「百学連環」を読む:仮想敵は誰か

2012年 3月 9日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第48回 仮想敵は誰か

 前回は、学術の根源に「知行」という互いに区別されるものがあるというくだりを読みました。「知」は五官を通じて外から入ってくるものであり、「行」はその「知」に従って内から外へ出るものだとのことでしたね。続きを見てみましょう。

故に知は先にして、行は後にあらさるへからす。知は過去にして、行は未來なり。

(「百學連環」第9段落第6~7文)

 訳します。

したがって、知が先にあり、行は後にある他はないはずだ。知は過去であり、行は未来なのである。

 冒頭で要約したように、前回読んだ箇所では、「知」と「行」が、どちらかというと空間的な喩えで論じられていました。ここでは「知」と「行」の時間的な順序が述べられています。仮に、まず外から「知」が入ってきて、それに続いて内から外へ「行」が出て行くのだと考えるなら、この順序は妥当に思えます。また、それを言い換えれば、「知」は過去であり、「行」は未来となるのでしょう。

 ただ、なんとなくではありますが、知と行とをそれほどすぱっと割り切ることはできるだろうかという気もします。例えば、ドイツ語を学んでこれを活用して会話するという場合、ドイツ語の言葉や文法や文化を知ることが先にあって、それからようやくその知に基づいてドイツ語で話すという行いが可能となります。このような場合であれば、西先生の図式にわりあいすんなり当てはまるようです。

 他方で、普段の私たちは「知」と「行」とを常に同時に並行させていないでしょうか。環境から五官を通じてさまざまな変化を感知しつつ、同時になにかを行っているとも考えられます。こうしたことについて、西先生はどう考えているのか、そうした疑問を念頭に置きながら、検討を進めてみましょう。

 ここで本文を読み進める前に、欄外に置かれた「朱書」を見てみておきます。面白いことが書かれています。

歐陽明の説に知行合一といふあり。然れとも爲メになす所ありていふものにして敢て合一なるものにあらす。

 訳せばこうなるでしょうか。

王陽明に「知行合一」という説がある。とはいえ、〔この説は〕為にするところがあって主張されているものであり、〔知行が〕合一しているわけではない。

 ここで「知行」という言葉の来歴が垣間見えましたね。王陽明(1472-1528)の名前が見えることからお分かりのように、これは朱子学の伝統に由来する考え方なのでした。

 前回読んだ箇所で、西先生がやや力を入れて(とは読み手の印象ですが)「知行はいかにしても區別あるものにして、一ツとなして見る能はさるものなり」と述べていたことを思い出しましょう。この主張と、最前見た欄外の朱書が呼応しています。

 大雑把に言ってしまえば、王陽明は、朱子学において「知行」が分離して扱われていたのに対して、そんなふうには分けられまい、「知行」は一つと見るべきだと反論したわけです。

 このことを考慮すると、西先生は朱子学の側に立っていることが分かりますね。力を入れた主張は、王陽明的な発想を、一種の仮想敵としたものだったことが垣間見えてきます。さて、議論はどう展開するでしょうか。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。


「百学連環」を読む:知行とはなにか

2012年 3月 2日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第47回 知行とはなにか

 さて、前回予告したように、ここから話の調子が変わります。まずは読んでみましょう。

學術の根源なるものあり。知行の二ツ是なり。知行はいかにしても區別あるものにして、一ツとなして見る能はさるものなり。

(「百學連環」第9段落第1~3文)

 「知行」という言葉が出てきました。訳してみます。

学術の根源がある。「知行」の二つがそれである。知と行はどうあっても区別されるものであって、両者を一つのものと見ることはできない。

 しばらく英語交じりの文章が続いた後ということもあって、突如漢語調が前面に出て、少し面食らいます。学術の根源は「知」と「行」の二つだというわけです。

 直前で、ヨーロッパ流の学術観を紹介して、「学」にも「術」にも「観察(theory)」と「実際(practice)」があると論じていたところ。そこに「知」と「行」が並ぶと、なんとなく脈絡がつくようにも感じます。

 つまり、「知」と「観察」が、「行」と「実際」がそれぞれ対応するという感じです。なにやら話はつながっている。けれども、なぜ知行が持ち出されてきたのかは、まだ分かりません。あくまで「感じ」と述べた所以です。

 しかも、面白いことに、「知行はいかにしても區別あるものにして」と来ました。少し強く読み込めば、「知」と「行」は絶対に區別されるものだと言いたいようにも思えます。あたかも西先生の目の前に「いや、知と行は一つなり!」と異論を唱える相手がいるかのような力みよう、という空想が思わず働きます。

 なにが言われようとしているのか、たいそう気になりますが、解釈する前に、もう少し西先生の言葉に耳を傾けてみます。こう続きます。

知の源は五官の感する所より發して、外より内に入り來るものなり。行は其知に就て内より外に出るを云ふなり。

(「百學連環」第8段落第4~5文)

