『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(10)

2009年 8月 18日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(10) 初宮仕え~季節は春か冬か~

 前回前々回で見たように、初めて宮廷に出仕してから数日間の清少納言の緊張は大変なものでしたが、しばらくすると次第に慣れていきました。初宮仕えの頃を記した章段の後半に、次のようなエピソードが載っています。

 物など仰せられて、「われをば思ふや」と問はせたまふ。御いらへに、「いかがは」と啓するに合はせて、台盤所の方に、鼻をいと高うひたれば、「あな心憂、そら言を言ふなりけり。よしよし」とて、奥へ入らせたまひぬ。

(中宮様が何かお話をされたついでに、「私を大切に思うか」とお聞きになる。お返事として、「どうして思わないことがございましょう」と、申し上げる言葉と同時に、台所の方で誰かが高い音をたててクシャミをしたので、中宮様は「まあ、いやだ、お前は嘘を言ったのね。まあいいわ」とおっしゃって、奥へお入りになってしまった。)

 「われをば思ふや」と清少納言に問いかける定子の自信に満ちた誇らしげな態度はどうでしょう。今を時めく唯一の中宮という立場に何の陰りもありません。こんな風に正面切って問われた女房は何と答えたらよいのでしょうか。このときの清少納言のように、言葉少なに強調表現で答えるしかないでしょう。

 ところが、その時、事件が起こります。清少納言が言葉を発するのと同時に台所の方で誰かが大きなクシャミをしたのです。そこで、清少納言の返事は嘘だったのかと定子は決めつけていますが、心の中では、「こんな風に言ったら、どんな反応するかしら」と面白がっていたに違いありません。とても茶目っ気のある中宮様なのです。

 当時、クシャミは縁起の悪いものとされ、人前ではなるべくしないように慎んでいたようです。現代でも風邪のひき始めなどに出ることから考えると、クシャミは体調を崩す前兆と見られていたからかもしれません。ちなみに本来は『枕草子』本文のように、「鼻(を)ひる」という言葉だったのですが、クシャミをした時に「休息万病(くそくまんびょう)」と唱えた呪文がクシャミという言葉に変化したと言われています。

 さて、清少納言はすっかり気持ちが落ち込んでしまいました。どうして、よりによって、あんなタイミングでクシャミなんかしてくれたことだろうと、クシャミの主が憎らしく、悔しくて仕方ありません。でもまだ新参者の初々しい頃だったので、何の言葉も返すことができないままに夜が明け、自分の部屋に帰りました。その直後、定子から清少納言に和歌が届けられます。

 いかにしていかに知らましいつはりを空にただすの神なかりせば 

(いったいどうやって(お前の言葉が本当かどうか)知りましょうか。もしも天に嘘をただす、糺すの神がいなかったとしたら、決して知ることはできなかったでしょう。)

 これにはどうしても答えねば、と清少納言も返歌をしました。定子は、まだ宮仕えに十分に慣れていない清少納言に、何とか答えさせようと思っていたのかもしれません。

 さて、二人のこの贈答歌が清少納言の初宮仕えの時期を春と考える説の根拠になっています。定子から送られた手紙が浅緑色であり、清少納言の返歌に花が詠まれているからです。それはこの章段の始まり(前々回)に、季節は冬ではないかと推定したことと合いませんね。実は初宮仕えの時期については冬か春かで意見が分かれているのです。

 今回の最後の逸話は早春のことと見ていいと思います。しかし、定子と初めて出会ったころの記事は冬でいいのではないかと思います。つまり、初宮仕えを扱った一つの章段に、冬から春にかけての数か月間の出来事が記されていると見れば、季節の矛盾はなくなると私は考えています。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(9)

2009年 7月 21日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(9) 初宮仕え~物語や絵のような世界~

 定子の父の関白道隆は容姿の美しい人だったようです。『大鏡』には、43歳で亡くなる直前の道隆の姿を目にした源俊賢(としかた)が、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ(病気にかかった時こそ、美貌は必要なものだったよ)」と言ったと記されています。

 その道隆の血を引いた定子の兄の伊周(これちか)は少しふくよかな体格だったようですが、見栄えは悪くなかったようです。清少納言の宮仕え第2日目に登場した彼は上下紫の直衣姿で、雪景色の中にくっきりと映えて、「いみじうをかし(とてもすてきだ)」と書かれています。

