モノが語る明治教育維新 第26回―双六から見えてくる東京小学校事情 (4)

2018年 7月 10日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第26回―双六から見えてくる東京小学校事情 (4)

 国が明治7年に小学校用地として、500坪以内の土地を無償で下げ渡す旨の太政官布告を出したため、各地で小学校建設は活性化しますが、その建築費や運営費の多くは寄付金に頼らざるを得ませんでした。前回ご紹介したのは、主に地元民がその費用の多くを負担した例でしたが、第24回でご紹介した「有馬学校」のように、華族が率先して多額の寄付金を出した事例も少なくはありませんでした。それに対し官からは御賞賜(ごしょうし=お褒めの物品をあたえること)があったといいます。


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 明治8年本所永倉町(現・墨田区緑町)に開校した「本所学校」の校舎建築費も、その多くが尾張徳川家16代当主・徳川義宜(よしのり)の寄付で賄われました。額は3000円【注1】といいますから、大卒相当の初任給が8円(明治13年)といわれる時代、現在の大卒初任給を20万円として価値を換算すると、7500万円もの拠出となります。さすが、殿様は太っ腹です。

 東西南北の風見を設置した塔が特徴的な校舎ですが、東京曙新聞は「本所に新式小学校」の見出しで、次のような記事を載せています。

「学校の普請は万事ともに生徒の健康を害せざるやうにと注意して、両便へは臭気抜きをも附る位にし、又校中は是非とも靴をはく掟なるにより、貧乏者の小供等には靴形の上草履を銘々に渡し……」(明治8年9月18日。『新聞集成明治編年史』より。以下の引用も同史料による)

 トイレや校舎内の環境に配慮した近代的な校舎のようです。実はこの学校には尾張徳川家の令嬢や最後の将軍・徳川慶喜の子息も通っていました(D. モルレー『学事巡視功程』)。学校は、殿様の子どもと靴を買えない貧困者の子どもが一緒に学ぶ、四民平等の新しい時代が到来したことを感じさせる象徴的存在でもあったのです。


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 明治10年に新幸町(現・港区新橋)、今の第一ホテル付近に開校した「桜田学校」は、「明治学校」同様の南京下見の2階建て木造校舎でした(ちなみに「明治学校」は青、「桜田学校」はあずき色のペンキが塗られていました)。

 『港区教育史 上巻』(東京都港区教育委員会)によれば、新校舎建設資金には地元有志3831名の寄付金、約3857円が充てられました。単純に平均すると一人約1円の寄付となりますが、寄付金目録が記された奉加帳(ほうがちょう) には有栖川宮、三条実美、島津久光、大久保利通といった宮家や元勲21人が名を連ね、そういった方々の寄付金は相応に高額でした。ちなみに大久保利通は200円と記されています。


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 同じく明治10年、九段坂上(現・千代田区富士見町)に開校した「富士見女学校」の純和風2階建て校舎の建築費については、読売新聞が「女学校建設の寄付」の見出しで下記のごとく報道しています。

「富士見町一丁目へ女学校が出来るので、同町の華族桜井忠興君より百円、山県有朋君より百円、黒田長知君より百円、中御門経之君より七十円、一番町の木戸孝允君より百円、飯田町の有馬道純と鍋島直影の両君より五十円づゝ寄付されました」(明治10年5月1日)

 寄付金の額まで新聞で公表されては少額ともいかず、華族様の出費もさぞかし大変でしたでしょうが、中には庶民でも殿様ばりの太っ腹な例もあります。


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 明治8年に深川北松代町(現・江東区亀戸)に開校した「丸山学校」は、50坪の敷地に53.5坪の建築物を建て、空き地には残らず桜を植え付け2500円の費用が掛かりました。その全額を一人の豪商・丸山伝右衛門が負担したと、東京曙新聞は伝えています。

「府下の人は各地と違って学問の何物たるを知らないの、学校の資本金を出すものがないのなんのといふことが、折々諸新聞紙に見えますが、中にはかういふ人もございます。なんと皆さん感心な咄しではございませんか」(明治8年7月23日)

