『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(14)

2009年 11月 10日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(14) 王朝文化と作者の自意識

 『枕草子』には、清少納言が宮仕えする前の出来事で、宮中に語り伝えられていた話がいくつか書き留められています。その中の一つ、村上天皇に仕えていた兵衛の蔵人という女房のエピソードを紹介しましょう。

 村上の先帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、様器に盛らせたまひて、梅の花をさして、月のいと明かきに、「これに歌よめ。いかが言ふべき」と、兵衛の蔵人に給はせたりければ、「雪月花の時」と奏したりけるをこそ、いみじうめでさせたまひけれ。「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひたる事なむ言ひがたき」とぞ仰せられける。

(先の村上天皇の時代に、雪がたくさん降っていたので、天皇がそれを容器にお盛らせになり、梅の花をさして、月が大変明るい時に、「これに歌を詠みなさい。どのように言うのがふさわしいかな」と、兵衛の蔵人にお渡しになった時、「雪月花の時」と申し上げたのを、たいそうお褒めになりました。そして、「歌など詠むのは世間なみである。このような折にあった事はなかなか言えないことだ」と仰せになりました。)

 さて、『枕草子』にはこの逸話とそっくりな話がもう一つあります。ただし、配役が一条天皇と清少納言に代わります。ある日、宮中の殿上の間から花の散った梅の枝を持った使者が来て、「これはいかが」と言ってきたので、清少納言が漢詩の詩句を利用して答えたところ、一条天皇がお聞きになって、「並みの和歌などを詠んで出すよりずっと優れている。よく答えた」と仰せになったというものです。

 まるで清少納言が兵衛の蔵人を演じたような、こんな逸話が記されたのはなぜでしょうか。

 ここで、当時の文化的時代背景について、少し考えてみましょう。905年に醍醐天皇の命令で、最初の勅撰和歌集である『古今集』が編纂されました。それまでは、先進国中国の文学である漢詩が公的文学として認められ、男性貴族たちの間で詠まれていたのですが、『古今集』によって、和歌も宮廷文化の表舞台に立ったことになります。仮名文字を使う女性貴族たちにも流行した和歌は王朝文化の中心的存在となりました。

 この醍醐天皇の時代と共に、延喜・天暦の治として称えられたのが村上朝でした。村上天皇は一条天皇の祖父にあたり、その文化的逸話は、身近な王朝文化の模範として定子後宮でも大いに語られていました。前回紹介した、村上天皇女御芳子の『古今集』暗誦の逸話はよく知られています。また、二番目の勅撰和歌集である『後撰集』編纂を下命したのも村上天皇でした。

 このような観点から見ると、兵衛の蔵人の逸話は、和歌文学隆盛の時代に、和歌で答えるべき場面で漢詩を即答して公に認められたことを語るものであり、時代の流れと逆行していることになります。その逸話をさらに清少納言自身が演じるのは、それが作者個人の問題に関わるからではないかと考えます。

 なぜなら、清少納言の父清原元輔は『後撰集』の撰者の一人だったからです。つまり、清少納言は村上朝で活躍した人物の娘という大看板を背負って宮廷入りしたのでした。そのため、宮仕え当初から定子や伊周に興味を持たれ、宮中の注目を一身に集めていたのです。清少納言も自らの立場を十分に自覚しており、家名を汚すまいという思いが強かったようです。漢詩による応答を正当化する逸話の中には、並みの和歌を答えるくらいなら何も言うまいという作者の自意識が働いていると考えられます。そもそも『枕草子』が歌集ではなく散文体の作品であること、作品中に歌枕や歌語を扱いながら、その盲点を突いたり言葉遊びに傾いたりすることも、束縛されていた和歌世界からの作者の脱出願望の表れだったのかもしれません。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(13)

2009年 10月 27日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(13) 中宮としての資質

 ふたたび正暦5年の清涼殿に戻りましょう。天皇同席の上御局で中宮定子は女房たちに教養試験を行い、清少納言は定子の期待に応えました。その時定子は、女房たちがそれぞれ課題に答えたことを評価した後で、清少納言の正答をフォローする逸話を語ります。

 定子が語った逸話は、関白道隆がまだ三位中将だったころ、円融天皇から殿上人たちに突然、詠歌が要求され、道隆が見事に答えたというものでした。道隆の答えは古歌の一句を改変したもので、清少納言と同じ答え方です。定子は清少納言を直接褒めるのではなく、具体的な先例を掲げて正答を全員に周知させる方法をとったのでした。そこに描かれているのは、多くの才女たちを束ねるサロン主人としての定子の姿です。

