『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(20)
2010年 2月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(20) 藤原斉信(ただのぶ)と清少納言の交流
藤原斉信は、中関白家の政敵となった道長についた人物ですから、定子後宮の女房である作者にとって扱いにくい対象だったに違いありません。そんな彼が『枕草子』に何度も取り上げられる理由は、彼を登場させることで、喪中で色を失った定子周辺に彩りを与えるためだったと前回書きました。斉信の登場場面をもう少し詳しく見ていくと、そこに必ず定子の存在を見つけることができます。作者は斉信を描きながら、女房たちと共に斉信を讃える定子を描いているのです。
作者が女房の役目として、定子サロンを宣伝しようと意図していたことは当然、考えられます。ただ、それとは別に、作者個人の宮廷生活の記念として斉信との交流を記したのではないかとも思います。中関白家にとっては敵方だったとしても、斉信は十分に描き甲斐のある外見と教養を兼ね備えた当代きっての上流貴族です。一方の清少納言は、本来、宮中に出入りすることのない受領階級の娘です。そんな自分が斉信と対等にわたりあっていることを作者が誇らしく思うのも無理はないでしょう。前回扱った「故殿の御服のころ」の段の後半からは、そのような作者の気持ちが垣間見られるように思います。
それは定子が太政官朝所(あいたどころ)で過ごした七夕の折のことでした。斉信と共に源宣方(のぶかた)、源道方(みちかた)などが訪れ、女房たちが応対しているとき、清少納言がいきなり「明日はいかなる事をか」と問いかけました。すると、斉信がすぐさま「人間の四月をこそは」と答えたのです。その場に居合わせた者は誰一人、斉信と清少納言の応酬の意味がわかりません。もちろん読者にもさっぱり分からないことを見越し、作者はその種明かしを始めます。
四月の初め頃、内裏の細殿に女房たちが詰めていたときのことです。殿上人が多数訪れ、少しずつ退出していって、斉信と宣方と蔵人一人だけがその場に居残り、夜明け近くになりました。そろそろ退出しようということで、斉信が「露は別れの涙なるべし」という菅原道真の詩を詠じ、宣方も共に見事な朗詠を披露しました。ところが、その詩が織姫と彦星の別れの朝を詠んだ内容だったため、清少納言に、「いそぎける七夕かな」と皮肉られてしまったのです。せっかく折に合った詩を詠じたと思ったのに季節違いを指摘された斉信はとても悔しがりました。その後、清少納言は七夕の折に、この事をもう一度持ち出してやろうと待ち構えていたのですが、斉信もそれをしっかり記憶していました。そこで、この時、「(七夕の)次の朝、あなたはどんな詩を朗詠しますか」という清少納言の問いかけに対して、斉信が、「(今度は七夕に)『人間の四月』(で始まる四月)の詩を詠じよう」と応じたのでした。
作者は斉信の答えに満足し、その記憶力の良さを讃えます。話はさらに続き、斉信と清少納言が男女の恋愛関係を囲碁の用語で表現する隠語を作り、日頃用いていたことが書かれます。たとえば、親密な関係になったことを、碁で相手に先に何目か置かせることを意味する「手ゆるしてけり」とか、終局に近づいて先手を次々に打つ意味の「結さしつ」という言葉を使って表現するという具合です。
斉信と自分だけに通じる言葉を使っていたことは、定子サロン女房としての枠を越え、上流貴族に存在価値を認められたという清少納言個人の満足感となったことでしょう。では、作者は自己満足のためにこのような章段を記したのでしょうか。否、そんな単純な理由からだけでもないようです。
この章段には、実は大きな問題があります。話の途中で斉信が頭中将から宰相に昇進したことが記されているのですが、その年代がどう考えても歴史的事実と食い違うのです。くわしいことは次回お話ししますが、この章段が作者の個人的な思い出を綴ったような内容になっているのは、定子周辺に起こった重大事件に関わる年代を扱っていたためだと考えます。つまり、本来、『枕草子』のテーマである定子後宮をそのまま描くことが難しい歴史的時期を扱う際に、作者が考え出した工夫だったと見るのです。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(19)
2010年 1月 26日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(19) 藤原斉信(ただのぶ)の登場
長徳元年夏以降の『枕草子』の章段には、華やかな衣装を纏(まと)ってこれまで登場していた中関白家一族の姿がすっかり消えてしまいました。その代わりに登場してくる人物が藤原斉信です。斉信は道隆の従弟にあたります。かつて斉信の妹は花山帝女御でした。しかし、妹妃が亡くなり花山帝が退位して、外戚として出世する道が途絶えて後は権力者に追従し、道長の配下になっていきます。出世欲が強く、昇進争いに勝って人の恨みをかった逸話が多く残っている人物です。
