日本語社会 のぞきキャラくり 第98回
2010年 7月 11日 日曜日 筆者: 定延 利之なぜキャラクタを考えるのか?(上)
「行き当たりばったり」をモットーとする私でも、時にはハッと我に返ってしまうことがある。なんと、連載が100回に達しようとしているではないか。ひゃ、ひゃっかい。おそろしい。いったい私はここで何をしているのだろう?
発端は2年前、日本語教育学会のシンポジウムでキャラクタについて講演したことである。聞いて下さっていた三省堂のOさんから連載のお話を頂いて、これを軽~いきもちでお引き受けし、毎週毎週行き当たりばったりに、ちょろちょろと書きつけてきたのだ、私というやつは。それが100回になろうとしているのだ。おそろしい。
では、なぜ私は日本語教育学会でキャラクタについて講演したのか?
それは、外国人が日本語を学ぶ際に、キャラクタが大きな問題になるからである。これは、「なぜおまえはキャラクタを考えるのか?」と人から問われたら、私自身がおそらく真っ先に答えることでもある。
日本語能力1級試験を突破して日本に留学してきた、若い優秀な女子学生、Lさん。「明日は晴れますかな」と真顔で言われた時の脱力感は未だに忘れられない。Lさん、『老人』になるのはまだ早いよ。
「ダメネェ」「暑イワァ」などと『女』のことばを連発されていた、故・T先生。ご自分が日本人の奥様から何を学ばれたのか、最期までよくわかっていらっしゃらなかったのではないだろうか。
これまた若い優秀な女子留学生、Hさん。日本の大学院に来て、たまたま見かけた日本人の男子学生I君に、こう話しかけたという。
「ボク、ボク」
かわいそうに、I君は『幼児』扱いである。この2人がやがて夫婦になっちゃうんだから、世の中わかんないんだけどね。
キムタクがドラマで「オレ」と言っているからといって、教室でもどこでも「オレ」で通そうとしていたキミ。お疲れさま。日本語社会の壁は厚かったでしょ。
相手のことを「おまえ」って呼ぶのは、ふだん自分が『男』たちに「おまえ」って呼ばれてるからですよね。お姉さんの仕事、なんとなくわかっちゃったヨ。
いやいや、発話キャラクタだけではない。表現キャラクタの例も挙げておこう。たとえば小説の一節に「Aは目をむいてそう言った」とあるとする。これだけで、私たちは、Aは「品」があまり高くないと見当をつけることができる。しかし日本語学習者は、相当勉強している人でもこれがわからない。もちろん、「目をむく」とは驚きや怒りのために目を大きく開くことだ、ぐらいは知っている。しかし、『奥様』が驚愕のあまり「目を見開いてそう仰る」ことはあっても「目をむいてそう仰る」ことはふつうないということは知らない。
こういうことは、日本語を学ぶ者にとっては重要な問題のはずだが、日本語の先生はなかなか教えて下さらない。つまり、現在の日本語教育はこういうことに対応できていない。
なぜ日本語教育が対応できていないのか? もちろん、その一因は日本語教育界の事情に帰されるべきである。いまの日本語教育界には、「外国人が日本語を学ぶ際にキャラクタが大きな問題になる。だから何とかしなければならない」という認識がまだまだ欠けている。私の講演も、実は行き当たりばったりなもので、よく覚えていないが、きっとそのあたりに焦点があったのだろう。そうに違いない。
しかし、現在の日本語教育がキャラクタ教育に対応できていないことには、別の原因もある。日本語の先生がキャラクタについて教えられないのは、そもそもキャラクタというものがまだよく解明されていないから、つまりそのあたり研究が進んでいないからでもある。問題の根は日本語教育だけでなく、日本語研究にもあるということである。
キャラクタというものを私がことさらに取り上げているのは、一つにはこういう日本語教育上の必要性や利点を考えてのことである。
だが、日本語教育との関連を抜きにしても、キャラクタ、特に発話キャラクタを考えることは、言語研究にとって有益である。(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第97回
2010年 7月 4日 日曜日 筆者: 定延 利之「あなた」と呼ばれたい?
