日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第91回 誤解について

2015年 8月 2日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第91回 誤解について

 ボルドーでの会議を受けて,スロベニアのリュブリャナ大学で開催されたキャラクタのワークショップでは,私は「キャラクタとは何か」ということよりも,むしろ「キャラクタとは何でないか」を話すことになった。ボルドーで受けた質問やコメントの中には,「キャラクタ」という日本発の新しい考えに対する誤解に基づいているものが少なくなかったためである。

 誤解のうち,最も根本的と思われたのは,「キャラクタは,既存の理論枠組み(たとえばバフチンのポリフォニーやゴッフマンの自己呈示,オクスの社会的アイデンティティ,ガンパーツの文脈化,さらには批判的談話分析)と対立し競合する,一つの理論だ」というものである。これが誤解であることを,私は以下のように説いた。

 キャラクタは,今日では若者にかぎらず沢山の日本語母語話者が日常生活の中で口にし,意識にのぼらせる概念ではあるけれども,それ自体は「理論」ではない。キャラクタは,既存の理論枠組みと何ら競合的な関係に立つものではない。キャラクタはそれらの理論枠組みを否定しないし,正当化もしない。

 ではキャラクタとそれらの理論がまったく関係ないかというと,そうでもない。多くの理論はキャラクタという概念を取り入れることによって,説明力を増すことができるだろう。キャラクタに関して理論間に対立・競合があるとすれば,それは,「キャラクタという概念を受け入れられる理論」と「キャラクタという概念を受け入れられない理論」の間にしかない。

 「キャラクタという概念を受け入れられない理論」とは,人間のコミュニケーション行動として意図的な行動しか認めない理論である。この理論は,たとえば「あくびが伝染る」,つまりAさんが思わずあくびしたところ,その場にいたBさんが思わず釣り込まれてあくびするという現象や,「もらい泣き」,つまりAさんが泣いてしまい,その様子を見ていたBさんまで思わず感涙するという現象を,コミュニケーション行動として認められない。この理論の前提には「人間は目的を達成するために,状況に応じてスタイルを変える。スタイルは状況に応じて変わるが,人間じたいはどんな状況下でも(病理的な多重人格にでもならないかぎり)変わらない」という,伝統的な人間観がある。これまで述べてきたように,キャラクタという現象は,この伝統的な人間観では受け入れられない。

 こんなことを私に言われて,参加者たちがカンカンになって怒ったかというと,どうもそんなことはないようだ。というのは,ワークショップ終了後に,私は,リュブリャナ大学が発行している英文オンラインジャーナルACTA LINGUISTICA ASIATICAで「キャラクタ」の特集号を組まないかというお誘いをいただいたからだ。この雑誌が出るのはもう少し先だが,私自身だけでなく,いろいろな方々に論文投稿をお願いしたので,ぜひご覧いただければと思う次第である。

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  中国語版⇒角色大世界――日本
  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり―顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてから一年後のこと、編集部たっての希望がかない、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
イラストは、書籍版『日本語社会 のぞきキャラくり』でも「キャラくり」世界をステキに彩ってくださったカワチ・レンさんによるものです。
隔週日曜日の公開です。続きもお楽しみに!


日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第90回 機能主義について

2015年 7月 19日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第90回 機能主義について

 「ハサミの機能は?」と言われれば,「紙や布を切ること」などと誰でも答えることができる。だが,「秋の日の機能は?」「18歳の機能は?」と問われれば返答に詰まってしまうだろう。

 機能という概念はどのようなものにも想定できるものではない。機能は,何らかの目的を達成するための道具が持つものである。「花びらの機能は?」と訊ねられ,多少とまどった上で「雄しべや雌しべを守ること」「虫を惹きつけること」などとそれなりに答えられるのは,「植物は種族を繁栄させるために自分の身体を道具のように使う」というそれらしい見立てに思い当たるのに時間がかかるからである。

 多くのコミュニケーション研究や言語研究は「発話の機能」「言語の機能」といった概念を当然視する。だが,いま述べた機能の目的論的性質からすれば,これらの概念は私が無条件に受け入れられるようなものではない。私が「キャラ(クタ)」を持ち出すのは,「多重人格のような病理的な場合を除けば,人間は変わらない。人間が目的を果たすために,状況に応じて柔軟にスタイルを変えているだけ,そしてそのスタイルに合わせてことばを使い分けているだけである」という目的論的な説明に限界を感じればこその話だからである。

 そんな私の「キャラ(クタ)」に関する講演を,こともあろうに「機能言語学者」たちが聞きに来ると聞けば,私でなくても驚くだろう。2014年4月4日,フランスのボルドーモンターニュ大学で開催された国際会議で,それは起こった。