そんな斉信が、『枕草子』には、中関白家以外の男性貴族の中で最もたくさん登場しているのです。それはなぜなのでしょうか。斉信は正暦五年に蔵人頭になりました。蔵人は天皇の側近として働く役職です。当然、中宮方に出向く機会も多くなります。そのような必然的な理由の他に、喪中ですっかり色を失った定子周辺に彼を登場させることによって、作品内に華やかさを取り込むためだったとも考えられます。
斉信の姉妹にあたる為光の娘たちは、花山天皇の后になって寵愛を受け、御子を宿したまま亡くなった同母妹の忯子(よしこ)の他、三女、四女とも美女だったということですから、斉信も容姿は悪くなかったでしょう。『枕草子』に華麗に登場する斉信は朗詠も得意で、清少納言をはじめ後宮女房たちはこぞって彼を称讃しています。それは、正暦期に登場していた伊周の描写とそっくりです。
定子後宮が服喪期間に入って描くべき対象がなくなったとき、その人物の実体はともかく、外見的に華やかな斉信を描くことが、作者が選んだ『枕草子』執筆継続の応急措置だったのではないでしょうか。加えて、世の趨勢(すうせい)に敏感な斉信が出入りする後宮をアピールしようという意図もあったかもしれません。
斉信が『枕草子』に初めて登場するのは長徳元年二月末、あらぬ噂を真に受けて清少納言を誤解し、一方的に絶交している状況で始まる章段です。清少納言の方では彼女らしく、言い訳などしないで無視していたのですが、そんな状況に耐えられなくなった斉信からある日、文が届けられます。自分のことを嫌っているはずなのに、いったい何が書かれているのか。どきどきしながら文を開けた清少納言の目に入ったのは次の白楽天の漢詩の一句でした。
「蘭省ノ花ノ時、錦帳ノ下(あなたは宮殿で、花の季節、皇帝の錦帳の下に伺候し栄えている)」
定子に見せようと思っても、ちょうど天皇がいらっしゃって就寝中です。使者は返事を急(せ)かします。さあ、困った、ここからが清少納言の才知の見せ所です。斉信から問われた漢詩の続きは、以下の句になります。
「廬山ノ雨ノ夜、草庵ノ中(私は廬山で、雨の夜、草庵の中に一人わびしく暮らしている)」
もちろん即答できますが、女だてらに漢字を書くのは体裁がよくありません。そこで、漢詩の意味を和歌に置き替え、当代きっての教養人藤原公任が使った連歌の下句「草の庵(いほり)を誰かたづねむ」を拝借しました。用紙は届けられた紙の余白を使い、筆の替わりに消え炭を用いて筆跡をごまかします。清少納言の返事は相手に評価の糸口を与えないばかりか、反対に連歌の上句を要求するものになっているのです。
清少納言の返事を見た斉信は「おお」と思わず声をあげ、「いみじき盗人を。なほえこそ思ひ捨つまじけれ。(とんでもない泥棒だよ。やっぱり無視できそうもないな)」と言って、それまでの清少納言に対する考えを改めました。それが殿上で評判となり、清少納言に「草の庵」というあだ名が付けられたという逸話です。
この章段以降の約一年間、斉信と清少納言の交流が『枕草子』に描かれていくのですが、二人の駆け引きは、背後に流れる歴史的事件を考えて見ていくと微妙なニュアンスが読みとれるように思われます。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(18)
2010年 1月 12日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(18) 太政官庁で遊ぶ女房たち
長徳元年四月に中関白道隆が亡くなり、中宮定子後宮は一年間の喪に服します。紅梅襲(こうばいがさね)が好きだった定子の衣装も色とりどりの女房達の十二単も、すべて喪服の鈍色(にびいろ)になりました。その変化は気をつけて『枕草子』を読まないと分かりません。父道隆の死を悲しむ定子の姿も、葬儀の事も、いっさい記されていないからです。
その中で、道隆の服喪中であることを冒頭に示して始まる章段が二つあります。「故殿の御服のころ」の段は、長徳元年の六月末、宮中の大祓えの神事に際して服喪中の定子が内裏から退出し、太政官庁の朝所(あいたどころ)に仮住まいしたときの記事です。朝所は、儀式の折に官僚達の会食場所となった建物です。
そこは清少納言が普段見慣れた宮殿とは異なる瓦屋根の背の低い建物で、格子がなくて簾だけがかかっている簡素な造りでした。興味津々の女房たちは庭に下りて探検をはじめます。時報の鐘を打つ陰陽寮のすぐ横に当たるので、鐘の音が普段より間近に聞こえます。若い女房たちは面白がってそこまで行き、大胆にも階段から高楼に登ります。その様子が次のように書かれています。
