人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(最終回)

2012年 5月 17日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

では、「巫琴」ちゃんの出生届の受理を求めた家事審判は、結局どうなったのでしょう。東京家庭裁判所は、平成23年9月21日、この不服申立を却下しました。審判文を見てみましょう。

本件では,本件不受理処分後に,申立人が,新たな出生届を東京都北区長に提出し,これが受理されたことが認められる。そうすると,本件のように,既に出生届を受理されたものについて,その名を変更するにあたっては,戸籍法上の名の変更によることは格別,受理された出生届に代えて別の出生届を提出することはできないから,本件申立ては申立ての利益を欠き,不適法である。よって,その余の点について判断するまでもなく,本件申立ては不適法であることが明らかであるので,これを却下することとし,主文のとおり審判する。

「法第107条の2の潜脱」とまでは言っていないものの、全くの門前払いです。「巫」が「常用平易」かどうか判断すらすることなく、東京家庭裁判所は、北区長の意見書を、全面的に受け入れたわけです。

この審判に納得のいかなかった「巫琴」ちゃんの両親は、平成23年10月6日、東京高等裁判所に即時抗告[平成23年(ラ)第2003号]をおこないました。しかし、東京高等裁判所も原審を支持し、平成23年11月7日、両親の抗告を退けました。「巫」が「常用平易」かどうか判断するまでもなく、別の漢字で出生届を出し直してしまった場合は、出生届の不受理処分に対する不服申立すらできない、ということを、裁判所みずからが認めた形になってしまったわけです。

このような形で、「巫」が「常用平易」かどうかの判断を、東京家庭裁判所も東京高等裁判所も、回避することにしました。ただ、それもいたしかたないところは、あるのです。もし、「巫」が「常用平易」だと高等裁判所が判断した場合、法務省は、また戸籍法施行規則を改正して、「巫」を人名用漢字に追加しなければならなくなります。一方、「巫」が「常用平易」ではないと高等裁判所が判断した場合、今後、法務省は「巫」を人名用漢字に追加したくても追加できません。どちらにしろ、影響がかなり大きいので、おいそれと「常用平易」かどうか判断を示すわけには行かなくなってきているのです。

ただ、それならば、と筆者は思ってしまうのです。「巫空」ちゃん(第1回参照)の場合のように、つい、うっかり出生届を受理してしまう戸籍窓口が、もっと全国にあってもいいのではないか。出生届が受理されて戸籍に載りさえすれば、たとえ人名用漢字に含まれていない漢字でも、子供の名づけに使えてしまいます。そういう「うっかり」の多い自治体は、子供が少なくなっている昨今、それはそれで町おこしになるのでは、と思うのです。もちろん、そういう戸籍窓口に対しては、法務局からの指導も、さらには法務省からの査察も入るでしょうから、自治体にとってはイバラの道でしょう。でも、そういう「うっかり」の多い自治体が増えてくれることを、筆者としては願ってやまないのです。

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

「人名用漢字の新字旧字」(関連書籍:『新しい常用漢字と人名用漢字』)の特別編「『巫』は常用平易か」は今回で終了します。
来週からは、一時休止していた「タイプライターに魅せられた男たち」を毎週木曜日午前に掲載します。


人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第4回)

2012年 5月 10日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第4回)

平成12年5月23日、愛知県佐屋町のとある夫婦のもとに、男の子が誕生しました。両親は、子供に「矜持」と名づけ、6月3日、佐屋町役場に出生届を提出しました。しかし佐屋町役場は、この出生届を受理しませんでした。「矜」が、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむをえず両親は、「矜持」を「協持」に変えて、6月5日、出生届を再提出しました。さらに6月28日、両親は名古屋家庭裁判所に不服申立[平成12年(家)第1826号]をおこないました。子供の名づけを制限するのは憲法違反なので、「矜持」と名づけた出生届を佐屋町長に受理させるか、さもなくば子供の名を「協持」から「矜持」に改名させてほしい、と申し立てたのです。

この申立に対し佐屋町長は、子の名を「協持」とする出生届がすでに受理されているので、新たな出生届を受理しなおすことなどできない、と主張しました。また、「協持」から「矜持」への改名についても、「矜」は常用漢字でも人名用漢字でもないので許すべきではない、という意見でした。そういう形で名の変更を許すと、子供の名づけに使える漢字を制限している意味がなくなる、というのです。佐屋町長の意見を受けて、名古屋家庭裁判所は、平成12年9月29日、両親の申立を棄却しました。子供の名づけに使える漢字を制限しているのは憲法違反ではないし、また、子供の名を変更する「正当な事由」があるとは認められない、というのが棄却理由でした。この審判に納得のいかなかった両親は、平成12年10月6日、即時抗告をおこないました。「矜持」ちゃんの改名に関する争いの場は、名古屋高等裁判所の抗告審[平成12年(ラ)第282号]に移りました。

