『日本国語大辞典』をよむ―第3回 オノマトペ①:キリギリスとコオロギ

2017年 3月 12日 日曜日 筆者: 今野 真二

第3回 オノマトペ①:キリギリスとコオロギ

 『日本国語大辞典』は見出し「オノマトペ」を「擬声語および擬態語。擬音語。オノマトペア」と説明している。これだけではわかりにくいので、見出し「ぎせいご(擬声語)」を調べてみると、「物の音や声などを表わすことば。表示される語音と、それによって表現される種々の自然音との間に、ある種の必然的関係、すなわち音象徴が存在することによって成立する語」と説明されている。

 『日本国語大辞典』は見出し「ガチャガチャ」の語義の【三】に「(鳴き声から転じて)昆虫「くつわむし(轡虫)」の異名」と記している。草むらで、「ガチャガチャ」というように聞こえる声で鳴いている虫を、その鳴き声から「ガチャガチャ」と呼ぶということで、これはオノマトペがそのまま虫の名前になった例といえよう。クツワムシの場合は、今は東京などでは、なかなか鳴き声を聞くことができないかもしれないが、筆者が子供の頃には家のまわりの草むらなどでよく鳴いていた。「ガチャガチャ」は実際の鳴き声にかなりちかい「聞きなし」といえそうだと思うが、それはもしかしたら、「あれマツムシが鳴いている チンチロチンチロチンチロリン」と始まる文部省唱歌「虫のこえ(蟲のこゑ)」(作詩作曲者不詳)の2番の歌詞「きりきりきりきり きりぎりす。がちゃがちゃがちゃがちゃ くつわむし」に、知らず知らずのうちに影響されているのかもしれない。この「虫のこえ」は明治43(1910)年に刊行された『尋常小学読本唱歌』に収められている。1998年に示された「小学校学習指導要領」において、第2学年の歌唱共通教材とされているので、今でも小学校2年生が歌っている歌だと思われる。この「虫のこえ」は2007年には「日本の歌百選」にも選ばれている。

 ところが、昭和7(1932)年に刊行された『新訂尋常小学唱歌』において、「きりぎりす」が「こほろぎや」に改められ、現在はこのかたちで定着している。『日本国語大辞典』で「きりぎりす」を調べてみると、「(1)昆虫「こおろぎ(蟋蟀)」の古名」とまず記されている。少しややこしい話になってきたが、できるだけわかりやすく説明してみよう。934年頃に成ったと考えられている『和名類聚抄』という辞書がある。この辞書をみると、「蟋蟀」という漢語に対して「木里木里須」と記されている。つまり「蟋蟀(シッシツ)」という漢語と対応する和語は「キリキリス」だという記事である。では「コオロギ」はどうなっているかといえば、「蜻蛚(セイレツ)」という漢語と対応する和語として「古保呂木」とある。漢語「シッシツ(蟋蟀)」は日本で現在いうところの「コオロギ」だと考えられている。ここだけをとりだすと、日本では古くは、現在「コオロギ」と呼んでいる昆虫を「キリキリス」と呼んでいたという推測を引き出す。こうした推測に基づいて、「虫のこえ」の歌詞中の「きりぎりす」が「こほろぎ」に改められたということだ。

 しかし、ここには実は難しい「問題」が潜んでいる。文献に記されている語から、それが実際にどのような昆虫だったか、花だったかなどを探るのは案外と難しい。文献に「コオロギ」と書いてあって、現在も同じ名前の昆虫がいれば、「ああこれだ」とまず思ってしまう。だいたいはそれでいいといえなくもないが、そうではない場合もある。しかし文献に記されている「情報」だけから、昆虫や植物を特定することは難しい。したがって、これは言語学においては扱わないことがらになる。言語が実際のどんなモノを指しているか、ということは、ある程度わかっていないと言語についての議論もできない場合もあるが、言語学の追究する課題ではない、と考えることになっている。

 辞書もこのあたりが実は難しい。百科事典であれば、現在「コオロギ」と呼ばれている昆虫の写真を載せて、あとはコオロギの生態などを記せばよい。現在刊行されている百科事典にはCDが付いているものもあるから、コオロギの鳴き声をそこに録音しておくこともできる。しかし国語辞書の場合は、そうもいかない。『日本国語大辞典』は、といえば、語義の(2)として「バッタ(直翅)目キリギリス科の昆虫。体長四~五センチメートル。(略)夏から秋にかけて野原の草むらに多く、長いうしろあしでよく跳躍する。(略)雄は「チョン、ギース」と鳴く。(以下略)」と記し、そばに挿絵があるが、挿絵には「螽蟖(2)」とキャプションがある。これは語義(1)の「蟋蟀(コオロギ)」ではなくて(2)の「螽蟖(キリギリス)」の挿絵だということを示している。『日本国語大辞典』は国語辞書(言語辞書)であるが、固有名詞も収めるなど、百科事典を兼ねているところがあるので、このようにして、語義記述において対応していることがわかる。

