カテゴリー:コラム

フィールド言語学への誘い:ザンジバル編 第4回 調査準備1:荷造りをする

2018年 1月 19日 金曜日 筆者: 古本 真

フィールド言語学への誘い:ザンジバル編 第4回 調査準備1:荷造りをする

 アフリカで調査をするフィールドワーカーというと、とんでもない秘境に出かけて行って、あまたのサバイバルグッズを駆使しながら生き抜く姿をイメージする人がいるかもしれません。もちろん、そうしたタイプのフィールドワーカーもいるのですが、残念ながら、そうしたイメージは私の調査には当てはまりません。私の滞在先には電気が来ており(時々停電するけど)、扇風機もあり(首は回らないけど)、夜はベッドで寝ています(南京虫にかまれたけど)。最近では、インターネットも使えます。食事も、お世話になっている家のお母さんが用意してくれるので、自分で作る必要がありません(ちなみに主食はだいたい米)。つまり、皆さんがちょっとしたキャンプに出かけるよりもよっぽど準備するものは少ないのです。特別に用意するものと言えば、蚊が多くてマラリアの心配があるので、その対策のための、予防薬や虫よけスプレー(私はどちらも使いませんが)や蚊取線香くらいでしょうか[注1]

 それでは、フィールド言語学のために特別に必要なものとはいったいどんなものなのでしょうか。今回は、私のフィールドワークにおける必需品をいくつか紹介します。


私のフィールドワークにおける必需品

ノートとペン

この2つさえあればフィールドワークは始められます。私が使っているノートは、表紙の硬いA5くらいのサイズのものです。こんなノートを使っているのは、机がないところでも書き取りがしやすく、携帯もしやすいためです。話者への聞き取りは、たいてい家の軒先や屋外で行われます。また、決まった調査時間以外も気づいたこと、耳にしたおもしろい表現は書き留めておく必要があります。ペンは、書き心地のよい油性のボールペンを選んでいます。

ボイスレコーダーとマイク

フィールド言語学で分析の対象となる言語データは話者が発した音声に他なりません。この音声を残しておくことは以下のような利点があります。

・調査中にメモし忘れたり、自分の速記が汚すぎて読めない場合のデータの確認。
・メモには残されていない現象(例:声の抑揚)の検証。
・速記が不可能なおしゃべりの記録。
・データの信頼性の確保。

ボイスレコーダーは、16bit/44.1kHzのwavファイルの形で音声を録音できるものを用います。聞き取りやすく、多くの再生機器や分析ソフトに対応しているため、言語調査の際は、こうしたフォーマットで音声ファイルを保存することが一般的になっています。マイクは、レコーダー内臓のものを用いることもありますが、よりクリアな音声が必要なときは、ヘッドセット型のコンデンサーマイクを使います。

パソコン

パソコンは、集めたデータ(ノートのメモや音声)の保存だけでなく、普段のおしゃべりや民話の文字起こしのためにも用います。文字起こしは、パソコンに保存した録音データを母語話者と一緒に聞きながら行います。正確な文字起こしは、母語話者の協力なしではとてもできません。なお、私は初めて赴く調査地にはパソコンをもっていかないようにしています。これは、そもそも滞在先でパソコンが使えるか不明、パソコンがあるとフィールドの人たちと話す時間が減ってしまう、信頼関係を築くまでは万一盗まれたら嫌だ、といった理由によります。

懐中電灯

調査は、話者の都合に合わせて夜行うこともたびたびありますが、ザンジバルの地方には電気が来ていない家もたくさんあります。夜、電気のない家で調査をするときは、懐中電灯が必須です。また、家によっては、トイレに灯りがないということもよくありますが、こんなときにも懐中電灯を持っていると便利です。

* * *

[注]

  1. なお、荷物を用意するときのコツは、調査時も含めた、朝起きてから夜寝るまでの生活をイメージすること。

◆この連載の目次は⇒「フィールド言語学への誘い:ザンジバル編 」目次へ

【筆者プロフィール】

■古本真(ふるもと・まこと)

1986年生まれ、静岡県出身。大阪大学・日本学術振興会特別研究員PD。専門はフィールド言語学。2012年からタンザニアのザンジバル・ウングジャ島でのフィールドワークを始め、スワヒリ語の地域変種(方言)について調査・研究を行っている。
最近嬉しかったことは、自分の写真がフィールドのママのWhatsApp(ショートメッセージのアプリ)のプロフィールになっていたこと。

* * *

【編集部から】

今回は調査準備編の1回目ということで、調査道具について紹介していただきました。懐中電灯が必要なのは地域性の現れでしょうか。使用するノート・ペンの種類やパソコンに入れたソフト、マイクの種類などにはフィールドワーカーそれぞれのこだわりがあるのかもしれません。

次回は、話者(ことばを教えてくれる人)といつ、どのように知り合うかについて話していただきます。

広告の中のタイプライター(24):Ideal Schreibmaschine

2018年 1月 18日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・補遺

『Sport & Salon』1902年5月3日号

『Sport & Salon』1902年5月3日号
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「Ideal Schreibmaschine」は、ドレスデンのザイデル&ナウマン社が、1900年に発売したタイプライターです。このタイプライターは、ニューヨーク州グロトンのバーニー(Edwin Earl Barney)とタナー(Frank Jay Tanner)が発明したもので、アメリカ特許は、ユニオン・タイプライター社からモナーク・タイプライター社へと引き継がれ、一部は「Monarch Visible」にも使用されたようです。一方、ドイツでは、当初「Ideal Schreibmaschine」という名で発売されましたが、その後にザイデル&ナウマン社が「Ideal B」を発売したため、それ以前の「Ideal Schreibmaschine」は「Ideal A」と呼びならわされるようになりました。ただし、実は「Ideal A」は、コレクターたちの地道な調査によって、現在では少なくとも4種類の異なるモデルが知られており、上の広告のモデルは「Ideal A1」と、下の広告のモデルは「Ideal A3」と呼ばれています。

