「辞書の世界」(ユリイカ2012年3月号)に、コラム連載中の山本貴光先生、笹原宏之先生が寄稿されています。
2012年 2月 17日 金曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部2月27日発売の『ユリイカ2012年3月号』特集*辞書の世界(青土社)に、弊社Webサイトでコラムを連載されている山本貴光先生と笹原宏之先生がご執筆されたので、お知らせいたします。
山本貴光先生は、「この辞書を見よ!20——ことばのアーカイヴ形成史」というタイトルで、辞書のブックガイドを寄稿されました。
現代の日本語について考える上で視野に入れるとよい辞書20冊(組)を選んで紹介する内容だそうです。といっても、よくあるブックガイドではなく、現代日本語の辞書は1冊(組)のみで、あとはどんどん時代を遡ったり、別の言語との関係へと話が及んでいくのだとか。
連載中のコラム「百学連環」とあわせてお読みになってはいかがでしょうか?
⇒山本貴光先生の連載「百学連環」
笹原宏之先生は、編集協力者、編集委員、編者として編纂に関わった『全訳漢辞海 第三版』、『新明解国語辞典 第七版』、『当て字・当て読み 漢字表現辞典』を主な対象として、漢字や表記の扱い方にどのような違いが生じたのか、その背景まで含めてご執筆されたとのことです。
こちらも、コラム「漢字の現在」とあわせて読むと、興味深く読み進められそうです。
⇒笹原宏之先生の連載「漢字の現在」
また、こちらの特集には『三省堂国語辞典』編集委員の飛田良文先生、『三省堂類語新辞典』編者の中村明先生もご執筆されています。
『ユリイカ2012年3月号』の詳細については、下記の青土社サイト内のページをご覧ください。
⇒『ユリイカ2012年3月号』特集*辞書の世界 紹介ページへ(青土社サイト内)
「百学連環」を読む:観察と実践
2012年 2月 17日 金曜日 筆者: 山本 貴光第45回 観察と実践
さて、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら、「学(science)」と「術(art)」の意味や区別を検討する様子をじっくり見てきました。以上を踏まえながら、西先生は少しずつ話を転じてゆきます。続きを読みましょう。
又 theory, practice 學に於ても又術に於ても、觀察、實際共になかるへからす。學{觀|實} 術{觀|實}。
(「百學連環」第7段落第3~4文)
theoryとpracticeという新しい語がお目見えです。文末は、便宜上このように記しましたが、実際には右図のように、「學」の字の下に「觀」と「實」が並ぶように記されています。また、原文では、theoryの左に「觀察上」、practiceの左に「實際上」と訳語が添えられています。訳しておきましょう。
また、「theory(観察)」と「practice(実際)」という区別がある。学についても、術についても、いずれも観察と実際の双方がなければならない。つまり、学{観察|実際} 術{観察|実際}ということである。
現代では、theoryと言えば、すぐ「理論」と言いたくなるかもしれませんが、theoryとは語源からして「見る」ことに関連する語です。古典ギリシア語ではθεωρια(テオーリアー)、ラテン語ではtheoria(テオーリア)。語の形だけ見ても、英語のtheoryが、これらの語に連なるものであることが分かります。
古典ギリシア語の「テオーリアー」は、「見ること」「見られるもの」「考察」「探究」といった訳語が充てられる語です(もう一つ、神にまつわる面白い意味もあるのですが、ここでは省略します)。「理論」という意味は、人が対象から見てとったこと、ということかもしれません。
ちなみにtheoryの横に英語のtheater(theatre)も並べてみるとよいでしょう。theaterもまた古典ギリシア語のθεατρον(テアートロン)に由来しますが、これは「劇場」、つまり「見る場所」という意味でした。θεα(テアー)と書けば、「見ること」「光景」といった意味になります。
ですから、西先生がtheoryを「觀察」というふうに「見る」ことに結びつけて訳しているのは、そのような意味でも妥当だと思います。
他方のpracticeは、現在でも「実際」とか「実践」などと訳しますね。なにかを行うという意味です。
さて、こうした「觀察」と「實際」とが対で持ち出され、この二つのことは、「学」と「術」それぞれになければならないというわけです。文末には漢字一文字を使って、図が示されていますが、こう表現すると四者の関係がぱっとイメージできますね。
theoryとpractice、私たちに馴染みの言葉で言えば「理論」と「実践」は、現在でもしばしば対立的に使われることがあります。例えば、手許の英和辞典でtheoryを引くと二つ目の定義にこう見えます。
(実践に対する)理論; (学問的)原理; [or a ~]理屈,空論(←→practice)
(『ジーニアス英和大辞典』、大修館書店)
また、practiceの最初の定義はこうです。
(理論に対して)実行,実施; 実地,実際(←→theory)
(前掲同書)
「理論」と「実践」とが互いに「対する」ものであると説明されています。
しかし、どうして「理論(観察)」と「実践」は対立するのでしょうか。私などは、つい「観察すること」もまた「実践すること(行うこと)」ではなかろうか、などと考えてみたくなることがあります。
とはいえ、日常でも「あいつは理論〔理屈〕ばかりで実践が伴わない」と言ったりすることがありますね。こう言った場合は、口先(言葉)だけで、実行していないという意味になります。
この二つの対比は、なにも最近始まったことではありません。例えば、2000年以上前にこんなことを書いている人がいます。