 さて、漢語「シッシツ(蟋蟀)」は現在日本でいうところのコオロギだろうというところまで述べた。ところがである。『日本国語大辞典』の見出し「きりぎりす」の「語誌」欄をみると、漢語「セイレツ(蜻蛚)」と漢語「シッシツ(蟋蟀)」とは、中国では「同じものをいう」(『日本国語大辞典』第4巻587ページ第3段)。「同じもの」は同じ昆虫ということであろうが、そうなると、「じゃあなんで中国では同じ昆虫に2つの語があるんだ?」という疑問が生じてくるが、もしも「同じ」だとすると、日本語の「キリキリス(木里木里須)」と「コホロキ(古保呂木)」との関係はどうなるのか? という新たな疑問を引き出す。許されている字数がもうあまりないので、簡略にまとめざるを得ないが、筆者の意見をいえば、歌詞はもともとのままでよかったのではないかということだ。だって、「キリキリキリ」鳴く虫だから「キリキリス」という名前がついたはずなんだから。それが現在なんと呼んでいる昆虫にあたるかは、また別の話としてもよいだろう。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。


『日本国語大辞典』をよむ―第2回 対語

2017年 2月 26日 日曜日 筆者: 今野 真二

第2回 対語

 前回は最後に「対語(たいご/ついご)」についてふれたが、具体例を1つしか挙げられなかったので、今回はその続きのようなかたちで述べてみたい。前回も述べているが、「対語」とは「対(つい)になっていることば」である。「カクダイ(拡大)」と「シュクショウ(縮小)」は語義が「反対」であるので、「反対語/対義語」などと呼ばれる。「反対語/対義語」も2つの語が対(つい)になっているので、「対語」であるが、語義が「反対」になっていなくても、「ヤマ(山)」「カワ(川)」のように対になっている語はある。前回は「ヒヤヤッコ(冷奴)」の対語として「アツヤッコ」があるという話題だった。これと似たケースとして「ヒヤムギ(冷麦)」と「ヌクムギ(温麦)」がある。『日本国語大辞典』には次のように記されている。

ぬくむぎ【温麦】あたためたつゆに入れて食べる麺類。冷麦(ひやむぎ)に対していう。

ひやむぎ【冷麦】細打ちにしたうどんを茹(ゆ)でて水で冷やし、汁をつけて食べるもの。夏時の食糧とする。ひやしむぎ。

 上では、積極的に「↔」符号をもって両語が「対語」であることを示してはいないが、「ぬくむぎ」には「冷麦(ひやむぎ)に対していう」とあって、現代も食べ物として存在し、したがって語としても存在している「ヒヤムギ」によって「ヌクムギ」を説明しようとしている、と思われる。それに呼応するように、「ひやむぎ」の説明は「ぬくむぎ」の説明よりも具体的で、かつ「ぬくむぎ」を参照させようとはしていない。「対」といっても、実際には両語がまったく「均衡」を保っていることはむしろ少ないように思われる。これも言語のおもしろいところだ。

 山形県山形市にある立石寺は「山寺」と呼ばれる。松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蟬の声」という句をつくったといわれている所だ。この場合の「山寺」は一般名詞のような固有名詞のような趣きがあるが、「山寺の和尚さん」というような時の「ヤマデラ」は一般名詞である。『日本国語大辞典』では「ヤマデラ」の語義を「山にある寺。山の中の寺院。さんじ」と説明している。さて、この「ヤマデラ」の対語は? 先には「ヤマ(山)」と「カワ(川)」とが対になる、と述べたが、この場合は「ノ(野)」が対になる。『日本国語大辞典』には次のような見出し項目がある。

のでら【野寺】(山寺に対して)野中にある寺。

 上でも「↔」符号は使われていないが、「ヤマデラ」と対になっていることが記されている。ある(よく使われている)語を一方に置いて新しい語ができあがる場合、最初からあった(よく使われている)語が何であったかによって、「対」の形成のされかたも異なってくる。