「Ideal Schreibmaschine」は、42キーのフロントストライク式タイプライターです。円弧状に配置された42本の活字棒は、各キーを押すことで立ち上がり、プラテンの前面に置かれた紙の上にインクリボンごと叩きつけられ、紙の前面に印字がおこなわれます。通常の印字は小文字ですが、キーボード左右端にあるシフトキーを押した状態では、タイプバスケットが少し持ち上がると同時に、プラテンが少し下に移動することで、大文字が印字されるようになります。また、フロントパネルの左端にはシフトロックボタンがあって、シフトキーを押し下げたままの状態にできます。これに加え、特徴的なのがキャリッジリターン機構で、フロントパネル右側のレバーを右に倒すことで、キャリッジリターンと改行がおこなわれます。プラテンに手を伸ばす必要が無いのです。

「Ideal Schreibmaschine」のキー配列は、各国向けごとにバラバラです。下の広告のモデルはフランス向けらしく、いわゆるAZERTY配列です。すなわち、上段の小文字側がazertyuiop^で、中段がqsdfghjklmùで、下段がwxcvbn,;:=です。最上段は锑(-è_çà)と並んでおり、アクセント記号付きの小文字が準備されているのが特徴的です。なお、アクセント記号付きの大文字や「ÿ」等を打つ場合は、バックスペースキー(「Q」のすぐ左)を駆使して、シングルクォートやトレマ等と重ね打ちします。2~9の数字は、最上段のシフト側に配置されていて、数字の0は大文字の「O」で、数字の1は大文字の「I」で代用します。その一方、ドイツ国内向けの「Ideal Schreibmaschine」のキー配列は、基本的にQWERTZ配列でした。イギリスやアメリカ向けはQWERTY配列という風に、それぞれ各国向けのモデルを生産しており、さらには特注のキー配列も受注生産していたようです。

『Typewriter Topics』1907年8月号

『Typewriter Topics』1907年8月号
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【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

絵巻で見る 平安時代の暮らし 第57回『年中行事絵巻』別本巻三「安楽花(やすらいばな)の貧乏貴族邸」を読み解く

2018年 1月 17日 水曜日 筆者: 倉田 実

第57回『年中行事絵巻』別本巻三「安楽花(やすらいばな)の貧乏貴族邸」を読み解く

場面:安楽花の様子を眺めているところ。
場所:ある下級の貴族邸
時節:3月10日

(画像はクリックで拡大)

人物:[ア][オ]舞う童女 [イ]庶民の老女か [ウ]庶民の男 [エ]庶民の少女 [カ]北の方か [キ]北の方の母親か [ク]幼女 [ケ]裳着前の女性か [コ]三男か [サ]主人か [シ]長男か [ス]次男か [セ]男童
建物・庭:Ⓐ棟門 Ⓑ築地 Ⓒ門扉 Ⓓ寝殿 Ⓔ妻戸 Ⓕ簀子 Ⓖ格子の下側 Ⓗ茅葺屋根 Ⓘ置石 Ⓙ野地板 Ⓚ棟瓦 Ⓛ雑木 Ⓜ懸魚(げぎょ) Ⓝ垂木 Ⓞ東廂 Ⓟ南廂 Ⓠ板敷 Ⓡ遣戸 ⓈⓉ格子の上側 ⓊⓎ突っかい棒 Ⓥ立蔀 Ⓦ沓脱 Ⓧ羅文付きの立蔀 Ⓩ垣根
持ち物・調度など:①綾藺笠(あやいがさ) ②⑧扇 ③懐紙 ④鼓 ⑤銅拍子(どびょうし) ⑥⑱⑲御簾 ⑦懸け守り ⑨烏帽子 ⑩箏の琴 ⑪冊子 ⑫畳 ⑬⑳几帳 ⑭障子 ⑮二階厨子 ⑯香炉か ⑰幅の狭い御簾

はじめに 一年間お休みいたしましたが、再開させていただきます。前回までは主に大内裏や内裏が描かれている絵巻を見てきました。今回は貧乏貴族邸を採り上げ、次回からは貴族以外の人々の暮らしがわかる絵巻を扱っていくことにします。

絵巻の場面 それでは、今回の絵巻の場面確認から始めます。画面中央の庭先で童女たちが舞うのを、荒廃した屋敷の内外から眺めている光景が描かれていますね。この女舞は、京都高雄の神護寺で三月十日に催された法華会(ほっけえ。法華経を講讃する法会)に際して行われたとされています。童女たちが風流な装いで歌い舞いながら参詣したのです。この事情は、『年中行事絵巻』諸本のなかで、この箇所に唯一残されている詞書に記されています。この詞書は本来のものかどうかよく分かりませんが、引用しておきましょう。

三月十日、高雄寺の法華会と言ふことを行う。京中の女(め)の童(わらはべ)、詣でて、舞ひ奏(かな)づ。出で立ちて行くを、桟敷ある家に、呼び止めて、舞はせ見る。これを安楽花と名付けたり。

 口語訳は必要ありませんね。高雄寺が神護寺のことです。京中の童女たちが舞い奏でながら行く様子を、道路に面した桟敷のある家では、呼び止めて見物したとあります。この様子は掲載した画面以前に描かれ、掲載場面では邸内で舞っています。

 なお、安楽花は、これとは別の、同日に京都紫野の今宮神社で行われ、今日まで引き継がれた「安楽祭(夜須礼祭)」を指すのが普通です。この祭にも歌舞音曲が伴います。しかし、『年中行事絵巻』の安楽花とのかかわりは、よく分かっていません。

安楽花の舞姿 童女たちの舞姿から具体的に見ていきましょう。目につくのが頭にかぶっている物ですね。これは①綾藺笠といい、藺草を編んで作り、中央部の突起部に雉の尾羽を付け、五色の布を吹き流しにしました。

 手に持っているもので、②扇はすぐにわかりますね。この他に、③懐紙、④鼓、⑤銅拍子も持っています。[ア]の童女が手にしているのが懐紙です。第49回で見ました「女踏歌」でも妓女たちは懐紙を手にして舞っていました。鼓と銅拍子は舞や歌の拍子をとります。銅拍子は小さなシンバルのようなものを両手に持ち、打ち合わせて鳴らします。画面では片方しか見えませんが、もう一つもその右側にあったと思われます。画面をじっくり見ていますと、こんな素描的な絵でも今にも動き出して、舞い、歌い、はやす様子が目に浮かんできます。