話し手自身を指すことば(自称詞)を前回取り上げたついでに、相手を指すことば(対称詞)にも触れておこう。
留学生にたどたどしい発音で「アナタワ、センセイデスカ?」なんて言われても、私はそんなに腹も立たない。が、日本人学生に「あなたは先生ですか?」と言われたらむかついてしまう。それを言うなら「あのぅ、、、先生でしょうか?」あたりだろうが失礼な。いや、むかつくよりも警戒するかな。学生が先生らしい人間を「あなた」呼ばわりするということは、もはや状況は訴訟寸前のところまで来ているのかもしれない。あなたはそれでも先生ですか、いい加減にしなさい、何なら出るところへ出ましょうか、みたいな、ね。
「あなた」ということばは「わたし」とペアになって、日本語の教科書の最初に出てくる。外国人は誰に対しても「あなた」でオーケーである。が、それはあくまで『外人』キャラのことばでしかない。
たしかにテレビでコマーシャルを観ても、街角でアンケートを受けても、「あなたの肌年齢を若返らせる!」「あなたはどんな国に行ってみたいですか?」のように、「あなた」はよく現れる。だが、だからといって「あなた」がいつでも問題なしということにはならない。そもそもコマーシャルやアンケートというものは、見ず知らずの不特定多数の人々に向けられたもので、発信者側は受信者側と人間関係を築いていない。だからこそ「あなた」でよいのだろう。
知り合いに囲まれて暮らしているかぎり、相手を「あなた」と言う状況はなかなか出て来ない。私なんか、人を「あなた」と呼んだことは、少なくとも年が明けてからまだ一度もないもんね。不遜だもん。「あなた」は丁寧なことばだけど、基本的に『格上』が発する丁寧なことばだから。大学の法学部を卒業して、どこへ行く当てもなく、文学部に学士入学する試験を受けた時、面接で教授に「なぜあなたはこんな就職のないところにわざわざ来るんですか」と叱られたけど、あれぐらいの先生でないと「あなた」とは言えない。あっしなんざ、まだまだでさぁ。
もちろん、冒頭でも述べたように、法廷やその一歩手前といった公的な状況では、「1人の人間として誰もが平等に有する尊厳」とやらのせいだろうか、幾らかは人を「あなた」呼ばわりしやすくなるようではある。だが、容疑者は「あなた」と呼びやすい一方で、裁判長は「裁判長」であって「あなた」とは呼びにくいとしたら、「あなた」は結局そういう状況でも『格上』のことばらしさを保っているということになる。
え? マンガ『サザエさん』なら、サザエさんが「あなた、お弁当忘れてるわよ」なんて夫のマスオさんに言いそうだって? その時、サザエさんはマスオさんを見下しているのかって? もちろんそんなことはないだろう。この「あなた」は、婚姻関係あるいは恋愛関係にある者(多くは女性)が、その相手に対して発する「あなた」である。いまどきの若い女性にはあまりなじみのないものかもしれないが、たとえば山本周五郎は江戸時代の男女に次のような会話をさせているし、
「[前部省略] おらあ弥六ってえ者だ、これからあ、そう呼んで貰えてえ」
「あらいやだ、女房が亭主の名を呼ぶ者があるかしら、御夫婦と定(きま)ればあなたアって呼ぶわ、そう呼ばせてくれるウ」[山本周五郎『ゆうれい貸家』1950.]
ちょっと前の流行歌にもこれが実によく出ていた。「親しい関係にあるということは、お互いに『格上』として振る舞えるということである」と考え、さらに「男性が『格上』でぞんざいに「おまえ」と呼んだりするのに対して、女性は『格上』でも丁寧に「あなた」と呼ぶ」と考えれば、この「あなた」も上で述べた『格上』の丁寧な「あなた」とつながるのかもしれない。詳しいことはさらに調べてみなければわからない。
だが、この恋人宛ての「あなた」の扱いがどうであれ、今の段階ではっきりしているのは、「あなた」が、丁寧なことばのはずなのに、人によっては失礼と感じられてしまう状況がいろいろとあるということである。相手のことをぞんざいに「おまえ」「きさま」「てめえ」などとは呼ばず、丁寧に「あなた」と呼んでいるのに感じられる失礼さとは、そもそも話し手が本来の分を超え高位者として振る舞っているという、話し手のキャラ(『格上』)に由来するものではないだろうか。私が言いたいのはそういうことである。
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
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日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第96回
2010年 6月 27日 日曜日 筆者: 定延 利之家庭で起きること
前回触れたように、日本の相当数の女性は電話を受ける際、それまでとは別人のように声を高めて(あるいは低めて)しゃべることがある。たしかに、電話の相手はそれでいいかもしれない。だが、傍らの人間にしてみれば、それまでとは打って変わった電話用の声を聞かされ、キャラクタを取り繕う舞台裏を見せつけられるのは妙な気分である。
こういうはずかしいことをして平気でいられる場といえば、もちろん代表格はウチ(家)だろう。だって、家族って多かれ少なかれ運命共同体だもん。たとえ取り繕われたウソでも、ママは世間的には『上品な奥様』でいてくれた方が、パパもボクもワタシも体裁いいから、ママが電話口で声を高めてもみんな黙認だもんね。ソトヅラはとことん『紳士』だけどウチでは気むずかしい『坊ちゃん』だとか(第92回)、ソトではクールな八頭身だけどウチでは三頭身の『幼児』だとか、コンパでは上品な『お嬢様』だったのがウチに帰ったら靴も服も脱ぎ散らかして、それこそ飲み過ぎてゲロはいてるとか(第93回)、パパやボク、ワタシにしても、叩けばホコリが出たりするけど、ま、お互い目をつぶるところは目をつぶりましょう。
