2021年6月、三省堂創業140周年記念企画として山根貞男編『日本映画作品大事典』が刊行される。本事典の成立事情や特徴をめぐって、編者である映画評論家の山根貞男氏と、編集協力者・原稿執筆者の一人で国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則氏に対談していただいた(対談日2021年3月15日、三省堂本社にて)。
なお、この対談は、「図書新聞」掲載記事として立案され、2021年4月24日発行の同紙3493号に「映画をいかに捉えるか」と題して掲載された。以下は、紙幅の都合で掲載紙に盛り込めなかった部分も加えて、新たにウェブサイト用に再編集したものである。再編集と転載を快諾していただいた「図書新聞」に感謝申し上げる。
岡田 本事典の企画は、今を去ること22年前の1999年に立ち上がりました。まずは、その長きにわたる編集作業を終えての感想をお聞かせください。
山根 まさか22年もかかるとは思わなかった、というのが心底正直な感想です。企画が動きはじめたときは長くても4、5年でできるだろうと漠然と思っていたのですが、ずるずると延びてしまった。今になって思えばこれが僕の誤算のはじまりです。それでもなんとか完成できたので、本当によくやったという達成感はありますね。注1
【注1】
三省堂編集部の編集者が初めて山根貞男氏と面談したのは、1998年の11月のことであった(正式の企画立案および編集開始は翌1999年)。その日の出来事を山根氏は、連載中の「日本映画時評」に下記の通り書き留めている。この時点における山根氏および編集部の目論見では、「三年がかり」で本事典は刊行されるはずであった。
十一月某日……関本郁夫『残俠』、高橋伴明『大いなる完 ぼんの』の試写を見る。夜、グラフィックデザイナーの鈴木一誌とともに出版社の編集者と会い、三年がかりで挑む新企画の打合せ。むろん映画関係書なので、あとの酒席では映画状況論が沸騰、ふたりの話に刺激を受ける。
(山根貞男『日本映画時評集成1990-1999』p.363、国書刊行会、2018年。初出:「日本映画時評」第132回「初冬の映画日誌」、『キネマ旬報』1999年1月下旬号)
岡田 世界的な映画大国である日本のことですから、対象のボリュームが非常に大きいわけですが、当初はどういった構想を立てていましたか。
山根 三省堂から映画事典をつくりたいから協力してほしいという話をもらったとき、やはりまず、100年を超える日本映画史をどのように本のかたちでまとめようかと考えました。作品を五十音順に並べるのは巻末の索引に任せ、本文では監督の五十音順にすることは早くに決まったのですが、問題は何巻にするか。
例えば五十音順で多巻本にするとか、あるいは戦前、戦後に分けて2巻本にするとかいう案もありましたが、僕としてはどうしても1冊でまとめたいという思いが強くありました。1冊となると内容的にはかなり圧縮したものにならざるを得ないことはわかっていましたが、全何巻などで構成された映画事典など読んでくれる人がいるのか、研究者しか手に取らないのではないか、という懸念があって、それよりももっと多くの方に読んでもらえるようにしたかったわけです。
ところで、岡田さんは、今回の事典についてかなり早い段階で三省堂から相談があったそうですね。
岡田 はい、私は1998年の時点で山根さんを編者にする事典という構想を三省堂側からお聞きしていました。そして、私も編者を山根さんにされるという案に賛同しました。
山根 その話は僕もあとから知りました。企画初期の段階では、本事典を編む際に編集委員会みたいなものをつくりましたが、そこに岡田さんも入ってもらいました。そのメンバー数人で話し合うことで事典としてのかたちが整えられていったので、僕一人では到底できない仕事だったと思います。
岡田 山根さんは映画評論家と編集者という2つの顔をお持ちですので、本事典の編者として最適なのではと感じました。「良い」映画とはなにかを考える一方で、この事典は「すべての」映画について考える必要がありますから。