 当時は台風や雷雨など天候に異変が起こった後には、荒天見舞いの殿上人が後宮を訪問します。邸のどこかが壊れたり、通り道に支障が生じたり、何か不都合はないかを確認する為でもありました。伊周も妹中宮の積雪見舞いに訪れたのですが、そこで二人の間に交わされた和歌を踏まえた応酬は、几帳の後ろから覗いていた清少納言を瞠目(どうもく)させます。

 物語にいみじう口にまかせて言ひたるに、たがはざめりとおぼゆ。(物語でどこまでも口から出任せに言っている理想的な情景と、ちっとも違いはないようだと思われる)

 日常会話で和歌を交えて応酬するなど、物語の世界だけの話だと思っていたのに、それが、現実に目前で行われていることに感銘を受ける清少納言。さらに、この時の定子の姿を描写した後には、次のように記されます。

 絵にかきたるをこそ、かかる事は見しに、うつつにはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。(絵に描いてあるものではこのような場面は見たが、現実世界ではまだ知らないのに、夢のような気持ちがする)

 物語や絵のような現実離れした世界、これが、はじめて上流貴族社会に接して抱いた清少納言の感想でした。周りの情景にすっかり心を奪われ、田舎者の傍観者として後宮をながめている清少納言に、この後大変なことが起こります。女房の誰かにそそのかされた伊周が、清少納言を見つけて、すぐ側までやってきたのです。

 伊周は清少納言が隠れていた几帳をどかして目の前に座ります。そして、宮仕え前に耳にした清少納言に関する噂を持ち出して、これは本当なのかと聞いてきます。それまでの伊周は、清少納言にとって遙か遠い存在でした。見物好きの清少納言が、いつか天皇の行列を見に言った折、行列に加わっている伊周がちょっとでも彼女の乗っている車の方に目を向けたたけで、簾(すだれ)を引いて隙間をふさぎ、車中で扇をかざして透き影も見えないように顔を隠していたのに、今、その伊周が目の前で直接自分を見つめているのです。

 身の程もわきまえずにどうして宮仕えに出てきてしまったのかと、冷汗もしたたり落ちる状態の清少納言。対する20歳そこそこの大納言伊周は、清少納言が顔を隠している扇まで取り上げてしまいます。仕方なく髪を振りかけて顔を隠そうとしますが、今度はまったく自信のない髪筋を見られているのが恥ずかしくてたまりません。

 一方、伊周は清少納言の扇をもてあそびながら、「この絵は誰にかかせたのだ」などと言ってなかなか返してくれません。清少納言はついに袖を顔に押し当ててその場に突っ伏してしまいました。化粧の白粉が着物に移って顔は斑になっているにちがいないと思いながら…。

 追いつめられて身動きも出来ない清少納言に、助け舟を出そうとしたのは中宮定子でした。何かの本を取り出して兄を自分の方へ来させようとしますが、伊周は清少納言が自分を離してくれないのだととんでもない冗談を言い、さらには、清少納言が世間の書家の筆跡を全て知っているから本をこちらによこすようにと言うのです。

 関白家のお坊ちゃんに絡まれ、ほとほと困り果てている清少納言の様子が想像できますね。作者自身もこの章段を書きながら、宮仕えの当初を思い出して思わず微笑んだのではないでしょうか。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(8)

2009年 7月 7日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(8) 初宮仕え~定子との出会い~

 清少納言が初めて出仕した年は、正暦(しょうりゃく)四年(993)だったと考えられています。『枕草子』には、それ以前の出来事を扱った章段もいくつかありますが、それはひとまず措(お)いて、まず、初出仕の日の事を記した章段から見ていきたいと思います。

 宮にはじめてまゐりたるころ、物のはづかしき事の数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳(みきちやう)のうしろに候ふに、絵など取り出でて見せさせたまふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。

(中宮御所に初めて出仕したころ、何もかも恥ずかしいことだらけで、涙も落ちてしまいそうだったので、毎夜参上して、三尺のついたての後ろに控えていたところ、中宮様が絵などを取り出してお見せくださるのを、それに私は手さえも差し出すことが出来そうもない状態でどうしようもなくつらい。)

 定子サロンの看板女房として上流貴紳と互角に渡り合うことになる清少納言も、初宮仕えの時の緊張は相当なものでした。それまで他人と顔を合わせる事に慣れていなかった彼女は、顔を人に見られることが恥ずかしくて、毎日、夜にしか参上できない有様でした。うだつの上がらない中流貴族の生活から、今を時めく関白家、さらに宮廷という雲の上の世界に足を踏み入れたのですから無理もありません。身分制度のない現代社会では考えられないくらいの緊張、と同時に未知の上流界への憧れが清少納言の感覚を麻痺させてしまうのです。