いや、ウチがキャラ取り繕いの舞台裏として認知されやすい原因は、いま述べた「運命共同体」に尽きるものではないだろう。「人物Aの父親は人物Bの夫でもある」「人物Cにとっての娘は人物Dにとって姉である」というように、ウチには、職場のようなソトにひけをとらない、多様な人間関係の重なり合いがある。しかもそれらの関係は、家族(A~D)が一堂に会することによって、しばしば同時に顕在化する。その「一堂」がウチである。誰に対しても一つのキャラクタで通そうとすることの限界が、ウチではあまりに明らかなのかもしれない。
前回取り上げたニック・キャンベル氏は、或る日本人女性の数年間にわたる膨大な日常会話データの調査もおこなっている。それによれば、話し手の声の調子は、たとえば娘相手には高い声でしゃべり、夫相手だと硬い声でしゃべるという具合に、相手が家族の中でも誰であるかによって大きく違っていたという。(Campbell, Nick, and Mokhtari, Parham. 2003. Voice quality: the 4th prosodic dimension, ICPhS2003, 2417-2420, http://www.speech-data.jp/nick/feast/pubs/vqpd.pdf)。
そういえば川端康成の『舞姫』(1950-51)では、21歳独身の主人公・矢木品子が自分のことを「品子」「私」と2通りに呼んでいる。父親の元男(3回中3回)、母親の波子(55回中49回)、母親の助手で品子より3歳年上の、幼なじみの日立友子(7回中7回)に対しては基本的に「品子」である。他方、弟の高男(1回中1回)や、気乗りしない結婚を迫ってくる先輩の野津(5回中5回)、それから母の恋人の竹原(1回中1回)に対しては「私」と言っている。「私」の例が少なく、はっきりしたことはわからないが、この「品子」と「私」の違いは、「相手が目上か目下か」「相手が身内か否か」といったありきたりの観点では説明できそうにない。むしろ、『子供』キャラの自分を出して甘えられるなら「品子」、甘えられない、あるいは甘えたくなければ「私」と考える方がすっきりする。キャンベル氏のような科学的な手法とは比べものにもならないが、たとえば家の中で、親相手にしゃべる場合と弟相手にしゃべる場合で、品子のキャラクタが微妙に変わっているということは、ありそうな話ではないだろうか。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第95回
2010年 6月 20日 日曜日 筆者: 定延 利之電話口で起こること
「コミュニケーションやことばの研究に、キャラクタという考えを取り入れる必要がある」という新しい考えを、皆(一般の人たちだけでなく、学問的背景を異にするさまざまな研究者や同業者も含む)に理解してもらうには、どうすればよいだろうか?
私自身は前回述べたように、手を変え品を変え、さまざまな実例を示して、キャラクタという考えの必要性を皆に直感的に「思い当たってもらう」ことこそが現時点の私にできる最善のやり方だと考え、この連載ではまさにこれを実践している。
だがもちろん、私の考えは私の考えに過ぎない。キャラクタという考えの必要性を「科学的」に示そうとする試みも実は始まっている。たとえば、モクタリ・明子&キャンベル・ニックの共著論文「人物像に応じた個人内音声バリエーション」(岡田浩樹・定延利之(2010編)『可能性としての文化情報リテラシー』(ひつじ書房)所収)は、或る1人の話し手がさまざまな相手と電話で対話した際に発した30個の音声を収録し、この音声を使って行った実験を報告している。その報告を私のことばでわかりやすく言えば、次のようになる。
実験の被験者として選ばれたのは、この話し手やその対話相手とは何の面識のない人たちである。この被験者たちに「ここに30個の音声があります。これらを一つ一つよく聞いて、音声を話し手別にグループ分けしてください」と指示したところ、もちろん本当はこれら30個の音声はたった1人の話し手の声なので分けようがないはずだが、被験者たちは見事に全員、その30個の音声を複数のグループに分けてみせたという。さらに、「それぞれのグループの音声を発した話し手は、どんな人だと思いますか?」と被験者たちにアンケートでたずねると、被験者たちは、グループごとに年齢層・外見などが異なる話し手像をちゃーんと答えたのだそうだ。最後に「実はこれ、全部1人の人の声です」と告げたところ、被験者たちは皆、大変驚いた様子だったという。
これらの結果が示しているのは、「1人の話し手が相手に応じて発するしゃべり方のバリエーションが、被験者たちの想像をはるかに超えていた」ということである。逆の言い方をすれば、被験者たちは、「話し手は相手に応じてしゃべり方をさまざまに変える」ということぐらいはおそらく承知していたとしても、そのバラエティを現実よりも遙かに低く見積もってしまっていたということになる。被験者たち、いや私たちは、なぜ、こんなにも現実と合わない、低い見積もりを持つのだろうか?