これより見あぐれば、ある限り薄鈍の裳、唐衣、同じ色の単襲、紅の袴どもを着てのぼりたるは、いと天人などこそえ言ふまじけれど、空よりおりたるにやとぞ見ゆる。
(こちらから彼女たちを見上げると、全員が薄墨色の裳と唐衣、単襲に紅色の袴を着けて登っている様子は、まるで天女のようだとは言えそうもないけれど、空から下りてきたのではないかと見える)
ここには、女房たちの衣装がすべて喪服であることがはっきりと記されているのです。けれど、彼女たちがいる場所は、普段女性が居るはずもない高い楼閣の上です。それを天から降りて来たように見えると作者は書いています。調子づいた若女房たちは、さらに内裏の建春門付近まで行って大騒ぎし、建物内の椅子に登る、倒すの仕放題です。彼女たちの行動は度が過ぎていますが、華やかで活気にあふれた定子後宮の生活が、一転して服喪による謹慎生活になった鬱憤をここで晴らしていたとも考えられます。そして作者は、不謹慎な彼女たちの行動を描くことによって、喪中の内実から読者の視点をそらしているのです。
さて、太政官庁の建物は、真夏の夜の暑さが尋常ではなかったので、女房たちはたまらず御簾の外に出て臥していたようです。また、古い建物だったのでムカデが一日中上から落ちてきたり、大きな蜂の巣に蜂が群れていたりして大変恐かったとも書かれています。『枕草子』は、王朝女流文学の中でも、日常的に目にする害虫について多く扱っている作品です。「虫は」の段には、松虫や鈴虫など和歌に詠まれる風雅な昆虫の他に、蝿や蟻など人間の生活に入り込んでくる不快な昆虫が登場します。また、「にくきもの」の段では、蚊や蚤が平安貴族たちを困らせていたことを教えてくれます。貴族文学でも気取らない生の生活感覚を伝えてくれるのが『枕草子』の魅力です。
もう一つの「故殿の御ために」で始まる章段には、道隆の法事を開催した長徳元年九月十日の出来事を扱っています。ここで作者が法事について記したことは、清少納言お気に入りの美僧清範の説教が大変心に染みいって悲しかったので、女房たちがみんな泣いたことだけです。この段の中心人物は、法事の後の宴会で朗詠を披露し、定子や清少納言の称讃を得た藤原斉信(ただのぶ)です。彼は「故殿の御服のころ」の段の後半にも登場していますが、長徳元年の『枕草子』に登場し、注目される斉信という人物については次回、取り上げましょう。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(17)
2009年 12月 22日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(17) 中関白道隆の死
中関白とは12世紀頃から使われてきた藤原道隆の通称です。藤原氏の関白の地位をゆるぎないものとした兼家と、摂関政治最盛期を築いた道長の間に、一時期、関白を務めたことから付けられたと考えられています。兼家は一条天皇の外祖父となり、宮廷でも我が物顔に振る舞っていた人物です。その兼家の長男として関白の位を継いだのが道隆でした。
父の威光で異例の出世をしたことは伊周(これちか)の場合と同じですが、政敵となる人物はおらず、スムーズに関白の地位に就きました。容姿端麗、明朗快活、酒豪でよく冗談を飛ばす人物だったようです。周囲に気を配り、場を取り持つことの得意な道隆のエピソードを『大鏡』から紹介しましょう。
道隆と道長兄弟の間には、関白の宣旨を受けるやいなや病没し、七日関白と呼ばれた道兼がいます。その道兼の長男の福足君(ふくたりぎみ)はとんでもない駄々っ子でしたが、ある時、祖父兼家の60歳の祝宴で舞を披露することになりました。その当日、大方の予想通り、福足君は舞台に登るなり駄々をこねて結った髪をほどき、衣装を引き破る始末です。その時、道隆が突然舞台に登り、甥をとらえて舞わせ、自分も一緒に見事に舞いました。道隆の機転のお陰で場は盛り上がり、道兼の恥も隠れて誰もが感嘆したということです。ちなみに福足君は、その後、蛇をいじめた祟りで頭に腫れ物ができて亡くなったと書かれています。
道隆が正妻として選んだのは、高貴な血を引く女性ではなく、内侍(ないし=天皇付きの女官)として宮中に仕えていた高階貴子でした。貴子が男性顔負けの漢詩人だったことは既に述べたとおりです。定子後宮の独創的な文化を作り出したのは、もとをただせば道隆のこの結婚であったと言えるでしょう。
中関白家の当主として大きな存在であった道隆は、次女原子を皇太子妃にした直後の長徳元年四月に、43歳で突然死去します。『枕草子』には、宮中に参内した原子と定子が対面する場面が描かれており、そこでは中宮と皇太子妃になった二人の娘を前に、道隆が、いつものように冗談を言って女房たちを笑わせています。しかし、歴史資料によると、道隆は病のために、前年秋から出仕もままならず、何度も辞表を提出して戻されている状態でした。原子参内から2ヶ月後に死去することになる道隆を描きながら、『枕草子』の記事はそんな不安の陰などみじんも感じさせません。この場面は、『枕草子』で道隆が登場する最後の記事になっています。