 でも、それだけではありません。逸話の主人公である道隆は定子の父で、円融天皇は一条天皇の父になりますから、この逸話は、先代の洗練された文化を一条朝が藤原氏と共に直接受け継いでいることを語っています。ここには関白の娘として中宮になった自らの立場をわきまえ、後宮の中心となって一条朝を盛り上げようとする定子の姿が描き出されているのです。
 
 次に定子は、女房たちにもう一つ別の課題を与えます。それは、『古今集』の歌の暗誦テストでした。これには清少納言もお手上げで、今度は誰も定子の期待に応えられませんでした。その様子を見た定子は再び逸話を語り出します。それは、村上天皇女御であった左大臣師尹(もろまさ)の娘芳子の話でした。当時の貴族女性に必要な教養の例としてよく引用される話です。

 藤原師尹は子女の教育として、平生から娘に三つのことを課していました。それは書道と琴の練習、そして『古今集』の全巻を暗記することでした。その話を伝え聞いていた村上天皇は、ある日突然、『古今集』の本を持って芳子の局を訪れ、隔てを置いて和歌の暗誦テストを始めます。芳子がスムーズに答えていくので、天皇は疲れ、途中で一旦休憩しますが、結局、一晩中かかって全巻をテストし終わり、一つも間違いを指摘することができなかったという話です。
 
 定子の二番目の課題は、この話を念頭において出されたものだったのでしょう。話を聞き終えた一条天皇は、自分が村上天皇だったら、『古今集』全巻のテストなんてとても出来ないと、天皇の立場に立った感想を述べます。女房たち一同は、「昔は誰もが風流だったのですね。近頃はこんな話を聞くものですか」などと言い、感心し合います。この時、定子はまさに清涼殿の中心で皇室文化をリードしている堂々たる中宮でした。

 ところで、二番目の逸話のヒロイン芳子は、少し垂れ目の可愛い顔立ちと豊かな黒髪を持つ美女でした。そのため、村上天皇が非常に寵愛し、正妃であった右大臣師輔(もろすけ)の娘安子が激しく嫉妬したという話が『大鏡』に載ります。ある日、清涼殿の上御局で芳子の隣室に居合わせた安子は、壁に穴を開けてライバルの美貌を目撃し、くやしくなって食器のかけらをその穴から投げつけたと記されています。これがそのまま事実だとは思えませんが、女御の容色と教養が天皇の気持ちを惹きつけた例でしょう。定子はこの芳子を上回る后としての資質を持ち、一条天皇を魅了していたと思われます。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(12)

2009年 9月 29日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(12) 二条宮の桜

 『枕草子』の日記的章段には印象的な桜が二つ描かれていますが、その一つが前回お話しした清涼殿の桜です。それは関白道隆の企画した趣向であったろうということを述べました。発案者は教養ある正妻高階貴子だった可能性も高いと考えられますが、それは内助の功ということにして、道隆が企画したもう一つの桜についてお話しておこうと思います。

 正暦5年春、関白道隆は父兼家の邸宅だった法興院の中に積善寺を建立し、一切経を奉納する法会を大々的に行いました。中宮定子もそれに参加するために、内裏から里邸の二条宮に退出することになります。新造された二条宮は白く美しくて、寝殿の階段脇には、一丈(約3.3メートル)程の満開の桜の木が植えられていました。清少納言が、「随分早く咲いたものね。まだ梅の季節なのに」と思ってよく見ると、それは季節を先取りして設置された作り物の桜だったのです。

 桜の木のレプリカを丸ごと作り上げるという趣向を考えたのは、定子の父の道隆でした。しかし、そこは作り物の桜、露にあたり、日に当たるごとに色あせしぼんでいきます。夜に雨が降った日の早朝、見るも無惨な状態になった桜を、道隆の御殿の方から従者たちが沢山やって来て、あっという間に引き倒して持ち去って行きました。道隆からの指令は、まだ暗いうちに誰にも見つからないように、ということだったらしいのですが、清少納言に見つけられてしまいます。

 他の人々は起きてから桜の無いことに気付き、定子も道隆の仕業と推測しますが、「春の風がしたことでしょう」としらばくれる清少納言。その後、訪れた道隆とも、消えた桜を巡って応酬が繰り広げられます。

 関白道隆が生前催した最後の大々的な行事が積善寺供養です。それを扱った、枕草子中でも特別に長い章段の最初の場面に描かれるのが、二条宮に据えられた桜の木です。これは関白としての道隆の権威と経済力を風雅な趣向として示したものであり、そんな桜だからこそ、惨めな姿を人前に晒すわけにはいかなかったのでしょう。

