『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(30)
2010年 7月 6日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(30) 職曹司時代「5月の御精進のほど」~卯の花車~
ホトトギスを尋ねて京郊外に出かけた清少納言たちは、高階明順宅での目新しい接待を十分に楽しみ、詠歌の使命が果たせないまま帰途につきます。その帰り道には、清少納言たちを夢中にさせるさらなる誘惑が待ち構えていました。今が盛りと咲き誇る民家の垣根の卯(う)の花です。女房たちは満開の卯の花を折って、最初は牛車の簾や脇の方に差していたのですが、そのうち供の男たちも一緒になって、屋根に枝を葺いたように差していった結果、卯の花の垣根を牛にかけたような状態になってしまいました。
これを見た人はなんと言うだろうと清少納言は期待しながら帰路を進みますが、話し甲斐のある貴族は一人も通りがかりません。大内裏の入口の門が近づき、卯の花車を誰にも見せられないのを残念に思った清少納言は、一条大宮の藤原為光邸に立ち寄ります。そして、「侍従殿やおはします。郭公の声聞きて、今なむ帰る(侍従殿はいらっしゃいますか。私たちはホトトギスの声を聞いて、今帰るところです)」と、使者に声をかけさせます。
侍従殿は藤原公信(きんのぶ)です。為光の六男にあたる二十歳過ぎの若者で、あの斉信の弟です。宮中の精進期間ということで、気を抜いてくつろいでいた公信は、突然の清少納言の訪問に驚きます。大急ぎで袴をはいて身づくろいしますが、それを待たずに清少納言は車を走らせます。袴の帯を結いながら牛車を追いかけてくる公信を見て、ますます車を急ぎ走らせるのです。わざわざ公信を呼び出しておいて、これは少しすげない仕打ちです。
さて、門の所でやっと追いついた公信は、息をきらせながらも、まず卯の花車にひとしきり笑い興じます。この一興を語り伝えてほしいという清少納言の要望は公信によって叶いそうですが、その彼から、「歌はいかが。それ聞かむ(詠んだ和歌はどんなですか。それを聞きましょう)」と問いかけられます。ホトトギスの声を聞いて帰るからには、和歌の一つも詠じているはずというのが、貴族社会の常識だったのですね。しかし、清少納言たちはまだ和歌を詠んでいませんでしたから、「今、御前に御覧ぜさせてこそ(まずは中宮さまに和歌をお見せして、その後で)」とごまかしてしまいます。
そのうち雨が強く降ってきました。門の下で雨宿りをしたいところですが、あいにくそこは屋根のない造りの土御門(つちみかど)だったので、濡れてしまいます。門の中へ入る牛車を引き留める公信に、「いざ、給へかし。内へ(さあ、いらっしゃいな。宮中へ)」と呼びかける意地悪な清少納言。公信が普段着のまま走って追いかけてきたので、そのまま宮中に入れないことを見越して言っているのです。
雨はとうとう本降りになってしまいました。清少納言たちの牛車は大急ぎで門内に引き入れられ、残された公信は、家来が持ってきた傘をさして、後ろを振り返りながらのろのろと憂鬱そうに引き上げます。その手には牛車にさしてあった卯の花が一本握られていました。
さて、定子後宮に帰還した清少納言たち一行は、定子の要請に応じて、早速、散策の一部始終を一同に語り聞かせます。ホトトギスがたくさん鳴いていたことや高階明順宅でのもてなし、最後に公信が車を追いかけてきた時の醜態で笑わせてオチをつけていますから、清少納言の彼への仕打ちは意図的なものだったと推測されます。公信は定子後宮の談笑のだしに使われたのです。
ひとしきり報告が終わったところで、定子からホトトギスの歌を問われ、清少納言たちは肝心の和歌を詠みそびれたことを告白するしかありませんでした。今すぐにでも詠むようにと定子に言われ、乗車組四人は反省しながら詠歌を試みるのですが、そこにまた邪魔が入ってきます。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(29)
2010年 6月 22日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(29) 職曹司時代「5月の御精進のほど」~ホトトギスを尋ねて~
職曹司での長期滞在は、内裏ではなく大内裏にとどまっていた中宮定子の当時の微妙な政治的立場を示していますが、職曹司時代の章段には、清少納言をはじめ定子後宮の女房たちが生き生きと描かれる印象的な話がたくさんあります。その中から、まず、「5月の御精進のほど」で始まる段を紹介しましょう。
『枕草子』には、5月の描写が多く見えるので、5月は清少納言が好んだ時節だったと考えられています。現代では初夏のさわやかな頃ですが、旧暦の5月は、現在の6月半ばから7月の緑深まる盛夏であり、同時に梅雨の季節にもあたります。天候不順で体調を崩しやすい時期なので、正月、9月とともに精進期間が設けられていました。