『大鏡』では、道隆の病気は長徳元年に流行して多くの人々が亡くなった疫病によるものではなく、飲酒が原因だったといいます。死に際に念仏を唱えるように言われた時、道隆は「済時、朝光なども極楽に行くだろうか」と言ったと書かれています。二人とも彼と相前後して亡くなった道隆の飲み友達でした。
まだまだこれからという時に世を去らねばならなかった道隆ですが、自らの政権掌握に対する執着があまり感じられないのはなぜでしょうか。彼が後継者として定めた伊周は、学才はあっても政治家としての資質は備えていませんでした。道隆の死後に残された中関白家の一族は、瞬く間に零落していくことになるのです。
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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(16)
2009年 12月 8日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(16) 中の関白家の子息たち~隆家(たかいえ)~
前回お話しした伊周(これちか)のすぐ下の弟が隆家です。ただし、年齢的には二人の間に定子が入り、隆家は定子より二つ下の弟になります。さらにその一つ下に出家した隆円という弟がいます。当時の権門貴族は、一族の繁栄と加護を祈るために、跡継ぎ以外の子息の一人を僧にすることを慣例にしていました。隆円は十五歳で権少僧都(ごんのしょうそうず)になり、定子の出産時の祈祷の折に奉仕しました。『枕草子』にも「僧都の君」と称されて登場しています。
さて、今回は隆家を取り上げます。彼は父関白の抜擢により十七歳で中納言になりました。軟派でお坊ちゃんの兄伊周に対して、硬派でやんちゃな次男が隆家です。『枕草子』に登場するエピソードを紹介しましょう。ある日、隆家が定子に、素晴らしい扇の骨を手に入れ、それに張る最上の紙を探していると言うので、定子がどんな骨なのか尋ねたところ、全くまだ見たこともない骨の様子だと得意げに言いました。そこで、清少納言が、「それなら扇の骨ではなく、クラゲの骨のようですね」と口を挟んだところ、隆家は、「これは自分が言ったことにしてしまおう」と笑ったという話です。負けず嫌いの彼の性格が伺えますね。
そんな隆家ですから、奇矯な行動で何かと話題の多い花山院の挑発にのった話が『大鏡』に記されています。ある時、「いくらおまえでも、わが家の門前を通り過ぎることはできまい」と花山院に言われた隆家が、大勢の従者を引き連れて院の邸に出向き、院邸の荒法師たちとにらみ合った末に引き返したという話です。長徳の変の発端となった事件で花山院に矢を射かけたのも、隆家の花山院に対する日頃の挑み心が行きすぎて調子に乗ってしまったためではないでしょうか。それが後に大変な事態を引き起こすとは思ってもみなかったに相違ありません。
性格的な面で父道隆の快活さを受け継いだ隆家は、宿敵だったはずの道長に好意を持たれていた人物でもあります。再び『大鏡』の記事を紹介しましょう。隆家が左遷地から召還され不本意な日々を送っていたある日、道長が自邸で催した宴会にわざわざ隆家を招待しました。道長が装束の紐を解いてくつろぐように勧めても隆家は躊躇しています。そこで、同席していた藤原公信(きんのぶ)が隆家の装束の紐を解こうとしました。その途端、隆家が「自分は不運なことがあっても、そなたにこのようにされるような身ではない」と一喝したため、道長が自ら隆家の衣装の紐を解いたところ、機嫌が直り、いつも以上に杯を重ねたということです。
後に隆家は大宰権帥(だざいのごんのそつ)として九州に下りました。任地ではよく治世を行って九州全土の人々の人望を集めたうえ、海外から賊が襲来した折には地元豪族の士気を奮い立たせて共に戦い、勝利して功績をあげました。道長の人を見る目は確かだったということでしょう。
隆家に対して述べられた「大和心かしこくおはする人」とは、政治家としての判断力と実行力を備えた人物に与えられる『大鏡』流の最上の評価です。さらに、もし隆家が定子の産んだ皇子の後見となって国政を執ったなら、天下はうまく治まるだろうと期待されていたとまで書かれています。
関白家のかつてのやんちゃ坊主は、没落貴族のままにしておくには惜しい人物に成長しましたが、その気概ゆえに二度と政治の表舞台に立つことなく、六十六歳の生涯を終えました。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(15)
2009年 11月 24日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(15) 中関白家の子息たち~伊周(これちか)~