平成13年2月16日、名古屋高等裁判所は、両親の即時抗告を棄却しました。一旦「協持」と命名された以上、これを変更するには「正当な事由」が必要だが、本件に関しては「正当な事由」がないので、「協持」という名をいかなる名に変更するかにかかわらず、名の変更は認められない、というのが名古屋高等裁判所の結論でした。「矜」が人名用漢字であろうがなかろうが関係なく、「協持」という名を変更するためには、以下に示すような「正当な事由」がなければならない、というのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

この決定に対し、両親は、平成13年2月23日、憲法違反を理由として、最高裁判所に特別抗告[平成13年(ク)第250号]をおこないました。しかし、最高裁判所第一小法廷は平成13年6月25日、子供の名づけを制限するのは憲法違反ではない、として両親の申立を退けました。こうして「矜持」ちゃんは、戸籍上は「協持」ちゃんとして生きていくことになったのです。

最終回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
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編集部から

全5回の予定で「人名用漢字の新字旧字」の特別編を木曜日に掲載いたします。
好評発売中の単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もお引き立てのほどよろしくお願いいたします。
「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載中です。


人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第3回)

2012年 5月 3日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第3回)

さて、「巫琴」ちゃんの出生届を受理するよう求めた不服申立[東京家庭裁判所平成23年(家)第7488号]に対して、東京都北区長は全面的に争う構えを見せました。北区長が東京家庭裁判所に提出した意見書を見てみましょう。

申立人は,平成23年7月25日に提出した出生届を同月20日に提出した出生届と差し替えた上で,当該出生届を受理するよう求める本件不服申立てをしている。しかし,一度受理された出生届の子の名を変更するためには,正当な事由を備えていることにより家庭裁判所の許可を得た名の変更届(法第107条の2)によるべきであって,受理された出生届の子の名を別の名に差し替える届出を認めることは,法第107条の2の潜脱であり,許されない。

「法第107条の2の潜脱」って、何だか意味がよくわかりませんね。この部分を読み解くためには、戸籍法に関わる家事審判について、多少、理解が必要になります。平成19年5月11日改正(平成20年5月1日施行)の戸籍法第121条は、出生届の不受理に対する不服申立について、以下のように規定しています。

第百二十一条    戸籍事件(第百二十四条に規定する請求に係るものを除く。)について、市町村長の処分を不当とする者は、家庭裁判所に不服の申立てをすることができる。

「巫琴」ちゃんの両親は、北区長の処分(出生届の不受理)に対して不服があったので、この戸籍法第121条にしたがって、東京家庭裁判所に不服申立をおこなったわけです。一方、戸籍法第107条の2には、以下の規定があります。

第百七条の二    正当な事由によって名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。

北区役所としては、とりあえず別の漢字で出生届を受理してしまったのだから、それを「巫琴」に変更するのなら、戸籍法第121条じゃなくて、戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更として申し立てるべきだ、という主張なわけです。それを北区長は「法第107条の2の潜脱」と称しているわけです。一見もっともな主張に見えますね。でも、そこには落とし穴があるのです。戸籍法第107条の2の冒頭にある「正当な事由」という部分です。

戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更許可を申し立てる場合には、「正当な事由」が必要となります。そして、裁判所が現時点で認めている「正当な事由」は、おおまかには、以下の7つなのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

端的に言えば北区長は、東京家庭裁判所が名の変更を認めないだろう、という点も見越した上で、あえて「法第107条の2の潜脱」を主張しました。その背後には、平成12年に起こったある事件があったのです。

第4回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第2回)

2012年 4月 26日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第2回)

それでは家庭裁判所が、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字を、戸籍法第50条で言うところの「常用平易」だと認めた例は、あるのでしょうか。実は「穹」が、その一例なのです。(『民事月報』平成20年5月号141~172頁)

平成18年のこと、大阪市都島区のとある夫婦のもとに、男の子が誕生しました。両親は、子供の名に「穹」を含む出生届を提出しようとしたのですが、都島区役所は、この出生届を受理しませんでした。当時「穹」は、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむを得ず両親は、「名未定」とした出生届を提出し、都島区役所は「名未定」の出生届を受理しました。その上で両親は、大阪家庭裁判所に不服申立[平成18年(家)第7444号]をおこないました。子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう都島区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