 歴史上の記録を追ってみると、この時期の道隆は徐々に自病の糖尿病が進行し、積善寺供養の半年後の正暦5年末には政務を執ることもままならなくなっていました。そのため度々関白辞退を申し出て、天皇に差し戻されています。それから半年後の長徳元年4月に薨去という事態から推し量ると、最後の年の桜はもう十分に見ることができなかったのではないでしょうか。病の床に伏す道隆の脳裡には、自らが企画して娘に贈った清涼殿の桜と二条宮の桜の情景が浮かんでいたかもしれません。

 清少納言の時代に和歌文学の模範とされた『古今集』は、時の移ろいを敏感にとらえる歌風で、散りゆく桜の花を数多く詠みました。しかし、『枕草子』の桜は華やかで美しく、そして決して散り落ちないことになっています。

 二条宮に設置された造花の桜の木も、清涼殿に設置された大瓶の桜の枝も、中関白家の世界が創り上げた桜です。『枕草子』が記し留めたのは、今は盛りと咲き誇る桜の時間のみであり、それは、中宮定子と中関白家が栄華の最中にいた一時と重なるのです。

 歴史上、時間の推移と共に権力の中心からはかなく散った一族。それを連想するような桜の散り際から目をふさぎ、あくまで咲き誇った満開の桜を描くのが『枕草子』という作品なのです。

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十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(11)

2009年 9月 1日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(11) 清涼殿の桜

 宮中で天皇が暮らす殿舎は清涼殿(せいりょうでん)と呼ばれ、公的儀式を行う紫宸殿(ししんでん)の西側に位置していました。清涼殿の北端には上御局(うえのみつぼね)と呼ばれる部屋があり、そこは後宮に暮らす天皇妃たちが天皇に召された際に使用する控室でした。

 この清涼殿の上御局を舞台にした章段があります。正暦5年、定子18歳の春、清少納言の初宮仕えから半年後の時期です。清涼殿の丑寅(うしとら)の隅には手長足長という怪物の障子が据えられていました。丑寅は陰陽道(おんみょうどう)では鬼門とされる東北の方角で、そこから鬼が侵入するのを阻止するために不気味な妖怪の絵が障子に描かれていたのです。局の出入り口の戸が開いていると手長足長の絵がいつも目に入るので、女房たちは憎み笑ったと書かれています。

 その部屋からは、簀子(すのこ=縁側)に置かれた青い大瓶も見えました。それには、5尺(1メートル65センチ)程の桜の大枝が何本も差し込まれ、満開の花が欄干の外まで咲きこぼれていました。現代でいうと、大瓶に植物を枝ごと差し込んだ大胆な生け花の趣向です。この桜がどんな意味を持っていたのか、またこれを設置したのは誰なのか。そのヒントは次に展開される話の中で明らかになります。

 さて、定子の控室を兄の大納言伊周(これちか)が訪れます。彼は桜襲(さくらがさね)の上着に身を包んで華やかに登場しますが、部屋の中に天皇がいらっしゃることに気付き、簀子に座ります。そのうち食事の時間になり別室に移動した天皇は、食事が終わるやいなや、まだ片づけも始まらないうちに定子の許に戻ります。14歳の若い天皇が4歳年上の中宮を姉のように慕っていた様子が想像されます。

 そして定子もそれに応えるように、天皇の御前で女房たちの教養テストを始めるのです。定子が最初に出した課題は、「今、この場で思いつく古歌をすぐさま答えよ」というものでした。突然の出題に女房たちは緊張し、普段なら思い浮かぶ歌も出てこなくて、頭の中は真っ白、反対に顔はのぼせて赤くなっていきます。

 色紙が回ってきた時、清少納言はまず、御簾の外に控えている伊周にそれを差し出して、「これはいかが(これはどういたしましょうか)」と打診し、伊周から差し戻されています。その後で清少納言が答えたのは次の歌でした。

年経ればよはひは老いぬしかはあれど君をし見れば物思ひもなし

 これは、『古今集』の太政大臣良房の歌を拝借し、第4句の「花をし見れば」を一部改変したものです。良房の歌が詠まれた場面は、歌の詞書きに、「染殿の后のお前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」と説明されています。「染殿の后」は文徳天皇女御明子で、良房の娘です。良房は藤原氏で初めて摂政となり、摂関政治体制の基を築いた人物でした。

 摂関政治の仕組みは、娘を天皇后として皇子を生ませ、その後天皇の祖父となって政権を掌握することです。これは良房が、天皇后となった娘を見て桜の花にたとえ、自分は年をとってしまったが、ようやく思いが叶うと満足して詠んだ歌でした。