山根 ありがとうございます(笑)。実は以前、フリーの編集者として僕が何年間か関わってきた仕事は百科事典なんですよ。そのときは生活のための仕事として、映画だけでなく文学や演劇など幅広く手がけましたが、本事典を編む際にこの経験がとても活きたと思います。
岡田 三省堂が最初に私に相談をされたのは、私の職場である国立映画アーカイブ(当時は東京国立近代美術館フィルムセンター)が日本映画全体の情報を持っているのではないかと考えていたからだと思います。たしかに、国のフィルムアーカイブが為すべき一般的な責務のひとつとして一国の全映画リスト、つまり「ナショナル・フィルモグラフィー」を編むことがありますが、世界的に見ればそれができない国は多い。特に日本のように映画産業が豊かすぎた国では非常に難しく、もちろんフィルムセンターにもそんなことをする体力はありません。この事典企画はそういったスタート地点からはじまったので、これぞアーカイバルなタスクだと思えましたね。
山根 本事典の完成までに、これほど長い年月を要したのは、映画というものが非常に捉えどころのないものであったからだと思います。例えば文学ならば書籍というかたちでぴしっと捉えることができますが、映画だとフィルムが残っていないケースが圧倒的に多い。そうなると、その穴を埋める作業にどのように取り組めばいいのか、考えざるを得なくなってくる。
日本は映画先進国であるにもかかわらず、かつてはフィルムアーカイブが存在しておらず、国立のフィルムセンターができたのも1970年ですから、かなり遅れています。かつては今以上に単なる商品としてつくられ、封切られ、その後消えていく運命にあった映画をどうやって一冊の事典に収めていくか――本企画に取り組んで10年ぐらい経ってからそうした映画アーカイブの事情を把握して、当初はすぐに完成できるだろうと予想していた自分の考えが本当に甘かったと思いましたね。
岡田 私もフィルムアーカイブの仕事に関わるなかで、映画はそれ自体が絶えず流転するものであり、全体が巨大な生き物だと感じるときがあります。映画というのは技術も公開のかたちもしばしば変わるので、いつも過渡期にあると言えます。そうした流転のダイナミズムも捉えなければなりません。ただそこは重要なのですが、実際に取りかかるとなると難しい。
山根 特に現在は映画館だけではなく、テレビやDVD、ネット配信などで映画が見られるようになっている。これもまた、流転の一形態ですね。そういった社会の移り変わり、テクノロジーの進化によって作品と観客との関係までどんどん変わっていくなか、どうやって流動体である映画というものを定義していくか悪戦苦闘しました。
岡田 いわゆる「プログラム・ピクチャー」と呼ばれる低予算娯楽作は、その一本一本が有名な大作ではなくても、日本映画の伝統として確実に存在している。本事典は一部の著名作品だけに光を当てるのではなく、忘れ去られた小さな娯楽映画をも救い上げる役割を担っていると言えます。
実際、名画座で古い映画が特集されることはあっても、すべての映画が見られる環境からは程遠い状態が続いています。仮にフィルムが残っている映画であっても、上映用のポジフィルムがなければ、その映画は見られません。理想としては、映画会社が持っているネガフィルムからポジフィルムを起こして、フィルムが残っているすべての映画を見られるようにしたいわけですが、費用の問題もあって、それは夢のまた夢です。そのような現状において、一つでも多くの映画を、せめて文字の上だけでも忘却の淵から救済する役割を、この事典は果たしているような気がします。
山根 先ほど僕はこの事典を1巻本にしたいと言いましたが、もうひとつ構想していたのは、どの映画についても内容がわかる事典にしたかったということです。
僕も映画評論家として昔の映画について文章を書くときに過去の資料に当たることがあるのですが、一般娯楽映画についてはあまり記録が残っていません。昔、キネマ旬報社から出た『日本映画作品大鑑』がありますが、作品名とスタッフの記述があっても内容まではほとんど書かれていない。例えば、「時代劇」という記述はあっても、それだけではどんな内容なのか――チャンバラ映画といっても、お家騒動なのか、仇討ちものなのか、股旅ものなのか――想像することができません。
