図鑑は愉しい! 第9回 だから図鑑はやめられない

2015年 6月 5日 金曜日 筆者: 小須田健

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第9回の執筆者は、『哲学大図鑑』『心理学大図鑑』『経済学大図鑑』の翻訳を手がけた小須田健さんです。

だから図鑑はやめられない

 だれしも、その幼年期において図鑑類との幸福な出会いの経験をおもちなのだろう。その具体例については、これまでの連載で多くのかたが語っておられるので、屋上屋を重ねることは控えたい。代わりに、入門書の形式として図鑑を用いるというスタイルについて、このシリーズの何冊かの翻訳に携わった者として若干の感想を述べたい。

 最初にお話をいただいたのは、『哲学大図鑑』であった。これは自分の専門でもあり、入門書の類いならこれまでに何冊もかかわった経験もあったために、まずは不安感が先にたった。哲学とは基本的に抽象的な概念を駆使していとなまれる議論の集積だ。そこに、図鑑というスタイルで表現できるような具体的な内容がどれだけあるのかと訝しがらずにはおれなかったのだ。

 だが、思想的背景を示す年表がどの思想家にもつけられ、さらに図解することで理解が容易になりそうな主題にかぎって各哲学者を紹介するという大胆な手法によって、それぞれの項目が読みものとしておもしろくなると同時にほかの項目へ自由に飛んでゆけるような配慮がなされていて、これはなかなかみごとな手法だと一読して感心させられた。

 つぎにお話をいただいたのが、『心理学大図鑑』であった。心理学はじつは学部生のときに専攻していたこともあって、ある程度の知識はあるつもりでいた。だが、日進月歩の分野でもあり、専門家のご協力が不可欠だろうということで、池田健先生に用語監修をお願いした。これによって、多くの過ちを免れることができた。内容的には、認知心理学や社会心理学系統の最近の展開をあつかっている部分にとりわけ関心をそそられる知見が多く採りあげられていて、読みものとしては前作以上に興味深いものであった。個人的にも、かつて心理学を専攻していた時分にはまったく興味のいだけなかった実験心理学のおもしろさを教えていただけたことには感謝している。図表の卓抜さが前作以上に秀逸であった点もみごとであった。担当させていただいた三冊のなかでは、もっとも事典らしさの発揮された秀逸な一冊であったと思う。

 この二冊を担当していただいたのが、当時三省堂の編集部におられた松本さんであった。非常に年季を重ねたベテランの編集者であられた松本さんには、この二冊の翻訳をとおしてとても多くのことを教えていただいた。その点については、いくら感謝してもしたりない。本来であれば、この時点でこの仕事は終わる予定であった。ところが、松本さんがちょうど定年を迎える年に重なり、最初の『哲学大図鑑』が望外の好評だったこともあって、あともう一冊だけこのタッグでやってもらえないかということで、最後に回ってきたのが『経済学大図鑑』であった。

 だが、これにかんしては本当に躊躇した。なにしろまったくの専門外であり、ずぶの素人以下の知識しかない分野だ。専門家の先生にご協力いただくのは当然としても、そもそも専門家に見ていただけるだけの訳文をつくれるかどうかさえ躊躇せざるをえない状況であった。結果的に、松本さんの熱意におされてお引きうけしたが、案の定これが一番の難産となった。内容については、没にされた後書きの第一校の一部を抜粋させていただきたい。

この仕事にとりかかったのは、ちょうど安部政権が誕生し、アベノミクスなる新しい景気対策が打ちだされるようだという話が世間を賑わせていたころでした。そのときなによりも驚いたのは、そのような計画があるらしいというだけで株価が上向きに転じたというニュースを見たことでした。じっさいになんらかの政策が実行されて、その成果が認められた結果として、経済が上向いたのであれば、腑に落ちます。しかるに、具体的な見とおしとすら言えないニュースの醸しだす期待感だけで、こうも変動するとは、とあらためて経済、そしてそれをあつかう経済学なるいとなみへの疑念が頭をもたげました。

この不信感は、本書を訳したことでどう変わったのでしょうか。なにかが変わったような気もしますが、あいかわらずいかがわしさは拭いされません。私が専攻している哲学は、言うまでもなく、なんの実体的裏づけもないままに頭のなかで展開された思想をあれこれする虚学の筆頭ですが、じつは経済学もあまり大差がないのではというのが現在の正直な気もちです。

 この箇所は、経済学を批判しているように読めてしまうという理由で、松本さんにダメだしを喰らった部分だ。だが、経済学というそれまで未知であった分野にたいする正直な感想がこれであった。おカネというなによりも具体的なものをあつかっているはずでありながら、逆にこれほどまで実体の不透明な学問も珍しいのではないかというのが、いまもっても変わらない正直な感想だ。だが、図鑑形式で説明されることで、かなりわかりやすく整理された本書をつうじて経済学のイロハに触れられたのは得がたい経験であった。いまもこの日本では、経済成長ということばを旗印にすることでどんな無茶でも罷りとおりかねない非常に危うい政治がつづいているように思われる。たしかに、経済成長や景気回復は私たちの生活を左右する根本事ではあろうが、原発事故の傷あともほとんど癒えていないといういま私たちの置かれている状況から眼をそらしてはならないだろう。経済というものにたいする適切な距離感を教えてくれる本書は、ぜひ多くのかたに手にとっていただければと思っている。

 後半図鑑の愉しみとは無縁な話に終始してしまったが、こんな感想をもってしまったのも、このシリーズが図鑑というスタイルをとることで、読みやすさを優先した稀有なものであったからこそだ。だから図鑑はやめられない。

 

【筆者プロフィール】

小須田健(こすだ・けん)
1964年神奈川県生まれ。中央大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、中央大学、東京情報大学ほか講師。専攻は現代哲学・倫理学。著書に『日本一わかりやすい哲学の教科書』『図解世界の哲学・思想』、訳書に『哲学大図鑑』『心理学大図鑑』『経済学大図鑑』など。

*

◆→今年1月から半年にわたり、リレー連載という形で9名の方に図鑑の愉しさを語っていただきました。小須田先生の「だから図鑑はやめられない」という言葉とともに、本連載はいったん終了いたしますが、三省堂は今後も、さまざまな「図鑑」を刊行していきます。8月・10月には、初学者向けの図鑑新シリーズ『10代からの心理学図鑑』『10代からの哲学図鑑』の刊行を予定。ぜひ手にとっていただいて、読者のみなさまそれぞれの、「図鑑は愉しい!」を発見してください。【編集部】