 だが結果的に言えば,私は随分と好意的に受け入れてもらえたようだ。というのは,フランスで私が受けた質問は,「おまえの言うキャラクタの考えは,コセリウとどう違うのか?」「おまえの言うキャラクタの考えは,バフチンとどう違うのか?」「おまえの言うキャラクタの考えは,批判的談話分析とどう違うのか?」といったもの,つまり「おまえの言うキャラクタの考えは,我々が知っているこれこれの考えと近いように思えるが,実際どうなのか?」というものばかりで,「おまえの言うことはさっぱりわからない。一体何を言っているのだ?」というものではなかったからである。

 それに何より,私はこのフランスでの講演の「続き」を急遽,同年8月26日にスロヴェニアのリュブリャナ大学でやらせてもらえることになったのだから,「好意的」と言って間違いではないだろう。少なくともヨーロッパの機能主義言語学は,私が考えていたよりも懐が深く,いろいろな考えに寛容なもののようだった。(続)

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第89回 意図万能主義について

2015年 7月 5日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第89回 意図万能主義について

 荻上チキ氏が「状況に応じてキャラを選択し使い分けていく(中略)「キャラ型自己モデル」」と書かれたりすると(荻上チキ『ネットいじめ―ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』PHP研究所, p. 220, 2008),私は「キャラ型自己モデル」という発想の面白さよりも「選択し使い分けていく」の部分に目がいってしまい,たとえば「いつの間にか『姉御』キャラになってしまう」という事例(補遺第9回)はどうなるのか,などと思ってしまう。

 土井隆義氏が「対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラ」と書かれたりすると(土井隆義『キャラ化する/される子供たち―排除型社会における新たな人間像』岩波書店, p. 24, 2009),私は氏の「外キャラ・内キャラ」の区別の斬新さよりも何よりも「意図的に演じられる」の部分が気になってしまう。

 岡本裕一朗氏が「キャラ(クタ)」を「フィクションとして演じられる役柄」と述べられると(岡本裕一朗『12歳からの現代思想』筑摩書房, p. 57, 2009),私はその何とも簡潔で的を射たまとめ方に感嘆しつつも,「役(柄)」という考えにうっすらにじみ出る目的論(本編第35回)に警戒心を抱いてしまう。

 他人の揚げ足を取り重箱の隅をつついて,いったいおまえは何がしたいのかと怒られそうだが,私の問題意識は人類学者・北村光二氏が30年近く前に書かれた,次の(1)とほとんど変わらない。

(1) 言語を中心に考えられたコミュニケーションのモデルは,たとえば「送り手の意図に基づく情報の伝達」といういい方に代表されるものであるが,これが身体的コミュニケーションの典型的な事例にうまくあてはまらないのである。

[北村光二1988「コミュニケーションとは何か?」『季刊 人類学』19-1, 40-49. p.42]

 このうち「伝達」についてはそろそろ言語研究界でもほころびが見えてきて,今では出版社から「コミュニケーションは伝達一辺倒の考え方では説明しきれないという論調で,どうでしょう?」などと伝達論批判を見越した原稿が打診されるところまで来ているが,「意図性」については言語研究ではいまだに呪縛が解けず当然視されることが多い。

 コミュニケーションにおけるさまざまな発話が,また発話のさまざまな面が話し手の意図とは無縁であることを説いていくと,「そんなこと,わかってるよ」と開き直ったり,「でも,意図的な発話も沢山あるでしょう」と牙城にこもって目をそむけたり,そして結局のところ戻っていくのが古典的なグライスの「非自然的意味」であり,またスペルベルとウィルソンの「伝達意図」であり「情報意図」であり「意図明示的推論コミュニケーション」でありといったスタンスが,言語研究においていかに多いことか。詳細は近著『コミュニケーションへの言語的接近』(ひつじ書房)で述べるが,私の「キャラ(クタ)」論は何よりもこのような意図万能主義に対する疑念を背景にしている。「病理的なケースを除けば盤石不動の人格が,状況に応じて柔軟にスタイルを変える。これで何か不都合でも?」という伝統的な立場に対して,「不都合」を具体的に明らかにし,人格とスタイルの間に「変わらない,変えられないことになっているが変わってしまう。それが変わっていることが露見すると,見られた方も見た方も気まずい」という層を設けて新しい人物観を提示すること,私の「キャラ(クタ)」論はただこの一事だけを目指している。

 斎藤環氏は,日本に多重人格が相対的に少ないことを指摘され,「日本人は,自らキャラ化することで,これらの病理を免れているのではないか」とされる(斎藤環『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人』筑摩書房, 2011, p. 230)。このあたり,外的な圧力と内的な欲求の間での2段式のバランスの取り方・3段式のバランスの取り方(補遺第9回)と通じるものがあるように思うのだが,これをさらに検討するには,私は(氏の「換喩」としてのキャラ論を十分に理解するだけでなく)自分の「キャラ(クタ)」論にひと区切りをつけ,意図性に対する目クジラを笑っておさめられる日を待たねばならない。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第88回 良き市民社会のお約束とカミングアウトについて

