談話研究室にようこそ 第71回 「行って帰ってくる」物語ふたたび(その2)

2014年 2月 6日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第71回 「行って帰ってくる」物語ふたたび(その2)

 前回は「行って帰ってくる」物語の構造が,冒頭部と終幕部だけでなく,3つの小動物のエピソードに対しても当てはまることを確認しました。今回は,この「行って帰ってくる」物語の構造と死の周辺部から核心へと進む描写の順序との関係について考えます。今回が「城の崎にて」に関する論考の最後となります。

柳湯橋より(写真提供:城崎温泉無料写真集)
写真提供:城崎温泉無料写真集

 ハチのエピソードは,主人公が抱える欠損状態を表しています。彼は死の静かさに対して親しみを感じていましたが,それは死を畏れる心が欠如していることを示します。生ける存在としての人間にとって,不自然で不安定な状態です。これが物語の始発点となります。

 生きて動き回るハチを飽きずに眺めていた主人公(語り手)は,ある朝,ハチが「玄関の屋根で死んでいるのを」認めます。つまり,死ぬ前の生きている状態のハチと,「足を腹の下にぴったりとつけ」て死んでいるハチとをそれぞれ別個に経験したわけです。

 彼がとらえたハチの死は,その周りを「忙しく立働いている蜂」と対照させられはしますが,そのハチ自身の生からは完全に切り離されています。死は,おそらく生と連続するがゆえに恐ろしい。しかし,生と切り離された死は,単に静かな状態でしかありません。そこには生から死への連続が,生と死との対立が,欠如しています。彼に変化はまだ訪れません。死の静かさに親しみを覚えるばかりです。

 次のネズミのエピソードは,ネズミの死とともに主人公の試練を描きます。「鼠が殺されまいと、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子」が克明に繰広げられます。ハチのエピソードにはなかった死を直前にした「動騒」が描かれ,死の静かさに親しみを感じていた主人公の安穏さはここにいたって打ち砕かれるのです。

 しかし,「鼠の最期を見る気がしなかった」主人公は死の直前で直視することをやめてしまいます。このエピソードではネズミの死の瞬間は描かれません。彼は死の現場を離れ,少し距離を置きながらネズミの「直後」に対し思いをはせるのみです。つまり,これまでの見せかけの安穏さは打破されるにいたったものの,生から死へといたるその瞬間の経験を拒否したため,死に対する新たな意識を持てずにいるのです。

 では,イモリのシーンはどうでしょうか。イモリの死を引き起こしたのはほかならぬ主人公です。彼がイモリを脅かそうと「小鞠ほどの石を取り上げ、それを投げてやった」ためにイモリはあっけなく死んでしまいます。先のふたつのエピソードでは死の瞬間はとらえられていませんでした。しかし,イモリのシーンでは自らがその死を引き起こしてしまったため,主人公(語り手)は,イモリが生きてじっとしている状態から,「もう動かない。蠑螈は死んでしまった」という状態へ移行するのを目の当りにせざるをえません。

 ここでは,イモリの生から死への過程があたかもスローモーション再生を見るように,しかもクロースアップで描かれます。死がまざまざと言わばむき出しの状態で提示されるのです。対象への距離が近く切実さが強い分だけ,イモリの生から死への移行を,そしてイモリの死に対峙する自らの生を,主人公は明瞭に感じ取ったのでしょう。彼は死に対し新たな認識を獲得します。「生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした」ということばは,生から切り離された静かな状態としての死が自分の生活とはまったくの別物(両極)として認知されていたのに対し,生から連続したところにある死を「それほどに差はない」ものと認識したものだと思います。

 ここで,「行って帰ってくる」物語と死の周辺から中核へと至るプロセスのふたつは収束します。主人公が新たな認識を獲得し安定を取戻すためには――「行って帰ってくる」物語を生きるには――,死の前後を表す出来事と,死の直前を表す出来事と,そして生から死への移行の瞬間を表す出来事を,その順序で経験する必要であったのです。

 各エピソードが表す「行って帰ってくる」要素と生と死の局面の対応関係は以下の表ようになっています。

 表-1: 行って帰ってくる物語と生と死の局面
表-1: 行って帰ってくる物語と生と死の局面

 「行って帰ってくる」物語の構造と死の周辺から核心へと向かうプロセスは,「城の崎にて」においてとても自然に結びついています。分析の過程で作品から別々に取り出されたはずのこのふたつの構造は,見事に連動していました。とりわけ,死のプロセスの中核部分を最初のふたつのエピソードで描かないという判断は,秀逸です。「城の崎にて」は,テーマと叙述の形式が密接に結びついて,収斂性の高い動かしがたいテクストを形作っています。

 若い頃,この「城の崎にて」を原稿用紙に筆写したことがあります。そういうことが自称文学青年のあいだでは流行って(?)いたのです。関心を同じくする私の友人は,大講義室で行われていた講義の期末課題として,「城の崎にて」を筆写した原稿に「科学史レポート」という表紙をつけて提出しました。300人以上も受講生がいるのだから,先生はいちいちレポートの内容を見ていないに違いないと確信しての行動です。

 成績は,もちろん,不可でした。

 城崎に個人的な思い入れがあることに加えて,そういう経緯まであったものですから「城の崎にて」は,私にとって特別な作品でした。今回,改めて丹念に,そして何度も,読み直しました。この作品を真似事のように筆写していた頃に比べると,読みが深まったように思います。以前の想いと今の解釈が交錯して,30年前の自分と対話したような気になりました。ささやかなことではありますが,そのことがうれしい。