 斎藤茂吉に次のような短歌作品がある。

(なら)わか葉照りひるがへるうつつなに山蚕(やまこ)は青(あを)/く生(あ)れぬ山蚕は

 大正2(1913)年に東雲堂から出版された第一歌集『赤光』に収められている作品だ。塚本邦雄は『茂吉秀歌 『赤光』百首』(1977年、文藝春秋)において、茂吉の「この昆虫への愛著は顕著である」(148ページ)と述べている。

 『日本国語大辞典』は「ヤマコ(山蚕)」を「昆虫「くわご(桑蚕蛾)」の異名」と説明し、使用例として先に示した斎藤茂吉の短歌作品をあげている。『日本国語大辞典』は飼育種である「(カイ)コ(蚕)」に対しての「ヤマコ」であると積極的には説明していないが、語構成上はそのようにみえる。また、昆虫として追究すると、大型の蛾である「ヤマガイコ(山蚕)」も存在するようであるが、それはそれとする。

 語構成に話を戻せば、他にも、シャクヤク(芍薬)に似て山に生えるものを「ヤマシャクヤク」、山野に生えるツツジを「ヤマツツジ」と呼ぶなど、類例は少なくない。ちなみにいえば、現在は絹糸の元となる繭をつくる昆虫は「カイコ」であるが、これは「飼い蚕(こ)」で、「コ」という昆虫を飼い慣らしたものが「カイコ(飼蚕)」である。『万葉集』巻第12、2991番歌の「垂乳根之母我養蚕乃眉隠」と書かれている箇所は現在、「たらちねのははがかふこのまよごもり」と読まれている。つまり『万葉集』の頃にすでに養蚕が行なわれていたということだ。

 「ノ(野)」と「ヤマ(山)」とが対になったり、飼育種に対して、「ヤマ」が対になったり、「カワセミ」という鳥に対しては「ヤマセミ」がいて、この場合であれば「ヤマ(山)」と「カワ(川)」とが対になったりと、対語の「対」もさまざまだ。

 ヤマネという小動物をご存じだろうか。『日本国語大辞典』には次のようにある。

やまね【山鼠】𪘂歯目ヤマネ科の哺乳類。体長約七センチメートル。ネズミに似ているが尾が長く長毛を有する。(中略)冬は木の穴などで体をまるめて冬眠し、刺激を与えても容易に目をさまさない。本州以南の山林に分布する日本の固有種。(下略)

 「ヤマネ」の「ヤマ」は〈山〉であろう。「ネ」は〈ネズミ〉のはずだ。ネズミはもともと野原にいるものだとすると、それをわざわざ「ノネ(野鼠)」という必要はない。『日本国語大辞典』は〈野鼠〉という語義をもつ「ノネ」を見出し項目としていない。それはそういうことだろう、などと想像する。しかし「ノネズミ」という語はある。『日本国語大辞典』は「ノネズミ」の対語として「イエネズミ(家鼠)」をあげている。複雑になってきた。しかしこうやって、例えば「対語」という概念をもとにあれこれと考えてみるということは楽しいことだと思う。

 最後に1つ。『万葉集』の歌人に「山辺赤人(やまべのあかひと)」という人物がいることはご存じだろうと思う。江戸後期の狂歌師、斯波孟雅(しばたけまさ)(1717~1790)は色黒だったので、「浜辺黒人(はまべのくろひと)」を号としたとのこと。いやはやふざけた対語ではないか。こんなことも『日本国語大辞典』を読むとわかる。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。


『日本国語大辞典』をよむ―第1回 はじめに

2017年 2月 12日 日曜日 筆者: 今野 真二

第1回 はじめに

 「『日本国語大辞典』をよむ」というタイトルは、具体的にはどういうことをしようとしているかがわかりにくいともいえるので、連載を始めるにあたって、「口上」のようなものを述べておくことにしよう。

 2010年12月に三省堂から『そして、僕はOEDを読んだ』という本が出版された。アモン・シェイ(Ammon Shea)という人物が書いた『READING THE OED: ONE MAN, ONE YEAR, 21,730 PAGES』という本を田村幸誠が翻訳したものだ。「OED」は『The Oxford English Dictionary』のことで、1989年には20巻から成る第2版が刊行されている。この20巻の「OED」、総計21,730ページ を、一人で、1年間をかけて読み通したという本が『そして、僕はOEDを読んだ』である。

 この本は、ある月曜の朝に60キログラムを超える20巻のOEDがアモン・シェイのアパートに届くところから始まる。『日本国語大辞典』第2版全13巻(14巻は索引等が載せられている別巻なので、これは除く)は量ってみると、そこまでの重量はないが、総ページ数は20,000ページぐらいなので、こちらはまずまず「OED」20巻にちかい。