中宮定子の父 藤原道隆については以前少しお話しましたが、彼は容姿に優れた快活な男性であり、また大変な酒豪で、死因も飲酒が原因の糖尿病ではなかったかと言われています。この道隆の血を引いた息子達を紹介しておきましょう。
『枕草子』に登場して道隆の子息として認められる人物には、道頼、伊周、隆家、隆円がいます。このうち長男の道頼は他の兄弟とは母親が異なり、祖父 兼家の養子となっていました。清少納言は彼について、「にほひやかなるかたはこの大納言にもまさりたまへる(つややかに美しい様子は大納言伊周にも優っていらっしゃる)」と記していますが、父譲りの美男子だったようです。姿かたちだけでなく性格も良かった道頼は、残念なことに父の死の2ヶ月後に25歳で亡くなりました。
次に、正妻 高階貴子を母として生まれ、道隆の後継者として育てられたのが伊周です。定子より3歳年上で、父の威光によって若くして内大臣にまで昇進しました。派手やかな衣装を纏った彼の見栄えのする姿が『枕草子』に描かれています。
平安時代の美男美女に対する感覚で現代とやや異なると考えられている点の一つに、太っていることに対する評価があります。清少納言は、貴人に仕える若い従者については、身のこなしの軽い細身の男性を評価し、あまり太っているのは眠たそうに見えると書いていますが、若き人(身分のある若い人)、乳幼児、そして受領などの年輩者は、太っている方がいいと言っています。高貴な身分の男は、ふくよかで貫禄のある方が位の重みを感じさせたのでしょう。
その点、道隆は関白の地位に相応しい美丈夫として認められていたのですが、息子の伊周の場合は、どうも太り方の度が過ぎていたようです。『大鏡』には、伊周が太っていたため、内裏の狭い通路に押しかけた下人たちを素早く除けられず、仕切の塀に押しつけられたまま身動きがとれなくなって無様な姿を晒したという記事が書かれています。
教養の面では、漢詩を朗詠する伊周の姿が『枕草子』に度々取り上げられ、漢詩の実作も残っていますので、母 貴子の漢学の素養が彼に影響を与えたと考えられます。大柄な身体も朗詠には向いていたのでしょう。
一方、政治的な資質については、父関白の威光と妹中宮の存在がありながら、叔父である道長との権力争いに完敗するわけですから、人の上に立つ器ではなかったと判断されます。伊周に左遷の宣命が下された際の状況について、『枕草子』は黙して語りません。しかし、『栄花物語』には、検非違使(けびいし)が連行に来ても、いつまでも母や妹と手を取り合って泣いている、往生際の悪い伊周が描かれています。また、母親の危篤を知り配流地を密かに抜け出して定子の邸で再逮捕されるなど、情に脆く、自らの行動を客観的に把握できない面があると考えざるをえません。『大鏡』に「嬰児のやうなる殿(幼子のような殿)」と酷評されているのも頷けます。それも若い頃から父の加護の下で甘やかされて育ったためではないでしょうか。伊周は定子とは仲のよい兄妹でしたが、妹の方が指導者としての資質は勝っていたのかもしれません。
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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(14)
2009年 11月 10日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(14) 王朝文化と作者の自意識
『枕草子』には、清少納言が宮仕えする前の出来事で、宮中に語り伝えられていた話がいくつか書き留められています。その中の一つ、村上天皇に仕えていた兵衛の蔵人という女房のエピソードを紹介しましょう。
村上の先帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、様器に盛らせたまひて、梅の花をさして、月のいと明かきに、「これに歌よめ。いかが言ふべき」と、兵衛の蔵人に給はせたりければ、「雪月花の時」と奏したりけるをこそ、いみじうめでさせたまひけれ。「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひたる事なむ言ひがたき」とぞ仰せられける。
(先の村上天皇の時代に、雪がたくさん降っていたので、天皇がそれを容器にお盛らせになり、梅の花をさして、月が大変明るい時に、「これに歌を詠みなさい。どのように言うのがふさわしいかな」と、兵衛の蔵人にお渡しになった時、「雪月花の時」と申し上げたのを、たいそうお褒めになりました。そして、「歌など詠むのは世間なみである。このような折にあった事はなかなか言えないことだ」と仰せになりました。)