 次回からは,言いにくいことを言うためのレトリック―婉曲法―について語ろうと思います。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

*

【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。


談話研究室にようこそ 第70回 「行って帰ってくる」物語ふたたび(その1)

2014年 1月 23日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第70回 「行って帰ってくる」物語ふたたび(その1)

 これまで「城の崎にて」を分析するにあたって,ふたつの構造をこの物語に重ね合わせてきました。ひとつは「行って帰ってくる」物語で,もうひとつは死の周辺から核心へと描写を進めるプロセスです。

 しかしながら,これらふたつの構造を下敷きにしてこの小説を読まねばならないという必然的な理由は,実のところありません。「城の崎にて」について一連の文章で私が示した見方は,言ってみれば,そのように解釈すると整合性の高い読みができますよ,という提言のようなものです。読み方のひとつの指針でしかありません。

 ただ,もしここで取り上げたふたつの構造が無関係なものではなく,互いに連動していることを示せたら,両者を作品解釈に適用することの信頼度はさらに高まるはずです。最後にその点について考えてみましょう。

 「行って帰ってくる」物語の構造を分析に用いたのは,おもに作品の冒頭部と終幕部に対してでした。他方,死の周辺から核心へと至るプロセスは,小動物の死に関する3つのエピソードに関係づけて取り入れました。つまり,これまでの分析では,「行って帰ってくる」物語は作品のはじめと終わりに対応し,死の周辺から核心へのプロセスは作品の本体部分に対応する,という分業がありました。

 ところが「行って帰ってくる」物語は,作品の周辺部分だけでなく,3つのエピソードを説明するのにも役立ちます。

 まずはおさらいです。「行って帰ってくる」物語は,典型的には英雄の冒険潭の形式を取り,おおむね次のように展開します。

(94)  a. 不安定な欠損状態の存在
 b. 主人公の旅立ち
 c. 主人公の試練
 d. 安定状態の回復
 e. 主人公の帰還

 (94)を下敷きにすると,「城の崎にて」は,もちろん主人公が城崎に行って帰ってくる話であると同時に,死に対して失った畏怖をふたたび主人公が獲得し,生と死の緊張感を取り戻す話でもあります。そういった主題を小動物の死に対する観察からその過程を浮かび上がらせる,それがこの小説の基本設定です。

 このうち,作品の冒頭部(第63回の(80))と終幕部(第64回の(84))はそれぞれ,(94b)の「主人公の旅立ち」と(94e)の「主人公の帰還」に当たります。そして,残る3つの部分は,以下のように対応します。

(95)  a. ハチのエピソード:不安定な欠損状態
 b. ネズミのエピソード:主人公の試練
 c. イモリのエピソード:安定状態の回復

 ハチのエピソードでは主人公が山手線の事故以来,死の静かさに親しみを抱いていることが語られます。彼は死に対して麻酔がかかった状態にあるのです。生の躍動を意識できず,それと表裏一体にある死に対しても畏怖の念を失ってしまった。その意味において,主人公は危うい不安定な状態にいます。彼は怪我を癒す養生のために城崎を訪れますが,それは同時に精神に健全さを取り戻すための旅立ちでもあったのです。

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 ネズミのエピソードは,そのような主人公の上辺の安穏さを脅かす試練を与えます。「鼠が殺されまいと、死ぬに極まった運命を担いながら、全力を尽して逃げ廻っている様子」は,主人公にとって直視できない痛切なものでした(「自分は鼠の最期を見る気がしなかった」)。そして,「今自分にあの鼠のような事が起こったら自分はどうするだろう」と,不安定さを引き起こした電車事故について思いを巡らせます。

 最後のイモリのエピソードで主人公は自らイモリの死を引き起こします。そして,死のとらえ方に対してすでに心を揺さぶられていた主人公は,「生きている事と死んでしまっている事」に対し意識を新たにします。

(96) 死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あの鼠はどうしたろう。海へ流されて、今頃はその水ぶくれのした体をと一緒に海岸へでも打ち上げられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際の喜びの感じは湧き上っては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。

 主人公がとらえた生と死の対立について寡黙な作者は多くを語りません。しかし,「そして死ななかった自分は今こうして歩いている」というふうに,主人公は自分が生の側にあることを実感しています。死に対して親しみを覚えていた当初に比べると,明らかに自然な状態と言えるでしょう。

 「城の崎にて」は静かな心境小説です。「行って帰ってくる」英雄の冒険潭がその背景にあるというのは,意外な取り合わせのように思えるかもしれません。しかし,「行って帰ってくる」物語を下敷きにすることで,「城の崎にて」の主題は引立ちます。主人公が最後にたどり着いた境地に対する説明がほとんどないにもかかわらず,私たち読者が何か分ったような気がするのは,主人公が一度なくしたものを回復したと想定するからではないかと思います。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

*

【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。


談話研究室にようこそ 第69回 語りの順序とテーマと視点(その2)

2014年 1月 9日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第69回 語りの順序とテーマと視点(その2)

 死を前にして逃げ惑うネズミの姿に語り手の心は乱され,その描写はハチの死を認めたときよりも語り手が出来事の渦中にいるかのような度合いを強めます。もっとも,そうは言っても、ネズミに関する描写がすべて眼前で繰り広げられる訳ではありません。イモリの前に、その点をまず確認しておきます。

