耳の文化と目の文化(30)―地名の表記(4)―

2011年 10月 17日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(117)

ゲルマン語以外の言語に由来するドイツの地名にはラテン系言語の他にはスラブ系言語に由来するものがある。これらの地名の中には、前回の場合とは反対に、本来はkによる表記でなくともc, chによって書かれることがある。

ザクセン州にあるKamenzカーメンツはレッシングの生まれた町であるが、この地名はスラブ系言語であるソルブ語の「石」を意味する語に由来する。近世にはCamenczという表記もあった。また、第二次世界大戦後、ドイツ民主共和国になってからの1953年からドイツ再統一の1990年までKarl-Marx-Stadtカール=マルクス=シュタットと呼ばれていた、ザクセン州のChemnitzケムニッツもKamenzと語源を同じくするが、ここはchでkの音を表している。この表記は1630年以降であり、それ以前はCameniz, Kameniz, Kemnitzと表記が変わっていった。

ゲルマン語に由来する地名の音[k]はもちろんkで表記する。バルト海に面した港町Kielキールの名前は「楔」を意味する中世低地ドイツ語のkilに由来する。これはKielが、海が陸地に深く入り込んで湾となったフィヨルドに臨んでいるという地形から来ている。

ただ、Kielをcで書かないのはラテン語に由来するものではないという理由だけではなく、前回のKehlもそうであるが、ci, ceのcは[k]ではなく、[ts]の音になるからである。ニーダーザクセン州にCelleツェレという町がある。この町の名前は「柄杓、池」を意味する中世ドイツ語のkelleに由来する。これだとCelleをcではなく、kで書いてもよさそうであるが、低地ドイツ語ではiやeの前のkは[ts]の音になるからであり、そのことがcによって表されているのである。

[ts]の音はドイツ語ではzで表記するのがふつうである。モーゼル河畔一帯はワインの一大産地であるが、その中流にZellツェルという町がある。ここにはワイン醸造と関係の深い修道院があったので、Zellという地名は「貯蔵室、居室」を意味するラテン語のcellaに由来すると考えられている。また実際に、中世ではCellaと表記されていた。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

【編集部から】

2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


耳の文化と目の文化(29)―地名の表記(3)―

2011年 10月 3日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(116)

ドイツ語の正書法では[k]の音はkで表し、cで書かれる語はラテン系言語からの外来語である(例:café「コーヒー店」)。また、本来cで表記される語であってもドイツ語の語としてはkで書かれるようになったものも多い(例:Kaffee「コーヒー」)。このことは地名に関しても言える。従って、ドイツの地名でありながらcで表記されたものはたいへん目立つように感じられる。

前回(第115回)、ウムラウトに関連して、Kölnケルンはローマ人によって建設された植民都市を意味するcoloniaに由来することを述べた。このKölnの表記はその語頭のkも本来はcであったがドイツ語の正書法に従いkになった。実際に、中世ではCöllenという表記もみられる。また、シュプレー河畔のベルリンにCöllnという地区があるが、これは1200年頃にライン河畔のKölnからやって来た入植者が故郷の町の名前に因んでつけた名前である。

紀元前後にローマ人が建設した植民都市はライン河畔の各地にある。ライン川にモーゼル川が流れ込む地点にあるKoblenzコブレンツはラテン語のconfluentes「合流」に由来し、1926年まではCoblenzと表記されていた。また、ライン川の発するボーデン湖に臨むKonstanzコンスタンツもローマ皇帝Constantius Chlorusの名前を冠したローマ人の要塞であったことによる。実際、中世ではConstantzと表記していた。

ラテン語に直接に由来しない場合もある。中部ドイツ、ヘッセン州にあるKasselカッセルはフランケン方言cassellaに基づくが、これはラテン語castellum「要塞」からの借用語である。Casselという表記も中世にはまだあった。また、南西ドイツのフライブルクからライン川を渡ってフランスのシュトラスブルク/ストラスブールへ向かう地点にKehlケールという町がある。この名前は中世ドイツ語のkanel「管、雨樋、溝、用水路、運河」に由来し、同じ意味のラテン語のcanalisからの借用語である。この場合、kanelはライン川の支流を指していると思われる。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