 すなわち清涼殿の上御局の簀子に置かれた桜の大瓶は、この歌の背景を演出していたのです。『枕草子』の場に良房の歌を当てはめるなら、「花」は中宮定子を指すことになります。そして、この歌を詠むべき人物は定子の父関白道隆でした。
 清少納言が先に詠歌を伊周に打診したのは、その場にいなかった道隆のかわりにこの歌を定子の兄に詠んでもらおうと思ったからではないでしょうか。ところが伊周に断られ、自分で詠まざるをえなくなりました。もし、清少納言がこの歌をそのまま引いたとしたら、自らが関白の立場に立つという無礼なことになってしまいます。そこで、中宮定子をたとえる「花」を「君」に変え、女房としての立場を示したのでした。

 清少納言が答えた良房の和歌は、清涼殿に据えられた桜の大瓶の意図、すなわち定子を中宮として皇室に入れた関白道隆の威光を暗示していたのです。

 では、この桜を設置したのは誰か。当然ながら定子も伊周も承知の趣向と思われますが、最も有力な参謀者はこの場を外していた関白道隆ではなかったかと私は思います。なぜなら、『枕草子』の日記的章段には、道隆が企画したもう一つの桜の話があるからです。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(10)

2009年 8月 18日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(10) 初宮仕え~季節は春か冬か~

 前回前々回で見たように、初めて宮廷に出仕してから数日間の清少納言の緊張は大変なものでしたが、しばらくすると次第に慣れていきました。初宮仕えの頃を記した章段の後半に、次のようなエピソードが載っています。

 物など仰せられて、「われをば思ふや」と問はせたまふ。御いらへに、「いかがは」と啓するに合はせて、台盤所の方に、鼻をいと高うひたれば、「あな心憂、そら言を言ふなりけり。よしよし」とて、奥へ入らせたまひぬ。

(中宮様が何かお話をされたついでに、「私を大切に思うか」とお聞きになる。お返事として、「どうして思わないことがございましょう」と、申し上げる言葉と同時に、台所の方で誰かが高い音をたててクシャミをしたので、中宮様は「まあ、いやだ、お前は嘘を言ったのね。まあいいわ」とおっしゃって、奥へお入りになってしまった。)

 「われをば思ふや」と清少納言に問いかける定子の自信に満ちた誇らしげな態度はどうでしょう。今を時めく唯一の中宮という立場に何の陰りもありません。こんな風に正面切って問われた女房は何と答えたらよいのでしょうか。このときの清少納言のように、言葉少なに強調表現で答えるしかないでしょう。

 ところが、その時、事件が起こります。清少納言が言葉を発するのと同時に台所の方で誰かが大きなクシャミをしたのです。そこで、清少納言の返事は嘘だったのかと定子は決めつけていますが、心の中では、「こんな風に言ったら、どんな反応するかしら」と面白がっていたに違いありません。とても茶目っ気のある中宮様なのです。

 当時、クシャミは縁起の悪いものとされ、人前ではなるべくしないように慎んでいたようです。現代でも風邪のひき始めなどに出ることから考えると、クシャミは体調を崩す前兆と見られていたからかもしれません。ちなみに本来は『枕草子』本文のように、「鼻(を)ひる」という言葉だったのですが、クシャミをした時に「休息万病(くそくまんびょう)」と唱えた呪文がクシャミという言葉に変化したと言われています。

 さて、清少納言はすっかり気持ちが落ち込んでしまいました。どうして、よりによって、あんなタイミングでクシャミなんかしてくれたことだろうと、クシャミの主が憎らしく、悔しくて仕方ありません。でもまだ新参者の初々しい頃だったので、何の言葉も返すことができないままに夜が明け、自分の部屋に帰りました。その直後、定子から清少納言に和歌が届けられます。

 いかにしていかに知らましいつはりを空にただすの神なかりせば 

(いったいどうやって(お前の言葉が本当かどうか)知りましょうか。もしも天に嘘をただす、糺すの神がいなかったとしたら、決して知ることはできなかったでしょう。)

 これにはどうしても答えねば、と清少納言も返歌をしました。定子は、まだ宮仕えに十分に慣れていない清少納言に、何とか答えさせようと思っていたのかもしれません。

 さて、二人のこの贈答歌が清少納言の初宮仕えの時期を春と考える説の根拠になっています。定子から送られた手紙が浅緑色であり、清少納言の返歌に花が詠まれているからです。それはこの章段の始まり(前々回)に、季節は冬ではないかと推定したことと合いませんね。実は初宮仕えの時期については冬か春かで意見が分かれているのです。