それは、私たちがふつう、「良き市民」としてお約束の世界に生き、或る種の考えを受け入れることに慣らされているからではないか。「いま私の目の前でしゃべり、行動しているあなたは、まさにそのような人物なのだ、したがっていつでも、どこでも、あなたはそのような人物なのだと私は信じる。「いま私の前ではこんな感じだけど、私がいないところではどうだか」などとは私は思わない。私のことも、まさにこのような人物なのだと信じてほしい。あなたや私だけではない。人は皆(少なくとも私たちのお知り合いは皆)、それぞれの人格のままに、「素」で行動し、「素」でしゃべっているのだ」という考えを受け入れることにして、「変わらないことになっているだけで、本当は変えられるし、実際しばしば変わる」などといういかがわしいキャラクタの存在はきっぱり否定する、どころか思い至りもしないようにして生きている(社会的に生きるとはそういうことだろう)から、現実と合わない見積もりを平気で保持できているのではないか。
電話での対話といえば、かかってきた電話を受ける際に、日本の女性(その中心は主婦と言えるだろうか)は、それまでの声とは全く別人のような、ことさらに高い明るいヨソユキの声で「はいもしもし、○○でございます」などと始めることがあるようだ。私ならこの声の変化を持ち出して、キャラクタという考えの必要性を読者に「思い当たってもらう」のをねらうところだが、これは実は「ことさらに低い(落ち着いた)声で話し始める」という逆の女性も少数ながらおり、そう一概には言えないようだ。というわけで今回は、キャラクタに関する「科学的」アプローチの例を紹介するついでもあったことだし、親しい研究仲間のフンドシで相撲をとらせていただいた。
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定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第94回
2010年 6月 13日 日曜日 筆者: 定延 利之権威のある有名どころの不自然な文章(下)
前々回・前回と見てきたように、夏目漱石の『行人』では弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」と言う。坂口安吾の『不連続殺人事件』では名探偵がやはり「~でさあ」「~ませんぜ」と言い、女中が「奥様、お嬢様はゲロはいて、~」と言うのであった。壺井栄の『二十四の瞳』では、ヒロインが「~ますな」と言い、にやりと笑ったりするのであった。いくら権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然な表現を含んだものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないか?
たしかに、そういうことはあるかもしれない。だが、そんなことはあまり心配しなくていい。なにしろここで私たちが問題にしているのは、現代日本語という、私たちがそれなりに直感を利かせることのできることばの世界なのだから。
『行人』の弟や『不連続殺人事件』の名探偵が「~ですぜ」「~ませんぜ」「~でさあ」と言うこと、『二十四の瞳』のヒロインが「~ますな」と言うことは、たしかに現在のことばとしては不自然である。だが、それは私たちが直感でわかることである。これらは現在の日本語の例としては認めなければいい。それだけの話である。
他方、『不連続殺人事件』における女中の発言「奥様、お嬢様はゲロはいて、苦しみなすっていますが」は、「奥様」「お嬢様」ということばの上品さや「ゲロはいて」ということばの下品さに対して鈍感な、或る種の『田舎者』キャラの言動として、現在でもそれなりに理解できる。
また、『二十四の瞳』のヒロインが「にやり」と笑うのは、これが直前の章から八年後の場面冒頭であって、このヒロインがヒロインとしてではなく、正体不明の女として登場しているということからすれば、現在の感覚からしても、もっともなことだろう。
だから、「お嬢様はゲロはいて」や「にやり」は、現在ではもう古すぎて通用しないとして片付けるわけにはいかない。現在でも通用する日本語、但し話し手や場面に一ひねりある例として認めればいい。
こういうことは、私たちは直感的にわかるから、話はかんたんである。直感を使うべきところで、使わない手はない。
言語コミュニケーションの根本問題、つまり私たちが集まってことばで何をしているのかという問題に対する私たちの理解は、残念ながらごく部分的なものにとどまっている。或る特定の言動が、言語コミュニケーションの世界全体の中でどのような位置を占めているのか、それを知ることさえ、私たちにはまだまだ難しい。位置を知りたくても、そもそも言語コミュニケーションの世界の極点や赤道がまだ発見されておらず、経度や緯度が割り出せない。それぐらい、私たちは言語コミュニケーションの世界をわかっていない。
