2012年 1月 27日 金曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第158回 ここでも揺れる「葛」の字体
高知での一場面。田舎の駅の跨線橋の階段を、女子中学生同士が手を繋いで降りてくる。また腕を組んで駆け登っていく。大学近くの線路を渡ったところにある神社では、学生たちかデートをする光景もあり、のどかだ。地域文字はないか、と探すのは卑しい感じがしないでもない、自然に眼に入ってくるのを待つのだ。
「葛島」だ。歩き回っているうちに自然に着いた。空港からのバスの中からも見ていた所まで来てしまった。この「葛」は、ときどき字体に問題ありとして扱われる字で、教え子もこの字を丹念に観察して修士論文を仕上げた。皆さんのパソコン画面では、この字は、どういう字体で見えているだろうか。高知のその地名では、
かづら
かずら
と、仮名遣いも揺れているが、字体が気に掛かる。
「
島」と、明朝かゴシック体で看板にあった。ほかに、
「
島」と明朝体。
「
島」と筆字とゴシック体。この手書き用とデザイン用の両方の書体が、互いに似てくるとは皮肉なことだ。はねない「ヒ」のほうが伝統的な筆字に近い。

(クリックで周辺も拡大表示)
「
」と、かえっておかしくなっているものが、この地にもあった。大学生も「○葛飾郡」・「葛飾区」という住所で、この字をよく書いているが、引っ越して来て間もない者は、この字体で書きがちだ。新参者であることが字面からある程度分かる。生粋の者、生え抜きはどこかの段階で習ったり自覚したりするのだろうか、「
」と書く者がほとんどだ。
(クリックで周辺も拡大表示)
「
」も、高知の電柱の手書きに見られた。
さて、この字については、飛行機で東京に戻ってからも気付いたことがあった。羽田空港からリムジンバスを待つ。これに乗れれば、モノレールよりもさらに楽に帰宅できる。停留所で、待っている行き先とは異なる「葛西」行きという表示が出る。
そのバスが来た。先頭の電光掲示では「
」。
同じバスの側面の電光掲示では「
」。
字種として、文字列として、表記として、気にする必要のない差だという事実を体現してくれていた。指摘されれば、ドット文字のフォントを揃えなければ、と思うかもしれない。JISの規格の見出し字体や常用漢字表の改定に翻弄されたような市も生じた。
道中の疲れの中、やっと来たバスに対して、そんなことを気にする人もそうはいないだろう。バスの先頭座席が好きだ。小学校の頃は酔うことがあったが、進行方向を見ている人は絶対に酔わないと聞き、それを知ってから見晴らしのよい席をできれば選ぶようになった。臨場感やドキドキ感もあり、ゲームのようだとはしゃぐ子供のようだが、風景の中に溶け込んだ字も、よく見えるのだ。
路上の白い字には、独特の癖がある。車内の運転席から読みやすいようにと細長く記されている。テレビで、親方がまっすぐに線を引き、カーブも巧みに仕上げているのを弟子が真似をするという場面への取材があったのを思い出す。100キロを超す速度の中、動体視力で読みやすい字体は、実際にあの公団フォントだったのだろうか。
* * *
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は高知の地名の文字でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 1月 27日 金曜日 筆者: 山本 貴光
第42回 どの『ウェブスター英語辞典』か
西先生が「百学連環」で講じた「学(Science)」と「術(Art)」の説明は、その根を辿ると遥か昔、古代ギリシアのアリストテレスによる見立てに至ることを見てきました。再び話を明治に戻してゆきましょう。
と言いながら、「百学連環」そのものに立ち戻る前に、もう一つだけ確認しておかなければならないことがあります。西先生が参照した『ウェブスター英語辞典』の版はどれかという問題です。出典も分かったことだし、「どれでもいいじゃないか」と言いたくなるかもしれませんが、そうは問屋が卸さないのです。二つばかり問題があります。
一つは、同じ『ウェブスター英語辞典』と題されていても、版を重ねるごとにテキストは変化するので、どの版から引用しているかということは見過ごせないという事情があります。
もう一つ、こちらのほうがいっそう大きな問題なのですが、ここまでの議論には、実は一つ重大な空白が残されているのです。ミステリの謎解き風にご自分でその空白を見抜きたいという方は、ここ数回を読み直してみてください。
すでにお気づきの方もいるかもしれませんが、ここ数回の検討で私たちが参照していた『ウェブスター英語辞典』は、1913年のものでした。でも、思い出しましょう。そもそも「百学連環」講義はいつ行われたものだったか。あるいは西先生の生没年を。
そうです。「百学連環」講義には、明治3年(1870-1871年)という日付がありました。また、西先生は1897年に没しています。つまり、1913年版を参照しているはずはありません。
ここ数回、西先生が引用した”In science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.”という文章は、『ウェブスター英語辞典』の1913年版にあることを基に検討を重ねてきました。また、その際1828年版にはこの文章が見られないことも確認しました。つまり、このままでは辻褄が合いません。
では、西先生が参照しえた『ウェブスター英語辞典』は、どの版か。特定はしきれていませんが、手がかりがあります。以下、西暦の数字に気をつけながら進めて参りましょう。
面白いことに、1856年に刊行された『英語発音並びに定義辞典――ウェブスター・アメリカ辞典縮約版(A pronouncing and defining dictionary of the English language: abridged from Webster’s American dictionary, with numerous synonyms, carefully discriminated)』という辞書のSCIENCEの項目(p.405)には、1913年版とほとんど同じ文章が現れますが、上記したラテン語の部分は含まれていません。
しかし、1865年に刊行された『ウェブスター英語辞典(American Dictionary of the English Language)』では、カールスレイクから引用した文章が「SYN(シノニム)」として提示されています。
