したタイプライターに向けたメッセージでした。

12月7日以前に我々が販売した全てのロイヤル・タイプライターたちよ、聴き給え。君たちのもとには、今まさに「本当の仕事」がある。君たちは、この戦争が終わるその日まで、踏ん張ってもらわねばならない。君たちは、アメリカのビジネスにおける極めて重要な一翼を担っているとともに、しばらくの間、君たちの後釜となるマシンは無い。というのも、我々は今、軍需品の生産に忙殺されているからだ。

君たちが堂々と仕事をおこなえるよう、君たちには、かの有名な、信頼すべき、ロイヤルのサービスがついている。君たちが今現在どれほど古びてしまっているとしても、どれほど長期に渡って酷使されてきたとしても、今後も君たちは使わなければならない。この戦争に勝つまでは!

実際、1945年末まで、「Royal KMM」の生産は再開されませんでした。アメリカの対日戦争を、このような形で、ロイヤル・タイプライター社は支えていたのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

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