だからこそ、本事典ではそういった場合、どういう「時代劇」なのかを一言付け加えようとしましたが、実際にやってみるとものすごく大変な作業でしたね。1巻本の事典なので、1作について詳細に書いてしまうと膨大な作品数を収録することができなくなりますから、最低限の分量のなかでどこまで書くことができるか、執筆者にもその点は特にご苦労いただきました。注2
【注2】
作品ごとにランクを決め、解説字数の指定をしたのは、山根貞男氏である。その作業の前提として、字数によって、どの程度の内容を盛り込むことができるのかを確かめるため、同一作品の解説を字数によって書き分けるテスト原稿を作成した。以下に掲げるのは、加藤泰監督作品『沓掛時次郎 遊俠一匹』(1966年)の例である(出演者は、中村錦之助、池内淳子、東千代之介、渥美清、岡崎二朗、清川虹子、など)。
このテスト原稿を作成した時点では、最低解説字数を20字と規定していたのだが、多くの作品解説を20字で試みた結果、この字数では最低限の解説すら困難であることが判明し、最低解説字数を40字に変更した。それ以外の字数設定や書式についてもテスト執筆時のものであり、最終的な形とは異なる。テスト原稿も完成原稿も、執筆者は山根貞男氏。
●20字
やくざと彼の斬った男の妻子との旅を描く時代劇。
●60字
流れ者のやくざが渡世の掟で斬った男の妻子とともに旅をする。その間の屈折した心情をやくざ稼業の苦渋に重ねて描く股旅時代劇。
●100字
一匹狼のやくざが渡世の掟で斬った男の妻子とともに旅をするうち、愛の煩悶が生じ、やくざ稼業の苦渋が深まる。そんな心の揺れを情感豊かに描く股旅時代劇。東映の主流が時代劇から任俠映画へ移った後に製作された。
●200字
やくざ渡世に生きる男の心の揺れを情感豊かに描く時代劇で、加藤泰の代表作の一本とされる。一匹狼の時次郎は一宿一飯の掟で心ならずも斬った男から頼まれ、彼の妻子を連れて彼女の故郷へ向かう。旅の中、3人の心は通じ合うが、愛の煩悶も生じ、やくざ稼業の苦渋が深まる。時次郎が自らに禁じた慕情を宿の女将に語る長回しのシーンが名高い。東映の主流が時代劇から任俠映画へ移った後に製作され、戦後股旅映画の一頂点と見なされる。
●300字
やくざ渡世に生きる男の心の揺れを情感豊かに描く時代劇で、加藤泰の代表作の一本とされる。一匹狼の時次郎(中村)は一宿一飯の掟で心ならずも斬った三蔵(東)から頼まれ、彼の妻おきぬ(池内)と幼子を連れて彼女の故郷へ向かう。旅の中、3人の心は通じ合うが、時次郎とおきぬに愛の煩悶が生じ、やくざ稼業の苦渋が深まる。やくざ社会を信じて惨殺される朝吉(渥美)の話(原作にはない)が冒頭に加わったことで、時次郎の渡世への憎悪が際立つ。彼が自らに禁じた慕情を宿の女将に語る長回しのシーンが名高い。長谷川伸の戯曲8度目の映画化。東映の主流が時代劇から任俠映画へ移った後に製作され、戦後股旅映画の一頂点と見なされる。
●完成原稿 360字(事典に掲載された作品解説)
やくざの時次郎(中村)を兄貴と慕う朝吉(渥美)が、やくざ渡世の作法に従ったが故に惨殺される。時次郎も渡世の掟のため縁も恨みもない三蔵(東)を斬り、三蔵の遺言で彼の妻子、おきぬ(池内)と太郎吉を連れ、彼女の故郷へ向かう。追っ手が迫る旅の中、時次郎とおきぬの心は通い合うが、母子は姿を消す。再会した時、おきぬは重病で、時次郎は薬代のため助っ人稼業に戻るが、おきぬは死ぬ。戯曲「沓掛時次郎」8度目の映画化。原作にはない朝吉の挿話が、やくざになるしかなかった農民の悲哀を描き、農民からやくざに転じるおきぬの甥の姿に連なる。おきぬが時次郎に柿を手渡す渡し舟の場面、時次郎が旅籠の女将に自分と母子の関係を友達の話として語り、叶わぬ愛の苦しみを洩らす場面が名高い。任俠映画の全盛期に加藤と中村の時代劇への情熱が結実した股旅時代劇。
岡田 本事典の解説の最低文字数は40字でしたね。基本として200字、120字、80字ですが、重要な作品では最大で400~600字程度のときもあります。そのなかでも本事典のひとつの意義は、やはりこの40字解説を残したことにあると言えるでしょう。どんなに忘れられた映画でもそれぞれの物語があるということを、たとえ40字でもいいから示す、そこにこの事典の迫力があるのです。