哲学を真理の学と呼ぶこともまた正当である。なぜならば理論学〔テオーレティケー〕の目的は真理であり、実践学〔プラクティケー〕のそれは行為〔エルゴン〕だからである。
この人は、理論と実践は、目的が違うとはっきり区別しています。頭を使って真理を探究し、言葉で理論をつくりあげることもまた行為ではないかと考えると、話がややこしくなってきますが、それはまた後ほど検討するとして、一旦この整理を受け入れておきましょう。
ところでこれは誰の言葉でしょうか。すでにピンと来ているかもしれません。本連載でももはやお馴染みの(?)アリストテレス先生が『形而上学』で述べていることなのでした(訳文は、岩崎勉訳『形而上学』、講談社学術文庫、p.103からお借りしました)。ついでながらアリストテレスは、諸学術を大きく三つに分けて考えています。上の引用文に現れる「理論学」「実践学」に加えて「制作学〔ポイエーティケー〕」の三つです。
それはともかくとして、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら区別している「觀察(theory)」と「實際(practice)」という言葉もまた、遡ればアリストテレスの学術観に根があるらしいことが分かります。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
*
【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
「百学連環」を読む:真理への二つの関わり方
2012年 2月 10日 金曜日 筆者: 山本 貴光第44回 真理への二つの関わり方
前回見た「学」と「術」の区別の後に、再び英語の引用が現れます。次のような文章です。
Therefore science and art may be said to be investigations of truth, but science inquires for the sake of knowledge, art, for the sake of production, and science is more concerned with the higher truth, art with the lower.
(「百學連環」第6段落第2文)
英文の左側には、例によってところどころ日本語が添えられているので、参考までにお示ししておきましょう。
investigations 穿鑿デ
truth 眞理
inquires for 望ムニ
sake 爲
production 生スル事
concerned 道理係ル
訳します。
したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。
実は、私たちはこの文章をすでに一度見ています。第39回で、『ウェブスター英語辞典』(1913年版)の「SCIENCE」の同義語の説明を訳した際、そこにこの一文も含まれていたのでした。確認のため、もう一度引用しておきましょう。
「アート」は、実演における実行や技能にかかるものだ。「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル。したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。また、「サイエンス」は、「アート」のように生産への応用にはけっして関わらない。したがって、「サイエンス」の最高に完全な状態とは、最も高度かつ正確な探究であろう。対する完璧な「アート」とは、最も適切かつ効果的な規則の体系であろう。アートとは、常に自らを規則という形にするものなのだ。」
カールスレイク
(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)
これは『ウェブスター英語辞典』がカールスレイクの書物から引用した文章の一部でした。ラテン語交じりの文章については、すでに検討しましたが、西先生は「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル(In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.)」に続く文章も、続けて『ウェブスター英語辞典』を参照しているようです。
この引用で言われていること自体は、これまで角度を変えながら確認してきた「学(science)」と「術(art)」の違いですので、重ねて解読するまでもないでしょう。注目しておきたいのは、サイエンスとアートが、「真理(truth)」に対する二つの関わり方として区別されているということです。
次の段落も見ておきます。こう続きます。
學は則ち上への方へ穿鑿し遂けるを云ふなり。術は則ち之に反して下の方へ穿鑿し極むるを云ふなり。
(「百學連環」第7段落第1~2文)
現代語に訳してみます。
「学」とは上の方へと綿密に調べ尽くすことである。「術」とは、それとは反対に、下の方へと綿密に調べ尽くすことである。
お気づきかもしれませんが、この一文は、上で再引用した『ウェブスター英語辞典』の文章に含まれている「つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである」という部分に相当しています。ここは西先生が英文を訳して述べたのだと考えられます。
それにしても「上の方(higher)」「下の方(lower)」という垂直方向の喩えには、どんな含意があるのでしょうか。「形而上」「形而下」といった対語も連想されます。とはいえ、ここを読んだだけでは「上下」という表現の含意は分かりません。この問いを念頭に置きながら、先へ進むことにしましょう。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:医学・医術を具体例にして
