金田一京助博士記念賞

第46回金田一京助博士記念賞

児倉徳和氏 『シベ語のモダリティの研究』に対して

授賞理由

児倉徳和 『シベ語のモダリティの研究』 (2018年3月 勉誠出版刊)

本書は,中国・新疆ウイグル自治区北西部に位置するチャプチャル・シベ自治県,およびグルジャ(イーニン)市で3万人ほどの人々によって話されている満洲ツングース系の言語,シベ語 (Siwe’ gisuN, Sibe, Xibe) のモダリティについて,現地調査によって直接収集したデータを主な資料として分析したものである。著者は,長期にわたる現地滞在の中で,膨大な時間をかけて面接調査を行うと同時に,母語話者と過ごした生活のさまざまな局面で,シベ語の実際の運用を観察し続けてきた。本書が記す多くの貴重な言語事実は,著者のこうした長年の努力によってもたらされたものである。調査の成功には,著者自身が自在にシベ語を話せることに加えて,地域の共通語である中国語の高い運用能力があったことも大きく貢献している。これは,著者が本書を執筆するために並々ならぬ労力と時間を費やしたことを意味しており,本書が労作そのものであることに疑いはない。

本書で扱うのは,シベ語のモダリティを表す要素についてである。その目的は,従来,ひとまとまりにして分類されてきた動詞語幹に後続する要素を,ムード・アスペクト接辞(-re, -maXe, -Xe),モダリティ接語(=ゼロ, =i, =ŋe),補助動詞という3つの成分に分割した上で,それぞれの意味を設定し,動詞後続要素全体の意味を,それを形成している成分の意味の組み合わせとして説明するためである。最初の3章で分析の基礎となる情報や前提を解説した後,第4章ではムード・アスペクト接辞,第5章から第9章ではモダリティ接語,第10章から第12章では補助動詞の意味を検討する。

それぞれの形式の意味を抽出するための手順は周到である。例えば,第5章から第9章で扱うモダリティ接語の場合,まず,ムード・アスペクト接辞を完了形 (-Xe) に固定して3種類のモダリティ接語(ゼロ形式を含む)を比較する。次に,ムード・アスペクト接辞を非完了形 -maχe に固定して,同様に3種類のモダリティ接語を比較し,最後に,ムード・アスペクト接辞を非現実形 -re (-mi) に固定して同じ3種類のモダリティ接語を比較する。一方,分析の結果として示されるそれぞれの形式の意味については,斎藤学「自然言語の証拠推量表現と知識管理」(九州大学博士論文,2006年3月27日)の主張するモデルに依りながら,かなり大胆な解釈を加えて分析する。モダリティ接語を例にとれば,ゼロ形式(単独形)が話し手の知識データベースに変化がないことを表すのに対して,=i は,それを含む文の命題部分が知識データベースに書き込まれることを表し,=ŋeは,それを含む文の命題部分が知識データベースからバッファに読み出されたこと(知識データベースの書き換えは起こらない)を表すと主張する。

母語話者のさまざまな内省を含む,多様で複雑なデータに直面しながらも,恣意的に例文を取捨せず,すべての例文を公平に扱っている点,その一方で言語事実の羅列に止まっていない点は,すでに述べた,長期にわたる現地調査によって直接データを収集した点とともに,高く評価できる。

しかしながら,本書が前提とする情報と知識の心的処理のモデル(知識データベース)については,細部まで十分に明らかにされているとは言い難い面もある。また,このモデルが言語の違いを超えて十分な妥当性を持つものか否かも明らかではない。さらに,知識データベースにおける単位は命題であるとされるが,それは,主に文を単位とした本書の議論にとっては好都合であるものの,なぜそのように想定できるのかについての説明はなく,命題の形で知識データベースに存在する知識のみを扱うという著者の言明があるだけである。従って,知識データベースにおける処理の違いによって,シベ語ではモダリティを表す形式が使い分けられているという本書の結論は,さらに研究を進めていくための足がかり,あるいは,乗り越えるべき仮説と見なすべきではないかと考える。本書の記述は,著者ならばそれを必ず成し遂げてくれるという確信を十分に与えてくれる。