2015年 6月 21日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第88回 良き市民社会のお約束とカミングアウトについて

 前回の最後に述べた「良き市民社会のお約束」とは,「人格の多重分裂といったごく一部の病理的なケースを除けば,人間は変わらない。状況に応じて変わるのは,人間がスタイルを変えているだけで,人間自体は変わらない」という考えである。言い換えれば「私の前に現れているあなたは,本物のあなたでしょう。あなたは正体を偽って私の前に現れたりなどしていないと私は認めます。同じように,あなたの前に現れている私も,本物の私です。あなたと別れた後も,私は24時間365日,360度誰に対しても,こういう人間です」ということになる。

 「良き市民社会のお約束」のもとではキャラ(クタ)はどうなるか。「あなたは自身を偽ってなどいない。あなたのその毛は地毛でしょう。同じように,私のこの毛も地毛です。世の中にカツラというものが存在していることは承知していますが,あなたも私もカツラではない。地毛ですね。そして田中さんも鈴木さんも,私たちのお友達は皆,カツラなどではなく,地毛ですね」ということになっている。「あなた,カツラでしょ?」と言えば相手は飛びすさるだろう。それは「あなたにも,私の知らない面がいろいろとおありでしょうね」という,考えてみれば当たり前のことでも口に出せばその場の空気を凍り付かせてしまうのと同じことである。「良き市民社会のお約束」のもとでは,人間には人格があり,その人格のもとでさまざまなスタイルを状況に応じて使い分けるだけであり,人間自体は状況ごとに変わったりしない。つまり,キャラ(クタ)などというものはない,ということにされる。

 ところが,ところが,である。こういうお約束に対する違反が,時として「ま,みんな,やるよね」みたいな感じでカミングアウトし,認められてしまうことがあるんですね。たとえば化粧。自分の本当の姿を偽る点ではカツラと変わらないはずなのに,化粧については日本語社会はカミングアウト済みで,結果として街では化粧品屋が堂々と営業し,化粧のタブー性はかなり薄まっている。

 とはいえ,「公の場での化粧は御法度」「「厚化粧」とはマイナスイメージのことば」「実際より化粧をしていないように見せる化粧法はあるが(ナチュラルメイク(第4回)),実際より化粧をしているように見せる化粧法はない」,といったことを考えていくと,やはり化粧も,自分を偽るタブーであるという面は否定できない。これが整形になると「疑惑」として取り沙汰されるほどのタブーになる。韓国語社会ではカミングアウトがなされ,お母さんが娘の誕生日にプチ整形のクーポン券をプレゼントしたりすることもあるらしいが,全面的な大がかりな整形になるとさすがにそう自由ではないという。つまりどのあたりでカミングアウトがなされるかは,個々の社会ごとに違っているが,自分の姿を変えることが基本的にタブーであることはどこでも変わらない。「キャラ」ということばを発して「自分は状況に応じて変わるのだ」と,一見あっけらかんとカミングアウトしているように思える若者たちも(前回),よく考えてみればこれをおおっぴらに実名でおこなっているわけではなく,匿名性の高いネットにこっそり書き込んでいるに過ぎない。

 土井氏が書かれていることは(前回の(1)の後半),「大きな物語」というよりも「良き市民社会のお約束」についてのことではないのか。それは「大きな物語」が失われた今も依然として強い力を保ち,私たちの日常生活を支配しているのではないだろうか。「大きな物語」の喪失という時代の流れをどの程度認めるにしても,若者たちの(そして私の)言う「キャラ」が,それでただちに説明し尽くされるというわけではないだろう。

 正直に言い足すなら,私が土井氏ほどには,「キャラ(クタ)」を「大きな物語」の喪失と結びつける気になれないのは,私が1960年~1970年代初頭の映画やテレビ番組を思い出すからでもある。土井氏は「大きな物語」の喪失前を「物語の主人公がその枠組に縛られていたキャラクターの時代」とされるのだが,映画『怪獣大戦争』(東宝,ベネディクト・プロ,1965年)の中では,怪獣ゴジラが,赤塚不二夫のマンガ『おそ松くん』のイヤミのギャグ「シェー!」をやらかしていた。映画『マジンガーZ対デビルマン』(東映,1973年)では,マジンガーZとデビルマンという,決して交わらないはずの両雄が並び立ってしまった。テレビ番組『ウルトラファイト』(円谷プロダクション,1970-1971年)では,ウルトラセブンや怪獣たち,宇宙人たちが,「地球を守る/征服する」などという本来のお題目とは何の関係もなく,勝手気ままに荒野でプロレスをやっていた。これらの登場人物たちの,本来の枠組からの逸脱ぶりを,私は興奮半分・幻滅半分で観ていたが,そこに大人どものご都合主義や商魂たくましさをうっすら感じることはあっても,「大きな物語」の喪失といったものを感じることはなかったのは,私が幼すぎたのだろうか。