2012年 2月 3日 金曜日 筆者: 山本 貴光第43回 医学・医術を具体例にして
久しぶりに「百学連環」本文に戻ってきました。最後に読んだ講義の本文は、第37回をご覧ください。「学(Science)」と「術(Art)」は混同しやすいものだが、区別せねばならないということで、ラテン語交じりの引用文が現れたのでした。
続きを読んでゆきましょう。次の文はこうです。
學とは原語の通り、あるとあらゆるを分明に知り、其根元よりして、既に何等の物たるを知るを云ふなり。
術とは生することを知ると原語の通り、何物にても成り立所のものゝ根元を知り、其成り立所以を明白に知るを云ふなり。
(「百學連環」第5段落、第6段落第1文)
訳します。
「学」とは〔今示した〕原語にあるように、あらゆる物事を明確に知り、その根源からそれがなんであるのかを知ることである。
「術」とは、生じることを知るという原語の通りで、あらゆる物事について成立するものの根源を知り、その成り立つわけを知ることである。
以上は、前段まで英語やラテン語交じりで述べたことを、西先生の言葉で言い直しているくだりです。要すれば、「学」とは対象がなんであるかを知ることであり、「術」とは対象がどのように出来ているかを知ることだというわけです。前回見たアリストテレスの区別とほとんどそっくり重なっていることが分かります。
主にここで読んでいる「甲本」では次に英文が現れますが、「乙本」を見ると、その英文の手前に具体例が挟まれています。学と術の区別について、西先生がどのように捉えていたのかを知るためのよき材料ですので、見ておきましょう。
學と術とを區別して一ツのものに譬へむには、彼處に一人の病人あり、軍中にて足ヲ銃丸にて打たれしと言ふ、故に今醫者を招きて療治するに、醫者の人體の筋骨皮肉五臓六腑の組立を知るは學なり、さて其銃丸に打たれし足を治セんに、元より筋骨の組立はよく知る所なれは、其の銃丸を如何して拔き取り得へき工夫をし得て、是を療治す是即術なり、
(「百學連環」乙本より)
訳せばこうなるでしょうか。
「学」と「術」を区別する譬えを一つ述べよう。ここに一人の病人がいる。軍中、足を銃で撃たれたという。そこで医者を呼んで治療する。医者は人体の筋骨や皮肉、五臓六腑の仕組みを知っているが、これは「学」である。さて、その銃で撃たれた足を治すにあたっては、もとより筋骨の仕組みをよく知っているから、銃弾をどのように抜き取るかということを工夫して治療するわけだが、これを「術」というのである。
講義などで物事を抽象的に説明して終わると、聞いた側の理解や知識が上滑りしてしまうことがあります。そこで、このように具体例を提示すると、ようやく地に足がつくわけです。これはものを説明する際に留意すべき点の一つでありますが、アリストテレスなども、実に見事にこの方法を活用しています。
この例にこと寄せて言えば、人体の解剖学的知識や病理についての知識は「医学」であり、そうした知識に基づいて病を治療する行いが「医術」と言えるでしょう。ここで例に取られている医術は、江戸の蘭学の時代にも中心的な位置を占めた学術であり、西先生の家も父時義は津和野藩の藩医であったことも思い起こされます(ただし、西周は藩命によって還俗しています)。
*
即=卽(U+537d)
既=旣(U+65e3)
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「百学連環」を読む:どの『ウェブスター英語辞典』か
2012年 1月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光第42回 どの『ウェブスター英語辞典』か
西先生が「百学連環」で講じた「学(Science)」と「術(Art)」の説明は、その根を辿ると遥か昔、古代ギリシアのアリストテレスによる見立てに至ることを見てきました。再び話を明治に戻してゆきましょう。
と言いながら、「百学連環」そのものに立ち戻る前に、もう一つだけ確認しておかなければならないことがあります。西先生が参照した『ウェブスター英語辞典』の版はどれかという問題です。出典も分かったことだし、「どれでもいいじゃないか」と言いたくなるかもしれませんが、そうは問屋が卸さないのです。二つばかり問題があります。
一つは、同じ『ウェブスター英語辞典』と題されていても、版を重ねるごとにテキストは変化するので、どの版から引用しているかということは見過ごせないという事情があります。
もう一つ、こちらのほうがいっそう大きな問題なのですが、ここまでの議論には、実は一つ重大な空白が残されているのです。ミステリの謎解き風にご自分でその空白を見抜きたいという方は、ここ数回を読み直してみてください。
すでにお気づきの方もいるかもしれませんが、ここ数回の検討で私たちが参照していた『ウェブスター英語辞典』は、1913年のものでした。でも、思い出しましょう。そもそも「百学連環」講義はいつ行われたものだったか。あるいは西先生の生没年を。
そうです。「百学連環」講義には、明治3年(1870-1871年)という日付がありました。また、西先生は1897年に没しています。つまり、1913年版を参照しているはずはありません。
ここ数回、西先生が引用した”In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.”という文章は、『ウェブスター英語辞典』の1913年版にあることを基に検討を重ねてきました。また、その際1828年版にはこの文章が見られないことも確認しました。つまり、このままでは辻褄が合いません。