選考委員会は,多様で複雑なデータを整理し,それらから可能な限りの規則性を抽出しようとした努力と構想力,そして,今後の研究発展の可能性を高く評価し,本書を金田一京助博士記念賞に値するものと判断する。

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受賞の言葉

児倉徳和氏この度は、金田一京助博士記念賞という大変栄誉ある賞を頂き、誠にありがとうございます。受賞に際しまして、ご挨拶をさせて頂きたいと思います。

今回、賞を頂くことになりました『シベ語のモダリティの研究』は、私が東京大学に提出した博士論文がもとになっております。中国の新疆ウイグル自治区で話されるツングース諸語のひとつであるシベ語について、「発見」「思い出し」「判断」といったモダリティを表す要素を、ヒトの心内で行われる情報・知識の処理のモデルを仮定することにより、体系的に分析・記述したものです。私は、東京大学言語学研究室で学部・大学院と学び、その後日本学術振興会特別研究員として九州大学言語学研究室で研究を行いましたが、本書の研究は、東京大学でおこなったモダリティの記述と、九州大学で行ったモデルを使った体系化を統合したものになります。ここで私の研究を特にご指導・ご支援下さいました方をご紹介させていただきますとともに、感謝を申し上げたいと思います。

まず、私の東京大学での指導教員でいらっしゃいます林徹先生、そして九州大学での日本学術振興会特別研究員としての私の受入研究者でいらっしゃいます久保智之先生のお二人に、感謝を申し上げたいと思います。

私がシベ語の研究を志しましたのは、東京大学の学部生の時に聴講いたしました、林先生の現代ウイグル語および、それが話されている新疆ウイグル自治区の言語文化の講義がきっかけでした。林先生は私がシベ語を研究対象とすることを決心した際に久保先生をご紹介くださったことをはじめとして、学部・大学院と長きにわたりご指導を下さいました。また、久保先生は私がシベ語の研究を志したときから話者の方をご紹介下さったことをはじめとして、私のシベ語の研究に対しても細部にわたるご指導を頂いただけでなく、AA研で開講されたシベ語研修には講師の一人として参加させても下さいました。

私が大学院生の時分に印象に残っている林先生のお言葉は「私の仕事は羊飼いのようなものだ」というのものです。これは、先生の仕事は学生をいい草の生えている放牧地に放牧する、つまり最良の環境を用意し、そこで伸び伸びと研究させることだということだったのですが、私の研究は、東京大学、九州大学、あるいは研究生として留学した北京大学という様々な場所で、様々な先生方や友人の皆様との交流により形作られたものでして、まさにこのような林先生のご指導の賜物だと実感しております。また、特に東京大学では西村義樹先生と長屋尚典さん、九州大学では上山あゆみ先生と菅沼健太郎さんにも多大なるご指導とご支援を頂きました。ここに感謝申し上げます。ちなみに、林先生のお言葉には続きがありまして、羊飼いの仕事は最後に毛を刈る、つまり研究成果を確認することだ、ということでした。私の著書がその毛となっていれば幸いです。

久保先生には、私が日本学術振興会特別研究員として九州大学にお世話になっていた時期をはじめとして、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所で行われた言語研修の準備期間中や講習の期間中、またしばしばフィールドでも議論にお付き合い下さったことが思い出されます。特に言語研修の準備と講習の期間中は、ネイティブ講師として庄声さんがいらっしゃったことで、その場で庄声さんに質問しながら先生と議論をするという大変贅沢な時間を経験させて頂きました。今振り返りまして、本書の研究はやはりこの時間があってのものだったという思いを強くしております。