 こういった奇特な行為に触発され、東京の学校建設も盛んとなっていきました。ただしこの伝右衛門さん、大きな材木問屋を営んでいましたが、明治18年に破産閉店したとのことです。

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[注1]

  1. 額は史料によって異なる場合がありますが、ここでは徳川義崇監修・徳川林政史研究所編『写真集  尾張徳川家の幕末維新』(吉川弘文館)を参照しました。

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【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

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【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。


モノが語る明治教育維新 第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)

2018年 6月 12日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第25回―双六から見えてくる東京小学校事情 (3)


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 当時、小学校が注目された理由の一つに、擬洋風建築といわれる独特な校舎の造りがありました。これは、外国人居留地などにあった西洋式建築物を日本の伝統的建築法を身につけた大工棟梁等が見て回り、見よう見まねで洋風に仕立てたものをいいます。各地にこのような目新しい建築物が完成し、それを初めて見たときの人々の驚きや興奮が今でも時を超えて伝わってきます。前回ご紹介した学校もこのスタイルですが、明治10年江東区深川に校舎が落成した「明治学校」の様子を長谷川如是閑(大正デモクラシー期を代表する思想家・明治14年に「明治学校」入学)は、次のように語っています。

 「東京につくられたのは番町、鞆絵(ともえ)、常盤(ときわ)、愛日、明治、育英の六校で、私はそのうちの『明治』に入れられた。それらの学校はいずれもその頃丸ノ内の旧大名屋敷を取り払った跡に建てられた諸官庁と同じ、その頃『南京下見』といわれた、部厚の貫板を日本家屋の下見板のように重ねて、それに青ペンキを塗った二階造りの堂々たるもので、その玄関も官庁のそれと同じ、洋風のいかめしいつくりで、その玄関と正門との間には、やはりそのころの官庁の前庭に見られたような、大きい円形の植え込みがあって、それをめぐって玄関に入るような堂々たる構えだった」(日本経済新聞社編『私の履歴書 反骨の言論人』 日本経済新聞出版社)

 「南京下見」とは外壁工法の一種で、細長い板を横向きにして並べ、上板の下端が下板の上端に少し重なるように張り合わせたものを言います。絵図を見ただけでは分からない建築法や外壁の色、優雅なアプローチの様子などが分かり、貴重な証言です。そして、子どもの目から見ても小学校が庁舎に匹敵するほど立派な建物に映っていたことが伝わってきます。

 ちょうどこの頃、文部省学監のD. モルレーが東京府下の公立学校を視察しているのですが、双六に描かれている学校へ出向くことも多々ありました。その報告書である『学事巡視功程』(明治11年)の中で、校舎については次のようなことを述べています。学制頒布の頃に建設された校舎は構造が拙く、教室は狭小、天井は低く、教室の配置も勝手が悪いため生徒の出入りに混雑し、窓が小さく光線の取り入れ方に不備など多くの問題点があった。しかしながら本年、及び前2年間(明治9~11年)に造られた校舎は、大変進歩している、と評価しているのです。見よう見まねで形ばかり真似して建てられた当初の校舎も、数年でだいぶ改善されたようです。そして、“最も貴重なる小学校舎”として第一等から第三等まで各3校ずつを選んでいるのですが、その第一等に挙げられたのがこの「明治学校」であり、ともに名を連ねているのが次の「千代田学校」なのです(ちなみに、残りの1校は泰明学校)。


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 バルコニー付きの張り出し玄関が見事な「千代田学校」は、明治10年3月に馬喰町3丁目(現・中央区日本橋馬喰町1丁目)に開校しました。9月には府立商業夜学校を仮設し、夜間にも授業を行っていました。そのためでしょうか、双六では「千代田学校」だけが夜の風景で、絵図中10校もの学校に街灯が描かれている中で、ここのガス灯にだけ灯りがともされています。