 『日本国語大辞典』第2版は、現在刊行されている国語辞書で最大規模のものである。この『日本国語大辞典』第2版(以下第1版のことを話題にする場合のみ版の別を示す)のみが大型辞書といってよい。『広辞苑』を大型辞書と思っている人がいるかもしれないが、『広辞苑』は中型辞書である。アモン・シェイは1年間で「OED」を読んだことになっているが、20,000ページを1年間で読破するためには、1か月に1,600ページ以上を読まなければならない。アモン・シェイは「一日に八時間から一〇時間、OEDと向き合っていた」(16ページ)とのことであるが、大学の教員である筆者にはそのようにすることはできない。実際にきちんとメモをとりながら『日本国語大辞典』を読み始めたのは、2015年9月24日からであるが、2016年4月1日から2017年3月31日までは勤務先の大学から「特別研究期間」を認めていただき、授業担当や会議等から離れることができた。その期間を有効に使いながら、現時点では、2018年の1月ぐらいに、『日本国語大辞典』全13巻をよんだ結果をまとめられればと思っている。

 上ではもう『日本国語大辞典』を読むことになってしまっているが、筆者がどうしてそのようないわば「暴挙」をしようと思ったかについても少し説明しておこう。筆者はこれまでに『漢語辞書論攷』(2011年、港の人)、『明治期の辞書』(2013年、清文堂出版)、『辞書からみた日本語の歴史』(2014年、ちくまプリマー新書)、『辞書をよむ』(2014年、平凡社新書)、『超明解!国語辞典』(2015年、文春新書)など辞書を「よむ」ということをテーマとした本を出版させてもらっている。古辞書から現代出版されている辞書まで、さまざまな辞書を読みながら、いろいろなことを考えた。そうしたいわば「経験」に基づいて『日本国語大辞典』を読んだら『日本国語大辞典』がどのような辞書にみえるか、ということがまず考えたことだ。『日本国語大辞典』を「よむ」といっても、どのような読みかたをするかによって、それに必要な時間も変わってくる。そこで、2018年の1月ぐらいには、『日本国語大辞典』を読み、その結果をまとめ終わるという目標を設定し、それに合わせたペースを保つように心がけた。もっと時間を費やせば、「よみ」はまた変わってくるだろう。気がつくことも当然増えることが予想される。とにかく、上のような目標のもとに『日本国語大辞典』を読んだ、その結果を少しずつここに書いていくことにする。

 連載開始にあたって、筆者の用語を説明しておきたい。筆者は辞書は「見出し+語釈」という基本形式に基づいて記述されていると捉えることにしている。これは過去の辞書にも現代刊行している辞書にもあてはめることができる。「見出し+語釈」全体が辞書の一つ一つの「項目」である。筆者のいう「見出し」は英語辞書学では「headword」あるいは「lemma」(レマ)と呼ぶということを大学の同僚の大杉正明先生に教えていただいた。『日本国語大辞典』はかなり丁寧に見出しが実際に使われている文献の名前と実際の使用例とをあげている。この使用例は必ず「よむ」ことにはしなかった。必ず「よむ」のは(当たり前であるが)「見出し」と「語釈」とである。

 連載では、『日本国語大辞典』を読んで筆者が気づいたこと、思ったこと、考えたことをできる限り具体的にとりあげ、述べていきたい。今回は紙面が残り少ないので、ごく少しだけの話になってしまったが、「こんな対義語がありました」ということをとりあげることにする。

 『日本国語大辞典』第1巻に載せられている「凡例」の「語釈について」の四「語釈の末尾に示すもの」の2に「同義語の後に反対語・対語などを↔を付して注記する」と記されている。「対語」は「ついご/たいご」で『日本国語大辞典』は「対(つい)になっていることば」と説明している。さて、『日本国語大辞典』には「あつやっこ(熱奴)」という見出し項目があって、「豆腐を小さく四角に切って熱した料理。湯豆腐(ゆどうふ)。↔冷奴(ひややっこ)」という語釈が配されている。「アツヤッコ」って何? と一瞬思ったが、「ユドウフ」のことだ。現在はもっぱら「ユドウフ」という語を使っているので、かつて「アツヤッコ」があって「ヒヤヤッコ」があったということがあまり意識されなくなっていることがわかる。こういう「発見」がおもしろい。次回から、そうした筆者の「気づき」を「報告」していきたい。

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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

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【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

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【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
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