平成19年4月10日、大阪家庭裁判所は両親の主張を認め、都島区長に対して、子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう命令しました。「穹」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字であり、これを人名用漢字に収録していない戸籍法施行規則の方がおかしい、と審判したのです。ところがこの審判に対し、都島区長は即時抗告しました。大阪家庭裁判所の審判には納得がいかないので、高等裁判所に判断してほしい、ということです。「穹」が常用平易かどうか、争いの場は大阪高等裁判所の抗告審[平成19年(ラ)第486号]に移りました。

平成20年3月18日、大阪高等裁判所は都島区長の抗告を棄却し、あらためて都島区長に対して、子供の名に「穹」を含む出生届を受理するよう命令しました。「穹」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字であり、これを人名用漢字に収録していない戸籍法施行規則の方がおかしい、と判示したのです。確かに「穹」は、常用漢字の「窮」より平易なのは間違いありません。また、「蒼穹」や「天穹」などの熟語に用いられていて、しかもJIS X 0213の第2水準漢字でもあるので、「穹」は常用されていると考えられる、というのが大阪高等裁判所の判断でした。両親の全面勝訴です。大阪高等裁判所の決定を受けて、都島区役所は、子供の名に「穹」を含む出生届を受理しました。

この大阪高等裁判所の決定に対し、法務省民事局は、「曽」を子供の名づけに認めた最高裁判所決定[平成15年(許)第37号]と整合性を保っていない、というコメントを『民事月報』平成20年9月号に発表しました。少なくとも、第2水準漢字が「常用」されているという論理はおかしいし、実際、第2水準漢字3390字のうち人名用漢字は190字しかない、と指摘したのです。しかし、そう言いながらも法務省は、平成21年4月30日、「穹」と「祷」を人名用漢字に追加しました。大阪高等裁判所の決定にしたがって、戸籍法施行規則を改正したのです。

第3回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「巫」は常用平易か(第1回)

2012年 4月 19日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

「巫」は常用平易か(第1回)

平成23年5月11日、北海道中頓別町のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「巫空」と名づけ、中頓別町役場に出生届を提出しました。中頓別町役場は、この出生届を受理し、戸籍に「巫空」ちゃんを登載しました。ところがその後、中頓別町役場は、ある間違いに気づきました。「巫」は常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけには使えなかったのです。「巫空」ちゃんの出生届は、本来、受理できないものだったのです。しかし、いったん受理してしまった出生届は、もちろんそれはそれで有効なものです。そこで中頓別町役場は、両親に戸籍訂正をお願いすることにしました。「巫空」ちゃんの名を、別の名に訂正してもらうよう、お願いすることにしたのです。

平成23年7月19日、東京都北区のとある夫婦のもとに、女の子が誕生しました。両親は、子供に「巫琴」と名づけ、7月20日、北区役所に出生届を提出しました。しかし北区役所は、この出生届を受理しませんでした。「巫」が、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむをえず両親は、「巫」を別の常用漢字に変えて、7月25日、出生届を再提出しました。さらに7月29日、両親は東京家庭裁判所に不服申立[平成23年(家)第7488号]をおこないました。「巫」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字なので、「巫琴」と名づけた出生届を受理するよう東京都北区長に命令してほしい、と申し立てたのです。

さて、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字、というのは、どういうものなのでしょう。戸籍法第50条は、子供の名づけに使える文字を、以下のように規定しています。

第五十条    子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
2    常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。

戸籍法施行規則第60条では、子供の名づけに使える文字を、以下のように制限しています。

第六十条    戸籍法第五十条第二項の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。
   常用漢字表(平成二十二年内閣告示第二号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
   別表第二に掲げる漢字
   片仮名又は平仮名(変体仮名を除く。)

つまり、法律である戸籍法が「常用平易」という大枠を決めて、法務省令の戸籍法施行規則が、それを常用漢字と「別表第二に掲げる漢字」(人名用漢字)に制限している、という二段構えになっています。

しかも、この二段構えには、実は隙間があります。「常用平易」であるにもかかわらず、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字、というものが存在し得るのです。それはつまり、常用漢字でも人名用漢字でもない漢字であっても、戸籍法に沿って「常用平易」であると認められれば、子供の名づけに使ってよい、ということになるわけです。そして、「常用平易」かどうかを判断するのは、区役所や町役場の戸籍窓口ではなく、家庭裁判所の仕事なのです。