一方で、引用元となったカールスレイクの本は1851年刊行ですから、1856年版でも引用しようと思えばチャンスはあったわけです。しかしそうはなっていません。ちなみに第40回でご紹介したフレミングの『哲学語彙』は1857年の刊行でした。カールスレイクからの引用箇所が大きく重なっていることからも、『ウェブスター英語辞典』の編纂者が目ざとくフレミングの本を見て、カールスレイクの引用文を自分の辞書にも入れた……という空想も働きますが、定かではありません(当時の辞書編纂者たちが、お互いにお互いの辞書を利用し合っていたのは事実です)。
それはともかく、今回検分できた範囲では、この1865年版であれば西先生が参照する可能性がありそうです。1865年は「百学連環」講義の5年前、西先生がオランダ留学から帰国した年でもあります。
ただし、1856年の縮約版と1865年の辞書の間には、おそらく他にもいくつかの版がつくられているでしょうから、これをもって西先生が参照した版そのものだと断定するわけにはいきません。どの『ウェブスター英語辞典』かを特定する問題は、今後の調査課題とすることにして、「百学連環」の読解に戻ることにします。つまり、西先生は知ってか知らでか、アリストテレスの伝統に連なる「学術(Sciences and Arts)」の見立てを下敷きの一つにしていたというわけでした。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
2012年 1月 26日 木曜日 筆者: 安岡 孝一
タイプライターに魅せられた男たち・第23回

遠隔タイプライターの父、マレー(Donald Murray)は、1865年9月20日、ニュージーランドのインバーカーギルに生まれました。オークランド・グラマー・スクールで中等教育を終えたのち、マレーはリンカーン農業カレッジに進学したのですが、どうも農業が肌に合わなかったらしく、そこを2年で退学しています。その後、ヨーロッパを2年間ほど放浪したマレーは、オークランドに戻ってニュージーランド・ヘラルド紙の記者として働きはじめ、タイプライターの技術を身につけました。同時に、ニュージーランド大学のオークランド・カレッジに入学し、1890年12月にニュージーランド大学の学士号を取得しました。
翌年2月、マレーはオーストラリアに渡り、シドニー大学文学部の論理学・心理学・倫理学・政治哲学科(School of Logic, Mental, Moral and Political Philosophy)修士課程に編入学します。そこでマレーは、電信技術を学ぶことになりました。シドニー大学には当時、文学部以外に、法学部と医学部と理学部があり、電磁気学の授業も開講されていたのです。モールス電信の原理を知ったマレーは、タイプライターを電信に応用できないか、と考えました。この頃マレーは、シドニー・モーニング・ヘラルド紙の編集者としても働き始めていたのですが、各支局と電信をやりとりするためには、いちいちモールス電信のオペレーターを介する必要がありました。でも、タイプライターを送受信機にできれば、モールス電信には素人の記者や編集者でも、直接、記事のやり取りがおこなえるはずだ、と考えたのです。
電流の+と-の組合せでアルファベットを表そうとした場合、たとえば「P」に対しては「-++-+」という5つの電流で表すということにすれば、最大32種類の組合せが可能なので、A~Zの26種類には十分なはずです。そこで、回路上は5つの電流で1文字を表すことにしておいて、それとタイプライターのシフト機構を組み合わせれば、小文字a~zの26種類や、あるいは他の26種類の文字を、どんどん切り替えて送受信することも可能になるはずです。このアイデアを、マレーは、シドニー大学在学中の1892年11月2日、アメリカ特許として申請しました。そして、1892年12月にシドニー大学の文学修士を取得した後も、オーストラリアに残って、シドニー・モーニング・ヘラルド紙の編集者を続けたのです。
(ドナルド・マレー(2)に続く)
【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)、『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。
編集部から
安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
2012年 1月 25日 水曜日 筆者: 泉山 真奈美
歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌物語~ 第16回

●歌詞はこちら
http://lyrics.wikia.com/The_Rolling_Stones:Satisfaction
曲のエピソード
イギリスのロック・アーティストの多くはアメリカのブルース/R&Bから多かれ少なかれ影響を受けている。ローリング・ストーンズもその例外ではなく、バンド名からして、著名なブルースマンのマディ・ウォーターズ(Muddy Waters/1915-1983)の曲「Rollin’ Stone」(1950)から拝借したものだ。アメリカのR&Bナンバーも複数カヴァーしている。
歌詞はすべてリード・シンガーのミック・ジャガーが綴り、メロディ部分などはギター担当のキース・リチャーズ作。……ということになっているが、一説によると、この曲をカヴァーしたオーティス・レディング(Otis Redding/1941-67/彼のカヴァーは1966年に全米No.31を記録)が真の作者だとも言われている。実際、ストーンズはオーティスの信奉者だった。あるいは、両者の間でこの曲を巡って何かしらの密約があったのかも……。が、未だに真相は明らかではない。
ミックは、ストーンズがアメリカにツアーに行った際に、同地で見た商品の誇大広告に憤慨したことから、この歌詞を思いついたと語っている。タイトルの「(俺はちっとも)満足できない」は、アメリカの資本主義が生んだ空々しい誇大広告への不満をブチまけているもの。この曲で彼らは、初めて全米チャートを制覇した。ここで注目したいのは、“satisfaction”がイギリス英語の発音[sæ̀tɪsfǽkʃ(ə)n]ではなく、アメリカ英語のそれ[sæ̀ţɪsfǽkʃ(ə)n]になっている点。ひょっとしたら、最初からこの曲で本格的なアメリカ進出を狙っていたのかも知れない。専門的で恐縮だが、アメリカ発音の[-t-](逆さ^つき)は[-d-]のように聞こえる点にご注意。
曲の要旨
どんなにジタバタしてみても、俺のイライラは収まらない。世の中に対して不満だらけだ。TVを見てみても、嘘っぱちな誇大広告が目に付く。「この洗剤を使えばあなたのシャツはこんなにも真っ白に!」だと? フザケるな。ああ、ムシャクシャする。ツアー先ではグルーピーの女たちがわんさか押し寄せてきて、また会いに来てよ、と俺に誘いかける。これまた煩わしいったらありゃしない。これでも何とかしようとあがいてるのに。今にも不満が爆発しそうだ!