では、西先生が参照しえた『ウェブスター英語辞典』は、どの版か。特定はしきれていませんが、手がかりがあります。以下、西暦の数字に気をつけながら進めて参りましょう。
面白いことに、1856年に刊行された『英語発音並びに定義辞典――ウェブスター・アメリカ辞典縮約版(A pronouncing and defining dictionary of the English language: abridged from Webster’s American dictionary, with numerous synonyms, carefully discriminated)』という辞書のSCIENCEの項目(p.405)には、1913年版とほとんど同じ文章が現れますが、上記したラテン語の部分は含まれていません。
しかし、1865年に刊行された『ウェブスター英語辞典(American Dictionary of the English Language)』では、カールスレイクから引用した文章が「SYN(シノニム)」として提示されています。
一方で、引用元となったカールスレイクの本は1851年刊行ですから、1856年版でも引用しようと思えばチャンスはあったわけです。しかしそうはなっていません。ちなみに第40回でご紹介したフレミングの『哲学語彙』は1857年の刊行でした。カールスレイクからの引用箇所が大きく重なっていることからも、『ウェブスター英語辞典』の編纂者が目ざとくフレミングの本を見て、カールスレイクの引用文を自分の辞書にも入れた……という空想も働きますが、定かではありません(当時の辞書編纂者たちが、お互いにお互いの辞書を利用し合っていたのは事実です)。
それはともかく、今回検分できた範囲では、この1865年版であれば西先生が参照する可能性がありそうです。1865年は「百学連環」講義の5年前、西先生がオランダ留学から帰国した年でもあります。
ただし、1856年の縮約版と1865年の辞書の間には、おそらく他にもいくつかの版がつくられているでしょうから、これをもって西先生が参照した版そのものだと断定するわけにはいきません。どの『ウェブスター英語辞典』かを特定する問題は、今後の調査課題とすることにして、「百学連環」の読解に戻ることにします。つまり、西先生は知ってか知らでか、アリストテレスの伝統に連なる「学術(Sciences and Arts)」の見立てを下敷きの一つにしていたというわけでした。
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「百学連環」を読む:アリストテレスの区別――「エピステーメー」と「テクネー」
2012年 1月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光第41回 アリストテレスの区別――「エピステーメー」と「テクネー」
西先生が引用した「サイエンス」と「アート」の違いを論じたラテン語交じりの文章は、どうやら『ウェブスター英語辞典』からの引用であり(これについてはもう一点確かめねばならないことがありますが次回とします)、同辞典はカールスレイクの著作からそれを引用しており、カールスレイクはどうやらそれをアリストテレスの『分析論後書』から取っている、という様子が見えてきました。これまた大いなる伝言ゲームです。
では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」の違いについて、どう考えているのでしょうか。前回見た『哲学字彙』の示唆に従って、『分析論後書』を覗いてみます。
ただし、『哲学字彙』に示されていた『分析論後書』のページ数は、どの版のものか分からないため、直接参考にはできませんでした。以下に示すのは、『哲学字彙』が示している箇所と一致するか否かは分かりませんが、『分析論後書』に見られる「サイエンス」と「アート」の違いに触れた箇所です。第2巻第19章にこういうくだりがあります。
生成するものについては技術の端初が、存在するものについては知識の端初がある。
(アリストテレス『分析論後書』第2巻第19章、100a10、加藤信朗訳、
『アリストテレス全集』第1巻、岩波書店、p.770)
この訳文で「技術」と訳されている語は、ラテン語訳ではartis、ギリシア語原文ではτεχνη(テクネー)です。「知識」のほうは、ラテン語訳がscientiaeで、ギリシア語がεπιστημη(エピステーメー)です。なお、上の邦訳では「エピステーメー」は「知識」の他に「科学」とも訳されています。
上の引用から、アリストテレスが、「テクネー(技術)」と「エピステーメー(知識)」を区別している様子が見えますね。「テクネー」はつくられるものに関しており、「エピステーメー」は存在するものに関するのだというわけです。
この『分析論後書』という書物は、知識やその学問的な論証がどのように成り立ちうるかということを論じたものですが、「知識(エピステーメー)」や「技術(テクネー)」がなにかということそのものについては述べていません。
そこで、アリストテレスの別の著作で補っておきたいと思います。『ニコマコス倫理学』にうってつけの説明があります。まず「エピステーメー」に関する議論から見てみましょう。
われわれが学問的に知る対象とは、「他の仕方ではけっしてありえないもの」である、と想定している。(中略)「学問的に知られるもの(エピステートン)」とは必然によって存在するものである。(中略)
学問的知識とは、「論証にかかわる状態(アポデイクティケー・ヘクシス)」であり(中略)人が、あるものを一定の仕方で信じていて、しかもその諸原理が彼に認識されているとき、その場合に、彼は学問的に知っていると言えるのである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第3章、1139b、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.260-261)