第2回につづく)

筆者プロフィール

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
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人名用漢字の新字旧字:「湿」と「溼」

2011年 7月 28日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第91回 「湿」と「

091shitsu-old.png新字の「湿」は、常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。つまり、新字の「湿」は出生届に書いてOKですが、旧字の「」はダメ。こうなってしまった原因には、俗字の「濕」の存在があるのです。

大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。陸軍では、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この二級漢字の中に、新字の「湿」が含まれていました。

漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されていました。しかし、この2528字には、新字の「湿」も旧字の「」も含まれていませんでした。その代わり、俗字の「濕」が、標準漢字表には収録されていました。国語審議会は、戦後もこの方針を貫き、昭和21年11月5日に答申した当用漢字表でも、俗字の「濕」を収録していました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、俗字の「濕」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、俗字の「濕」が収録されていたので、「濕」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。この時点で、新字の「湿」も旧字の「」も、出生届に書いてはいけない字となってしまったのです。

当用漢字字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。活字字体整理案では、俗字の「濕」を新字の「湿」に整理することが提案されていました。これを受けて、国語審議会が昭和23年6月1日に答申した当用漢字字体表では、俗字の「濕」の代わりに、新字の「湿」が収録されたのです。

昭和24年4月28日に、当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「湿」が当用漢字となり、俗字の「濕」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある俗字の「濕」と、当用漢字字体表にある新字の「湿」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、俗字の「濕」も新字の「湿」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。 しかし、旧字の「」は、相変わらず子供の名づけには使えなかったのです。

その後、常用漢字表の時代になって、新字の「湿」が常用漢字になると同時に、俗字の「濕」も人名用漢字になりました。でも旧字の「」は、常用漢字にも人名用漢字にもなれませんでした。それが現在も続いていて、「湿」と「濕」は出生届に書いてOKですが、「」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

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人名用漢字の新字旧字:「栖」と「棲」

2011年 7月 14日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第90回 「栖」と「棲」

新字の「栖」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「棲」も人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。つまり、「栖」も「棲」も出生届に書いてOK。実は「栖」と「棲」の新旧については議論があるのですが、ここではあえて「棲」を旧字、「栖」を新字と呼ぶことにしましょう。

昭和21年11月16日に内閣告示された当用漢字表には、新字の「栖」も、旧字の「棲」も、含まれていませんでした。昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が当用漢字表1850字に制限された結果、「栖」も「棲」も子供の名づけに使えなくなりました。

昭和53年1月1日に制定された漢字コード規格JIS C 6226では、旧字の「棲」が第1水準漢字に収録されていました。上村一夫の『同棲時代』や、南こうせつとかぐや姫の『神田川』に代表されるように、昭和40年代の終わりには「同棲」という言葉は、使用頻度の高い単語となっていました。それがJIS C 6226の制定作業にも影響を及ぼし、「棲」が第1水準に入れられたのです。また、新字の「栖」も第1水準漢字に収録されていました。JIS C 6226は、都道府県名と当時の市町村名を全て第1水準漢字に含めることを目指していたので、佐賀県鳥栖市や茨城県神栖町の「栖」は第1水準に入れられたのです。

しかし、昭和56年10月1日に内閣告示された常用漢字表には、新字の「栖」も、旧字の「棲」も、含まれていませんでした。国語審議会は「栖」も「棲」も、日本で常用される漢字だとはみなさなかったのです。その結果「栖」も「棲」も、子供の名づけに使えるようにはなりませんでした。

平成12年12月8日、国語審議会は表外漢字字体表を答申しました。表外漢字字体表は、常用漢字(および当時の人名用漢字)以外のよく使われる漢字に対して、印刷に用いる字体のよりどころを示したもので、1022字の印刷標準字体が収録されていました。この中に、「栖」と「棲」が両方とも含まれていました。「栖」と「棲」は異体字の関係にあるが、既に別字意識が生じているので、これらを両方とも印刷に用いてよい、と国語審議会は判断したのです。

法制審議会のもと平成16年3月26日に発足した人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。新字の「栖」は、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区は無かったものの、漢字出現頻度数調査の結果が361回で、JIS X 0213の第1水準漢字だったので、人名用漢字の追加候補となりました。一方、旧字の「棲」は、やはり出生届を拒否された管区は無かったものの、出現頻度が1030回で、JIS X 0213の第1水準漢字だったので、人名用漢字の追加候補となりました。