 堅牢さも感じられるような豪壮な校舎ですが、モルレーの報告書によればその規模と建築費は、建坪136坪、教室数10室、建築費3,218円で、坪単価は23円67銭と算出されています。建築に必要な費用は所在地である第一大区十二小区の29箇町が集めた寄付で賄われましたが、報告書にわざわざ坪単価を記したのは、単価の高さが建築物の立派さと比例し、そのことが地元の人たちの学校に対する意識の高さを表すと考えたからなのです。ちなみに「明治学校」の坪単価は24円13銭と「千代田学校」と比べれば若干高く、先の“最も貴重なる小学校舎”に選ばれた第一等から第三等までの平均坪単価は、第一等が約27円、第二等が約15円、第三等が約13円と、やはり高価な順に並んでいます。

 モルレーは、このように人民自らが学事に関する資金を集め、校舎の建設費や運営費を拠出するのは自分たちであるとの自負心を持つようになったことはもっとも喜ぶべきことであり、このことは政府が働きかけた結果の表れであると、文部省のご意見番らしい見解を述べています。

 「学問は身を立るの財本」を前面に押し出し、国は受益者負担の意識を国民に浸透させたかったわけですが、それがようやく実を結び始めたのがこの頃でした。地域の一二を争うような立派な校舎の裏には、地元の教育を自分たちで支えたいと願う地域住民のプライドがあったのです。

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モノが語る明治教育維新 第24回―双六から見えてくる東京小学校事情 (2)

2018年 5月 8日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第24回―双六から見えてくる東京小学校事情 (2)

 錦絵には、とかく作者の想像力の産物が含まれることがあります。第3回でご紹介した「訓童小学校教導之図」にも、当時の日本には存在しなかったシャンデリアが教室の天井を豪華に飾っているさまが描かれています。絵師が西洋画などをヒントに描き加えたことは、想像に難くないのです。

 では、「小学校教授双六」に描かれた事物には、果たしてどれ程の信ぴょう性があるのでしょうか。その目安として、「久松学校」と「有馬学校」を例に、錦絵に描かれた校舎と各学校の沿革史に掲載されている当時の写真とを比較することにより、検証してみましょう。

 まず、久松町(現・中央区日本橋久松町)にあった「久松学校」。越前勝山藩の第8代藩主であった小笠原長守の邸宅跡に、明治6年「第一大学区第一中学区第二番小学 久松学校」として開校しました。明治7年には、地元(第一大区十三小区)の有力者が寄付を集め、校舎を増築しました。図版の校舎は、増築後のものです。開校当初は生徒が70余名だったとあります。

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左:沿革史に掲載された久松学校
右:双六に描かれた久松学校

 校舎を囲む塀が、異人館(日本に来た西洋人が住んだ西洋風の家や商館)に見られるような石組みの上に木製とみられる柵を巡らせたものであるところ、平屋建ての校舎の造り、釣り鐘型の窓の形など、外観の特徴がよくとらえられています。校門左手に立つ樹木も描かれています。ただ、写真では校門右手にある国旗や標旗を掲げる白い柱が、校門左手に移動していますね。絵師の広重は、このポールを学校のシンボルとして絵図中に描き加えたかったのでしょう。また、路上にたたずむ男は巡査ですが、手には当時の警棒である三尺棒を持ち、制帽や制服には階級を表す帯(袖章)といった細かな点まで描き込んでいることが分かります。

 次に明治7年に開校した「有馬学校」は、筑後久留米藩の第11代藩主だった有馬頼咸(よりしげ) から、資金2000円、毎月60円の寄付を受けたことにより「第一大学区第一中学区第六番小学 有馬学校」と個人名が冠された校名となりました。その後、生徒増加のため明治9年に蛎殻町(現・中央区日本橋蛎殻町)に建築費6500円を投じ、建坪130坪の新校舎を建設したのですが、坪単価50円とは、巡査の初任給が4円だったことからみてもかなり立派な建物と推察されます。3階に物見のある洋風建築はかなり人目を惹いたようで、明治9年5月6日の読売新聞は、

「蛎殻町三丁目の有馬学校は何から何まで大そう立派に出来上り、三階の眺望は別段な事で多分今月九日が開校になり、定めし権知事さんもお出になりましやう」

と伝えています。ちなみに権知事とは知事に次ぐ地位で、今の副知事にあたります。

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左:沿革史に掲載された有馬学校
右:双六に描かれた有馬学校