 その清少納言を待ちかねていたのが中宮定子でした。有名な歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘という事で興味を持っていたのでしょう。自分から清少納言に近づき直に声をかけてきます。そこには、権勢家の娘として生まれ、天皇妃となった定子の積極的で好奇心旺盛な姿が描かれています。

 この時、定子は17歳、清少納言はそれより10歳程年上だったと考えられます。しかし、極度の緊張のために定子の前では一言も発することができませんでした。顔も上げられない清少納言の目に止まったのは、定子が彼女の気を引こうとして絵を差し出した時に袖口からのぞいた手でした。
 うっすらとピンク色を帯びてつやめいている美しい指先。上流貴族の娘として大切に育てられ、今、中宮として宮廷に君臨している若々しい女主人の手…それが、清少納言の印象に残った定子の最初の記憶でした。

 定子の指先が色づいていたのは、その折の京都の寒さのせいだったとも考えられています。定子の前で数時間留められ、やっと退出を許されて緊張が解けた時、清少納言の目に映ったのは、庭に降り積もった白い物でした。ああ、雪が降っていたのかと気付き、そこで一時我に返ります。このあたりの描写はさすがです。

 さて、翌日は昼間から度々のお召しがあり、同室の先輩女房の忠告を受けて再び定子のもとに向かうことになりますが、その時、清少納言の目に入ったのは、火焼き屋(ひたきや=警備のために火を燃やす小屋)の上にまで降り積もった雪でした。一晩でかなりの量の雪が降り積もった様子から、季節は冬ではないかと考えられます。
定子の前に出ると、依然として緊張で凝り固まっている清少納言。そこに登場したのが大納言伊周(これちか)、すなわち定子の兄でした。次回に続きます。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(7)

2009年 6月 23日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(7) 宮仕え称讃論

 十二単を纏った華やかな女性たちが後宮に集い、女流文学作品が次々と生まれた平安時代は女性の時代だと思われているかもしれません。しかし、その後宮は、娘を皇室に入れて皇子を生ませ、皇子が即位すると天皇の外祖父(がいそふ;母方の祖父)として権力を握った藤原摂関政治の中枢的な役割を担っていました。
 紫式部も清少納言も摂関家に雇われ、それぞれの後宮の存在を誇示するために働いていたのです。つまり後宮は、男性社会の政治的戦略の枠組みの中で営まれていた限られた世界でした。

 しかし一方、当時の一般的な中流貴族の女性の一生は現代とは比べようもないほど閉鎖的で拠り所のないものでした。生まれてから未婚の娘時代は父親の加護のもとに育てられ、十代半ばで成人してからは親族以外の男性とは顔を合わせることもなくなります。親の意向によって身分相応の相手と結婚し婿を家に通わせるようになると、一夫多妻制の下でひたすら夫を待つ日々が始まります。そして子供が生まれると、家族の世話、雇用人の管理など一家の主婦としての生活に明け暮れてゆくのです。
 どんなに頭が良くて才能があっても社会の表舞台に立つことはなく、一生を裏方として終える人生が、生まれた時から女性に定められた人生なのでした。

 紫式部が幼いころ、兄が父に学問を教わっているのを傍らで聞いていて、兄より先にその内容を理解したので、父が「御前が男でなかったのが不運だった」と嘆いたという話(『紫式部日記』)は有名です。
 それは決して自慢話などではなく、紫式部のような才女ならなおのこと、どうして女は自分の能力を生かすことができないのかという悔しさ、やりきれなさが書かれているのです。女性の社会的不遇に対する紫式部の義憤を読み取るべきだと思います。

 清少納言も同様な思いを抱いていたに違いありません。そして彼女の場合、女性が社会で活躍できる唯一の現実的な場所として、後宮という世界を選んだのです。

 清少納言の宮仕え称讃論と言われる章段に、女性の宮仕えに対する積極的な意見が書かれています。この段は『枕草子』執筆の内的動機として重要なものと考えられますので、以下に大体の内容を紹介しておきましょう。

将来の当てもないのに真面目に偽物の幸せ(世間一般の結婚生活の幸せ)を信じている女って、いったい何を考えているの、ばかみたいと私には思われます。宮仕えに出られる位の身分の家の娘であれば、一度は宮廷社会に出して世間のいろいろなものを見聞させ、しばらくの間でも一流の女官として働かせたいもの。
…とはいっても、宮仕えに出れば、天皇から下郎まであらゆる身分の者と顔を合わさざるを得ないから、男達の中には宮仕えは軽薄で悪い事だと思って批判する者もいます。それも当然のことだとは思いますが、でも、結婚した後に宮仕え中に身につけた知識を夫のためにさりげなく役立てるのが、本当に奥ゆかしいということではないでしょうか。(「生ひさきなく、まめやかに」の段:筆者意訳による)

