「百学連環」を読む:連環というイメージ

2013年 9月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第125回 連環というイメージ

 学術の体系と方法の話が終わって、いよいよこの「総論」の終わりにさしかかりました。『西周全集』でのテキストでは前回読んだ部分から改行なしに、話題が転じます。

右總論中學術に相關渉する所を以て種々に辯解せり。今此編を額して連環と呼なせしは、學術を種々の環に比し、是を二筋の糸を以て連ねたる如く、學と術と二ツに區別し、始終連ね了解せんことを要す。

(「百學連環」第50段落第11文~第12文)

 訳してみましょう。

これまでのところ「総論」では、学術に関わることをさまざまに説明してきた。いま、この一編に「連環」という言葉を冠しているのは、学術をさまざまな「環」に譬え、この環を二本の糸に連ねたようなものとして、学と術の二つに区別したうえで、これらを連ねて理解しようというわけであった。

 「百学連環」という講義名は、この「総論」の最初に説明されていたように、そもそも Encyclopedia を訳したものでした(第8回参照)。この訳語そのものを改めて眺めれば、「百」の「学」が「連環」となっている、という形をしています。ここで「百」とは、具体的な数ではなくたくさんの、無数のというほどの意味でした。

 では、「連環」という言葉にはどんな含意があったか。そのことを、西先生は説明しています。一つ一つの学と術を、それぞれが一つの環であると見立てる。そして、それらの環が、学と術という二本の糸で連ねられている、そういうイメージです。

 このくだりには、図が添えられています。ご覧のように、水平方向に二本の線があり、そこに複数の環が連なっています。気になるのは垂直方向に引かれた線ですが、これについては先を読みながら考えましょう。

125_1_s.png

 連環があくまで譬えであることを念頭におきつつ、しかし、ここに示された図から思うことがあります。

 例えば、図の向かって上の線が「学」だとしましょう。学の糸にさまざまな個々の環(学)が並んでいます。もしこの図のように環が並ぶとしたら、それぞれの環は、糸の上でどこに位置するかという違いも出てきます。言い換えると、環の並び方も検討することができそうです。

 また、このように糸の上に一列になって環が並ぶとすれば、環同士の関係は比較的すっきりしています。例えば、ある環に注目すると、その環と直接関係しあうのは、その両隣の環というふうにも読めます。しかし、実際のところ、学や術の環は、もっと複雑に絡み合っていたりはしないでしょうか。例えば、五つの環が相互に結び合うような関わりのように。そんな疑問も湧いてきます。

 とはいえ、物事を整理する上では、こうした比較的簡単な図のほうがイメージしやすいはずです。それに先にも述べたように、これはまず学や術がばらばらにあるものではなく、相互に連なり合っていることを表すことを目的とする図でありましょう。上記したような疑問を問う前に、まずはこの図でもって西先生が表そうとしたことを十全に汲み取ることが先決です。

 話は次のように続きます。

しかし環に白色なるあり黒色なるありて、學術自から一樣ならさるものなるか故、是は區別せさるへからす。

(「百學連環」第50段落第13文)

 訳します。

しかし、環には白いものもあれば黒いものもある。一口に学術といっても一様ではない。だから区別する必要があるのだ。

 つまり、学術は連環になっているというけれど、そもそもどうして環が複数あるのかということを説明しています。学も術も、まとめていえば学であり術だが、その内実を見れば、いろいろな違うものがある。だから、それらを区別して、一つ一つの環(学や術)として分けて考える必要があるということです。

 ここで思い出しておきたいのは、第22回「学域を弁える」で読んだくだりです。現代語訳で該当箇所を見直しておきましょう。

一般に学問には学域がある。例えば、地理学には地理学の学域が、政治学には政治学の学域があって、そうした領域を越えてあれこれが混雑することはない。地理学には地理学の領域が、政治学には政治学の領域があり、どこからどこまでがその学の領域であるかをはっきり見て取り、その境界がどこにあるかを正しく区別しなければならない。

 この「総論」の冒頭近くで述べられていたこのことと、環を区別するということが呼応しているわけです。

 さて、図に描かれていた縦線の謎はまだ解けていませんでした。これについては、おそらくこの後に続く箇所を読むことで、その意味が分かるはずだと睨んでおります。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。


「百学連環」を読む:方法とはなにか

2013年 9月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第124回 方法とはなにか

 「体系(system)」の話を終えて、次は「方法(method)」の検討に入ります。といっても、「体系」と比べると「方法」の議論はあっさりしています。「方法」を論じるくだりは、わずかに次の一文だけなのです。

method ち方法は regular mode peculiar to anything to be done にして、何事にもあれ條理立チ順序ありて極りたる仕方なり。

(「百學連環」第50段落第9文)

 英文には、例によってその左側に訳語が添えてあります。

 regular  極リタル
 mode  仕方
 peculiar  適當シタル
 anything  何事ニテモ
 done  爲スベキ

 また、細かいことですが、ここに出てくる英文と同じ文が、「百学連環覚書」にも記されています。そこでは、anything ではなく、”any thing”と2語になっています(『西周全集』第4巻、331ページ)。

 では訳してみましょう。

「方法(method)」とは、「どんなことであれ、なにかをする際に、そのことに固有の決まったやり方」のことだ。何事であれ、条理と順序があり、決まった仕方である。

 現代語訳では、英語の引用部分も日本語に訳出していますので、それに続く西先生の日本語による言い換えと重なって、やや冗語になっています。いずれにしても、なにかを行う際に、そのものごとに合わせて決められた手順というほどの意味ですね。

 西先生が、学には「体系」があり、術には「方法」があると言っていたことを思い出しましょう。また、method という言葉の語源について、第112回「雷の三段階」で述べたように、method とは、もともと古典ギリシア語で「道に沿ってゆく」というほどの意味でした。

 つまり、なんらかの術を行う際には、その術固有の道に沿って進んでゆくというわけです。それは、かつて道なき場所を先人が切り拓き、踏み固めてできた通り道であり、道があることで、私たちはそこを歩いてゆきやすくもなり、結果的に目的地へも到着しやすくなるのでした。ある術の方法を学び習得することで、その「方法」、道に沿って目的に向かって進めるようになる、という次第です。そう考えると、method とはなんとも含蓄のある言葉ではないでしょうか。

 さて、もう一つ検討しておきたいのは英文の出所です。本連載でお世話になっている1865年版の『ウェブスター英語辞典』を見ておきましょう。method の定義は三つ出ており、その最初にこう書かれています。

1. An orderly procedure or process; a rational way of investigating or exhibiting truth; regular mode or manner of doing any thing; characteristic manner.