【編集部から】

2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


耳の文化と目の文化(28)―地名の表記(2)―

2011年 4月 18日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(115)

ドイツ語のウムラウトは、ある単語の語幹の母音[a, o, u]が変化語尾や接尾辞の中の母音iに引き寄せられて[ɛ/ɛ:, œ/ø:, Y/y:] になる現象である:rot [ro:t]「赤い」 > rötlich [rø:tlIç]「赤味をおびた」、 Macht [maxt]「力」> mächtig [mɛçtIç]「強力な」。また、名詞の複数語尾の-e, -erや形容詞の比較変化語尾の-er, -estのeもiが弱化したものである:Buch [bu:x]「本」> Bücher [by:çɐ]「複数の本」、Nacht [naxt]「夜」> Nächte [nɛçtə]「複数の夜」、kalt [kalt]「寒い」> kälter [kɛltɐ]「もっと寒い」, kältest [kɛltəst]「いちばん寒い」。さらに形容詞の比較変化語尾の-stや強変化動詞の人称変化語尾 -st, -tもiがeに弱化した後に脱落したものである:jung [jUŋ]「若い」> jüngst [jYŋst]「最も若い」、fahren [fa:rən]「乗り物で行く」> du fährst [fɛ:ɐst]「君は乗り物で行く」、er fährt [fɛ:ɐt]「彼は乗り物で行く」。

地名にあっても同じで、Eichstättの-stättはStadt「都市」と同語源の「場所」を意味するStätteから来ており、この語の語尾のeはiの弱化したものである。Kölnはラテン語のcolonia「(ローマの)植民地」から、Münchenは古代・中世ドイツ語のmunich「僧侶」に由来するが、いずれにも母音iがあるのが確認できる。

ちなみにこのウムラウトという現象はドイツ語だけに起こるものではなく、語の語幹の母音a, o, u の後の方に母音iが来るという音声的環境があればどの言語にでも見られる普遍的なものである。日本語でも、うまい>うめー、知らない>知らねー、おもしろい>おもしれー、などの例を挙げることができよう。

ノルトライン=ヴェストファーレン州のルール地方にDuisburg [dy:sbUrk] デュースブルクという工業都市がある。この都市の名前のuiは本来は2重母音であり、ウムラウト音ではなかったと考えられる。それがuiのuが後のiに引き寄せられて [y:] となった。しかし、綴りの方はもとのままというわけである。

i がつねにウムラウトを引き起こすかというと必ずしもそうではない。ボンの近郊にTroisdorfという地名があるが、これは [tro:sdɔrf] トゥロースドルフと発音する。つまり、i はウムラウト記号ではなく、長音記号なのである。他には中部ドイツのチューリンゲン州の北部にVoigtstedt という町があるが、ここも [fo:ktʃtɛt]フォークトシュテットと発音する。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


子供用のおまけ

2011年 4月 11日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(114)

ドイツは昔は子供のしつけに厳しかったそうで、虐待まがいの扱いが当たり前だったとよく聞かされたものだが、十年前くらいから自分の子供を連れてドイツに滞在するようになると、ドイツも随分と子供に甘い国に変わったような気がする。

カフェに子供連れで入っても、昔は子供たちだけ別の席に座らせて一番安いものをあてがって静かに待たせておき、親たちは好きなものを食べたいだけ注文して楽しむ。子供が文句を言ったり不満そうな様子をするとすぐぶつ、などという風景が当たり前だったとドイツの教育に詳しいK先生にうかがったことがある。