覗き見る人々 次に舞姿を外から眺める人々を見ましょう。崩れかかったⒶ棟門やⒷ築地から京の住人たちが覗いています。開いたⒸ門扉からは子どもも含めて男女五人が見入っています。[イ]の人は老女かもしれません。

 崩れて木枠が見える築地でも[ウ]庶民の男と[エ]少女が覗いています。男の視線は舞に向いていますが、少女は違っていますね。築地の陰でしゃがんでいる[オ]舞の童女を見ています。この童女は何をしているのでしょうか。ちょっと品のない想像をすれば、しゃがんで小用をしているのかもしれません。こんな光景を描くのも『年中行事絵巻』の面白さでした。

邸内の人々 邸内の人々に目を転じましょう。Ⓓ寝殿一棟が描かれています。寝殿右下角の一間はⒺ妻戸が開かれ、⑥御簾が下りていて、内側と端から二人が覗いています。端の女性はこの家の[カ]北の方、内側はその[キ]母親でしょうか。Ⓕ簀子に立つのは[ク]幼女で、首から⑦懸け守りを下げています。

 次の一間には兄妹でしょうか若い男女が坐っています。格子は取り払われているのでしょう。[ケ]女性の髪は長くなく、簀子に出ていますので、まだ裳着(もぎ。女子の成人式)をしていないのでしょう。成人ならば、顔を人目にはさらさないはずです。右手で指して、何やら[コ]兄らしい男性(三男か)に話しかけています。

 三間目の簀子には三人がいて、後ろにⒼ格子の下側が見えます。⑧扇を持つ男性だけ髭がありますので、この家の[サ]主人でしょう。 [ク]幼女を見ているようなので、可愛くて仕方ないのかもしれません。あとの二人は、[シ]長男と[ス]次男でしょうか。

 地面に坐っている四人は使用人でしょう。⑨烏帽子がないのは[セ]男童になります。

建物の様子 続いて家の様子を見てみましょう。ここのⒶ棟門は東の正門と判断できますので、画面は南東方向からの視線で捉えられた構図になりますね。Ⓗ茅葺屋根は荒廃して、Ⓘ置石されたⒿ野地板が見えています。Ⓚ棟瓦も一部なくなり、Ⓛ雑木が生えています。Ⓜ懸魚(棟木を隠す飾り)の下がる妻面が見えますので入母屋造で、家族が見ていた所は南端の軒のⓃ垂木などからも、Ⓞ東廂と分かります。

 南面はⓅ南廂で内部が描かれています。⑩箏の琴とその奥に⑪冊子が⑫畳の上に開いたまま置かれています。どうしてこの二つを描いたのでしょうか。それは、今まで弾奏し、読書していたことを暗示しています。しかし、安楽花が来ましたので、⑥御簾のもとに移動したことになります。絵巻は、こうした過去の時間を暗示させるように描かれるのです。

 南廂の奥には⑬几帳が置かれ、西側の⑭障子の前のⓆ板敷には⑮二階厨子があります。二階部分には箱が置かれ、上の層(こし)は⑯香炉のようですが、下の層はわかりません。二階厨子には文様が見えますので蒔絵でも施されているのでしょう。高価な二階厨子になります。箏の琴と共に、この家が豊かであった昔も暗示しているのかもしれません。

 南面をさらに見ていきます。東端の一間はⓇ遣戸で片側が開けられ、⑰幅の狭い御簾が巻き上げられています。中央の間はⓈ格子の上側が上げられ、やはり⑱御簾が巻かれています。東端から中央の間にかけては、一続きになっています。西側の間もⓉ格子が上げられていて、⑲御簾に⑳几帳が添えられています。中央の間との境にあるのは倒壊防止用のⓊ突っかい棒です。

 この寝殿は桁行三間しかなく、南面東端が遣戸になっていて、本シリーズ第13回以降で見ました寝殿造とは違っています。どういう家の構造なのか、確認しましょう。

邸宅の構造 使用人たちの後ろには折れ曲がったⓋ立蔀が見えます。一間分しかありませんが、正門を入って北側に位置する侍廊(さぶらいろう。第16回参照)の前に置かれる物になります。この家にも侍廊があることになり、使用人たちが控えました。

 侍廊はあっても中門廊(ちゅうもんろう)や中門はありませんね。しかし、その役をする箇所はあるようです。幼女のいる簀子の前にある長い台状の物に注意してください。これはⓌ沓脱になり、上がった先のⒺ妻戸から中に入ることになります。この部分だけ見れば中門廊と同じになりますね。しかし、家族が安楽花を見ている所は東廂になり、寝殿の一画になっています。中門廊は寝殿東廂をその用に当てていることになります。

中門廊は南庭を隔てる役割があり、この家では、Ⓨ突っかい棒で支えられた、Ⓧ羅文付きの立蔀が担っています。立蔀の南庭側にはⓏ垣根があり、花壇にしています。

 それでは、この寝殿の大きさは、どうなるのでしょうか。南面は三間、東面は簀子が右上方向に伸びていますので四間はあります。四間目は北廂になるのでしょうか。西廂は、西簀子が見えるのでないようです。そうしますと、二間四方の母屋に、西を除いた三面に廂が付く寝殿となりましょうか。描かれた範囲では、二間三面の寝殿と考えておきますが、問題は残ります。寝殿西側の屋根を見てください。Ⓗ屋根はさらに西方向に伸びて描かれています。誤って描いたのか、寝殿西側にはもう一間あったのかになりますが、それ以上はわかりません。とりあえずは、以上のようにしておきます。

貧乏貴族一家 最後にこの一家を考えておきましょう。主人はどのような身分でしょうか。小さな荒廃した寝殿に住んでいますので、高い身分でないことは確かです。この家には車宿が描かれていませんので、六位になりましょうか。牛車はステータスを表し、五位になってから乗用が許されました。