このように言語コミュニケーションに対する私たちの理解が限られているのは、そもそも言語コミュニケーションにおける「意味」というものが、その世界に生きる者が直感によって生み出すものであって、世界の「外側」から客観的に計測し尽くせるものではないということによるのではないか。何かを正面きって考察しようとする際には、直感は、とかく排除されてしまいがちだが、私たち自身の言語コミュニケーションを考察する場合にかぎって言えば、直感は客観的計測とは別に、重要な一つの手段たり得るのではないか。
「日本語社会の考察には、キャラクタという概念が必要」ということを主張するのに、私がややこしい数式やグラフを持ち出さず、名だたるものとはいえ、文学作品の断片ばかりを取り上げているのは、読者に、キャラクタというものに直感で思い当たってもらうことがベストだと考えているからである。
ま、これって結局、「そういう作品が好きだから」ってことかもしんないけどね。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第93回
2010年 6月 6日 日曜日 筆者: 定延 利之権威のある有名どころの不自然な文章(中)
前回取り上げた坂口安吾の『不連続殺人事件』は、数件の殺人事件とは別に、もう一つの衝撃的な「事件」が女中の口から語られる点でも忘れがたい作品である。それは「お嬢様ゲロはき」事件である。
泣き出した珠緒さんを抱くようにして、あやかさんが連れ去る。十分ほどして戻ってくると、追っかけて女中がやってきて、
「奥様、お嬢様はゲロはいて、苦しみなすっていますが、海老塚さまに」海老塚はムッと顔をあげて、
「バカな。ヨッパライの介抱に医学者が往診するなんて、女王様だってありゃせん。さがれ」凄い見幕だった。[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]
うーむ。果たして「お嬢様」が「ゲロはいて」よいものであろうか。発話キャラクタと同様(第56回)、表現キャラクタに関しても、一貫した形で現れるのが通例だとすると、「お嬢様は」と来れば、それに続くのは「ご体調を崩されて」ではないだろうか。うんとリアルに述べたところで「召し上がったものをお戻しになって」あたりであって、「ゲロはく」はないだろう。逆に、どうしても「ゲロはいて」と言いたいのなら、その主体は「お嬢様」ではなくて、特に取り立てて「品」が感じられない「珠緒さんは」、あるいは「あの人は」ぐらいで表現されるのがふつうではないか。
権威ある有名どころの文章が不自然だという例はまだまだある。たとえば壺井栄(1952)『二十四の瞳』では、三児の母とはいえ、まだ若いヒロインが「こまりますな」としゃべっている。「~ますな」だって。おまけにこのヒロインったら、「にやり」と笑っているぞ。正義の味方が「にやり」と笑っていいのか。
おたがいの品物をなげくようにいうと、そうだというようにおじいさんは首をふり、
「やみなら、なんぼでもあるといな。」
そして、はっはっとわらった。おく歯のないらしい口の中がまっ暗に見えた。女は目をそらしながら、
「きょう日(び)のように、なんでもかでもやみやみと、学校のかばんまでやみじゃあ、こまりますな。」
「銭(ぜに)さえありゃあなんでもかでもあるそうな。あまいぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山のようにあるそうな。」
そういって歯のない口もとから、ほんとによだれをこぼしかけたところは、あま党らしい。口もとを手のひらでなでながら、てれかくしのように、むこうがわをあごでしゃくり、
「ねえさん、あっちでまとうじゃないか。日なただけはただじゃ。」
そういってさっさと反対がわ乗り場の方へ道をよこぎった。ねえさんとよばれて思わずにやりとしながら、女客もあとを追った。[壺井栄(1952)『二十四の瞳』]
再び言おう。権威ある有名どころの文章を取り上げていけば、こういう不自然なものをデータとして認めなければならないハメに陥るのではないか。それは、日本語とキャラクタの関わりをかえって分からないものにしてしまわないだろうか?(つづく)
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日本語社会 のぞきキャラくり 第92回
2010年 5月 30日 日曜日 筆者: 定延 利之権威ある有名どころの不自然な文章(上)
夏目漱石の『行人』には、書き手(「自分」)である弟が、兄について語るくだりがある。