 「五官」というわけですから、人間の心身も視野に入ってきました。現代語にしておきましょう。

「知」の源は、五官〔感覚器官〕が感覚するところから発して、〔人間の〕外から内へと入ってくるものである。「行」はその知に従って内から外に出るものを言うのである。

 どうやら先ほど持ち出された「知」と「行」の違いが論じられているようです。人間を一種の境界面とすれば、「知」と「行」が互いに逆向きに動く様が描かれていますね。つまり、「知」は外から感覚を介して人間に入ってくるもの。「行」は知に従って内から人間の外へと出てゆくもの。少し前に上下という垂直方向の喩えが出てきましたが、今度は内と外です。しかも出入りするのですから、知行は運動するなにものかでもあるようです。

 もう一つ気になるのは、「行」は「知」に従うと指摘されているけれど、逆はそうした関係が指摘されていないというところ。「知」は「行」に「就」いたりしないのでしょうか。

 などなど、謎が謎を呼ぶ展開ですが、実はこれ、明治知識人の面目躍如たる議論なのです。西先生は、たんにヨーロッパの「新しい」学術を学んだだけでなく、それ以外の、あるいは、それ以前の教養も具え併せていることが、いま読んでいるくだりには現れているのです。

 それはなにか。次回、さらに読み進めながら検討して参りましょう。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:誤用にご注意

2012年 2月 24日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第46回 誤用にご注意

 次に西先生は、「觀察」と「實際」の違いについてもう少し説明します。

觀察とは、萬事其理を極めるヲ云ヒ、實際とは業サに就て極むるを云ふなり。theoryなる文字を英國誤りて speculation 或は hypothesis なる字意に代へ用ゆることあり、注意せさるへからす。

(「百學連環」第8段落第1~2文)

 ここでは、speculationとhypothesisの左にそれぞれ「觀想」「思ヒ定メル」と訳語を添えてあります。

 訳してみます。

「観察(theory)」とは、万事の理〔ことわり〕を極めることを言うのであり、「実際(practice)」とは、技を極めることを言うのである。イギリスでは、theoryという語を、間違って speculation や hypothesis という語の意味で使うことがあるので、これは注意しなければならない。

 「理(ことわり)」を極めるか、「技」を極めるか。そういう違いだというわけです。条理を頭で理解するか、実際に手足を動かしてなにかをつくったりなしたりするかという違いです。

 前回も述べたように、理を極めることも一種の技ではなかろうかと思ったりもしますが、このように「観察」と「実際」を分けるのは、古典ギリシアから受け継がれている発想でした。なぜそう分けるのか。このことを考えるには、アリストテレスの議論をじっくり分析してみる必要がありますが、それはもう少し先に行ってからにしましょう。

 さて、「百学連環」を読み進めるにつれて、だんだん分かってきましたが、西先生が英文交じりで説明している場合は要注意です。これは別の本から訳述している可能性があります。

 そういうつもりで探してみると、これもまた『ウェブスター英語辞典』に類似した表現が見つかります。「theory」の見出しの1番目の定義とその注釈は、次のような文章です。太字にした箇所にご注目。

1. A doctrine, or scheme of things, which terminates in speculation or contemplation, without a view to practice; hypothesis; speculation.
* This word is employed by English writers in a very loose and improper sense. It is with them usually convertible into hypothesis, and hypothesis is commonly used as another term for conjecture. The terms theory and theoretical are properly used in opposition to the terms practice and practical. In this sense, they were exclusively employed by the ancients; and in this sense, they are almost exclusively employed by the Continental philosophers.” Sir W. Hamilton.

(『ウェブスター英語辞典』1865年版、「THEORY」の項目、強調は引用者)

 先の西先生の言葉と完全に一致するわけではありませんが、太字にした箇所は、重なっているように見えます。つまり、定義1の末尾にhypothesisとspeculationが掲げられている。そして注釈として、ウィリアム・ハミルトン卿からの引用文が添えられており、その最初の2文が西先生の発言に近いのです。その箇所を訳してみます。

この〔theoryという〕語は、イギリスの作家が大変ゆるく、不適切な意味で使っている。普通、「仮説(hypothesis)」という語と言い換えられている。そして、「仮説」という語は一般に「推測(conjecture)」というもう一つ別の語として使われている始末だ。

 ご覧のようにハミルトン卿は、イギリスで物書きが「理論(theory)」という語を、本来それとは別の意味を持つ「仮説(hypothesis)」と同じような意味の語として使っているが、それは不適切だと指摘しています。

 西先生は、先に見た箇所で「イギリスでは、theoryという語を、間違って speculation や hypothesis という語の意味で使うことがあるので、これは注意しなければならない」と述べていました。ハミルトン卿の指摘と重なる部分はありますが、卿はspeculationについて言及していません。ひょっとしたら、西先生が参照した版の『ウェブスター英語辞典』では、speculationもそのような扱いだったのかもしれません。