 この屋敷には高い木立が何本もあります。それは長い年月の経過を思わせます。主人は何代目かになるのでしょう。その間に、身分の低さゆえに屋敷が荒廃したと思われます。

 しかし、家族は八人で、仲良く暮らしているようです。祭は楽しみで、主人が呼び入れて、家族や使用人にも見物させているのでしょう。家はかなり傷んでいても、和やかで幸せな一家だと思われます。

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◆この連載のほかの回をお読みになる方は⇒「絵巻で見る 平安時代の暮らし」目次へ

【筆者プロフィール】

『全訳読解古語辞典』■文:倉田実(くらた・みのる)
大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』編者、『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)、『平安大事典』(編著、朝日新聞出版)など、平安文学にかかわる編著書多数。

■画:画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

※本連載の文・挿絵の無断転載は禁じられております

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【編集部から】
三省堂 全訳読解古語辞典』編者および『三省堂 詳説古語辞典』編集委員でいらっしゃる倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載「絵巻で見る 平安時代の暮らし」は、2013年4月に始まり、56回にわたって連載して参りました。都合により1年間休載させて頂いておりましたが、このたびまた新たに再開いたしました。これまでは主に宮中が舞台でしたが、今回からは貧乏貴族や庶民の生活を主に取り上げて頂きながら、月1回のペースで連載の予定です。引き続きご愛読ください。

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◆紙面例:おんやうじ(クリックで拡大)

【『三省堂 全訳読解古語辞典』について】
全国高校からの推薦数NO.1の学習用古語辞典『三省堂 全訳読解古語辞典』〈第五版〉では、ワイドな絵巻型の図版と絵解き式のキャプションを採用。文章からだけでは想像しにくい時代背景や古典常識などを、絵を通して、より具体的に深く学ぶことができます。

 

 

 

『日本国語大辞典』をよむ―第25回 お隣さん

2018年 1月 14日 日曜日 筆者: 今野 真二

第25回 お隣さん

 現在は辞書が電子化されている。インターネットを使って辞書を使うこともできる。『日本国語大辞典』第2版にも「オンライン版」があり、それにはさまざまなかたちの検索ができる機能もある。電子化された辞書には便利な面がある。

 電子化された辞書がひろく使われるようになってきて「紙の辞書」という表現がみられるようになった。『朝日新聞』の記事データベース「聞蔵(きくぞう)Ⅱビジュアル」で「紙の辞書」を検索してみると、1989年10月20日の記事が、もっとも古い使用例として見つかる。

 少し前だと、机の上に電子辞書を出して、それを使いながら授業をきいている学生が少なくなかった。そういう状況の時は、「ではこの語を電子辞書で調べてみてください」というように、積極的に電子辞書を使いながら授業を進めるようにしていた。電子辞書の場合、そこに、ある具体的な辞書が電子化されているということが「見えにくい」。例えば、多くの電子辞書には『広辞苑』がコンテンツとして入れられている。複数の辞書が入れられている場合もある。この電子辞書のコンテンツは何かということは最初はわかっているはずだが、次第にそれは鮮明ではなくなるようで、学生に、何が入っているかをたずねてもわからないことが少なくない。「電子辞書」という、いわば「顔」をもたない辞書を調べているといえばよいだろうか。それに対して、実際に「紙の辞書」を調べる場合は、今自分が調べている辞書が何という名前の辞書なのかを知らずに調べるということは考えにくい。こういう違いもある。

 電子辞書と「紙の辞書」と、どちらがいいか、という議論もしばしば目にする。そんな時に「紙の辞書」は、調べようとしている語(句)だけでなく、そのまわりの語(句)にも自然に目がいくからいいのだ、という意見が必ずある。筆者は、どちらかといえば、「紙の辞書」派だろうが、この意見は実はぴんとこない。「紙の辞書」の良さを過不足無く表現しているように感じられないということであろうか。

 『日本国語大辞典』をよんでいくと、「この語とこの語とが隣り合わせの見出しになっているのか!」と思うようなことが時々ある。もちろん偶然そうなったのであるので、偶然の面白さということに尽きるが、「おっ」と思う。『日本国語大辞典』をよむ、という作業は基本的にはおもしろいのだが、何しろ相手が膨大なので、毎日少しずつよみすすめるしかない。そして、毎日きちんとよみすすめていってもなかなか「ゴール」が見えない。1冊はだいたい1400ページぐらいのことが多いので、1日5ページよんだとしても、280日、9ヶ月以上かかってしまう。このペースで13冊、2万ページをよむと、読了まで4000日かかることになる。十年以上だ。だからもっと早いペースでよまなければいけないし、時には半日よみ続ける日もある。そんなことを思うと、時々気が遠くなる。しかしそんなことも言っていられない。そんな時に、次のような「おっ」は息抜きになる。

テクノストレス〔名〕({英}technostress)コンピュータなど各種OA機器の導入による職場の高技術化に伴って心身に生ずるさまざまなストレス。アメリカの心理学者クレイグ=ブロードの造語。

でくのぼう【木偶坊】〔名〕(1)人形。操りの人形。でく。くぐつ。でくるぼ。でくるぼう。(2)役に立たない者。役立たずの者をののしっていう語。でく。

デリケート〔形動〕({英}delicate)(1)(人の心・感情などについて)鋭敏で、傷つきやすいさま。繊細なさま。(2)(鑑賞、賞美するものなどについて)微妙な味わいを持っているさま。また、微細な差のあるさま。(以下略)