 今回の最後の逸話は早春のことと見ていいと思います。しかし、定子と初めて出会ったころの記事は冬でいいのではないかと思います。つまり、初宮仕えを扱った一つの章段に、冬から春にかけての数か月間の出来事が記されていると見れば、季節の矛盾はなくなると私は考えています。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(9)

2009年 7月 21日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(9) 初宮仕え~物語や絵のような世界~

 定子の父の関白道隆は容姿の美しい人だったようです。『大鏡』には、43歳で亡くなる直前の道隆の姿を目にした源俊賢(としかた)が、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ(病気にかかった時こそ、美貌は必要なものだったよ)」と言ったと記されています。

 その道隆の血を引いた定子の兄の伊周(これちか)は少しふくよかな体格だったようですが、見栄えは悪くなかったようです。清少納言の宮仕え第2日目に登場した彼は上下紫の直衣姿で、雪景色の中にくっきりと映えて、「いみじうをかし(とてもすてきだ)」と書かれています。

 当時は台風や雷雨など天候に異変が起こった後には、荒天見舞いの殿上人が後宮を訪問します。邸のどこかが壊れたり、通り道に支障が生じたり、何か不都合はないかを確認する為でもありました。伊周も妹中宮の積雪見舞いに訪れたのですが、そこで二人の間に交わされた和歌を踏まえた応酬は、几帳の後ろから覗いていた清少納言を瞠目(どうもく)させます。

 物語にいみじう口にまかせて言ひたるに、たがはざめりとおぼゆ。(物語でどこまでも口から出任せに言っている理想的な情景と、ちっとも違いはないようだと思われる)

 日常会話で和歌を交えて応酬するなど、物語の世界だけの話だと思っていたのに、それが、現実に目前で行われていることに感銘を受ける清少納言。さらに、この時の定子の姿を描写した後には、次のように記されます。

 絵にかきたるをこそ、かかる事は見しに、うつつにはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。(絵に描いてあるものではこのような場面は見たが、現実世界ではまだ知らないのに、夢のような気持ちがする)

 物語や絵のような現実離れした世界、これが、はじめて上流貴族社会に接して抱いた清少納言の感想でした。周りの情景にすっかり心を奪われ、田舎者の傍観者として後宮をながめている清少納言に、この後大変なことが起こります。女房の誰かにそそのかされた伊周が、清少納言を見つけて、すぐ側までやってきたのです。

 伊周は清少納言が隠れていた几帳をどかして目の前に座ります。そして、宮仕え前に耳にした清少納言に関する噂を持ち出して、これは本当なのかと聞いてきます。それまでの伊周は、清少納言にとって遙か遠い存在でした。見物好きの清少納言が、いつか天皇の行列を見に言った折、行列に加わっている伊周がちょっとでも彼女の乗っている車の方に目を向けたたけで、簾(すだれ)を引いて隙間をふさぎ、車中で扇をかざして透き影も見えないように顔を隠していたのに、今、その伊周が目の前で直接自分を見つめているのです。

 身の程もわきまえずにどうして宮仕えに出てきてしまったのかと、冷汗もしたたり落ちる状態の清少納言。対する20歳そこそこの大納言伊周は、清少納言が顔を隠している扇まで取り上げてしまいます。仕方なく髪を振りかけて顔を隠そうとしますが、今度はまったく自信のない髪筋を見られているのが恥ずかしくてたまりません。

 一方、伊周は清少納言の扇をもてあそびながら、「この絵は誰にかかせたのだ」などと言ってなかなか返してくれません。清少納言はついに袖を顔に押し当ててその場に突っ伏してしまいました。化粧の白粉が着物に移って顔は斑になっているにちがいないと思いながら…。

 追いつめられて身動きも出来ない清少納言に、助け舟を出そうとしたのは中宮定子でした。何かの本を取り出して兄を自分の方へ来させようとしますが、伊周は清少納言が自分を離してくれないのだととんでもない冗談を言い、さらには、清少納言が世間の書家の筆跡を全て知っているから本をこちらによこすようにと言うのです。

 関白家のお坊ちゃんに絡まれ、ほとほと困り果てている清少納言の様子が想像できますね。作者自身もこの章段を書きながら、宮仕えの当初を思い出して思わず微笑んだのではないでしょうか。

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専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(8)

2009年 7月 7日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(8) 初宮仕え~定子との出会い~

 清少納言が初めて出仕した年は、正暦(しょうりゃく)四年(993)だったと考えられています。『枕草子』には、それ以前の出来事を扱った章段もいくつかありますが、それはひとまず措(お)いて、まず、初出仕の日の事を記した章段から見ていきたいと思います。