 それこそ推測を逞しくすれば、上に引用したtheoryの定義の末尾に「hypothesis; speculation」と掲げられていること、そしてハミルトン卿が「不適切にもhypothesisと混同されている」と指摘していることを考え合わせて、speculationも同様であると捉えたとも考えられそうです。

 speculationも根を辿ると、「見る」ことに関わる言葉ですが、もっぱら「推測」と訳されますね。そういう意味では、西先生が言う通り、必ずしも「理論(theory)」とごっちゃにしてよい語ではなく、妥当な指摘だと思います。

 さて、次回は話ががらりと転じます。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
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「辞書の世界」(ユリイカ2012年3月号)に、コラム連載中の山本貴光先生、笹原宏之先生が寄稿されています。

2012年 2月 17日 金曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部

 2月27日発売の『ユリイカ2012年3月号』特集*辞書の世界(青土社)に、弊社Webサイトでコラムを連載されている山本貴光先生と笹原宏之先生がご執筆されたので、お知らせいたします。

 山本貴光先生は、「この辞書を見よ!20——ことばのアーカイヴ形成史」というタイトルで、辞書のブックガイドを寄稿されました。

 現代の日本語について考える上で視野に入れるとよい辞書20冊(組)を選んで紹介する内容だそうです。といっても、よくあるブックガイドではなく、現代日本語の辞書は1冊(組)のみで、あとはどんどん時代を遡ったり、別の言語との関係へと話が及んでいくのだとか。

 連載中のコラム「百学連環」とあわせてお読みになってはいかがでしょうか?

   ⇒山本貴光先生の連載「百学連環」

 笹原宏之先生は、編集協力者、編集委員、編者として編纂に関わった『全訳漢辞海 第三版』『新明解国語辞典 第七版』『当て字・当て読み 漢字表現辞典』を主な対象として、漢字や表記の扱い方にどのような違いが生じたのか、その背景まで含めてご執筆されたとのことです。

 こちらも、コラム「漢字の現在」とあわせて読むと、興味深く読み進められそうです。

   ⇒笹原宏之先生の連載「漢字の現在」

 また、こちらの特集には『三省堂国語辞典』編集委員の飛田良文先生、『三省堂類語新辞典』編者の中村明先生もご執筆されています。

 『ユリイカ2012年3月号』の詳細については、下記の青土社サイト内のページをご覧ください。

『ユリイカ2012年3月号』特集*辞書の世界 紹介ページへ(青土社サイト内)


「百学連環」を読む:観察と実践

2012年 2月 17日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第45回 観察と実践

 さて、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら、「学(science)」と「術(art)」の意味や区別を検討する様子をじっくり見てきました。以上を踏まえながら、西先生は少しずつ話を転じてゆきます。続きを読みましょう。

又 theory, practice 學に於ても又術に於ても、觀察、實際共になかるへからす。學{觀|實} 術{觀|實}。

(「百學連環」第7段落第3~4文)

 theoryとpracticeという新しい語がお目見えです。文末は、便宜上このように記しましたが、実際には右図のように、「學」の字の下に「觀」と「實」が並ぶように記されています。また、原文では、theoryの左に「觀察上」、practiceの左に「實際上」と訳語が添えられています。訳しておきましょう。

また、「theory(観察)」と「practice(実際)」という区別がある。学についても、術についても、いずれも観察と実際の双方がなければならない。つまり、学{観察|実際} 術{観察|実際}ということである。

 現代では、theoryと言えば、すぐ「理論」と言いたくなるかもしれませんが、theoryとは語源からして「見る」ことに関連する語です。古典ギリシア語ではθεωρια(テオーリアー)、ラテン語ではtheoria(テオーリア)。語の形だけ見ても、英語のtheoryが、これらの語に連なるものであることが分かります。

 古典ギリシア語の「テオーリアー」は、「見ること」「見られるもの」「考察」「探究」といった訳語が充てられる語です(もう一つ、神にまつわる面白い意味もあるのですが、ここでは省略します)。「理論」という意味は、人が対象から見てとったこと、ということかもしれません。

 ちなみにtheoryの横に英語のtheater(theatre)も並べてみるとよいでしょう。theaterもまた古典ギリシア語のθεατρον(テアートロン)に由来しますが、これは「劇場」、つまり「見る場所」という意味でした。θεα(テアー)と書けば、「見ること」「光景」といった意味になります。

 ですから、西先生がtheoryを「觀察」というふうに「見る」ことに結びつけて訳しているのは、そのような意味でも妥当だと思います。

 他方のpracticeは、現在でも「実際」とか「実践」などと訳しますね。なにかを行うという意味です。

 さて、こうした「觀察」と「實際」とが対で持ち出され、この二つのことは、「学」と「術」それぞれになければならないというわけです。文末には漢字一文字を使って、図が示されていますが、こう表現すると四者の関係がぱっとイメージできますね。

 theoryとpractice、私たちに馴染みの言葉で言えば「理論」と「実践」は、現在でもしばしば対立的に使われることがあります。例えば、手許の英和辞典でtheoryを引くと二つ目の定義にこう見えます。