 語り手は「淋しい嫌な気持ち」でネズミの様子に思いをはせます。

(92) 自分が希(ねが)っている静かさの前に、ああいう苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいう動騒(どうそう)は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまではあの努力を続けなければならない。今自分にあの鼠のような事が起こったら自分はどうするだろう。自分は矢張り鼠と同じような努力をしはしまいか。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 語り手はもがき逃げ惑うネズミに自分の姿を重ねますが,ネズミに完全に感情移入してしまうわけではありません。上の引用では「ア」系の指示詞が4度繰り返されます。ネズミが経験した苦しみや「動騒」は一定の距離を置いて想起されています。

 ハチのときは静まった心で余裕を持って眺めていた語り手は,逃げ惑うネズミに心を揺さぶられながら,その動きを追いかけます。ハチのときにくらべると臨場感の伴った描写が行われますが,一定の距離感もそこには存在します。

 これに対し,死のまさにその瞬間を経験するイモリの場面では,状況の迫真さがより強まります。以下は,第67回でも見ましたが,語り手が「小鞠ほどの石」をイモリに「投げてやった」直後の記述です。

(93) 石の音と同時に蠑螈は四寸ほど横へ跳んだように見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んでしまった。

 時間にして何秒でしょうか。石が当たった瞬間からものの5秒もたたない時間は,小説のなかで引き延ばされます。イモリは,「横に跳んだように見え」,「尻尾をそらし」たかと思うと,その尾が「静かに下りて」くる。すると,「両前足の指が」まくれ込み,「前へのめって」しまう。

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 イモリの瞬時瞬時の動きが非常に細やかに,そして的確にとらえられています。観察されたひとつひとつの動きは時系列にそって並べられます。物語の時間の進行はいきおい緩やかになります。語る内容が多いからです。加えて,その合間に語り手の感想(「自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。」)が差し挟まれるので,時間の進行はさらに遅くなります。私たちはイモリの死をあたかもスローモーションでの再生を眺めるように経験するのです。

 しかも,イモリの尾,肘,そして「両前足の指」というふうに,語り手の視線は次第に細部へと移ってゆきます。視点が非常に近い。対象に対し接写しているかのような感じです。死にゆくイモリを語り手は――そして私たちは――目の当りにするのです。

 見つめる行為に対する集中度が物語の進行に伴って高まってゆくのが感じられます。語り手が丹念に対象を眺める印象が作品を通して強められてゆくのです。第62回の(78b)で取り上げた「語り手はじっと見つめている」という感想の源はこのあたりにあるのだと思います。

 さて,「城の崎にて」における小動物の描写は,ハチを眺めることで穏やかに開始されました。しかし,瀕死のネズミに出会ったことで描写は臨場感を高め,語りの調子も静かさから,もがき苦しむ「動騒」へと変化します。

 しかしそれでも,「ア」系の指示詞の連続に見られるように,語り手と観察される対象(ネズミ)とのあいだには一定の距離感が存在していました。他方,イモリの死は,語り手自身が引き起こしてしまったことにも関係しますが,語り手の目の前でゆっくりとしかし着実に容赦なく進行します。死という現象が何物の介在もなく直に提示される。そのような印象を持ちました。死の瞬間に接するにはふさわしいレトリックではないでしょうか。

 第66回67回で確かめたように,小動物について語る順序は動かせない構造になっていました。死の周辺から核心へと至る順序です。この順序に呼応して語り手の小動物に対する描写の態度や距離のとり方も変わってゆきます。つまり,物語のテーマと順序と語り方が密接に結びついているのです。「城の崎にて」は,このようにとても緊密なテクストを構成しています。まとまりがよいという印象(第62回の(78c))を読者に引き起こすのも当然と言えるでしょう。

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『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

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談話研究室にようこそ 第68回 語りの順序とテーマと視点(その1)

2013年 12月 19日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第68回 語りの順序とテーマと視点(その1)

 「城の崎にて」において語られる小動物のエピソードは,「死の前と後」から「死の直前」へ,そして「死の瞬間」というふうに,死の周辺から中心へと向かう順序に従って並べられていました。順に核心へと進む構造です。

 そして,この順序に呼応して,語り手の描写態度や出来事の受け止め方に変化が生じます。今回と次回はその点について確認します。

 最初のエピソードはハチの死についてです。語り手は,「足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がって」いるハチの死骸を静かに眺めます(「冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。しかし、それは如何にも静かだった」)。そして,その静かさに親しみを覚えます(「忙(せわ)しく忙しく働いてばかりいた蜂が全く動く事がなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。」)

 ここで語り手は,ハチの死に心が揺さぶられるわけではありません。このハチの死に遭遇する前から,語り手の「心には、何かしら死に対する親しみが起こって」いました。ハチの死骸を認めて一抹の淋しさを感じても,それを穏やかに受け入れるだけです。

 語り手のそのような態度は語り方にも表れます。ことに以下の表現は特徴的です。

(90)    a. 蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。
   b. それがまた如何にも死んだものという感じを与えるのだ。
   c. それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。

 (90)の3つの表現は,「蜂」や「それ」(ハチの死骸が横たわっている様子)が主体となって,語り手に対し一定の「感じ」を与えると述べています。語り手が受けた印象が授受行為の構図――与える人,受け取る人,そして受け渡される物が存在する――に当てはめられて表現されます。もっとも,この場合,受け取る人が語り手であることは明らかですが,テクスト上に明示されているわけではありません。

 (90c)を例にとり,「静かな感じがした」という表現と比較してみましょう。「静かな感じがした」は,一定の認知の結果,どのような印象を持ったかを伝える表現で,結果のみに重点を置きます。こちらのほうが日本語としてはよくある表現です。