1965年の主な出来事
| アメリカ: |
アメリカ軍がヴェトナム戦争で北爆を強化。 |
|
アフリカン・アメリカン指導者のマルコムXが演説中に銃殺される。 |
| 日本: |
いわゆる日韓基本条約が締結される。 |
| 世界: |
インドネシアでクーデターが失敗に終わる。 |
1965年の主なヒット曲
My Girl/テンプテーションズ
Help Me, Rhonda/ビーチ・ボーイズ
California Dreamin’/ママス&パパス
Yesterday/ビートルズ
Stop! In The Name of Love/シュープリームス
(I Can’t Get No) Satisfactionのキーワード&フレーズ
(a) I can’t get no satisfaction
(b) fire one’s imagination
(c) be on a losin’ streak
これはあちらこちらに書いたエピソードだが、余りに面白いのでまたここで書かせていただく。今から15年ぐらい前、とある大学の講義でこの曲を教材として採り上げた教授がいた。その際、学生に向かって、その教授は真面目くさった顔で曲のタイトルをこう説明したという。
「この曲は、『俺は満足できないことはない』と歌っています」
教授、あえなく玉砕(苦笑)。タイトルにもなっている(a)の「否定形+no(または他の否定語)」は、否定の否定ではなく、否定の強調である。もちろん、(a)を正しい英文に書き換えると、
I can’t get any satisfaction.
となるのだが、そこを二重否定を用いて否定の強調としたところに、ストーンズのR&Bへの傾斜を見て取れる。何故なら、ブルースはもちろんのこと、R&B/ソウル・ミュージック、果てはラップ・ミュージックに至るまで、二重否定による否定の強調は、歌詞にかなりの頻度で登場するからだ。“(There) ain’t no ~(=there is no ~)”というフレーズがブラック・ミュージックの歌詞に多いのはそのため。当然ながら、ミックもそれを多分に意識してこの歌詞を綴ったに相違ない。また、そうすることで、そこのフレーズが砕けた口調になる。日本語にするなら「俺はこれっぽっちも満足できねえ!」だろうか。試しにここを♪I can’t get any satisfaction. . . に変えて歌ってみると、どうにもこうにもまどろっこしくなってしまう。やっぱりここは“no”でなくっちゃ。
(b)は、字面通りに訳せば「~の想像力を燃え上がらせる」。ちなみに、“imagination”を用いたイディオムには、以下のようなものがある。
(1) catch one’s imagination(~の興味をそそる、~の心を捉える)
(2) in one’s imagination(~の想像では、~の頭の中で)
(b)は(1)のニュアンスに近い。この曲では、「ラジオから流れてくる無益な情報が俺の想像力を掻き立てようとしている」というフレーズで使われている。これも曲全体のテーマである「誇大広告への反発」を表現した箇所だろう。ここで肝心なのは、その情報の発信源がTVではなくラジオであること。映像を伴わない音だけのラジオは、その分、リスナーの想像力を膨らませてくれる。もしここが“radio”ではなく“TV”(ついでながら、イギリスでは口語でTVを”telly”という)だったとしたら、(b)のフレーズは成り立たない。その「無益な情報」の中身には触れられていないが、恐らくそれもラジオ・コマーシャルの類なんじゃないかと思う。今は消費者も賢くなり、また、誇大広告を取り締まる機構もあるため、昔ほどアヤシイ誇大広告を見聞きすることはなくなった。が、筆者はこの曲を聴く度に、今でも亡母の次の言葉を思い出してしまうのだ。「洗剤の宣伝で真っ白な靴下をこれ見よがしに持って、『ほら、こんなに真っ白!』って言うけど、あんなの嘘。絶対にあれは新品の靴下を使ってると思う」。ああ、母にこの曲を聴かせてあげたかった。
(c)のイディオムを、筆者は遥か昔にこの曲で知った。辞書の“streak”の項目にもしっかり載っている。
be on a losing streak(負け続ける)
この反意語として、
be on a winning streak(勝ち続ける)
と共に載っており、他にも、
have a streak of good luck(しばし幸運が続く)
have a streak of bad luck(しばし不運が続く)
というイディオムもある。“streak”(名詞)には「短期間、(時間の)連続」という意味があり、上記のイディオムはすべてそれを踏まえてのもの。