てりごまめ【照鱓】〔名〕ごまめをいり、砂糖としょうゆをまぜて煮つめた汁に入れて、さらにいり上げたもの。正月料理に用いる。

とろくさい〔形口〕[文]とろくさ・し〔形ク〕(「くさい」は接尾語。「とろい」の強調語)なまぬるい。まだるっこい。また、ばかばかしい。あほらしい。

どろくさい【泥臭】〔形口〕[文]どろくさ・し〔形ク〕(1)泥のにおいがする。(2)姿やふるまいがあかぬけていない。いなかくさい。やぼったい。

 この程度のことで息抜きをしているようでは危ないですね。さて次のような見出しがあった。

ゆあみど【湯浴処】〔名〕「ゆあみどころ(湯浴所)」に同じ。

ゆあみどころ【湯浴所】〔名〕ゆあみする所。風呂場。ゆあみど。ゆあびどころ。

 上の2つの見出しの間には「ゆあみどき(湯浴時)」があるので、上の2つは隣り合わせではないが、すぐ近くにある。前者には「あらたま〔1921〕〈斎藤茂吉〉折々の歌「ふゆさむき瘋癲院の湯(ユ)あみどに病者ならびて洗はれにけり」が、後者には「太虗集〔1924〕〈島木赤彦〉梅雨ごろ「五月雨のいく日も降りて田の中の湯あみどころに水つかむとす」が使用例としてあげられている。

 島木赤彦の『太虗集』は「大正九年七月斎藤茂吉君の病を訪ひて長崎に至ることあり。大村湾にて」という詞書きをもつ作品から始まっている。改めていうまでもないが、島木赤彦、斎藤茂吉は、土屋文明とともに、『アララギ』を代表する歌人であった。茂吉は第3句に4拍の「ユアミド」を、赤彦は第4句に6拍の「ユアミドコロ」を使って、それぞれの句を定型に収めているので、そこからすれば「ユアミド」「ユアミドコロ」の使用は「必然」であったことになる。しかし『日本国語大辞典』はそれぞれの使用例に茂吉、赤彦の作品しかあげていない。『太虗集』によれば、上の「五月雨の」は大正10(1921)年の作品であることがわかる。一方、茂吉の「ふゆさむき」は『あらたま』によれば、大正5(1916)年の作品である。ここからは筆者の「妄想」であるが、赤彦は茂吉の作品によって、「ユアミド」という語にふれていたということはないだろうか。そしてそれを自身の作品にふさわしい語形に「新鋳」して使った。こんな「妄想」ができるのも『日本国語大辞典』のおかげといってよい。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。

シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから― 第十回:魚好きのトナカイ牧夫

2018年 1月 12日 金曜日 筆者: 大石 侑香

第十回: 魚好きのトナカイ牧夫


魚の燻製を嬉しそうに食べる子供

 ハンティが暮らす地域は内陸の低地であり、無数の湖沼が分布し、その間を川が蛇行しています。その水域にはカワカマスやカワスズキ、コイ類、フナ類、コレゴヌス属の淡水魚(シナノユキマスに似た魚)などの淡水魚が豊かに繁殖しています。ハンティは家畜としてトナカイを飼育し、その肉や毛皮を利用してきましたが、同時に淡水産資源も大いに利用して暮らしてきました。

 トナカイを飼育しているからといって、トナカイ肉ばかりを食べているわけではありません。トナカイ牧畜と漁撈(ろう)、狩猟、採集を複合的に営むハンティは、季節によってより手に入り易いものを中心に食べます。魚は夏でも冬でも手に入りますが、トナカイは主に冬に屠畜して食べ、夏にはあまり食べません。冷蔵庫のない森の中では、夏は肉の保存が難しいからです。代わりに、夏は主に魚や渡り鳥を食べます。遡河魚(そかぎょ)は種類によって現れる時期が異なるので、夏から秋にかけて順々にさまざまな遡河魚を楽しむことができます。冬には氷を割って川底に網や筌(うけ)を設置します。冬でも群れが遠くに行ってしまって、トナカイ肉が手に入らないときには、魚で食糧を補います。

 かわって、ハンティの中にはトナカイ牧畜に専念せねばならない専業トナカイ牧夫もいます。そのような牧夫は自ら漁撈を行うことは難しいので、親戚たちと肉と魚を交換してもらい、魚を入手します。ある専業トナカイ牧夫は、「魚を食べるのが身にしみついている。たくさんトナカイを持っているのに、遊牧キャンプにいてもどうしても魚が食べたくなる。そのときは漁撈を行う親戚に頼んで魚を持ってきてもらう」と言っていました。


生のまま凍らせたカワカマスを薄く削ったもの

 ハンティは魚をさまざまな調理方法で食べます。日本と同じく、生食も好んで行われます。春から秋にかけは、獲れたての新鮮な魚を三枚におろして、食べやすい大きさに切り、塩をつけて食べます。冬は獲った魚がすぐに凍るので、凍った魚の肉を薄く削って食べます。魚をぶつ切りして塩茹にしたり、小麦粉でとろみをつけたスープにしたりもします。また、夏には、長期保存用として塩漬けやひもの、燻製を作ります。若い夫婦の家庭ではロシア風の魚料理も作られます。ミンチにしてペリメニ(ロシアの餃子)の具にしたり、小麦粉をまぶして油で揚げたりもします。

 さらに、特徴的な魚料理としては魚油があります。魚油をパンに塗ったり、凍らせたベリーをいれたりして食べます。魚油は夏に魚がたくさん獲れたときに作ります。鱗を取り除いてから、丸ごと大きな鍋に入れて何日もかけて骨肉の形がなくなるまで煮詰めます。すると栄養が凝縮された琥珀色の魚油ができます。魚油は食用だけでなく、トナカイや野生動物の皮鞣(なめ)しにも使用します。皮の繊維に油分を入れることで皮が柔らかくなります。

 このように、トナカイ牧夫たちの体には魚食習慣がしみ込んでおり、そして、彼らがまとうトナカイ毛皮の衣服にも文字通り魚がしみ込んでいます。


魚油と凍ったベリーを混ぜ合わせた料理

ひとことハンティ語

単語:Мєлка юва!
読み方:メールカ ユヴァ!
意味:暖かさよ、来い!
使い方:ストーブの灰を外に捨てながら、このように言います。寒さが厳しいとき、暖かさを呼ぶおまじないです。

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◆この連載の目次は⇒「シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから―」目次へ

【筆者プロフィール】

■大石侑香(おおいし・ゆか)
東北大学東北アジア研究センター・日本学術振興会特別研究員PD。修士(社会人類学)。2010年から西シベリアの森林地帯での現地調査を始め、北方少数民族・ハンティを対象に生業文化とその変容について研究を行っている。共著『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会)など。

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【編集部から】

魚油は健康食品やサプリメントのコマーシャルでしか聞いたことがなかったのですが、ハンティの人々にとって身近なのですね。その魚油とベリーを混ぜて食べる料理の味は想像がつきません。機会があれば是非食してみたいです。次回の更新は2月9日を予定しております。お楽しみに!