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第8回 知の原風景

2015年 5月 15日 金曜日 筆者: 柳下恭平

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第8回の執筆者は、校正・校閲の鴎来堂/かもめブックス代表の柳下恭平さんです。

知の原風景

 僕は、絵本よりも図鑑を好む子どもだったそうで、昆虫や魚、そして人体組織の図鑑を、文字通り座右としていたようです。要素としての絵は、小さな子どもにとっては文字よりも圧倒的に多い情報量で、それを1ルクスも見逃すまいと目を開き、背がほどけてしまうまで繰り返し、夢中になって読んだそうです。子どもの集中力は実に偉大です。ひらがなを知るようになっても、それは続きました。

 たとえばその中で「外側側副靱帯」という言葉を知りました。腓骨と呼ばれる膝から足首までの骨と大腿骨を繋ぐ靱帯の名称です。この全く非日常な語彙も、「がいそくそくふくじんたい」という言葉の響きが、幼心に愉しくて、小さな僕は意味も分からず、歌うように口にしていたようです。

 僕にとって、図鑑を読むことが知るということの始まりで、読書という体験の入り口だったのです。

 たとえば、近い将来、現実が未来に追いついて、マシンたちが単純な労働から僕たちを解放してくれるような世界になったとしましょう。その日を生きる僕たちは、きっと今よりも、もっとリアルタイムに、そしてシームレスに、必要な知識をいつでもクラウドから取り出せるようになります。学生の本分というものが変容するくらいに、暗記という行為もなくなってしまうのかもしれません。

 しかし人間は、そのような日が来ても、本能的に知識を蓄えてしまうし、知るという喜びを放棄することができないのではないかなと、僕は思うのです。なぜなら、生きるということを極論すれば、ただただ「ひとりで、あるいは誰かと、食事をして、寝る」という、ひたすらにこの繰り返しなのですが、この文章を読む僕たちはそれを信じません。人生の営みというものが、もっと豊かなものだと知っているからです。知ること、そしてそれを誰かと分かち合うことがない人生は、空っぽなんだと知っているからです。

 記憶された知識を体系化したり、自分以外の人には無価値に近い知識を蒐集してしまうこと、その個々のアイデアは、ミルクに細かにうかんでいる脂油の球のように引きつけあって、セレンディピティよろしく、大きな独立した別のインスピレーションを生み出します。これが中毒性のある創造の喜びとともに、僕たちの知性をノックするのです。強く。

(残念ながら「外側側副靱帯」が、僕の人生で役に立ったことは一度もありませんけれども!)

 子どもにとって自尊心と向上心は同義であり、ページをめくる毎に、さっきよりも立派になった自分を発見して、誇らしい気分になっていきます。

 久しぶりの親許にて、彼の日に読んだ本に再会したとき、その無残な姿に驚くことがありますね。小さい頃には、背がボロボロになっていることさえ気がつきませんでした。それほどに夢中になって読んでいたのでしょう。

 知性の原風景は図鑑の中にあります。

 図鑑の背が崩れていくほどに、内なる王国は果てしなく広がり、その外壁は強固になっていくのです。

 

【筆者プロフィール】

柳下恭平(やなした・きょうへい)
1976年生まれ。言葉について思考しながら世界を放浪し、帰国後は校閲者となる。28歳のときに校正・校閲を専門とする会社、株式会社鴎来堂(おうらいどう)を立ち上げ、よりよい本を作るためにゲラを読み続ける。ご近所の本屋の閉店をきっかけに、2014年末に「かもめブックス」を開店。店主として店にも立つ。

*

◆→第9回の執筆者は、『哲学大図鑑』などの翻訳者で哲学者の小須田健さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第7回 図鑑はロマンだ!

2015年 4月 17日 金曜日 筆者: 原島康晴

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第7回の執筆者は、出版社エディマン主宰の原島康晴さんです。

図鑑はロマンだ!

 図鑑を読むことの愉しみ——その一つにはまちがいなく「ロマン」とも呼ぶべきものがあります。

 多くの人は、幼少のころ「恐竜図鑑」や「昆虫図鑑」「鉄道図鑑」を目にした経験があるでしょう。カブトムシが好きな男の子は、「昆虫図鑑」にカブトムシの項目を見つけだし、そこに収められた世界中のさまざまなサイズ、色、かたちの異なるカブトムシの写真やリアルなイラストに心をときめかせた経験があると思います。どのカブトムシが最強か、なんて空想しながら、友だちと議論を交わしたことがある人もいるかもしれません。

 その空想を豊かなものにするのに役立ったのが、写真やイラストに添えられた具体的な情報だったのではないでしょうか。例えば世界最大のカブトムシと称されるヘラクレスオオカブトのおもな生息地域は中央アメリカから南アメリカで、それはそれは長い上角と下角をもちます。一方アジア地域には、マレーシアやインドネシア地方に生息するコーカサスオオカブトがいます。こちらは左右から2本の長く湾曲した角が生え中央にそれと同等くらいの長さの角が生えていて、いかにも強そうです。ヘラクレスオオカブトとの空想上の決闘の相手としてコーカサスオオカブトを挙げたことがある人もきっといることと思います。

 そのような子は、長じて図鑑に添えられた写真やイラストを模写したり、トレースするようになることでしょう。色鉛筆で彩色し、名前を見出しのように大きく書き、特徴などを余白に埋めていく……。その作業はまさに図鑑のなぞり書きにほかならず、紙面構成まで思いのままに表現できる遊びであり、完成したときには本物の昆虫を捕まえた以上の喜びまで得ることができる、場合さえあったかもしれません。

 これはもちろんカブトムシに限ったものではなく、「星座」「海の生き物」「宇宙」「恐竜」「鉄道」など現実世界のものから、「ポケモン」「妖怪ウォッチ」などキャラクターものまで、子ども心をくすぐるあらゆる図鑑において得られる感動です。

 

 このような再現不可能に思える感動的作業と似た体験を、人間は一生のうちに何度でも繰り返すことができるのかもしれません。世を見渡せば、この国ではおとなたちに向けたたくさんの図鑑が発行されていたことを知ります。ミクロな元素や人体、アパートや間取り、城や刀など少年時代のロマンをかき立てるもの、大学や職業、料理や恋愛など実用的なもの、女子アナなどをタイトルにつけた風変わりな種類の図鑑も散見されます。殺傷能力のある草木をテーマにした図鑑にあかるければ、推理小説を読むたのしみももより豊かなものとなるでしょう。