 清少納言は、夫と別れ、父と死別した後、この持論を胸に宮仕え生活に踏み出したと思われます。女性の社会進出が当然のこととして認められている1000年後の現代社会を彼女がもし見たら、どう思うだろうかと想像したくなってしまいますね。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(6)

2009年 6月 9日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(6) 『枕草子』の読み方

 前回前々回は、『枕草子』の本がさまざまな形態で現代に伝えられていることについてお話ししました。そして、その内容をとらえるために章段を3種に区分する方法をご紹介しました。ところが、『枕草子』の中には、次のような困った章段があります。

A 病は、胸。物の怪。あしの気。はては、ただそこはかとなくて物食はれぬ心地。
(病気といえば、胸の病。物の怪によるもの。脚気。最後には、ただ何となく食欲のない気分の状態。)

B 十八、九ばかりの人の、髪いとうるはしくて、たけばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えて、いみじう色白う、顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣き濡らし、乱れかかるも知らず、面もいと赤くて、おさへてゐたるこそ、いとをかしけれ。
(十八か九歳くらいの女性で、髪が大変美しくて背丈ほどに長く、裾がとてもふさふさしているその人は、よく太ってすばらしく色白で、顔立ちが上品で美人に見えるのだが、歯をひどく痛がって前髪を涙でぐっしょり濡らし、それが顔に乱れかかっているのも気にせず、顔面を真っ赤にして患部を手で押さえて座っている様子は、たいそう心が引きつけられる。)

C 八月ばかりに、白き単衣、なよらかなるに、袴よきほどにて、紫苑の衣の、いとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など、数々来つつとぶらひ、…
(八月ころに、白い着慣れた下着に袴がきれいな感じで、その上に紫苑色(薄紫)のとても上品な衣をはおって、胸の病気をひどく患っていると、友だちの女房たちがたくさん見舞いに訪れて…)

 この章段は、「病は」という標題が選ばれたこと自体が現代人には不思議に思われるのですが、内容がさらに問題です。まず、当時の病のうち文学的題材になりそうな代表的なものを並列した類聚部Aに始まり、次に、誰とも分からないけれど歯痛に苦しむ美女の姿態を観察した随想部Bが続き、さらに、初秋に重い胸の病に罹って友人の見舞いを受ける女性の回想部Cが続いています。そのCの女性は、この後に天皇の見舞いも受けており、実際の出来事を記したものと考えられます。

 つまり、本来性質の違う3種の文章が一つの章段内にまとめられているのです。その証拠に、内容によって章段を分類編集した前田家本と堺本では、ABCが別種の章段としてばらばらの位置に配置されています。一方、「病」という共通の主題のもとに形の異なる文章が集められた雑纂(ざっさん)形態本の章段は、文章の流れとしては自然に展開しており、作者が「病は」の段の記事を次々と書き継いでいったものと考えられます。同様に、異なる種類の文章が一章段内に含まれる例は、他にも複数見つけられます。

 このことから確認されるのは、『枕草子』の章段を類聚段、随想段、日記段と3分類する方法は、あくまでも後世の研究者の便宜によるものだということです。原作者の意識の中には3種の区別はなかっただろうと推測されます。したがって『枕草子』は、章段の区分もその種類も、本来、非常に流動的な作品であると考えておくのがいいと思われます。

 その事を前提として、今回、私が研究テーマとして選んだのは、『枕草子』の日記的章段です。これは日記段の中に他の種類の文章が含まれるケースをも含めての呼称です。日記的章段は、作者が仕えた定子の後宮生活で起こった出来事を扱った部分で、記録的な内容を持っています。しかし、日記段が集められた類纂形態の伝本においても、章段は決して時間の流れの順に並べられていません。

 章段区分が曖昧なうえに時間的な順序を無視した『枕草子』という作品を、私たちはどのように読んでいったらよいのでしょうか。その一つの答えが、日記的章段をあえて時間の流れの順に並べて読んでみるという方法でした。時間の順に並べて読むということは、歴史に沿って作品を読むことにもなります。そうすることによって、日記的章段をばらばらに読んでいたときには気付かなかったたくさんのことが見えてきました。
それが、作者が何を書こうとしたのか、『枕草子』はどんな作品なのかという課題に繋がっていったのです。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(5)