人名用漢字の新字旧字:「㐂」と「喜」

2018年 1月 11日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第149回 「㐂」と「喜」

149yorokobu-new.png旧字の「喜」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「㐂」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。「喜」は出生届に書いてOKですが、「㐂」はダメ。どうしてこんなことになったのでしょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、口部に旧字の「喜」が収録されていました。その一方、新字の「㐂」は標準漢字表には含まれていませんでした。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも旧字の「喜」だけが含まれていて、新字の「㐂」は含まれていませんでした。

昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字には、口部に旧字の「喜」が含まれていて、新字の「㐂」は含まれていませんでした。国語審議会が11月5日に答申した当用漢字表でも、旧字の「喜」だけが含まれていました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、旧字の「喜」は当用漢字になりました。昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には旧字の「喜」が収録されていたので、「喜」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。新字の「㐂」は、子供の名づけに使えなくなってしまいました。

昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表1945字には、旧字の「喜」が収録されていました。昭和56年10月1日に常用漢字表は内閣告示され、旧字の「喜」は常用漢字になりました。その一方で新字の「㐂」は、常用漢字にも人名用漢字にもなれなかったのです。

平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、常用漢字や人名用漢字の異体字であっても、「常用平易」な漢字であれば人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、平成12年3月に文化庁が書籍385誌に対しておこなった漢字出現頻度数調査、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。新字の「㐂」は、全国50法務局のうち1つの管区で出生届を拒否されていて、JIS第3水準漢字で、漢字出現頻度数調査の結果が0回でした。この結果、新字の「㐂」は「常用平易」とはみなされず、人名用漢字に追加されませんでした。

平成23年12月26日、法務省は入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、旧字の「喜」に加えて、新字の「㐂」も書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、旧字の「喜」はOKですが、新字の「㐂」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

モノが語る明治教育維新 第20回―就学督促、京都の場合

2018年 1月 9日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第20回―就学督促、京都の場合

 文明開化の風に乗り、明治6年には全国的に開校した学校ですが、実際のところ、国民の賛同は得られていたのでしょうか。答えは否です。就学率を見ても、明治7年では男児約46%、女児約17%と、平均すると3人に1人しか小学校に通っていなかったことになります。当時の庶民、特に地方の農民には貧しい者が多く、学校の授業料や学用品の購入は家庭にとって大きな負担でした。しかも、子どもは貴重な家内労働力、これが失われるのは大きな損失でした。新しい学校で学ぶことのできる学問の成就こそが、身分や階級、男女にかかわらず、人生の成功を約束するものである、つまり、「学問は身を立るの財本」(学制頒布前日に出された太政官趣意書の中の言葉)であるといくら政府が鼓吹しても、過重な負担を強いられた国民の理解はなかなか得られなかったのが実情です。

 そこで就学率をアップさせるため、各地で様々な工夫が凝らされるのですが、京都府では不就学児童と区別をする目的で「就学牌(しゅうがくはい)」なるバッジを作成し、学校に通っている児童に付けさせました。

 もとは一教員の建言によって実現したのですが、おおよそ以下のことを提言しています。形状は、直径5分(約15ミリメートル)、厚さ5厘(約1.5ミリメートル)、表面に桜花、背面に何々校生の4字を刻んだ真鍮(しんちゅう)製の円形品。これを入学した者に授与し、襟間に付けさせ入学生であることを表す。そして、大検査卒業(進級)ごとに1個ずつ加懸(懸けるバッジを増やす意か)させれば、子弟は栄誉を得ようといっそう勉強に励むようになる。すると、学ぶものと学ばざるものと(の力の差)が判然とし、(子どもを学校に通わせない)頑固な父兄も近傍の子弟の誉れを羨み、満6歳で就学させることが人生最大の急務であることを認めることになる。このことが学校を盛んにする一助となるでしょう。

 バッジ一つにそれだけ絶大な効果が期待できるのかは疑問ですが、目の付け所は面白い。徽章(きしょう) の歴史を見てみますと、建言がなされた前年の明治8年に太政官布告により賞牌が制定され、わが国最初の叙勲がなされたとあります。この案を考えた教員も、きっとこの報賞ブームに乗って、バッジのアイデアを思いついたのではないでしょうか。

 建言がなされた3か月後の明治9年9月に、京都府は就学牌を各校の区費で鋳造するようにと布達を出します。就学牌の形状を雛形にして示していますが、地金は真鍮、直径1寸1分、厚さ5厘、表面の中央に「学」の文字と学校名、裏面に姓名を彫るとあります。大きさが直径約3.3センチと建言の倍ほどとなり、表面は桜花の代わりに「学」の1文字となりました。付ける位置も襟間ではなく、鎖や紐を付け、袴や帯に掛けたそうです。

 上の写真の就学牌はこの布達に応じて作られたもので、校名は「上京第三十校」、つまり明治2年に開校した京都府64の番組小学校【注】のうち、一番早く開校式を挙げた柳池校のものであることを示しています。なかなか丁寧につくられていますが、実はこれとは別に素朴な作りの、同じ京都の就学牌(何鹿(いかるが) 郡龍川校)があります。

写真の二つを見比べてみてください。右奥の何鹿郡のものには、柳池校にある10円硬貨のギザじゅうのような縁の刻みもなく、「学」の文字を囲む細かな点の打ち出しもありません。担当した学校の財力の差による違いかもしれませんが、簡単な作りであるところを見ると、これがちまたで出回ったとされる偽造品とも推察できるのです。

 就学牌はあくまでも不就学生を見極めるために考え出されたもので、役人が就学を督促するのが目的です。その役人の目をごまかすために、類似のバッジを作り売り出す者も出現しました。そのことは、この偽バッジを必要とする、つまり、子どもを学校に通わせることができない、もしくは通わせたくない親がかなりの数いたことを物語ってもいるのです。