 しかし、上述したような幼少時代の図鑑的体験は、なにも図鑑だけに収まるものではないのかもしれません。たとえば海外旅行のガイドブックです。世界には、この目で見てみたいと思わせる風景があります。カンボジアのアンコールワットに興味をもったならば、何度もそのページに見入り、そこに至るルートや旅程を想像します。その国の主要言語から文化圏を、貨幣価値から経済状況を、交通インフラから歴史や発展度合いを推測し、最低限度の言語的表現とお金を用意して旅立つ。

 旅をしているあいだ、ガイドブックはパスポートと同等の重要性をもち、ガイドブックに従ってホテルやゲストハウスを探し出し、必要ならば両替所におもむき、それぞれの経済状況に応じた食堂で食事を楽しむ。ガイドブックに掲載された日常会話表現で現地の人びとと交流しながら、異なる表現方法を獲得した経験をしたことがある人もいるかもしれません。時にはガイドブックに掲載されていたホテルや食堂が見つからないといった体験をしたこともあることと思います。が、この一連の過程にはまさに少年時代に図鑑をトレースしたような愉しみが凝縮されているように思えます。

 

 かように図鑑のロマンの系譜は意外と出口が広いのかもしれませんが、三省堂の『大辞林』の「図鑑」の項には以下のようなシンプルな記述があります。「図鑑:図や写真を中心にして事物を系統的に解説した書物。「植物——」」。

 三省堂から刊行されている大図鑑シリーズは、この辞書の記述を本という形にしたらこうなりました、とでも言うべき体裁になっています。いまさらながら自己紹介的な文章を差し挟むのも気が引けるのですが、ぼくが編集を担当した『政治学大図鑑』(2014年刊)は、紀元前800年から現在に至るまで、洋の東西偏りなく世界中の政治(思想・哲学)者102名を見出し項目としています。それぞれに関連年表がつき、主著や名フレーズに支えられ、参照項目(人物)が指し示されています。写真図版も気が利いています。なんと『自由論』の著者ジョン・ステュアート・ミルの項では、パリのゲイ・プライド・パーティの写真が使用されているのですから大胆です。この安定感と大胆さこそが、本シリーズのいちばんの魅力のように思います。

 

【筆者プロフィール】

原島康晴(はらしま・やすはる)
1973年生まれ。
書籍の編集とブックデザインを手がける。三省堂『政治学大図鑑』『経営学大図鑑』の編集・制作に参画。
また、小出版社エディマンを主宰。近刊に、稲葉剛『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』、書肆マコンド『ガルシア・マルケスひとつ話』などがある。
http://edimantokyo.com

*

◆→次回第8回の執筆者は、校正・校閲の鴎来堂/かもめブックス代表の柳下恭平さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第6回 図鑑の旅――『えほん百科』から『宗教学大図鑑』まで

2015年 4月 3日 金曜日 筆者: 中村圭志

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第6回の執筆者は、宗教学者・翻訳家の中村圭志さんです。

図鑑の旅――『えほん百科』から『宗教学大図鑑』まで

 図鑑類で子供時代にもっていたものとしては、平凡社の『えほん百科』が忘れられない。1968年刊。小学5年生のころである。これは大型だが薄い全12巻の子供用百科事典で、巻末の大人向け解説を除いて全ページカラー、しかも写真はいっさいなく、挿絵画家が描いた絵ばかりという野心的なシリーズであった。見開き2ページを単位として、「アイヌ」「アジア」「いぬ」「うちゅう」と、何でも載っている。イラストも写実的なものから概念図的なものまで、全ページ大のテーマ画から枠囲みの詳細図まで項目に合わせてさまざまだ。とうの昔にどこかに行ってしまい、古本屋にもないので、お見せできないのが残念だ。

 私は写真では味わえない絵ならではの楽しみというのを、『えほん百科』で知ったように思う。図鑑類にとっては、写真よりも手書きの挿画のほうが望ましいことが多い。情報の要点をかっちり示せるからだ。最近の子供向け図鑑類には写真ばかりのものが多いようだが、美的にも情報的にも、イラストレーターが腕をふるった図版にはかなわないのではないだろうか。

 子供時代にお世話になった図鑑としては、他に小学館の『交通の図鑑』や『植物の図鑑』などがある。『交通の図鑑』(初版1956年)は何よりもお気に入りだったが、今手元にあるのを見ると(あとで古本屋で見つけて買ったものだ)、未来の交通を描いたパノラマ図には、なんと、原子力飛行機がびゅんびゅん飛んでいる! この時代の人々は、飛行機が墜落したらどうなると考えていたのだろうか(他に「ライル・ボースト氏設計X号」という原子力機関車もあった!)。

 図鑑や百科事典の類も、もちろん教科書や一般向け啓蒙書も、時代の論理や知識の限界があることはどうしようもない。絵なんかでバッチリ印象的に描いている図鑑は、そうした「時代性」もバッチリ証言してくれる?!……というのは、まあ、怪我の功名みたいな話である。

 高校のころ、学校の理科室に「理學博士牧野富太郎著」の『日本植物圖鑑』があって、これが何か聖書か四書五経のように有難い感じがした。植物学に興味があったわけではないのだが、ぐちゃっと詰めこんで書いてあって、しかも旧漢字旧カナ、挿画が白黒でシブかったのだ。これも後に古本屋で手に入れた(初版1940年)。図鑑に限らず、百科事典でも国語辞典でも、森羅万象をコンパクトにまとめたものというのは、どこか聖典めいていることも確かだ。とくにそれがシブい出来の場合、お線香でも上げたくなるのである。

『三省堂図解ライブラリー シェイクスピア劇場』 大人になってからも、宇宙大地図とか、ファッション図鑑とか、東洋建築図譜とか、ときおりページをめくって楽しく眺めている。お気に入りは小田島雄志氏の解説のある『三省堂図解ライブラリー シェイクスピア劇場』である(1995年刊)。往時のグローブ座の構造がよくわかって楽しい。子役俳優の一日みたいなものまで書かれている。ジャニーズより大変そうだ。……そんなふうに、お気楽な読み方をするのである。

 自分の専門分野ではないものについて、概括的なイメージを得るには、やはり絵や写真のあるものが便利である。絵本を眺めている子供とたいしてちがわないが、私自身は、どのような情報も、デジタルな部分だけではなくて、アナログな、直観的で概括的なものというのが大事じゃないかと思っている。私の専門は宗教学で、宗教に興味のない方々に世界の諸宗教について大雑把に知っていただくための本などを書いているが、できればぜんぶイラストや写真や地図で埋めてしまいたいくらいだ。