この曲ではグルーピーの女の子が主人公の男性(=ミック)に向かって言い放つセリフに登場するが、「来週また会いに来てよね」に続く言葉になっている。直訳すれば「だって、アタシ、負け続けているんだもの」となるが、それだとやや意味不明。恐らく彼女が言いたいのは、「アタシ、ここんとこツイてないんだもの」ということだろう。「ツキに見放されてる」でもいい。もっと大胆に意訳して、「このところ面白いことなんてちっともないし」なんていうのはどうだろう? 彼女が憧れのロック・スターに対して、ちょいとスネてみせているそのセリフから、身体をくねらせつつ口をとがらせている姿が思い浮かぶ。そして、ウンザリするミックの姿も(苦笑)。
ストーンズのこの有名曲は、1965年当時、彼らのアルバム『OUT OF OUR HEADS』のアメリカ盤のみに収録された(LPでいうとB面の1曲目)。そして何故だか同アルバムのイギリス盤には収録されなかったのだ。ちなみに、アメリカ盤は全米アルバム・チャートでNo.1、イギリス盤は全英アルバム・チャートでNo.2を記録。同じアルバムがアメリカとイギリスでは収録曲が違っていたり、曲順が違っていたりすることはたまにある。時には、ジャケットのデザインが異なることも……。イギリスでは、すでにシングル盤が売れているのに、アルバムに同じ曲を収録するのをよしとしなかった、と言われている。他にももっと違う理由がありそうだが、今さら詮索したいとは思わない。ただちょっと、アメリカ盤に誇大広告の匂いがするだけで。
【筆者プロフィール】
泉山真奈美(いずみやま・まなみ)
1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。
筆者: 泉山 真奈美
カテゴリー: コラム
キーワード: 歌詞, 洋楽
2012年 1月 23日 月曜日 筆者: 富井 篤
6 「分類」の構成
今まで、折に触れ「トミイ方式」の「分類」について述べてきましたが、いよいよ今回からその本髄について述べていきます。
第13回、第14回で、「トミイ方式」の分類には以下のとおり7つあることを述べました。
| (1) アルファベット順 |
(75%、約260,000点) |
| (2) 50音順 |
(1%、約4,000点) |
| (3) 表現別 |
(7%、約25,000点) |
| (4) 品詞別 |
(4%、約13,000点) |
| (5) 構文別 |
(5%、約18,000点) |
| (6) 数量表現別 |
(4%、約15,000点) |
| (7) その他 |
(4%、約15,000点) |
注:カッコ内の数字は、前者は全収集例文数350,000点の中に占める割合、後者はその例文の数を表しています。
これら7つの「分類」について、順に述べていきます。今回と次回は(1) アルファベット順です。
しかし厳密にいいますと、いみじくも上記した名称が示しているように、(1)と(2)は「分類」ではなく「順番」です。すなわち、収集した英文データを「分類する」のではなく、そのデータが持つ属性、すなわち、(1)ならばそのデータの頭文字、をアルファベット順に、そして(2)ならばその言葉の最初の文字を50音順に「並べる」だけでよいものです。この「分類」と「順番」の違いは、(2) 50音順と(3) 表現別にも関連していますので、この時点で確実に把握しておいてください。
もう一つ大事なことがあります。それは、今までにしばしば出てきていますので、繰り返しになりますが、「収集・分類作業」というものを完全に「トミイ方式」に切り替えていただきたいことです。
それは、この収集・分類作業が、英文データを、その中の収集しようとする、あるキーワードの場所に収納するということです。たとえば、ある英文の中の provide という言葉を収集しようとする場合、その文章全体に provide という表札を付け、英和辞書のように provide の場所に収納することです。中学生の単語カードのように、provide という単語だけを書き、それを provide の場所に収納することではありません。これは、データをカードにコピーするなり、プリントするなり、手書きするなりして転記する場合でも、コンピュータにセーブする場合でも同じです。
(1) アルファベット順
基本的には、どのような単語を収集したらよいのかということに尽きると思いますが、極端な言い方をすると、英単語すべてです。上にも示してありますように、全収集例文数350,000点のうち、このアルファベット順の例文数が75%も占めていることからもわかります。しかし time-effectiveness を考えると、そういうわけにもいきませんので、ここでは、初期の段階で――ここが大事です。あくまでも、「初期の段階では」ということです。ということは、収集活動が進んで来ると、いつの時点か、必ずや、収集対象を広めていきたくなる時がやってくるということです――収集すべき単語類だけを、Q&Aスタイルで述べていくことにします。
どのような単語を収集するのですか?
