カテゴリー:コラム
Japanese society, character 01
2010年 3月 14日 日曜日 筆者: SADANOBU ToshiyukiIt’s good to be a character
In Fujio Akatsuka’s(1) manga, which I devoured ravenously as a child, each character had a colorful, unique way of speaking. For example, Iyami(2) said things like “Mi - wa kanemochi zansu” (“Me am rich zansu(3)”), while Nyarome(4) said “Ore to kekkon shiro nyarome!” (Marry me nyarome!(5)).
Eventually I became an adult, but this does not necessarily mean that I realized manga are nothing more than empty figments.
The Internet, in which all of us inevitably spend some fraction of our daily time, is connected to Akatsuka’s world in a number of ways. On the Web, it is already common for people to create various personae or characters with phrases such as “Sessha(6) biriya-do ni itte kita de gozaru” (“We have paid a visit to the billiard hall”) or “Uso da yo pyo-n(7)” (“Just kidding”).
Apparently, the common-sense view is that such expressions are no more than an “aberration in modern parlance,” and should be deliberately ignored as they degrade the “dignity of the Japanese language.” But suppose these turns of phrase contain elements quite capable of both demolishing and vastly evolving our former grammar?
In Japanese grammar, it has traditionally been understood that only sentence-ending particles can appear at the very end of sentences. Nothing is ever added after a sentence-ending particle, other than another sentence-ending particle. For example, one can add the particle yo to the sentence “Ame da” (It’s raining.) to make the exclamation “Ame da yo” (It’s raining! [emphatic]). One could further add the particle na to make the sentence “Ame da yo na” (It’s raining! [casually emphatic]) but after this no further particles can be added. Or, one can add the particle wa(8) to the sentence “Ame da wa” (It’s raining. [feminine]), then further add a terminating ne to create “Ame da wa ne” (It’s raining, isn’t it?).
However, particles such as the pyo-n in “Uso da yo pyo-n.” and pu-n(9) in “Dare ka ne pu-n” (Who’s there?) appear in places where, according to the rules of grammar, they aren’t supposed to――after the terminating yo or ne.
An astronomer who wants to learn about the stars must first observe them with an impartial attitude. The astronomer, observing that the stars failed to appear at the position and time s/he calculated, couldn’t dismiss this by calling it an “aberration in modern stars.”
Similarly, those who wish to study language must observe it objectively. One must resist the urge to talk of “aberrations in modern parlance” and keep an open mind to the language of manga and the Internet in order to find things of interest within them. The appearance of a whole category of words in this unexpected place (after the final terminating particles in sentences) constitutes the discovery of an unforeseen part of speech (the “character-particle” if you will). It forces us to revise our ideas about sentence structure. Furthermore, it forces us to rethink the concept of the sentence itself. This is mildly spectacular.
One can see analogs to the character-particle in Korean and Chinese, but I know of no language other than Japanese that has so freely and actively created character-particles to flesh out its characters. Japanese society is increasingly a society composed of characters. So, let’s have a look at how people in this society live, and sometimes suffer, in their characters.
* * *
(1) 1935–2008. Japanese manga creator, perhaps most famous for Tensai Bakabon.
(2) A character that parodies mass media figures in the manga Osomatsukun.
(3) The English pronoun “me” has been adopted into Japanese, and is sometimes used in place of the Japanese pronoun for “I,” usually for comedic effect. Similarly, “zansu” is a now-obsolete verb that is sometimes used humorously.
(4) A stray cat that appears in the manga Mooretsu Atarou.
(5) In Japanese, the sound of a cat mewing is rendered “nya,” so this phrase could also be translated loosely as “Marry meow!”
(6) Sessha is a formal word for “I,” somewhat analogous to the royal “we” in English, with the large difference that sessha denotes humility on the part of the speaker.
(7) Pyo-n is one of countless informal sentence-ending particles used in Japanese comics and Internet forums to express character or individuality. The use of such particles in formal writing and speech is generally frowned upon.
(8) Wa is a sentence-ending particle usually used only by women for emphasis, or simply to make their speech sound more feminine.
(9) Another informal sentence-ending particle.
日本――角色大世界 01
2010年 3月 14日 日曜日 筆者: 定延 利之用角色来理解,是行得通的。
小时候,在我们爱不释手的赤冢不二夫的漫画里,出现了形形色色的充满个性的卡通角色,而且每个卡通角色也都具有其独特的说话方式。例如,做作男人伊亚米说的“Mii-wa kanemochi-zansu(我可是个有钱人)”,用“Mii”代替“我”,系词则使用与一般人不同的 “zansu”;老猫噜咪(nyarome)说的“Ore-to kekkon-shiro-nyarome!!(你必须跟我结婚-nyarome!!)”,句尾习惯加上自己的名字“nyarome”。
当长大成人后,我们逐渐懂得了漫画中的这种说法只是作者虚构的并非是真实的,但这些看似虚构的东西,在现实生活中真的不存在吗?
我们每天总会有一段时间是在网上度过的,而这个网络空间却恰恰与赤冢世界处处相接。我们常常可以看到“Sessha biriyaado-ni itte kita-degozaru(在下打台球去了也)”、“Uso-da-yo-pyoon(骗你的(啊)-pyoon)”等各种各样的博客留言,这些博客留言为我们呈现出形形色色的角色形象。
有些人认为类似以上例句都是“不规范的日语”,降低了“日语的格调”,应该无视其存在,这种想法也许是一般的常规想法。但是,如果这些话语中包含了可能推翻现代日语语法的定论、使语法能够得到进一步发展的东西,我们又当如何考虑呢?