それが、十五年くらい前に私がドイツ人の友人とその母親といっしょにカフェに入ると、若い親が小さい子を連れていて(これがそもそも昔はありえなかった)、甘やかし放題に甘やかし、小さな子供も店中を騒ぎまくる。私の友人の母親は、露骨に不愉快そうな顔をして、最近の若い親はしつけがなっていないと言う。けれども同じ頃別のドイツ人の母親は、形だけ厳しく子供を育てたって、ナチスが来るだけだってやっとドイツ人も気づいたわけですよ、などと言う。あの頃が世論の分かれ目だったのだろうか。

私の子供たちは五、六歳までほんとうにドイツで優しくしてもらった。一番印象に残っているのは、パン屋に行っても肉屋に行っても、必ずといって良いほど子供たちに何か「おまけ」をくれたことだ。パン屋で小さな菓子パンを持たせてくれるのはまだ分かるが、肉屋でハムをくれたのには驚いた。他の日本人からも同じような話を聞いた。レストランに行くと、ハリボーのグミ・ベアの小袋、チュッパチャップスなどをひょいと渡してくれたものだ。子供連れで行くからとレストランに予約を入れておくと、子供の席は小さなかわいい木の人形で飾ってあった。あの時は子供たちが昼間の外出で疲れて眠ってしまったので、結局大人だけでレストランに行ったのだ。記念にもらって帰ったあの人形は長いこと子供たちのおもちゃになっていた。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


耳の文化と目の文化(27)―地名の表記(1)―

2011年 4月 4日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(113)

地名などの表記はこれまで見てきたような正書法が当てはまらない場合がある。例えばウムラウトの表記である。ウムラウトは現在の正書法ではa, o, uの母音の上に点をふたつ(¨)つけて、ä、ö、üのように表す。これは地名といえども同じである:Eichstättアイヒシュテト、Kölnケルン、 Münchenミュンヒェン。

この母音の上にふたつの点をつける表記法はそれほど古いものではない。中世、近世では母音の後や母音の上にeを書いて表していた。母音の上にふたつの点をつける現在の表記法はこのeを″によって省略したことに由来する。

北西ドイツにUelzen [Yltsən]ユルツェンという2つの同名の町がある。ひとつはニーダーザクセン州に、もうひとつはノルトライン=ヴェストファーレン州にある。この地名の[Y]という音を表記するのにUeとするかÜとするかは揺れていたらしく、ノルトライン=ヴェストファーレン州のユルツェンなどは現在のような表記にすることが公式に決まったのは1961年とのことである。また、メクレンブルク=フォアポメルン州の最東端、バルト海に臨むところにUeckermündeという町がある。この町の名前は「Uecker/Ucker川の河口」という意味に由来する。この川の名前のuはもともとは長音だったが、その後、長音を表すeを加えて、Ueckerという表記が生まれ、さらにその後、eがウムラウト記号と解釈されてÜckerという表記も現れ、Ue/Üは短音になった。この川はブランデンブルク州から流れ出るのであるが、今日では連邦地理院によって、ブランデンブルク州ではUcker、メクレンブルク=フォラポメルン州ではUecker とすることが決められている。従って、河口の町Ueckermündeは[YkɐgəmYndə]ユカーゲミュンデと発音する。

しかし、eが常にウムラウトを表しているかといえば必ずしもそうではない。ノルトライン=ヴェストファーレン州のユルツェンの東方25キロばかりのところにSoestという町があるがこれは[zo:st]ゾーストと発音する。つまり、eはウムラウトを表しているのではなく、長音記号なのである。このような表記の地名として他にはシュレースウィヒ=ホルシュタイン州にItzehoe [Itsəho:]イツェホーという地名がある。

ちなみに、eや他にもiを長音表記に使うのは低地ドイツ語に見られる表記法であり、上の地名の例もすべて低地ドイツ語地域のものである。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


ルバーブ

2011年 3月 14日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(112)

恥ずかしい話だが、ルバーブRhabarberというものを私はドイツで初めて見た。今から二十年以上前の話である。スーパーマーケットの果物の棚に、蕗のような長い太い茎が並べてあって、見たことのない名札がついていた。勇を鼓して、隣にいた老婦人に、これはどうやって食べるんですか、と尋ねたら、砂糖と一緒に煮つぶして食べるんです、毒じゃありませんよ、と諭すように丁寧に教えてくれた。