基本的には、ご自分の英語のレベルや収集目的などによって違いますが、収集するかしないか、するならばどのような単語をするのかについては、次の4つの基準があります。
(i) 取る必要のない単語、取っても無意味である単語
(ii) この「アルファベット順」にだけ取ればよい単語
(iii) この「アルファベット順」には取らず、他の「分類」の中に取るだけでよい単語
(iv) この「アルファベット順」と他の「分類」の両方に取った方がよい単語
これら4つについて、以下、順に説明します。
(i) 取る必要のない単語、取っても無意味である単語
この中には、次のように、意味や用法や活用などに何ら重要な情報や変化を含んでいない単語は、最初のうちは除きます。例えば、以下のような単語です。
boy、girl、desk、car、tree、train、motorなどの普通の名詞
しかし、理想的には、時間と気力さえあれば、これらの単語も最初から集めておいた方が賢明です。例えば、train という言葉も、例文を集めておくと、. . . on the train . . . . という形で使われているでしょうから、ともすると in を使ってしまいがちな train の前置詞は、この例文を見れば on であることが分かります。また、motor という単語も、収集しておくと、a big motor とか a large motor などという形で出てくることがよくありますので、big か large か迷った時、例文をよく見ると a big motor は寸法や図体が大きいことを、そして a large motor は馬力などの容量が大きいことを、それぞれ表していることもわかります。その意味では、単純な形容詞である big や large もやがては集めたくなってくるはずです。
さらには、「制作・発表」機能が高じていき、英和辞典を作りたいという気持ちになった時には、何の変哲もない単語でも、単語という単語はすべて必要になるでしょうから、最初から集めておかなかったとすると、その時点で、急きょ、収集対象の幅を広げていかなければなりませんが、大変な作業になります。
(ii) この「アルファベット順」にだけ取ればよい単語
一般的には、(i)の範疇に入る単語以外はすべて取るべきです。その中でも、1つの単語が複数の意味を持っているものや、その用法に変化が富んでいるものや、活用の仕方が千変万化するものなど、すなわち、動詞、形容詞、副詞などは、ほぼすべて集め、この分類の中に入れます。例えば、以下のような単語です。
例:provide、apply、causeなどの動詞、available、possibleなどの形容詞、so、bestなどの副詞
(iii) この「アルファベット順」には取らず、他の「分類」の中に取るだけでよい単語
常識的にお分かりだと思いますが、すべての英単語をこの中に入れても意味はありません。下に示すように、他の「分類」の中に入れたほうがよい単語がいろいろあります。例えば、以下のように、それぞれ適切な「分類」の中に入れます。
a,theなど冠詞、at,in,of など前置詞、shall,will,can など助動詞は(4) 品詞別の中に、only,rather than,so that,too ~ to などは(5) 構文別の中に、number や、各種の物理量、例えば圧力、音頭、電圧、電流などは(6) 数量表現別の中に、さらには、ハイフン、コロン、セミコロンなどは(7) その他の中に、それぞれ入れます。
(iv) この「アルファベット順」と他の「分類」の両方に取った方がよい単語
単語の中には、この「アルファベット順」の中にも入れ、他の「分類」の中にも入れたほうがよい単語もあります。この範疇に属する単語は、非常に数が多く、その重要度も非常に高いものです。したがって、逆の考え方をして、“他の「分類」の中に入れた単語も、できれば、すべて――ただし、(iii)の範疇に入る単語は除く――mother data であるという考え方をして、この「アルファベット順」の中にも入れる”という習慣を付けておくとよいと思います。該当する言葉は無限にあり、ここでは説明しきれませんので、1つだけ、「構文別」という大分類の中の「無生物主語構文」の例を挙げて説明します。
Experience has shown that dryer costs are optimized if inlet temperature is 100°F.
この場合、ともすると、この英文全体を「無生物主語構文」の中にだけ入れ、experience とか、show とか、optimize などをこの「アルファベット順」の中に入れ損なったりすることがあります。このような点を注意する必要があるわけです。もう1つ「無生物主語構文」の例を挙げます。
This proves that hysteresis cannot be eliminated by normal adjustment.
ここでは、その理由は説明しませんが、このThis proves that. . . も「無生物主語構文」のうちの1つであると理解してください。この英文も、「無生物主語構文」の中だけではなく、prove とか、hysteresis とか、eliminate なども大事な単語ですので、この「アルファベット順」の中に入れるようにしてください。
同じ単語は1例だけ集めればいいのですか?
そうではありません。同じ単語でも、意味や用法がよほど似ていない限り、いくつでも集めるとよいです。極端な言い方をすると、ご自分にとって重要と考えられる単語が出てきたら、すべて収集するぐらいの気持ちで日頃から取り組んでおくとよいと思います。
それにはいろいろな理由がありますが、それについては、次回述べることにします。
【筆者プロフィール】
富井篤(とみい・あつし)
技術翻訳者、技術翻訳指導者。株式会社 国際テクリンガ研究所代表取締役。会社経営の傍ら、英語教育および書籍執筆に専念。1934年横須賀生まれ。
主な著書に『技術英語 前置詞活用辞典』、『技術英語 数量表現辞典』、『技術英語 構文辞典』(以上三省堂)、『技術翻訳のテクニック』、『続 技術翻訳のテクニック』(以上丸善)、『科学技術和英大辞典』、『科学技術英和大辞典』、『科学技術英和表現辞典』(以上オーム社)など。
2012年 1月 22日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 94
Happenings at the phone receiver
How to go about convincing others (not only laypeople, but researchers and colleagues from various academic backgrounds) to accept this new idea that “it is necessary to include the concept of character in communication and language research”?
As I said previously, I believe that the best method is to make use of various real examples in order to bring others, by hook or by crook, to an intuitive “understanding” of the necessity of the concept of character, and this is exactly what I have been doing in this series.
Of course, my ideas are only that —my ideas. But in fact experiments showing that the concept of character is necessary on a “scientific” basis have actually begun. For example, in a paper jointly authored by MOKHTARI Akiko & CAMPBELL Nick, “Speaking Style Variation and Speaker Personality” (in OKADA Hiroki, SADANOBU Toshiyuki (2010 Eds.) ‘The Potential of Cultural Literacy,’ Hitsuzi Shobo), the authors describe how they recorded a single speaker, who used 30 tones of voice, speaking with various people in-person and on the phone. They then used these recordings in an experiment. A report of their experiment, as simply summarized by me, is as follows.