至今为止的日语语法认为,“可能出现在句子句尾的应该是终助词(语气词),在终助词后不能再附加终助词以外的词”。例如:“Ame-da(下雨了)”的后面接终助词“yo”,表示提醒或引起注意,成为“Ame-da-yo(下雨了(下雨呢))”。在其后还能再接终助词“na”,表示确认,成为“Ame-da-yo-na(下雨了吧)”,“na”的后面就不能再接其它任何词了。或者在“Ame-da”后接被认为是女性使用的终助词“wa”成为“Ame-da-wa(下雨了(下雨呢))”,在其后可再接终助词“ne”,表示确认,成为“Ame-da-wa-ne(下雨了吧)”。
但是,像“Uso-da-yo-pyoon”的“pyoon”,“Dare-ka-ne-puun(谁呀-puun)”的“puun”等这样的词语所出现的位置却与至今的日语语法不相符,因为它们出现在了终助词(“yo”、“ne”)的后面。
打算研究星体的人,首先,必须以客观的态度来观察星体。若星体没有按照其设想的位置、时间出现,于是就说“最近星体的运行好像不规律了”,这样是不行的。
同样道理,想研究语言的人,就要以客观的态度观察语言。在想说“最近的语言好像不太规范”之前,先耐心静观其态,以虚心坦怀的态度观察漫画或网上的语言,这样就会发现非常有趣的现象。这就是,我们在至今为止的日语语法从未设想过的位置上(终助词之后)发现了一类新词,这是从来没有出现过的词类(角色助词)。这一现象可以让我们对句子结构进行重新认识,说到底也就是对句子本身的再次思考,这难道不是件很了不起的事情吗?
韩语和汉语中也有相当于角色助词的词语,但却不是很多。像日语中角色助词能够被自由灵活地运用,且能塑造出各种各样的角色形象这一现象,在其他语言中是很少见的。日语世界就是一个角色多样的世界。我们还是来瞧瞧在这个世界里,人们是怎样生活在角色中、怎样为角色而烦恼的吧!
日本語社会 のぞきキャラくり 第81回 『関西人』たち(3)
2010年 3月 14日 日曜日 筆者: 定延 利之『関西人』たち(3)
いやーこわかったなー昨日の横井さん。え、知らないの? ほら、確信犯問題研究会ってあるでしょう。あれが昨日あって。で、「左翼青年の転向ないしは偽装転向が」みたいな話、鷲尾さんとかがやってたわけ。したら、いきなり「もともと、わたしは正木検事にさそわれて、この研究会に加わった」なんて言うわけ。横井さんが。いや、だから、そのまさかですよ。ホント。
そう、あの人。「わしゃ、昔、アカでなあ」とか、「お前、なんでこんなアホなことをやったんや」とか、大阪弁まる出しの人。初犯とか、みんな不起訴にしちゃって。「庶民派!」みたいな。それがもう東京弁てゆーか共通語でガンガン来たから。ホント。「学問と研究の崇高性はいったいどこにあるのか」とか。「いったい何を知りたいとあなたは思っておられるのか」とか。いや、ホントだって。とりあえず研究会、強引に締めたけど、いやーマジびびったなー。
なるほどね。してみると、大阪弁の横井さんは「偽装」だったってことか。出身はたしかに大阪だけど、実は気質的には共通語の方がラクなニセ『関西人』で、職場ではめんどくさいから『関西人』で通していたのが、研究会でマジになって、ついってこと? いや、実は確信犯だったりしてね。『関西人』はそろそろ飽きてきたから、仮面を脱ぎ捨ててカミングアウトする機会をねらってたという。しかしそれだと横井さんはこれからずっと共通語か。ちょっと気味悪いなー。
あるいはさ。別にこれまで「偽装」してたわけじゃないけど、共通語が横行する学問談義に熱中するあまり、大阪弁をしゃべるはずが忘れてしまって、いつもの横井じゃなくなってしまいました、みたいな線も考えられるね。「初犯やがな。見逃してぇな」とか言ってきたりして。それも気持ち悪いね。
どうなんだろうね。いっそ、横井検事の供述調書でもとろうか。しかし、今日はどんな顔で来るんだろうね。僕なら開口一番、「なーんちゃって」って叫んで、いつもの横井検事風に振る舞うね。なるほど、昨日の発言は内容もふくめて全部冗談にしちゃうという手もアリかもね。しかしそれを言うなら大阪弁だから「なーんちゅうて」じゃないの。そこを共通語でやったらダメでしょう。どうなんだろう。いやー、なんだか、こっちまでドキドキするね。
という具合に、「横井検事事件」の解釈としてはさまざまなものがあり得るが、いずれの解釈をとるにせよ、事件の中核に「これまで『関西人』であったはずの横井検事が、或る拍子に『関西人』でなくなった」という横井検事の様変わりがあることに変わりはない。そして、私たちが、ビビったり、ドキドキしたりするのは、まさにその様変わりに対してである。
私たちがビビったり、ドキドキしたりする横井検事の様変わりが、単なる「スタイルの切り替え」であるはずがない。「この人はこういうしゃべり方で、この先もずっとこういうしゃべり方のはず。このしゃべり方は、この人の氏素性、ヒトトナリと結びついたしゃべり方のはず。スタイルのように意図的に切り替えはできないはず」と私たちが期待しているもの。その期待が裏切られて様変わりが生じてしまうと、それを見られた方だけでなく、見た方も、ちょうど今のように、それがどういうことなのか、それなりに察しはつくものの、気まずい思いをして、ビビったりドキドキしたりするもの。そういうものが私たちの日常会話の根底にはある。それをことばの「スタイル」とは区別して「発話キャラクタ」と呼んでいる――といったことなら読者諸氏はもう十分にご承知のはずである。だが、なにしろ「キャラクタ」そして「発話キャラクタ」は、この連載の中心的な概念であるから、特に誤解の生じやすい『異人』キャラに関して念には念を入れさせていただきたいと思い、ここ数回(第79回~)を書いている。次回、決着をつけます。(つづく)
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第90回
2010年 3月 13日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第90回「よう来てくったっせ―手作りポスターでお出迎え(新潟県村上市)―」
昨秋から今冬にかけて、JR村上駅の待合室や駅前の観光案内所などに、村上の方言を紹介するポスターが掲示されました。
制作は、新潟県村上地域振興局の職員の方々5名による手作り。
単語を一覧にした「村上ことば」は、バックの柄を変えて2種類作られ、お持ち帰り用のA4サイズも設置されました。
さらに、「村上ことば その1~5」と題して、会話文を示したポスターも5種類作られました。
①「村上にはうんめもんがふっとつあるすけ、腹くっちょなるまで食べていげっしゃ。」
