金田一京助博士記念賞

第39回金田一京助博士記念賞

千葉謙悟氏 『中国語における東西言語文化交流』に対して

授賞理由

千葉謙悟『中国語における東西言語文化交流』

授賞の対象となった『中国語における東西言語文化交流―近代翻訳語の創造と伝播―』(2010.2.20、三省堂刊)は、「近代中国語を軸に展開された近代翻訳語の創造とその他地域への伝播過程を検討した」ものである。この研究テーマは、近年中国および近代以降に中国と交渉のあった国々で強い関心を持たれているものであるが、著者は中国における近代訳語の生産に日本人として関心を有する点に特徴がある。それは、従来盛んであった意訳語の研究と並んで音訳語の研究をも、その範囲に収めたことに表れている。

本書は、序論および結びと、本論に当たる三部の計五つの部分から成る。主要部分となる三部の冒頭の第一部では、著者の研究における方法論が述べられる。第二部では、本書の中心となる音訳語の研究が語形の変化の面から展開される。第三部では、従来の研究の主流であった意訳語に音声的な側面から新しい光が当てられている。

まず「序論」では、言語文化交流という視点を設定する意義と従来の研究の問題点が述べられる。次いで、「第一部 近代中国翻訳語研究の方法論」では、著者の方法論が詳しく述べられる。はじめに文化交流という視点からの翻訳語の分類が「音訳語」「意訳語」/「新造語」「転用語」「回帰語」というような概念をめぐって検討される。そして、中国語を軸とした翻訳語を日本語および他の文化的言語との対応から整理した分類案が示される。それに続いて、音訳語の成立を、単に文字の選択理由の解釈にとどめることなく、近代中国語の音韻体系から解明する方法が提示される。ここでは、山西方言音などとの対比から、『新釈地理備考』『瀛環志略』などの資料に見える音訳語が当時の官話音に基礎を置くものとして、理論的なモデルを提出することに、方法論的特徴がよく表れている。

「第二部 近代中国音訳語研究」では、欧米の国名・人名などの音訳語の基礎方言の分析が行われる。例えば、19世紀前半まで優勢であった広州方言音が同じく後半では上海方言音に交替する。これは「基礎方言シフト」と名づけられる。また、音訳語における字義の影響、変化の要因などが考察の対象となる。ワシントンという人名の音訳語が「華盛頓」に定着する過程の考察に、その特徴がよく表れている。さらに、日本語から入ったとされる音訳語についても、その音韻論的な背景について考察が試みられている。それにより、いわゆる新漢語を意訳語にのみ着目して研究することの欠陥を指摘している。

「第三部 近代中国意訳語研究」では、翻訳語研究の主流とされてきた意訳語について、その方法が単に意味を媒介としているのではなく、そこに音韻論的な様相が関わっていることが指摘される。また、近代中国に渡来して訳語の生産に関わった宣教師などの中国語理解のレベルが語構成に反映していることが述べられる。そして、「結び 近代言語文化交流研究構築の視座」では、音訳語と意訳語の双方を統合した近代言語文化交流の類型を発見することの重要さが強調される。

その結びでもふれられるように、この書で近代翻訳語研究のすべての分野が網羅されたわけではない。例えば、音訳語の基礎方言とされるもののすべてが体系的に取り上げられたとは言えない。あるいは、意訳語に関しては、一般語としてはわずかに「礦業」「聯邦」「合衆国」が取り上げられるに過ぎない。しかし、本書は近代翻訳語研究における新たな研究方法の枠組みを提示することに成功している。

本書の著者は、春秋に富む。その若さは、その行動力と調査力の大きな裏付けとなっている。中国各地の方言についてのフィールドワーク的調査方法と世界各地に存在する未開拓の資料を渉猟する文献学的な方法の一体化による訳語研究の提唱は、東アジアの近代語研究は無論のこと、文化交流史研究に一石を投じたものといってよい。また、今後の一層の発展の可能性を秘めている。以上により、本書を、金田一京助博士記念賞授与に値する作品として評価するものである。