 伊藤剛氏は,氏の言われる「キャラ」がマンガにおいて確立し,登場人物が物語から離れて自立しだした時期を,日本では1920年代とされている(伊藤剛2003「Pity, Sympathy, and People discussing Me」東浩紀(編)『網状言論F改:ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』83-100,青土社,92-93)。二次創作も含めて物語が膨大な量で何十年にもわたって生み出されてきた現代は,1920年頃とは同じ状況にはないとされるが,それでも「キャラ」の確立を「大きな物語」の喪失とはさほど結びつけておられないように見える。この点でも氏の「キャラ」探求のスタンスは,より根源的なもののように私には感じられる。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第87回 内キャラと外キャラについて(続)

2015年 6月 7日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第87回 内キャラと外キャラについて(続)

 前回述べたように,社会学者・土井隆義氏は「大人と若者は,自身の人格のイメージの仕方が違う。大人はアイデンティティのような一貫したものとしてイメージするが,若者はキャラの寄せ集めとしてイメージする」という旨を論じられる。だが,私の方は大人論・若者論を避け,大人・若者に共通して見られる一般的なものとして「キャラ(クタ)」を追求している。

 このような土井氏と私の違いは,時代というものの扱いにも見られる。土井氏はあくまでポスト・モダンという時代にこだわられ,これまでにない新しい変化が現代の若者に起きていると考えられるようだ。ここでキーワードとして登場するのが,哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(Jean-François Lyotard)の言う「大きな物語の崩壊」である。この概念について土井氏は特に説明を加えておられず,私のような門外漢には全面的な理解は難しいが,人間の理性に基づき世界全体を統一的に捉え説明できるはずと思われていたものが(大きな物語),どうも無理だと明らかになってきた(崩壊),と考えておけばとりあえずはよさそうだ。土井氏の文章を(1)に挙げる。

(1) このような現象は,物語の主人公がその枠組に縛られていたキャラクターの時代には想像できなかったことです。物語を破壊してしまう行為だからです。こうしてみると,キャラクターのキャラ化は,人びとに共通の枠組を提供していた「大きな物語」が失われ,価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで,それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ,複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。
振り返ってみれば,「大きな物語」という揺籃(ようらん)のなかでアイデンティティの確立が目指されていた時代に,このようにふるまうことは困難だったはずです。付きあう相手や場の空気に応じて表面的な態度を取り繕うことは,自己欺瞞(ぎまん)と感じられて後ろめたさを覚えるものだったからです。アイデンティティとは,外面的な要素も内面的な要素もそのまま併存させておくのではなく,揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれらを収束させていこうとするものでした。

[土井隆義『キャラ化する/される子供たち―排除型社会における新たな人間像』岩波書店,p. 23,2009]

 これに対して私は,世代論だけでなく時代論にも消極的で,大きな物語が信じられていた時代,それが崩壊してしまっている時代を問わず,どんな時代の人間のあり方にも共通して見られるものとして「キャラ(クタ)」を追求している。

 いや,人間が各々の時代から完全に独立でいられるとは私も考えてはいない。大きな物語の崩壊と聞けば,私にも思い当たることがないわけではないということは既に述べた(補遺第79回)。

 大きな物語の崩壊は,私の言う「キャラ(クタ)」を生み出しはしないけれども,「カミングアウト」を許すものではあるかもしれない。つまり,どんな時代の人間のあり方にも「キャラ(クタ)」は認められるのだが,大人たちがそれを認められないのに対して,若者が次の(2)のように,「自分は実は状況に応じて変わってしまうのだ」と,「キャラ」という語でカミングアウトしてしまえることは,たしかに時代のせいなのかもしれない。

(2) バイトと普段のキャラ違う奴来い
1: こたぬき:12/06/03 15:37 ID:主
主はバイトではめちゃくちゃ暗いジミーだが学校では騒がしいキャラみんなはどう?
2: こたぬき:12/06/03 15:41
むしろ家,バイト,彼氏,学校全部キャラが違う

[http://new.bbs.2ch2.net/test/read.cgi/kotanuki/1338705429/,最終確認:2015年5月25日]

言い換えれば,人間のあり方を意味する語として「キャラ」が浮上してきたのは,時代のせいかもしれないということでもある。

 但し,繰り返し強調しておきたいのは,「キャラ」ということばができる以前から,「キャラ」的な現象はあっただろうということである。現代とは言えない,ちょっと古い時代の文学作品を敢えて持ち出し,そこにキャラ(クタ)が認められることを繰り返し論じてきたのは(そのことは本編第91回で詳しく述べた),まさにそのためである。私の考えでは,キャラ(クタ)は昔からあった。ただ,これまでは,ないことになっていた。それは「良き市民社会のお約束」のせいである。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第86回 内キャラと外キャラについて

2015年 5月 24日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第86回 内キャラと外キャラについて