訳:村上にはおいしいものがたくさんあるので、お腹いっぱい食べていってください。②「村上によう来てくったっせ。まず、上がってねまれっしゃ。」
訳:村上によく来てくださいました。まず、上がって座ってください。③「そろそろ帰ります。」「おおきにはや、また村上にけぇ。」
訳:そろそろ帰ります。どうもありがとう。また村上に来てください。④「村上はいいところですね。」「だーまた、そうらっせ。山もあるし、海もあるし、また遊びにこいっしゃ。」
訳:村上はいいところですね。もちろんそうですよ。山もあるし、海もあるし、また遊びに来てください。⑤「さあっす、電車に乗り遅れたなあ。」「おらこに泊まればいいすけ、あんじことないっせ。」
訳:さあ大変。電車に乗り遅れてしまった。私のところに泊まればいいから、心配することないですよ。
こちらも、地元の方々との会話を楽しんでもらいたいとの思いが込められた力作です。
ところで、村上の「うんめもん」となると、まず鮭に注目したいところですが、いただく前に、「イヨボヤ会館」に足を運んで、しっかり勉強もしておくと、味わいが深まるのでは。
鮭を「イヨボヤ」と称する村上方言では、鮭に関する方言が「カナ」[雄鮭]・「メナ」[雌鮭]・「アソビザケ」[正月過ぎにくる鮭]など、20語以上もあって、鮭に本当に親しんでいることがわかります。
3月に開催される「人形さま巡り」に向けて、村上地域振興局の職員の方々の間では、あらたにポスター制作や方言のテープ吹き込みも予定されているとの由。
春休みは、村上に「行こかね~」。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
人名用漢字の新字旧字:「仏」と「佛」
2010年 3月 11日 木曜日 筆者: 安岡 孝一第58回 「仏」と「佛」
新字の「仏」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「佛」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり、「仏」も「佛」も出生届に書いてOKなのですが、その背後には、当用漢字表制定時のゴタゴタがあったりするのです。
漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されており、その中に旧字の「佛」が含まれていました。「佛」の直後には、カッコ書きで新字の「仏」が添えられていて、「佛(仏)」となっていました。標準漢字表では、新字の「仏」はカッコ書きになっているものの、一般に使用して差し支えないということでした。
昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字には、旧字の「佛」が収録されていました。これに対し、文部省教科書局国語課は8月2日、常用漢字に関する主査委員会において、簡易字体の「仏」を収録するよう提案しました。しかし、主査委員会は8月27日の会議でこれを否決し、旧字の「佛」のままでいくことを決定しました。また、10月1日に主査委員会は、表の名称を、常用漢字表から当用漢字表へと変更しました。この結果、昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表1850字には、旧字の「佛」が収録されていて、新字の「仏」はどこにもありませんでした。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。
昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「佛」が収録されていたので、「佛」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。一方、国語審議会は、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する委員会を組織し、「佛」を「仏」へと字体整理することを決議します。一旦、否決したはずの「仏」が、字体整理で復活したのです。この結果、昭和23年6月1日に国語審議会が答申した当用漢字字体表では、旧字の「佛」の代わりに新字の「仏」が収録されていました。昭和24年4月28日に当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「仏」が当用漢字となり、旧字の「佛」は当用漢字ではなくなってしまいました。
当用漢字表にある旧字の「佛」と、当用漢字字体表にある新字の「仏」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、「佛」も「仏」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。その後、常用漢字表の時代になって、新字の「仏」は常用漢字になりましたが、一方、旧字の「佛」はそれまで子の名に使えてきた経緯を踏まえて、人名用漢字となりました。この結果、現在に至っても、新字の「仏」と旧字の「佛」の両方が、子供の名づけに使えるのです。
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【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。
国語辞典入門:実例豊富な現代語の辞典と見坊豪紀
2010年 3月 10日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第9回 いちばん影響を受けた辞書
私と国語辞典との出会いについての話題は、私が大学に入ったところまで来ました。そろそろまとめに移りますが、その前に、私がいちばん影響を受けた辞書のことを書いておきます。いささかひいき目も含まれるかもしれないのは、ご勘弁ください。
当時(1987~88年ごろ)、大学の近くの小さな書店に『言語生活』(筑摩書房)という雑誌が置いてありました。ことばをテーマにした一般向けの雑誌で、最近のことば遣いについてとか、方言についてとかいった記事が載っています。まじめな雑誌なのに、肩のこらない読み物が多かったので、私はたまに立ち読みをしていました。
あるとき、気まぐれに1冊買い求めて、アパートで熟読していると、奇妙な連載に気がつきました。ちょうど辞書のように単語が羅列されていて、ただし、説明文の代わりに、その単語を含む新聞記事などが、逐一引用されているのです。こんな具合です。
〈総集 65年「朝日新聞」 52回分を前後編に再構成/今夜は前半 「太閤記」総集編 NHKテレビ〔下略〕〉(『言語生活』1987.12 p.84)
