
『コンサイス日本地名事典 第4版』
(自著自讃「ぶっくれっと」134号より)
谷岡武雄(たにおか・たけお 立命館大学名誉教授)
大橋は1メートル伸びていた。
なぜ、それは大地震が起こったからだ。
1998年4月5日、「夢の架け橋」といわれる明石海峡大橋の建設工事が遂に完成し、神戸淡路鳴門自動車道(本州四国連絡道路、神戸・鳴門ルート)が開通した。この架橋工事は1988年5月の着工以来、完成までにちょうど10年を必要とした。1985年6月から供用が開始されていた大鳴門橋とともに、本州と四国とは淡路島を中継ぎとして陸続きとなるに至った。一日平均(4〜10月平均)28,232台の各種車両が大橋を通行しており、早くも神戸市は一年間に199万人の観光客の増加と333億円の経済効果を試算している(朝日新聞11月5日号)。
すごいことだなあーと思って『コンサイス日本地名事典 第4版』を引いてみる。同書の『第3版』明石海峡の項では、「本州・四国連絡の明石架橋計画が進行」との簡単な説明にとどまっていたが、『第4版』では「明石海峡大橋」が新項目として取りあげられ、9行にわたって説明されている。その中に、おやと思う箇所がある。
それは二つの主塔を結ぶケーブルで支えられる橋桁の長さ(中央支間長)が、既出版の資料類では1990メートルと書かれているのに対し、『第4版』では1991メートルとあって、1メートル長い。これは1995年1月17日早朝、突然の阪神・淡路大地震を引き起こした野島断層が、5キロほど東の方を通っていたことからくる1メートルの主塔のずれによるものである。なお、野島断層については、水田の畦畔・水路や宅地の生垣のずれた様子、および地層のずれ方を見せてくれる「野島断層保存館」が、1998年4月2日、北淡町の野島地区にオープンした。『第4版』の野島や北淡町の項に、このことが記されている。
このように、地名は歳月とともに出没し、記載内容は絶えず変わりつつある。常に正確なデータを入手し、それを読者に送りとどける。1975年1月30日の初版発行より今日に至るまで、『コンサイス日本地名事典』は、刷を改め、版を重ねるごとに新しい地名情報を盛り込むことに心掛けて、ここにようやく『第4版』第一刷の発行にこぎつけることができた。
地名は特定の風土と人間社会とのかかわり合いに関するいろいろな情報を、総合的に表現したものである。この情報を簡潔にまとめ、読んで楽しく、しかも人々の知的好奇心を満足させてくれる地名事典。これがコンサイス版の特色と言ってよい。
明石海峡大橋のことに触れたので、この項目の親項目となっている「明石」と子項目の「明石市」を『第四版』で引いてみる。そうすると、明石は古くは赤石とか明とかに綴られ、『国造本紀』の旧国で、古代の国郡制定時に播磨国に編入されて明石郡となり、1919年(大正8)に市制が施行され、戦後に近隣町村を編入したこと。古代山陽道の宿駅で、845年(承和12)に官船渡しによる四国街道の分岐点となったこと。1617年(元和3)以来、小笠原氏10万石の城下町であったことなどが要領よく記されている。
そのうえ、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行く舟をしぞ思ふ」という『古今集』巻九の和歌が載せられており、これが万葉の歌人「柿本人麻呂の作ともいうが不明」とあるので、いっそう明石への関心が高まる。この地には「柿本人麻呂を祭る人丸神社」があることも読んでいくうちにわかってくるので、そうかも知れないと思う。
明石は「源氏物語」などの作品舞台となったことも記されている。源氏ファンならば良く知るはずの光源氏が流離中に結ばれ、「明石の中宮」を産んだ「明石の君」、彼女の父「明石の入道」、その妻「明石の尼君」などのことが、すぐ頭に浮んでくるだろう。
最近のグルメブームで、明石にはタイやタコの名高い陸揚げ港のあることを知る人は多いに違いない。『事典』には港の記載もある。もっと学問的なことを知りたい人ならば、明石象や明石原人の発見地であるという記述に興味をもつだろう。
さらに重要なのは、日本の標準時子午線(東経135度線)が、この地を通ることである。その標識が人丸神社境内の天文科学館にある。よみがえった人麻呂がこれを知れば、あっと驚くに違いない。これほど面白いのならば、ぜひ歩いてみたい。こう思う人たちのために、『第4版』でも同様に5万分1地形図の図幅名を最後に記しており、本書の特色としてきた交通手段も前段に明記されている。歩けば現代の「明石の君」に会えるかも知れない。