 「キャラクタ」と「キャラ」を区別するという伊藤剛氏の二分法がマンガ論を越えて諸方面の論者に援用されていったことは,それだけこのアイデアのインパクトの大きさを物語っている。だが,それらの論考の中で伊藤氏の「キャラ(Kyara)」概念がどれだけ忠実に採用されているか,あるいは変形が施されたにしても,その変形がどれだけ明示的に述べられているかは,正直いって私には疑問である―ということを前回述べたところ,伊藤氏から同感とのお声をtwitter上でいただいた(https://twitter.com/GoITO/status/597280112766124032)。ありがとうございます。

 調子に乗って,伊藤氏の「キャラ(Kyara)」概念に対する私の理解をもう少し述べれば,これはマンガの登場人物が1つ1つのコマを越え,1話1話の話を越えてリアルに生きていると読者に感じさせる,マンガの登場人物のあり方を考える上で非常に根本的な概念である。この概念を,現実世界を生きる私たちが口にする「実はオレ,学校とバイト先でキャラ違うんだよね」といった(私が追求している)「キャラ」と同一視することには,無理があるように私は思う。しかしながら,「根本的」という一点においては,2つの「キャラ」は似ていないこともない。このことを,土井隆義氏の論考を私のものと対比させる形で述べてみたい。

 若者が口にする「キャラ」という言葉を手がかりにして,人間像について考えるというスタンスは,私だけではなく土井氏にも共通している。また,考察の射程を若者に限らないという点でも両論は近い。但し,これはあくまで「近い」と言う以上のものではない。

 土井氏が「若者に限らない」とするのは,次の(1)に記されているように,「「内キャラ」という固定的な人格イメージを人生の羅針盤に据えようとする心性」である。

(1) また,男ならイケメンかキモメンか,女ならモテか非モテか,今からの努力では変更が不可能と思われるような固定的な属性で,卑近な対人関係だけではなく,自分の人生までも大きく左右されるかのように考える若い人たちも増えています。自由意思に基づいて主体的に選択されたものとしてではなく,生まれもった素質によって宿命づけられたものとして,自分の人生の行方を捉えようとする人びとが増えているのです。このような現象は,内キャラという固定的な人格イメージを人生の羅針盤に据えようとする心性がもたらした帰結の一つといえるでしょう。
 では,このような心性は,若い世代の人びとだけに特有のものなのでしょうか。現在の日本を見渡してみると,じつはそうではないことに気づかされます。よく目を凝らせば,日本社会のさまざまな領域に,この心性の影を見てとることができるのです。

[土井隆義『キャラ化する/される子供たち―排除型社会における新たな人間像』岩波書店,p. 36,2009]

 では「内キャラ」とは何か? ここでもまた,これまで多くの論者に対して述べてきた不満を繰り返さなければならないが,残念なことに,初出時点で特に説明がなされているわけではなく,はっきりした定義はなされていない。「内キャラ」と言う以上は「外キャラ」もあるのか?というと,これがあるのだが,これも特に説明はされていない。次の(2)(3)のような具合である。(2)は「外キャラ」の初出部分,(3)は「内キャラ」の初出部分である。

(2) こうしてみると,キャラクターのキャラ化は,人びとに共通の枠組を提供していた「大きな物語」が失われ,価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで,それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ,複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。

[同上,p. 23.]

(3) アイデンティティは,いくども揺らぎを繰り返しながら,社会生活のなかで徐々に構築されていくものですが,キャラは,対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても,生まれもった人格特性を示す内キャラにしても,あらかじめ出来上がっている固定的なものです。したがって,その輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても,それ自体は変化しないソリッドなものなのです。

[同上,p. 24.]

 詳しい定義などなくても,以上の説明で確かに大体はわかる。しかも面白い。上掲(3)の冒頭にあるように,アイデンティティは予め定まっているものではなく「社会生活のなかで」構築されていくもの,「そもそも自己とは,対人関係のなかで構築されていくものです」(p. 60)と土井氏は論じられる。そしてコミュニケーション能力についても,「コミュニケーション能力は,相手との関係しだいで高くも低くもなりうるものです。それは,じつは個人が持っている能力ではなく,相手との関係の産物なのです」(p. 18)と説かれる。つまり徹底したインタラクション志向なのだろう。コミュニケーションの重要性がますます叫ばれている今日,土井氏は第1章のタイトルに「コミュニケーション偏重の時代」という,挑発的な文言を持ってこられる。「みんなが思っているような,お互いの不動の個性を尊重したコミュニケーションなんか,要らないよ」と仰りたいのではないか。

 だが,詳しい定義がないと,やはり難しい箇所は残ってしまう。次の(4)は,(3)の直前の部分だが,(4)の最終部分では,人格のイメージがキャラの寄せ集めだとされている。

(4) それに対して,今日の若い世代は,アイデンティティという言葉で表わされるような一貫したものとしてではなく,キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして,自らの人格をイメージするようになっています。

[同上,pp. 23-24.]