自分ばかりではない、母親や嫂に対しても、機嫌(きげん)の好い時は馬鹿に好いが、一旦(いったん)旋毛(つむじ)が曲がり出すと、幾(いくか)日でも苦い顔をして、わざと口を利(き)かずにいた。それで他人の前へ出ると、また全く人間が変わった様に、大抵な事があっても滅多に紳士の態度を崩さない、円満な好侶伴(こうりょはん)であった。だから彼の朋友(ほうゆう)は悉(ごとごと)く彼を穏やかな好い人物だと信じていた。父や母はその評判を聞くたびに案外な顔をした。けれど矢っ張り自分の子だと見えて、何処(どこ)か嬉(うれ)しそうな様子が見えた。兄と衝突している時にこんな評判でも耳に入(い)ろうものなら、自分は無暗に腹が立った。一々その人の宅(うち)まで出掛けて行って、彼等の誤解を訂正して遣りたいような気さえ起った。
[夏目漱石(1912-13)『行人』]
人前で、兄がいかにも「素」で通しているようでいて、実は密かに取り繕っているもの。その舞台裏を見ている自分が、時折ぶち壊してやりたくなるもの。それはもちろん、兄の『紳士(円満な好侶伴)』キャラである―よしよし、いい調子いい調子。前回も述べたように、この連載で中心に取り上げたいのは、こういうちょっと古い、でも一応「現代日本語」と言えそうな、権威ある有名どころの文章なのだ。
いや、ちょっと待った。『行人』の弟は、兄に対してこんな風な口をきいている。神経を病む兄に「妻の節操を試してほしい。妻と和歌山へ行って一晩泊まってくれ」と言われた場面である。
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、殊に現在の嫂(あによめ)ですぜ」
「人から頼まれて他(ひと)を試験するなんて、―外の事だって厭(いや)でさあ。況(ま)してそんな……探偵(たんてい)じゃあるまいし」
いくら『目下』としてしゃべるにしても、弟が兄に「~ですぜ」「~でさあ」などと言うのは、現代の感覚としておかしくはないか。
探偵が出てきたついでに言えば、坂口安吾の『不連続殺人事件』の中でも、巨勢(こせ)という若い名探偵が、私淑する作家(私)に対して、次のように「~でさあ」「~ませんぜ」としゃべっている。これも現代の感覚ではちょっと変だろう。
「それが分れば、犯人は分りまさアね。だが、恐ろしく計画的な犯罪ですよ。すべてがメンミツに計算されているのでさ。日本に於(お)ける、最も知的な、最も雄大な犯罪なんでしょうな。この犯人は天才でさアね。インテリ型のケチな小細工がてんで黙殺されいるところなど、アッパレ千万というものでさ。扉を糸に結んで自然にしまる装置をするとか、密室の殺人を装うとか、そういう小細工は小細工自身がすでに足跡というものでさア。すでに一つの心理を語っているではありませんか。この犯人は、常に心理を語ることを最も怖れつつしんでいまさアね。[中略] 目的の殺人はとっくに終っているのかもしれませんぜ」
「この犯人は、八月九日の予告を出したから、必ず八月九日に決行するというバカみたいに義理堅いトンマじゃありませんぜ」
[坂口安吾(1947-48)『不連続殺人事件』]
いかに権威ある有名どころの文章とはいえ、このような不自然なものを取り上げていくことは、日本語とキャラクタの関わりを見る目をかえって曇らせ、両者の関係を歪ませることになりはしないだろうか?(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters
【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
【編集部から】
「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。
日本語社会 のぞきキャラくり 第91回
2010年 5月 23日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタ考察の方法論(下)
「キャラクタ」という考えを受け入れなければ説明できないと思える事例は、ごく最近の動画や文字資料にも豊富に見つかる。前回はその一例として「嵐」の櫻井翔氏の発言や、浅井尚子氏の『お魚菜時季』を示したわけだが、そういうものは、おじさん、この連載ではあんまり取り上げないの。
いやいや。そういうのが嫌いってわけじゃないよ。「嵐」なんか、ファンクラブに入ってるぐらいだもん。うん、ウソだけど。でも『お魚菜時季』なんか、連載68が欠番だとか、浅井水産はあのビルの1階だとか、好きでよく知ってるもん。これはホント。(マニアかな。。。)
じゃあ、なんで最近のものを取り上げないのかっていうと、そういうのをいっぱい出したら、誤解されて、「現代若者論」ってやつに絡め取られちゃうから。「なるほど。櫻井という若者のように、いまどきの連中は「自分」というものがしっかりできていないということですな」「いまの若者は、浅田という人のようにことばが乱れて、「自分」らしい一貫した文章が書けなくなっているわけね」みたいに。いくら「違います。これは最近の若者にかぎった話じゃないんです。私たちは昔からこうだったんです」って言っても、きいてくれないの。おじさん、知ってるもん。