私も仕事で映画の解説を書くことがありますが、4,000字でも400字でも40字でも、指定された字数に合わせて書くのがプロの仕事です。だから、40字で解説を書くことの難しさはわかっていますが、それでも妥協せずに作品解説を収録しようとしたことには、小さい映画も決して忘れるなという強い思いを感じました。
山根 ただ、題名でさえ確定できない映画も多いのには驚きました。それから、製作会社の名前のほか、世界の地名とか実在の人物の名前とか、限られた字数のなかでは長いものが多い。「ニュージーランド」なんて、これだけで8字ですから、40字項目ではあと32字しかない(笑)。
岡田 映画は固有名詞の大海原ですからね。多くの人間が寄り集まってつくるだけでなく、題名があり、プロダクションがあり……題名も宣伝されている題名と実際の映画フィルムで出てくる題名が異なるなど、しばしば表記が一致しません。それにすべて対処しなければならないのは本当に気が遠くなります。
山根 そうですね。題名の不統一についても困ったことがあって、例えば前田陽一の監督作品に『喜劇 あゝ軍歌』というのがあります。僕を含めて、皆がこの題名で認識していると思いますが、実際のフィルムには「喜劇」の文字はないのです。小さな違いだと感じるかもしれませんが、『あゝ軍歌』では事典の索引に記す際に「あ」行に回さなくてはいけない。
この表記に気づいたのは国立映画アーカイブのリストを見たときですが、国立映画アーカイブでは実際の映画の画面から題名を取るようにしていますよね。
岡田 はい、データベース導入後はフィルム上の題名を優先するのが基本です。
山根 それで助かったのですが、実は製作した松竹の社史でも『喜劇 あゝ軍歌』となっている(笑)。とはいえ、これは松竹に限った話ではありませんし、社史を作成した人がいい加減だったわけでもなくて、映画の製作過程においてこうした問題が生じたのではないかと考えています。製作段階では「喜劇」がついていた可能性があって、完成して上映されるまでのあいだにそれがとれてしまったのかもしれない。
僕らがこの事典をつくるときに一番参考にしたのは『キネマ旬報』ですが、ここでも間違いが多く見られるのも、最初に映画会社が発表した広報資料を基として作品情報を作成しているからだと思います。あるいは、マキノ雅弘のように台本ができているにもかかわらずどんどん内容を変えていき、しまいには結末まで最初のものと違ってしまう場合もありますから、本事典をつくるときにそうした映画の製作過程の融通無碍さに足を引っ張られましたね。
岡田 日本では、典拠にできる基礎的な映画情報は、『キネマ旬報』のような業界を基盤にしたジャーナリズムに頼ってきました。同誌が作成した『日本映画作品大鑑』など、そうした情報を集約したものを長いあいだ活用してきましたね。しかし『キネマ旬報』でも号を改めると新たな情報が入って内容が変わることもありますし、映画会社の都合でタイトルが変更になることさえある。どこに頼ったらいいか迷うことも頻繁です。
山根 岡田さんとしては、戦前の映画でフィルムがないものはなにを典拠としていますか。
岡田 戦前でもやはり『キネマ旬報』の作品紹介記事が中心になりますし、それでも難しい場合は他の映画雑誌を追っかけるしかないですね。最近では、公開日情報などは各映画館が出していたプログラムが運良く見つかれば、参考にすることもあります。
山根 封切日も資料によって異なる。1920年代、30年代は関西の映画会社も多くて、『キネマ旬報』にまず載るのが東京の封切日なのに対し、関西で東京よりも先んじて上映したりしています。これは今回の事典編集に関わるまで気づきませんでしたが、本事典では新聞広告で確認できたものはできる限りその日に統一しました。
そういう意味で、本事典は今までの映画事典類よりも多くの資料を踏まえていますが、それでも「これが正しい」と断言することができないのは残念です。映画とはそういう生き物なんだ、としか言えませんよね。
