金田一京助博士記念賞

第32回金田一京助博士記念賞

藤井俊博氏『今昔物語集の表現形成』

授賞理由

藤井俊博氏『今昔物語集の表現形成』に対して

藤井俊博氏の『今昔物語集の表現形成』は、『今昔物語集』の用字・語彙・文章などの特徴的な表現の多くが、『法華験記』の影響下に形成されたものであることを明らかにしたものである。これまでにも、『今昔物語集』の典拠の多くが『法華験記』であることは指摘されていた。ただ本研究においては、共通する説話の表現を丹念に検討し、言語的にどのように関わっているかを明らかにしたところが評価される。また、そのような表現が『今昔物語集』全体の文体的特色を形造るに至っていることを述べているのである。

第一章では、「微妙(めでたし)」など漢語を訓読した例を取上げ、さらに「驚き怪しむ」など複合動詞の表現などを検討している。

第二章では、否定表現、死亡表現、生存表現などを取上げている。これらの表現を、『法華験記』と『今昔物語集』との間の関わり方の面から検討し、『法華験記』の漢文説話を訓読・翻案することによって、『今昔物語集』特有の表現が生まれてきたことを明らかにしている。堅実な方法であり、漢文訓読体・変体漢文・和化漢文・和漢混交文などの相互関係を総合的に把えることに資するものと言えよう。

第三章は、冒頭句の「今は昔」と基本文末表現の「けり」との対応を考察することが中心である。この問題は日本語史研究者の間ではいろいろと問題にされてきたところである。この問題に関わって、「其ノ時ニ」という場面転換の表現が『法華験記』の影響で『今昔物語集』に使われるようになったとするなど新しい見解もあるが、なお総合的に検討する必要があるように思われる。

本研究は、『法華験記』『本朝文粋』『日本霊異記』などの索引を作る一方、長く『今昔物語集』の文字・語彙・表現を研究してきた著者によってはじめてなしえた堅実な研究である。『今昔物語集』という文体的に位置付けることの難しい作品を、『法華験記』という文献に着目して表現形成の面から明らかにしたところは高く評価される。

以上述べてきたように、本書はなお検討すべき課題を残しているが、新しい視点で『今昔物語集』の表現形成を考察したものとして高く評価される。その実証的な研究方法およびその内容は、十分に金田一京助博士記念賞授賞のレベルに達しているものと判断される。

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受賞の言葉

藤井俊博氏写真この度は、言語学・日本語学の分野で永い歴史を持ちます金田一京助博士記念賞を受賞することになり、たいへん光栄なことと感激しております。

今回、賞をいただくことになりました拙著『今昔物語集の表現形成』(和泉書院、2003)は、院政期頃に成立した今昔物語集の表現形成に、法華験記(鎮源作、1040〜1044年頃成立)が大きく関わっていることを明らかにしようとしたものです。今昔物語集の研究を始めたのは学部の卒業論文の時代に遡りますが、当初は、今昔物語集の文体の研究によく用いられた方法として巻毎の文体の特徴を示すようなキーワードを設定して分布を調べるとともに、出典・類話にその語句がないかを一話一話比較対照するようなことをしておりました。その中で、いつしか法華験記の表現に多いものは今昔物語集の表現にも多いのではないかということに思い当たりました。当時の学界では、今昔物語集編者固有の文体が漢文訓読体・変体漢文体・和文体などの類型的文体のどれに近い文体であるかといった議論が盛んでしたが、私は出典から受け継いだ表現の個性というものがあるのではないかと考えるようになりました。私の目を向けた法華験記という作品は、従来から有力な出典の一つとして指摘はされていましたが、一話一話読み比べているうちに今昔物語集の表現との近さが自然と感得されてきたように思われます。具体的な方法として、文法・語彙・表記・慣用表現など様々な角度から今昔物語集と法華験記とに共通する徴表を検討しました。拙著では、法華験記は、今昔物語集の撰者の文体に大きな影響を与えた作品として評価すべきことを指摘しました。

連綿とつづいてきた先学の今昔物語集研究あるいは日本語史研究の中で、私の研究は出典の影響の面から今昔物語集の表現形成の一面を考えたにすぎません。今後は、今昔物語集の文章・文体が、日本文章史の中でどのように位置づけられるのかという点が、大きな検討課題になると考えています。現在、宇治拾遺物語のテキストと対照する作業を進めておりますが、これをもとに今昔物語集の文体・表現の特色をつかみ、また、文章の構造を類型的に捉えることができればと思っています。

また、今昔物語集のような説話のみならず、文学的文章の持つ独特の性質については今後解明すべきところが多いと考えています。文字・表記論、文法論、語彙論、文章論等の分野で近年明らかにされてきた成果を生かすことにより、文学的文章のもつ特質も明らかになると思っています。拙著の第三章で物語の文章に見られる語り手の視点について分類を示しておきましたが、これも文学的文章の新しい分析方法として提案したものです。まだまだ思案的なものにすぎませんが、今後、具体的な検証を積み重ね、作品分析に応用できればと考えています。

これまで、非力な私の研究を支えて頂いたのは、同志社大学の学部時代の恩師である松下貞三先生、玉村文郎先生、龍谷大学大学院時代の恩師である小島憲之先生、秋本守英先生や、現在学会でお世話になっている龍谷大学の糸井通浩先生をはじめとして多くの方々の薫陶を受けたお陰であると思います。思えば、松下先生の変体漢文研究、小島憲之先生の漢文学研究、秋本守英先生の和文研究、玉村先生の言語学的研究、糸井先生の表現研究、これらのどれが欠けても私の研究は成り立ちにくいものでありました。小島憲之先生がある時、作者が机の上にどのような本をおいて作品を書いているかが分かるぐらいまでやらないといけないとおっしゃったことが、私の支えとして深く記憶に残っています。その他にも、学会・研究会でご指導頂いた先生方、先学・同学の皆さんに心より感謝いたしたいと思います。

(ふじい・としひろ 同志社大学教授)

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贈呈式

2004年12月19日 三省堂文化会館(東京都新宿区)

贈呈式写真