 宮にはじめてまゐりたるころ、物のはづかしき事の数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳(みきちやう)のうしろに候ふに、絵など取り出でて見せさせたまふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。

(中宮御所に初めて出仕したころ、何もかも恥ずかしいことだらけで、涙も落ちてしまいそうだったので、毎夜参上して、三尺のついたての後ろに控えていたところ、中宮様が絵などを取り出してお見せくださるのを、それに私は手さえも差し出すことが出来そうもない状態でどうしようもなくつらい。)

 定子サロンの看板女房として上流貴紳と互角に渡り合うことになる清少納言も、初宮仕えの時の緊張は相当なものでした。それまで他人と顔を合わせる事に慣れていなかった彼女は、顔を人に見られることが恥ずかしくて、毎日、夜にしか参上できない有様でした。うだつの上がらない中流貴族の生活から、今を時めく関白家、さらに宮廷という雲の上の世界に足を踏み入れたのですから無理もありません。身分制度のない現代社会では考えられないくらいの緊張、と同時に未知の上流界への憧れが清少納言の感覚を麻痺させてしまうのです。

 その清少納言を待ちかねていたのが中宮定子でした。有名な歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘という事で興味を持っていたのでしょう。自分から清少納言に近づき直に声をかけてきます。そこには、権勢家の娘として生まれ、天皇妃となった定子の積極的で好奇心旺盛な姿が描かれています。

 この時、定子は17歳、清少納言はそれより10歳程年上だったと考えられます。しかし、極度の緊張のために定子の前では一言も発することができませんでした。顔も上げられない清少納言の目に止まったのは、定子が彼女の気を引こうとして絵を差し出した時に袖口からのぞいた手でした。
 うっすらとピンク色を帯びてつやめいている美しい指先。上流貴族の娘として大切に育てられ、今、中宮として宮廷に君臨している若々しい女主人の手…それが、清少納言の印象に残った定子の最初の記憶でした。

 定子の指先が色づいていたのは、その折の京都の寒さのせいだったとも考えられています。定子の前で数時間留められ、やっと退出を許されて緊張が解けた時、清少納言の目に映ったのは、庭に降り積もった白い物でした。ああ、雪が降っていたのかと気付き、そこで一時我に返ります。このあたりの描写はさすがです。

 さて、翌日は昼間から度々のお召しがあり、同室の先輩女房の忠告を受けて再び定子のもとに向かうことになりますが、その時、清少納言の目に入ったのは、火焼き屋(ひたきや=警備のために火を燃やす小屋)の上にまで降り積もった雪でした。一晩でかなりの量の雪が降り積もった様子から、季節は冬ではないかと考えられます。
定子の前に出ると、依然として緊張で凝り固まっている清少納言。そこに登場したのが大納言伊周(これちか)、すなわち定子の兄でした。次回に続きます。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(7)

2009年 6月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(7) 宮仕え称讃論

 十二単を纏った華やかな女性たちが後宮に集い、女流文学作品が次々と生まれた平安時代は女性の時代だと思われているかもしれません。しかし、その後宮は、娘を皇室に入れて皇子を生ませ、皇子が即位すると天皇の外祖父(がいそふ;母方の祖父)として権力を握った藤原摂関政治の中枢的な役割を担っていました。
 紫式部も清少納言も摂関家に雇われ、それぞれの後宮の存在を誇示するために働いていたのです。つまり後宮は、男性社会の政治的戦略の枠組みの中で営まれていた限られた世界でした。

 しかし一方、当時の一般的な中流貴族の女性の一生は現代とは比べようもないほど閉鎖的で拠り所のないものでした。生まれてから未婚の娘時代は父親の加護のもとに育てられ、十代半ばで成人してからは親族以外の男性とは顔を合わせることもなくなります。親の意向によって身分相応の相手と結婚し婿を家に通わせるようになると、一夫多妻制の下でひたすら夫を待つ日々が始まります。そして子供が生まれると、家族の世話、雇用人の管理など一家の主婦としての生活に明け暮れてゆくのです。
 どんなに頭が良くて才能があっても社会の表舞台に立つことはなく、一生を裏方として終える人生が、生まれた時から女性に定められた人生なのでした。

 紫式部が幼いころ、兄が父に学問を教わっているのを傍らで聞いていて、兄より先にその内容を理解したので、父が「御前が男でなかったのが不運だった」と嘆いたという話(『紫式部日記』)は有名です。
 それは決して自慢話などではなく、紫式部のような才女ならなおのこと、どうして女は自分の能力を生かすことができないのかという悔しさ、やりきれなさが書かれているのです。女性の社会的不遇に対する紫式部の義憤を読み取るべきだと思います。