岡田 逆に言うと、この事典は、そうした典拠先の比較という問題に初めて本格的に直面した作品事典だと考えることができます。それはたぶん、初めて日本映画史の総体を「かたまり」として相手にしたからでしょう。そして、本事典の刊行には、日本映画の基礎情報がいまだに整備されていないということを、映画に関心を持つ人々にリマインドする意味合いもあるかもしれません。
ところで、映画作品のスタッフの記載について、国立映画アーカイブでは上映プログラムをつくる際に、通常の劇映画ならば、監督・原作・脚本・撮影・美術・音楽・出演者という7種を表記していますが、本事典でもその表記を踏襲していますよね。
山根 スタッフは列挙しだしたら切りがありませんし、事典のボリュームに上限がありますから。照明、録音、編集などの仕事を軽んじるわけではないのですが、これ以上付け加えるのは難しかったですね。
もっとも困ったのはキャストです。人数としては最低でも4人は入れたいと思っていましたが、主人公の身辺でも両親やその友人などどんどん増えていきますのでこちらも切りがない。特にシリーズものでは困難を極めました。例えば『男はつらいよ』シリーズの一本ならば、当然「寅さん」である渥美清がキャストの最初に来るとして、次に浅丘ルリ子などのマドンナ、では次は誰になるか……レギュラー陣を考慮して寅さんの妹「さくら」である倍賞千恵子は入れても、じゃあ「おいちゃん」役は……(笑)。
このあたり、フィルムアーカイブではどうしていますか。
岡田 上映プログラム欄の枠に入る限り入れていると思います。それこそ数人から十数人ぐらいでしょうか。
山根 たくさん入れるに越したことはないのですが、やはり文字数の制限がありますからね。かつてオールスター映画というものがありましたが、キャストをどう取捨選択するのか、これにも困りました。
それから、近年、多くの映画が製作委員会方式でつくられていますね。製作会社名として、かつてなら「東宝」とか「松竹」とか2文字で済んだのが、今では数社どころか十何社の名前を列記する必要がある。しかもカタカナ名が多い(笑)。製作委員会を構成する個別の社名がわからない場合も多く、できる限り調べはしましたが、それでも確認しがたい場合は「○○製作委員会」としました。
そういった細かいことに大いに悩まされましたが、実際に悩んだのは僕というより編集部の方だったかもしれません。
岡田 ある一本の映画を限定された文字数で記述する難しさを凝縮したような事典になっていますね。
岡田 事典の企画から完成までかなりの年数がかかったわけですが、このタイミングで事典をつくったことならではの背景もあると思います。例えばインターネットの恩恵です。今ではネット上に映画データベースがいくつもありますが、編集作業の始まりのころには、Y.Nomuraさんという方がたった一人で築き上げた先駆的なデータベース「日本映画データベース」もある程度役に立ったと聞いています。
山根 「日本映画データベース」の情報は主に『キネマ旬報』や製作会社の社史に準拠していて、そのサイト独自の情報というものは少ないかもしれませんが、あれだけ細かく整理されているものは他にはないでしょう。それから東宝、日活など映画会社各社でもデータベースが作成されていて、少しは間違っている箇所があっても、そうした情報源が増えてきたのはすごくありがたかった。特にこの10年間――編集過程のほぼ後半――はその恩恵を被っていないとは言えません。
本事典の執筆者についても触れておきますと、編集担当として僕よりも若い人たちにお願いするようにしました――企画当初は若いと思っていた人が中年になっているわけですが(笑)。例外は蓮實重彦さん。どうしても蓮實さんにお願いしたい項目があったからです――それは「小津安二郎」でした。実のところ、そうした事例は他にもあって、結局は承諾が得られなかった方もいますが、それでも基本的に次の世代の評論家、研究者に執筆してもらおうと考えていましたし、執筆者にもほぼ全員に直接会いました。というのも、百科事典の編集経験者として、事典項目の執筆にともなう苦労を知っているからです。
岡田 かつてならば映画の業界筋の執筆者が多くいたと思いますが、今では学術研究者が広く関わっているように思えます。