 他方,(90c)は印象の出所(与える人)を明示し,他動的なはたらきかけがあったことを表します。そしてその結果,受け取る側にどのような印象が伝えられたかを示します。一定の印象を認識するにあたって,その原因と結果の関係をとらえるわけです。この点において,「静かな感じがした」に比べてより客観的で分析的な表現です。

 留意すべきは,そういった分析的な表現が短い範囲のなかで3度も繰り返されることです。なかでも(90b, c)の「それ」はハチの死骸(がそのままになっていること)を指しています。物を主語とし,人を受け手とする他動詞構文は日本語においてあまり一般的ではありません。しかも,(90)の3つの表現のいずれもが「如何にも」という語句を含みます。つまり,あまり一般的ではない分析的な表現が,ことさら目立つように配置されているのです。ハチの死を見つめるときの落ち着いた客観的な印象は,こういった語り方にも起因しているのだと思います。

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 これに対し,ネズミの一件が語り手にもたらした衝撃は大きなものでした。ハチの死とは異なり,死に瀕するネズミの姿は語り手には他人事とは思えません(「今自分にあの鼠のような事が起こったら自分はどうするだろう」)。だから語り手は,「鼠の最期を見る気がしなかった」のです。

 その語りは,ハチのときより臨場感を高めています。

(91) 鼠には首の所に7寸ばかりの魚串(さかなぐし)が刺し貫(とお)してあった。頭の上に三寸程、咽喉の下に三寸程それが出ている。鼠は石垣へ這上(はいあが)ろうとする。子供が二、三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。なかなか当らない。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 ここでは第一文を除き,非「タ」形の文末が続きます。ハチの描写においても非「タ」形の文末は見られますが,これほど連続することはありません。もっとも,非「タ」形が用いられたからといって,必ずしも現在進行形で出来事が繰広げられるというものではありません。ですが,ここでのように克明な描写が時間順に非「タ」形で繰り返されると,さすがに出来事が目の前で進行する印象を持たずにはいられません。ことに,最後の「なかなか当らない」は,語り手の視点が語りを行う現在時点から,過去の出来事の内部に入り込んだ印象をもたらします。他方,(90)のような他動詞の構文はここでは見当たりません。

 「死の前後」を表していたハチの描写から「死の直前」を語るネズミの一節へと進むにつれて,つまり死の核心に近づくにしたがって,語り手の小動物に対する心理的な距離は近づくように思えます。

 では,「死の瞬間」を表すイモリの描写はどのようになっているでしょうか。例によって,その話は次回になります。

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『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

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談話研究室にようこそ 第67回 語る順序のストラテジー(その2)

2013年 12月 5日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第67回 語る順序のストラテジー(その2)

 小動物の死の3つ目,イモリ(蠑螈)のエピソードは以下のように語られます。

(88) 自分は蠑螈を驚かして水へ入れようと思った。不器用にからだを振りながら歩く形が想われた。自分は踞(しゃが)んだまま、傍(わき)の小鞠(まり)ほどの石を取上げ、それを投げてやった。自分は別に蠑螈を狙わなかった。狙ってもとても当らないほど、狙って投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考えなかった。石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時に蠑螈は四寸ほど横へ跳んだように見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んでしまった。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 描写方法については以降の回で言及しますが,スローモーションのように綿密に記述されます。それまで傍観者であった語り手がはじめて死を引き起こす行為者(動作主)となってしまうところです。小さなイモリ相手に小まりほどの大きな石を投げてはいかんだろうと思いますが,語り手は頓着しません。そのせいでイモリを死なせてしまいます。三谷はこの出来事を「死の原因」ととらえました。

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 しかし,ここではハチとネズミの死のシーンを「死の前後」「死の直前」というふうに単純に時間軸の上でとらえてきました。ならば,イモリのエピソードを同様に時間軸上に並べてみるととどうなるでしょうか。

 (88) のシーンは,生から死へと移行するまさにその瞬間をとらえています。(86) のハチと (87) のネズミのところでは語られることのなかった「死の瞬間」が,すさまじいほどの集中力をもって(しかし,いたって何気なく)描かれているのです。

 ということは,ハチのエピソードは「死の前後」,ネズミのそれは「死の直前」,そしてイモリは「死の瞬間」をそれぞれ表していることになります。つまり,生から死へと移りゆく変化の過程を3つのエピソードでほぼすべてカバーしているのです。

 (やれ死んだ後だ,やれ死ぬ前だと言い立てるのは,あまり気の進むものではありませんが)図示すると次のようになります。

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 図では,「死の直後」のところに若干のギャップが生じています。もっとも,ネズミにしても何にしても「死の直前」に何らかの出来事を引き起こすことはできますが,「死の直後」には何の行動も起こせません。死んだ後には出来事らしい出来事が起こりにくいので,そこにギャップが生じるのも仕方ないかと思います。

 このようにとらえると,「城の崎にて」は生から死へ至る一連の過程をカバーして終わるという構造を持っていることが分ります。そして,その語りの順序は,死の外側(「死の前後」)から核心(「死の瞬間」)へ,という経路をなぞります。死の周辺から中心に至って終わる,それがこの作品が内在する構造です。

 小動物の死の3つのエピソードは,表面上,語り手が経験した時間的順序によって緩やかに結びつけられています。ハチの死に気づいたのは「ある朝の事」で,その後,「蜂の死骸が流され、自分の眼界から消えて間もない時」にネズミの死に際に遭遇します。そして,「そんな事があって、また暫くして」イモリの死に立ち会います。