そんな5月の初め頃、清少納言がホトトギスの声を尋ねに行こうと言い出します。ホトトギスは夏を告げる鳥として、古来和歌に詠まれてきました。清少納言はこの鳥が大好きで、「鳥は」の段で、ホトトギスの素晴らしさを力説しています。
清少納言の提案に、退屈していた女房たちは乗り気になって目的地をあれこれ考えます。誰かが賀茂神社の奥あたりにホトトギスが鳴いていると言うので、そこに行こうということになり、5月5日の朝、車を調達して清少納言たち女房4人が乗り込みました。当時の牛車は4人乗りなので、乗りそびれた女房たちはもう一台、車を要求しますが、それは定子に制止されてしまいます。
さて、清少納言たちの車は大内裏の北の門から一条大路に出て、左近の馬場で端午の節句に行われる手番(てつがい=騎乗して弓を射る競技の演習)に行き当たり、それを見過ごして進みます。ちょうど1カ月前に葵祭り見物に出かけた道筋だったので、祭りの時の賑わいが思い出されます。
到着した所は高階明順(たかしなのあきのぶ)の家でした。明順は定子の母方のおじにあたります。そこは京郊外の別荘で、建物の造りや調度類をわざと田舎風の趣向に揃えてあります。折しもお目当てのホトトギスが五月蝿いくらいに鳴き合っています。
明順は、中宮方から来た訪問客のために余興を用意してくれます。それは、近所の農家の若い男女を招集して行った稲こきの農作業でした。石臼の作業は、清少納言たち女房にとって、「見も知らぬくるべく物(見知らぬくるくる回る物)」であり、「めづらしくて笑ふ」見物でした。貴族女性は普段の生活で庶民の労働を目にする機会がなかったことが分かります。さらに明順は、みずから摘み取った蕨を供応するなど、田舎風の食事を演出し、清少納言たちをもてなしてくれました。
そのうち雨が降ってきたので、女房たちは急いで車に乗りますが、その時、清少納言が、「さてこの歌は、ここにてこそよまめ(ところで、ホトトギスの歌は、この場所でこそ詠みましょう)」と言っています。つまり、ホトトギス探索に出たからには、当然ホトトギスの和歌を詠んで持ち帰るというのが、定子後宮の暗黙の了解事で、それが代表メンバー4人の使命だったのです。
この時、同行の女房が、「ままよ、帰り道の途中ででも詠んだらいいでしょう」と言ったので、そのまま車に乗り込んでしまうのですが、その後、次々と詠歌の機会を逸すことになり、ある事件に発展していきます。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(28)
2010年 6月 8日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(28) 定子の職曹司参入
長徳2年6月に里邸二条宮が焼失して以降、記録類に定子の記事が再び現れるのは、長徳3年6月22日の職曹司(しきのぞうし)参入の記事からです。それに先立つ3か月前、東三条院詮子の病気平癒のために大赦が行われ、伊周・隆家の罪も許されることになりました。長徳3年4月に、まず隆家が入京し、伊周は同年12月に入京することになりますが、そのような情勢を受けて定子の謹慎も解けたものと思われます。
それでも定子が大内裏の職曹司に参入することについて、世の人々は快く思わなかったと『小右記』には記されています。長徳の変の騒動で定子が一度髪を切っていることが問題になったのです。しかし、中宮方では定子は出家していないと主張し、職曹司参入を果たしたようです。この時、定子参入を後押ししたのは、一条天皇だったのではないでしょうか。長徳2年12月に生まれた第一皇女も6ヶ月の可愛い盛りになっていたはずです。
職曹司は中宮に関わる公務を司る役所です。実は、定子はこれまでにも何度かここを臨時の滞在場所として利用してきました。しかし、今回は2年強にわたる長期間の滞在になります。この間の定子後宮の出来事を扱った章段が『枕草子』に9段もあり、職曹司時代の章段群を形成しています。そのうち、参入して間もない頃のものと思われる一段を見てみましょう。
職御曹司におはしますころ、木立などのはるかにものふり、屋のさまも、高うけ遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。……近衛の御門より左衛門の陣にまゐりたまふ上達部の前駆ども、殿上人のは短ければ、大前駆、小前駆とつけて聞きさわぐ。あまたたびになれば、この声どももみな聞き知りて、「それぞ、かれぞ」など言ふに、また、「あらず」など言へば、人して見せなどするに、言ひ当てたるは、「さればこそ」など言ふも、をかし。