途中を省略していることもあって、少し分かりづらいかもしれません。ここでの関心に沿ってまとめ直すとこうなります。人が学問的知識(エピステーメー)を持っていると言えるのはどういう場合か。それは、必然によって存在するものについて、その諸原理を論証できるかたちで認識している場合だ、というのです。ここで「必然による存在」というのは、当世風に言い直せば、法則に従う自然や数学などのことです。アリストテレスは、他のなにかのためではなく、知るために認識することを哲学の営み(知るのを愛すること)だとも言っています(『形而上学』982b)。
他方で「技術」についてはどうか。同じ『ニコマコス倫理学』で、こう述べています。
あらゆる技術は事物の生成にかかわるのであり、技術の行使というのは、存在することも存在しないことも可能な事物、そしてその原理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを「理論的に考察する(テオーレイン)」ことを基礎とする。すなわち、技術は、必然によって存在したり生成したりするものごとを対象とせず、また自然によって存在するものごとも対象としないのである。なぜなら、自然によって存在するものは、みずからの内に存在の原理をもっているからである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第4章、1140a、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.262-263)
ここでは「技術(テクネー)」というものが、事物の生成、つくることに関わっていると述べられています。先に見た「学問的知識(エピステーメー)」が対象とするような「必然によって存在するもの」や「自然によって存在するもの」とは区別されているのがポイントです。このアリストテレス先生による区別こそが、前回まで見てきたような「サイエンス(学)」と「アート(術)」の区別に響いていることがお分かりになると思います。
ついでながらもう一つ気になるのは、そうしたアリストテレスの見立てが、彼が書いたであろう古典ギリシア語ではなくラテン語訳で引用されていたことです。これはなぜでしょうか。
推測に過ぎませんが、二つばかり考えられることがあります。一つには、ヨーロッパにおいて長きにわたり種々のラテン語訳でアリストテレスが読まれてきた伝統があるからではないかと思います。また、英語のscienceやartの淵源は、古典ギリシア語の「エピステーメー」と「テクネー」にあるにしても、語の形の上からも直感的に見てとりやすいのは、そのラテン語訳であるscientiaとartesだという事情も働いているのかもしれません。
とにもかくにも議論の源である古典ギリシアの様子を見ましたので、再び西先生のほうへと引き返しましょう。「百学連環」そのものの読解に戻ります。
*
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
*
【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
「百学連環」を読む:ラテン語の引用元
2012年 1月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光第40回 ラテン語の引用元
『ウェブスター英語辞典』(1913年版)で、SCIENCEの項目を読んでいるところでした。そこに記載されているSCIENCEの同義語(シノニム)に、literature、art、knowledgeの三つの語が並んでおり、中でもartについては、念入りの説明が施されています。
前回見たように、「アート」に関する解説は、辞書の執筆者によるものではなく、カールスレイクからの引用であることが示されていました。
調べてみると、ウィリアム・ヘンリー・カールスレイク(William Henry Karslake)『論理学研究への手引き(Aids to the Study of Logic)』(2vols, 1851)の第1巻からの引用であることが分かります。残念ながら、今回同書そのものは確認できませんでしたが、出典については別の文献で確認できました。
実は『ウェブスター英語辞典』で引用されているのとまったく同じ文章が、他の書物にもそのまま引用されているのです。ここで注目しておきたいのは、ウィリアム・フレミング(William Fleming)『哲学語彙 精神・道徳・形而上学に関する――引用と参照つき 学生用(The Vocabulary of Philosophy, menetal, moral, and metaphysical: with quatations and references; For the use of students)』(1857)です。
これは、グラスゴー大学のウィリアム・フレミングが、学生の学習のために編んだ哲学事典で、副題に見えるように、語彙の解説に加えて先哲が書いた文章からの引用が添えられています。
この『哲学語彙』のSCIENCEの項目を見ると、さまざまな引用を交えながら、その意味と用例が提示される中に、例の”In science, scimus ut sciamus; in art, scimus ut producamus.“で始まる文章(第37回参照)が引用文として現れます。そして、その引用文の末尾に次のように出典が示されているのです。
――Karslake, Aids to Logic, b. i., p. 24.――V. ART, DEMONSTRATION.