 もちろん専門的な知識のためにも図鑑や図典は重要である。宗教学関係で私がときおり眺めているのは、仏像仏画を解説した本だ。たとえば曼荼羅の線画を採録した大法輪閣の『曼荼羅図典』なるものがある(図は染川英輔画伯による。1997年刊)。この本を開くと、胎蔵曼荼羅にはかわいらしい兎が描かれているなんて発見もある(いわゆる「月の兎」の元型イメージである)。考えてみれば、曼荼羅というもの自体が、悟りの中に表象された森羅万象を諸尊でイラストレートした一種図鑑めいた宇宙なのだ。

 このたび三省堂で刊行される『宗教学大図鑑』では、私は共同で監修役を務めさせていただいたのだが、これがおもしろのは、修行風景や教団の建造物などの写真ばかりでなく、概念図のようなものがたくさん採り入れられていることだ。三位一体とか、仏教の八正道とか、宗教には概念のセットのようなものが多いが、そういった公式的なものに加え、どういう感情がどういう思考を生んで、結局どんな信念や儀礼を生み出したのか、執筆者が哲学的に整理した思考の流れを描いたフローチャートが、あちこちに入り込んでいる。写真や具象画とは対極にあるが、これもまた図鑑を眺める楽しみである。

 

【筆者プロフィール】

『知の教科書 カバラー』『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』中村圭志(なかむら・けいし)
1958年生まれ。
北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
翻訳家・文筆家(宗教学)。
著書:『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』(中公新書、2014)他。
訳書:P・ギラー『知の教科書 カバラー』(講談社選書メチエ、2014)他。

 

*

◆→次回第7回の執筆者は、出版社エディマン代表の原島康晴さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第5回 図鑑の思い出

2015年 3月 20日 金曜日 筆者: 福澤いづみ

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第5回の執筆者は、三省堂書店で人文書を担当されている、福澤いづみさんです。

図鑑の思い出

 物心ついて最初に覚えている記憶は、春の暖かな日差しが差し込む縁側で、家にあった百科事典を眺めている風景である。

 秋や夏ではなかったと思う。投げ出した足の上に重たい本を広げて、一心不乱にそこに載る写真や絵に見入っていた。

 縁側なので、そこから小さな庭が見えるのだが、縁の下からちょろちょろととかげが這い出てきて、それらを「なんだろう」と思いながら、百科事典のなかの「爬虫類の図鑑」としてまとまっていた一冊を眺めていたのである。

 その縁側は、自分にとってちょうど良い読書スペースだったようで、その後の記憶も大概そこで図鑑を広げていた。同じ百科事典の中の「西洋美術図鑑」であったり、「化石・恐竜の図鑑」であったり。

 たぶん、そのシリーズはその頃の一般家庭でステイタス的にそろえるようになった、某出版社の百科事典全集のようなものだったのだろう。しかし「百科事典」なので、書棚に入っている頭の方は「あ行」「か行」といった具合に、事典らしく言葉の順番にあらゆる事象をまとめていたものであるが、字が読めない子どもにとっては面白味はなく、そのシリーズの別巻のようになっていた「○○の図鑑」と分かれている巻をいろいろと眺めていたのである。

 子ども向けの学習図鑑を手に取るよりも前に、大人が読む(もしくはそろえる)図鑑を手にして、そこに繰り広げられる博物学的な知識を眺めることがとにかく好きであった。文字が読めないのだから、それが何であるかは理解できていないが、それでもそういう生き物や絵画の作品などを楽しむことで、世の中にはそういったものがあるのだと理解することと、それはなんだろうと空想する力も培われたと思う。

 その後、小学校に入学するあたりからは子ども向けの学習図鑑を買い与えられ、文字と写真や絵などが同時に視覚に入ってくることで、抵抗なく文字も覚えられるようになったと思っている。これはやはり写真や図が入っている図鑑を眺めていることで、子どもながらに文字の学習と言葉の学習が同時にできていったからだろう。実のところ、そこまでの記憶がしっかりあるわけではないが、小学校ではとにかく「本が好き」というキャラクターができあがっていたので、とにかく本ばかり読んでいたことは確かだ。

 三省堂さんの『サイン・シンボル大図鑑』が発売になる前に、展開方法についてご相談をいただいた時に、やはり「図鑑」なので図版を大きく見せる展開ができればと思い、当時勤務していた店舗のエスカレーターの壁面を使い、気に入った図版を大きく引き伸ばしていただいて、パネル展を展開させていただくことができた。「図鑑」の楽しさはそこに載る図版を眺めることで知識がつくことでもある。特に『サイン・シンボル大図鑑』は、私の中では、現実と創造がうまく交わる一冊であった。

 ちなみに「本」の一番好きなところは、現実の知識を得る為の方法であると同時に、創造・想像の余地があるところである。特に小説などフィクションは、文字だけで描かれる世界を自分の脳内での変換によりどれだけ視覚的に創造・想像できるかが醍醐味だと考えている。

 だが『サイン・シンボル大図鑑』で掲載されている内容は、現実の知識とそこから創造・想像されるものが、図版としてダイレクトにリンクして知識が入ってくる。「なぜ、こんな想像をした人がいるのだろう?」「この創造はどこから生まれたのだろう?」といった「なぜ?」という原初的な知識欲を満たすことができるのである。

 最近は、科学的な知識の図鑑が流行っているが、こちらも「想像」しかなかったものが視覚的に図版としてみることができるのだ。こういった科学的知識は、最近はだれもがインターネットに簡単に接続して検索して、「図版」になったあらゆる知識を手に入れることができるようになっている。だが、私がとかげを見ながら図鑑を眺めていたように、やはり「本」の重みと文字と図版をすべて同時に感じることができる「図鑑」は、これからも「読書」の楽しみの原体験として残っていくことだろうし、残していけるようにしていきたい。

 残していくために書店人である自分にできることは、『サイン・シンボル大図鑑』で行ったパネル展のように、とにかく書店にいらした方に「図鑑」の楽しさを伝え、また普段書店に来ない方には書店に来たくなるようなアピールをさまざまな媒体でおこなうしかない。とてもアナログな方法かもしれないが、これからもそんなアナログな楽しさを提供していきたい。

 