そう値段の高いものでもなかったので、早速買って帰って、言われたとおりに調理してみたら、見るからに繊維質の多い、酸味の強い、赤いきれいな色のジャムができた。独特の風味で、悪い味ではなかったが、何しろ大皿いっぱいできてしまい、そんなに一度に食べられるものでもなかったので、始末に苦労した覚えがある。後で聞いたら、ヨーグルトに入れたり、パンに塗ったり、パイに入れたりして食べるものだそうだ。大黄(だいおう)という漢方薬と同じ種類で、独特の風味はそのせいらしいのだが、お通じにきくそうで、食べ過ぎると副作用もあるようだ。

一つ不思議なのは、あの時こちらの質問に親切に答えてくれた老婦人が、なぜ「毒じゃありませんよ」とわざわざ真剣な顔をして付け加えてくれたのか、ということだった。しきりと首をかしげていたら、私のドイツ語力の低さを哀れむように、さる同僚が教えてくれた。それはお前が、「どうやって食べるのですか」という質問に、essenを使ったからだ。そういう場合はgenießenを使うものだ。essenできるかどうかとは、食べ物かそうでないか(つまり毒か)ということであり、genießenできるかどうかとは、おいしく食べられるかどうかということになるのだと。同じ「食べられる」でも、essbarとgenießbarの違いもそこだ。

こう教えられて私はすっかり恐縮してしまった。あの善意の老婦人に、私はとんでもない心配をかけてしまったのではあるまいか。

最近はドイツのスーパーマーケットでルバーブを見かけない。ドイツでもあまり食べられなくなったのだろうか。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


リンゴ狩り(2)

2011年 2月 28日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(111)

ドイツでリンゴ狩りに行き、好物のリンゴに囲まれて食べ放題、しかも初めて見る種類のリンゴばかり、と言うことになると、だんだん贅沢になり、一口二口初めての種類を味見すると、大して痛みもなくポイと木の根元に捨てるようになる。誰しもそうなると見えて、どの木の下も囓った後のついたリンゴが山になっている。あれは肥料にしたり馬の餌になったりで、無駄にはならないのだそうだが。

一般に果物は、もぎたてだと不思議な冷たさがあって、しかも酸味が強い。独特の風味や甘みは、収穫後しばらく置いておかないと出てこない。木からもぎ取っては味見をしていくと、「ガラ」だろうが「エルスター」だろうが「コックス・オレンジ」だろうが、みんな「紅玉」のような酸味の強い味がして、よく区別がつかない。一口囓っちゃポイ捨てに拍車がかかる。

結局体中から甘酸っぱい湯気が立つような気持ちになるほどリンゴを食べて、その上ねこ車Schubkarreに山盛り買って帰った。

果樹園の方も商魂たくましく、リンゴ狩りに疲れた客に、ちょっと休める場所を用意して、コーヒーやお菓子(もちろんホームメイドhausgemachtのリンゴ・ケーキApfelkuchen)も売る。季節の飾り付け用のカボチャKürbisも並べる。

驚いたのは、売っていたのがその果樹園に滞在中のフランス人の親子だったことだ。父親はもちろん、十二歳の息子も上手にドイツ語を話す。ヨーロッパの農家の間には、国籍や言語の壁を越えた地縁的結合があり、農繁期には人手を融通し合うほか、子供を預け合って、意識的にバイリンガルに育てるという話を聞いたことがあったが、現実に見たのはあれが初めてだった。それでも息子の方は客あしらいをしながら、思わずケーキKuchenをフランス語で「ガトー」と言ってしまったりするのだが、私のようなたちの悪い日本人にからかわれても、顔を赤らめてどぎまぎしながら、真剣にドイツ語で仕事を続けようとしていた。物見遊山ではないのだ。悪いことをした。リンゴ狩りで浮かれすぎた。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