「総集(編)」の使用例なんか示してもらわなくても、使い方は分かります。なぜこんな無意味なページがあるのでしょうか。不審に思いつつ、その先を読んでいきました。「創出」「造出」「(ブームが)相乗する」「贈賞」……。中には見慣れないことばもあるものの、そう難解ではありません。知識として得るものは少なそうです。
ところが、まもなく、おそろしいことに気づきました。これらのことば(または用法)は、国語辞典にほとんど載っていないらしいのです。見出し語の下に「0」「1」などと掲載辞書数が記されています。つまり、この連載は、「これこれのことばや用法は広く使われているのに、辞書に漏れているぞ」と、実例をもって示すのが趣旨でした。
この「現代日本語用例大全集」を執筆していたのが、日本語学者(辞書学)の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんでした。見坊さんは、「今の国語辞典に載せるべきことば」を徹底追求し、新聞・雑誌・書籍・ラジオ・テレビなどから膨大な用例を採集していました。その生活はもう何十年も続いていました。みずから集めた用例に基づいて作った辞書が、『三省堂国語辞典』です。
「生きていることば」を載せる
連載に衝撃を受けた私は、『言語生活』を毎号読むようになり――と言いたいところですが、私はそれほど勉強熱心ではありませんでした。第一、この雑誌は、その何か月かあと、37年の歴史に幕を下ろし、休刊になってしまいました。
ただ、こういう体験はあとで効いてきます。折に触れて見坊さんの著書を読むようになり、『三省堂国語辞典』についても、くわしく知るようになりました。
じつは、私はもともと、『三省堂』にはそれほど関心を払っていませんでした。収録語数も、不足とまでは言いませんが、『新選国語辞典』(小学館)、『旺文社国語辞典』には負けます。私の関心事だった旧仮名遣いも、和語についてしか示されていません。
語釈はどうかというと、『新明解国語辞典』(三省堂)などのほうが、行数も多く、精密に書いてあります。『三省堂』は短く、ひらがなが多いように思われました。
けれども、『三省堂』には大きな特長があることを知りました。編者が、今の世の中に実際にあることばを採集して作った辞書だということです。つまり、『三省堂』を引けば、そこに載っていることばは、必ず現代の文献に用例があり、編者自身がその原文を確認済みであり、必要なら証拠を出せるということです。
このことは、必ずしもどの国語辞典にも言えることではありません。小型辞書であっても、読者の知らないことばをできるだけ多く載せようというサービス精神の結果、死語や古語を載せていることがあります。かえって、今の人が頻繁に調べようとすることばが漏れている、ということもあります。
その点、『三省堂』は、「実際に生きて使われていることば」を載せることに徹しています。そんな辞書を作るためには、ひたすら実例を集めるしかありません。現に、見坊さんは、生涯をかけて、145万例を超える現代語を採集したのです。
『三省堂』によって、国語辞典には、「収録語数」や「語釈」以外にも、注意すべき観点があることを教わりました。「収録語が、生きているか、死んでいるか」という観点です。
生きた国語辞典を作ることに賭ける見坊さん――先生に対し、私の尊敬は深まるばかりでした。でも、先生は1992年、私の誕生日と同じ日に亡くなりました。後年、私が『三省堂』の編集に加えてもらえたのは、なんとも不思議な巡り合わせでした。
◇関連する記事⇒『三省堂国語辞典』のすすめ その1 キンダイチは知ってる。ケンボウはどうだ。
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◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」アーカイブ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(22)
2010年 3月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(22) 長徳の変~藤原斉信の昇進~
前々回までお話していた藤原斉信について、もう一度、歴史的背景から触れておきましょう。斉信が定子サロンに出入りしていたのは、蔵人頭として天皇の身近に仕え、頭中将と呼ばれていた時期です。昇進して参議になると宰相中将と呼ばれ、国政の中核に参入することになります。斉信の参議就任は長徳2年4月24日、長徳の変の当日でした。
長徳の変の経緯については前回お話ししましたが、同日の斉信昇進は、斉信が長徳の変に絡む何らかの働きをして認められたことを暗示しています。長徳の変の発端は、花山院と伊周が通っていた女性たちの邸で起きた事件で、二人の恋愛相手はどちらも為光の娘、すなわち斉信の姉妹でした。事件現場を目撃し、表沙汰にしたのは斉信だったのかもしれません。いずれにせよ、長徳の変で参議に昇進した日を境に、斉信が完全に道長方についたことは間違いないでしょう。『枕草子』は、斉信の参議昇進をどのように描いているのでしょうか。
先に取り上げた「故殿の御服のころ」の段の逸話は、4月初め頃から7月の七夕にかけての清少納言と斉信の交渉を扱っていましたが、話の途中で斉信が宰相に昇進しています。しかし、この章段を4月24日に斉信が参議に就任した長徳2年のこととするのは、長徳の変前後の歴史的背景に照らし合わせて無理があります。伊周・隆家の配流、定子の落飾、二条邸焼亡と、中関白家に不幸な事件が立て続けに起きた時期に、清少納言が道長方の斉信と風雅な交流を持ったとはとても考えられないからです。したがって、この章段の出来事は、一年前の長徳元年のことと見る方が穏当なのですが、その場合、斉信の昇進時期が歴史的事実と食い違うという問題が出てきます。作者の記憶違いだという説もあります。しかし主家凋落の日を清少納言が忘れるはずはないと思います。
作者は事実を曲げて、『枕草子』に斉信昇進のことを記したのです。それはなぜなのでしょうか。
この段には、他に、清少納言が斉信の参議昇進を保留するよう、一条天皇に直訴している記事もあります。当時、女房たちの進言が男性貴族の人事を左右することもあったようですが、斉信昇進は長徳の変に関わる政治的処遇によるもので、女房風情の口出しできる範中にはありません。そんなことは百も承知で、斉信の朗詠はとても素晴らしいから、もうしばらく宰相にならないで天皇にお仕えしたらいいのに、と訴える清少納言。それを受けて、一条天皇が大笑いし、「さなむ言ふとて、なさじかし(そのように言うから、参議にするまいよ)」と答えます。この後、「されど、なりたまひにしかば、まことにさうざうしかりしに(それなのに、参議に就任なさってしまったので、本当にさびしかったところ)…」と記事が続いていくのですが、作者は、よほど斉信の昇進にこだわっていたに違いありません。