(中宮様が職御曹司にお住まいのころ、そこは木立が鬱蒼と茂り、建物の様子も高くてよそよそしいのだが、なぜか妙に面白く感じられる。……大内裏の近衛門から内裏入口の左衛門の陣に参上なさる公卿の前駆たちの声が聞こえ、それより殿上人の前駆の方が短いので、女房たちは、それぞれ大前駆、小前駆とつけて聞きつけて騒ぐ。それが何度も重なると、誰の前駆の声かを皆聞き分けて、「それは誰よ、彼よ」と言うと、別の女房が「そうじゃない」と言うので、人をやって確かめなどするが、言い当てた女房は、「だから言ったでしょう」など言うのも面白い。)
職曹司は住み慣れた寝殿造りの建物と異なって、背が高く物慣れない感じがするのですが、それがかえって面白いと作者は記しています。また、大内裏から内裏に参上する男性貴族たちの先払いの声が聞こえてくる位置にあるので、宮中に出入りする人々の動きを間近に感じることができます。滞在が長期にわたったために、女房たちは先払いの声が誰の従者なのかを聞き分けるまでになっています。
それにしても女房たちの騒ぎようは尋常ではありません。この後、有明の月が照らす庭に下り立った女房たちは、さらに内裏の左衛門の陣まで探索に行くという大胆な行動に出ます。その時、ちょうど退出してきた殿上人たちと鉢合わせして大慌てで逃げ帰り、職曹司で殿上人たちに応対します。これに続く章段末尾は、殿上人が昼も夜も絶えることなく職曹司を訪れ、上達部まで訪れたという文章で閉じられます。この末尾からは何となく不自然な印象を受けるのですが、それは、中関白家隆盛時ならあえて書かなくていいことだったからです。逆に言えば、そこに没落期の定子後宮を盛りたてようとする作者の気概が感じられるのです。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(27)
2010年 5月 25日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(27) 清少納言の再出仕
長徳2年の里居の時、なかなか再出仕に踏み切れなかった清少納言の気持ちを動かしたのは、やはり中宮定子でした。ある日、定子から送られてきた手紙を開けてみると、山吹の花が一つ包まれていて、その花びらに一言、「いはで思ふぞ」と書かれていました。それは、『古今和歌六帖』という歌集に載っている次の和歌の一句でした。
心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる
(私の心の中には、表面からは見えない地下水がわき返っているように、口に出さないけれど、あなたのことを思っています。その思いは口に出して言うよりずっと優っているのです)
この歌がなぜ山吹の花に書かれていたかを解くには、『古今集』に載るもう一つの和歌を思い浮かべる必要があります。
山吹の花色衣ぬしや誰問へど答へずくちなしにして
(山吹の花のような色の衣に持ち主は誰ですか、と聞いても答えません。それはくちなしだからです)
素性(そせい)という歌僧の詠んだ歌です。「山吹の花色衣」は僧侶の黄色い衣の色です。この歌では、黄色の染料の素になる「梔子(くちなし)」の実に「口無し」をかけ、だから答えがない、としゃれています。すなわち、山吹の花と「言はで思ふぞ」の句は「くちなし」つながりというわけで、定子は山吹の花に「言はで思ふぞ」と書いたと考えられます。
口には出さない、でも口に出して言うよりずっと心の中のあなたへの思いは優っている。それは、何も聞かずに清少納言を信頼し包み込む定子の大きな愛情であり、また、出仕要請に応えられないまま、定子の事を思い続けていた清少納言の気持ちでもありました。主従の思いは重なり、清少納言のそれまでの不安は一瞬にして消え去ってしまいます。初出仕の時に魅了されて以来、ずっと慕い続けてきた中宮定子との絆を確認した時、周辺の女房たちの雑音など、清少納言にはもうどうでもよくなったに違いありません。それから間もなく彼女は定子の許に再出仕します。
では、清少納言の長徳2年の里居がいつ頃始まり、どれくらい続いたのかについて考えてみましょう。前々回、里居中の清少納言に源経房が伝えた話では、定子後宮の女房たちは季節の色目の装束を怠り無く身に着けていたということでした。それは朽葉の唐衣に萩や紫苑などの色目でしたから、時節は秋を意識した7月ころと見るのが妥当でしょう。その際、経房が清少納言に出仕を促していたのは、それより前の夏ころから清少納言の里居が続いていたためと推測されます。ちょうど長徳の変が起きた季節になります。
清少納言が再出仕を決意したのはいつ頃でしょうか。文脈としては、経房訪問の後に、里居の理由について作者の心中表白があり、次に定子から山吹の花が送られて再出仕に至ります。ここで、秋と推測した経房訪問の時節と、再出仕の契機となった山吹の花の季節が相違するという問題が発生します。そこで、山吹は春の花ですが、これは秋の返り咲きの山吹だったのだとか、造花を使ったのだとかいう説が出されています。