平成16年6月11日、人名用漢字部会は、578字の追加案を公開しました。この578字の中に、新字の「栖」と旧字の「棲」が両方含まれていました。「莱」と「のケースと違って、人名用漢字部会は、「栖」と「棲」をまとめるようなことはしませんでした。平成16年9月8日、法制審議会は人名用漢字の追加候補488字を答申し、9月27日の戸籍法施行規則改正で、これら488字は全て人名用漢字に追加されました。この結果、新字の「栖」と旧字の「棲」は、両方とも人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、「栖」も「棲」も出生届に書いてOKなのです。

【筆者プロフィール】

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人名用漢字の新字旧字:「父」と「父」

2011年 6月 30日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第89回 「父」と「

089chichi-old.png新字の「父」は、常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「」(右図参照)は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「」と新字の「父」の違いは、4画目の筆押さえの有無なのですが、出生届に書いてOKなのは新字の「父」だけなのです。

昭和21年11月16日に官報告示された当用漢字表には、旧字の「」が収録されていました。官報の印刷をおこなっていた印刷局の活字が、そういう字体だったのです。昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字1850字に制限されました。旧字の「」は当用漢字に含まれていたので、出生届に書いてOKですが、新字の「父」は出生届に書けなくなってしまったのです。

一方、国語審議会は、昭和23年6月1日、当用漢字字体表を答申しました。当用漢字字体表は、当用漢字1850字の全字体を手書きで示したもので、「父」の筆押さえは無くなっていました。新字の「父」になっていたのです。昭和24年4月28日に、この当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「父」が当用漢字となり、旧字の「」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある旧字の「」と、当用漢字字体表にある新字の「父」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「」も新字の「父」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。

昭和52年1月21日、国語審議会は新漢字表試案を発表します。新漢字表試案は、当用漢字に83字を追加し33字を削除する案で、新字の「父」を含む1900字を収録していました。ところが、昭和54年3月30日に中間答申した常用漢字表案で、国語審議会は妙なことを言い始めます。常用漢字表案には新字の「父」が収録されていたのですが、新字の「父」の字体は単なる例であって、明朝体活字のデザイン上、筆押さえが有っても無くてもかまわない、と言い始めたのです。つまり、新字の「父」(筆押さえが無い)であっても、旧字の「」(筆押さえが有る)であっても、国語審議会としてはどちらでも常用漢字とみなしてかまわない、と言い始めたのです。昭和56年3月23日に答申した常用漢字表1945字においても、国語審議会の態度は同様でした。

困ったのは、子供の名づけに使える漢字を審議していた民事行政審議会です。新字の「父」と旧字の「」の両方を子供の名づけに認めるのか、それともどちらか片方だけにするのか。結局、昭和56年5月14日の民事行政審議会答申では、新字の「父」だけを認める、という結論が示されました。明朝体活字デザイン上の差であるとしても、常用漢字表に現実に掲載されているのは、新字の「父」です。その状態で、新字の「父」と旧字の「」の両方を認め続けると、戸籍事務処理上、少なからぬ支障をきたす、というのが民事行政審議会の判断でした。

この結果、昭和56年10月1日の常用漢字表内閣告示と同時に、旧字の「」は子供の名づけに使えなくなりました。それが現在も続いていて、新字の「父」は出生届に書いてOKですが、旧字の「」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。


人名用漢字の新字旧字:「隷」と「隸」

2011年 6月 16日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第88回 「隷」と「隸」

新字の「隷」(左上が士)は、常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「隸」(左上が木)は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。新字の「隷」は出生届に書いてOKですが、旧字の「隸」はダメ。実は「隷」と「隸」は単なる字体差に過ぎないのですが、ここではあえて「隷」を新字、「隸」を旧字と呼ぶことにしましょう。

漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されており、旧字の「隸」が含まれていました。標準漢字表は、昭和17年12月4日に文部省から発表されたものの、しかし、一般社会における漢字制限とはならず、あくまで義務教育で習得する漢字の標準という形にしかなりませんでした。

昭和21年4月27日、国語審議会は、常用漢字表を審議していました。この常用漢字表は、標準漢字表再検討に関する主査委員会が国語審議会に提出したもので、1295字を収録していました。しかし、この1295字には、新字の「隷」も旧字の「隸」も含まれていませんでした。この常用漢字表に対し、国語審議会は5月8日の総会で、さらなる検討を要する、と判断しました。それにともない、6月4日、常用漢字に関する主査委員会が発足しました。