 沿革史に掲載された写真も全景を描いた写生画なので実際がどうであったかの判別はつきませんが、中央に膨らみを持たせたバルコニーの形、釣り鐘型の開口部の左右四つは窓で中央の一つがバルコニーへの出入り口とみられるところ、頂上の塔屋が八角形である点などが、よく似ています。塔屋の屋根が、沿革史の絵では富士形であるのに対し、錦絵ではドーム形である点が違いますが、これは他に高い建物がない時代、屋根の形を確認する術がなかったのでしょう。

 三代歌川広重、通称安藤徳兵衛はこの頃、弓町十八番地、今の銀座2丁目あたりに住んでいました。久松学校や有馬学校があった日本橋は、目と鼻の先。実際にこれらの学校まで出かけ、絵師ならではの細やかな観察眼をいかし、実像に近い絵を描き上げたと考えられます。

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モノが語る明治教育維新 第23回―双六から見えてくる東京小学校事情 (1)

2018年 4月 10日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第23回―双六から見えてくる東京小学校事情 (1)

 今回から連載でご紹介するのは、開化絵で有名な三代歌川広重の作品「東京小学校教授双六」です。

文明開化は、身の回りの景色や文物を急速に西洋風にしていきましたが、その一瞬を見事に切り取って錦絵にしたものが開化絵です。この錦絵が描かれた明治10年前後の東京では、耳目を集めるような小学校の開校があいつぎ、報道マンの役目も担った当時の浮世絵師としての広重の血もさぞ騒いだことでしょう。振り出しの「師範学校」から上がりの「華族学校」まで、東京府内にある43もの小学校が、サイコロを振って出た目の数だけ進む回り双六(すごろく)の形を借りて紹介されています。


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 「東京」と題目にはありますが、当時の行政区画は「大区小区制」と呼ばれるもので、現在の23区にあたる範囲が11大区103小区(各大区がそれぞれいくつかの小区に分けられている)に編成されていました。錦絵で紹介されている学校は、その中でも皇居に近い第1大区から第6大区までの、今の千代田区(9校)、中央区(10校)、港区(5校)、台東区(4校)、江東区(3校)、墨田区(5校)、新宿区(4校)、文京区(3校)の8区内に創設されたものばかりです。振り出しの「師範学校」は、神田宮本町、現在の千代田区外神田に明治6年1月に創設された官立師範学校の付属小学校のことで、いわば教師を目指す学生のための練習学校です。絵図中、唯一の外国人と思われる洋装の女性が描かれているところが、欧米式の教授法を学ぶ学校の特徴を表しています。

 ところで、当初、東京の公立小学校の設置は他の府県に比べ出遅れたといわれています。これは、「私学家塾開業ノ者学舎大凡千五百ヶ所」というように寺子屋や私塾などが東京には多く存在しており、これらの者に講習会を開いて新しい授業法を伝授し、私立学校などの名称を与え、活用すればいいとしたからです。政府のお膝元である東京は国のかじ取りに気を取られ、学校建設にあまり熱心ではなかったともいえます。明治6年12月までの段階で公立校はたった29校しかありませんでした。が、4年後の明治10年の調査では公立校は142校に増えています。つまり、錦絵が描かれたこの頃は、爆発的な小学校建設ラッシュだったのです。そして、何よりもこの絵を描かせた理由は、明治10年にひときわ豪華な校舎が神田錦町に完成した「華族学校」の開校にあったことは、間違いないでしょう。


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 ひとつひとつのコマを細かく見ることで、面白い発見があります。例えば、学校名がナンバリングで呼称された時代、その第1番であった第一大学区第一中学区第一番小学の「坂本学校」は現在の中央区日本橋兜町に明治6年に開校しましたが、国立第一銀行間近の、いわば近代的企業の発生地にありました。そんな場所柄を示しているのが手前左に描かれた白い柱です。これは電信線を引いた電信柱です。近くに開局した日本橋電信局の線かと思われますが、見落としそうになる思わぬところに文明開化の面白い情報が隠されています。

 次回からは学校沿革史や当時の新聞記事なども参考にしつつ、明治10年頃に東京にあった小学校の様子をつぶさに見ていきたいと思います。

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