しかし私は、定子が送った山吹の花は本来の季節である春に咲いたものだと考えます。経房訪問の後も里居を引き延ばしているうちに季節が移り変わったのです。その場合、清少納言の里居期間は長徳2年夏から翌年春までの一年近くに及ぶことになりますが、この時、清少納言はそれだけの時間をかけて、宮仕え生活断絶の危機をしっかりと乗り越えたのではないかと考えています。
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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(26)
2010年 5月 11日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(26) 清少納言の里居~心を慰める紙と畳~
清少納言には、宮仕え中に中宮定子や女房たちの前で、折に触れ口にしていることがありました。それは、次のようなことです。
世の中の腹立だしうむつかしう、かた時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、みちくに紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。
(世の中が腹立たしく、煩わしくて、ほんのわずかな時間も生きていられそうな心地がしなくて、もうどこへでも行ってしまいたいと思う時に、ただの紙でとても白く美しいものに、上等の筆、白い色紙、みちのくに紙などを手に入れたら、気持ちがすっかり慰められて、まあいいか、このままもうしばらく生きていてもよさそうだなと思われます)
何か非常に嫌なことがあって、もう生きていけそうもないと思うようなとき、自分の気持ちを慰め、前向きにしてくれるもの、そんな自分だけの楽しみに浸って立ち直るというのは、現代人もよく行う処世術です。文筆家清少納言の心をとらえたものは、第一に筆記用具でした。真白な美しい紙と高級な筆が手に入れば、それだけでもう気持ちを切り替えることができるというのです。なんとも手軽な方法だと、定子や同僚女房たちに笑われますが、現在の私たちの感覚では、当時以上にそう思うかもしれません。
白い紙がどこでも簡単に買える現代と比較して、平安時代の紙はなかなか手に入らない高級品でした。さらに和紙は、樹木の皮から繊維を取り出し漉いて作るために薄茶色が本来の色なので、真白な紙は、それを漂白するか白く着色する手間を必要とします。中下流階級の貴族の家ではなかなかお目にかかれない純白の紙や、厚手で白いみちのくに紙も、宮中では日常的に使用できることが清少納言をおおいに喜ばせたでしょう。
紙の他にもう一つ、清少納言が心慰むものとして取り上げたのが、「高麗(こうらい)ばしの筵(むしろ)」でした。「高麗ばし」は畳の縁模様で、白地の綾に雲や菊の模様を黒く織り出したものです。白と黒のすっきりしたデザインは彼女のお気に入りで、こころ魅かれるインテリアだったようです。
さて、本題はこれからです。「さて後ほど経て、心から思ひ乱るる事ありて、里にあるころ」と始まる次の段落から、最初の話からいくらかの時間が経過して、清少納言が里下がりをしていた時の話に移ります。突然、中宮様から高級紙20枚を入れた包みが送られ、早く参上せよという伝言と、これは、以前、耳に止めていた事があったから送るという内容が伝えられました。感激した清少納言は、和歌を定子に返します。
それから二日後、今度は高麗ばしの畳が送られてきました。使者は畳を置いてすぐに去ったので、送り主を確かめることができませんでしたが、もちろん送り手は定子だと思います。念のため、ある女房を介してそれを確認した清少納言は、再度定子に手紙を書きます。しかし、それをこっそり中宮御所の手すりに置かせたところ、使者があわてていたために、手紙が階段の下に落ちてしまったという記述で終わっています。
この章段では、中宮定子が清少納言の好みを覚えていて、彼女の心を最も慰める贈り物をしたのに、清少納言の方は、定子に手紙を書いただけで出仕していません。定子の心遣いを受け取り感激しながら、それでも出仕するに至らなかった清少納言のこの時の里居は、彼女がそれまでになく追い詰められた長徳2年の里居だったと考えられます。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(25)
2010年 4月 20日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(25) 清少納言の里居~源経房の訪問~