かといって、こういう例も、おじさんはあんまり取り上げたくないの。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。
おなじことなれどもきき耳ことなるもの。法師の言葉。をとこのことば。女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり。
[清少納言『枕草子』池田亀鑑校訂, 岩波文庫]
「そう年寄りでもない人や男なんかが、わざと田舎くさく取り繕っているのは気にくわない」「同じ内容でも、僧侶の言い方と男の言い方、女の言い方で印象が違う。ゲスな人の言い方は必ずくどい」みたいな、2つともやっぱりキャラクタに関わってる話だけど、古いもん。こういうのを取り上げると「なるほど。平安時代はねー」とか「そうそう、清少納言はさー」って、その時代論とか筆者論の方に持って行かれかねないし、だいたいみんな「古くせェー!」って逃げてっちゃうじゃん。おじさん、知ってるもん。
だからこの連載では、「キャラクタは私たちの日本語社会に深く関わっている」ということをみんなに思い当たってもらうために、たとえば谷崎の小説がどうとか、太宰の脚本がこうとか、「現代」だけどやや古い、権威ある有名どころの人たちの文章を中心に取り上げてんの。わかる? おじさんの趣味はあくまで「嵐」なんだけどね。くどいか。
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定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 第90回
2010年 5月 16日 日曜日 筆者: 定延 利之キャラクタ考察の方法論(上)
タイの留学生から教えてもらったのだが、この4月20日、「嵐」という男性アイドルグループが、テレビの新番組『嵐にしやがれ』の記者発表をおこなった(情報をありがとう、チョンワッタナ・チャワンラットさん)。この番組、ゲスト出演者のことは、「嵐」のメンバーたちには本番まで知らせないのだという。「どんなゲストが来たら緊張するか」という記者からの質問に対して、櫻井翔という「嵐」の一員がこう答えている。
オーレー、は、村尾さんかなー。オレの、温度としてやっぱり、報道の温度でしか会ってないからー、オレここで「アハー!!」とか言ってんの見られるのちょっとつらい。
ここで「村尾さん」と呼ばれているのは関西学院大学の教授で、ニュース番組『NEWS ZERO』のメインキャスターをつとめている村尾信尚氏のことである。『NEWS ZERO』には櫻井氏も月曜日のキャスターとして出演しており、そこではまじめな人物として村尾氏に接している。では櫻井氏はいつでもどこでもまじめなのかというとそうではなく、『嵐にしやがれ』では「アハー!!」と騒いでいる。そこで村尾氏と対面することになったら、
「ああどうも。いつも『NEWS ZERO』ではお世話になってます。あっちでは報道ってことで、まじめなスタイルでやってますけど、こっちはバラエティ番組なもんで、それに合わせてハジけたスタイルでやってますのでアハー!! 村尾さんもよろしくハジけてくださいアハー!!」
などと言って平気かというとそうではない。櫻井氏は村尾氏がゲストで来たら「ちょっとつらい」のである。
つまり『NEWS ZERO』で櫻井氏がまじめなのは、まじめかアハーかを意図的に切り替えて何ら問題のない「スタイル」のレベルではない。変わらない、変えてはいけないことになっているが、実際はしばしば変わるもの。それが変わっていることが露見してしまうと、気まずいもの。すなわち「キャラクタ」のレベルだということになる。
「築地小町のお魚菜時季」といえば、週刊誌『サンデー毎日』上の、いまや200回を超える大連載である。そこでは、築地の鮮魚店「浅田水産」で働く浅田尚子氏が、四季折々のさまざまな魚の生態と調理法を紹介している。(ご本人はことあるごとに躍起になって否定されているが)「築地小町」の異名をとるような、若く美しい女性の文章、と思って読むと、なんだなんだ、これがたとえば次のように、
[中略]だって、体操選手がやってたんだもーん。
オッシャーァァ! 本日のメニューはナメタカレイです。
ちょっと厚みのある唇が、セクシーですな。体の表面にはヌルヌルがたくさん付いております。これが汚い、バッチイからババカレイとも呼びますが、失礼ですな。他のカレイより身がシットリしていて、キメが細かいのですゾ。
調理で大変なことは表面のヌルヌルを取ること。包丁は時間がかかるので、金タワシを使うのだ。ナメタカレイは蒸して食べてもいいですが、煮るのが一番いいでしょう。あ~、煮魚ってこんなに美味しいんだな~と思うはず。[連載48「鰈(カレイ)」『サンデー毎日』2007年2月11日号(第86巻第6号)
毎日新聞社, p.37.]