(実践に対する)理論; (学問的)原理; [or a ~]理屈,空論(←→practice)

(『ジーニアス英和大辞典』、大修館書店)

 また、practiceの最初の定義はこうです。

(理論に対して)実行,実施; 実地,実際(←→theory)

(前掲同書)

 「理論」と「実践」とが互いに「対する」ものであると説明されています。

 しかし、どうして「理論(観察)」と「実践」は対立するのでしょうか。私などは、つい「観察すること」もまた「実践すること(行うこと)」ではなかろうか、などと考えてみたくなることがあります。

 とはいえ、日常でも「あいつは理論〔理屈〕ばかりで実践が伴わない」と言ったりすることがありますね。こう言った場合は、口先(言葉)だけで、実行していないという意味になります。

 この二つの対比は、なにも最近始まったことではありません。例えば、2000年以上前にこんなことを書いている人がいます。

哲学を真理の学と呼ぶこともまた正当である。なぜならば理論学〔テオーレティケー〕の目的は真理であり、実践学〔プラクティケー〕のそれは行為〔エルゴン〕だからである。

 この人は、理論と実践は、目的が違うとはっきり区別しています。頭を使って真理を探究し、言葉で理論をつくりあげることもまた行為ではないかと考えると、話がややこしくなってきますが、それはまた後ほど検討するとして、一旦この整理を受け入れておきましょう。

 ところでこれは誰の言葉でしょうか。すでにピンと来ているかもしれません。本連載でももはやお馴染みの(?)アリストテレス先生が『形而上学』で述べていることなのでした(訳文は、岩崎勉訳『形而上学』、講談社学術文庫、p.103からお借りしました)。ついでながらアリストテレスは、諸学術を大きく三つに分けて考えています。上の引用文に現れる「理論学」「実践学」に加えて「制作学〔ポイエーティケー〕」の三つです。

 それはともかくとして、西先生が『ウェブスター英語辞典』に依りながら区別している「觀察(theory)」と「實際(practice)」という言葉もまた、遡ればアリストテレスの学術観に根があるらしいことが分かります。

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「百学連環」を読む:真理への二つの関わり方

2012年 2月 10日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第44回 真理への二つの関わり方

 前回見た「学」と「術」の区別の後に、再び英語の引用が現れます。次のような文章です。

Therefore science and art may be said to be investigations of truth, but science inquires for the sake of knowledge, art, for the sake of production, and science is more concerned with the higher truth, art with the lower.

(「百學連環」第6段落第2文)

 英文の左側には、例によってところどころ日本語が添えられているので、参考までにお示ししておきましょう。

investigations 穿鑿デ
truth 眞理
inquires for 望ムニ
sake 爲
production 生スル事
concerned 道理係ル

 訳します。

したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。

 実は、私たちはこの文章をすでに一度見ています。第39回で、『ウェブスター英語辞典』(1913年版)の「SCIENCE」の同義語の説明を訳した際、そこにこの一文も含まれていたのでした。確認のため、もう一度引用しておきましょう。

「アート」は、実演における実行や技能にかかるものだ。「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル。したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。また、「サイエンス」は、「アート」のように生産への応用にはけっして関わらない。したがって、「サイエンス」の最高に完全な状態とは、最も高度かつ正確な探究であろう。対する完璧な「アート」とは、最も適切かつ効果的な規則の体系であろう。アートとは、常に自らを規則という形にするものなのだ。」

カールスレイク

(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)

 これは『ウェブスター英語辞典』がカールスレイクの書物から引用した文章の一部でした。ラテン語交じりの文章については、すでに検討しましたが、西先生は「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル(In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.)」に続く文章も、続けて『ウェブスター英語辞典』を参照しているようです。

 この引用で言われていること自体は、これまで角度を変えながら確認してきた「学(science)」と「術(art)」の違いですので、重ねて解読するまでもないでしょう。注目しておきたいのは、サイエンスとアートが、「真理(truth)」に対する二つの関わり方として区別されているということです。

 次の段落も見ておきます。こう続きます。

學は則ち上への方へ穿鑿し遂けるを云ふなり。術は則ち之に反して下の方へ穿鑿し極むるを云ふなり。

(「百學連環」第7段落第1~2文)

 現代語に訳してみます。

「学」とは上の方へと綿密に調べ尽くすことである。「術」とは、それとは反対に、下の方へと綿密に調べ尽くすことである。

 お気づきかもしれませんが、この一文は、上で再引用した『ウェブスター英語辞典』の文章に含まれている「つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである」という部分に相当しています。ここは西先生が英文を訳して述べたのだと考えられます。

 それにしても「上の方(higher)」「下の方(lower)」という垂直方向の喩えには、どんな含意があるのでしょうか。「形而上」「形而下」といった対語も連想されます。とはいえ、ここを読んだだけでは「上下」という表現の含意は分かりません。この問いを念頭に置きながら、先へ進むことにしましょう。