2009年 5月 26日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(5) 『枕草子』の3種の章段

 『枕草子』は、物語や日記文学のように時間の流れに沿って内容が展開していく形態のものではありません。『枕草子』はたくさんの文章の集合体からなっている作品であり、その一つ一つの文章のかたまりを現代の私たちは「章段」と呼んでいます。しかし、書かれた当時の原本では、おそらく各章段の区切り目は定まっておらず、章段番号も付けられていなかったと思われます。それは、現在伝えられている写本の状態から判断できます。

 『枕草子』の本文には、「○○は」「○○もの」という標題を持った文章があり、少なくとも、各標題の前で章段が区切られていたと考えることは可能です。ただし、それ以外の標題のない文章の区切り目はどうもはっきりしないのです。

 『枕草子』が約300段の章段からなるというのは文学史的な知識ですが、伝本を活字にする際に、読みやすいように章段の区切りをつけ、通し番号を打ったのは現代の『枕草子』注釈書の著者です。したがって、その区切り目も章段総数も、注釈書によって少しずつ異なっています。試しに図書館で何冊か手にとって、最後の章段の番号を比べてみると、280番台から330番台あたりまで、本によっては50段ほどもの違いがあったりします。

 『枕草子』の注釈書をいくつか読み比べる際には、それぞれの本ごとに章段番号が異なるので、最初に目的の章段を探し出さなければならないという面倒なことが生じます。また、『枕草子』の卒業論文を書く学生は、どの伝本を用いた、どの注釈書をテキストに使うかを最初に提示し、本文引用の際には章段番号とともに冒頭文も明記しなければなりません。

 『枕草子』を研究する際には、このような手間がかかるのです。そんな作品の本文全体を把握するにはどうしたらよいのか、そのために役立つ研究方法を編み出したのは、前回お話しした池田亀鑑氏(いけだきかん)でした。氏は『枕草子』の伝本研究を進める中で、章段をその内容から類聚段、日記(回想)段、随想(随筆)段の3種に分類しました。

 類聚段は、「○○は」「○○もの」という標題を持ち、その標題に適合する対象を作者の考えや好みによって集めた章段です。日記段は清少納言が体験した後宮生活を記録した章段で、随想段は類聚段と日記段以外のすべての章段を含みます。随想段の内容は雑多で統一されていませんが、作者が発見した自然や人事に関する観察、批評等を記した章段が主になります。

 これら3種類の章段内容から、『枕草子』には作者が宮仕え生活で体験し、感じた様々な事柄が書き留められていることが分かります。ここで前回お話しした伝本の問題に戻りますと、その3種の章段が種類ごとに整理され編集されているのが前田家本と堺本で、3種の文章が作品全体に混在しているのが三巻本と能因本になります。

 研究者の間では前者を類纂(るいさん)形態本、後者を雑纂(ざっさん)形態本と呼んでいますが、『枕草子』の原本に近いのは後者の形態だろうとされています。様々な文章が入り混じった本文を内容ごとに分類し、配列するのは後世の人の行いそうなことですが、作者以外の人物が、もともと分類配列されていた本文をわざわざシャッフルすることはないと考えられるからです。また、雑纂形態本の章段配列を観察してみると、異なる種類の章段間の文章の繋がりに連想的な脈絡の見られる箇所が複数あり、それが作者の作為によると見なされるからです。

 では、雑纂形態本のうち、三巻本と能因本とではどちらが原本に近いかというと、まだ決定的な結論は下せない状況にあります。また、類纂形態本のうち、書写年代の最も古い前田家本の本文には、部分的に古い文体が残されている可能性が十分にあります。このように、『枕草子』の伝本問題は複雑で容易に解かれないのが現状です。

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【編集部から】

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(4)

2009年 5月 12日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(4) 『枕草子』の4種の伝本

 古典の授業で『枕草子』を勉強しても、『枕草子』全部を通して読んだ方はあまりいないと思います。また、受験勉強的な知識として、『枕草子』は約300の章段からなる作品であると記憶した方も、それらの章段がどのような順序で並んでいるのかを知っている方は少ないのではないでしょうか。

 高校までの古典の教科書では、『枕草子』のいくつかの章段を適宜選んで載せているので作品の全体像が分からないのも当然です。大学で古典文学を専攻した学生が、本格的に『枕草子』を勉強して最初に驚くことは、作品全体の形がとても不安定だということです。それには、様々な内容の文章から成っている作品の形態自体の不安定さと、現存している写本の内容が大きく異なることによる本文確定の不安定さという二つの面があります。