定子を追い詰めた長徳の変の状況を描写することはできなかったけれど、中関白家没落を足がかりに昇進する斉信の事を作者は記さずにいられなかったのだと思います。
長徳2年2月に定子が内裏を退出した時、宮中に居残っていた清少納言を訪問した斉信の華やかな姿を、作者は最後まで詳細に描ききっています。そこで物語の主人公のようだと評価した斉信を、後に定子に報告し称讃する清少納言は、一方で、斉信との交際に一線を設け、定子不在の宮中で彼と個人的に応対することを避けています。『枕草子』に取り上げられた斉信の宰相昇進は、作者が定子サロン女房としての矜持(きょうじ)を保ちつつ示した、斉信との決別の意志表示だったのだと思います。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
日本語社会 のぞきキャラくり 第80回 『関西人』たち(2)
2010年 3月 7日 日曜日 筆者: 定延 利之『関西人』たち(2)
『関西人』キャラに関して忘れがたいのは、高橋和巳の『悲の器』に出てくる横井検事だと前回書いた。横井検事って、どんな人? こんな人である。
「わしゃ、昔、アカでなあ」同室にいた関西出身の横井検事は、なぜか一向に昇進もせず、窃盗犯(せっとうはん)やスリの相手ばかりをさせられながら、やけくそに冗談を飛ばし、ろくに訊問もせずに、初犯者はみな不起訴にしていた。
「お前、なんでこんな阿呆(あほ)なことをやったんや。子供が中学へはいるのに、肩掛けカバンもゲートルもない。それで百貨店で盗んだんやと。阿呆か! 百貨店までゆくのに電車にのっていったんやろ。歩いて行ったんか? 電車で行ったと書いたある、ここに。電車賃をつこうてやな、ちょっと倹約したらやな、買えるもんを盗んで、なにが母親の愛情か。ゲートルぐらいなら、毛布の端っちょか、あんたの腰巻きをつぶしてでもできるやないか。そやろ、まあ、今度だけは勘弁したる。二度とこんなことをしたら刑務所ゆきやで。ええな。わかったな」
検事局内でも、横井検事の不起訴処分は一時、問題になったことがある。しかし、彼は会議の席でも、まるだしの大阪弁で滔々(とうとう)と初犯不起訴論をぶっておしとおしてしまった。
[高橋和巳『悲の器』1962]
ところが、である。「確信犯問題研究会が、公安課の鷲尾(わしお)検事を報告担当者として、一左翼青年の転向ないしは偽装転向を、その書簡および、訊問記録、保護観察記録によって分析していた時」だそうだが、こうなるのである。
「論議をもとにもどそうじゃないですか」私の隣の波戸田検事が、胃潰瘍(いかいよう)患者特有の臭い息をはきながら言った。「むしろ、A君が再逮捕ののち、予審判事にその法律論を語ったとすれば、彼が昭和六年になした転向声明は偽装だったということになるはずであり、いまはA君の行状に即して偽装転向の問題が論じられるべきだろう。その方が実りが多いんじゃないかね」
「なんの実り?」無作法にテーブルに片肘(かたひじ)をついていた横井検事が言った。珍しくその口調は関西弁ではなかった。「もともと、わたしは正木検事にさそわれて、この研究会に加わった。毎週の研究会に参加して、真鍋(まなべ)、佐野、三田村をはじめ、さまざまの判例や行状、そして性格分析などをも研究してきた。しかし、わたしは、ひそかに、われわれがいったい何を究(きわ)めようとしているのかを、いつか考えねばならぬときがくるだろうと思っていた。誰かがきりだすだろうと思っていたが、誰も言いださぬ。今日はいい機会だ。わたしが言おう。それはこうだ。われわれは取調べの側にあることによって、逆に問われているのだ。われわれの一人一人が、思想とははたして思惟(しい)する動物である人間にとって何であるのかと。思想とはその存在にとっていったい何であるのかと問われているとはお思いにならないか? われわれは人間が猿であることを証明しようとしているのか。人間が苦悩する人間的存在であることを知りたいのか? それとも、日本の民族の〈血と土〉の特質か」
すでに会場は、むかいあった相手の表情もよみとれぬほどに暗かった。闇(やみ)には外と内の区別はなく、黒板も、黒板のわきになお棒立ちしている鷲尾検事も、いまは一塊の影にすぎなかった。しかし、だれも立ちあがって戸口わきのスイッチをひねろうとはしなかった。横井検事の声はつづく。
「学問と研究の崇高性はいったいどこにあるのか。学問もまた人間が人間であることの誇りと明証の一部門であろうが、にもかかわらず、われわれの研究に崇高性の片鱗(へんりん)でもあっただろうか? ある一個の存在が、膨大(ぼうだい)な、圧倒的な権威の前にさらされ、裸の、二本の足と二本の手と、破れやすい皮膚と体をまもりきれぬ髪だけの存在に還元させられ、最低の、生きてゆく権利をまもるために絶叫する。それは絶叫であって、その声の悲しさだけが真実であり、その内容が A であろうと B であろうと、それは、〈生は生を欲する〉という一つの基本的原理を証明しているだけだ。当然のことだ。それを予審訊問(じんもん)の調書や裁判記録や、感想録や手紙から、この転向は家庭愛によっておこり、あれは拘禁中の反省、あれは性格、これは民族的自覚などと分類し、その確信犯の確信内容はかくかく、この国事犯の動機はかくかくと、そんなことを統計してみていったい何の意味があろうか。死者の血にたかる青蠅(あおばえ)のように、こんなことを分析し論じあって何の意味があろうか。正木検事、あなたはこの研究班の理論家だ。あなたは、もっともこの問題に熱心だ。答えてもらいたい。あなたをして、積極的にこの研究会に参加せしめている、あなたの情熱とはいったい何なのだ。いったい何を知りたいとあなたは思っておられるのか」
[高橋和巳『悲の器』1962]
えと、あの、横井検事のご発言があったところで、えと、まだまだ議論は尽きないみたいですけど、あの、そろそろ晩になりましたし、原稿の字数も、もう既定の倍ぐらい、いっちゃってるんで、続きはまた次回ということで、今回はあのこれで、ひとまず閉じさせていただけます、でしょうか、閉じさせてください。ありがとうございました。(つづく)
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
地域語の経済と社会 第89回
2010年 3月 6日 土曜日 筆者: 山下 暁美地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第89回「海外の方言事情(台湾語の看板)」