(The Vocabulary of Philosophy, p.453)
書名は若干省略されていますが、上記した『論理学研究への手引き(Aids to the Study of Logic)』を指しています。このようにきちんと出典が明示されているおかげで、西先生が『ウェブスター英語辞典』から引用している文章の出所が分かりました。この『哲学語彙』はなかなかよくできていて、カールスレイクの引用には次のような注もついています。訳出してお示ししましょう。
この「サイエンス」と「アート」の区別は、アリストテレスが提示したものである。『分析論後書』i., 191, ii., 13.を見よ。
またしてもアリストテレスの名前に出合いました(第30回参照)。無理からぬことです。ヨーロッパの学術史を眺めてみると、学術を分類するさまざまな試みがなされてきましたが、その最初期の試みの一つがアリストテレスによるものだからです。アリストテレス先生の影響は、時代によって強くなったり弱くなったりしていますが、このように19世紀半ばの学術書にもその力は及んでいるのです。
では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」をどのように区別しているのでしょうか。西先生の「百學連環」からさらに遡ることになりますが、ここをしっかり押さえることで、以後の読解にとっても、大きな手助けを得られると思います。次回は、アリストテレスの議論を見てみることにしましょう。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:サイエンスの同義語
2012年 1月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光第39回 サイエンスの同義語
『ウェブスター英語辞典』1913年版のSCIENCEの項目に掲載されている同義語の欄を見ていたところでした。その同義語には、Literature、Art、Knowledgeの三つが並んでいます。
「リテラチャー」と言えば、ついつい「文学」と訳したくなる言葉ですね(このこと自体いろいろな問題を含むわけですが)。こともあろうに「サイエンス」が「リテラチャー」と同義なの? というわけです。ここは、「百学連環」を読む私たちにとっても興味深い箇所なので、少し足をとめて見ておくことにしましょう。原文はリンク先を見ていただくとして、訳文を掲げてみます。
同義語――リテラチャー、アート、ナレッジ。「サイエンス」とは文字通りには「知識(knowledge)」のこと。だが、よく使われる意味では、体系立っていて秩序ある知識の配置を指す。さらに詳しい意味としては、「サイエンス」には、知識の諸分野が含まれており、そうした知識は、根本的な原理、もしくは自然の秩序に従って配置された原理や法則によって説明される事実などを対象としている。
(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)
原文ではここで切れずそのまま続きますが、一旦ここで区切ります。まずは「サイエンス」の同義語の一つとして掲げられた「ナレッジ(知識)」との関係が説かれていますね。ここで「おや?」と思うのは、同義語としては「リテラチャー」「アート」「ナレッジ」という順序で並べられているにもかかわらず、説明は「ナレッジ」から始まり、次に見るように「リテラチャー」が続き、最後に「アート」が登場することです。なぜかは分かりませんが、頭の片隅に疑問を置いておきましょう。
それはともかく「サイエンス」を「学」もしくは「学問」と捉えれば、「知識」と同義であるという説明は納得しやすいと思います。では、次に「リテラチャー」の説明です。
「リテラチャー」という言葉は、「サイエンス」の名の下に包括されないあらゆる構成物を意味することもあるが、多くは「文学(belles-lettres)」に限定される。〔Literatureの項目を見よ〕。
(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)
ここで注意すべきことは、そもそもliteratureという言葉は、いわゆる「文学」に限定されない幅広い意味を持っていたということです。ラテン語のlitteraturaに由来することは、言葉の姿からも分かりますね。
このラテン語は、「文字を書くこと」「著作物」「文献」あるいは「アルファベット」「文法」、そして「学問」「学識」という意味を持つ言葉でした。文字という表現に関わることであり、その分野やジャンルを狭く限定する概念ではなかったのです。ですから、上記のように「サイエンス」の同義語として「リテラチャー」が掲げられていることに不思議はありません。
ただし、そこでも述べられているように、「リテラチャー」は「文字で書き記されたもの」が広く含まれますから、必ずしも「学問(サイエンス)」に限定されるとは限らないというわけです。それが後世、「サイエンス(科学)」と「リテラチャー(文学)」を対立するもののように捉えるようになってしまったのはどうしてか。根深い問題です。
そして最後に「アート」の説明に移ります。ご覧いただくと分かりますが、三つの類義語の中でも「アート」に費やされている文字が最も多くなっています。見てみましょう。
「アート」は、実演における実行や技能にかかるものだ。「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル。したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。また、「サイエンス」は、「アート」のように生産への応用にはけっして関わらない。したがって、「サイエンス」の最高に完全な状態とは、最も高度かつ正確な探究であろう。対する完璧な「アート」とは、最も適切かつ効果的な規則の体系であろう。アートとは、常に自らを規則という形にするものなのだ。」
カールスレイク
(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)
ここは少し込み入っていますので、読み解きは次回といたします。一つだけ先に言うと、2文目からが引用文になっており、その冒頭には、あの西先生が引用していたラテン語交じりの一文が現れていますね。
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「百学連環」を読む:アートとサイエンスは紛らわしい?
2011年 12月 23日 金曜日 筆者: 山本 貴光第38回 アートとサイエンスは紛らわしい?
西先生は、『ウェブスター英語辞典』からARTの定義を引用した後で、改めて「学問(Science)」と「術(Art)」の違いを明確にするためにラテン語交じりの説明を引用しました。現代語訳を添えて、再び提示しておきましょう。
In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.