「やってたんだもーん」のように『娘』っぽく甘えたり、「オッシャーァァ!」のように『体育会』っぽく気合いを入れたり、「セクシーですな」「失礼ですな」「細かいのですゾ」のように『上品』で『目上』の『年配』『男性』っぽくニヤついたり解説したり、さらに「使うのだ」、そして「いいでしょう」と、キャラクタがめまぐるしく変化する。
このように、「キャラクタ」という考えを受け入れなければ説明できないと思える事例は、ごく最近の動画や文字資料にも見つかる。だが、そういうものは、おじさん、この連載ではあんまり取り上げないの。(つづく)
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◇この連載の中国語版と英語版
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
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日本語社会 のぞきキャラくり 第89回
2010年 5月 9日 日曜日 筆者: 定延 利之「評価」と「感激」
「品」の良し悪しを語るという振る舞いは、俗世間の「大人たち」(『年輩』『老人』)の得意技であって、「子供たち」(『幼児』『若者』)にはふさわしくないと前回述べた。「品」を語ることだけでなく、そもそも物事の評価を語ることが、「子供たち」はあまり得意ではないようだ。
日本語社会では、「評価を語る」という振る舞いは基本的に、「格」の高い人のものである。
たとえば上司は「田中君は仕事が速いね」のように、部下(田中)の能力について評価を語ることができる。だが、部下が「部長は仕事が速いですね」などと、上司の能力について評価を語ることは、プラスの評価でも失礼とされる。(新入社員諸君、よぉく覚えておこうね。) 授業の終わりに「センセノ授業、トテモ、ヨカタ」と留学生たちに言われて日本の先生たちが心安まらないのも、「格」が下のはずの生徒に評価を語られてしまっているからである。
これが「部長、仕事速いですねえ!」「センセノ授業、[しみじみと]ヨカタネ~!」のように、「感激」の物言いであれば話は違う。「感激」は「格」が下の者がおこなっても問題はない。いや、「格」が高い『神』やゴルゴ13などは「感激」しないように、むしろ「格」が下の方が得意とさえ言えるかもしれない。これは、「感激」は単なる強いプラスの「評価」ではないということ、「評価」と「感激」は発話行為として別物だということである。
相手の腕をとって背中越しに投げる、その投げ方が厳密に言えば1通りではなく2通りあるとする。この2つの投げ方は単に同じ一つの技のバリエーションなのか、それとも別々の技なのか。これを判断する上で、「得意な選手」「不得意な選手」は一つの手がかりを与えてくれる。一方の投げ方は得意だが、もう一方は不得意という選手が多くいるほど、それら2つは別々の技らしいということになる。「評価」と「感激」を発話行為として別物とするのも、これと同じである。発話キャラクタを考えていくことと、発話行為を考えていくことは不即不離の関係にある。
さて、「「格」が低い者が評価を語れない」ということは、以上のような発話キャラクタだけでなく、表現キャラクタにも見てとれることがある。たとえば、
「シェフ自慢のデザートに、参加者たちは舌鼓を打っていました」
「透き通る歌声に、観客たちは目を細めて聞き入っていました」
といった文は特に不自然ではないだろうが、この「参加者たち」「観客たち」をたとえば「児童たち」「小学生たち」のように変えるとどうなるか。
「シェフ自慢のデザートに、児童たちは舌鼓を打っていました」
「透き通る歌声に、小学生たちは目を細めて聞き入っていました」
おいおい、君たちはおっさんか、なんて言いたくなる。なんか不自然ですよね。この不自然さを「大人と違って、子供は舌鼓を打ったり、目を細めたりしないから」みたいに、「現実」レベルで説明しようとするのは、さすがに無理でしょう。現実には、大人だっておいしいものを食べて舌を「チャッ」なんて鳴らす人は今どきそんなにいないし、子供だって目ぐらい細めて何かを聞くことがないわけじゃないでしょうから。
ホラ、よくあるじゃないですか。平安時代の調度がどこかで展覧されたりすると「観光客たちは遠い平安時代の生活に思いをはせていました」、古代遺跡が公開されると「訪れた人たちは太古のロマンに酔いしれていました」という具合に、緊急性の低い或る種の報道に出てくる「皆一様に大いに楽しみました」型の文。お約束の綺麗事。ここで問題にしている文って、この手の文ですよね。だからこういう文の自然さ・不自然さに対して必要なのは、「現実」レベルでの説明ではなくて、「大人たちは舌鼓を打ったり、目を細めたりする、ことになっている」「子供たちは、ふつう格が低く、そういうことはしない、ことになっている」という「お約束」レベルでの説明でしょう。で、この「お約束」っていうのは、マスコミによる潤色が施されているとはいえ、基本的には私たちの通念の一部なんですよね。
「舌鼓を打つ」にしても「目を細めて聞き入る」にしても、落ち着いて味わう「評価」的な行動だけど、もっと「感激」っぽい「飛び上がって喜ぶ」なんかだと、もう小学生は全然問題ないですよね。
「シェフ自慢のデザートに、小学生たちは飛び上がって喜んでいました」
皆で派手に喜んでいれば、本当に飛び上がった奴なんかいなくていいですよね。お約束ですから。
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◇この連載の中国語版と英語版
中国語版⇒角色大世界――日本
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【筆者プロフィール】
定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
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2007年









