辞書は、誰にも平等に開かれている、語彙を獲得するための「社会装置」である。だが、辞書が単に存在すれば良いわけではない。たとえば、大辞林の「増加」の項目をひくと「数量がふえること。ふやすこと。」とある。単に「ふえる」ではなく、「数量が」という条件に目を留める必要がある。体重は数量だから「体重が増加した」とは言えるが、体温は「量」ではないので増加しない。これが辞書を使いこなすための基本的な「読解力」だ。変化の多い時代にこそ、欠くことのできない生き抜く力だと言えるだろう。
言葉の理解とはイメージできることだ。例えば「椎の実筆」が歴史上、実在しても想像できねば、その道具は人類の意識から消える。『大辞林』はイラストが多い。言葉と絵で徹底して、用語・概念を「見える化」している。人類は言葉で世界を脳内に存在させている。良い辞書を読めば、自室が広くなるように脳内世界が広がるわけである。ただ、淮南子に「蒼頡が文字を作ると、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」とあるように、文字や辞書は人を豊かにするが、イメージや意味の固定でもあり、絶対視すると、神秘の鬼が泣く。辞書を自由なイメージを開く窓として使いたい。
あらゆる生きものの中で人間だけが、言葉を使うという孤独な道を選んだ。孤独と引き換えに、物語を生み出し、困難な人生を少しでも心豊かなものにしようとしてきた。言葉には人間の歴史が地層となって詰まっている。地層はあまりにも奥が深い。そこを探索する時、道しるべとなってくれるのが『大辞林』である。国語の辞書を一冊持つことは、決して消えない灯りを手にしているのと等しい。その灯りは言葉の秘密を照らしてくれる。
ずっと、大辞林の第三版を使っています。13年ぶりに改訂されて第四版が出るという知らせ。じつに楽しみです。大辞林はとても収録語が多くて、今回、どんな言葉が入り、どんな言葉が抜けたのかとても興味があります。大辞林が切り取る現代を早く知りたくて、ワクワクしています。
本屋大賞受賞作となった私の小説『かがみの孤城』は、実は当初、『かがみの城』というタイトルになる予定でした。しかし、担当編集者から「〝孤城〟はどうでしょうか?」と提案されました。
「孤城」。あまり聞き覚えのない言葉だと思っていると、彼女が『大辞林』のページを示してくれました。
①ただ一つだけぽつんと立っている城。
②敵軍に囲まれ、援軍の来るあてもない城。
その文章を見た途端、「孤城」の中で闘う主人公たちのイメージが、物語に翼を得たように広がっていきました。
その時の『大辞林』は、私にとって、未知なる世界の扉であり、広大な言葉が待つ深く豊かな森でした。皆さんにも、ぜひ『大辞林』から、言葉の冒険への扉を開いてもらえたらと思います。
わたしたちの少年時代には辞書と言えば『廣辭林』だったので、学校の授業もない日々に『廣辭林』を読むことが唯一の楽しみとなった。だから『廣辭林』のことばはわたしを産み育ててくれた母のことばとして、いま体内に深く横たわっている。その後は『大辞林』のことばがわたしを多くの活動に導いてくれた。いわば父のことばとして。そしていま、令和の新版が登場するという。円熟に導いてくれる普遍のことばとの出会いを、わたしは心待ちにしている。
人間にとって一番大事なことは「自分は何も知らない」ということを自覚することだ。この自覚が人を謙虚にし、自分の周りのすべての自然・人・物から学ぼうという気持ちにさせる。無知の「知」が人を限りなく成長させてくれる。 学ぼうと思えば「情報」が容易に手に入る時代になっただけに、人間にとり、本、雑誌、新聞、ネットなどから得た「情報」は、断片的なものだと自覚することだろう。「情報」は「考える」ことで有機的に結合され、初めて「知」になる。「情報」を伝える言葉の意味を正しく理解することが必要で『大辞林』はその期待に応えてくれる辞書だ。