【筆者プロフィール】

三省堂書店名古屋高島屋店イメージ福澤いづみ(ふくざわ・いづみ)
大学卒業後、本に関わりたい一心で図書館司書の資格を取り、芸術系や看護系図書館でアルバイト勤務。その後、本の中でも「生きている本」と出会いたいと思い三省堂書店に入社。小規模店舗を皮切りに、中規模店舗、大規模店舗で勤務。そして神保町本店勤務を経て、現在は名古屋髙島屋店勤務。

 

*

◆→第6回の執筆者は、翻訳家・宗教学者の中村圭志さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第4回 図鑑との再会

2015年 3月 6日 金曜日 筆者: 豊島実和

【編集部から】
図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらう好評リレー連載。第4回の執筆者は、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』の翻訳を手がけた豊島実和さんです。

図鑑との再会

 初めて図鑑を買ってもらったのは、幼稚園に通っていた頃だった。青森県弘前市の豊かな自然の中で、向かいの家の大好きなおにいちゃんたちに連れられて、毎日野原を駆け回っていた私が手に入れた図鑑は、昆虫図鑑であった。(女の子にためらわずに昆虫図鑑を買い与えた両親は、なかなか勇気があったと思う。)

カラスアゲハ その頃の私は、本当に長い時間を虫と過ごしていた。昆虫用の網で、あるいは素手で、トンボや蝶々、セミを捕まえていたことは言うまでもない。おにいちゃんたちが、ジョロウグモ(黄色と黒の縞模様が入った比較的大きな蜘蛛)を巣から取って、蜘蛛のお尻から糸を引き出し、ヨーヨー遊びをするのだと教えてくれたこともあった。カマキリは本当にかっこいいと信じていたし、殿様バッタも最高だった。山の中の水辺で糸トンボを見つけた時など、心からときめいた。そんな私にとって、昆虫図鑑は宝物だった。知らない虫を見つけるたびに図鑑を開いた。糸トンボのページは、いつまででも眺めていたいほど美しかった。あの図鑑は、家が火事になった時に一緒に燃えてしまったのだろうか。どこの出版社のものであったのかも覚えていない。それでも、その年初めての赤トンボに出会った瞬間、見事なカラスアゲハが目の前を横切った瞬間には、今もふと、あの図鑑を思い出す。

 人間が世界を認識するということは、即ち、世界を構築する様々な事物に名前を付けていく過程であるという説を聞いたとき、なるほど、と思った。そのような視点から見た場合、子供にとって、図鑑は、世界を発見していく手助けをしてくれる地図となる。知らない物の名前を全て、大人に尋ねることも可能であろう。しかし、手元に図鑑があれば、特にそれが自分にとって関心のある分野の図鑑であったならば、子供は、自分の力で少しずつ世界を発見する愉しさを経験することができる。あのワクワクする感覚を、私は今でもはっきりと覚えている。

 

 中学校、高校と進むにつれて、私の興味は、図鑑から辞書へと移っていった。挿絵や写真のあるページは特にじっくり眺めたが、文字だけでも充分に楽しかった。辞書には、知らない世界が詰まっていた。大学では英語学と言語学を専攻した。電子辞書が出回る以前のことで、教科書に加えて、紙の辞書を2冊も3冊も抱えて、千葉の自宅と東京の大学を往復した。家では『言語学大辞典』という、枕にもできないほど厚い辞典を毎日熟読して過ごした。正に、辞書が恋人だった。

 大人の辞書には、挿絵や写真はそれほど多くない。文字ばかりの世界に慣れ切っていた私に、昨年、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』という図鑑の翻訳の仕事が回ってきた。図鑑の翻訳とは何だろう、と、不思議に思った。図鑑、と聞いて、糸トンボを連想する私にとって、図鑑とは見るものであり、訳すべき文章など、ほとんどないように思えたのである。実物を見て驚いた。図や写真がふんだんに用いられており、確かに、図鑑と呼んで間違いないのだろう。しかし、読むべき文章の充実ぶりは、想像を遥かに超えていた。訳していて、引き込まれた。本当に愉しかった。

 最近、この手の図鑑が流行しつつあるのだと、出版社の方が教えてくれた。『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』はイギリスの出版社から出ているものであるが、イギリス本国でも人気があり、また、多くの国々で翻訳されているそうだ。表紙もなかなか凝っているので、インテリアとしても人気があるという。確かに、普段は飾っておいて、気が向いたときにパラパラと眺めることも、気になったページをじっくり読み込むこともできるだろう。最近の図鑑は、私の中の「図鑑」という概念を超えるものなのだと思い知った。

 初めての図鑑を開く子供は、そこに写真と名前が載っていれば、多くの場合、満足するだろう。しかし、大人になるにつれて、名前以上の情報を得たいと思うようになるはずだ。大人にとって、世界は既に単なる名前の羅列ではないからだ。名前の背後にある様々な事情を知ることで、我々は世界を理解していくのだと言えるだろう。この新種の図鑑は、そのような知識欲を充分に満たしてくれるものである。

 

 大人になった私は、もう蜘蛛のヨーヨーでは遊ばない。図鑑との縁も、一度は切れてしまっている。しかし、図鑑文化が新たな深まりを見せてくれたお陰で、あの頃とは少し違った形で、再び図鑑を愉しむことのできる時代がやって来た。これから、きっとまた、手に取るだけでワクワクするような図鑑に出会うことができるのだろう。その瞬間を想像するだけで、とても嬉しくなる。

 

【筆者プロフィール】

『グランドセンチュリー英和辞典 第3版』豊島実和(とよしま・みわ)
東京大学大学院総合文化研究科博士課程後期満期退学。現在、東京外国語大学、昭和大学ほか講師。専攻は英語学。訳書に、『政治学大図鑑』『宗教学大図鑑』(ともに三省堂)がある。『グランドセンチュリー英和辞典』編集委員も務める。

 

*

◆→次回第5回の執筆者は、三省堂書店(名古屋髙島屋店)の福澤いづみさんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第3回 翻訳家の図鑑観

2015年 2月 20日 金曜日 筆者: 柳原孝敦

【編集部から】
人はどんなときに「図鑑」を手に取るのでしょうか。調べものをするとき。既存の知識を確認するとき。暇つぶし。眠気ざまし。答えは人それぞれのようです。このリレー連載では、図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらいます。月2回、第1・第3金曜更新。第3回の執筆者は、翻訳家で東京大学准教授の柳原孝敦さんです。