〔学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル〕
(「百學連環」第4段落第4文)
では、この文はどこから来たのでしょうか。そう思って調べてみると、やはり『ウェブスター英語辞典』から取られていることが分かります。
ありがたいことに、『ウェブスター英語辞典』の最初の版である1828年版と、後の改訂版である1913年版の内容を電子化して閲覧に供している「NOAH WEBSTER’S 1828 AMERICAN DICTIONARY」というウェブサイトがあります。
ここでSCIENCEの項目を調べてみると、問題の一文が1913年版に書かれていることが分かるのです。
1828年版では、Scienceの五つの定義が示された後に、ちょっと面白いことが書かれています。原文は上記リンクをご覧いただくとして、ここでは日本語に訳出しておきましょう。
注記――作家たちは、「アート」と「サイエンス」という語について、しかるべき識別と正確さでもって使い分けることに必ずしも注意を払ってきたわけではない。〔例えば〕音楽はアートであり、同様にしてサイエンスである。一般に、アートとは実践や実演にかかるものであり、サイエンスとは抽象や理論的な原理にかかるものだ。つまり、音楽の理論はサイエンスであり、音楽の実演はアートである。
(『ウェブスター英語辞典』、1828年版、SCIENCEの項への注記)
英語において「アート」と「サイエンス」の区別が必ずしも厳密になされているわけではないという語用の一端が垣間見えますね。現在の日本語でカタカナとして使われる「アート」と「サイエンス」では、むしろ別の事柄としてはっきり分けられていますから、そういう観点からすると上でウェブスターが書いていることはかえって分かりづらいかもしれません。
しかしながら、ここまで見てきたように、いま私たちが確認しようとしている「アート」と「サイエンス」は、「術」と「学」と訳したほうが適切であるような言葉でした。上の「注記」の「アート」と「サイエンス」を「術」と「学」に置き換えて読むと、もう少しその混同しがちな雰囲気を味わいやすいかもしれません。あるいは「学」と「術」がつながった「学術」という言葉は、人によって「学」や「学問」と区別されずに使われる場合もあるようですから、似たような混乱が日本語においても見られるとも言えましょうか。
さて、『ウェブスター英語辞典』の1913年版では、SCIENCEの項目はどうなっているでしょうか。定義の詳細は省きますが、やはり五つの定義を示した後で、いくつかの補足がなされています(その後ろに第六番目の定義が続きます)。
一つはアスタリスク(*)で始まる注記で、「サイエンス」の分類が説明されています。「サイエンスには、応用(applied)と理論(pure)がある」というわけです。これについては、「百学連環」をもう少し読み進めたところで、改めて問題になってきますので、そこに譲ります。
次に、「比較サイエンス、帰納的サイエンス」という言葉が並びます。言い換えれば「比較的学問、帰納的学問」ですね。ここでは別の項目、「ComparativeとInductiveを見よ」と参照先が示されていますが、これも後ほど話題になりますのでおきます。
いま注目しておきたいのは、その次に置かれた段落です。「Syn.」つまり「同義語」という項目があって、まずはScienceの同義語(シノニム)として三つの言葉が掲げられています。ここにご注目ください。
Literature; art; knowledge.
どういうことなのか。続きは次回に。
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山本貴光(やまもと・たかみつ)
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「百学連環」を読む:学と術の区別
2011年 12月 16日 金曜日 筆者: 山本 貴光第37回 学と術の区別
さて、西先生が「術(art)」の説明をするに際して引用した英文の出所を追って、いくつかの書物を覗いてみました。
まとめると、英文の出所は『ウェブスター英語辞典』に記載された定義であり、その定義はウィリアム・ハズリットが『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第7版に寄稿したものからの引用でした。しかし、ハズリットの文章もまた、先行する『エンサイクロペディア・ブリタニカ』旧版からの引用であり、それ以前にも古くはネイサン・ベイリーによる辞書に記載されていたことなどが分かりました。まさに芋づるです。
結論から言うと、西先生は『ウェブスター英語辞典』から引用したと思われます。というのも、「百学連環覚書」にこんなメモがあるのです。
少し読みづらいですが、”art webster”と見えます。そして、”art is a system of rules…”という例の文章が記されています(『西周全集』第4巻、313ページ)。
また、これから読んでいく箇所にさらなる英文とラテン文が現れるのですが、それらの文章もまた『ウェブスター英語辞典』に記されているのでした。
それなら最初からそう言って済ませればよかったかもしれませんが、そういうわけにもいきません。私たちは、西先生の「百学連環」講義をただ読むだけでなく、この講義を通して、19世紀末の日本に欧米の文化が流れ込んだ次第、あるいはそれが従来日本にあった漢籍を土台とした知と、どのように混ざり合ったり合わなかったりしたのかということを眺めようとしているからです。
実際、出典を追跡してみた結果、西先生が『ウェブスター英語辞典』を介して、ベイリーやベイコン卿、つまり、17世紀、16世紀にまで言葉の上でつながっている次第が見えました。英米で培われた言葉が、一冊の辞書を通じて日本に渡ってきたわけです。
ところでウェブスターの英語辞典は、明治期の日本でも活躍した辞典の一つでした。その辺りのことにご興味ある向きは、早川勇氏の『ウェブスター辞書と明治の知識人』(春風社、2007)をお勧めします。
では、「百学連環」の続きを読んで参りましょう。
『ウェブスター英語辞典』からARTの定義を引き、日本語で語釈をしてみせた後で、西先生はさらにこんなふうに述べます。
元來學と術とは混雑しやすきものゆゑにsynonymなるものありて、文字の意味を分明に區別せさるへからす。則ち羅甸語に〔於テハ〕In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.