 後者から先に説明しましょう。作者が実際に書いた当時の文章が、現在までそのままの形で伝えられていないのはどの古典も同じですが、『枕草子』の場合は、伝えられた本(伝本と言います)に、内容の大きく異なるものが何種類もあるのです。それらの伝本を、昭和初期に池田亀鑑(いけだきかん)という研究者が詳しく調査し、大きく4種類に区分しました。4種の伝本は、部分的な用語の違いの他に、文章の出入りや順序の違いがあちこちに見られ、全体的な形態が異なっています。それは、まるで違う本かと思われるくらいです。次に簡単に紹介しておきましょう。

 4種の本のうち、現在私たちが最も読む機会の多い本は、もともと3巻に分冊されていたことから三巻本(さんがんぼん)と名付けられた伝本です。複数ある三巻本の伝本の中では、京都近衛家の陽明文庫に所蔵されていた一本が最も善い本とされていますが、残念なことに上巻前半部が紛失して残っていないため、冒頭から約4分の1の文章が欠けています。その部分は、他の三巻本系の伝本で補って読むことになります。

 昭和初期に陽明文庫本が紹介されるまで、一般的に使用されていた伝本は能因本(のういんぼん)です。平安中期に活躍し、清少納言の親戚筋にあたる歌人の能因法師が持っていた本であると奥書(おくがき)に記されているため、信頼すべき本と考えられました。そのため、江戸時代に出版された『枕草子』の注釈書はすべて能因本を用いており、その中で、北村季吟の『枕草子春曙抄(まくらのそうししゅんしょしょう)』は最も広く読まれました。

 前田家本は、加賀藩前田家に伝えられた本です。この系統の伝本はたった一冊しかありません。また、書写年代が最も古く、鎌倉時代中期にまで遡ります。ちなみに書写年代が古いということは、清少納言が書いた原本に近いということとイコールにはなりませんが、資料的な価値が高いという点で大変貴重な本です。これに、堺に住む隠者の所持していた本を写したと奥書に書かれた堺本を入れて4種の伝本になります。

 少し専門的な話になってしまいましたが、これら4種の伝本の本文内容には、たとえば『源氏物語』の伝本とは比べようがないほどの差違があり、さらに、どの伝本が『枕草子』の原形を伝えているのかが未だに確定していません。では、4種の伝本の本文がどのように異なっているのか、それをお話しするために、次回は『枕草子』の作品形態について説明したいと思います。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。(隔週掲載)


『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(3)

2009年 4月 28日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(3) 『枕草子』は後宮女房日記?

 前回、『枕草子』は後宮文化の中で生まれた作品だということをお話しました。跋文(ばつぶん)と呼ばれる後書きには、『枕草子』が書かれることになったきっかけが記されています。ある時、中宮定子の兄の内大臣藤原伊周(ふじわら これちか)が一条天皇と中宮に大量の紙を献上しました。天皇はそれに中国の歴史書である『史記』を書写させたのですが、中宮の方では何を書いたらいいだろうかと問いかけたところ、清少納言が「まくらでしょう」と答えたために、自らが筆を執ることになったという事情です。

 当時、紙は貴重品で、上質の紙はなかなか手に入らないものでした。定子が時の関白の娘だったからこそ、兄伊周を通じて大量の紙が手元に入ったのです。それが、一人の後宮女房の手に渡ったとなれば、おのずから紙に書くべき内容も決まってきます。清少納言が答えた「まくら(=『枕草子』?)」がどういうものを意味しているか、未だに定説はありませんが、成り行きから考えれば、それが定子後宮の素晴らしさをアピールする役目を担っていたことは間違いありません。

 さて、定子の母の高階貴子は漢詩の作文が大変得意な女性でした。平安時代、漢字は男手とも言われ、女性がそれを使って漢詩を作ると世間から非難されるような社会でした。それでも貴子の作った漢詩は、並みの男性貴族の水準を超えており、しばしば朝廷から作文を命じられたと『大鏡』に記されています。

 そんな母親の血を引いた中関白家の姫君たちは、女性が漢字を使うことに引け目を感じることなく、存分に男性並みの教養を身につけていったものと考えられます。一方、軽妙な専門歌人であった清原元輔の末娘として生まれ、父親から和漢の教養を十二分に受け継いだのが清少納言でした。つまり、中宮定子と清少納言は文学的素養の面からもぴったりの相性だったと言えるでしょう。だからこそ、定子と出会った清少納言は、水を得た魚のように後宮文化の中でその才能を発揮していったのです。