翻訳家の図鑑観

 子供のころの図鑑体験で憶えているものと言えば、『恐竜図鑑』だ。今では版元なども憶えていないけれども、わが家には『恐竜図鑑』なるものがあって、幼い私はそれを見てティラノザウルスだプテラノドンだトリケラトプスだ……といった名を憶え、特徴を読んでは実際の姿を想像し、遠いジュラ紀に、白亜紀に思いを馳せていた。

 長じて私は翻訳家となった。翻訳などをやっていると、特に文学作品の翻訳などをやっていると、事典と図鑑は必携だ。辞典ではない。事典だ。いや、もちろん、辞典も必要だ。私の場合はスペイン語の辞書に日本語の辞書、それに西和辞典も必要だ。それに加え、種々の事典や図鑑が欲しいところなのだ。

 小説の生命線は情報だ。プロットではない。プロットなど、いくつかのパターンの組み合わせに過ぎない。あるパターンに過ぎないそのプロットを、似たようなプロットを持つ他のどの小説とも違って見せるために、小説家は作品に膨大な量の情報をつぎ込む。この情報こそが生命線なのだ。建築家とバレリーナの恋愛の話だとしたら、彼らが出会い、愛し合い、別れることが重要なのではない。彼らがどのように出会い、どのような愛を語り合い、どのように別れるかが問題なのだ。建築家とバレリーナの生き方や生活様式、思考、発話内容がそれらしくなければ、設定が無駄になる。主人公たちは建築家やバレリーナらしく生き、建築家やバレリーナらしい思考をし、発話をしなければならない。

 そんな小説を訳す身としては建築用語やバレエ用語に通じていなければならない。しかし、もちろん私は建築家でもバレリーナでもない。趣味でバレエを観、バレエ音楽を聴くとか、建築物巡りをし、建築雑誌を読んでいるなら幸いだが、必ずしもそうはいかない。だから事典や図鑑が必要になるのだ。建築事典や図鑑、バレエ音楽事典にバレエ図鑑(そういうものがあれば、ということだが)……などだ。それらの一分野に特化したものがなくとも、せめて百科事典は欲しいところ。

 建築、バレエなどは一作品の特殊な例としても(私の初の個人訳は実際、建築家とバレリーナの恋の話だった)、ほぼ間違いなく、どんな小説作品の翻訳にも必要になるのが動植物の事典や図鑑だ。

 小説のもうひとつの生命線は情景描写だ。それによって書き手は物語の舞台を整え、読者を物語世界内に引き込むのだから、重要だ。特に田園風景などを描写する文章には、草木の名がふんだんに出てくる。それが外国の風景となれば、馴染みのない植物の名もひとつじゃ終わらない。時にはとても珍しい植物の名が出てくる場合だってある。ふだん読む時には、和名を知らず、その姿かたちを想像できなくてもやり過ごすことはできるのだが、訳すとなるとその和名を探さなければならないから、ないがしろにはできない。大辞典に頼り、それでも見つからない場合は学名から和名を割り出すなどして、時には一日がかりの仕事になる。学名つきの事典があればとても助かる。それが図鑑ならば、実物も確かめられて、いっそう雰囲気が実感できる。

 そんな風に、翻訳家は図鑑を重宝する。しかるに、私が馴染んだ図鑑は『恐竜図鑑』なのだった。……しかしなあ、恐竜の出てくる小説というのは、さすがになかなかない。図鑑で培った知識を役立てる場が残念ながら、ない。かろうじてひとつだけあるにはあるのだが……

目を覚ましたとき、恐竜はまだそこにいた。

 世界一短い短編とも言われる(いや、ヘミングウェイがもっと短いのを書いている、という人もいる)アウグスト・モンテロッソ「恐竜」(『全集 その他の物語』〔服部綾乃・石川隆介訳、書誌山田〕所収)だ。でもここで出てくるのは「恐竜」という類名だものな。これでは図鑑の知識を発揮しようがない。まさか

目を覚ましたとき、ステゴザウルスはまだそこにいた。

と訳すわけにはいくまい。これでは「超訳」に過ぎるだろう。

 いかにも、「超訳」に過ぎる。でも書いてみて、なかなか面白いと思った。日本語話者には「ステゴザウルス」という響きは、ことさら物悲しいものに思われるかもしれない。なんたって「ステゴ」なのだから。そうなると、「恐竜」とするよりも「目を覚ました」人物の緊迫感が違う。「恐竜」ならば緊張して、死すら覚悟するだろう。観念してまたすぐに目を閉じてしまうかもしれない。ところが「ステゴ」ならば、彼または彼女は思わず相手をぎゅっと抱きしめてしまうかもしれないじゃないか……体長7メートルばかりの、背中にヒレのようなものがたくさんついた、なかなかにおぞましい見た目なのだけど。

 さらにもうひとひねり。ステゴザウルスは植物食だから、たとえばティラノザウルスに比べればはるかに安全、安心だ。こうしたことも、図鑑に親しんでいれば瞬時に判断できる。

 ……いや、そうではない。翻訳には図鑑が助けになるという話であった。

 ところで、図鑑って何だ?

 『広辞苑』による「図鑑」の定義は「写真や図を系統的に配列して、解説を加えた書物」だが、これのヨーロッパ語への翻訳はどうなるのだろう? 私が今回オビの推薦文を書いた『政治学大図鑑』の原題は The Politics Book、つまり『政治学の本』だし、『哲学大図鑑』The Philosophy Book だ。このシリーズはどうもこんなタイトルらしい。The … Book と。だが、これでは「図」の入っていない「鑑」すなわち「資料を集めた書物」(『大辞林』の定義)や普通の「本」 book とどう区別すればいいのだろう? 翻訳家としてはとても気になるのだ。

 ここは三省堂のサイトであった。まずは名にし負う『クラウン和西辞典』(重宝してます!)を引いてみようではないか。すると「図鑑」は “libro ilustrado” と出ている。つまり「イラストつきの本」だ。では(ここで少し声をひそめるのだが)白水社の『和西辞典』ではどうか? “Enciclopedia ilustrada” 「イラストつき百科事典」と少し異なっている。ちなみに、たとえば東信『植物図鑑』椎木俊介写真(青幻社、2012)には Encyclopedia of Flowers の英題がついている。(さらにもっと声をひそめて)研究社の『新和英中辞典』は “a picture book” 、“an illustrated reference book” などと説明している。どうも英語やスペイン語には日本語の「図鑑」に相当する唯一で弁別的な単語はないようだ。Book (libro) や encyclopedia (enciclopedia)、せいぜいそれにillustrated (ilustrado) という形容詞がつくくらいだ。