リンゴ狩り(1)

2011年 2月 21日 月曜日 筆者: 石井 正人

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(110)

リンゴ狩りやイチゴ狩りはドイツでも楽しいレジャーで、selbst pflücken というような言い方をするらしい。

我が家はリンゴ好きで、毎年秋になるとリンゴの季節が到来するのを待ちかね、「千秋」を買い、「秋映」を買い、「シナノゴールド」を買って助走し、ようやく「フジ」が出回るようになると、青森や長野の農協からネットで箱買いをする。たまに「王林」も楽しむが、歯ごたえがあって酸味の強い味の濃いものが好きなので、ドイツのリンゴは一家でとても気に入っていた。どこのスーパーマーケットでも「デリシャス」と並んでよく見かけた緑色の「グラニー・スミス」が特にお気に入りだったが、ただしあれはアメリカ産だったようだ。

数年前一家でドイツにいた折りに、新聞のチラシの小さな記事で、近郊の果樹園でリンゴ狩りをやらせてくれることを知り、週末に勇躍出かけていった。
収穫しやすいように人の背丈ほどに刈り揃えたリンゴの木が文字通りたわわに実を付け、整然と間隔を開けて遠くまで並んでいる。一畝ごとに違う種類が植えられていて、名札がついていた。あれで10種類もあっただろうか。驚いたのは、日本にもある「ジョナゴールド」以外、一つも知った名前がないことだった。「ガラ」「エルスター」「コックス・オレンジ」「ブレバーン」「ピノファ」……後でドイツ人の友人に聞いたら、どれも古くからある銘柄だそうだ。さすがにこちらが本場だから、リンゴの品種改良の歴史は長く、種類も多くて、今では作られなくなった中には、「ビスマルク候Fürst Bismarck」とか「枢密顧問官Geheimratオルデンブルク博士」とか「フォン・ハンマーシュタイン大臣Minister」とか「ルードルフ皇子Prinz Rudolf」などというリンゴもあったという。

いったいどんな味がしたのだろうか。どんな味の違いがあったのだろうか。


【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


耳の文化と目の文化(26)―正書法を乱すもの(2)―

2011年 2月 14日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(109)

ドイツ語の正書法を乱すものとして他には外来語がある。外国語にはドイツ語にない音の語や同じアルファベットで書かれていても読み方、発音が異なる語がある。

Restaurant [rɛstorã:]「レストラン」やToilette [toalɛtə]「トイレ」はフランス語からの外来語であるが、綴りも発音も原語のままである。au はドイツ語の正書法では [au] の音を表しているが、[o] と発音し、rant は [rant] ではなく、鼻母音のまま [rã:] である。また、oi もドイツ語正書法では [oi] と読むところであるが、[oa] と発音される。

Friseur [frizø:ɐ]「美容師」もフランス語からの外来語である。eu はドイツ語では [ɔy] の音を表すが、原語のままに [ø:] と読まれる。しかし、[ø:] はドイツ語にもある音であり、ドイツ語では ö と表記するので、Frisör と綴ることも認められている。また、Büro [byro:]「事務所」もフランス語の bureau から来ており、発音は強勢が後にあるなどフランス語のままであるが、表記は完全にドイツ語化している。

Streik [ʃtraik]「ストライキ」は英語の strike [straik] から来ているが、語頭の st を [ʃt] と発音し、英語の i [ai] を ei と表記し、語尾の e を省略して、完全にドイツ語化している。

Café [kafe:]「喫茶店」(フランス語)、Cello [tʃɛlo]「チェロ」(イタリア語)、Computer [kɔnpju:tɐ](英語)は原語の書法と発音が保持されている。c はドイツ語では使われないから、これらは外来語であることがすぐわかる。

Violine [vIoli:nə]「ヴァイオリン」(イタリア語)、privat [priva:t]「私的な」(ラテン語)などのv、また、Journalist [ɜUrnalIst]「ジャーナリスト」(フランス語)、Job [dɜɔp]「アルバイト」(英語)などのjはドイツ語の正書法ではそれぞれ [f], [j]の音を表すが、これらも原語の音が保持されている。