さて、『枕草子』にはこの逸話とそっくりな話がもう一つあります。ただし、配役が一条天皇と清少納言に代わります。ある日、宮中の殿上の間から花の散った梅の枝を持った使者が来て、「これはいかが」と言ってきたので、清少納言が漢詩の詩句を利用して答えたところ、一条天皇がお聞きになって、「並みの和歌などを詠んで出すよりずっと優れている。よく答えた」と仰せになったというものです。
まるで清少納言が兵衛の蔵人を演じたような、こんな逸話が記されたのはなぜでしょうか。
ここで、当時の文化的時代背景について、少し考えてみましょう。905年に醍醐天皇の命令で、最初の勅撰和歌集である『古今集』が編纂されました。それまでは、先進国中国の文学である漢詩が公的文学として認められ、男性貴族たちの間で詠まれていたのですが、『古今集』によって、和歌も宮廷文化の表舞台に立ったことになります。仮名文字を使う女性貴族たちにも流行した和歌は王朝文化の中心的存在となりました。
この醍醐天皇の時代と共に、延喜・天暦の治として称えられたのが村上朝でした。村上天皇は一条天皇の祖父にあたり、その文化的逸話は、身近な王朝文化の模範として定子後宮でも大いに語られていました。前回紹介した、村上天皇女御芳子の『古今集』暗誦の逸話はよく知られています。また、二番目の勅撰和歌集である『後撰集』編纂を下命したのも村上天皇でした。
このような観点から見ると、兵衛の蔵人の逸話は、和歌文学隆盛の時代に、和歌で答えるべき場面で漢詩を即答して公に認められたことを語るものであり、時代の流れと逆行していることになります。その逸話をさらに清少納言自身が演じるのは、それが作者個人の問題に関わるからではないかと考えます。
なぜなら、清少納言の父清原元輔は『後撰集』の撰者の一人だったからです。つまり、清少納言は村上朝で活躍した人物の娘という大看板を背負って宮廷入りしたのでした。そのため、宮仕え当初から定子や伊周に興味を持たれ、宮中の注目を一身に集めていたのです。清少納言も自らの立場を十分に自覚しており、家名を汚すまいという思いが強かったようです。漢詩による応答を正当化する逸話の中には、並みの和歌を答えるくらいなら何も言うまいという作者の自意識が働いていると考えられます。そもそも『枕草子』が歌集ではなく散文体の作品であること、作品中に歌枕や歌語を扱いながら、その盲点を突いたり言葉遊びに傾いたりすることも、束縛されていた和歌世界からの作者の脱出願望の表れだったのかもしれません。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)
『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(13)
2009年 10月 27日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(13) 中宮としての資質
ふたたび正暦5年の清涼殿に戻りましょう。天皇同席の上御局で中宮定子は女房たちに教養試験を行い、清少納言は定子の期待に応えました。その時定子は、女房たちがそれぞれ課題に答えたことを評価した後で、清少納言の正答をフォローする逸話を語ります。
定子が語った逸話は、関白道隆がまだ三位中将だったころ、円融天皇から殿上人たちに突然、詠歌が要求され、道隆が見事に答えたというものでした。道隆の答えは古歌の一句を改変したもので、清少納言と同じ答え方です。定子は清少納言を直接褒めるのではなく、具体的な先例を掲げて正答を全員に周知させる方法をとったのでした。そこに描かれているのは、多くの才女たちを束ねるサロン主人としての定子の姿です。
でも、それだけではありません。逸話の主人公である道隆は定子の父で、円融天皇は一条天皇の父になりますから、この逸話は、先代の洗練された文化を一条朝が藤原氏と共に直接受け継いでいることを語っています。ここには関白の娘として中宮になった自らの立場をわきまえ、後宮の中心となって一条朝を盛り上げようとする定子の姿が描き出されているのです。
次に定子は、女房たちにもう一つ別の課題を与えます。それは、『古今集』の歌の暗誦テストでした。これには清少納言もお手上げで、今度は誰も定子の期待に応えられませんでした。その様子を見た定子は再び逸話を語り出します。それは、村上天皇女御であった左大臣師尹(もろまさ)の娘芳子の話でした。当時の貴族女性に必要な教養の例としてよく引用される話です。
藤原師尹は子女の教育として、平生から娘に三つのことを課していました。それは書道と琴の練習、そして『古今集』の全巻を暗記することでした。その話を伝え聞いていた村上天皇は、ある日突然、『古今集』の本を持って芳子の局を訪れ、隔てを置いて和歌の暗誦テストを始めます。芳子がスムーズに答えていくので、天皇は疲れ、途中で一旦休憩しますが、結局、一晩中かかって全巻をテストし終わり、一つも間違いを指摘することができなかったという話です。
