
まえがき
「クラシック音楽作品名辞典」という,いささかなじまない名称であったが,本書は1981年の初版以来,予想を上まわる反響を生みだし,広い利用者層の支持を得て,版を重ねてきた。このことは本書が,わが国においてクラシック音楽の需要の実態を的確に反映していることの現れにほかならない。
改訂といっても基本方針の変化はなく,細部の方法論的問題の検討に始まり,不十分と思われる箇所の補強,誤りの訂正など,本来解決していなければならない部分である。そうしたなかで新資料によるできるかぎりのデータ・チェックを行った。キリスト教会の音楽作品名の統一訳,ギリシア・ローマ神話,また古典の人物の呼称の統一などは今後に問題を残したことの一つである。
それに比べると,新たに加えた作曲家と作品は,クラシック音楽の動向を知るうえで興味ある部分であろう。選択の基準は,初版と同じくあくまで日本国内において作品が鑑賞される頻度の高い作曲家,または音楽史的意味のある作品にしぼられる。その際根拠にするのは,筆者が1940年からメモを始めた作曲家・作品に関するるデータ集であった。追加した作曲家は87名で,現存する36名と,ごく最近まで活躍した数名だけで半数に近い。その他は各時代に散在している。これに対して削除したのは58名であった。削除の条件は,初版から現在までの15年間に日本でほとんど話題にならなかった人と考えてよい。ちなみに本辞典掲載の作曲家で最も古い人はトゥオティロ(850??915),最も新しい人はG.ベンジャミン(1960生)である。
改訂版の作曲家は1240人,作品名総数約43.900(歌劇などの題名と曲中の主要曲は重複して数える)。これらの中で全作品を収録した作曲家は61名,それに準ずるもの26名であるが,編曲もの,未完のもの,未出版のものは,全作品から除外して考えた。
作品名は原綴主義に基づき,可能な限り作曲者の母国語による表記に従い,日本語対訳を紹介した。国籍変更など母国語が複数になったときは,適宜どちらかを選んでよいが,楽譜が最初から外国語で出版されているときはそれを優先している。本書ではギリシア文字(ローマナイズされたものを含む),非ヨーロッパ系文字以外は原綴を原則としており,19の言語を用いた。
原綴主義については,さまざまな疑問が残る。マイナーな言語は発音もわかりにくく,誤植もおこりやすい。世界の有名な音楽辞典でも,母国語表記は「」内の表題的な部分に限られ,一般的な音楽用語は出版国の言語に置き換えられている。これも一つの解決法だろう。しかし本辞典ではなるべく原綴を用いた。もちろん原綴主義を貫くことはできなかったが,無駄ではなかったと思っている。
音楽史の上で,ひとたびは忘れられた作品の発掘や,演奏形態の復活は,第2次大戦後に起こったバロック・ブーム,それにつづく古楽器ブームをきっかけとして,いまやあらゆる時代の音楽に普及しつつある。鑑賞のレパートリーを限られた名作に閉じ込める傾向は,過去のものとなった。作品を個々断片的に受けとる趣味的段階から脱して,より深く系統的・総体的に理解することが求められているとき,作曲家と作品に関する情報の把握と整理は必須である。本書の存在意義もそこに見いだすことがでる。
今回の執筆に際しては,内外の音楽辞典,研究書,作品目録,音楽雑誌,楽譜,楽譜カタログ,レコード・カタログ,プログラム解説,レコード解説等を参考文献に使用したが,放送から得たデータも活用している。
最後に日本の作品を含めなかったことの弁明をしておきたい。日本人の作曲家と作品を採用する構想は最初からあり,改訂版の課題でもあった。しかし昨今の日本人の活躍はますます目ざましいものがあり,外国人と同等の基準で選ぶとすれば,明治以来150名の作曲家が必要となり,本辞典の一隅に納めるにはふさわしくないと判断したためである。
初版は試行錯誤の末に形をなしたもので,その痕跡が至るところにあるのを感じたが,それにつけても初段階でNHK資料を活用するために協力をいただいた上法茂氏,各国語を駆使して日本語訳の点検にあたられた都立大学の秦宏一氏の労を改めてねぎらいたい気持ちだ。
三省堂の編集部では前回に引き続き横山民子氏が担当の中心となって進めていただいた。前出版部長の鈴木耕治氏の激励,また校正者をはじめ直接・間接に関わりあった方々に謝意を表する次第である。
1996年 10月 10日