(「百學連環」第4段落第3~4文)
最後のラテン語交じりの文は、行の左側に言葉が添えて補足されています。
・scimus 知ル
・sciamus 知ラルヽコトヲ
・scimus 知ル
・producamus 生スルコトヲ
(ただし、原文で「コト」は合字表記=「ヿ」U+30FF)
訳してみます。
元来、「学」と「術」は混同しやすいものだ。そのため、〔辞書には〕同義語というものがあるのであって、文字の意味をはっきりと区別しなければならない。ラテン語で「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル」という。
「学」と「術」とでは、その動機や目的が違っているというわけです。知るために知るのか、なにかをこしらえるために知るのか。訳文には明示しませんでしたが、ラテン語のscimus、sciamus、producamusは、いずれも一人称複数形の動詞です。
それにしても、「学」と「術」のこうした区別は、なぜラテン語で記されているのでしょうか。文章の出典とともに、次回検討してみることにしましょう。
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「百学連環」を読む:ベイリーの引用の引用の引用?
2011年 12月 9日 金曜日 筆者: 山本 貴光第36回 ベイリーの引用の引用の引用?
書物の世界、言語の世界で、ある対象を追跡していると、当初は思ってもいなかったような場所に迷い込むことがあります。私たちは、「術」の定義の出所を追いかけて、西周⇒ウェブスター⇒ハズリットと辿ってきました。
「術」の定義の連鎖も、ここで話が終わればよかったのですが、実はハズリットの文章も、どうやらよそから持ってこられたもののようなのです。
いろいろあるのですが間は飛ばして、ハズリットの定義からさらに遡ることおよそ100年。辞書編纂者のネイサン・ベイリー(Nathan Bailey, ?-1742)による『The Universal Etymological English Dictionary』(1731年版)を見てみます。例によってARTの項目を覗いてみましょう。なにが書いてあるでしょうか。
定義の冒頭ではラテン語、ギリシア語の語源を示した後で、「アートはさまざまに定義されている」と始まり、スコラ学者(Schoolmen)による定義が提示され、それに続いて次のような文章が現れます。
Others define it a proper disposal of the things of nature by human thought and experience, so as to make them answer the designs and uses of mankind;
(Nathan Bailey, The universal etymological English dictionary, Vol.II, 1731)
またしても見覚えのある文章です。訳してみます。
他にはこう定義する者もある。人間の思考と経験によって自然の事物に適切な処理を施し、人の企図や用途に適うよう仕立てること。
ここではベイコンの名前こそ出ていませんが、前回ご紹介したハズリットの定義とほとんど同じ文章です。比較のために、該当部分を今一度訳文と併せて引用しておきましょう。
ART is defined by Lord Bacon as a proper disposal of the things of nature by human thought and experience, so as to answer the several purposes of mankind;
ベイコン卿は「術」を次のように定義している。人間の思考と経験によって自然の事物に適切な処理を施し、人の各目的に適うように仕立てること。
ハズリットでは、この定義の出典をベイコン卿としている点が加えられていますが、あとの部分はほぼそのままベイリーの定義と同じです。”so as to”以下の言い回しが少し違って、ベイリーが「企図や要素(the designs and uses)」としたところを、ハズリットは「各目的(the several purposes)」とまとめていますね。
こうなると、ベイリーもまたどこかからこうした文章を引用してきたのではないかと考えてみたくなります。ベイコン卿の著書から取ってきたのか、名言集のようなものから持ってきたのか。そこは分かりませんが、少なくともベイリー以後18世紀、19世紀のさまざまな辞書や百科事典その他の書物で、ベイリーと同じ「アート」の定義が掲げられてゆくことになります。
さて、そろそろ「百学連環」に戻らなければなりませんが、その前にもう一つだけ。先に、ウィリアム・ハズリットが『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第7版の「アート」の項目に寄せた文章を見ました。
気になったので調べてみたところ、少なくとも『エンサイクロペディア・ブリタニカ』第3版(1797年)の「アート」の項目は、ハズリットによる定義と同じ書き出しになっており、少なくとも冒頭から段落二つ分まではほとんど同じ文章です。ハズリットは1778年生まれの人ですから、第3版は別の執筆者によるものでしょう。
面白いのは、こうした「アート」の定義を本当は誰が書いたのかということとは別に、「ベーコン卿曰く……」とか、「ハズリットの定義では……」という形であちこちに引用されていることです。
一方では、この定義が言い得ていると評価されているからこそ、そのように流通するのでしょうし、他方では、多くの人が本当の出典を気にせず、また、出典を自ら確認してみようとせずに、こうした引用を行っているということが窺えます。これぞまさに伝言ゲームではないでしょうか。
さて、追いかければ切りもないことですが、「百学連環」に戻ることにしましょう。
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