 『枕草子』には、定子を中心に様々な宮廷生活の様子が書き留められています。主人周辺の出来事を記録するのは女房の役目の一つであり、前例を重んじる時代の公的記録として書かれていたのが女房日記でした。『枕草子』もそのような女房日記であると考える見方があります。主人定子の動向を女房の立場から書き留めたという点では、『枕草子』は女房日記の一種だと言えるかもしれません。

 ところが、『枕草子』と女房日記には決定的に違う点があります。それは、作品の形態です。日記であれば、その記録的性格から、時間を追って記されるものでしょう。しかし『枕草子』の場合、清少納言が宮仕えする以前から、定子と過ごした最期の年に至るまでの出来事を扱った文章が、時間的な順序も関係なく作品内に偏在しています。さらにそれらの文章が、「春はあけぼの」や「うつくしきもの」など様々な内容形態の文章の間に不規則に入り込んでいるのです。

 『枕草子』は定子後宮の記録ですが、時間の流れに沿って記される一般的な女房日記とは異なった形態を持った作品であり、そのことは女房日記とは異なる『枕草子』の文学としての性格を表していると思われます。
 それが、『枕草子』を女房日記と単純に呼べない理由なのです。

 さて、『枕草子』全体の形態について少し触れることになりましたので、次回は、それについてお話しましょう。

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【著者プロフィール】

赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて(2)

2009年 4月 14日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(2) 『枕草子』は随筆文学?

 中学校や高校で『枕草子』を初めて読んだ方は多いと思います。読んだことがない方でも、「春はあけぼの」の印象的なフレーズは聞いたことがあるのではないでしょうか。昨今は受験科目に古典文学を設定している大学は少なくなりましたが、『枕草子』は古文教材の定番でした。では、文学史ではどのような作品として位置付けられているのでしょうか。答えは、随筆あるいは随筆文学です。

 随筆とは、「見聞したことや心に浮かんだことなどを、気ままに自由な形式で書いた文章。また、その作品。」(三省堂『大辞林』第三版)とされています。

 『枕草子』には様々な文章が綴られています。四季の代表的な時間帯を選んで描写した冒頭の「春はあけぼの」、初夏の散策の体験を記した「五月ばかりなどに山里にありく」のような文章があります。また、「よろづのことよりも、なさけあるこそ、おとこはさらなり、女もめでたくおぼゆれ(他のどんなことよりも思いやりのあることが、男はもちろん、女もすばらしいと思います)」のように人間関係について批評した文章もあります。さらに、「うれしきもの」「にくきもの」などの人間心理をテーマに取り上げた文章では、作者の感じたこと、考えたことが現代の私たちにも直に伝わってきます。

 同様な形式を持った有名な古典として、鎌倉時代に書かれた『徒然草』を思い浮かべる方もいると思います。それもそのはず、『徒然草』には、作者の兼好が『枕草子』をお手本として読んでいることがちゃんと明示されているのです。つまり、中世には『枕草子』は模倣すべき古典としてとらえられていたということですね。

 では、平安時代はどうだったのでしょうか。中国から伝来した漢字をアレンジして平仮名が発明されたのは平安時代の始めでした。その平仮名を使って和歌や物語が急速に作られていったのですが、『枕草子』以外に随筆と見なされる作品は一つも現存していません。このような状況について、国文学者の五十嵐力氏は、著書『平安朝文学史』(1937年刊)に“大空に孤高を持したる『枕草子』” と書きました。『枕草子』は文学史上に孤立している特異な作品だという意味です。『源氏物語』が書かれる前に、竹取物語や伊勢物語という同じ種類の文学があった事情とは異なっているのです。

 それでは、『枕草子』は中世以降に登場してくる随筆文学とみなされる作品群の先駆けだったのかというと、実はそうとも言い切れません。それは、『枕草子』が随筆とは異なる世界を作品内部に持っているからです。「山は」「河は」といった表題で歌枕(和歌に詠まれる地名)を収集した形の文章は、女房として必須の教養だった和歌の知識を基に書かれています。また、定子後宮での出来事を記録した文章は、主家を称讃する視点でとらえられています。そのような記事が『枕草子』本文の半分以上を占めているのは『徒然草』との大きな違いです。

 この違いは何に由来するのでしょうか。一人の作者の意図によって書かれた『徒然草』と違って『枕草子』には、宮廷女房としての作者の立場が作品に大きく影響しています。『枕草子』は清少納言という女性がまったくの個人として書いた作品ではなく、作者が仕えた定子の後宮文化の中で生み出された作品なのです。