台湾では、1980年頃から原住民の間でもともとの文化を絶やしてはならないという機運が高まりました。それと時を同じくして台湾人も台湾語(閩南語・みんなんご)を復活させようという活動が展開されました。台湾の教育には、北京語が国語として使用されています。北京語が国語だとすると、台湾語は、方言の一種と考えることができます。
楊盈璋(ヤン・インザン)さん(明海大学博士後期課程1年在学)は、台湾の南にある屏東(ピンドン)市出身ですが、北京語の普及政策のため小学生の頃(1972年頃)は、台湾語で話すと罰金箱に1元入れるという制度があったそうです。その罰金で学級の備品をいろいろ購入したそうです。方言札はなかったそうです。楊さん(楊家19代目・先祖は清の時代に中国大陸の福建省から移住したそうです)は、客家(ハッカ)族ですので、家では客家語、近隣の人たちとは台湾語(閩南語)、学校では、北京語(国語)という生活を送りました。客家語も台湾語も文字を持ちません。台湾語には、北京語の漢字を当てました。現在、街角で見受ける看板は、ほとんどが北京語ですが、いくつか台湾語の例を見つけたので紹介します。取材をしたのは、台北から列車で約2時間南へ下った苗栗市(ミャオリー市)です。
最初にとりあげるのは、「旺伯」「古早味」【写真1】です。「(親しみをこめて呼ぶときの)旺おじさん」の店、「昔の味」という意味です。「旺伯」は、北京語では「ワン・ポォ」ですが、台湾語では「オン・ペア」と発音します。「旺」には、「縁起が良い、繁栄」の意味がありますが、年配の男性の名前です。「古早味」は、台湾語で「グー・ザォ・ウェ」ですが、北京語にはこの表現がありません。このお店では、冷たい緑茶や紅茶を売っていて、20元(約60円)で300mlくらいの大きな容器に入ったお茶がテイクアウトで飲めます。
「日昇百貨行」【写真2】の「百貨」は、北京語では、「バイ・ホー」と発音しますが、台湾語では、「パー・フォエ」と言います。台湾に残存する日本語とも考えられます。いろいろな品物を扱う店という意味です。「行」(ハン)は、日本語で「果物屋」などに使う「~屋」を意味します。北京語では、「行號」です。
次の「培元文具行」【写真3】の「行」も「日昇百貨行」の「行」と同じ意味です。文房具店の看板ですが「文具」は、北京語では「ウォン・チュ」、台湾語では「ブング」です。台湾語は、基本的に呉音に由来するので、日本語の発音にたいへん近いのですが、台中、台南に住む方の話では、日本語から取り入れた可能性もあるとのことです。
写真4の看板の最初の漢字は、「しょうが」(生姜)という意味の古い漢字です。台湾語で「キュン・ボア」と言いますが、生姜で煮た鴨の料理です。冬食べると体が温まる台湾独特の冬の料理です。このように台湾語を北京語に当てはめて表記する看板の多くは、台湾ならではの産物であることを強調する効果をねらっています。
今回は、臨時号として海外の方言事情、台湾語を取り上げました。真理大學助理教授の郭碧蘭さんにもご意見をいただきました。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。
【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載の始まりです。
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
明解PISA大事典:高度ながら知識不問の「PISA型」問題
2010年 3月 5日 金曜日 筆者: 北川 達夫第33回 笑話による問題解決型読解教育
前回はフィンランドの「分離・融合方式」について紹介した。分離段階(小学校5年生くらいまで)においては、相当に仕組まれた素材文を用い、学年相応の知識と経験のみを駆使してクリティカルに読むことが求められる。要するに、自分たちと同じような登場人物が、自分たちも経験したことのあるような問題に遭遇し、自分たちもやりかねない方法で解決する物語を読んで、ああだこうだと意見を言い合うようなやりかたである。いわゆる「PISA型読解力」を容易に習得できる方法ではあるが、「深さ」の感じられる方法ではないため、日本の国語の先生にとっては物足りなく感じられるようである。
とはいえ、やりかたによっては、けっこう手ごたえのある課題を設定することもできる。
一例を挙げよう。小学校3年生用の教科書に掲載されている事例である(1)。
物語「くらのとびら」のあらすじ
おまぬけ村のお父さんとお母さんの話である。お父さんは、野良仕事をしている間に蔵のお金がドロボウに盗まれるのではないかと心配していた。そこで、お母さんに、家事をしながら蔵の扉を見張っているように命じた。お母さんは蔵の扉を見張っていたが、話し相手のお父さんがいないので退屈である。畑に行けばお父さんと話せるのだが、それでは蔵の扉を見張ることができない。そこで、お母さんは蔵の扉を取り外し、それを背負って畑に行くことにした。お父さんはお母さんが畑に来たのでびっくりしたが、お母さんが蔵の扉を見張っていることがわかったので安心した。野良仕事を終え、家に帰った二人はびっくりした。蔵のお金がすっかり盗まれていたからである。
〈問題と解決〉
◎お父さんにとっての問題と解決
お金を盗まれるのではないか⇒お母さんに蔵の扉を見張っていてもらう。
◎お母さんにとっての問題と解決
退屈である。しかし蔵の扉を見張らなければならない⇒蔵の扉を背負って畑に行く。
このように各人が各人の問題を解決しているにもかかわらず、大前提が崩れてしまった、つまり盗まれてはならないお金が盗まれてしまったのである。「おまぬけ村(Hölmölä)」の物語というのは、フィンランドでは定番の民話型笑話であり、だいたいこのパターンで笑いをとることになっている。
この物語について、通常の問題解決型読解の方式(2)で話し合ってもあまり意味はない。「お金を盗まれてはならない」という大前提のもとで、「ほかに解決策はありませんか?」「あなただったらどうしますか?」と考えさせたところで、おまぬけ村の住人のようなアホな解決策をとらなければよいだけだからである。もちろん、小学校3年生が対象の課題なので、一応は確認のために「お金を盗まれないためには、どうすればよかったのですか?」と聞くことにはなっているが……。
このように笑話が素材文の場合は、あくまでも笑話のルールに則って問題解決思考をすることになる。つまり「笑話になるように、ほかの解決策を考えなさい」というのが、この素材文を用いた場合の最終課題である。登場する各人が各人の問題を真面目に解決したにもかかわらず、そのために大前提が崩れるような解決策――お父さんかお母さんの解決策を考えなければならないのである。
さて、この「おまぬけ村」の物語では、ほかにどのような解決策があるだろうか?