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「百学連環」を読む:医学・医術を具体例にして

2012年 2月 3日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第43回 医学・医術を具体例にして

 久しぶりに「百学連環」本文に戻ってきました。最後に読んだ講義の本文は、第37回をご覧ください。「学(Science)」と「術(Art)」は混同しやすいものだが、区別せねばならないということで、ラテン語交じりの引用文が現れたのでした。

 続きを読んでゆきましょう。次の文はこうです。

學とは原語の通り、あるとあらゆるを分明に知り、其根元よりして、に何等の物たるを知るを云ふなり。

術とは生することを知ると原語の通り、何物にても成り立所のものゝ根元を知り、其成り立所以を明白に知るを云ふなり。

(「百學連環」第5段落、第6段落第1文)

 訳します。

「学」とは〔今示した〕原語にあるように、あらゆる物事を明確に知り、その根源からそれがなんであるのかを知ることである。

「術」とは、生じることを知るという原語の通りで、あらゆる物事について成立するものの根源を知り、その成り立つわけを知ることである。

 以上は、前段まで英語やラテン語交じりで述べたことを、西先生の言葉で言い直しているくだりです。要すれば、「学」とは対象がなんであるかを知ることであり、「術」とは対象がどのように出来ているかを知ることだというわけです。前回見たアリストテレスの区別とほとんどそっくり重なっていることが分かります。

 主にここで読んでいる「甲本」では次に英文が現れますが、「乙本」を見ると、その英文の手前に具体例が挟まれています。学と術の区別について、西先生がどのように捉えていたのかを知るためのよき材料ですので、見ておきましょう。

學と術とを區別して一ツのものに譬へむには、彼處に一人の病人あり、軍中にて足ヲ銃丸にて打たれしと言ふ、故に今醫者を招きて療治するに、醫者の人體の筋骨皮肉五臓六腑の組立を知るは學なり、さて其銃丸に打たれし足を治セんに、元より筋骨の組立はよく知る所なれは、其の銃丸を如何して拔き取り得へき工夫をし得て、是を療治す是術なり、

(「百學連環」乙本より)

 訳せばこうなるでしょうか。

「学」と「術」を区別する譬えを一つ述べよう。ここに一人の病人がいる。軍中、足を銃で撃たれたという。そこで医者を呼んで治療する。医者は人体の筋骨や皮肉、五臓六腑の仕組みを知っているが、これは「学」である。さて、その銃で撃たれた足を治すにあたっては、もとより筋骨の仕組みをよく知っているから、銃弾をどのように抜き取るかということを工夫して治療するわけだが、これを「術」というのである。

 講義などで物事を抽象的に説明して終わると、聞いた側の理解や知識が上滑りしてしまうことがあります。そこで、このように具体例を提示すると、ようやく地に足がつくわけです。これはものを説明する際に留意すべき点の一つでありますが、アリストテレスなども、実に見事にこの方法を活用しています。

 この例にこと寄せて言えば、人体の解剖学的知識や病理についての知識は「医学」であり、そうした知識に基づいて病を治療する行いが「医術」と言えるでしょう。ここで例に取られている医術は、江戸の蘭学の時代にも中心的な位置を占めた学術であり、西先生の家も父時義は津和野藩の藩医であったことも思い起こされます(ただし、西周は藩命によって還俗しています)。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。


「百学連環」を読む:どの『ウェブスター英語辞典』か

2012年 1月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第42回 どの『ウェブスター英語辞典』か

 西先生が「百学連環」で講じた「学(Science)」と「術(Art)」の説明は、その根を辿ると遥か昔、古代ギリシアのアリストテレスによる見立てに至ることを見てきました。再び話を明治に戻してゆきましょう。

 と言いながら、「百学連環」そのものに立ち戻る前に、もう一つだけ確認しておかなければならないことがあります。西先生が参照した『ウェブスター英語辞典』の版はどれかという問題です。出典も分かったことだし、「どれでもいいじゃないか」と言いたくなるかもしれませんが、そうは問屋が卸さないのです。二つばかり問題があります。

 一つは、同じ『ウェブスター英語辞典』と題されていても、版を重ねるごとにテキストは変化するので、どの版から引用しているかということは見過ごせないという事情があります。

 もう一つ、こちらのほうがいっそう大きな問題なのですが、ここまでの議論には、実は一つ重大な空白が残されているのです。ミステリの謎解き風にご自分でその空白を見抜きたいという方は、ここ数回を読み直してみてください。

 すでにお気づきの方もいるかもしれませんが、ここ数回の検討で私たちが参照していた『ウェブスター英語辞典』は、1913年のものでした。でも、思い出しましょう。そもそも「百学連環」講義はいつ行われたものだったか。あるいは西先生の生没年を。

 そうです。「百学連環」講義には、明治3年(1870-1871年)という日付がありました。また、西先生は1897年に没しています。つまり、1913年版を参照しているはずはありません。