定子の二番目の課題は、この話を念頭において出されたものだったのでしょう。話を聞き終えた一条天皇は、自分が村上天皇だったら、『古今集』全巻のテストなんてとても出来ないと、天皇の立場に立った感想を述べます。女房たち一同は、「昔は誰もが風流だったのですね。近頃はこんな話を聞くものですか」などと言い、感心し合います。この時、定子はまさに清涼殿の中心で皇室文化をリードしている堂々たる中宮でした。
ところで、二番目の逸話のヒロイン芳子は、少し垂れ目の可愛い顔立ちと豊かな黒髪を持つ美女でした。そのため、村上天皇が非常に寵愛し、正妃であった右大臣師輔(もろすけ)の娘安子が激しく嫉妬したという話が『大鏡』に載ります。ある日、清涼殿の上御局で芳子の隣室に居合わせた安子は、壁に穴を開けてライバルの美貌を目撃し、くやしくなって食器のかけらをその穴から投げつけたと記されています。これがそのまま事実だとは思えませんが、女御の容色と教養が天皇の気持ちを惹きつけた例でしょう。定子はこの芳子を上回る后としての資質を持ち、一条天皇を魅了していたと思われます。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(12)
2009年 9月 29日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(12) 二条宮の桜
『枕草子』の日記的章段には印象的な桜が二つ描かれていますが、その一つが前回お話しした清涼殿の桜です。それは関白道隆の企画した趣向であったろうということを述べました。発案者は教養ある正妻高階貴子だった可能性も高いと考えられますが、それは内助の功ということにして、道隆が企画したもう一つの桜についてお話しておこうと思います。
正暦5年春、関白道隆は父兼家の邸宅だった法興院の中に積善寺を建立し、一切経を奉納する法会を大々的に行いました。中宮定子もそれに参加するために、内裏から里邸の二条宮に退出することになります。新造された二条宮は白く美しくて、寝殿の階段脇には、一丈(約3.3メートル)程の満開の桜の木が植えられていました。清少納言が、「随分早く咲いたものね。まだ梅の季節なのに」と思ってよく見ると、それは季節を先取りして設置された作り物の桜だったのです。
桜の木のレプリカを丸ごと作り上げるという趣向を考えたのは、定子の父の道隆でした。しかし、そこは作り物の桜、露にあたり、日に当たるごとに色あせしぼんでいきます。夜に雨が降った日の早朝、見るも無惨な状態になった桜を、道隆の御殿の方から従者たちが沢山やって来て、あっという間に引き倒して持ち去って行きました。道隆からの指令は、まだ暗いうちに誰にも見つからないように、ということだったらしいのですが、清少納言に見つけられてしまいます。
他の人々は起きてから桜の無いことに気付き、定子も道隆の仕業と推測しますが、「春の風がしたことでしょう」としらばくれる清少納言。その後、訪れた道隆とも、消えた桜を巡って応酬が繰り広げられます。
関白道隆が生前催した最後の大々的な行事が積善寺供養です。それを扱った、枕草子中でも特別に長い章段の最初の場面に描かれるのが、二条宮に据えられた桜の木です。これは関白としての道隆の権威と経済力を風雅な趣向として示したものであり、そんな桜だからこそ、惨めな姿を人前に晒すわけにはいかなかったのでしょう。
歴史上の記録を追ってみると、この時期の道隆は徐々に自病の糖尿病が進行し、積善寺供養の半年後の正暦5年末には政務を執ることもままならなくなっていました。そのため度々関白辞退を申し出て、天皇に差し戻されています。それから半年後の長徳元年4月に薨去という事態から推し量ると、最後の年の桜はもう十分に見ることができなかったのではないでしょうか。病の床に伏す道隆の脳裡には、自らが企画して娘に贈った清涼殿の桜と二条宮の桜の情景が浮かんでいたかもしれません。
清少納言の時代に和歌文学の模範とされた『古今集』は、時の移ろいを敏感にとらえる歌風で、散りゆく桜の花を数多く詠みました。しかし、『枕草子』の桜は華やかで美しく、そして決して散り落ちないことになっています。
二条宮に設置された造花の桜の木も、清涼殿に設置された大瓶の桜の枝も、中関白家の世界が創り上げた桜です。『枕草子』が記し留めたのは、今は盛りと咲き誇る桜の時間のみであり、それは、中宮定子と中関白家が栄華の最中にいた一時と重なるのです。
歴史上、時間の推移と共に権力の中心からはかなく散った一族。それを連想するような桜の散り際から目をふさぎ、あくまで咲き誇った満開の桜を描くのが『枕草子』という作品なのです。
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【著者プロフィール】
赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
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「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(11)
2009年 9月 1日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子(11) 清涼殿の桜
宮中で天皇が暮らす殿舎は清涼殿(せいりょうでん)と呼ばれ、公的儀式を行う紫宸殿(ししんでん)の西側に位置していました。清涼殿の北端には上御局(うえのみつぼね)と呼ばれる部屋があり、そこは後宮に暮らす天皇妃たちが天皇に召された際に使用する控室でした。
この清涼殿の上御局を舞台にした章段があります。正暦5年、定子18歳の春、清少納言の初宮仕えから半年後の時期です。清涼殿の丑寅(うしとら)の隅には手長足長という怪物の障子が据えられていました。丑寅は陰陽道(おんみょうどう)では鬼門とされる東北の方角で、そこから鬼が侵入するのを阻止するために不気味な妖怪の絵が障子に描かれていたのです。局の出入り口の戸が開いていると手長足長の絵がいつも目に入るので、女房たちは憎み笑ったと書かれています。
その部屋からは、簀子(すのこ=縁側)に置かれた青い大瓶も見えました。それには、5尺(1メートル65センチ)程の桜の大枝が何本も差し込まれ、満開の花が欄干の外まで咲きこぼれていました。現代でいうと、大瓶に植物を枝ごと差し込んだ大胆な生け花の趣向です。この桜がどんな意味を持っていたのか、またこれを設置したのは誰なのか。そのヒントは次に展開される話の中で明らかになります。
さて、定子の控室を兄の大納言伊周(これちか)が訪れます。彼は桜襲(さくらがさね)の上着に身を包んで華やかに登場しますが、部屋の中に天皇がいらっしゃることに気付き、簀子に座ります。そのうち食事の時間になり別室に移動した天皇は、食事が終わるやいなや、まだ片づけも始まらないうちに定子の許に戻ります。14歳の若い天皇が4歳年上の中宮を姉のように慕っていた様子が想像されます。
そして定子もそれに応えるように、天皇の御前で女房たちの教養テストを始めるのです。定子が最初に出した課題は、「今、この場で思いつく古歌をすぐさま答えよ」というものでした。突然の出題に女房たちは緊張し、普段なら思い浮かぶ歌も出てこなくて、頭の中は真っ白、反対に顔はのぼせて赤くなっていきます。
色紙が回ってきた時、清少納言はまず、御簾の外に控えている伊周にそれを差し出して、「これはいかが(これはどういたしましょうか)」と打診し、伊周から差し戻されています。その後で清少納言が答えたのは次の歌でした。
年経ればよはひは老いぬしかはあれど君をし見れば物思ひもなし
これは、『古今集』の太政大臣良房の歌を拝借し、第4句の「花をし見れば」を一部改変したものです。良房の歌が詠まれた場面は、歌の詞書きに、「染殿の后のお前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」と説明されています。「染殿の后」は文徳天皇女御明子で、良房の娘です。良房は藤原氏で初めて摂政となり、摂関政治体制の基を築いた人物でした。
摂関政治の仕組みは、娘を天皇后として皇子を生ませ、その後天皇の祖父となって政権を掌握することです。これは良房が、天皇后となった娘を見て桜の花にたとえ、自分は年をとってしまったが、ようやく思いが叶うと満足して詠んだ歌でした。
すなわち清涼殿の上御局の簀子に置かれた桜の大瓶は、この歌の背景を演出していたのです。『枕草子』の場に良房の歌を当てはめるなら、「花」は中宮定子を指すことになります。そして、この歌を詠むべき人物は定子の父関白道隆でした。
清少納言が先に詠歌を伊周に打診したのは、その場にいなかった道隆のかわりにこの歌を定子の兄に詠んでもらおうと思ったからではないでしょうか。ところが伊周に断られ、自分で詠まざるをえなくなりました。もし、清少納言がこの歌をそのまま引いたとしたら、自らが関白の立場に立つという無礼なことになってしまいます。そこで、中宮定子をたとえる「花」を「君」に変え、女房としての立場を示したのでした。
清少納言が答えた良房の和歌は、清涼殿に据えられた桜の大瓶の意図、すなわち定子を中宮として皇室に入れた関白道隆の威光を暗示していたのです。
では、この桜を設置したのは誰か。当然ながら定子も伊周も承知の趣向と思われますが、最も有力な参謀者はこの場を外していた関白道隆ではなかったかと私は思います。なぜなら、『枕草子』の日記的章段には、道隆が企画したもう一つの桜の話があるからです。
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