 しかし,先に挙げた(1)では,人格のイメージこそ「内キャラ」とされていたのではなかったか。。。

 という具合に,解釈が難しい箇所をとりあえず外すと,大人と若者は,自身の人格のイメージの仕方こそ違っているものの(大人はアイデンティティといった一貫したものとしてイメージしているが若者はそうではない),固定的な「内キャラ」を尊重して人生を生きようとする点では同じだ,というのが土井氏の考えになる。

 これに対して私は,大人論,若者論を避け,大人・若者のあり方に共通するものとして「キャラ(クタ)」という概念を考えている。私が言っているのは「多重人格のような特殊な症例を別とすれば,通常の人間は,状況ごとにスタイルを変えるだけで,人間自体は変わらない」という伝統的な人間観は実はあまり現実と合わない,むしろ「人間は,状況ごとに,意図的・非意図的を問わず,変わってしまう部分(キャラ)がある」と考えるべきということであって,これは若者であろうと大人であろうと,同じだと私は考えている。

 伊藤氏の「キャラ(Kyara)」と私が追求している「キャラ」が,別物ではあるけれども,共に「根本的」ではあるというのは,一つにはこういうことである。(続)

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  英語版⇒An Unofficial Guide for Japanese Characters

【筆者プロフィール】

『日本語社会 のぞきキャラくり』定延利之(さだのぶ・としゆき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「状況に基づく日本語話しことばの研究と,日本語教育のための基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
URL:http://web.cla.kobe-u.ac.jp/aboutus/professors/sadanobu-toshiyuki.html

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【編集部から】

このサイトでの連載「日本語社会 のぞきキャラくり」がもとになり、書籍として『日本語社会 のぞきキャラくり―顔つき・カラダつき・ことばつき』が刊行されてから一年後のこと、編集部たっての希望がかない、さらに「キャラくり」世界を楽しむべく、続編をご執筆いただくこととなりました。
隔週日曜日の公開です。続きもお楽しみに!


日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第85回 Kyarakutaaについて

2015年 5月 10日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第85回 Kyarakutaaについて

 伊藤剛氏による「キャラクタ(character)」と「キャラ(Kyara)」の区別(補遺第81回第83回)は、前回取り上げた相原博之氏の『キャラ化するニッポン』(講談社現代新書,2007)以外にも、多くの論考の中に取り込まれている。だが、その取り込みには各論者独特の「ひねり」が加わり、わかりにくくなっていることも少なくない。

 たとえば土井隆義氏は著書の中で、タカラトミー製の着せ替え人形玩具「リカちゃん」について次の(1)のように述べておられる。

(1) しかし、平成に入ってからのリカちゃんは、その物語の枠組から徐々に解放され、現在はミニーマウスやポストペットなどの別キャラクターを演じるようにもなっています。自身がキャラクターであるはずのリカちゃんが、まったく別のキャラクターになりきるのです。これは、評論家の伊藤剛さんによる整理にしたがうなら、特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、(中略)どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへと、リカちゃんの捉えられ方が変容していることを示しています。(中略)このような現象は、物語の主人公がその枠組に縛られていたキャラクターの時代には想像できなかったことです。

[土井隆義『キャラ化する/される子供たち―排除型社会における新たな人間像』岩波書店,pp. 22-23,2009]

ここではリカちゃんがミニーマウスに「なりきる」と表現されているが、リカちゃんにミニーマウスのような黒いデカい鼻ができたり、リカちゃんの口が顔幅いっぱいに裂けたりしているわけではない。件の商品「リカちゃんミニーマウスだいすき!」を見るかぎりでは、リカちゃんはリカちゃんであって、ただ「ミニーマウスだいすき!」とばかりに、ミニーマウスのコスプレをして遊んでいるに過ぎない。他の物語の登場人物のコスプレをすることを「キャラクターからキャラへの変容」と呼べるとしても、その「キャラ」は本当に伊藤氏が定義された「キャラ」なのか、私には何とも言えない。

 著書の中で土井氏の論考を紹介した上で、暮沢剛巳氏は「伊藤の示した図式が、現代社会全般を扱いうるだけの射程を持っていることは確かなようである」と述べておられる(『キャラクター文化入門』NTT出版,2010,pp. 27-28)。伊藤氏の「キャラクタ」「キャラ」の区分を取り込んだ論考の中で、最も目立って見えるのが同書だろう。表紙に添えられた英語INTRODUCTION TO KYARAKUTAA CULTUREは、KYARAKUTAAの部分が大きくなっており、特にKYARAはひときわ大きく、続くKUTAAとは文字色も違えている。伊藤氏のKyaraを基にした新概念Kyarakutaaの提案か、Kyarakutaaはキャラクタ(character)とどう違っているのかなどと思ってしまうが、実際にはKyarakutaaなる概念は出てこない。暮沢氏の考察はヤンキー文化やパチンコにまで及ぶものの、中心となっているのはキャラクタ(物語の登場人物)の歴史的系譜や人気の背景であり、キャラへの言及も限定的なもののように見える。