山根 たしかにそうですね。かつては映画についての文章を書くとなると、まず映画ジャーナリストが中心で、一般的な映画雑誌を主な活動の場としていた。それから新聞の映画評があって、各新聞社に映画記者がいましたが、こういった方が本事典の執筆者としてそれほど多くは関わっていないのを見ると、ご指摘のとおり学術分野で活躍している研究者が増えたということになるでしょうね。映画学校だけでなく、映画を学べる大学もかなり増えてきたことも関係しているかもしれません。
岡田 また、本事典では三省堂の編集部の方も執筆に携わっています。しかも作業的にいちばん地味で難しいところを背負われている。
山根 それは限られた文字数で解説することの難しさともつながりますが、研究者だとどうしても少ない文字数であらすじを紹介することに慣れていないし、こちらとしても40字で説明する作業をその方々にお願いしがたい。ならば、ここはむしろ事典編集のプロに書いてもらったほうが早く的確だと判断しました。編集部が担当した作品項目は全体の3割弱ですが、もちろんそうした文章も僕や他の校閲者の目を通しています。
岡田 他の分野とは違って、映画の作品事典は、フィルムが失われている映画についても記述しなければならず、フィルムは残っているかもしれないけれど見ることができない映画についても記述しなければならない。いわば、「現物の不在と闘う」という局面が常につきまとい、そこを文献によってどうにか埋めていく難しさに直面されたと思います。とはいえ、文献学的な精緻さが最終目的地でもない。
この事典の「まえがき」で山根さんは「本事典は映画の文献学を志したものではなく、〔中略〕映画それ自体の輝きを文字として定着し、映画を愛するすべての人に届けるための基礎過程に過ぎない」と書いています。これは本事典のキーワードであり、山根さんの宣言にも思えます。
山根 僕は映画評論を書いていますが、映画を評論する際は山根がどう感じ、どのように考えたかを踏まえて執筆するわけですが、本事典ではそうした立場から離れて、昔の映画についての記録を文字として定着させようとしています。ならば今回の仕事は文献学に過ぎないのかと言われたら、やはりそういうわけでもない。この微妙な立ち位置の違いを説明することは難しいところですが、執筆者並びに編集者の方々にも苦労をかけてものすごくエネルギーを費やした本事典でさえも、僕自身は決定版だと言うことができない。本事典もまた次の事典を予感させるような、過渡的な一冊だと思っています。
岡田 映画そのものは「永遠の過渡期」を生きるもので、いつ編纂すべきかという判断は難しいでしょうが、やはり今ここで刊行すべき理由もあるのではないでしょうか。使命感というか、危機感というか、そういうものはあったのでしょうか。
山根 それほど大げさな理由はありませんが、僕が最初に本事典の企画を受けたのは59歳のころでした。最初に刊行まで4、5年でできるだろうと考えたのは、60歳半ばでこの仕事を終わらせたかったからですが、結局は齢80を超えてしまった(笑)。そのあいだも映画評論を書きつづけるなか、現代の日本映画に対して思うところがあり、どの作品も一所懸命つくっているのはわかるけれども、では過去の作品をどれだけ知っているのか、と考えることがあります。
最近、名画座で相米慎二全作品が上映されて若い観客に受けていると聞きましたが、こうした20代、30代の古い映画に対する関心を“点”で終わらせずに、なんとかもう少し以前の映画へ、さらにもっと以前の映画へと広げていきたいと思っていました。一方で、若い研究者たちによって昨今、野村芳太郎や渋谷実、川島雄三作品に関する論集が刊行されているのはとてもうれしいことですね。
このように、この20年のあいだに自分自身が抱えていた危機感に応えるものとして、本事典の刊行があったのだと考えることもできるかもしれません。