長徳2年の清少納言の里居は、その背景に政治的問題が絡んでいたため、長期にわたりました。清少納言が里下がりをすると、普段ならすぐに出仕要請の手紙をよこす中宮定子も、長徳の変直後の悲痛な日々を送っていた最中でした。前回お話した「殿などのおはしまさで後」の段では、「例ならず仰せ言などもなくて、日ごろになれば(いつもと違って中宮様からのお言葉もなくて、何日もたったので)」と書かれていますが、それは定子が置かれていた状況を考えるとやむをえないと思います。
定子のことを心配しながらも出仕できずにいた清少納言の里居先を、右中将源経房が訪ねてきます。経房は清少納言と親しく、道長にも近い人物です。一方、安和の変で左遷された源高明(みなもとのたかあきら)の四男で、没落貴族の悲劇を身をもって体験した人物でもあります。彼は中宮御所を訪問した後に清少納言の所へ来たようで、定子サロンからの伝言を携えていました。
今日、宮にまゐりたりつれば、いみじう物こそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣をりにあひ、たゆまで候ふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八,九人ばかり朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩などをかしうてゐ並みたりつるかな。…
(今日、中宮様の御殿に参上しましたら、非常にしみじみとした風情でした。女房の装束は、裳や唐衣が季節に合っていて、気を緩めずにお仕えしていましたよ。御簾の傍らの開いている所からのぞいたところ、八,九人ほどの女房が、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑や萩などの襲(かさね)の袿(うちき)を着て、趣のある様子で並んで座っていたことですよ。…)
女房たちが季節に合わせて身につけている朽葉や紫苑、萩などの着物の色目は秋のもので、時節が秋であることを示しています。女房たちはわざと簾の端を開けて、経房に自分たちの怠りない装束姿をのぞかせたのでしょう。経房の報告は続きます。中宮御所の庭の草が生い茂っているので、「どうして、手入れしないのか」と尋ねたところ、「わざわざ露を置かせて御覧になっているのだ」と宰相の君が答えたこと。さらに、「こんな場所に中宮様がお住まいの折には、清少納言は必ず伺候するはずと思っていらっしゃる甲斐もなく、どうして出仕しないのか」と女房たちが言っていたことです。
中宮御所だというのに、雑草が伸びて荒れたままの庭。おそらく手入れする人手がないのでしょう。それを指摘され、不遇を嘆いたり訴えたりするのではなく、わざと露の置く風情を鑑賞しているのだと答える宰相の君。宰相の君は定子サロンを代表する上臈(じょうろう=身分の高い)女房です。経房が伝えているのは、時勢に取り残された状況の中でも、居住まいを正し、凛とした姿勢を保って生きている誇り高き中宮定子の様子です。それは、清少納言に対する女房たちのメッセージに響いてきます。本来ならあなたこそ、定子サロンの先頭に立って私たちのように振る舞っているはずじゃないのと、彼女たちは言いたかったのだと思います。
この後、しばらくして定子本人から清少納言に便りが届き、それを契機に再出仕するという展開になっています。しかし、この里居で清少納言が再出仕に至るまでには、かなりの時間を要したと考えられます。同時期の清少納言の里居を扱った別の逸話が他の章段にありますので、次回、見てみましょう。
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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(24)
2010年 4月 6日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(24) 清少納言の里居~長期里下がりの理由~
長徳2年という年に中宮定子が経験した様々な悲愴な事件についてお話ししてきました。それは、清少納言が宮仕え生活を始めた正暦年間には、誰も考えもつかなかった事だったと思います。中関白家の栄華を描いてきた『枕草子』に、長徳の変前後の定子の悲劇を直接描写する記述はありません。敬愛する主人の悲劇に直面して、作者はどのように感じ、何を考えていたのでしょうか。
実はこのころ、清少納言の身の上にもこれまでにない事態が発生し、長い間里下がりしていたようなのです。宮仕え生活の中で、清少納言もそれまでに何度か里下がりをしたことはありました。そんな時は、すぐに定子から出仕要請の手紙が届き、大急ぎで定子の許に戻っています。しかし、今回の里居はそう簡単に戻れる状況ではありませんでした。この時の清少納言の里居を扱った章段は次のように始まります。