 つまり、「図鑑」とは「事典」や「資料集」(特にイラストつき)と考えればいいのだ。

 なるほど。実は私は「事典や図鑑」としてこれまで話してきたのだが、「事典(場合によっては図鑑)」でいいのかもしれない。ともかく、事典類(または図鑑)は、翻訳家でなくとも、多少なりとも知的な作業に従事する者にとっては欠かせない。知性とは、書斎に置く事典(や図鑑)の数である、と言ってしまいたいほどだ。

 そんな知性派が、実は大事にしているのが高校時代に参考書として使った図鑑類だ。私も今でも時々新版を買い直して持っている。帝国書院の『総合新世界史図説』や山川の『日本史総合図録』などというのを手許に置いて、折に触れて参照するのだ。

 この種のもので何と言っても参考になるのは、『国語便覧』だ。私の手許にある国語教育プロジェクト編著『ビジュアル資料 原色 シグマ 新国語便覧』増補三訂版(文英堂、2012)は特に優れものだ。「古文編」では古典のテクストに現れる草木の写真から牛車の図版と名称、烏帽子など装束の解説、百人一首全首などが楽しい。「現代編」では代表的な作家や評論家が写真入りで紹介されているし、最後には手紙の書き方なんてものまで手ほどきしてくれている。これは重宝する。

 先日、旧友、というか、かつてのガールフレンドとLINEで会話していたら、彼女の嫁いだ先が百人一首かるたの盛んな土地で、高校時代にそんなものを学んだ記憶のない自分は肩身の狭い思いをしていると嘆いていた。『国語便覧』のことを教えたら、彼女、早速注文したらしい。調子に乗って職場でそれを見せびらかしたところ、仕事仲間たちも食指を伸ばし、ついには5、6冊まとめて注文することになったとか。『国語便覧』は強いのだ。図鑑はすばらしいのだ。

 この便覧の特に「古典編」など眺めていると、夢想しないではいられないことがある。『西洋文学図鑑』みたいなものがあればいいな、ということだ。ヨーロッパの爵位とか、軍人の位階、階級章、18世紀以後の流行の服装とか、馬車、車の車種などを図入りで、できれば英・仏・独・伊・西等数カ国語の単語つきで。こんなことを夢想するのは、スペイン語からの翻訳書を読んでいると、トップハット sombrero de copa alta を山高帽 sombrero de hongo と間違えたり、シトローエンの車2cv(ドゥー・シュヴォー)を「ツーホース」と、ルノーの5(サンク)を「ルノー・ファイヴ」と訳していたりする場合が多くてうんざりするからだ。トップハットと山高帽では意味合いが違う。かぶっている人の階級や背景が違う。ルノー・サンクに乗っているという属性は、それだけで人物描写の役割を果たすのだ。図鑑でも眺めてその車や帽子のフォルムを確かめれば、そしてその由来の解説を読めば、そんなことたちどころにわかるのだけどな……

 小説の生命線は情報だ。情報を理解するには事典が、そして図鑑が必要なのだ。『西洋文学図鑑』、どなたか作ってくださらないかな?……

【筆者プロフィール】

『春の祭典』(国書刊行会)『ラテンアメリカ主義のレトリック』(エディマン/新宿書房)柳原孝敦(やなぎはら・たかあつ)
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部准教授。専攻 スペイン語文学、ラテンアメリカ文化研究。著書に『ラテンアメリカ主義のレトリック』(エディマン/新宿書房、2007)、翻訳書にアレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会、2001)(これが本文内で言う建築家とバレリーナの恋を扱った小説)など。

 

*

◆→次回第4回の執筆者は、翻訳家で英和辞典の編集委員も務める豊島実和さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第2回 図鑑の記憶

2015年 2月 6日 金曜日 筆者: 楠木建

【編集部から】
人はどんなときに「図鑑」を手に取るのでしょうか。調べものをするとき。既存の知識を確認するとき。暇つぶし。眠気ざまし。答えは人それぞれのようです。このリレー連載では、図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらいます。月2回、第1・第3金曜更新。第2回の執筆者は、経営学者で一橋大学教授の楠木建さんです。

図鑑の記憶

 小学生の頃は南アフリカ共和国のヨハネスブルグにいた。当時、その国ではテレビ放送がまだ始まっていなかった。テレビがないので本を読む。

 当然のことながら家では日本語で会話をした。学校も日本人小学校だった。近所の友達との会話や買い物では英語を使っていたはずなので、多少は喋れたと思うのだが、英語を読むことはできなかった。読む本は日本語のものに限られた。

 もちろん書店には日本の本はまったく売っていない。学校の小さな図書室にある本と日本にいる祖父母から船便で送ってもらう本が読書世界のすべてだった。

 こういう環境では「持ちのいい本」ほどありがたい。小説であれば長ければ長いほどいい。それでも数に限りがある。すぐに読み終わってしまうので、同じ本を何度も何度も読み返した。

 いちばん長持ちするのは、何と言っても図鑑だった。文字数でいう情報量は長編小説よりずっと少ないのだが、カラフルな絵と文字とその配列で想像がひろがる。いつでもどこでも寝転がって図鑑を開けば、一瞬にして想像世界へとトリップできる。動物図鑑でジャングルを体験し、地理の図鑑で世界旅行をし、戦車や軍艦の図鑑で戦争の指揮をした。

 実に不便で幸せな経験だった。

【筆者プロフィール】

『「好き嫌い」と経営』(東洋経済新報社)『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)楠木 建(くすのき・けん)
1964年東京都生まれ。一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授。著書に『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(プレジデント社)、『「好き嫌い」と経営』(東洋経済新報社)ほか多数。無類の本好きで知られ、Twitter で読書記録を公開。オフィシャルブログは、http://ameblo.jp/groovyken/

楠木建さん推薦の『経営学大図鑑』は、以下のURLへ。
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/encyc/businessA_pb/index.html

*

◆→次回第3回の執筆者は、東京大学准教授の柳原孝敦さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


図鑑は愉しい! 第1回 「見る」と「読む」が溶け合う瞬間

2015年 1月 16日 金曜日 筆者: 沢田博

【編集部から】
人はどんなときに「図鑑」を手に取るのでしょうか。調べものをするとき。既存の知識を確認するとき。暇つぶし。眠気覚まし。答えは人それぞれのようです。このリレー連載では、図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらいます。月2回、第1・第3金曜更新。第1回の執筆者は、「図書新聞」「ニューズウィーク日本版」「エスクァイア日本版」の編集長を歴任したジャーナリストの沢田博さんです。