岡田 やはり映画史が長くなるにつれて作品の情報も圧倒的に増えてきますので、それを継承することが難しくなってきます。だからこそ、そのように関心の対象が広がっているように、この事典も、一部の特権化された映画作家だけが顕彰されて、それ以外の人たちの業績がなかったとされてしまうことへの抵抗の意味合いもあるのではないでしょうか。忘れられた映画にも物語というものが一つ一つあり、その総体である日本映画というものが社会全体の財産だということを常に意識させる役割を、この事典は担っていると思います。現代の読者に向けて、それまでの映画総体に対する視線が細くならないよう警告していると言い換えてもいいでしょう。その意味で、本事典が調べるためだけでなく、読める事典にもなっていることは大きな意味を持っています。
山根 事典というのはもちろん知りたいことを調べるためにありますが、本事典はそれ以外にも新たな発見が期待できるつくりになっていると思います。例えば、巻末に「シリー名五十音順索引」もつけていますが、これほどシリーズものを並べた事典は他にないでしょう。映画では人気のあるものはほとんどシリーズ化されていますから、大衆娯楽としての映画の核心を突いたつくりを心がけたのです。
岡田 単体としての作品だけが記憶され、シリーズ全体が意識されなくなったシリーズもたくさんありますから、映画における「シリーズ」というものを改めて視線の先に浮かび上がらせる役目を、この索引は担うでしょうね。そもそも、このページは見ているだけで大変楽しいです。
山根 「仁義なき戦い」や「男はつらいよ」といった有名なシリーズは、書籍やネットなどで簡単に調べられます。けれども、それ以外のシリーズを含めて、ここまで細かくシリーズが載っているものは、ほかにないと思います。シリーズ索引を作る際にも大切にしたのが、重要だと思われるシリーズだけを掲載するのではなく、取捨選択をしないという姿勢です。この事典では、3作以上の連作を「シリーズ」として扱うことにしたのですが、「シリーズ名五十音順索引」には本文で「シリーズ」として表示したものをすべて掲載しています。その結果、他の資料にはない索引ができたと思います。
[編集部]
冒頭、岡田さんから「山根さんには映画評論家と編集者という2つの顔がある」という発言がありましたが、映画批評と映画事典編纂の違い、それぞれの役割などについて、この事典の編集を進めるなかで感じられたことがあれば、最後にお聞かせ下さい。
山根 映画批評は、いま書くとすれば、扱う対象が新作であれ昔の映画であれ、書き手が2021年の現在時点において考えたことを書くわけですよね。そのこと自体は別に間違いではなく、僕も映画評論家として同じことをやっています。けれども、今回の仕事の場合、例えば50年前の公開直後に書かれた映画批評があるとして、それを参考にしながら事典の項目が執筆できるかと言えば、そうではない。下手をすれば足をすくわれかねない。というのは、その50年前の批評は、その時点の筆者の感性や思想に基づいて書かれており、その当時の時代状況というものが、その筆者が意識する、しないにかかわらず、必ず関わっているからです。それは今、僕が映画批評を書く場合もまったく同様なわけで、批評は常に同時代性に縛られてしまう。
かつて蓮實重彦さんが、僕と公開の場でトークをしたときに、「同時代の映画批評というものは信頼すべきでない」と言い切ったことがあります。あの人も今の時代に映画批評を書いている人なのですが、その人がそう言うわけです。昔の批評を読むときに、いつもそのことに引っかかる。同時にこの問題は、いま僕が批評を書く際にとても重要なことだと思っているわけです。
けれども、事典は、同時代性を超えなければならない、同時代性から抜け出さなくてはならない。これが大変なことで、それは自分が批評を書く人間だからこそ、この事典の編集過程において、いつも痛感してきたことです。現在と、過去の同時代性との格闘と言ってもよいかもしれません。
岡田 「映画には《現在》しかない」という言い方もできるわけで、その蓄積が歴史になっていくのですが、一方で、その時、その時につくられてきたものを追いかけることでしか映画史は成立しない、それが怖いところです。現在も続いているのに、事典の編集も続けていかなければならない怖さといったものが、この事典の編集過程には必ずあったのではないかと推測します。まさに忍耐と怖さを克服した産物で、映画文献史上に残る労作です。
(了)