(Noah Webster, An American Dictionary of the English Language, 1865, p.834)

 太字部分にご注目ください。西先生による英文とは異なっていますが、文章のかたちはとてもよく似ています。並べればこうなります。

百学連環:regular mode peculiar to anything to be done
英語辞典:regular mode or manner of doing any thing

 ご覧のように、西先生の文では、peculiar という語があって、これは上記の辞書には見られません。また、辞書では”mode or manner”と複数の語を挙げていますが、西先生の文では mode だけです。

 この違いはなにによるものか。西先生が実際に参照していた書物は、私たちがこの連載で参考にしている1865年版の辞書とは違うものであるという可能性もあります。その特定には、さらなる調査が必要ですが、いまは措きましょう。

 以上のように「方法」について述べたうえで、改めて「体系」と「方法」についてまとめられます。

凡そ學に規模なく術に方法なきときは學術と稱しかたしとす。

(「百學連環」第50段落第10文)

 訳します。

もし学に体系がなく、術に方法がない場合は、学術とはいえない。

 これは、第119回「体系と方法」で、「學には規模たるものなかるへからす。術には方法たるものなかるへからす」と述べたことと呼応しています。「体系」と「方法」の説明を終えるにあたって、いま一度強調したのだろうと思われます。

 さて、次回からは、いよいよこれまで読んできた「百学連環総論」全体のまとめに入ります。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:体系化された歴史学とは

2013年 8月 30日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第123回 体系化された歴史学とは

 歴史や博物学のように「体系(システム)」にしがたい学問領域がある。そういう学問を「記述の学問」と呼ぶのだというのが前回の話でした。もう少しだけ、「体系」の話が続きます。

併かし近來に至りては西洋一般に史をシストムに記し得るなり。古來司馬遷の史記を編せしも、本紀より世家、列傳、志と條理立ちて規模に近きものなりとす。當今西洋の史は civilization ち開化を目的とし、之に基きて書く故に、自から規模を得たりとす。

(「百學連環」第50段落第6文~8文)

 訳してみます。

だが、近来に至って、西洋では歴史を体系(システム)として記すことが一般化している。また、古来、司馬遷が『史記』を編んだ折も、本紀、世家、列伝、志という具合に、筋道立てて体系に近いものに仕立てていた。現代の西洋の歴史では、「文明化(civilization)」を目的と置いて、これに基づいて記すために、歴史が体系となりうるのである。

 歴史の出来事を、ただ並べて記述するだけではなく、そこになんらかの構造を与えて、体系とする場合が出てきたという話ですね。『史記』の例が手がかりになります。

 『史記』は、全130巻からなる歴史書ですが、その全体が次のような五つの部分に分類されています。

本紀(12巻) 王朝の記録
表(10巻) 年表・月表
書(8巻) 各分野の歴史
世家(30巻) 諸侯諸国の歴史
列伝(70巻) 人物の伝記

 西先生が挙げている「志」は、『漢書』に見える分類のことかもしれません。いずれにしても、歴史を出来事の羅列として記述するのではなく、ある観点や分類にのっとって編纂しているわけです。ついでに言えば、西先生は、本講義の本編のほうで、歴史学を解説する中で、こんなふうにも言っています。

司馬遷の作る所の史記は是レ眞の史とは稱しかたきものにて、右に枚擧する所の史類を悉く記載せるものなり。

(「百學連環」第一編、『西周全集』第4巻、78ページ)

 『史記』は、神話のような古伝やお話(稗史)なども入り交じっているので、本当の歴史とは言い難いという次第です。

 その上で、現代の西洋史については、「文明化」という観点から歴史が体系化されていると指摘しています。この時期、「文明」といえば、福澤諭吉が思い出されるところ。「百学連環」講義が行われた明治3年前後、福澤が刊行した『西洋事情』の諸編でも、「文明」や「文明開化」の文字があちこちに見られます。

 また、「百学連環」講義より少し後のことになりますが、福澤の『文明論之概略』(明治8年=1875年)は、フランソワ・ギゾー(François Guizot、1787-1874)の『ヨーロッパ文明史(Histoire de la civilisation en Europe)』(1828)やヘンリー・トマス・バックル(Henry Thomas Buckle, 1821-1862/福澤の表記ではボックル)の『イギリス文明史(History of Civilization in England)』(全2巻、1857-1861)を参照しつつ、「文明」を論じたものでした。

 これらの歴史書の書名に見える「文明(civilisation, civilization)」とは、civil になること、市民社会の成立という意味でもあります。言い換えれば、王制や封建制に対して国民国家が生まれてゆく過程といってもよいでしょう。そういう観点から歴史を見てとり記述する。そこには体系(システム)がある、という指摘であります。

 これもまた「百学連環」の本編を見ると、歴史学を解説する箇所で、日本、中国、ヨーロッパの歴史家の名前を並べているくだりがあります。そこで次のように述べています。

近來西洋に於て最も有名なる史家は Lord Macaulay +1800 -1859、英人にして英國の史をはし、實に system に適ひしものとす。

(「百學連環」第一編、『西周全集』第4巻、80ページ)

 このマコーリー卿とは、『イングランド史(History of England)』(全5巻、1848-1861)を著したトーマス・マコーリー(Thomas Babington Macaulay、1800-1859)のことでありましょう。

 つまり、西先生は、体系のある歴史ということで、マコーリーを念頭に置いていた様子が窺えます。マコーリーの『イングランド史』といえば、いまで言う「ホイッグ史観」の親分のようなもの。大雑把に言えば、現在の観点から、歴史を自由が進展する進歩の歩みとして眺める進歩史観です。たしかにそれは、過去の出来事をただ並べるにとどまらず、ある視座から整序しているという点で、体系を備えていると言えるでしょう。