 ここ数回、西先生が引用した”In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.”という文章は、『ウェブスター英語辞典』の1913年版にあることを基に検討を重ねてきました。また、その際1828年版にはこの文章が見られないことも確認しました。つまり、このままでは辻褄が合いません。

 では、西先生が参照しえた『ウェブスター英語辞典』は、どの版か。特定はしきれていませんが、手がかりがあります。以下、西暦の数字に気をつけながら進めて参りましょう。

 面白いことに、1856年に刊行された『英語発音並びに定義辞典――ウェブスター・アメリカ辞典縮約版(A pronouncing and defining dictionary of the English language: abridged from Webster’s American dictionary, with numerous synonyms, carefully discriminated)』という辞書のSCIENCEの項目(p.405)には、1913年版とほとんど同じ文章が現れますが、上記したラテン語の部分は含まれていません。

 しかし、1865年に刊行された『ウェブスター英語辞典(American Dictionary of the English Language)』では、カールスレイクから引用した文章が「SYN(シノニム)」として提示されています。

 一方で、引用元となったカールスレイクの本は1851年刊行ですから、1856年版でも引用しようと思えばチャンスはあったわけです。しかしそうはなっていません。ちなみに第40回でご紹介したフレミングの『哲学語彙』は1857年の刊行でした。カールスレイクからの引用箇所が大きく重なっていることからも、『ウェブスター英語辞典』の編纂者が目ざとくフレミングの本を見て、カールスレイクの引用文を自分の辞書にも入れた……という空想も働きますが、定かではありません(当時の辞書編纂者たちが、お互いにお互いの辞書を利用し合っていたのは事実です)。

 それはともかく、今回検分できた範囲では、この1865年版であれば西先生が参照する可能性がありそうです。1865年は「百学連環」講義の5年前、西先生がオランダ留学から帰国した年でもあります。

 ただし、1856年の縮約版と1865年の辞書の間には、おそらく他にもいくつかの版がつくられているでしょうから、これをもって西先生が参照した版そのものだと断定するわけにはいきません。どの『ウェブスター英語辞典』かを特定する問題は、今後の調査課題とすることにして、「百学連環」の読解に戻ることにします。つまり、西先生は知ってか知らでか、アリストテレスの伝統に連なる「学術(Sciences and Arts)」の見立てを下敷きの一つにしていたというわけでした。

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山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
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「百学連環」を読む:アリストテレスの区別――「エピステーメー」と「テクネー」

2012年 1月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第41回 アリストテレスの区別――「エピステーメー」と「テクネー」

 西先生が引用した「サイエンス」と「アート」の違いを論じたラテン語交じりの文章は、どうやら『ウェブスター英語辞典』からの引用であり(これについてはもう一点確かめねばならないことがありますが次回とします)、同辞典はカールスレイクの著作からそれを引用しており、カールスレイクはどうやらそれをアリストテレスの『分析論後書』から取っている、という様子が見えてきました。これまた大いなる伝言ゲームです。

 では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」の違いについて、どう考えているのでしょうか。前回見た『哲学字彙』の示唆に従って、『分析論後書』を覗いてみます。

 ただし、『哲学字彙』に示されていた『分析論後書』のページ数は、どの版のものか分からないため、直接参考にはできませんでした。以下に示すのは、『哲学字彙』が示している箇所と一致するか否かは分かりませんが、『分析論後書』に見られる「サイエンス」と「アート」の違いに触れた箇所です。第2巻第19章にこういうくだりがあります。

 生成するものについては技術の端初が、存在するものについては知識の端初がある。

(アリストテレス『分析論後書』第2巻第19章、100a10、加藤信朗訳、
『アリストテレス全集』第1巻、岩波書店、p.770)

 この訳文で「技術」と訳されている語は、ラテン語訳ではartis、ギリシア語原文ではτεχνη(テクネー)です。「知識」のほうは、ラテン語訳がscientiaeで、ギリシア語がεπιστημη(エピステーメー)です。なお、上の邦訳では「エピステーメー」は「知識」の他に「科学」とも訳されています。

 上の引用から、アリストテレスが、「テクネー(技術)」と「エピステーメー(知識)」を区別している様子が見えますね。「テクネー」はつくられるものに関しており、「エピステーメー」は存在するものに関するのだというわけです。

 この『分析論後書』という書物は、知識やその学問的な論証がどのように成り立ちうるかということを論じたものですが、「知識(エピステーメー)」や「技術(テクネー)」がなにかということそのものについては述べていません。

 そこで、アリストテレスの別の著作で補っておきたいと思います。『ニコマコス倫理学』にうってつけの説明があります。まず「エピステーメー」に関する議論から見てみましょう。

 われわれが学問的に知る対象とは、「他の仕方ではけっしてありえないもの」である、と想定している。(中略)「学問的に知られるもの(エピステートン)」とは必然によって存在するものである。(中略)
 学問的知識とは、「論証にかかわる状態(アポデイクティケー・ヘクシス)」であり(中略)人が、あるものを一定の仕方で信じていて、しかもその諸原理が彼に認識されているとき、その場合に、彼は学問的に知っていると言えるのである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第3章、1139b、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.260-261)