常用漢字に関する主査委員会は、昭和21年8月24日の委員会で、新字の「隷」と旧字の「隸」のどちらを常用漢字に収録すべきか議論しました。というのも、この時点での日本国憲法草案は、新字の「隷」と旧字の「隸」の両方を使っていたからです。具体的には、前文には旧字の「隸從」が使われていて、第18条には新字の「奴隷」が使われていました。主査委員会は、日本国憲法に必要な漢字は全て常用漢字に収録しておくべきだ、と考えていたのです。しかし、新字の「隷」と旧字の「隸」のどちらを常用漢字に加えるかは、この日の委員会では結論が出ず、帝国議会での日本国憲法草案の審議を待つことになりました。

果たせるかな、昭和21年11月3日に公布された日本国憲法は、前文も第18条も新字の「隷」になっていました。これに合わせ、11月5日に国語審議会が答申した当用漢字表は、手書きのガリ版刷りだったものの、新字の「隷」を収録していました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「隷」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、新字の「隷」が収録されていたので、「隷」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。旧字の「隸」は子供の名づけに使えなくなりました。その後、常用漢字表の時代になって、新字の「隷」は常用漢字になりましたが、旧字の「隸」は人名用漢字になれませんでした。それが現在も続いていて、新字の「隷」は子供の名づけに使ってOKですが、旧字の「隸」はダメなのです。


【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。


人名用漢字の新字旧字:「肇」と「肇」

2011年 6月 2日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第87回 「肇」と「

087hajime-old.png先月の5月25日で、人名用漢字は60歳になりました。そう、60年前の昭和26年5月25日、人名用漢字別表92字が内閣告示されたのです。この92字の中に、旧字の「」(左上が)が含まれていました。この日から、旧字の「」が、子供の名づけに使えるようになったのです。

実は、その11日前の昭和26年5月14日に、国語審議会は人名漢字に関する建議を発表していました。国語審議会は、子供の名づけに使える漢字を92字ふやすべく、この建議を発表したのです。この92字に含まれていたのは、しかし、旧字の「」(左上が)ではなく、新字の「肇」(左上が戸)でした。これに対し、5月25日に内閣告示された人名用漢字別表では、新字の「肇」ではなく、旧字の「」が官報に掲載されていました。国語審議会の意図とは微妙に異なり、旧字の「」が人名用漢字になってしまったのです。しかも、その後の官報でも、人名用漢字別表は訂正されなかったことから、旧字の「」が使い続けられることになりました。

ところが、昭和32年2月22日に琉球政府が告示した人名用漢字表92字には、新字の「肇」が収録されていました。沖縄では子供の名づけに新字の「肇」が使えるのに、本土では旧字の「」しか使えない、という不思議な事態になってしまったのです。しかし、この事態も、昭和47年5月15日に沖縄が日本に復帰した結果、旧字の「」に一本化されました。

昭和54年1月25日に発足した民事行政審議会では、旧字の「」が問題となりました。国語審議会が審議中の常用漢字表案では、たとえば「啓」が新字体になっているのに、人名用漢字の「」が旧字体ではおかしい、というのです。この問題をめぐって、民事行政審議会はモメました。選択肢の一つは、「啓・」と「肇・」に関して、新字・旧字の両方を子供の名づけに認める、という案でした。もう一つの選択肢は、「啓」と「肇」の新字だけを認める、という案でした。

昭和56年3月23日、国語審議会が常用漢字表を答申するに至って、民事行政審議会は結論を迫られました。そして、4月22日の総会で、民事行政審議会は、「啓」と「肇」の新字だけを子供の名づけに認める、と決定したのです。この結果、5月14日の民事行政審議会答申では、新字の「啓」と「肇」は子供の名づけに使ってよいが、旧字の「」と「」はダメ、となったのです。

昭和56年10月1日、常用漢字表が内閣告示されると同時に、戸籍法施行規則も改正されました。この際、民事行政審議会答申にしたがって、新字の「肇」が人名用漢字に追加され、旧字の「」は人名用漢字から削除されました。それが現在も続いていて、新字の「肇」は出生届に書いてOKですが、旧字の「」はダメなのです。旧字の「」は、昭和26年5月25日から昭和56年9月30日まで子供の名づけに使えた、幻の人名用漢字なのです。


【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。
京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal で、断続的に「日記」を更新中。


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