 もっとも、年代記のように一見すると、はっきりと体系が認められないような歴史記述の場合でも、人間にとって無数にあるともいえる出来事のなかから、ある出来事を選びとって並べています。ですから、表だって体系があるとは言えませんが、その場合であっても、なんらかの視点による取捨選択は働いているわけです。

 というわけで、「体系(システム)」の議論はこれで終わり、続いて「方法(メソッド)」の話に移ります。

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「百学連環」を読む:記述的学問

2013年 8月 23日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第122回 記述的学問

 「体系(system)」についていくつかの具体例が挙げられました。次に、体系化しづらい学問について論じられます。

凡そ學に於て規模たるものなき能はすといへとも、て之を求めむとなすときは却て信を失ふの害ありとす。規模は何學にてもなかるへからさるものといへとも、其中 History 及ひ Natural History 史及ひ造化史の學は規模になし難きものなり。是を Descriptive Science ち記述體の學といふ。

(「百學連環」第50段落第3文~第5文)

 上記のうち、Descriptive の左に「記述體ノ」と添えられています。訳してみましょう。

およそ学においては、体系がないというわけにはいかない。とはいえ、強いて体系を求めようとすれば、かえって信用を失ってしまうという弊もある。どんな学であれ、体系はあるべきものだ。しかしながら、諸学の中でも「歴史(History)」と「博物誌(Natural History)」という学については、体系化しにくい。これを「記述的学問(Descriptive Science)」という。

 ご覧のように、学と呼ばれるものであれば、必ず体系があるものだ、という具合に体系と学の関係が改めて強調されています。ただし、無理矢理体系化すればいいというものでもない、としっかり釘も刺していますね。

 「歴史」と「博物誌」は体系化しづらいという指摘について、少し検討してみます。これらの学問は、なぜ体系化しづらいのか。歴史とは、過去の出来事を対象にします。つまり、主に人類が地上に現れてからこの方(あるいはそれ以前から)、どのような出来事が生じてきたかという、出来事の連なりを対象として、実際のところ何がどうなっていたのかを究明するわけです。

 この時、歴史上の出来事は、そのつど一度しか生じないことですから、よほど抽象度を上げて細部を捨象しない限りは、一般化できません。例えば、トロイア戦争と湾岸戦争を「戦争」という抽象的な観点から見れば、なるほど比較もできましょうが、個別具体的な出来事としては、比較を絶します。それぞれが別の時代、別の場所、別の状況や条件下で生じたことであり、別の経緯を辿るからです。だから、一般化しづらいし、体系も仕立てにくいという次第。

 ことは博物学も同様です。地上に存在するあらゆる動植物や鉱物などの自然物が博物学の対象になります。千差万別のそうしたものについて、個別の違いを無視して一般化してしまうだけでは済みません。一つ一つについて、それはどういうものなのかということをつぶさに記述してゆく必要があります(その上で分類を施したりもします)。

 そこで、こうした学は、もっぱら「記述」を中心とする記述的学問だ、というわけです。「記述」とは、要するに、一つ一つの出来事や対象について「これはこういうものである」という描写をするということを指します。

 ところで、この Descriptive Science という言葉は、学問を分類する際に、いろいろな文脈で使われます。その文脈によって、同じ”Descriptive”という語も違う意味で使われることがあるようなのです。いくつかの例を見ておきましょう。

 例えば、記述的学問は、「規範的学問(Normative Science)」と対比されることがあります。規範的学問とは、或る物事が「いかにあるべきか」という規範や価値判断に関わる学です。例えば、ジョージ・サビーン(George H. Sabine, 1880-1961)は、「記述的学問と規範的学問(Descriptive and Normative Sciences)」(1912)という論文において、論理学と倫理学を規範的学問の例として挙げています。また、「なんであるか」を記述する記述的学問の例としては、物理学が例示されています。

 あるいは、アゴスト・プルスキイ(Ágost Pulszky, 1846-1901)の『法と市民社会の理論(The Theory of Law and Civil Society〉』(1888)という本では、冒頭で学問分類論が展開されています。ここでは詳しく検討できませんが、法律を論じるために、その準備として学問全体の分類を検討するという絶えて久しい志と構成自体、興味深いですね。

 さて、同書でプルスキイは、学問を 「真の学問(True Sciences)」と「記述的学問(Descriptive Sciences)」に分けています。前者は、「理論的学問(Theoretical Sciences)」あるいは「哲学的学問(Phiilosophical Sciences)」、「純粋学問(Pure Sciences)」とも言い換えられます。つまり、現象を記述する記述的学問と、多数の現象をまたがってそこから抽象される理論の次元で行われる理論的学問とを分けているわけです。

 ただし、プルスキイは、同じ学問でも、理論的学問の側面と記述的学問の側面があるとも指摘しています。例えば、生理学には、理論的学問としての生理学と、記述的学問としての生理学があるという具合です。

 もう一例、覗いておきましょう。ルイス・アルバート・ネッカー(Louis Albert Necker, 1786-1861)は、「鉱物学を博物学の一部門として考察する(On Mineralogy considered as a Branch of Natural History, and Outlines of an Arrangement of Minerals founded on the principles of the Natural Method of Classification)」(1832)という論文において、鉱物学を、動植物学、あるいはさらに広く博物学と同様の「実証的・記述的学問(positive and descriptive science)」であるとしています。これに対置されるのは、自然哲学、物理学、化学のような「抽象的学問(abstract sciences)」です。

 ネッカーの見立ては、プルスキイのものに通底していますね。理論か現象の記述かという分け方でした。

 ついでながら、一時期日本の哲学界にも影響があったドイツ語圏に目を向けておきましょう。ウィンデルバント(Wilhelm Windelband, 1848-1915)は、「歴史と自然科学(Geschichte und Naturwissenschaft)」(1894)において、学問を「法則定立(nomothetisch)」の学と「個性記述(idiographisch)」に区別しています。これは常に該当する普遍的なものか、ある状況だけに該当する特殊なもの、一回的なものか、という区別でもあります。ウィンデルバントは、両者の例として、自然科学と歴史学を挙げています。先に見た、ネッカーやプルスキイの見方と同じ方向を向いた分類です。

 さて、西先生が、どのような文脈で「記述的学問」という言葉を使っているのか、この講義の文脈だけでは図りかねます。ただ、「体系立てづらい」学問として記述的学問に言及しているところ、その代表として歴史や博物学を挙げていることから察するに、理論的・抽象的学問と区別された記述的学問を念頭に置いているのだろうと推察できます。

