金田一京助博士記念賞

第36回金田一京助博士記念賞

伊藤智ゆき氏『朝鮮漢字音研究』

授賞理由

伊藤智ゆき『朝鮮漢字音研究』に対して

いわゆる「漢字文化圏」においては,漢字がその発音とともに中国から大量かつ組織的に借用されている。それらの漢字の発音は,取り入れた言語ごとに「日本漢字音,朝鮮漢字音,ベトナム漢字音,ウイグル漢字音」などと呼ばれ,それぞれの言語ならびに中国語の音韻史の解明にとって極めて重要な役割を果たしている。

その中の朝鮮漢字音を研究対象とした本書は,資料篇においては,原本や影印本調査が可能になった15世期末から16世期末の中期朝鮮語の(異本を含む)26の文献を精査して漢字音データベースを作り,本文篇においては,各文献の性質を明らかにするとともに,漢字音の構成要素である声母,韻母,声調(アクセント)の各々を詳細に分析している。そして,河野六郎『朝鮮漢字音の研究』をはじめとする日本と韓国の先行研究を批判的に検討し,著者独自の見解を打ち出している。

河野の利用した資料は,大きな音変化が起こり,傍点(アクセント)表記も消えた16世紀末以降のものであり,分野も規範的で人工的な要素を含みうる韻書や漢字学習書に限られていた。それに対して伊藤は,時代がより古く,分野も仏教書,儒教書,医学書など多岐に渡る文献を取り上げて規範性の問題を取り除きながら,傍点まで含めて網羅的に調査をしている。その分析においては,日本漢字音,ベトナム漢字音等の研究成果も考慮に入れている。いずれも中国音韻学の深い知識なしにはできない仕事である。

その論の中心は韻母の研究にあり,朝鮮漢字音は4つの複層的な体系からなるとする河野説を否定し,ほぼ同時代の中国語音を写し取った均一的な体系をなす,と結論づける。

声母の研究では,朝鮮語における「音節偏向」という河野の提唱した概念(特定の音節構造に偏って現れる傾向)をさらに精密なものにするとともに,朝鮮語と中国原音とで気音の対応がずれている現象に適用し,朝鮮語には有気/無気の区別が元々なかったという仮説を提示する。

先行研究がほとんど扱ってこなかった声調の調値推定は,まさに著者の独擅場である。また,声母・韻母の考察に際し,アクセントの条件を考慮して分析を深めている点も特色である。

全体の結論として,朝鮮漢字音が依拠した中国原音は,大まかには河野六郎の言う唐代長安音,『慧琳音義』の体系を中心とするものの,慧琳音義の体系からさらに一歩近世音の方向に向かって音変化をした体系であった可能性が高いと述べる。

これだけの大著なので見解が分かれる点はあろうし,類推に基づく音節偏向概念のより慎重な対処が求められる事例があるなど,細部への要望もなしとはしない。

しかしながら,膨大なデータを踏まえつつこれまでの研究水準を飛躍的に高めた本書は,疑いもなく今後の朝鮮漢字音研究の新たな出発点となるものである。金田一京助博士記念賞にふさわしい極めて勝れた業績である。

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受賞の言葉

伊藤智ゆき

伊藤智ゆき氏近影

このたび,拙著『朝鮮漢字音研究』が第36回金田一京助博士記念賞受賞対象となり,大変光栄に存じますと共に,この上ない喜びを感じております。

私が東京大学大学院人文社会系研究科の修士課程(言語学専門分野)に進学した頃,初めに興味を持ったのは,朝鮮語という言語そのものでした。日本から地理的に最も近い地域で話され,日本語と多くの共通性を見せながら,系統関係等が不明である朝鮮語について,一体どういう性質の言語であるのか,どんな歴史を辿ってきたのか,ただ単純に調べてみたい,と思ったことがきっかけでした。幸い私が修士課程に進学した際,中期朝鮮語研究をご専門の一つとされる福井玲先生が,東大の駒場キャンパスから本郷キャンパスに移ってこられ,指導教官をお願いすることができ,中期朝鮮語研究の基礎から,より専門的な朝鮮語史文献の取り扱い方まで,多くのことを教えて頂けました。こうして中期朝鮮語について学んでいく中で,いろいろと興味深い現象に出会いましたが,とりわけ関心を持ったのは,日本語との共通性からか,漢字語・漢字音の性質と,「傍点」という記号によって書き表されているアクセントに関してでした(現代朝鮮語では,慶尚道方言等を除き多くの地域でアクセントの弁別性は失われていますが,中期朝鮮語ではまだアクセントが弁別性を持っており,日本人の私から見て,親しみやすいテーマであったのだと思われます)。このようにして始めた中期朝鮮語の漢字語アクセント研究でしたが,どうやら朝鮮語の漢字語アクセントは中国語の声調と何らかの相関性があるらしい,と気づいてからは,ひたすら中期朝鮮語文献・辞書を読みあさっては,漢字語の例を探す毎日でした。修士論文では,この中期朝鮮語漢字語アクセントの分析結果を一通りまとめました。博士課程に入ってからは,アクセントだけでなく朝鮮漢字音全体に関して,音韻論的に研究していきたいと思うようになりました。ただ朝鮮漢字音については,既に河野六郎先生の大著『朝鮮漢字音の研究』(1968年)を始め,数多くの先行研究があり,私が更に開拓できる部分があるのか,何度も不安になりましたが,先行研究の書かれた時代には利用できなかった多くの文献が,当時閲覧可能になっていた,という好条件を最大限に生かし,諸文献の書誌学的検討・データ構築・統計的分析という基礎的作業に重点を置くことで,新たな視点を得ようと努めました。その結果,先行研究とはまた違った形で,私なりに朝鮮漢字音の体系を理解できるようになっていったと思います。これらの研究を進めていく中で,福井先生,そして伊藤英人先生,上野善道先生,遠藤光暁先生,熊本裕先生,辻星児先生,鄭光先生,平山久雄先生,古屋昭弘先生から,言語学研究,朝鮮語史研究,中国語音韻学に関して多大なご指導を頂きました。先生方の温かいご指導なくしては,私がこの研究を成し遂げることは不可能でした。

拙著『朝鮮漢字音研究』の元となった博士論文を書き上げてから,その後体裁等いくつかの改訂を加えつつ2007年に出版されるまで,5年もの月日を要してしまいました。本書の出版が可能になったのは,石塚晴通先生,豊島正之先生,町田和彦先生の心強い激励と,汲古書院,東京書籍印刷の方々のご助力のお陰です。

博士論文以降,現在に至るまで,朝鮮漢字音とは別に,様々な研究テーマに取り組んでまいりましたが,今なお,私にとって言語学研究の原点であり,最も深い関心を持ち続けているものは,朝鮮漢字音を含めた借用音研究,そしてアクセント研究であると思います。その意味でも,今回の受賞は私のこれからの研究人生を考える上で,何よりも大きな励みとなりました。まだ学ばなければならないことが山のようにあり,私の貢献できる研究がどれほどあるかは分かりませんが,今後もできうる限りの努力をしていきたいと,強く思っております。

最後になりましたが,これまでの私の研究活動を支えてくださった先生方,同僚・友人の方々,家族,のすべて方に,心より感謝致します。

(いとう・ちゆき 東京外国語大学助教)

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受賞者略歴

伊藤氏は、1975年生まれ。東京大学大学院(博士課程)修了。博士(文学)。現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教。また、2005年よりマサチューセッツ工科大学言語学科客員研究員。

贈呈式

2008年12月21日 東京ドームホテル(東京都文京区)にて

第36回贈呈式写真