Chaos [ka:os]「混沌」(ギリシア語)、Chef [ʃɛf]「主任」(フランス語)、Couch [kautʃ]「寝椅子」(英語)などのchはドイツ語では [ç, x]の音を表すが、これらは原語の音をほぼ保持している。また、Philosophie [filozofi:]「哲学」、Thema [te:ma]「テーマ」、Rhythmus [rYtmUs]「リズム」などはギリシア語であり、ph, th, rh は本来、気音を伴った p, t, r であるが、ドイツ語では [f, t, r] となっている。ただ、表記はギリシア語のままである。しかし、Mikrophon [mikrofo:n]「マイク」などの -phon は Mikrofon のように f で書いてもよく、Telephon [telefo:n]「電話」は古形であり、Telefon と書くとされる。また、Panther [pantɐ]「豹」、Thunfisch [tu:nfIʃ] 「マグロ」は Panter, Tunfisch と書いてもいい。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


耳の文化と目の文化(25)―正書法を乱すもの(1)―

2011年 2月 7日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(108)

これまで見てきたドイツ語正書法は現代ドイツ語を文字によって体系的に表そうとする規則の集まりである。その意味で、不統一があるにしても、規則と呼ぶことができる。しかし、これをさらに乱すもののひとつに歴史的綴りがある。ドイツ語に限らず、あらゆる言語は時代とともに絶えず変化するものであるから、発音も変化する。しかし、文字表記されたものは長い間、慣れ親しんでいるから、発音を表しているというよりは表語的なものと感じられ、それを変えるのはどうしても抵抗感が生じる。

例えば、[f]はfで表すのが普通だが、Vater「父親」、vier「4」、von「…の」、Frevel「不法行為」などの語ではvで表されている。これらは中世以来の書法を守っているのである。また、現代語のSchnee「雪」、schlafen「眠っている」、schmal「細い」などは中世語ではsnê, slâfen, smalであり、語頭のsは[s]であったが、その後[ʃ]に変化したために表記もschと変わった。ただ、語頭のsp, stだけは発音の変化にも関わらず、中世語のままsprechen「話す」、Stein「石」などと書かれる。

現代語は[i:]をieと書くことがあるのも歴史的綴りである。中世語では bieten「提供する」、 lied「歌」などは文字通り[biətən], [liət]と発音されていた。これらの語は近世になって[bi:tən], [li:t]と発音されるようになったが、綴りはそのまま残ったために、ieのeは長音記号と解釈されるようになった。これによって、中世語のligen「横たわっている」、siben「7」などの本来eがなかった語も現代語ではliegen, siebenのように綴られるようになった。

中世語ではsehen「見る」、zehen「10」などの語のアクセントのないeはしばしば脱落して、[se:n], [tse:n]と発音されたので、その結果、hは長音記号と解釈されるようになった。これによって、中世語gên「行く」、stên「立っている」などの本来hのない語も現代語ではgehen, stehenなどと綴られるようになった。また、Aal「ウナギ」、Meer「海」、Boot「船」のように、長音の[a:], [e:], [o:]をaa, ee, ooと表記するのも歴史的綴りである。

現代語では二重母音の[ai], [ɔy]をei, euと表記するが、これも歴史的綴りである。ただ、ふつう[ɔy]はeuと書くだけで、oiと綴ることはないが、[ai]は Kaiser「皇帝」、Mai「五月」のようにaiと書く語もあるから不統一である。

これらの不統一が残っている原因として種々のことが考えられるが、ひとつは同音異義語の区別に使えることである:Wagen「車」-Waagen「秤(複数形)」、leeren「空にする」-lehren「教える」、Moor「泥地」-Mohr「ムーア人」、Saite「弦」― Seite「側」。


【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
専門は言語学、ドイツ語学
『クラウン独和辞典第4版』編修委員


【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。


« 前のページ次のページ »