次に、コンサルタントとして長年お付き合い下さっております佘吐肯(シェトゥケン)先生、郭瑪麗先生、呉玉楓さん、郭立新さん、承志さん、庄声さんをはじめとするシベの皆様に感謝を申し上げたいと思います。皆様私に懇切丁寧にシベ語を教えて下さり、特に佘吐肯先生はいわゆる調査の時間以外にも様々な形でお相手をして下さいました。私が本書の研究をまとめる上でキーとなった例文で、「ナン(というパン)を買う?」「もう買ったんだけど」というものがあるのですが、実はこの例文は佘吐肯さんとの散歩の最中に交わした何気ない会話と、先生との生活の過程で共有した経験に基づく知識がもとになっています。このようなこと一つとりましても、本書の研究の背後には話者の皆様と過ごさせていただいた膨大な時間があったということがご理解いただけるかと思います。

また、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の中山俊秀さん,山越康裕さんはじめとする所員・事務職員の皆様に感謝申し上げます。昨今、大学の研究をめぐる状況はますます厳しくなりつつあり、AA研も例外ではありませんが、そんな中私が本書を出版することができましたのはひとえに私のAA研の所員としての活動を様々な形でご支援下さった皆様のおかげです。そして、本書の出版をお引き受け下さった堀郁夫さん、森貝聡恵さんほか、勉誠出版の皆様に感謝を申し上げたいと思います。特に森貝さんは東京外国語大学大学院でツングース諸語の一つであるウイルタ語のご研究をされていたころからの知り合いですが、月日がめぐり、まさか出版社で本書の出版をご担当下さるとは夢にも思いませんでした。本書の出版が佳境に入り、装丁の作業をしていた際、本書のタイトルをシベ文字で書いたものを装丁に使おうということになり、材料を用意したのですが、森貝さんがその文字をスラスラと読んでデザインをお取りまとめ下さったことがあり、私はこのような方とお仕事ができて何と幸せ者だろうかと感動したことが今も思い出されます。

以上私の研究と本書の出版について簡単にご紹介させていただきましたが、今後の研究として大きく2点を考えております。まず1点目は、シベ語の周辺で話される他の言語のモダリティの記述を通して、満洲語をはじめとするツングース諸語の歴史的な発展過程を解明する、ということです。シベ語は満洲語と共にツングース諸語の中でも変わった言語とされ、さらにモンゴル諸語や中国語との言語接触など複雑な形成過程を経ていますが、今後はモダリティの記述を基に、周辺の他の言語のモダリティの記述を行い、さらにそれを通してシベ語、あるいは満洲語の形成過程の解明を進めたいと考えております。またこの過程で、本書で提案した枠組みがどの程度通言語的に適用可能か、ということも検証されると考えております。

そして2点目はシベ語の文法の包括的な記述と、シベ語の記録、ドキュメンテーションです。シベ語は現在2万から3万の話者がいるものの、やはり言語の継承は厳しい状況にありますし、そういった中で文化的要素は既に失われつつあります。こういった状況でシベ語を背景となる文化をも含め記録し、遺していくことが喫緊の課題であると考えております。幸い、近年ではシベの皆さんの中に、シベ語の継承の重要性を認識し、そのために積極的に行動しておられる方もおりますし、またスマートフォンやSNSの普及で、遠隔地にいるシベの人々同士がシベ語で交流することが可能な状況が整いつつあります。現在AA研でも、基幹研究として「多言語・多文化共生に向けた循環型の言語研究体制の構築」という、研究者と話者の協働により言語の記述・記録を発展させることを目的としたプロジェクトを展開しておりますが、そのメンバーの一員としても、話者の皆様と共にシベ語の記録と、シベ語言語文化の継承・発展のため努力していきたいと考えております。

今回、このような栄誉ある賞を頂けることになりましたが、過去にこの賞を受賞された先輩方のお名前を拝見するにつけ私がこの列に並ばせて頂いてよいのだろうかといまだに自問しておりますが、今後とも賞の名に恥じぬよう、研鑽を積んで参る所存ですので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。以上をもちまして、私の受賞の挨拶とさせて頂きたいと思います。

 

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受賞者略歴

児倉徳和(こぐら・のりかず)氏は1978年生まれ。

東京大学文学部卒。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(文学)。

現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授。


贈呈式

2018年12月16日 東京ドームホテル(東京都文京区)にて

第46回贈呈式写真