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「百学連環」を読む:体系――建築と中国宇宙論を例に

2013年 8月 9日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第121回 体系――建築と中国宇宙論を例に

 「体系(system)」の具体例が続きます。

又 Architecture ち工造の語に、symmetry ち齊々整々といふあり。其齊々整々とは譬へは今家を建るにも、基礎より柱壁棟に至るまて、條理立て相通し合ひ、殘りなく眞理を極め建るを云ふなり。是等は一工造の語にて學の規模とは相違せしものといへとも、略此の如きものなり。

(「百學連環」第49段落第1文~第3文)

 訳してみましょう。

また、建築家(Architecture)が使う言葉に「均整(symmetry)」がある。これは、きちんと整っている様のことだ。例えば、家を建てるところだとしよう。このとき、基礎から柱、壁、棟にいたるまで、筋が通って〔部分同士〕お互いに通じ合い、漏れなく真理を究めて建てることを言うのである。これは建築家の用語であって、学における「体系」とは違うものではあるが、概ねこのようなものだ。

 これは西先生も断っているように、学における「体系」そのものではありません。部分と全体の関係を表す言葉として紹介しているのでしょう。古い日本語に「造工」といって、家を建てることを意味する言葉があります。Architecture の訳語に充てられている「工造」は、「造工」の漢字を入れ替えた形をしていますね。

 また、symmetry は、現在ではもっぱら「対称性」と訳されます。特に左右対称形を含意することもあります。西先生が言う「齊々整々」とは、「整斉」とか「斉整」、あるいは「整整」とも通じる言葉で、ものごとがきちんと整っていること。ここで symmetry に言及されているのは、system と通じるものがあるからだと思われます。

 つまり、sym- は、前回眺めた system の語源と同様に、古典ギリシア語で「共に」という意味を持つσυν-(シュン) に由来します。また、metry は、μετρησις(メトレーシス)、つまり測ること、測量のこと。「幾何学(geometry)」などにもつながる言葉ですね。συμμετρια(シュンメトリアー)で、部分同士がよき釣り合いを持っている状態、均衡、割合を指しているわけです。参考までに、紀元前1世紀頃のローマの建築家、ウィトルーウィウス(Marcus Vitruvius Pollio)の『建築書』における定義を見ておきましょう。

シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、個々の部分から全体の姿にいたるまでが一定の部分に照応することである。ちょうど人体においてそのエウリュトミア〔美しい外貌〕の質が肱・足・掌・指その他の細かい部分までシュムメトリア的であるように、建物の造成においてもその通りである。

(『ウィトルーウィウス 建築書』、森田慶一訳註、東海大学出版会、1979、12ページ)

 西先生のいう「シンメトリー」も、これに近い意味であることが分かります。ですから、ここでは左右対称までとは言わずとも、諸々の部分同士の比率について均整がとれている状態と捉えておけばよいでしょう。そして、これは system とも通底しているという次第です。

 次にもう一つ別の例が出てきます。

朱子の定義に春夏秋冬、元亨利貞、仁義禮智、心肝肺腎、東西南北、の春夏秋冬を季候に取り土用を以中とす、元亨利貞を天に取り、仁義禮智を人性に取り、心肝肺腎を人體に取り、東西南北を世界に取り、東西南北の間を中央とす。是等は全く信なきものといへとも亦一ツの規模となせしものなり。

(「百學連環」第50段落第1文~第2文)

 今度は漢籍の例です。訳せばこうなりましょうか。

朱子は「春夏秋冬」「元亨利貞」「仁義礼智」「心肝肺腎」「東西南北」を定義している。季節に「春夏秋冬」を区別して土用を中心とする。また、天に「元亨利貞」を、人間本性に「仁義礼智」を、人体については「心肝肺腎」を区別する。世界については「東西南北」を区別して、東西南北のあいだを中央とする。これらは〔今となっては〕信じられないものだが、一つの体系をなしているものである。

 ここに挙げられた四つの言葉は朱子に限らず、漢籍を読んでいるといろいろなところで遭遇する言葉でもあります。少し補足してみましょう。

 「土用」とは、もともと陰暦の発想でした。一方には、陰陽五行説といって、世界の成り立ちを木火土金水という五要素で説明しようとする捉え方があり、他方では春夏秋冬という四つの季節がある。この両者の辻褄を合わせるために、季節ごとに土用と呼ばれる期間を設けたという次第。

 ただし、ここでの土用は、おそらく夏から秋への切り替わり、立春前に置かれた土用のことだろうと思います。例の「土用の丑の日」という場合の土用ですね。西先生のいう「土用」も、春夏と秋冬の真ん中を分ける「中央」という意味ではないかと見たのですが、いかがでしょうか。

 「元亨利貞」は説明が必要かもしれません。これは『易経』などで、宇宙(自然)に備わった摂理(徳)のことを指す四要素として挙げられるものです。それぞれの意味については、『日本国語大辞典』の説明をお借りしましょう。

「元」は万物の始め、最高の善、「亨」は万物を生育し通達させる働き、「利」は万物の生育を遂げさせ、各々そのよろしきを得させる働き、「貞」は万物の生育を成就充足させる働き。四徳は、春夏秋冬、仁義礼智などに配当される。四巻でなる書籍の巻次にも用いる。

(『日本国語大辞典 第二版』小学館)

 つまり、宇宙のなかで、万物が生成寂滅しゆく様を説明する原理のようなものです。ついでに申せば、朱子では「天は一箇の大いなる人、人は一箇の小なる天、わが仁義礼智は天の元亨利貞にほかならぬ」(『朱子類語』巻60-27、三浦國雄『「朱子類語」抄』、講談社学術文庫、239ページより)とも言われます。天と人との照応関係を見て、天の摂理たる元亨利貞を、人の性質たる仁義礼智に対応させているわけです(ヨーロッパにおいて宇宙をマクロコスモス、人間をミクロコスモスとして、やはり照応関係が考えられていたことも連想されます)。

 また、こうした朱子の宇宙観については、「信じられないものだが」と補足した上で、これもまた「体系(system)」の一種とみてよろしかろうと述べているのは面白いところでもあります。