 作者が後宮文化を代表する女房であれば、その著作が後宮文化を代表する作品となるのは必然的なことであり、それは『枕草子』という作品を規定する重要な要素です。その点から考えると、『枕草子』は当時の文学の中で決して孤立していたとは言えなくなります。むしろ後宮文化の先導的な作品として見なされていたと言えるのではないでしょうか。紫式部が標的として狙ったのも頷けるはずです。

 では結局、『枕草子』はどんな作品なのか、これが拙著『枕草子日記的章段の研究』の大きなテーマになりました。次回に続きます。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて (1)

2009年 3月 31日 火曜日 筆者: 赤間 恵都子

(1) 紫式部と清少納言

 昨年は「源氏物語千年紀」ということで、京都を中心とした物語ゆかりの地で様々な企画が行われました。私も初夏に京都文化博物館を訪れて「源氏物語千年紀展」に展示された数多くの見事な文化財を鑑賞しました。また、年末には東京で『源氏物語』をテーマにした雅楽の会に足を運び、廃絶した男踏歌(正月14日に、男達が足を踏みならし拍子をとって歌を歌いながら、宮中から貴顕の邸を巡った年中行事)の再現や琴(きん)の演奏に感銘を受けました。
 千年も前の文学作品が、こんなにも幅広い豊かな伝統文化を現代にもたらしてくれることには今更ながら驚かされます。

 さて、このように人々の心を魅了し続ける物語の作者は言うまでもなく紫式部という一人の女性です。そして、彼女があからさまな敵意を持って指弾した相手が清少納言です。『紫式部日記』に記された次の文章は有名です。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。

(清少納言といえば、得意そうな顔をして我慢のならない人。あれほど偉そうに漢字をおおっぴらに書いていますけど、よく見れば、まだまだ不十分な点がたくさんあります。:筆者訳)

 随分辛辣な文章ですが、紫式部がここまで書いたということは、彼女にとって清少納言がそれだけ大きな存在だったということでもありましょう。

 実は、私は『枕草子』の研究をライフワークにしている者です。この度、遅々たる研究の成果をやっと一書にまとめることになったので、その内容をご紹介しつつ、一足先に千年紀を過ぎたもう一人の女流文学者のお話を聞いていただけたらと思って登場しました。

 紫式部が清少納言にライバル心を燃やす理由は、一条天皇の二人の后にそれぞれが仕えていたという立場上の問題が関係します。でも、それならなぜ、清少納言が紫式部に反論した記事は残っていないのでしょうか。

 『枕草子』には紫式部の夫藤原宣孝(のぶたか)の記事が取り上げられており、紫式部がそれに反発して先の文章を書いたのだという意見もあります。『枕草子』の宣孝の記事というのは、「あはれなるもの」という章段に書かれたものです。ただし、本題の「あはれなるもの」とは関係のない余談とでもいえる挿入話です。
 それは、藤原宣孝が熊野の御獄詣でをする際に、「神様は質素な装いで詣でよとはおっしゃっていない」と言って、息子と共にわざと派手な装束を纏って参詣し願を叶えたというもので、いかにも清少納言の好みそうな話題です。しかし、決して悪意を持って書かれてはいませんし、宣孝が紫式部と結婚する前の出来事であり、紫式部がことさらこの記事にこだわる理由はないと思います。

 紫式部が藤原道長の娘である中宮彰子の許に出仕したとき、一条天皇のもう一人の中宮(皇后)定子は既に亡く、定子に仕えていた清少納言の方が紫式部をライバル視する立場にはいませんでした。にもかかわらず、なぜ紫式部が清少納言を一方的に攻撃しなければならなかったのでしょうか。

 それは、定子崩御後もその洗練された後宮文化を世間に知らしめる『枕草子』という作品が存在していたからではないか、さらに、それが定子の遺した第一皇子を皇位継承者として認めさせるような力を持っていたからではないかと私は考えます。彰子が懐妊し、道長の孫となる第二皇子が誕生したとき、第一皇子を支える文化圏の筆頭にいた清少納言をここぞとばかり罵倒するのは、道長家のお抱え女房として必然的なことだったのではないでしょうか。

 さて、これは拙著『枕草子日記的章段の研究』の結論に相当する部分です。ここに至るまでに私なりに多くの時間と様々な考察を費やしてきました。次はそれについて少しお話したいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお見知りおきください。

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赤間 恵都子(あかま・えつこ)
十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

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