 途中を省略していることもあって、少し分かりづらいかもしれません。ここでの関心に沿ってまとめ直すとこうなります。人が学問的知識(エピステーメー)を持っていると言えるのはどういう場合か。それは、必然によって存在するものについて、その諸原理を論証できるかたちで認識している場合だ、というのです。ここで「必然による存在」というのは、当世風に言い直せば、法則に従う自然や数学などのことです。アリストテレスは、他のなにかのためではなく、知るために認識することを哲学の営み(知るのを愛すること)だとも言っています(『形而上学』982b)。

 他方で「技術」についてはどうか。同じ『ニコマコス倫理学』で、こう述べています。

 あらゆる技術は事物の生成にかかわるのであり、技術の行使というのは、存在することも存在しないことも可能な事物、そしてその原理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを「理論的に考察する(テオーレイン)」ことを基礎とする。すなわち、技術は、必然によって存在したり生成したりするものごとを対象とせず、また自然によって存在するものごとも対象としないのである。なぜなら、自然によって存在するものは、みずからの内に存在の原理をもっているからである。

(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第4章、1140a、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.262-263)

 ここでは「技術(テクネー)」というものが、事物の生成、つくることに関わっていると述べられています。先に見た「学問的知識(エピステーメー)」が対象とするような「必然によって存在するもの」や「自然によって存在するもの」とは区別されているのがポイントです。このアリストテレス先生による区別こそが、前回まで見てきたような「サイエンス(学)」と「アート(術)」の区別に響いていることがお分かりになると思います。

 ついでながらもう一つ気になるのは、そうしたアリストテレスの見立てが、彼が書いたであろう古典ギリシア語ではなくラテン語訳で引用されていたことです。これはなぜでしょうか。

 推測に過ぎませんが、二つばかり考えられることがあります。一つには、ヨーロッパにおいて長きにわたり種々のラテン語訳でアリストテレスが読まれてきた伝統があるからではないかと思います。また、英語のscienceやartの淵源は、古典ギリシア語の「エピステーメー」と「テクネー」にあるにしても、語の形の上からも直感的に見てとりやすいのは、そのラテン語訳であるscientiaとartesだという事情も働いているのかもしれません。

 とにもかくにも議論の源である古典ギリシアの様子を見ましたので、再び西先生のほうへと引き返しましょう。「百学連環」そのものの読解に戻ります。

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「百学連環」を読む:ラテン語の引用元

2012年 1月 13日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第40回 ラテン語の引用元

 『ウェブスター英語辞典』(1913年版)で、SCIENCEの項目を読んでいるところでした。そこに記載されているSCIENCEの同義語(シノニム)に、literature、art、knowledgeの三つの語が並んでおり、中でもartについては、念入りの説明が施されています。

 前回見たように、「アート」に関する解説は、辞書の執筆者によるものではなく、カールスレイクからの引用であることが示されていました。

 調べてみると、ウィリアム・ヘンリー・カールスレイク(William Henry Karslake)『論理学研究への手引き(Aids to the Study of Logic)』(2vols, 1851)の第1巻からの引用であることが分かります。残念ながら、今回同書そのものは確認できませんでしたが、出典については別の文献で確認できました。

 実は『ウェブスター英語辞典』で引用されているのとまったく同じ文章が、他の書物にもそのまま引用されているのです。ここで注目しておきたいのは、ウィリアム・フレミング(William Fleming)『哲学語彙 精神・道徳・形而上学に関する――引用と参照つき 学生用(The Vocabulary of Philosophy, menetal, moral, and metaphysical: with quatations and references; For the use of students)』(1857)です。

 これは、グラスゴー大学のウィリアム・フレミングが、学生の学習のために編んだ哲学事典で、副題に見えるように、語彙の解説に加えて先哲が書いた文章からの引用が添えられています。

 この『哲学語彙』のSCIENCEの項目を見ると、さまざまな引用を交えながら、その意味と用例が提示される中に、例の”In science, scimus ut sciamus; in art, scimus ut producamus.“で始まる文章(第37回参照)が引用文として現れます。そして、その引用文の末尾に次のように出典が示されているのです。

――Karslake, Aids to Logic, b. i., p. 24.――V. ART, DEMONSTRATION.