 これは何度目を向けてもよいことですが、西先生は一方で西洋の発想を咀嚼しながら、他方では中国、漢籍の教養を駆使して、これらを並置します。この講義が行われた時代、聴講生たちにとって馴染みがあるのは、後者でありましょうから、当然の配慮かもしれません。しかし、そうした文脈を措くとしても、彼我を比較しながらの議論、少々大袈裟に言えば比較文化論的な視座は、いまもなお物を考える上で重要な姿勢であり続けています。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。


「百学連環」を読む:体系――眞理を纒めて知る

2013年 8月 2日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第120回 体系――眞理を纒めて知る

 学術には「体系(system)」と「方法(method)」がある。「体系」とはなにか、という前回の説明に続いて、具体例が挙げられます。

譬へは system of botany and system of chemistry. ち本草學の規模とは、あるとある草木を其性質より用不用に至るまて眞理を分明に知り得るを云ひ、又分離家の規模とは、礦物或は草木なとまて其何物の如何なる理にて混合して成り立つ所の眞理を纒めて知るを云ふなり。

(「百學連環」第48段落第6文)

 上記のうち、botany の左には「本」、chemistry の左には「分」と振られています。文脈からして「本」は「本草学」、「分」は「分離学」の略記と見てよいでしょう。では、訳してみます。

例えば、system of botany and system of chemistry という。「植物学の体系」とは、あらゆる植物について、その性質から役に立つか立たないかといったことまで、真理をはっきりと知り得ることを指す。また、「化学の体系」とは、鉱物や植物などについて、どんな物質がどんな割合で混合してできているかという真理をまとめて知ることである。

 「化学(chemistry)」が「分離」と訳されているのが面白いですね。「百学連環」の本編のほうでは、西先生、「化学」と訳しています。

 さて、ご覧のように「体系(system)」の具体例が説明されています。つまり、植物学であれば、植物に関わる真理を隅々までまとめたもの、というわけです。前回の「條理立ち、殘る所なく明白に知り、一ツに纒まりし」という説明を思い出せば、「体系」とは、特定の植物の断片的な知識ではなく、それらの間に筋が通り、はっきりと分かり、まとまっていること、となります。

 次にもう一つ、システムの用例が挙げられます。

又學上の規模とは異なるといへとも、其理は一ツにて、solar system and physiological system. 太陽の規模とは、一ツの太陽は心軸にて、地球及ひ其他數ある星の太陽の周圍に廻り、太陽の光りは廻る所の衆星に係はるか如き是なり。又人身の規模とは、頭より四支毛髪に至るまて相係はりて一ツの體をなし、其形を爲す所以の理を知る是なり。

(「百學連環」第48段落第7文~第8文)

 ここでは、solar の左に「太陽ノ」、physiological の左に「人身ノ」と振ってあります。訳せばこうなりましょうか。

また、学に関する体系とは別に、solar system and physiological system という言い方もあるが、理屈は一緒である。つまり、「太陽系〔太陽の体系〕」とは、太陽を中心として、地球やその他の星々がその周囲を回り、太陽の光が周囲を回っている惑星に関わるといった具合である。それから、「生理系(生理の体系)」とは、頭や四肢や毛髪にいたるまで、〔人体の各部が〕互いに関係しあって一つの体をなしていること、またそのような形になる理を知ることである。

 今度は学問体系とは別の用例です。太陽系は、しばしば図を見ることがあるので、私たちにとってはいっそうイメージしやすいですね。ここで肝心なことは、複数の天体がバラバラではなく、相互に関係しあいながら一つのまとまりを成しているということです。生理系のほうは、もともと一体である身体を解剖学的に分けた上ではありますが、やはりそうした部位が相互に関係しあっているという見立てです。

 ところで、乙本を見ると、人体について次のような「朱書」が添えられています。

人體の目的なるものは一のなり此のの關渉して其用をなすか爲めに耳目鼻口四肢の全き備へあり是ち system なるものなり

(「百學連環」乙本、欄外)

 訳します。

人体の目的は、もう一方の精神にある。この精神が関わり合って働くために、耳目や鼻、口、手足という全体が備わっているのだ。これがつまり〔人体における〕「系(system)」というものなのである。

 本文には出ていない「精神」という言葉が顔を見せていることに注意しましょう。「一の」を訳しあぐねて「もう一方の」としてみましたが、これは読み込み過ぎかもしれません。後にこの「総論」の最後で問題となる、人間を身体と精神で捉える心身二元論の見立てを念頭に置いてみたのでした。

 学問体系にしても、それ以外の系にしても、複数の要素が、ある理によって関わり合って構成するまとまりを指しているという点では、共通しているぞという説明であります。

 ついでながら、system の語源を振り返ってみると、それは古典ギリシア語の「συστημα(シュステーマ)」に遡ることができます。「συ-」は、「共に」という意味の接頭辞で、「シンポジウム(symposium、語源はσυμποσιον、シュンポジオン)」や「シンフォニー(symphony、語源はσυμφωνια、シュンポーニアー)」といった言葉の語頭にも現れます。

 後ろに続く「στημα」は、ちょっと複雑で、元は「ιστημι(ヒステーミ)」という動詞が形を変えたもの。これはいろいろな意味のある言葉ですが、この文脈では「置く」「据える」「配置する」と見てよいでしょう。つまり、「συστημα」で、「共に配置したもの」「構成」となるわけです。

 このように語源を覗いてみると、字義を見てとりやすくなることがあるという次第は、本連載で何度かお目にかけてきたことでありました。

 もう少し、システムの話が続きます。

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「百学連環」を読む:体系と方法

2013年 7月 26日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第119回 体系と方法

 前回読んだ箇所から段落が改まって、次のように続きます。

識は學によつて長し、才は術によつて長すといへとも、人各天禀ありて自から識に長するあり、才に長するありて、一樣ならさるは勿論なり。學術によつて才識を磨かくに二ツの目的たるものあり、system 及ひ method. 學には規模たるものなかるへからす。術には方法たるものなかるへからす。

(「百學連環」第48段落第1文~第4文)