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、さわがしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえ絶えてあるまじかりける。
(殿様がお亡くなりになった後、世間で事件が起こり、騒がしくなって、中宮様も宮中に参内なさらず、小二条殿という所にいらっしゃる時に、私は何となくうっとうしい事があって、長い間里に下がっていました。中宮様の周辺がとても心配な時に私が出仕しないなど、あってはならないことだったのですが。)
冒頭に関白道隆薨去後から長徳の変にかけての歴史的背景に言及する章段は、『枕草子』でこの段だけです。さらに興味深いのは、歴史資料に見えないこの時期の定子の居場所が、「小二条殿」と記されていることです。二条邸を焼け出された定子が、記録類に再び居場所を記される長徳3年6月までの約1年間をどこでどのように過ごしていたのか、さまざまに推測されていますが、今のところよく分かりません。ただ、『枕草子』に見える「小二条殿」の記述からは、二条近辺の小さな家に居場所を定めて謹慎生活を送っていた定子の様子が想像されます。そして清少納言は、そんな中宮定子のことを心配しながらも、宮仕えに嫌気がさして里下がりしていたというのです。里居の原因について、作者は次のように語っています。
げにいかならむと思ひまゐらする御けしきにはあらで、候ふ人たちなどの、「左の大殿方の人知る筋にてあり」とて、さしつどひ物など言ふも、下よりまゐる見ては、ふと言ひやみ、はなち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ…
(本当に私のことをどのようにお考えだろうと思い申し上げる中宮様のご様子ではなくて、お仕えする女房たちなどが、「(清少納言は)左大臣殿側の人と知り合いだ」といって、寄り集まって話していて、私が下局から参上するのを見ると、ぴたりと話を止め、仲間外れにしている様子がこれまでになく不快なので…)
長徳2年の不穏期は、中関白家の外部から中傷する者、内部から離反する者などが出て、定子を取り巻く女房たちの雰囲気もピリピリしていたことでしょう。そのような状況の中で、清少納言は疑心暗鬼にとらわれた女房たちから爪弾きにされてしまったのです。定子の気持ちを懸念していることから考えると、清少納言が疑われるような何らかの出来事があったのかもしれません。『枕草子』には藤原道長や道長の従弟にあたる源経房が登場し、親近感を持って描かれていますが、清少納言の彼らに対する何気ない言動が増長され、同僚女房たちの憶測を招いたとも考えられます。
清少納言が定子の御前に参上すると、それまで集まって話をしていた女房たちがピタリと口をつぐんで、知らんふりをする。そんなことが度重なると、どんなに気丈な性格でも、気が重くなっていくのは当然でしょう。女ばかりの集団内で、現代にもよくありそうなイジメですね。清少納言は初宮仕え生活の中で、初めて危機に直面したのです。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)、「ホトトギスを待つ女―道綱母の和歌へのこだわり―」(『日記文学研究 第三集』2009年 新典社)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(23)
2010年 3月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(23) 長徳の変~定子周辺~
中関白道隆が亡くなった後、中宮定子の最も身近な後見役は兄伊周と弟隆家でした。しかし、二人は長徳の変で政治的な力を失ってしまいました。残された大きな依り所は夫の一条天皇でしたが、定子は罪人の近親者として宮廷から退出せざるを得ませんでした。二条邸で、兄弟が検非違使(けびいし)に引き立てられる現場に同席し、定子は愁嘆場を体験しました。『枕草子』が語らないその日の出来事を『栄花物語』は詳細に描写しています。
宮の御前、母北の方、帥殿、一つに手をとり交して惑はせたまふ。はかなくて夜も明けぬれば、今日こそはかぎりと、誰々も思すに、たちのかんとも思さず、御声も惜しませたまはず。「いかにいかに、時なりぬ」とせめののしるに、宮の御前、母北の方、つととらへて、さらにゆるしたてまつらせたまはず…
(中宮、母北の方、帥殿(=伊周)は手を一つに取り合って、取り乱していらっしゃる。どうしようもないまま夜が明けてしまったので、今日こそ最後と、どなたもお思いになるが、その場を離れようとも思われず、声を惜しまずお泣きになる。「どうしたどうした、出発の時間になったぞ」と検非違使が大声で急かすが、中宮と母北の方は伊周をしっかりつかまえて、絶対にお放しになろうとしない…)