The people selected as test subjects, i.e. the listeners, were unacquainted with the speaker of the recordings. The test subjects were instructed to listen to 30 voices. They were asked to listen to each voice carefully, and divide them into groups by speaker. Of course, all 30 voices were produced by one person, so one would expect they would not be able to distinguish them, but incredibly, the subjects were able to sort all the voices into multiple groups. The subjects were further asked to fill out a questionnaire regarding what kind of people they thought had produced the voices in each group. The subjects responded by assigning various ages and appearances to the speakers in each group. At the end of the experiment, the subjects were flabbergasted to learn that all the voices had been produced by a single person.
In conclusion, the authors observed that “the amount of variation in manner of speaking, depending on who the speaker was speaking to, far exceeded the expectations of the test subjects.” Stated another way, while the test subjects probably recognized that a speaker might change his/her style of speaking depending on the other party, their estimates of the amount of variation were far lower than actual variation. Why did the subjects, or rather why do we all, unrealistically underestimate this kind of thing so much?
I think it is because we “good citizens” live in a world of commitments, and are conditioned to accept certain kinds of ideas. When I see you and speak to you, I believe that you behave precisely like the kind of person you are, and that you will be that kind of person anytime, anywhere. I do not think to myself, you seem thus and so now, but I don’t know what you’re like when I’m not around. I want you to believe that I am precisely the kind of person I seem to be also. This does not just apply to you and me. I assume that all people (or at least all my acquaintances) accept the idea that each person behaves and speaks in a “straightforward” manner, just as their personality dictates. It is not that we categorically deny the existence of shady characters that, although they aren’t supposed to change, actually can, and often do change. It is just that we live our lives without even thinking about this (this is what it means to live a social life) and thus we can maintain our unrealistic estimates without a second thought.
When answering the phone, Japanese women (homemakers especially) use a voice that is completely different from their normal voice. They give their voice an inordinately high, cheerful tone, and begin by saying Hai moshi moshi, XX de gozaimasu (Yes, hello? This is XX speaking). I would bring up this change of voice in order to make my readers realize the necessity of the concept of character, but this is not a rule; in reality, there are also women, albeit lesser in number, who give their voice an inordinately low (calm) tone when answering the phone. Thus, today I introduced a “scientific” approach to characters, while making a profit by using my cherished fellow researchers’ abilities.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
2012年 1月 22日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)
<< 角色大世界――日本 94
发生在电话里的事情
为了能够使大家(不仅仅是普通的人们,还含有不同学问背景的研究者们和同行的人们)理解,“在交流或语言的研究中,有必要采纳角色形象的思想”这个新想法的话,应该怎么做才好呢?
就在上一节所叙述的那样,我自身认为对于现阶段的我来说最好的方法就是,施展各种手法展示形形色色的实例,以此来让大家能凭着直觉“意识到”角色形象的必要性。
当然,我的想法还只不过是我的想法罢了。不过,目前已经有一些研究在开始用“科学性”的手法来显示角色形象的必要性了。例如,モクタリ・明子(Akiko Mokhtari)和ニック・キャンベル(Nick Campbell)的合著论文<人物像に応じた個人内音声バリエーション(Jinbutsuzô-ni ôjita kojin’nai onseê bariêshon, 对应人物像的个人内部语音变化)>[冈田浩树、定延利之编(2010)《可能性としての文化情報リテラシー(Kanôsê-toshite-no bunka jôhô riterashî, 作为可能性的文化情报读取能力)》,ひつじ書房(Hitsuzi Shobo)所收]中,收录了一位说话者跟很多不同的人在电话里对话时发出来的30个语音。论文中报告了使用这些语音来进行的实验。用我的话来简单地解释论文的内容的话,是这样的。
参加实验的人都不认识提供语音的说话者以及她在电话里所对话的对方。实验中对参加实验的人们提出的指示是,“这里有30 个语音。好好听每一个语音,然后将这些根据说话者来分组”。事实上,这30个语音都出自于一个人,本来是无法分组的。但是参加实验的人们却很出色地将30个语音分成了若干组。之后,又通过问卷调查问到,“你认为发出各个组的语音的说话者是什么样的人物呢?”的时候,大家对应每个组分别回答了年龄层及外表都不同的说话者像。最后,告知参加实验的人们,其实这些语音都是一个人的声音时,大家都表现出非常惊讶的样子。
这个实验的结果说明,“一个说话者根据对话对方的不同而产生出的说话方式的变化,远远超过了参加实验的人们的想象”。从相反的角度法来说,即使参加实验的人们大概地知道,“说话者会按照对方的不同来改变说话方式”,但是大家会将这种变化远远地低估于现实水平。参加实验的人们,不,还有我们为什么会有如此不符合于现实的低估算呢?
这难道不就是因为,我们平常都习惯于作为“好市民”来生活在约定的世界里或者习惯了接受某种想法而导致的吗?现在在我面前说话、行动的你,就是这般的人物,所以我相信无论何时何地你都是这样的人物。我不会去想,“现在,在我面前的你是这个感觉,我不在的时候你会是如何的?”。也请你相信我,我就是这样的人。不仅仅是你和我。大家都(至少是我们认识的人都)是在按照各自的人格,“不加修饰”地行动、“不加修饰”地说话。我们习惯了接受这样的想法,对于“只不过就是在表面上没有变化而已,其实是可以改变的,而且事实上经常有变化”等等的可疑的角色形象的存在,我们何止会去断然否定甚至连想都不会去想。正因为我们是这样活着的(有社会性地生活就是这样的吧),所以不就会毫不犹豫地持有不符合于现实的估算了吧?