 しかし,3つのエピソードは単に時間的順序によってつなぎ合わされているのではありません。死の周辺から核心に至って終わるという,作品の主題にもかかわる記述順序によっても結びつけられています。「城の崎にて」で描かれたエピソードは,順序の動かしようのない,緊密なまとまりを持っているのです。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

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談話研究室にようこそ 第66回 語る順序のストラテジー(その1)

2013年 11月 21日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第66回 語る順序のストラテジー(その1)

 ハチ・ネズミ・イモリ,この3つの小動物の死は,第62回で紹介した志賀直哉のことばによりますと,「皆その時数日間に実際目撃した」(「創作余談」『志賀直哉全集 第6巻』)ことだそうです。そしてこの3つのエピソードは,事実通りありのままに語られたものとされることが(ことに以前は)多かったようです。

 しかし,この3つのエピソードには発生順序以外の関係づけも見られます。三谷憲正は「「城の崎にて」試論」1) と題された論考で次のように述べています。

 三つの死の在り方を眺めてみると、不思議な配列に気づく。これら三つのエピソードの順序は緻密な計算の下に置かれているようなのだ。

 三谷によると,小動物の死には語り手の姿が投影されており,ハチの死は〈土の下の死後の安らぎ〉を,ネズミの死は〈死の直前のもがき〉を,そして,イモリの死は〈死の原因としての偶然の事故〉を,それぞれ表すそうです。

 〈土の下の死後の安らぎ〉とは,ハチが静かに死んでいる状態だけを表すのではありません。青山墓地に埋葬された自分の姿を思い浮かべたとき,そのイメージに語り手が静かさと親しみを覚えたことをも指しています。同様に,〈死の直前のもがき〉は,電車事故の後で語り手が半分意識を失った状態にもかかわらず医者の手配などを自分で指図したことを意味し,〈死の原因としての偶然の事故〉は,山手線で語り手が跳ね飛ばされたことを表します。この小動物の様子と語り手の体験との対応関係には納得できます。

 そして三谷は,ハチ・ネズミ・イモリのエピソードの順序を「「死後」から「直前」、「直前」から「原因」、と時間のフィルムを逆に回している」と主張します。たしかに,エピソードが語られる順序に関して一定の規則性が見られるようではあります。しかし,合点のいかないところもあります。「死後」「直前」「原因」という順序で3つのエピソードをとらえ直すことで,いったい何が見えてくるのでしょうか。三谷にはそのことに対する説明がないのです。エピソードの順序に意味合いを見出そうとする三谷の基本姿勢には共感しますが,エピソードの順序を動機づける指針については賛成できません。

 そこで,3つのエピソードがはたして「死後」「死の直前」「死の原因」を表しているのかどうかについて確認してみましょう。

 まずはハチの描写についてです。

(86) ある朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向(いっこう)に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍(わき)を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向(うつむ)きに転がっているのを見ると、それがまた如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 たしかに,上の引用はハチが死んでしまった後の状態を描写しています。しかし,ハチの描写については (86) に先立つ一節で「細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ」様子も描かれています(前回の (85) を参照)。

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 とすると,ハチに関しては,「死んだ後」の様子だけでなく,「死ぬ前」の姿も描写されていることになります。ハチのエピソードは「死後」ではなく「死の前後」を描いていると考えた方がよさそうです。

 次に,ネズミのエピソードです。

(87) ある所まで来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中の物を見ながら騒いでいた。それは大きな鼠を川へなげ込んだのを見ているのだ。鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする。鼠には首の所に7寸ばかりの魚串(さかなぐし)が刺し貫(とお)してあった。頭の上に三寸程、咽喉の下に三寸程それが出ている。鼠は石垣へ這上(はいあが)ろうとする。子供が二、三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。なかなか当らない。カチッカチッと石垣に当って跳ね返った。見物人は大声で笑った。鼠は石垣の間に漸(ようや)く前足をかけた。しかし這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そしてまた水へ落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 この一節は,「死ぬに極まった運命」から逃れようとネズミが必死に逃げ回る様子を描きます。このエピソードについては,三谷が記述したのと同様に,「死の直前」を表すとしていいでしょう。

 と,ここで「紙数の尽きる直前」となりました。続きは再来週に。

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1) 三谷憲正「「城の崎にて」試論:〈事実〉と〈表現〉の果てに」『稿本近代文学』第15集, 1990。「日本ペンクラブ電子文藝館」(http://bungeikan.org/domestic/detail/721/) に改稿して2003年に再録。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

*

【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。


談話研究室にようこそ 第65回 静かさと淋しさと出来事の順序

2013年 11月 7日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第65回 静かさと淋しさと出来事の順序

 ようやく物語本体についての話です。第62回の (78a) で言及しましたが,「城の崎にて」はとても静かな印象を読者に与えます。この印象はどこから来るのでしょうか。まず,その点からはじめます。

 冒頭に続く一節は次のようになっています。

(84)  頭はまだ何だか明瞭(はっきり)しない。物忘れが烈しくなった。しかし気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持がしていた。稲の穫入(とりい)れの始まる頃で、気候もよかったのだ
 一人きりで誰も話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前に椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

 (84) の第3文に「静まって」とあります。「静かさ」にかかわる語(「静か」「静まる」「静寂」)が合計16回,5500字を少し超える短編のなかで使われています。さらには,静かさとなじみのよい寂しさを表す語(「淋しさ」「寂しさ」「静寂」)も合計10度(そのうち先ほどもカウントした「静寂」は2度)使われます。語られる内容自体が「静か」なのです。しかも,これほど関係する語彙が繰り返し示されると,さすがに「静かさ」が印象づけられるはずです。