(解答例は次回)
* * *
(1) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』pp82-83 メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年
(2) 問題解決型読解については第16回を参照。
* * *
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【プロフィール】

北川達夫(きたがわ・たつお)
教材作家・教育コンサルタント・チェンバロ奏者・武芸者・漢学生
(財)文字・活字文化推進機構調査研究委員
日本教育大学院大学客員教授
1966年東京生まれ。英・仏・中・芬・典・愛沙語の通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで「母語と文学」科の教科教育法と教材作法を学ぶ。国際的な教材作家として日芬をはじめ、旧中・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、各地の学校を巡り、グローバル・スタンダードの言語教育を指導している。詳しいプロフィールはこちら⇒『ニッポンには対話がない』情報ページ
著書に、『知的英語の習得術』(学習研究社 2003)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版 2004)、『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界 2005)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 2005)、編訳書に「フィンランド国語教科書」シリーズ(経済界 2005 ~ 2008)、対談集に演出家・平田オリザさんとの対談『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(三省堂 2008)、組織開発デザイナー・清宮普美代さんとの対談『対話流―未来を生みだすコミュニケーション』(三省堂 2009★新刊★)など。
『週刊 東洋経済』にて「わかりあえない時代の『対話力』入門」連載中。
* * *
【編集部から】
学習指導要領の改訂に大きく影響したPISAってなに?
PISA型読解力ってどんな力なの?
言語力、言語活動の重視って? これまでとどう違う?
現代の教育観は変わってきたのか。変わってきたとしたら、そこにどんな経緯があるのか。
国際的に活躍する教材作家である北川達夫先生がやさしく解説する連載「明解PISA大事典」。毎週金曜日に掲載しています。
漢字の現在:香港、台湾のお金も「円」い
2010年 3月 4日 木曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第59回 香港、台湾のお金も「円」い
前回記した中国での「圓」から「元」への転化は、中国の漢字の状況を端的に表している。また、「園」という字は、やはり「元」と字音が通じるものであり、簡体字としては「囗」の中に「元」を収めた「园:
」を採用している(第15回「幼稚園」参照)。字の造り方や字画の省き方に、発音を軸とした一貫性を見出すことができよう。
中国に滞在していると、クシャクシャになった古い人民元のお札や、かなり低額な貨幣も手元に回ってくることがある。それらには、前回記したとおり、「圆:
(圓)」や「元」がこともなげに印刷されたり刻印されたりしている。日本では、お金を改めて凝視することはほとんどないが、中国では、偽札を見抜こうとする努力が日常、お店のカウンターでなされている。しかし、貨幣や紙幣になおも見られるそうした表記の揺れについては気にされることはないようだ。
その語の意味よりも、むしろその語の発音に着目して文字を選び、語を表記することが存外多いのである。書きことばにおいて最も使用頻度数の高い「的」(de)でさえも実は当て字だったものである。こうした点からも、中国語では、表音という機能が漢字の役割として意外に重視されてきた、ということがうかがえる。木簡さらには甲骨文字の文章などでも、想像を超えるほどの、同音・類音字を通用させた仮借(かしゃ)表記がなされているのである。それを、中国での漢字の一つの本質であったとまでみなすのはいきすぎであろうか。
香港ドル(HK$)や台湾ドル(NT$:ニュー台湾ドル)は、政治的、文化的な問題から、繁体字を使用しつづけているために、貨幣単位としては「圓」と表記される。しかし、日常生活の中ではやはり簡易な「元」とも記されている。台湾でも、手書きでは簡体字と共通する略字がしばしば用いられているのが実態である。確かに「臺灣」と書いてばかりもいられないのであろう。しかし国語の試験では、略字を書くと国語の教員に減点をされてしまうとのことだ。
香港では、お札での表記が「圓」から「元」に変わってきたようだ。前回述べた記号化と同様の現象が、中国本土に次いで起こっているのである。いずれの国や地域でも、高頻度で煩雑なものは、神が作りだし王が使ったかの遥かな歴史をもつ文字であっても、社会生活を営む人間の手で、簡便な形に次第に変えられる。そういう過程を経ることで、いっそう多くの人々へと、文字は近づいてきたのである。
中国に返還された現在でも、一国二制度が保たれている香港では、「圓」の代わりに「蚊」 (man マン)と書かれる語も通用している。実際に、これを香港の地で目にしたが、多くの方言文字とともに日常生活の中に、あまりにも溶け込んでいて、当地でそれを見つけても、不思議と違和感はなかった。日本に住む人ならば、貨幣の単位を、虫の「カ」を意味する「蚊」と書くことはなぜか、と感じないだろうか。それが、地元では別におかしいとも思われていないようだ(本字は「文」とのこと)。香港に移り住んで長い方も、「そう言われてみれば、なんでかな」と首をかしげるくらいだった。中国語の一つの方言たる広東語でも、やはりこの漢字では意味よりも音が重視されたようだ。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「中国のお金も「円」い」でした。
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国語辞典入門:語釈・説明の違い、詳しい 簡単
2010年 3月 3日 水曜日 筆者: 飯間 浩明第8回 語釈の個性は画風に似ている