说到在电话里的对话,日本的女性(一般是以家庭主妇为主吧)在接打进来的电话时,会发出跟接电话之前判若两人似的清高且一本正经的声音说:“喂,您好。我是○○”。我呢,本来是想利用这种声音的变化来让读者们“意识到”角色形象的想法的必要性,但在事实上还有一些少数的女性相反地用“更低的(稳重的)声音来讲话”,所以也就不能一概地说明什么了。就这样,在这一节中,为了要介绍关于角色形象的“科学性”研究的例子,顺便就用研究伙伴的论文来借花献佛了。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
2012年 1月 21日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫
地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第185回 ご当地マスコットがしゃべった!
「ゆるキャラ」と称され、全国各地で親しまれているご当地マスコット。名産品などにちなんで作られるものが多い中にあって、ありそうでなかったのが、ご当地のコトバをしゃべるマスコット。
が、ありました!その名も「いまばりゆるきゃら バリィさん」(愛媛県今治市)。

【いまばりゆるきゃら バリィさん「ステッカー」】
2009年5月、瀬戸内しまなみ海道(尾道市~今治市)10周年を盛り上げようと製作されました。
焼き鳥日本一のまち・今治生まれということで、トリがモチーフ。今治タオルの腹巻をし、来島海峡大橋形の王冠をかぶり、手には船の形の財布を持っています。そして、今治地方の方言を使いこなすことも、大きな特徴とされています。
「いまばりのことしっとるで? なんでもきいとん おしえたるけん!」のセリフにたがわず、今治弁講座も開いてくれています。
(クリックで拡大表示します)

左:【バリィさん「手ぬぐい講座」】 右:【バリィさん「メモ帳」】
このほかにも、ゴーフレット・クッキー・ドーナッツ・お酒・フィナンシェ・ふりかけ・Tシャツ・クリアファイル・カレンダー・年賀状・ぬいぐるみ・ストラップ・ノートといった提携商品が作られています。
あえて今治弁を語らせた点について、製作サイドでは、
「今治弁がどんなものなのか、たくさんの人に知ってもらいたいと思っています。それと同時に、今治から県外に出られている方々には、なつかしんでもらいたいと思っています。方言は、人の心をあたたかい気持ちにする力があると思いますので、これからも今治弁で話していくつもりです。」
とおっしゃっています。
東京都内のアンテナショップでも、懐かしがっているお客さんが多く、地元で親しまれているマスコットだということがよくわかります。
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載です。
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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 1月 20日 金曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第157回 高知の地名の文字
せっかく飛行機にまで乗って土佐に旅立つのだから、地域の文字をたくさん調べてきたい。
「鵈」つまり「耳へんに鳥」という字が県内の小地名にあるのが気になる。一緒にと言ってくださる新聞社の方と話すが、やはり場所が遠すぎる。これには、なんとなく既視感があった。小著やメモを確認すると、すでに電話では調査をしてあった。この字体をもつ国字は、なぜか小地名にときどき現れる。JIS第2水準に入ったのも、「鵃」が一時的に変化したらしい怪しげな小地名からだった。さらに秋田にも「ときとうやぐらまつ」なる小地名の中に、この字が使われている。これは以前携わっていた電子政府関係の事業で、総務省などから資料を提供してもらい、それを元に現地へ行って、地元の資料で存在を確かめることができた。
「南国南支店」、南国高知らしい店の名前だ。地名の醸しだす雰囲気のとおり秋でも暖かだった。テレビでは、この「南国市」を濁らずに「なんこくし」と発音していた。固有名詞での西日本の連濁回避の傾向性と一致する。でも、当地のテレビでは、地元で「なんこく」のほか、「なんごく」と発音している人も映っていた。発音に揺れがあるのだろう。ここの「隅田」は「すみだ」と発音するようだ。
関東では、よく「茨城」は「いばらき」で、「いばらぎ」とは濁らないのだ、と目くじらを立てる人がおいでだ。「いばらぎ」は大阪の地名の「茨木」で、区別をしているのだともいう。正式には濁らないとされているが、これは一般的な「山崎」「中島」などの姓とは逆となっている。茨城でも、とくに北部では「いばらぎ」とも発音する人が少なくないそうで、伝統的な方言ではむしろそうなりそうだ。根拠が薄いのに規範意識がマスメディアによって強化されることがある。これが当てはまるかどうかは別として、指摘する自己が容易に高みに立った気分になれてしまうというのが、「正しい日本語」論の怖さだ。柳田国男も兵庫県出身、なるほど「やなきた」と濁らないそうだ。東京では「やなぎだくにお」でないと、一般には通りが悪い。
柳田の言うとおり日本列島は、その岬の隅々にまで人が行き着いて、そこで暮らしてきた。むろん人口密度は、平野部に集中しているが、山林もしばしば開拓され、山頂や半島まで、確かによく人が住んでいる。
高知では、空港から市内に向かうバスの中から、「大ソネ東」と電柱に記されているのが見えた。本来は「埇」つまり「土偏に俑の右」という字だろう。高知の地域文字がカタカナ表記されている。痩せ地という語義から見て「埆」(カク)という漢字から転じたものであろう。「埵」に作る地も県内にあるが、これも字義による地域訓か変形だろう。また、東北の宮城には「埣」(「土偏+卆」)といった漢字(字義にくわえ、ソツも発音が近い)が小地名に偏在し、姓などでは「曽根」「宗根」などの万葉仮名式の表記が各地に見られる。高知市内にも「高埇」(たかそね)がある。食指が動くが降りてまで寄るゆとりはなかった。「嶺北」(れいほく)は、この地にも見られた。福井だけではない。
電車からは、看板に「万々商店街」と見えた。電車やバスでは眠ってしまうこともあるが、これはもったいない。たまたま線路が引かれた場所に過ぎないといった背景はあるのだが、それも地元の文字生活の一部を形成しているはずだ。車窓へと入る日射しが眩しい。しかし、カーテンを閉めると観察ができず、写真も撮れなくなってしまうので、ここは耐える。