 伊藤氏によるマンガ論上の区別を自身がどのように拡大解釈し、「キャラクタ」「キャラ」を各々どのように定義するのかが明示されていないということが、各論者のせっかくの分析をわかりにくいものにしてしまっていると感じるのは私だけだろうか。

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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第84回 「キャラ化」について

2015年 4月 26日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第84回 「キャラ化」について

 日本の社会が「キャラ」を切り口に論じられるということは,もはや今日では珍しいと言えないかもしれない。だがその中でも,相原博之氏の『キャラ化するニッポン』(講談社現代新書,2007)は,射程の幅広さで異彩を放っている。

 人々が「生身の自分」よりも「キャラとしての自分」に親近感やリアリティを感じるようになる「アイデンティティのキャラ化」。マンガの中で描かれる「キャラ的身体」が人々のあこがれの対象となり,実写ドラマ化という形で「生身の身体」がそれを追いかける「身体のキャラ化」。最近の若者たちによるコミュニケーションの皮相化という「コミュニケーションのキャラ化」。マンガを地で行くような「政治のキャラ化」。新興企業が実体とかけ離れた魅力的な企業イメージで膨張する「経済・企業のキャラ化」。人々が消費対象の「全体」にではなく,「部分」(キャラ属性)にしか魅力を感じなくなる「消費のキャラ化」。と,実に様々な現象が「キャラ化」というキーワードのもとに論じられている。

 「キャラ化」とは何か? それは「端的に言えば,現実社会をキャラ的に生きる生き方を指した言葉」(p. 178)だと言う。では,その前提となる「キャラ」という概念は,どのように捉えられているのかというと,なんと伊藤剛氏による「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」の定義(補遺第81回第83回を参照)が持ち込まれているではないか(pp. 120-124)。もちろん,伊藤氏の区別はマンガ論の中でなされたもので,相原氏もそれを「拡大解釈」して取り込んでいるようなのだが,う~ん,これがなかなか難しい。たとえば「蛯原友里というキャラクターと「エビちゃん」というキャラ」(※)(p. 148)と述べられているあたり,伊藤氏の定義との関係が明確でないと感じてしまうのは私だけだろうか。

 むしろ相原氏の「キャラ化」の多くは,「キャラクタ(=物語の登場人物)化」と考えた方が,氏の観察は活きるのではないか。現実世界を生きる私たちも,物語世界を生きる登場人物も,基本的には変わりがない。だが,鑑賞作品である物語はしばしば単純化され,登場人物のキャラ変わりは通常,抑制される(それが起きたのが「アルムおんじ」のラップなどである(前回))。つまり物語世界の登場人物は単純なものになりがちである。

 伊藤氏の「キャラ」定義を紹介した上で,相原氏は「社会がキャラ化するということは社会が「比較的に簡単な線画」で描けるようなものになるという意味に置き換えることもできる。これは,もちろん「キャラ化した人間」に置き換えても同様だ」(p. 123)と「拡大解釈」をおこなっている。だが,この「簡単さ」は,物語世界の登場人物の単純さと「拡大解釈」することも可能なのではないだろうか。

※蛯原友里というファッションモデルの愛称が「エビちゃん」、とwikipediaには解説されている。

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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第83回 「キャラ(Kyara)」について(続々)

2015年 4月 12日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第83回 「キャラ(Kyara)」について(続々)

 まず,伊藤氏の「キャラ(Kyara)」と,これまで私が述べてきた「キャラ(クタ)」の異同を明らかにしておこう。

 たとえば,この原稿を書いている2015年4月現在,テレビで放映されている家庭教師派遣会社「家庭教師のトライ」のCMでは,アニメ『アルプスの少女ハイジ』に登場していた重厚にして寡黙な老人「アルムおんじ」が,「トライは入会金が無料! Hey! Yo! おんじは感無量! この春だけトライは無料! チェッチェケ,チェケチェケチェ……」などと軽快なラップでトライの宣伝文句を口走り,少女ハイジを唖然とさせる。

 また,バイク買い取り専門店「バイク王」のCMでは,謎の女・峰不二子の「最近バイク乗ってる?」という何とも日常的な問いかけに,世紀の大怪盗であるはずのルパン三世が「忙しくて乗れねぇんだよ」と頭をかいてボヤき,「車検も切れてるし」と車検切れを気にする。ニヒルな剣士だったはずの十三代目石川五ェ門は「バイク王に売ったでござる」と,バイクに乗っていたことを臆面もなくさらけ出す。しまいには,クールなガンマン・次元大介も敏腕警部・銭形幸一も一緒になって「バイクを売るならゴー,バイク王!」と宣伝ソングを歌う。