 加えて,この作品では誰も発話のかたちではしゃべりません。語り手は出来事を丹念に眺めつづけますが,誰とも話しません。逃げ惑うネズミを眺める「見物人は大声で笑」います。しかしその笑い声は,語り手のことばを通して間接的に伝えられるのみです。つまるところ「城の崎にて」は無言の小説なのです。この点も静かな印象に一役買っているのだと思います。

 さらには,文体の基調も静かさの印象に貢献しています。(84) の述部に下線を施しました。すべて語り手自身や語り手の身の回りの状況を表すのみで,具体的な行為が目の前で繰り広げられるわけではありません。なかでも「…していた」という文末が特徴的です。(84) でも2度使われています。この言い方は当該の動作を状態として表現します。第2文の「激しくなった」は一定の変化を前提としますが,変化のプロセスに目を向けるのではなく,変化の結果状態に着目する表現です。

 このような状態を記す表現が (84) 以降もしばらく(字数にして800字ほど)続きます。冒頭の段落が「タ」系の言い切りのかたちで一定の行為・出来事を記述していたのとは著しい対照をなします。能動的な行為を表す表現は (84) に続く部分でも用いられますが,その場合は「夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た」というように,習慣化された行動について言及しており,状態的な傾向は破られません。物語の導入部は背景情報が提示されることが多いので,通常,静的な状態表現が多いものですが,この短編の前半部ではその度合いがことさら強いのです。

 静かさの印象がもたらされるじゅうぶんな理由が,この作品には備わっているのです。

 さて,こうした静かな状態的描写を地にして「城の崎にて」の前半部が語られます。

(85) 虎斑(とらふ)の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから摩抜(すりぬ)けて出ると、一(ひ)まず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で叮嚀(ていねい)に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直(す)ぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

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 ここでは,第1文の「働いていた」の後は,「下りた」「飛び立つ」「飛んで行く」というように,ハチの活動を示す動的な表現が続きます。それまで止まっていた物語の時間がはじめて流れ出します。

 このあとに続くネズミとイモリのエピソードについても同様のことが言えます。つまり,この作品は,静かな語り口を基調としつつ,語り手の観察を通して小動物の動きが浮かび上がる,そのような体裁になっています。実際,物語の結末近くにおいて,ハチ・ネズミ・イモリの死とともに自分の事故のことが並べて想起されます。この小動物の生死に関わる記述が物語の根幹です。

 ということは,ハチ・ネズミ・イモリの3つのエピソードが順序の置き換えのきかないかたちで互いに結びついていることを示せたら,第62回の (78c) で述べたこの作品のまとまりの良さを物語の本体部分についても証明できる。そう考えました。

 で,3つのエピソードの関係性についてですが,そのお話は再来週になります。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

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【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。


談話研究室にようこそ 第64回 「城の崎にて」のはじまりと終わり(その2)

2013年 10月 24日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第64回 「城の崎にて」のはじまりと終わり(その2)

 「城の崎にて」は次の短い一節で幕を閉じます。

(82)  三週間いて、自分は此処を去った。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。

 前回に見た冒頭の一節((80))と同様,淡々とした記述で,内容も文体も小説の本体部分とは異なります。ともすれば付け足しのようにさえ思われます。実際, (80) と (82) がなくとも「城の崎にて」は短編小説として成立します。

 では,冒頭と終幕の一節はなぜあるのでしょうか。(80) と (82) をはじめと終わりにわざわざ置くことで,作品にどのような効果がもたらされるのでしょうか。

 冒頭では,大丈夫だろうとは断りつつも,語り手に生命の危険があることが告げられます(「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた」)。読者はいわば棘が刺さった状態に置かれます。語り手の生死に関わることが述べられるのに,その結果については何も知らされないからです。

 終幕の一節は,脊椎カリエスにならなかったことを告げて,読者の心に刺さった物語の棘を抜き去ります。冒頭で触れた発病の可能性について終幕で再び言及することによって,この作品はちょうど円環が閉じるように終わるのです。つまり,冒頭と終幕が本体部分を挟み込むことで,作品全体に強いまとまりの感覚がもたらされます。

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 さて,円環と言えば,この作品の要約と終幕による挟み込みの構造は,よくある物語の型を体現しています。「行って帰って来る」物語の構造です。

 「行って帰って来る」物語とは,文字通り,主人公が自分の故郷(ホーム)から旅立ち,主人公にとっての非日常空間での体験を経て帰って来る物語です。始発地点のホームは安定(平衡状態)を象徴します。何らかの事件が起こってこの安定が崩れ,それを取り戻すために主人公は旅立つ。主人公はいくつかの試練を乗り越え安定を取り戻す。そして,主人公は帰郷し物語は幕を閉じる,というのが典型的な筋立てです。

 イザナギが先立った妻イザナミに会いに黄泉の国に行き,朽ち果てた妻の亡がらに恐れを抱き逃げ帰って来る神話は,この「行って帰って来る」話の典型です。浦島太郎だってそうです。(玉手箱の煙は,故郷に戻って来た太郎を竜宮城ではなく現実世界の時間を過ごした場合の年齢に近づけるための仕掛け――物語上の必然――だと思います。)