 清少納言も同様な思いを抱いていたに違いありません。そして彼女の場合、女性が社会で活躍できる唯一の現実的な場所として、後宮という世界を選んだのです。

 清少納言の宮仕え称讃論と言われる章段に、女性の宮仕えに対する積極的な意見が書かれています。この段は『枕草子』執筆の内的動機として重要なものと考えられますので、以下に大体の内容を紹介しておきましょう。

将来の当てもないのに真面目に偽物の幸せ(世間一般の結婚生活の幸せ)を信じている女って、いったい何を考えているの、ばかみたいと私には思われます。宮仕えに出られる位の身分の家の娘であれば、一度は宮廷社会に出して世間のいろいろなものを見聞させ、しばらくの間でも一流の女官として働かせたいもの。
…とはいっても、宮仕えに出れば、天皇から下郎まであらゆる身分の者と顔を合わさざるを得ないから、男達の中には宮仕えは軽薄で悪い事だと思って批判する者もいます。それも当然のことだとは思いますが、でも、結婚した後に宮仕え中に身につけた知識を夫のためにさりげなく役立てるのが、本当に奥ゆかしいということではないでしょうか。(「生ひさきなく、まめやかに」の段:筆者意訳による)

 清少納言は、夫と別れ、父と死別した後、この持論を胸に宮仕え生活に踏み出したと思われます。女性の社会進出が当然のこととして認められている1000年後の現代社会を彼女がもし見たら、どう思うだろうかと想像したくなってしまいますね。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(6)

2009年 6月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(6) 『枕草子』の読み方

 前回前々回は、『枕草子』の本がさまざまな形態で現代に伝えられていることについてお話ししました。そして、その内容をとらえるために章段を3種に区分する方法をご紹介しました。ところが、『枕草子』の中には、次のような困った章段があります。

A 病は、胸。物の怪。あしの気。はては、ただそこはかとなくて物食はれぬ心地。
(病気といえば、胸の病。物の怪によるもの。脚気。最後には、ただ何となく食欲のない気分の状態。)

B 十八、九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、たけばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えて、いみじう色白う、顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣き濡らし、乱れかかるも知らず、面もいと赤くて、おさへてゐたるこそ、いとをかしけれ。
(十八か九歳くらいの女性で、髪が大変美しくて背丈ほどに長く、裾がとてもふさふさしているその人は、よく太ってすばらしく色白で、顔立ちが上品で美人に見えるのだが、歯をひどく痛がって前髪を涙でぐっしょり濡らし、それが顔に乱れかかっているのも気にせず、顔面を真っ赤にして患部を手で押さえて座っている様子は、たいそう心が引きつけられる。)

C 八月ばかりに、白き単衣、なよらかなるに、袴よきほどにて、紫苑の衣の、いとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など、数々来つつとぶらひ、…
(八月ころに、白い着慣れた下着に袴がきれいな感じで、その上に紫苑色(薄紫)のとても上品な衣をはおって、胸の病気をひどく患っていると、友だちの女房たちがたくさん見舞いに訪れて…)

 この章段は、「病は」という標題が選ばれたこと自体が現代人には不思議に思われるのですが、内容がさらに問題です。まず、当時の病のうち文学的題材になりそうな代表的なものを並列した類聚部Aに始まり、次に、誰とも分からないけれど歯痛に苦しむ美女の姿態を観察した随想部Bが続き、さらに、初秋に重い胸の病に罹って友人の見舞いを受ける女性の回想部Cが続いています。そのCの女性は、この後に天皇の見舞いも受けており、実際の出来事を記したものと考えられます。

 つまり、本来性質の違う3種の文章が一つの章段内にまとめられているのです。その証拠に、内容によって章段を分類編集した前田家本と堺本では、ABCが別種の章段としてばらばらの位置に配置されています。一方、「病」という共通の主題のもとに形の異なる文章が集められた雑纂(ざっさん)形態本の章段は、文章の流れとしては自然に展開しており、作者が「病は」の段の記事を次々と書き継いでいったものと考えられます。同様に、異なる種類の文章が一章段内に含まれる例は、他にも複数見つけられます。

 このことから確認されるのは、『枕草子』の章段を類聚段、随想段、日記段と3分類する方法は、あくまでも後世の研究者の便宜によるものだということです。原作者の意識の中には3種の区別はなかっただろうと推測されます。したがって『枕草子』は、章段の区分もその種類も、本来、非常に流動的な作品であると考えておくのがいいと思われます。