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[注]番組小学校

  1. 京都では、室町時代からの自治組織「町組」が明治時代に入って改組され、小学校区としても機能しました。明治2年、町組ごとに町組会所を兼ねた小学校が作られ始め、これが番組小学校と呼ばれています。
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    ◆この連載の目次は⇒「モノが語る明治教育維新」目次へ

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    【筆者プロフィール】

    『図説 近代百年の教育』

    唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

    唐澤富太郎三女
    昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
    平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
    唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
    唐澤富太郎については第1回記事へ。

    ※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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    【編集部から】

    東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
    更新は毎月第二火曜日の予定です。

    広告の中のタイプライター(23):Smith Premier No.1

    2018年 1月 4日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

    タイプライターに魅せられた男たち・補遺

    『Phonographic Magazine』1893年1月1日号

    『Phonographic Magazine』1893年1月1日号
    (写真はクリックで拡大)

    「Smith Premier No.1」は、スミス(Lyman Cornelius Smith)率いるスミス・プレミア・タイプライター社が、1889年に製造・販売を開始したタイプライターです。スミスは、ニューヨーク州シラキューズで、L・C・スミス・ショットガン社を経営していましたが、ショットガンの特許と製造権をハンター・アームズ社に売却し、タイプライターの製造・販売に乗り出したのです。なお、上の広告の時点では、このタイプライターは「Smith Premier Typewriter」と呼ばれていましたが、その後「Smith Premier No.2」の発売に伴って「Smith Premier No.1」と呼ばれるようになりました。

    「Smith Premier No.1」は、大文字も小文字も数字も記号も、全て一打で打つことができる、という点を売りにしていました。76本の活字棒(type bar)は、プラテンの下に円形にぐるりと配置されていて、キーボードの各キーにそれぞれ対応しています。各キーを押すと、対応する活字棒が跳ね上がってきて、プラテンの下に置かれた紙の下側に印字がおこなわれます。プラテンの下の印字面は、そのままの状態ではオペレータからは見えず、プラテンを持ち上げるか、あるいは数行分改行してから、やっと印字結果を見ることができるのです。「Smith Premier No.1」は、いわゆるアップストライク式タイプライターで、印字の瞬間には、印字された文字を見ることができないのです。

    「Smith Premier No.1」のキーボードは76字が収録されており、大文字小文字が、全て別々のキーに配置されています。標準のキー配列では、キーボードの最上段は“QWERTYUIOP#と、その次の段は&ASDFGHJKL:$と、その次の段は2ZXCVBNM!?-6と、その次の段は3qwertyuiop7と、その次の段は4asdfghjkl;8と、その次の段は5zxcvbnm,.’9と、最下段は左右のスペースキーに挟まれて/()%と並んでいました。数字の「0」は大文字の「O」で、数字の「1」は大文字の「I」で、それぞれ代用することが想定されていたようです。

    1893年にスミスは、スミス・プレミア・タイプライター社の株式を、ユニオン・タイプライター社に売却しています。経営権はスミスに残されたことから、そのままスミス・プレミア・タイプライター社の経営を続けますが、結局スミスは1903年にスピンアウトし、新たにL・C・スミス&ブラザーズ・タイプライター社を設立しています。

    『Phonographic World』1891年12月号

    『Phonographic World』1891年12月号
    (写真はクリックで拡大)

    【筆者プロフィール】

    安岡孝一(やすおか・こういち)

    京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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    『日本国語大辞典』をよむ―第24回 バリアント②:だいぶ違うぞ

    2017年 12月 31日 日曜日 筆者: 今野 真二

    第24回 バリアント②:だいぶ違うぞ

     前回の最後で「カエルデ」から「カエデ」になったと述べた。『日本国語大辞典』は見出し「かえで【楓・槭樹・鶏冠木】〔名〕」に「(「かえるで(蝦手)」の変化した語)」と記している。『万葉集』巻8に収められている1623番歌「吾屋戸尓 黄変蝦手 毎見 妹乎懸管 不恋日者無」は現在「我(わ)がやどにもみつかへるで見るごとに妹をかけつつ恋ひぬ日はなし」(=我が家の庭に色づくかえでを見るたびに、あなたを心にかけて、恋しく思わない日はない)と詠まれており、「蝦手」が「かへるて(かへるで)」を書いたものと推測されている。

     「カヘルデ」から一気に「カエデ」になったとは考えにくく、おそらく「ル」が撥音化した「カヘンデ」というような語形を経て、その撥音が脱落して「カエデ」になったものと思われる。「クスシ」は「薬師」と書くことからわかるように、「クスリシ」が変化した語であるが、やはり「クスリシ」→「クスンシ」→「クスシ」と変化したと推測できそうだ。「カエデ」「クスシ」はもとの語形「カエルデ」「クスリシ」から一気に到達する語形ではない点で、「だいぶ違う」といえるように思う。今回はそのような、もとの語形からすると、「おお!」と思うような変異形を話題にしてみよう。

     「カッタルイ」という語がある。『日本国語大辞典』は語義(1)として「体がだるく、ものうい。疲れた感じでだるい」、語義(3)として「まわりくどくてめんどうだの意の俗語」と説明している。この「カッタルイ」は「カイダルイ」の変化した語とある。そこで見出し「かいだるい」をみると次のようにある。

    かいだるい【腕弛】〔形口〕[文] かひだるし〔形ク〕(「かいなだるい(腕弛)」の変化した語)(1)腕がくたびれてだるい。(2)身体や身体の一部が疲れてだるい。かったるい。

    かいなだるい【腕弛】〔形口〕[文] かひなだるし〔形ク〕腕が疲れた感じで力がない。かいなだゆし。かいだゆし。かいだるい。

     これらの記事を整理すると、「カイナダルイ」→「カイダルイ」→「カッタルイ」と変化したことになる。「カッタルイ」はいうなれば「三代目」ということになる。さて、筆者は神奈川県の出身であるが、中学生の頃には「カッタルイ」あるいは「ケッタルイ」という語形を耳にしていたし、自身でも使っていたような記憶がある。『日本国語大辞典』は見出し「かいだるい」の方言欄に千葉県夷隅郡の「けったりい」、千葉県香取郡の「けえたりい」をあげているので、こうした語形にちかいものと思われる。