 この「行って帰って来る」筋立ては,出発点と異動先と到着点が明確なだけに,物語にはっきりとした目標とまとまりを与えます。『ハリー・ポッター』シリーズの1冊1冊が大部になるにもかかわらず子どもがついていける理由のひとつに,ホグワーツ魔法学校に行って帰って来る――そして行った先では慣れ親しんだスクールカレンダーに従って行動する――という分りやすい構造があることが挙げられます。

 『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』だって,日頃のテレビ放送では手短なエピソードでやりくりしていますが,映画になって尺が長くなると,決まってこの「行って帰って来る」形式を採用します。そして,それに呼応するかたちで野比のび太も野原しんのすけもテレビシリーズより勇敢になり,ヒーローの度合いを強めます。

 話を「城の崎にて」に戻しましょう。

 主人公は電車にはねられる大事故のあと,死について考えることが多くなります。「何かしら死に対する親しみが起こっていた」という状況は,30代前半の人物――実際に山手線の事故にあい城崎に赴いた志賀直哉の年齢を単純に当てはめるとそうなります――にとって好ましい安定した状況でしょうか。彼は「死に対する親しみ」を胸に城崎という非日常空間を訪れます。そして,小動物の死に遭遇し,生と死に対する認識を新たにするのです。

(83) そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際の喜びの感じは湧き上っては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。

 (83) の感想を胸に,主人公は城崎を後にします。彼はそれまでの日常の世界に戻り,物語が閉じられます。「行って帰って来る」物語の構造をこの小説と重ね合わせるとき,主人公の城崎での経験は,不安定な現状を打開するための非日常的な行為(冒険)と位置づけられます。つまり,私たちが共有する物語(「行って帰って来る」物語)の枠組みを重ね合わせることで,この小説の本体部分が持つ意味合いが明瞭になるのです。

 小動物の生と死を見つめる。そして,自分の生と死について考え合わせる。この筋立てに対し,行って帰って来ることを記した冒頭と終幕が付け加えられました。その結果,本来は動きの少ない物語に冒険潭の構造が重ね合わることになり,はじめと終わりの感覚が強く印象づけられる。そして,主人公の経験の意味は,心理的に不安定な状態を克服するための試練として,より鮮明に立ち上がってくる。そう考えました。

 「城の崎にて」の冒頭と終幕は余分な付け足しではないと思います。

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『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
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談話研究室にようこそ 第63回 「城の崎にて」のはじまりと終わり

2013年 10月 10日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第63回 「城の崎にて」のはじまりと終わり

 「城の崎にて」は次の一節からはじまります。なお,分析に当たって『志賀直哉全集』(岩波書店)を参照しましたが,ここでの引用は,読みやすさの便を考えて岩波文庫から採りました。ルビは少し減らしてあります。

(80)  山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後(あと)養生に、一人で但馬(たじま)の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢出来たら五週間位いたいものだと考えて来た。

(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)

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 冒頭の文章は,淡々と畳み掛けます。前文の内容を少しずつ重ねながら,次の文に移ります。述語だけ取り上げると,(けがをした養生に)「出掛けた」,(けがをしたから)「と医者にいわれた」,「といわれて、それで来た」,「と考えて来た」。次々にリズムよく重ねられた文章は,ゆっくりと静かに時間が流れる物語本体部分に比べると,あわただしく感じられます。

 城崎での滞在について語る本体部分では,語り手はじっと静かに生と死を見つめます。それとは対照的なこの冒頭(と最後の終幕)の文章は,あたかも城崎へ至るまでの(そして城崎からの)移動(旅行)のあわただしさを表しているかのようです。ここはせかせかとあわただしさが感じられるくらいのほうが,後の静けさが引立つのかもしれません。

 なかでも最初の一文が目を引きます。通常,「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、」というふうに読点で連ねるかたちでひとつの文にするでしょうか。句点でふたつの文に区切るか((81a)),「怪我をした」ことを名詞節のかたちで「(後の)養生」に修飾させる((81b))のが,普通のつなぎ方ではないかと思います。

(80)  a. 跳ね飛ばされて怪我をした。その後養生に、
 b. 跳ね飛ばされて怪我をした(後の)養生に、

 ところが志賀は,「怪我をした、その後養生に」と軽く読点による小休止を置くだけで,次の節(「その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」)をつなぎます。「怪我をした」は形式的には終止形か連体形なのに,文がそこで終わるわけでもなく,体言に連なるわけでもありません。句点と読点の使い分けに厳密な規則は存在しないので,破格とまでは言えないかもしれませんが,通常のつなぎ方からは外れています。

 なぜ,このようなつなぎ方をしたのでしょうか。

 (81a) のように,「跳ね飛ばされて怪我をした。」と句点で文を切ってしまえば印象はどう変わるしょうか。電車に跳ね飛ばされたのなら大事故です。小説とは言え,読者の心はその事件性の大きさに動きます。友人に「電車に跳ね飛ばされたんだ」と言われたら,「えーっ,うそー,ちょっと待ってそれマジで」とあわてふためいた対応にならないでしょうか。それと同じことです。読者の心は,いきなりこの事件に,そしてこの事件のみに奪われてしまいます。

 しかし,電車にはねられて死の危険に直面したことに対する意味付けは,物語中盤のネズミが必死に死を逃れようともがく様子を目撃するところで行われます。だから,事故のてん末や評価については,あらかたの事情を与えるだけで淡々と話を進めてゆきたい。そこで,読点を挟むだけで,やや強引に次の「その後養生に」へとつなぐわけです。読者に有無を言わせぬ展開をするために,ここは句点でなく,読点でなければならないのです。

