シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから― 第二回: フィールドワークの旅支度① ―ドキュメント―

2017年 5月 12日 金曜日 筆者: 大石 侑香

第二回: フィールドワークの旅支度① ―ドキュメント―


ハンティ-マンシイスクの街並み

 近年では以前と比べてロシアビザを入手しやすくなっていますが、まだまだロシアでは日本人がバックパッカーのように航空券だけ購入してふらりと自由な旅行ができるわけではありません。旅行者にとって少々不自由な制度があります。例えば、入国前のビザの取得だけでなく、入国前に宿泊先のバウチャーを入手したり、滞在先を移動したらその都度郵便局で滞在登録をしたりせねばなりません。さらに、私のような外国人がシベリアの僻地で長期間の単独調査を行うには、パスポートとロシアビザだけでなく、現地の研究機関や地方行政府で用意してもらう調査許可書といった書類(=ドキュメント)が必要になってきます。

 実際に田舎で単独調査を行っていると、当然ですが怪しまれてしまい、警察官だけでなく役人、一般の人々にもパスポートの提示を求められることが何度もありました。このとき、パスポートとビザだけでなく他にも公的なドキュメントを所持しているとより信用されます。今回はフィールドワークを行うのに意外と重要で、かつ入手がたいへんなドキュメントについてお話しします。

 私の場合、西シベリアを研究する日本人研究者が少なかったため、研究機関とのコネクションづくりから始めねばなりませんでした。研究機関とは大学や研究所、博物館、少数民族団体などのことです。日本からたどたどしいロシア語で手当たり次第に現地のさまざまな研究機関に電話をして、外国人である私に研究員の身分を与えてロシア国内で比較的自由に調査を行えるよう、ビザを入手するために必要な招待状を与えて、調査許可書を作成してくれる研究機関を探しました。しかし、最初の数か月間はなかなかよい返事がもらえず、断られたり、たらい回しにされたりしてしまい、調査に行ける目処がまったく立たずに次第に落ち込んでいきました。

 いつまでも受入研究機関が見つからないので、思い切ってロシア語で当時所属していた大学のサインが入った要請書や推薦書等のオフィシャルレターや研究計画書を作成し、国立ユグラ大学のある教授と国立自然と人博物館の所長あてに一方的に郵送してみたところ、これがなぜか上手くいき、その後担当者とのやりとりができるようになりました。そして、どうにか招待状を入手し、第一関門であるビザを取得することができました。

 ビザだけでも結構な根気がいりましたが、私が初めて現地調査へ向かったときには、研究機関があるハンティ-マンシイスクという町に到着した後も、調査許可書と研究員契約書、納税証明書等のドキュメント入手とビザの延長のためにさらに一か月以上も足止めをされてしまいました。すぐにでも調査地に行きたいという気持ちもあり、とても焦っていましたが、ドキュメントの手続きのために行政窓口へ行く度に、担当者不在や受付時間外等の理由で、「明日来い」と言われることが何日も続いたので、もう急ぐのは諦めて、町にいるあいだにも何か学ぶことはあるだろう、ここでは『待つのも仕事』だ、と考え直し、町でしばらく情報収集を行う方向に転換しました。図書館で資料収集するだけでなく、テレビや新聞の取材を受けたり、地元の学生たちと交流したり、博物館のセミナーを受けたり、町に住むハンティたちにハンティ語を教えてもらったりしていました。


ハンティ-マンシイスクの芸術学校で生徒たちと交流する筆者

 ここでたくさんの人々と交流したおかげで、広大な森のどこにあるかも分からなかったハンティの集落についての情報を得ることができました。森でのホームステイ先探しも、最初は全くあてがありませんでしたが、この町で会ったハンティたちの親戚を通してきっかけをつかむことができました。この過程もフィールドワークの一部だったのだろうと今では思っています。

ハンティ語紹介

 Вуща! ヴーシャ!「こんにちは!」

 ハンティ語のあいさつです。出会ったときに互いにこの言葉をかけあいます。森の中でクマに出会ったときもこのようにあいさつします。

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◆この連載の目次は⇒「シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから―」目次へ

【筆者プロフィール】

■大石侑香(おおいし・ゆか)
東北大学東北アジア研究センター・日本学術振興会特別研究員PD。修士(社会人類学)。2010年から西シベリアの森林地帯での現地調査を始め、北方少数民族・ハンティを対象に生業文化とその変容について研究を行っている。共著『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会)など。

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【編集部から】

第二回の今回はフィールドワークをする「まで」の、意外に重要・意外に入手困難なドキュメントの話です。研究目的であれば問題なくドキュメントを揃えてくれるものだと思きや、実際には手に入れるまでにさまざまな苦労があるのですね。『待つのも仕事』という発想の転換が結果的にはその後の調査に役に立ったようですが、どのような状況でも前向きに対処する気の持ち方が、フィールドワークをする上で必要不可欠なのかもしれません。旅支度の話はまだ続きます。次回をお楽しみに。


シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて
―文化人類学のフィールドワークから― 第一回 はじめに

2017年 4月 14日 金曜日 筆者: 大石 侑香

第一回:はじめに


トナカイ牧夫の奥さんたちと筆者

 私は現在、東北大学東北アジア研究センターで文化人類学を研究しています。文化人類学とは、世界のさまざまな文化を理解し、人類社会・文化の多様性と普遍性について研究する学問で、この学問の特徴的な研究方法にフィールドワークがあります。自分と異なる文化を内側から深く理解するために、民族集団の中に実際に長期間滞在して調査をします。

 ロシア連邦内西シベリア地方の北方少数民族のひとつであるハンティ人(以下、ハンティ)を研究対象に選び、2011年から2012年の間、2015年の秋、2016年の春・秋と通算11か月程度の現地調査を行いました。


ハンティ-マンシ自治管区とヤマロ-ネネツ自治管区の位置(クリックで拡大)

 シベリアには約40の少数民族がおり、ハンティもそのひとつで、西シベリアのオビ川【注1】中流域とその支流域に約3万人が暮らしています。固有言語であるハンティ語【注2】を持っており、現在でも年配の方を主として半分以上がハンティ語を理解し話しますが、ソ連時代に学校教育でロシア語を学ぶようになったため、ロシア語も普及しています。都市部で生活する者は三分の一程度であり、その他の三分の二は人口10人以下~2000人程度の集落や村で定住生活をするか、森の中でトナカイを飼育しながら天幕(テント)に住み移動生活をしています。小さな集落や森においても、完全な自給自足ではありませんが、漁撈(ぎょろう)【注3】や狩猟、採集、トナカイ牧畜を複合的に営んで生活しています。

 なぜシベリアの北方少数民族を調査対象に選んだのかというと、それは私が生まれ育った環境と関係しています。私は静岡県の中山間地域の出身で、祖父は樵(きこり)でした。彼は山を所有する地主の所で働き、祖母はその家に奉公に出ていました。そこで二人は知り合ったようです。林業は第二次世界大戦後から1960年代までは非常に活気のある産業でしたが、木材輸入の自由化以降、急激に衰えていきました。林業従事者とその家族が村から去っていき、過疎化が進み村の社会構造が変化しました。そして、樵たちも生き方を変えていきました。

 私はそうしたことを見たり聞いたりしながら育ち、次第に自然環境から食料等を生産する人々の社会や文化が、世界的な政治経済の動きの影響を受けてどのように変化するのか、ということに興味を持つようになりました。さらに、より急激で大規模な変化であったソ連の崩壊とそれに伴う国家体制転換の影響を現地の人々はどのように受け止めて、自らの暮らしを変えているのだろうかという興味に発展し、大学院に進学してシベリアの北方少数民族を対象に研究を始めました。しかし、実際にフィールドワークを行ってハンティたちと過ごすうちに、そうした社会・文化変容への興味以上に、圧倒的な広大で厳しい自然の中で暮らす彼らの生活や生業技術そのものにより魅かれていきました。そこには、ハンティたちの奥深い自然観や知恵がありました。

 そうした経緯を経て、現在ではトナカイ牧畜や漁撈といった生業を中心に研究を行っています。次回から私のフィールドワーク体験について書いていきたいと思います。


いろいろな模様のトナカイ

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  1. オビ川
    ロシア連邦,西シベリアを北流して北極海のオビ湾に注ぐ大河。アルタイ山脈に源を発し,西シベリア低地を貫流する。冬季は結氷。長さ3680キロメートル。(『大辞林 第三版』「オビ」)
  2. ハンティ語
    ウラル語族、フィン・ウゴル語派、ウゴル諸語の中のオビ・ウゴル諸語に属する。(『言語学大辞典』)
  3. 魚介類や海藻などをとること。また,その作業。(『大辞林 第三版』)。漁業が産業としての経済活動を指すのに対して、漁撈は魚を獲る行為そのものを指す。

◆この連載の目次は⇒「シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから―」目次へ

【筆者プロフィール】

■大石侑香(おおいし・ゆか)
東北大学東北アジア研究センター・日本学術振興会特別研究員PD。修士(社会人類学)。2010年から西シベリアの森林地帯での現地調査を始め、北方少数民族・ハンティを対象に生業文化とその変容について研究を行っている。共著『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会)など。

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【編集部から】

文化人類学を研究している大石侑香先生の連載がスタートしました。第一回では先生が研究対象にしているロシア連邦西シベリアに住むハンティ達の概要、そしてなぜこの地域に興味を持ったのかを紹介しています。次回はフィールドワークを開始するまでの話です。


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