第44回金田一京助博士記念賞
荒川慎太郎氏『西夏文金剛経の研究』に対して
授賞理由
荒川慎太郎『西夏文金剛経の研究』(2014年10月 松香堂書店刊)
本書は、11世紀から13世紀にかけて、中国北西部で栄えた王朝、西夏で用いられ、独自の西夏文字で表記された西夏語の研究である。西夏語はチベット・ビルマ諸語に分類される言語だが、チベット語やビルマ語には見られない特徴を多く持つ。この意味で、西夏語の研究には大きな意義があるが、残念ながら言語の継承が途絶えてしまった、いわゆる死語である。
西夏文字と西夏語については、京都大学名誉教授、故西田龍雄氏が数多くの優れた業績をあげているが、本書は、西田氏をはじめとする先駆者たちの業績に依りながら、日本における西夏語・西夏文字の研究をさらに発展させたものである。西田氏が西夏語・西夏文字の研究に取り組んでいた頃に較べると、すでに多くの研究の蓄積がある。従って、本書の内容のかなりの部分が従来の説の妥当性を確認するに留まっているのは当然の結果であり、西夏語研究の進歩の証と見なすべきであろう。さらに、これまでの研究成果を、正確な校訂を施した信頼できるテキストに沿って検証し体系化することもまた、意義のある仕事であることは言うまでもない。
本書が扱うのは、いずれも漢文仏典から西夏語に翻訳されたと考えられる、それぞれ『金剛経』、『金剛経頌』、『金剛経纂』と荒川氏が呼ぶ3種の文献資料である。第1部研究編では、これらの文献学的位置づけ、西夏語と漢語との対比に基づく音韻の分析、そして、文法的特徴の記述が試みられる。第2部テキスト編は3種の文献資料の翻字と翻訳、そして第3部図版編は、3種の文献の原資料の写真から成る。特に、第1部の文献学的分析においては、3種の西夏語訳仏典の版本の系統が、綿密な資料調査と詳細な資料比較により明らかにされる。西夏語の基本的な資料である『文海』、『同音』、『雑類』についても、種々の刊本・写本の間の複雑な関係が、文献学的分析を通じて解明される。また第1部では、音韻面を中心に言語事実の扱いや解釈に不明な点が部分的に残るものの、指示詞の用法、動詞句の構造、さまざまな格標識の機能、単純否定と二重否定の構文上の違いなどが扱われ、西夏語の具体的な姿を生き生きと描き出している。
いわゆる死語の研究には、話者に接する機会がないことによる多くの制約がある。それを補うのが、残された文献の科学的な分析を不可欠の基盤とする文献言語学である。本書が、西夏語研究においてだけでなく、文献言語学においても優れた業績であることは疑う余地がなく、選考委員会は、本書を金田一京助博士記念賞に値するものと判断する。
受賞の言葉
荒川慎太郎
この度は第44回金田一京助博士記念賞を賜り、光栄に存じますと同時にたいへん身の引き締まる思いです。選考委員の先生方、関係者の皆さまに心よりお礼申し上げます。
思えば、私と西夏文字との出会いは高校時代に遡ります。世界史に興味があった私は、ヒエログリフ、マヤ文字、西夏文字など、複雑な文字表記に惹かれました。当時は、映画『敦煌』の公開、NHK「大黄河」放映、そして西田龍雄先生による西夏文字の一般書の刊行など、西夏文字が取り上げられる機会の多い時代でした。大学では西夏史、あるいは西夏文字を学びたいと考え、京都大学文学部に進みました。ところが、肝心の西田龍雄先生は、私の入学した1年後に定年により退官されてしまいました。