The Vocabulary of Philosophy, p.453

 書名は若干省略されていますが、上記した『論理学研究への手引き(Aids to the Study of Logic)』を指しています。このようにきちんと出典が明示されているおかげで、西先生が『ウェブスター英語辞典』から引用している文章の出所が分かりました。この『哲学語彙』はなかなかよくできていて、カールスレイクの引用には次のような注もついています。訳出してお示ししましょう。

 この「サイエンス」と「アート」の区別は、アリストテレスが提示したものである。『分析論後書』i., 191, ii., 13.を見よ。

前掲同書、p.453、注§

 またしてもアリストテレスの名前に出合いました(第30回参照)。無理からぬことです。ヨーロッパの学術史を眺めてみると、学術を分類するさまざまな試みがなされてきましたが、その最初期の試みの一つがアリストテレスによるものだからです。アリストテレス先生の影響は、時代によって強くなったり弱くなったりしていますが、このように19世紀半ばの学術書にもその力は及んでいるのです。

 では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」をどのように区別しているのでしょうか。西先生の「百學連環」からさらに遡ることになりますが、ここをしっかり押さえることで、以後の読解にとっても、大きな手助けを得られると思います。次回は、アリストテレスの議論を見てみることにしましょう。

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「百学連環」を読む:サイエンスの同義語

2012年 1月 6日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第39回 サイエンスの同義語

 『ウェブスター英語辞典』1913年版のSCIENCEの項目に掲載されている同義語の欄を見ていたところでした。その同義語には、Literature、Art、Knowledgeの三つが並んでいます。

 「リテラチャー」と言えば、ついつい「文学」と訳したくなる言葉ですね(このこと自体いろいろな問題を含むわけですが)。こともあろうに「サイエンス」が「リテラチャー」と同義なの? というわけです。ここは、「百学連環」を読む私たちにとっても興味深い箇所なので、少し足をとめて見ておくことにしましょう。原文はリンク先を見ていただくとして、訳文を掲げてみます。

同義語――リテラチャー、アート、ナレッジ。「サイエンス」とは文字通りには「知識(knowledge)」のこと。だが、よく使われる意味では、体系立っていて秩序ある知識の配置を指す。さらに詳しい意味としては、「サイエンス」には、知識の諸分野が含まれており、そうした知識は、根本的な原理、もしくは自然の秩序に従って配置された原理や法則によって説明される事実などを対象としている。

(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)

 原文ではここで切れずそのまま続きますが、一旦ここで区切ります。まずは「サイエンス」の同義語の一つとして掲げられた「ナレッジ(知識)」との関係が説かれていますね。ここで「おや?」と思うのは、同義語としては「リテラチャー」「アート」「ナレッジ」という順序で並べられているにもかかわらず、説明は「ナレッジ」から始まり、次に見るように「リテラチャー」が続き、最後に「アート」が登場することです。なぜかは分かりませんが、頭の片隅に疑問を置いておきましょう。

 それはともかく「サイエンス」を「学」もしくは「学問」と捉えれば、「知識」と同義であるという説明は納得しやすいと思います。では、次に「リテラチャー」の説明です。

「リテラチャー」という言葉は、「サイエンス」の名の下に包括されないあらゆる構成物を意味することもあるが、多くは「文学(belles-lettres)」に限定される。〔Literatureの項目を見よ〕。

(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)

 ここで注意すべきことは、そもそもliteratureという言葉は、いわゆる「文学」に限定されない幅広い意味を持っていたということです。ラテン語のlitteraturaに由来することは、言葉の姿からも分かりますね。

 このラテン語は、「文字を書くこと」「著作物」「文献」あるいは「アルファベット」「文法」、そして「学問」「学識」という意味を持つ言葉でした。文字という表現に関わることであり、その分野やジャンルを狭く限定する概念ではなかったのです。ですから、上記のように「サイエンス」の同義語として「リテラチャー」が掲げられていることに不思議はありません。

 ただし、そこでも述べられているように、「リテラチャー」は「文字で書き記されたもの」が広く含まれますから、必ずしも「学問(サイエンス)」に限定されるとは限らないというわけです。それが後世、「サイエンス(科学)」と「リテラチャー(文学)」を対立するもののように捉えるようになってしまったのはどうしてか。根深い問題です。

 そして最後に「アート」の説明に移ります。ご覧いただくと分かりますが、三つの類義語の中でも「アート」に費やされている文字が最も多くなっています。見てみましょう。

「アート」は、実演における実行や技能にかかるものだ。「学では、知ルタメニ知リ、術では、ツクルタメニ知ル。したがって、「サイエンス」と「アート」は真理の探究であると言えるだろう。しかし、「サイエンス」では、知識のために探究するのに対して、「アート」では制作のためにそうする。つまり、「サイエンス」はいっそう上位の真理に関わるものであり、「アート」は相対的に下位の真理に関わるものである。また、「サイエンス」は、「アート」のように生産への応用にはけっして関わらない。したがって、「サイエンス」の最高に完全な状態とは、最も高度かつ正確な探究であろう。対する完璧な「アート」とは、最も適切かつ効果的な規則の体系であろう。アートとは、常に自らを規則という形にするものなのだ。」

カールスレイク

(『ウェブスター英語辞典』、1913年版、SCIENCEの同義語)

 ここは少し込み入っていますので、読み解きは次回といたします。一つだけ先に言うと、2文目からが引用文になっており、その冒頭には、あの西先生が引用していたラテン語交じりの一文が現れていますね。

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