 他方,(81b) のように,体言のなかに押し込んでしまうと,電車事故のことを(読者にとっては既知の)前提として扱う度合いが強まります。しかし,読者にとって事故のことはまったくの新情報ですので,この言い方もふさわしくありません。

 つまり,第1文は (81a) や (81b) のような形式をとれないのです。第1文のかたちは動かせません。

 「城の崎にて」の冒頭部は,いわば絵画の額縁の部分に当たります。作品全体からすると重要性は低い。しかし,そのような部分にも作者の細やかな注意と意図が息づいています。

 「城の崎にて」の文章と言えば,谷崎潤一郎が『文章読本』でほめたたえたハチの飛翔の記述が有名ですが,この冒頭の文章だってそう簡単にまねできるものではないと思います。

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談話研究室にようこそ 第62回 「城の崎にて」を読む

2013年 9月 26日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第62回 「城の崎にて」を読む

 今回から小説のテクスト分析を行います。志賀直哉の「城の崎にて」です。

 今年の前期,神戸市外国語大学の授業で,アーネスト・ヘミングウェイの短編小説をいくつか談話分析の観点から読みました。テクストを読み取れた感触を受講者に体感してもらうために,まずは英語ではなく,日本語で小説を読もうと考えました。そのとき選んだのが「城の崎にて」です。

 授業を計画している段階では,どのような分析を行えるのか見当が立っていたわけではありません。しかし,やるからには有名な短編のほうがいい,どうせなら思い入れの深い作品のほうが楽しい。そう考えました。

 そこで,山陰地方の温泉地,城崎を舞台にした短編を取り上げることにしました。大渓(おおたに)川沿いの柳並木が美しいところです。私事になりますが,母の故郷でもあります。そして言うまでもなく,「城の崎にて」は志賀直哉の代表的な作品です。

 では,談話研究は小説に対してどのようにアプローチできるでしょうか。

 小説だからといって特別な分析方法があるわけではありません。第5回で述べたように(ずいぶん以前の話ですね),テクスト分析に王道はありません。対象とする特定のテクスト(群)ごとに,どのような特徴をどのような方法で取り上げるのがよいか,個々に考えるほかないのです。

 しかし,何の手がかかりもなくテクストを分析せよと言われても,手の出しようがないですよね。私がテクストを分析するにあたってしばしば用いる指針は,(ごく当たり前のようですが)「テクストを読んだときの印象は,そのテクストのなかの原因によってもたらされる」と「テクスト(もしくは当該ジャンル)で繰り返されることには意味・理由がある」というものです。

 「城の崎にて」から読者はどのような印象を受け取るのか,このテクストでどのようなことが繰り返される(規則性を持っている)のか,まず確認しておきましょう。

 この短編は,ひどい事故にあった「自分」が城崎に湯治に出掛け,そこで遭遇した小動物(ハチ,ネズミ,そしてイモリ)の生死を写実的に描写したものです。

 作者志賀直哉は,「創作余談」(『志賀直哉全集 第6巻』)で以下のように述べています。

『城の崎にて』これも事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、ゐもりの死、皆その時数日間に実際目撃した事だつた。そしてそれから受けた感じは素直に且つ正直に書けたつもりである。所謂心境小説といふものでも余裕から生れた心境ではなかつた。

 この志賀のことばは,読後の直感的な印象にも合致するもので,その後の「城の崎にて」の批評にかなりの影響を与えたようです。しかし,「素直」と「正直」の背後にひっそりと作者の意図や作為が感じられるように思います。この点については以降の回で徐々に触れていくことにします。

 全体の構造は以下の通りです。

(77)  a. 冒頭部
 b. 淋しくも静かな城崎の状況
 c. 蜂との遭遇
 d. 短編「范の犯罪」について
 e. 鼠との遭遇
 f. 揺れる桑の葉の不思議
 g. 蠑螈(イモリ)との遭遇
 h. 終幕

 冒頭部と終幕((77a), (77h))では,城崎に来た経緯と3週間の滞在を終えて帰京したことがそれぞれ伝えられます。前置きと後付けのかたちで本体部分((77b)-(77g))を挟み込んでいます。文体も本体部分とは異なり,少しせかせかした印象を与えます。

 本体部分では,小動物との遭遇が3度繰り返されます((77c), (77e), (77g))。この部分が,本作の中心的なエピソードとなります。そして,「短編「范の犯罪」について」および「揺れる桑の葉の不思議」と題した (77d) と (77f) の部分が幕間として挿入されます。

 テクストのおもだった特徴は,やはり,小動物の生死が3度繰り返されることと,冒頭部と終幕に挟み込まれた構造になっていることでしょう。こういった構造――テクストのかたち――は,読者に与える印象に影響しているようです。

 ちなみに,授業で受講生から聞き取った印象は以下のようなものです。

(78)  a. 静かな感じがする
 b. 語り手はじっと見つめている
 c. 全体のまとまりがよい

 このような印象がテクストのどの部分からもたらされるのかについて,先の構造的特徴にいくらかからめながら考えてみようと思います。

 たとえば,(78c) に挙げたまとまりの印象ですが,これには複数の要因がからんでいます。物語の主要なエピソードの順序がハチ→ネズミ→イモリであって,この順序が動かしがたいことは,明らかにこの作品のまとまりのよさに寄与しています。

 また,冒頭部と終幕による挟み込みの構造は,テクストが終幕の部分で終わるという感覚を植え付け,そこまでのテクストを一まとまりと見なすのに貢献しています。

 次回では,上の挟み込みの構造がどのように読者の印象にかかわるのか,まず考えてみようと思います。

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