それでも当時の私は、西夏語・西夏文字を学ぶのに最も恵まれた環境にあったと思います。文字については関心が高かったものの、各種語学・言語学にまったく無知だった私に、諸外国語と言語学の基礎を、諸先生・諸先輩方が教授してくださいました。庄垣内正弘先生、吉田豊先生らからは、実際の古代語研究に基づく文献言語学を教えていただきました。西夏語は、チベット・ビルマ語派に属する言語です。そこで、チベット語は武内紹人先生、髙橋慶治先生に、ビルマ語は、本日お見えになっている藪司郎先生、澤田英夫先生にご指導いただいたほか、長野泰彦先生、西義郎先生にチベット・ビルマ系言語の様々な課題を教えていただきました。吉田和彦先生による比較言語学、佐藤昭裕先生によるスラブ語学、宮岡伯人先生によるエスキモー語学などを受講し、広く言語学の世界を知ることができました。また、お一人ずつお名前を挙げるのは控えさせていただきますが、東洋史学をはじめとする諸先生方にも得難いご指導をいただきました。
卒業論文では、西夏文字によるサンスクリット音の音写規則を扱いました。その後西夏語韻書、つまり発音字典の構成を研究し、修士論文にまとめました。90年代後半、ロシアのクチャーノフ先生、西田龍雄先生が、ロシア所蔵西夏文目録を編纂するというプロジェクトに加えていただき、西夏語の仏教文献の知識を得ることができました。
2000年頃、西夏文字資料が所蔵される、ロシア、サンクト・ペテルブルグに長期滞在し、仏典をはじめ多くの資料を実見する好機を得ました。本書の基礎となった西夏文『金剛経』もこの時全文を筆写し、各種の版本の異同も調査できました。
本書の構成は、西夏語訳『金剛経』の言語学的研究、西夏文字の録文・推定音・訳注からなるテキスト、写真図版です。博士論文執筆当時は、長文のテキストを入力できるような、実用的な西夏文字フォントがありませんでした。今となっては信じられないことですが、本文中、テキスト編の西夏文字は全て私の手書き、方眼紙に清書したものをコピーし、版下に貼り付けるという大変な手間がかかりました。テキスト編は西夏文字を清書するだけで3日かかった記憶があります。それでも博士論文をご審査いただいた庄垣内正弘先生、田窪行則先生、吉田和彦先生にはたいへん見苦しい乱筆をお目にかけました。その後、私も監修で協力させていただいた西夏文字フォントが整備され、博士論文の西夏文字をすべて入力することができました。
博士論文の提出から本書の刊行まで、途中に西夏語辞典の共編、日本蔵西夏文献カタログの編纂なども重なり、予想以上に時間がかかってしまいました。龔煌城先生、クセニア・ケピン先生、長田夏樹先生、西田龍雄先生、庄垣内正弘先生、エヴゲーニイ・クチャーノフ先生と、あまりに多くの恩師に本書をご高覧いただけなかったことが残念でなりません。ことに庄垣内先生には博士論文の執筆の際、本書の科学研究費補助金助成出版の申請の際、最終段階のご指導の際と、長きに渡り貴重なご意見ご指導を賜りながら、本書の受賞の栄をご報告できないことが悔やまれます。今後も微力ながら、西夏文テキストの読解に精勤し、西夏語の研究を続けることで御恩に報いたく存じます。
これまでもこれからも、私の研究は、世界各地の資料所蔵機関のご協力なしには成り立たないものです。ことに、ロシアの東洋文献研究所所長ポポーヴァ先生並びに研究所の皆さまのご厚意にこの場を借りてお礼申し上げます。大部の和書にも関わらず、海外から書評をお寄せいただいたキリル・ソローニン先生、孫伯君先生らにもお礼を述べたく存じます。また、本書をはじめ、拙論著の面倒な西夏文字処理をいつも快く手掛けてくださる中西印刷株式会社、社長をはじめとする皆さまにもお礼申し上げます。最後になりましたが、家族・親族、特に、学生時代から好きな研究に専心させてくれた母、研究への理解と支援を惜しみなく与えてくれる家内に、改めて感謝の意を表したいと思います。
簡単ではありますが、受賞の言葉といたします。
受賞者略歴
荒川慎太郎(あらかわ しんたろう)氏は、1971年生まれ。宮城県仙台市出身。
京都大学文学部卒。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授。専門は西夏語学、西夏語文献学。
贈呈式
2016年12月11日 東京ドームホテル(東京都文京区)にて