「見る」と「読む」が溶け合う瞬間

 お手軽な電子辞書(和英)に「図鑑」と入力したら、”illustrated book”とか”picture book”と出てきたので笑ってしまった。文字を書き、文字を編集することを生業としてきた私にとって、前者は「挿絵入りの本」であり、後者は「絵本」。どちらも本(book)には違いないがジャンルは異なる。そしてどちらも、私のイメージする図鑑とは異なっていた。挿絵入りの本は「読む」もので、図鑑は「見る」もの、そして絵本はその中間の揺れる領域にある。そんなふうに思っていたのだが……。

 見る、とはいかなる行為か。

 デジカメでばちばち写真を撮る人は、いま見た光景をそのままに切り取っているつもりかもしれない。でも、いかに解像度の高いカメラで切り取った画像も近視&乱視の裸眼がとらえる光景のほんの一部でしかない。最先端の3D映像は私たちの生物的な視覚体験を誇張して見せるけれど、見たままを再現してはいない。

 カメラというツールを発明した人は、たぶん私たちの見たままを記録&再現したいと考えていた。でも結果としてカメラが与えてくれたのは、私たちが見ていない、あるいは見ようとしない光景をとらえる機会だった。試みに、カメラを地面に押しつけてシャッターを押してみるといい。そこに記録&再現されるのは地を這う虫の目に映る世界。むこうから歩いてくるニンゲンの靴は戦車のように巨大だ。そのとき私たちは、たとえばゴキブリから見たこの世界がいかに悪意と危険に満ちているかを知ることになる。

 読む、とはいかなる行為か。

 たいていの人は、文字を見る(盲人であれば点字に触れる)という行為を通じてテキストを読む。しかし、かつては文字に頼らず民族の記憶を「詠む=語る」時代があった。キリスト教以前の古代ケルト人は、実利的なものごとの記録には文字を用いたが、民族の記憶(思想や宗教)の伝承には文字を用いなかった。目で読むだけでは足りない、五感を総動員して朗誦を聞かなければ深い思いは伝わらないと知っていたからだ。

 折口信夫が小説『死者の書』(1943年、青磁社刊)によみがえらせた伝説の中将姫は経文を読み、写経を繰り返すうちに仏の姿を見、その仏と通じ、その仏の「色身の幻」を描いたつもりが曼荼羅の図になっていたとされる。それが今に伝わる當麻寺(奈良県)秘蔵の国宝「當麻曼荼羅」。読み、書き写し、書く(ときには語る)という行為の追体験を重ねるうちに、凡人には見えないはずの極楽浄土が中将姫には見えてしまった。

 ありそうなことだ。見る、読む、見る、読む。その繰り返しから一歩踏み出して書く・語るの追体験を積み重ねた先に、おのずから書く・描く行為が生まれる。中将姫ほどドラマチックではないけれど、私たちもいつの日か自分の文章が曼荼羅を結ぶと信じて書き続けている。かっこうよく言えば、それが「もの書き」の生きざまだ。

 もちろん、たいていのもの書きは曼荼羅までたどりつけない。だからフラストレーションがたまる。そんなとき、心をなごませてくれるのが図鑑だ。良質な図鑑は曼荼羅に似ている。どちらも「見る」と「読む」の果てしない反復から私たちを救い、見る体験と読む体験の溶け合った至福の瞬間(見て読んで見て、そこで思考を停止できる瞬間)を与えてくれる。

 あえて一冊の名をあげれば、私にとってはヴォルフ=ハイデガーの『人体解剖学アトラス』だ。書名は「アトラス」だが、600ページを超す立派な人体解剖図鑑である(私の手元にあるのは第4版の邦訳で、1993年に西村書店から刊行されたもの)。医者を志す人にとっては丸暗記すべき憂鬱な教科書かもしれないが、門外漢にはまさしく魅惑の人体曼荼羅。目や耳、あるいは生殖器の構造とかを見つめていると、無神論者の私でもそこに神か仏の意思(のようなもの)の介在を想定したくなる。そのうちにヒトの生殖器と植物の生殖器(雄しべ、雌しべ)の形が似ているのは神様のいたずらかなどと妄想が膨らみ、そうなると今度は精密に描かれた大判の植物図鑑で、たとえばランの花とかの形状を確かめたくなる。

 民間のシンクタンクや政府の役人が好んで使う言葉に「見える化」というのがある。目で見たり肌で感じたりしにくい社会的な問題を、コンピュータを駆使したデータ処理とグラフィックなプレゼンテーションで見えやすくする行為をさす(たとえば家庭の電力消費量をリアルタイムで、グラフ化して台所のモニターに映し出せば電力の無駄づかいが「見える化」され、節電につながる、みたいな文脈で使われる)。でも液晶モニターやパワーポイントに頼らずとも、見えにくいものごとを「見える化」するツールは昔からあった。中将姫の曼荼羅や、疲れを知らぬ職人たちが根気よく描きあげた図鑑がそうだ。

『経営学大図鑑』 ちょっと宣伝めいてしまうけれど、私にも先ごろ翻訳者として図鑑の仕事にかかわる機会があった。題して『経営学大図鑑』。図鑑と呼ぶには文字量が多すぎる気もするが、文字で説明しにくい概念やアイデアをたくさんの図で示しているから、図鑑を名乗る資格はありそうだ。原題は”The Business Book”。言うまでもないが、英語の”the Book”はキリスト教の聖書をさす。出版社が真面目だから邦訳の題名は『経営学大図鑑』になったが、個人的には「ビジネス曼荼羅」とか「現代資本主義曼荼羅」にしたかった。好き嫌いは別として、今日的な資本主義の世界観を巧みに「見える化」した本だから。

 

【筆者プロフィール】

光文社『第1感』沢田博(さわだ・ひろし)
1952年東京都生まれ。「ニューズウィーク日本版」編集顧問。翻訳家。
編著書に『ジャーナリズム翻訳入門』(バベルプレス)、『キーワードで読むジャパンタイムズニュースダイジェスト2012→2013』(ジャパンタイムズ)など。訳書にウォマックほか『リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える。』(経済界)、R・ブランソン『宙へ挑む』(アルファポリス)、M・グラッドウェル『第1感』(共訳、光文社)ほか多数。

*

◆→次回の執筆者は、経営学者で一橋大学教授の楠木建さんです。

◆「図鑑は愉しい!」の他の記事はこちらから→「図鑑は愉しい!」目次


次のページ »