国語辞典によって語釈が違うことを実感するにつれ、私は、ちょっとしたことばを調べるにも、複数の辞書を引かなければ満足できなくなりました。
語釈の個性というものは、絵で言えば、ちょうど画風に似ていると思います。同じ農村風景を描いても、ミレーとモネとゴッホとではまるで違います。ミレーの絵しか見ないという人がいないのと同じで、1冊の辞書の語釈で満足するのはもったいない話です。
主観を表現する美術と、客観を目指すべき国語辞典とは比べられないと思う人もいるかもしれません。でも、たとえ客観的に物事を捉えようとする場合でも、その捉え方に個性が表れることは、「時間」「マンボウ」の例で見たとおりです。
あるいはもうひとつ、「苦い」の例を加えてもいいでしょう。「苦い」は、科学的には「舌根の部分が刺激される状態だ」ということです。『集英社国語辞典』の語釈はこれに近く、
〈舌の奥の方で焦げたような味を感じる〉
と記しています。科学的であり、妥当な語釈です。その一方で、この語釈は、日常感覚から離れる面があることも事実です。私たちは、苦みを感じる時、「舌の奥が刺激されている」とは意識しないからです。
『新選国語辞典』(小学館)は、別の面から「苦い」を捉えようとします。
〈熊(くま)の胆(い)や濃すぎる茶などを飲んだ時のような、よくない味を感じる〉
この辞書が試みているのは、例示による説明です。私は「熊の胆」を味わったことはないのですが、「濃すぎる茶」と言われれば分かります。これもまた妥当な説明です。
ほかの国語辞典を見ると、これらの観点をあわせた語釈、別の観点から切りこんだ語釈など、さまざまで、どれが一番いいと決めることはできません。それぞれの語釈の違いは、やはり、画家の作風の違いにたとえるのがふさわしいと思います。
こんなふうに言うと、国語辞典には悪い語釈はないかのようです。もちろん、そんなことはなく、改善すべき語釈はあります。たとえば、「本」を引くと「書籍。書物」とあり、「書籍」「書物」を引くと「書物。本。図書」「本。図書」などと循環する辞書が、私が見ただけでも7、8冊はあります。すぐれた辞書でもこういうことが起こるのです。
「簡単な語釈はダメ」ではない
循環する語釈のほかに、一般の評価が低くなりがちなのは、簡単な語釈です。くわしい語釈と簡単な語釈とがあった場合、多くの人は、くわしい語釈をよしとします。
でも、私はこれについては異論を持ちます。語釈を念入りにするか、単純にまとめるかは、やはり、これも画風の違いのようなものです。
私はよく、語釈の精粗を肖像画と似顔絵の違いにたとえます。肖像画はモデルを丹念に描こうとします。でも、細かく描きこんでも、どこか本物と違う感じがすることがあります。一方、似顔絵は、一筆書きのような線が、かえってモデルの特徴を見事に捉えることがあります。どちらの描き方がいいかではなく、成功しているかどうかが問題です。
『三省堂国語辞典』の「ライター」は、第五版より第六版のほうが簡単になりました。
〈発火石を こすってタバコの火をつける器具〉(第五版)
〈タバコの火をつける器具〉(第六版)
前段が削られています。辞書の語釈はくわしいほうがいいという考えに立てば、『三省堂』の語釈は退歩したことになります。本当にそうでしょうか。
第五版で問題になったのは、「ライターの点火方式は発火石だけでない」ということでした。他の辞書には〈発火石や電池などを用いて……〉ともあります。ただ、現在では電池式はまれで、一般に目にするのは、発火石ライターか電子ライターです。第五版には発火石の説明しかないので、電子ライターの説明を加えれば完璧になるはずです。
ところが、電子ライターは、圧電素子というものをハンマーでたたいて点火するものです(私もライターを分解して確認しました)。これを記述するなら、ライターとは、
「発火石を こすったり、圧電素子という物質をハンマーでたたいたりして、タバコの火をつける器具」
となります。より精密にはなりましたが、定義としてはなんだか散漫になってしまいました。「ライター」を定義するためには、点火方式や燃料の種類は必須ではなかったのです。思いきって省いたほうがいいと考えた結果が、『三省堂』の第六版の語釈です。
ある対象について、百科事典的な知識がほしいのか、それとも、「要するにどういうことか」という核心が知りたいのか、時と場合によって、ふさわしい辞書は異なります。
◇関連する記事⇒『三省堂国語辞典』のすすめ その63 『三国』は、シンプルな似顔絵だと思う。
◇関連する記事⇒『三省堂国語辞典』のすすめ その76 電子ライターを分解してみる。
◆連載を続けてお読みになる方は⇒「国語辞典入門」アーカイブ
◆記事のタイトルからお探しになる方は⇒「国語辞典入門」目次へ
◆飯間先生のもう一つの連載は⇒「『三省堂国語辞典』のすすめ」アーカイブ
◆飯間先生の記事はここにも⇒「三省堂WebDictionary」ことばパティオ第8回「「串刺し」に堪える語釈でなければならない」
筆者プロフィール
飯間浩明(いいま・ひろあき)
早稲田大学非常勤講師。『三省堂国語辞典』編集委員。
早稲田大学文学研究科博士課程単位取得。専門は日本語学。古代から現代に至る日本語の語彙について研究を行う。NHK教育テレビ「わかる国語 読み書きのツボ」では番組委員として構成に関わる。著書に『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波書店)、『NHKわかる国語 読み書きのツボ』(監修・本文執筆、MCプレス)、『非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門』(ディスカヴァー21)がある。
URL:ことばをめぐるひとりごと(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/kotoba0.htm)
【編集部から】
これまで「『三省堂国語辞典』のすすめ」をご執筆くださった飯間浩明先生に「国語辞典の知っているようで知らないことを」とリクエストし、「『サンコク』のすすめ」が100回を迎えるのを機に、日本語のいろいろな辞典の話を展開していただくことになりました。
辞典はどれも同じじゃありません。国語辞典選びのヒントにもなり、国語辞典遊びの世界へも導いてくれる「国語辞典入門」の始まりです。
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2007年