配所へ出立すべき時がきても、母と妹に取りすがられて泣き続け、その場を離れようとしない伊周の姿には、政権を巡って道長と対立していた頃の勢いのかけらもありません。長徳元年以降、『枕草子』の記事から伊周の姿が消えますが、道長にくみして栄える斉信と対照的に、中関白家没落の主役となった伊周を、作者は描くことができなくなったのでしょう。
長徳の変を境に、定子の身に次々と不幸な事件が起こります。長徳の変の際、二条邸に立て籠っていた兄弟のうち、先に隆家が出立した5月1日に、定子は自ら鋏を取って髪を切り、出家の意志を示しました。翌月の6月8日には二条邸が焼亡し、定子は身分の低い男に抱えられて、一旦、祖父の高階成忠宅に入り、そこから車で叔父明順宅に避難したとも記録されています。当時、流罪の刑を受けた貴族の屋敷は往々にして放火されたのです。
定子がいなくなった宮中では、娘を后に据えようと、公卿たちが動き出します。7月に大納言公季(きんすえ)娘の義子、11月に右大臣顕光の娘元子が入内しました。
二条邸焼亡の後、定子の消息は記録上からしばらく消えますが、10月に母貴子が病死した時には傍にいたと思われます。その直前、大宰府に行く途中で体調不良を訴え、播磨に留め置かれていた伊周が、母危篤の報を聞いて密かに入京します。しかし、密告によって再逮捕され、今度こそ大宰府に送還されるという騒動になりました。
これまでにない様々な事件が中関白家に次々とふりかかり、定子周辺は悲嘆に暮れる日々が続いたでしょう。そんな年の終わりに定子は出産します。20歳での初めての出産、その妊娠中に定子の受けた精神的、肉体的な苦痛ははかりしれません。長徳2年12月16日に誕生したのは、一条天皇にとっても第一子となる修子内親王でした。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(22)
2010年 3月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(22) 長徳の変~藤原斉信の昇進~
前々回までお話していた藤原斉信について、もう一度、歴史的背景から触れておきましょう。斉信が定子サロンに出入りしていたのは、蔵人頭として天皇の身近に仕え、頭中将と呼ばれていた時期です。昇進して参議になると宰相中将と呼ばれ、国政の中核に参入することになります。斉信の参議就任は長徳2年4月24日、長徳の変の当日でした。
長徳の変の経緯については前回お話ししましたが、同日の斉信昇進は、斉信が長徳の変に絡む何らかの働きをして認められたことを暗示しています。長徳の変の発端は、花山院と伊周が通っていた女性たちの邸で起きた事件で、二人の恋愛相手はどちらも為光の娘、すなわち斉信の姉妹でした。事件現場を目撃し、表沙汰にしたのは斉信だったのかもしれません。いずれにせよ、長徳の変で参議に昇進した日を境に、斉信が完全に道長方についたことは間違いないでしょう。『枕草子』は、斉信の参議昇進をどのように描いているのでしょうか。
先に取り上げた「故殿の御服のころ」の段の逸話は、4月初め頃から7月の七夕にかけての清少納言と斉信の交渉を扱っていましたが、話の途中で斉信が宰相に昇進しています。しかし、この章段を4月24日に斉信が参議に就任した長徳2年のこととするのは、長徳の変前後の歴史的背景に照らし合わせて無理があります。伊周・隆家の配流、定子の落飾、二条邸焼亡と、中関白家に不幸な事件が立て続けに起きた時期に、清少納言が道長方の斉信と風雅な交流を持ったとはとても考えられないからです。したがって、この章段の出来事は、一年前の長徳元年のことと見る方が穏当なのですが、その場合、斉信の昇進時期が歴史的事実と食い違うという問題が出てきます。作者の記憶違いだという説もあります。しかし主家凋落の日を清少納言が忘れるはずはないと思います。
作者は事実を曲げて、『枕草子』に斉信昇進のことを記したのです。それはなぜなのでしょうか。
この段には、他に、清少納言が斉信の参議昇進を保留するよう、一条天皇に直訴している記事もあります。当時、女房たちの進言が男性貴族の人事を左右することもあったようですが、斉信昇進は長徳の変に関わる政治的処遇によるもので、女房風情の口出しできる範中にはありません。そんなことは百も承知で、斉信の朗詠はとても素晴らしいから、もうしばらく宰相にならないで天皇にお仕えしたらいいのに、と訴える清少納言。それを受けて、一条天皇が大笑いし、「さなむ言ふとて、なさじかし(そのように言うから、参議にするまいよ)」と答えます。この後、「されど、なりたまひにしかば、まことにさうざうしかりしに(それなのに、参議に就任なさってしまったので、本当にさびしかったところ)…」と記事が続いていくのですが、作者は、よほど斉信の昇進にこだわっていたに違いありません。