 ここで一旦区切りましょう。上記のうち system の左には「規模」、method の左には「方法」と振られています。訳せばこうなりましょうか。

識は学によって長じ、才は術によって長ずる。とはいえ、人にはそれぞれ生まれ持った性質というものがある。それだけに識に長ずる人もあれば、才に長ずる人もあって、一様ではないことは言うまでもない。さて、学術によって才識を磨く場合、二つの目的がある。system と method である。学には「体系(system)」がなければならない。術には「方法(method)」がなければならない。

 ここのところ続いてきた学術に関わる人間側の性質の話が、ここで締めくくられます。ご覧のように、学と識、術と才の関係を改めて確認した上で、どういう性質を持っているかは人それぞれだというわけです。

 そこで話題が少し転じます。では、才識を磨くというけれど、何を目指すのか。それは、system と method の二つであるという見立てです。西先生は、system を「規模」と訳しています。「規模」といえば、現在ではどんな意味で使われているでしょうか。どちらかというと、scale のような、大きさが関係してくるような言葉と結びつけられていることが多いかもしれません。「大規模」「小規模」といった用法ですね。

 それに対して西先生の場合、system に対応させていることからも窺えますが、「規模」という言葉を原義に近い意味で使っていると思われます。つまり、「規模」とは、なんらかの物事の「結構」や「仕組み」のことです。あるいは、人間に関わることなら「企画」「構想」のことです。このように読む場合、「規模が大きい」といえば、「大きな構想だ」という意味になります。

 それはさておき、この system について、現代語訳では「規模」の代わりに「体系」としてみました。「体系」とはなにか。複数の物事が個別にある。しかし、それらの物事は、ただばらばらにあるのではなくて、なんらかの原理によって組織化されたり、統合されている。そうした様子を指す言葉、というほどのつもりです。

 話を戻すと、西先生は、学術を通じて才識を磨こうという場合、「体系」と「方法」という二つの目的があると言っています。どういうことでしょうか。

規模とは A complete exhibition of essential facts arranged in rational dependence and related by some common law, principle or end. と原語の通りニて、何學にもあれ規模なるものなき能はさるものにして、其規模とは眞理の目的を取り留めて、其より相通して條理立ち、殘る所なく明白に知り、一ツに纒まりしを云ふなり。

(「百學連環」第48段落第5文)

 英文の引用には、その左側に、かなり丁寧に日本語が添えられています。以下の通りです。

 complete  全キ
 exhibition  示シ
 essential  除クベカラザル
 facts  事
 arranged  位タテタル
 rational  道理アル
 dependence  關渉
 related  相關リタル
 some  或ル
 common  相通
 law  理
 principle  道
 end  目的

 では、訳してみましょう。

「体系」とは、「不可欠の諸事実〔真理〕を、なんらかの共通法則、原理、目的によって、理にかなった形で配置し、関連づけて、そっくり表現したもの」である。この英文が示すように、なんの学であっても、体系は欠くことができないものである。また、体系とは、真理の目的を取り押さえて、そこから〔諸要素に〕通底する条理が立ち、余すところなくはっきりと分かり、それが一つにまとまったもののことである。

 ここでは「体系(system)」について、英文を引用しながら解説しています。現代語訳では、英語部分も翻訳してみました。この英文は、例によって『ウェブスター英語辞典』に、似た説明が出ています。ただし、私たちがここで参照している1865年版の system の定義は、西先生の引用と少し違っています。比較のために並べてみます。

1)  A complete exhibition of essential facts arranged in rational dependence and related by some common law, principle or end.
2)  A complete exhibition of essential principles or facts, arranged in rational dependence or connection; a complete whole of objects related by some common law or principle, or end;

 1が「百学連環」での引用、2が『ウェブスター英語辞典』(1865)の定義です。こうして並べてみると、「百学連環」の引用は、『ウェブスター英語辞典』の定義を少し短く整理した形であることが分かります。2ではセミコロンを挟んで二つの文であるところを、1では一つの文にまとめてあるようです。ただし、西先生が参照した辞典には、1の通りの文が記されていたのか、いま述べたように2を見て1のように記したのかは分かりません。

 いずれにしても、両者の説明には大きな食い違いはありません。学について考える場合、「体系(システム)」とは、知識がばらばらにあるのではなく、さまざまな知識が或る原理に従って相互に関わりあい、まとまりをなしているという次第です。

 具体的にはどういうことでしょうか。西先生は、いつものように具体例を使って説明していますので、次回確認してみることにしましょう。

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「百学連環」を読む:才識を器に譬える

2013年 7月 19日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第118回 才識を器に譬える

 ジョン・ロックの例に続いて、今度は東の例が引き合いに出されます。

楊〔雄〕か法言に多聞見而識乎正道至識也といへり。識は學の積重り知の大なるものなりといへとも、徒らに多く知るも識にあらす。其條理立ちて所謂眞理を識るを云ふなり。識を助くるものは學にして、才を助くるものは術なり。

(「百學連環」第47段落第1文~第4文)

 訳してみます。

楊雄は『法言』で、「たくさんのことを見聞して、正しい道理に基づいて〔物事を〕識る人は、識を究めている」と言っている。「識」とは、「学」が積み重なって、「知」が大きくなったものである。とはいえ、いたずらにたくさんのことを知っていたとしても、それは「識」ではない。条理が通っていて、真理を知っていることを「識」というのだ。「識」を助けるのが「学」であり、「才」を助けるのが「術」である。

 楊雄(紀元前53-18年、揚雄とも)は、前漢の文人。西先生は、その『法言』という著作から引用しています。このくだりは、「多聞見而識乎邪道者迷識也」と続くようです。つまり、「たくさんのことを見聞しても、過った道理に基づいて識る人は、識について混乱している」というわけです。

 「識」と「学」の関係については、第116回でも「識は、知ることの多く重りたるを學とし、學に長するを識とす」と説かれていました。いずれにしても、単にものをたくさん知っているだけでは「識」とは言わないというわけです。そこに真理という筋が通ってこそ、「識」という次第。ここでも真理の重要性が重ねて指摘されています。