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受賞の言葉

千葉謙悟

千葉謙悟氏近影このたびは第39回金田一京助博士記念賞を受賞するという栄誉に浴し、身に余る光栄に存じますとともに、歴代の受賞者のお名前を拝見しその重みを改めて実感致しております。

拙著『中国語における東西言語文化交流 −近代翻訳語の創造と交流』(三省堂、2010)は2006年に早稲田大学文学研究科に提出した博士論文の第一部を基礎としております。ここでは近代翻訳語研究の中でも、研究手法の面から扱いにくいものとされていた漢字音訳語を取り上げるということを課題の一つとし、特に音訳語形の通時的変化の原因を説明しようと試みました。そして中国国内および日中間における交流の様相、国外固有名詞が意訳される問題といった、近代音訳語に関する諸問題を扱いました。意訳語についてはこれまでの豊富な先行研究の蓄積を踏まえ、当該語が創造された当初の語構成やその再分析の過程、意味範囲の変遷などを考察しました。いずれの考察も、語誌記述の先にある「体系的な翻訳語研究」を試みたものです。

早稲田大学第一文学部と文学研究科でご指導いただいた先生方、特に古屋昭弘先生には学部から大学院まで10年近く指導教授としてご指導いただきました。翻訳語研究はその事物や概念の導入史と密接な関係を持つことから、往々にして言語学の範囲を逸脱し文化史や思想史に入り込みがちですが、先生は過度にそちらに傾斜しかねない私の手綱を引きつつも、大いに私の研究を慫慂してくださいました。またご講義から学んだ中国語音韻論の知識と手法は近代漢字音訳語を研究する上で大きな武器となりました。
また早稲田大学中国文学専修の「語文双習、古今兼学」−言語と文学の双方を学び、古代と現代をともに学ぶ−の精神に基づく教育からも非常に多くの財産を得ることができました。可能な限り幅広い資料から語誌を記述するという訓練の基礎はここで培われたものと感謝いたしております。

思い返せば、私の当初の興味は中国語の音声・音韻的な側面にありました。また同時に、もともと16世紀以来の東西交流史への漠然としたあこがれもありました。近代翻訳語の研究はその接点にあったということができます。近代において漢字文化圏諸地域は西欧諸言語をそのまま「国語」として採用するのではなく、それまでに蓄積した漢字・漢語を利用していわば「一つの文明を翻訳する」という途を選びました。中国人文人、日本の蘭学者・洋学者、来華宣教師といった人々が織りなす翻訳語創造の営み、その翻訳語のたどる新造・転用・廃語といった歴史—複雑に絡まったことばの糸玉を一つ一つ手繰りほどいていく論考を学ぶのは非常に楽しく、また心躍る体験でありました。いつしか、そうした翻訳語を自分でも研究してみたい、その創造と交流の様相を体系的に記述してみたいという欲求がわきおこってきました。特に音訳語とその基礎方言の関係に注目するというアイディアを得てからは、英華辞典をはじめとする宣教師資料や清末の西学書を読みあさり、資料読解のためフランス語やラテン語を学ぶ日々でした。

近代翻訳語の研究を進めていくうちに、荒川清秀先生、内田慶市先生、沈国威先生、陳力衛先生といった先生方から中国語学・日本語学双方に渡る研究手法や文献調査法を学び、また国内外の各種資料や研究者の方々をもご紹介いただきました。ここにお名前を挙げきれない先生方にも研究の上でさまざまなご恩を蒙り、感謝申し上げる次第です。

今回の受賞は翻訳語という言語学と文化史の交錯するマージナルな研究分野を認めてくださったものであるとともに、近代翻訳語の体系的な研究への叱咤激励をいただいたものと理解しております。金田一先生のご業績、歴代受賞者の先生方のなされたご研究を拝見し、この上ない光栄とともに非常な責任をも感じているところです。金田一賞の受賞者として、今後とも恥じることのない研究を進めることを自らに課して、受賞のことばのむすびといたします。

(ちば・けんご 中央大学経済学部准教授)

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受賞者略歴

千葉氏は1977年生まれ。

早稲田大学大学院博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。

現在、中央大学経済学部准教授。

贈呈式

2011年12月18日 東京ドームホテル(東京都文京区)にて

第38回贈呈式写真