 眠気覚ましのガム「Black Black」を宣伝するロッテのCMでは,マシーンのようにミスを犯さないはずのゴルゴ13が車を運転中にイビキをかいて白目で眠りかけ,このガムを口にして飛び起きている。

 これらは全て,私の言う「キャラ(クタ)」が変わっている例である。つまり「本当は意図的に切り替え可能だが,切り替えてはならず,切り替えられないことになっているもの。その切り替えが露呈すると,それが何事であるかすぐ察しがつくが気まずいもの」が変わっており,それがあまり「気まずい」印象を与えないのは,これが現実世界に生きる我々のキャラ変わりではなく,アニメやマンガの登場人物のキャラ変わりに過ぎないからである。

 しかしながら,こうしたキャラ変わりを我々がキャラ変わりと理解できる,たとえばアルムおんじのキャラ変わりを見て「アルムおんじのキャラ変わりだ」とわかるのは,アニメ『アルプスの少女ハイジ』に登場していた白髪の老人と,「家庭教師のトライ」のテレビCMに登場している白髪の老人が同一人物だとわかればこその話である。伊藤氏の言う「キャラ(Kyara)」が保たれているからこそ,我々は登場人物のキャラ変わりに気付くことができるということである。

 このように,伊藤氏の「キャラ(Kyara)」と私が述べる「キャラ(クタ)」は同じものではない。マンガ論の中で伊藤氏によって生み出された「キャラ(Kyara)」という概念がたとえば登場人物のリアルさを論じる中で威力を発揮する,といったことは私にもよくわかる話である。だが,「あの人とキャラかぶってる」「実は学校と家でキャラが違う」「この集団では私はなぜか姉御キャラになってしまう」など,現実世界の我々が気にしてやまない「キャラ(クタ)」は,それとは別物である。両者の関連を検討してみる価値はあるだろうが,両者の同一視は議論を混乱させるばかりだろう。

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著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)『日本語社会 のぞきキャラくり――顔つき・カラダつき・ことばつき』(三省堂、2011)などがある。
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日本語社会 のぞきキャラくり 補遺第82回 「キャラ(Kyara)」について(続)

2015年 3月 29日 日曜日 筆者: 定延 利之

補遺第82回 「キャラ(Kyara)」について(続)

 このところ取り上げているのは「登場人物は物語から独立できるか?」という問題だが,この問題を厳密に追求するには,まず「物語」という概念の明確な定義が必要だ(がそれが欠けている)ということも,折に触れ断ってきたとおりである(補遺第80回第81回)。さらにもう一つ注意が必要なのは,「登場人物は物語から独立できるか?」という見出しのもと,性質の異なる2つの問題が取り上げられてきたということである。ここで2つの問題を振り返っておこう。

 第1の問題は「登場人物は物語を必要としないのか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が無くても構わないかという問題である(補遺第78回第80回)。この問題について私は,肯定的な立場(特に東浩紀氏)と否定的な立場(宇野常寛氏)を紹介した上で,これらの論者の視点(創作者視点)とは別の視点(鑑賞者視点)から,否定的な立場をとったことになる。(とはいえ上述したように,そもそも私の「物語」概念が先行論者たちの「物語」概念と一致している保証はないから,これまでの論の当否は今のところ論じられない。)

 第2の問題は「登場人物は物語を越えて存在し得るか?」という問題,つまり登場人物は登場する物語が複数個でも構わないかという問題である(前回以降)。そして,前回紹介したのは,伊藤剛氏の「キャラクタ(character)」「キャラ(Kyara)」という用語の区別が,まさにこの問題意識に沿ってなされているということである。再び言えば,単一の物語から離れられないのが「キャラクタ」であり,これは一般に言う「登場人物」と同一視できる。他方,「キャラクタ」に先立って何か生命感・存在感のようなものを感じさせるもの,それだけに複数個の物語にまたがって登場するものが「キャラ」である。

 たとえば『どくろ仮面』というマンガがあったとすると,連載第1回を見ても連載第37回を見ても「あっ,どくろ仮面だ」と我々が思えるのは,「キャラ」が同じだからであり,それぞれの回の「キャラクタ」(登場人物)としてのどくろ仮面は,その「キャラ」を前提にしている。或る回のあのコマを見てもこのコマを見ても「どくろ仮面だ」と我々が思えるのも,やはり「キャラ」のせいだとされている。

 このような用語「キャラクタ」「キャラ」の区別がマンガを論じる上で有益なものだということを,私は否定しようとは思わない。但し,両用語を区別すること,つまり用語「キャラクタ」は登場人物を意味する語として従来どおり保持する一方で,その前提となるものとして新しく用語「キャラ」を導入することは,マンガ論を越えて多くの論者に採用もしくは援用されており,この採用・援用のプロセスについては,私は検討の必要を感じている。(さらに続く)

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