 なおも話はこのように続きます。

古來史を記するにも才學識の三ツあるにあらされは書くこと能はすといへり。才と識とは己レにありて、學は他より求め來るものなり。譬へは faculty は118_1_s.png圖の如き器物なり。aptitude 及ひ capacity は此の器に水にても酒にても入るへきなり。ability は器の大小あるものにして、acute 其は漆にて塗りしものか、硝子か、木地か、性質の模樣を分別す。skill 及ひ sagacity は器の形の圓か、方か、正か、不正か、を分別し論するなり。才と識と兩なから離るへからさるものなれと、識に長するあり、或は才に長するありて、自から甲乙あるものなり。是を比較するときは、識を上とし、才を下とする故に、國を治め天下を治むるにも、識上にありて才子下にあるときは其順序を得たりとす。

(「百學連環」第47段落第5文~第12文)

 この文中「才學識」の「才」と「識」は、その右側に「○」が振って強調されています。訳してみましょう。

昔から、歴史を記すのであれば、と学との三つがなければ書けないと言われている。このうち「才」と「識」は自分にあるもので、「学」は他から求めるものだ。例えば、faculty(力/性)とは、この図に示した器のようなものである。aptitude(適性/適質)と capacity(力量/受質)は、この器に水でも酒でも入れられるということ。ability(手腕/能)は、器に大小があること、acute(敏い/敏)は、その器が漆塗りか、ガラスか、木地かという具合にその器の模様を区別することだ。skill(才)と sagacity(識)は、器の形が円か四角か、整っているか歪んでいるかを区別して論じるものである。この才と識の二つは離れてあるものではない。とはいえ、識に長ずる者もあれば、才に長ずる者もいるという具合に、自ずと得手不得手がある。両者を比較する場合、「識」を上として、「才」を下とする。だから、国を治めたり天下を治める場合でも、識者が上にあり、才子が下にあるなら、それはまっとうな順序だということになる。

 ここで歴史を書くために必要とされている「才学識」というのは、「三長」とも言われるもので、歴史家に必要な三つの長所のこと。唐代の歴史家、劉知幾(661-721)の言葉として伝えられています。西先生もその顰みに倣っているのでありましょう。

 面白いことに、ここまでに登場した学術にまつわる人間の能力にまつわる言葉が、コップのような器に譬えて説明されています。それぞれの英単語の後ろには、「(現代語訳/西先生による訳語)」という順で補足してみました。

 整理してみると、器、器の性能、器の大きさ、器の外見、器の形という要素が列挙されています。acute を器の外見とするところは、ちょっと真意を分かりかねました。他方で、器とは何かを入れられるものであり、その容量には大小があり、器自体に形の違いがあるという譬えは、分かるような気がします。これまで、抽象的な概念を具体的に譬えて噛み砕く西先生の講義スタイルをいろいろ見てきましたが、これはまた直感に訴える表現ですね。

 その上で、識と才には上下の違いがあると指摘されています。なぜ識と才では、識のほうが上なのでしょうか。そのヒントは先に読んだ「識を助くるものは學にして、才を助くるものは術なり」という一文にあります。そこでは、

識――学
才――術

 という対応関係が確認されていたわけです。ところで、西先生は、これまでにも何度か「学」と「術」の関係を「学が上」「術が下」というふうに位置づけています。このことから、学に対応する「識」が上に、術に対応する「才」が下に置かれることも、一応説明がつくでしょう。

 なぜ「学が上」「術が下」だったかといえば、学とは真理を求める営みであり、術とはそれを応用する営みであるという見立てがあるためです。何かに用立てること(術・才)に先立って、何かを知ること(学・識)が必要であるということから学と識が上に置かれていたのでした。

 このことを踏まえれば、おしまいの文は、国や天下を治めるという場面でも、真理を掴んだ上で、それを活用してゆくという順序が大切だと読むことができましょうか。

 以上で、学術に関わる人間側の話が終わって、次の話題に転じてゆきます。

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「百学連環」を読む:ジョン・ロック曰く

2013年 7月 12日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第117回 ジョン・ロック曰く

 学術にも才識が関係しているという話が続きます。今度は、少し角度を変えて、他の人の意見が紹介されます。

英の Locke なる人の定義に Sagacity ち識は、finds out the intermediate ideas, to discover what connexion there is in each link of the chain, 又 skill ち才は Familiar knowledge of any art or science united with readiness and dexterity in execution.

(「百學連環」第46段落第1文)

 ご覧の英文は、その左側に以下のような日本語が振ってあります。

 finds   見
 out   出ス
 intermediate   入リ組ンタル
 discover   發明スル
 link   ノ輪
 chain   鎖
 Familiar   慣習シタル
 united   合セラレタル
 readiness   熟達
 dexterity  
 execution   行爲

 では、訳してみましょう。

イギリスのロックという人は、「識(Sagacity)」を次のように定義している。「中間にある観念を見いだすこと。〔観念の〕鎖を成すそれぞれの輪にどのようなつながりがあるかを見いだすこと」 また、「才(skill)」をこう定義している。「術や学について身についた知識であり、いざとなれば実行に移せる準備ができており、また器用にこなせるようになっている知識のこと」

 今度はジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)が登場しました。ここで引用されている文章のうち、前半は確かにロックの『人間知性論(An Essay Concerning Human Understanding)』(1690)に、似た文章が現れます。それは、こんな文章です。

By the one it finds out; and by the other, it so orders the intermediate ideas, as to discover what connexion there is in each link of the chain, whereby the extremes are held together;

(John Locke, An Essay Concerning Human Understanding, Volume 4, Chapter XVII OF REASON, T.Tegg and Son, 1836版, p.511

 西先生が引用している文章は、”finds out the intermediate ideas, to discover what connexion there is in each link of the chain”でしたから、ロックの原文とは少し違うことがお分かりになると思います。文中の言い回しが若干削除されていますね。

 とくれば、本連載をお読みの皆さんはもう「あれか」とお気づきかもしれません。そう、あれです。そこで「あの本」の sagacity のページを開いてみますと、果たして、その「Syn.(同義語)」の項目の末尾にこんな文章が見えました。

Sagacity finds out the intermediate ideas. to discover what connection there is in each link of the chain, whereby the extremes are held together.” Locke.