 その事を前提として、今回、私が研究テーマとして選んだのは、『枕草子』の日記的章段です。これは日記段の中に他の種類の文章が含まれるケースをも含めての呼称です。日記的章段は、作者が仕えた定子の後宮生活で起こった出来事を扱った部分で、記録的な内容を持っています。しかし、日記段が集められた類纂形態の伝本においても、章段は決して時間の流れの順に並べられていません。

 章段区分が曖昧なうえに時間的な順序を無視した『枕草子』という作品を、私たちはどのように読んでいったらよいのでしょうか。その一つの答えが、日記的章段をあえて時間の流れの順に並べて読んでみるという方法でした。時間の順に並べて読むということは、歴史に沿って作品を読むことにもなります。そうすることによって、日記的章段をばらばらに読んでいたときには気付かなかったたくさんのことが見えてきました。
それが、作者が何を書こうとしたのか、『枕草子』はどんな作品なのかという課題に繋がっていったのです。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(5)

2009年 5月 26日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(5) 『枕草子』の3種の章段

 『枕草子』は、物語や日記文学のように時間の流れに沿って内容が展開していく形態のものではありません。『枕草子』はたくさんの文章の集合体からなっている作品であり、その一つ一つの文章のかたまりを現代の私たちは「章段」と呼んでいます。しかし、書かれた当時の原本では、おそらく各章段の区切り目は定まっておらず、章段番号も付けられていなかったと思われます。それは、現在伝えられている写本の状態から判断できます。

 『枕草子』の本文には、「○○は」「○○もの」という標題を持った文章があり、少なくとも、各標題の前で章段が区切られていたと考えることは可能です。ただし、それ以外の標題のない文章の区切り目はどうもはっきりしないのです。

 『枕草子』が約300段の章段からなるというのは文学史的な知識ですが、伝本を活字にする際に、読みやすいように章段の区切りをつけ、通し番号を打ったのは現代の『枕草子』注釈書の著者です。したがって、その区切り目も章段総数も、注釈書によって少しずつ異なっています。試しに図書館で何冊か手にとって、最後の章段の番号を比べてみると、280番台から330番台あたりまで、本によっては50段ほどもの違いがあったりします。

 『枕草子』の注釈書をいくつか読み比べる際には、それぞれの本ごとに章段番号が異なるので、最初に目的の章段を探し出さなければならないという面倒なことが生じます。また、『枕草子』の卒業論文を書く学生は、どの伝本を用いた、どの注釈書をテキストに使うかを最初に提示し、本文引用の際には章段番号とともに冒頭文も明記しなければなりません。

 『枕草子』を研究する際には、このような手間がかかるのです。そんな作品の本文全体を把握するにはどうしたらよいのか、そのために役立つ研究方法を編み出したのは、前回お話しした池田亀鑑氏(いけだきかん)でした。氏は『枕草子』の伝本研究を進める中で、章段をその内容から類聚段、日記(回想)段、随想(随筆)段の3種に分類しました。

 類聚段は、「○○は」「○○もの」という標題を持ち、その標題に適合する対象を作者の考えや好みによって集めた章段です。日記段は清少納言が体験した後宮生活を記録した章段で、随想段は類聚段と日記段以外のすべての章段を含みます。随想段の内容は雑多で統一されていませんが、作者が発見した自然や人事に関する観察、批評等を記した章段が主になります。

 これら3種類の章段内容から、『枕草子』には作者が宮仕え生活で体験し、感じた様々な事柄が書き留められていることが分かります。ここで前回お話しした伝本の問題に戻りますと、その3種の章段が種類ごとに整理され編集されているのが前田家本と堺本で、3種の文章が作品全体に混在しているのが三巻本と能因本になります。

 研究者の間では前者を類纂(るいさん)形態本、後者を雑纂(ざっさん)形態本と呼んでいますが、『枕草子』の原本に近いのは後者の形態だろうとされています。様々な文章が入り混じった本文を内容ごとに分類し、配列するのは後世の人の行いそうなことですが、作者以外の人物が、もともと分類配列されていた本文をわざわざシャッフルすることはないと考えられるからです。また、雑纂形態本の章段配列を観察してみると、異なる種類の章段間の文章の繋がりに連想的な脈絡の見られる箇所が複数あり、それが作者の作為によると見なされるからです。

 では、雑纂形態本のうち、三巻本と能因本とではどちらが原本に近いかというと、まだ決定的な結論は下せない状況にあります。また、類纂形態本のうち、書写年代の最も古い前田家本の本文には、部分的に古い文体が残されている可能性が十分にあります。このように、『枕草子』の伝本問題は複雑で容易に解かれないのが現状です。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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