定子を追い詰めた長徳の変の状況を描写することはできなかったけれど、中関白家没落を足がかりに昇進する斉信の事を作者は記さずにいられなかったのだと思います。
長徳2年2月に定子が内裏を退出した時、宮中に居残っていた清少納言を訪問した斉信の華やかな姿を、作者は最後まで詳細に描ききっています。そこで物語の主人公のようだと評価した斉信を、後に定子に報告し称讃する清少納言は、一方で、斉信との交際に一線を設け、定子不在の宮中で彼と個人的に応対することを避けています。『枕草子』に取り上げられた斉信の宰相昇進は、作者が定子サロン女房としての矜持(きょうじ)を保ちつつ示した、斉信との決別の意志表示だったのだと思います。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(21)
2010年 2月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(21) 長徳の変~歴史的背景~
長徳元年3月9日、関白道隆が病により政務を執れなくなった時、内大臣伊周(これちか)に内覧の宣旨が下されました。内覧とは、天皇に奏上すべき公文書に目を通し、政務を代行することで、実質上の摂政関白の職務に当たります。弱冠22歳の伊周が、父の後を継いでそのまま政権獲得かと思われたのですが、道隆の死後、関白職を継いだのは道隆の弟の右大臣道兼でした。
道兼は、念願だった関白の宣旨を賜って、任官御礼のために意気揚々と内裏に向かいます。ところが、その時すでに、彼は巷で猛威をふるっていた疫病に感染していました。自分でも体調がおかしいと思いながら参内した道兼は、内裏から退出する際には人に支えられなければ歩けない状態だったと『大鏡』には記されています。それから間もなく、道兼は息を引き取りました。関白就任から薨去まで10日余り、世間で七日関白と称されました。
さて、道兼を襲った長徳元年の疫病は他の公卿たちの命も次々と奪いました。3月末から6月半ばまで、3ヶ月もたたない間に、道隆、道兼の他、大納言朝光(あさみつ)、左大将済時(なりとき)、左大臣源重信(しげのぶ)、中納言源保光(やすみつ)、権大納言道頼らが亡くなりました。官僚たちが次々と抜けていく中、政権の行方は、先に関白を逸した内大臣伊周と権大納言道長のどちらかに絞られていきます。
長徳元年5月11日、今度は道長が内覧の宣旨を賜り、6月19日に右大臣に昇進します。このころから伊周と道長の軋轢(あつれき)が表面化し始めます。公事の列席上で二人が激昂して争ったり、伊周の弟隆家の従者と道長の従者が七条大路で乱闘したり、それが道長の従者殺害事件にまで発展してしまいます。いつまでも続く険悪な状況に決着を着けたのが、長徳の変でした。
長徳2年4月24日、内大臣伊周を大宰権帥(だざいのごんのそち)に、中納言隆家を出雲権守(いづものごんのかみ)に任ずるという宣旨が下されたのです。長徳の変のきっかけとなったのは、長徳2年1月、隆家の従者が花山法皇に弓を射かけた出来事です。その原因は、当時、花山院と伊周が交際していた女性が姉妹だったことから生じた誤解でした。平安時代の恋愛は、男性が親と同居する女性の許に通う形式でしたから、姉妹に通うそれぞれの男性が同じ邸で行き合う事も多かったようです。
いつも伊周とつるんで出歩く行動派の隆家が、兄の代わりに恋敵を脅かしてやろうとしたその相手が花山院だったために、法皇殺害未遂という不敬事件に発展してしまいました。道長にとっては、伊周を失脚させるいい口実が出来たことになります。その後、伊周の祖父の高階成忠が女院詮子を呪詛したこと、伊周自身が行った修法が天皇だけに許される行為だったことが罪科として追加され、ついに伊周と隆家は都から追放されることになったのでした。
道隆が没してわずか一年後、中関白家はなぜ没落してしまったのでしょうか。『大鏡』は道長が政権を執った理由として、長徳元年の疫病で多くの公卿が亡くなったことに加え、政敵の伊周が政治家としての資質を備えていなかったことを挙げています。
伊周と隆家は長徳の変の当日、定子と共に二条邸に籠もっていました。中宮の自邸ということで、検非違使(けびいし)たちも手出しできないことを見越していたと思われます。5月1日に二条邸内が捜索された時、伊周は逃亡しており、隆家だけが配流地に出発しました。しかし結局、伊周は帰邸し、4日にようやく出立しています。自らの立場を弁えず、窮地に立つと肉親に頼る伊周の甘え、その大局を見る力のなさが中宮定子の運命を巻き込んで、中関白家没落の事態を招いてしまったのではないでしょうか。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
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2007年