(Noah Webster, An American Dictionary of the English Language, 1865, p.1163)

 これまでにも何度か登場した『ウェブスター英語辞典』(1865年版)です。ロックの文章そのままではなく、省略している箇所を考慮すると、西先生は、おそらくこのウェブスターの引用に基づいて説明したのだと思われます。

 ちなみに上で引用したロックの原文を、大槻春彦訳で引用しておきましょう。

聡明によって理知は〔推理の〕中間観念を見いだし、推究によって中間観念を秩序づけて、〔推理の〕両端を結びつける連鎖の一つ一つの環にどんな結合があるかを発見し、これによって、探究される真理をいわば眺めるようにする。

(ジョン・ロック『人間知性論(四)』、大槻春彦訳、岩波文庫、1977、p.265)

 ここで「聡明」と訳されているのが、sagacity です。ロックのこの本は、表題の通り、人間が何かを理解するということはどういうことかを探究するものでした。

 さて、もう一方の skill のほうはどうかといえば、これはロックではなく、『ウェブスター英語辞典』の skill の項目が出典です。同辞典で skill を引くと、第一の定義として「Knowledge; understanding.」とあり、それに続く第二の定義にこうあります。

2. The familliar knowledge of any art or science, united with readiness and dexterity in execution or performance, or in the application of the art or science to practical purposes;

(Noah Webster, An American Dictionary of the English Language, 1865, p.1238)

 西先生は、この文章のうち、”in execution”までを引き合いに出しているわけです。しかし、冒頭で見た西先生の言葉を素直に受け取ると、あたかも skill の定義も、ロックによるもののように見えますね。ここは少しばかり、紛らわしいところです。

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=卽(U+537D)
=鎻(U+93BB)
=精(U+FA1D)

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。


「百学連環」を読む:学術に才識あり

2013年 7月 5日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第116回 学術に才識あり

 人が学術を営もうという場合、そこにはどういった性質や能力が関係しているのかという話が続きます。

其學術に供するに區別あり。skill 及ひ sagacity なり。才は材と同しき字にして、木の片枝を切り落したる形ちなり。凡そ木を切り倒し枝を打ち幹となし、而して事に付物に從ふて用立つ、是を才と云ふ。
 識は、知ることの多く重りたるを學とし、學に長するを識とす。識は智の重りなり、智は知の下に白の字を以てすれは知ることの明白なるを云ふなり。

(「百學連環」第44段落第5文~第45段落第2文)

 このくだりのうち、skill には「才」、sagacity には「識」という字が左側に振られています。訳すとこうなりましょうか。

その学術に関わることについては区別がある。才(skill)と識(sagacity)である。「才」とは「材」と同じ字であり、「木」〔という字〕の片方の枝を切り落とした形だ。つまり、木を切り倒して、枝を打って幹にする。そして、物事に付き従って役に立つ。これを「才」と言うのだ。
 他方の「識」はなにか。知ることがたくさん重なると「学」になり、学が長ずれば「識」となる。「識」は「智」の重なったものであり、「智」は「知」の下に「白」という字を置いてつくられている。つまりは、知ることが明白であることを指している。

 skill と sagacity が「才」と「識」という字で訳されています。現代語訳でも、そのままとしたのは、これらの漢字のつくりに話が及ぶためです。現代なら「技量」や「賢明さ」とでも訳すところでしょうか。

 さて、「才」と「識」という字は、組み合わせれば「才識」です。西先生が「才」は「材」と同じ字だと指摘しているように、古くは「材識」とも書いたようです。「才識」とは、「才知(才能と知恵)」と「識見(学識と意見)」のこと、という具合に意味を調べてゆくと、関連する漢字が芋づるのようにつながって出てきます。

 ご覧のように、ここでは漢字のつくりに議論が及んでいます。「才」が「木」の枝の一方を払ったものだとは、考えてみたこともありませんでしたが、言われて形を見るとたしかにそう見えます。私には、この漢字の解釈がどこまで妥当なのかを判定する手立てがありませんが、比較のために、例えば白川静の『字通』を覗いてみました(お手元にある方は、別の字書もぜひ比較してみてください)。「才」という字の形については、こんな説明があります。

標木として樹てた榜示用の木の形。(略)もと神聖の場所を示し、それより存在するもの、また所在・時間を示す字となる。金文に「正に才(在)り」「宗に才(在)り」のようにいう。存在の最も根源的なものであるから、天地人三才、また材質・質料をいう。それで人の材能をも意味する。

(『字通』、平凡社)

 西先生の説明とは異なっていますが、「才」の字が「標木」として使われているということは、自然に生えた木ではなく、それを加工したものであります。その水準では、似た方向を指しているようです。また、「三才」については、第20回「書物としての「エンサイクロペディア」」でも、「森羅万象を天と地と人の三つの要素「三才」で分類する知の枠組み」であると述べたところでした。「才」は要素、材料でもあるというわけです。

 「識」のほうはどうでしょうか。「知」⇒「学」⇒「識」という三つの要素の関係が示されています。これも、文字の並びから連想すれば、「学識」という言葉があります。「学識」とは、「学問から得た、物事を正しく見分ける判断力」(『日本国語大辞典』)という意味であることを考えると、ここで西先生が言っていることも腑に落ちます。加えていえば、三つの言葉の真ん中にある「学」を省略してつなげたものが「知識」となることにも注意してみたいと思います。

 また、「識」とは「智」の積み重なったものだとも指摘していますね。ここでも漢字のつくりに言及されています。再び参考までに『字通』を繙いてみると、「智」の字はこんな具合に解説されています。

字の初形は矢+干+口。矢と干(盾)とは誓約のときに用いる聖器。口は(略)その誓約を収めた器。曰は中にその誓約があることを示す形。その誓約を明らかにし、これに従うことを智という。知に対して名詞的な語である。(略)字を白部に属するのも誤りである。

(『字通』、平凡社)

 なるほど、字のつくりをこのように捉えると、「智」はモノの姿を現しているというわけです。「知」が「知る」に通じる動詞的な言葉であるのに対して、「智」は名詞的であるということなのでしょう。白川先生は、「字を白部に属する」とするのは誤りであると断定しています。

 いずれが妥当なのか、あるいは両者とは別の見立てのほうがいっそう真理に近いのか、私には判断する(それこそ)材料がないのですが、「智」の解釈については、西先生と白川先生とで相当違っているようです。

 いずれにしても「才」と「識」とについては、これに続いて東西の例を引きながら説明が続きます。それぞれが、学術とどのように関係しているのか、西先生の説明を待つことにしましょう。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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