     次のような語形もあった。

    かねがん【金勘】〔名〕「かねかんじょう(金勘定)」の変化した語。

     使用例として「浮世草子・忠義太平記大全〔1717〕」があげられているので、江戸時代にはあった語であることがわかる。「カネカンジョウ」と「カネガン」もすぐには繫がらない。変化のプロセスを推測すれば、「カネカンジョウ」が「カネカン」という語形に省略されて、それがさらに「カネガン」となったものとみるのがもっとも自然であろう。漢字で「金勘」と書いてあれば、なんとか「カネカンジョウ(金勘定)」という語とかかわりがあるかな、ぐらいはわかりそうだが、耳で「カネガン」と聞いてもなかなか「カネカンジョウ」には繫がりにくそうだが、それは現代人の「感覚」なのかもしれない。とにかく、だいぶ違う。

    くちびら【唇】〔名〕「くちびる(唇)」の変化した語。

    くちびる【唇・脣・吻】〔名〕(1)(「口縁(くちべり)」の意。上代は「くちひる」か)

    くちべろ【唇・口舌】〔名〕「くちびる(唇)」に同じ。

     「くちべろ」の使用例として「夢酔独言〔1843〕」があげられている。現在でも「シタ(舌)」のことを「ベロ」ということがあるが、『日本国語大辞典』は見出し「べろ」の使用例として「物類称呼〔1775〕」をあげているので、「ベロ」は18世紀には使われていたことがわかる。そうすると、「クチベロ」の語形をうみだすプロセスにこの「ベロ」が干渉していないかどうかということになりそうだ。見出し「くちびる」に記されている「「口縁(くちべり)」の意」はいわば語源の説明であって、上代に「クチベリ」という語形の存在が確認されているわけではないと思われる。「クチベリ」をスタート地点に置くと、「クチビル」もすでにだいぶ変化しているように思われるが、その「クチビル」をスタートとすると、「クチビラ」は母音[u]が母音[a]に替わった、母音交替形にあたる。まあ耳で聞いた印象はちかいといえばちかい。「クチベロ」は「クチビル」の「ビ」の母音が[i]から[e]に、「ル」の母音が[u]から[o]に替わっており、母音が2つ替わっているので、耳で聞いた印象は少しとおくなる。「クチベリ・クチビル・クチビラ・クチベロ」と連続して発音すると早口言葉のようだ。

    ぐんて【軍手】〔名〕白の太いもめん糸で編んだ手袋。もと軍隊用につくられたための呼称。軍隊手袋。

    ぐんたいてぶくろ【軍隊手袋】〔名〕「ぐんて(軍手)」に同じ。

    ぐんそく【軍足】〔名〕軍用の靴下。太い白もめんの糸で織った靴下。

     見出し「ぐんたいてぶくろ」には龍胆寺雄の「放浪時代〔1928〕」の使用例があげられている。冷静に考えれば、「ぐんて(軍手)」の「ぐん(軍)」は「軍隊」ぐらいしか考えられないが、身近な存在となっているので、そこに気がまわらなかった。「ぐんそく(軍足)」は両親のいずれかが使った語であったと記憶しているが、どういう場面で使われたかまでは覚えていない。「ぐんたいてぶくろ」を略した「ぐんて」、これもだいぶ違う語形に思われる。さて最後にもう1つ。

    ことよろ【殊宜】〔名〕ことによろしいの意で用いる近世通人の語。

     使用例として「洒落本・素見数子〔1802〕」があげられているので、19世紀初頭には存在した語であることがわかる。筆者は「あけおめ」が最初わからなかった。いつ知った語か、いまでは記憶にないが、学生との会話の中で知ったような気がする。ちなみにいえば、『日本国語大辞典』は「あけおめ」を見出しとしていない。

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    ※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

    ◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

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    【筆者プロフィール】

    今野真二(こんの・しんじ)

    1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

    著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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    【編集部から】

    現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
    辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
    本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。

    人名用漢字の新字旧字:「験」と「驗」

    2017年 12月 28日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

    第148回 「験」と「驗」

    大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。陸軍では、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この二級漢字の中に、旧字の「驗」が含まれていました。

    昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されており、馬部に旧字の「驗」が含まれていました。

    昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字でも、馬部に旧字の「驗」が含まれていて、新字の「験」は含まれていませんでした。国語審議会が11月5日に答申した当用漢字表でも、旧字の「驗」だけが含まれていました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、旧字の「驗」は当用漢字になりました。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。

    字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。この活字字体整理案では、「驗」を「験」へと整理することが提案されていました。報告を受けた国語審議会では、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する主査委員会を組織しました。この間、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「驗」が収録されていたので、「驗」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。新字の「験」は、子供の名づけに使えなくなりました。

    昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表では、新字の「験」が収録されていました。活字字体整理案に従った結果、新字の「験」が当用漢字となり、旧字の「驗」は当用漢字ではなくなってしまったのです。当用漢字表にある旧字の「驗」と、当用漢字字体表にある新字の「験」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「驗」も新字の「験」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。つまり、昭和24年の時点で、旧字の「驗」も新字の「験」も、どちらも出生届に書いてOKとなったのです。

    昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表では、「験(驗)」となっていました。これに対し、民事行政審議会は、常用漢字表のカッコ書きの旧字を子供の名づけに認めるかどうか、審議を続けていました。昭和56年4月22日の総会で、民事行政審議会は妥協案を選択します。常用漢字表のカッコ書きの旧字355組357字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを子供の名づけに認める、という妥協案です。昭和56年10月1日に常用漢字表は内閣告示され、「験」は常用漢字になりました。同時に「驗」は人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、旧字の「驗」も新字の「験」も、どちらも子供の名づけに使えるのです。

    【筆者プロフィール】

    安岡孝一(やすおか・こういち)

    京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

    http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

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