バス停にも「万々」があった。この「まま」という語は、東日本では『万葉集』の時代から「真間」などと漢字を当てて使われている方言で、崖や斜面を表す。『国字の位相と展開』に書いたとおり、山形で「圸」、相模で「壗」、伊豆では「墹」など、地域ごとに国字が作られてきた。先の「万々商店街」には、少し離れて山があった。川も流れていた。これらと同義なのだろうか。西日本にも「まま」地名はなくはないが、「継」「飯」など、表記自体に別の意味を感じさせるものが目立つ。表記された時代に意識されていた語義が反映している可能性がある。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
* * *
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は街の「玉子」もテレビでは「卵」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 1月 20日 金曜日 筆者: 山本 貴光
第41回 アリストテレスの区別――「エピステーメー」と「テクネー」
西先生が引用した「サイエンス」と「アート」の違いを論じたラテン語交じりの文章は、どうやら『ウェブスター英語辞典』からの引用であり(これについてはもう一点確かめねばならないことがありますが次回とします)、同辞典はカールスレイクの著作からそれを引用しており、カールスレイクはどうやらそれをアリストテレスの『分析論後書』から取っている、という様子が見えてきました。これまた大いなる伝言ゲームです。
では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」の違いについて、どう考えているのでしょうか。前回見た『哲学字彙』の示唆に従って、『分析論後書』を覗いてみます。
ただし、『哲学字彙』に示されていた『分析論後書』のページ数は、どの版のものか分からないため、直接参考にはできませんでした。以下に示すのは、『哲学字彙』が示している箇所と一致するか否かは分かりませんが、『分析論後書』に見られる「サイエンス」と「アート」の違いに触れた箇所です。第2巻第19章にこういうくだりがあります。
生成するものについては技術の端初が、存在するものについては知識の端初がある。
(アリストテレス『分析論後書』第2巻第19章、100a10、加藤信朗訳、
『アリストテレス全集』第1巻、岩波書店、p.770)
この訳文で「技術」と訳されている語は、ラテン語訳ではartis、ギリシア語原文ではτεχνη(テクネー)です。「知識」のほうは、ラテン語訳がscientiaeで、ギリシア語がεπιστημη(エピステーメー)です。なお、上の邦訳では「エピステーメー」は「知識」の他に「科学」とも訳されています。
上の引用から、アリストテレスが、「テクネー(技術)」と「エピステーメー(知識)」を区別している様子が見えますね。「テクネー」はつくられるものに関しており、「エピステーメー」は存在するものに関するのだというわけです。
この『分析論後書』という書物は、知識やその学問的な論証がどのように成り立ちうるかということを論じたものですが、「知識(エピステーメー)」や「技術(テクネー)」がなにかということそのものについては述べていません。
そこで、アリストテレスの別の著作で補っておきたいと思います。『ニコマコス倫理学』にうってつけの説明があります。まず「エピステーメー」に関する議論から見てみましょう。
われわれが学問的に知る対象とは、「他の仕方ではけっしてありえないもの」である、と想定している。(中略)「学問的に知られるもの(エピステートン)」とは必然によって存在するものである。(中略)
学問的知識とは、「論証にかかわる状態(アポデイクティケー・ヘクシス)」であり(中略)人が、あるものを一定の仕方で信じていて、しかもその諸原理が彼に認識されているとき、その場合に、彼は学問的に知っていると言えるのである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第3章、1139b、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.260-261)
途中を省略していることもあって、少し分かりづらいかもしれません。ここでの関心に沿ってまとめ直すとこうなります。人が学問的知識(エピステーメー)を持っていると言えるのはどういう場合か。それは、必然によって存在するものについて、その諸原理を論証できるかたちで認識している場合だ、というのです。ここで「必然による存在」というのは、当世風に言い直せば、法則に従う自然や数学などのことです。アリストテレスは、他のなにかのためではなく、知るために認識することを哲学の営み(知るのを愛すること)だとも言っています(『形而上学』982b)。
他方で「技術」についてはどうか。同じ『ニコマコス倫理学』で、こう述べています。
あらゆる技術は事物の生成にかかわるのであり、技術の行使というのは、存在することも存在しないことも可能な事物、そしてその原理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを「理論的に考察する(テオーレイン)」ことを基礎とする。すなわち、技術は、必然によって存在したり生成したりするものごとを対象とせず、また自然によって存在するものごとも対象としないのである。なぜなら、自然によって存在するものは、みずからの内に存在の原理をもっているからである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第4章、1140a、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.262-263)
ここでは「技術(テクネー)」というものが、事物の生成、つくることに関わっていると述べられています。先に見た「学問的知識(エピステーメー)」が対象とするような「必然によって存在するもの」や「自然によって存在するもの」とは区別されているのがポイントです。このアリストテレス先生による区別こそが、前回まで見てきたような「サイエンス(学)」と「アート(術)」の区別に響いていることがお分かりになると思います。
ついでながらもう一つ気になるのは、そうしたアリストテレスの見立てが、彼が書いたであろう古典ギリシア語ではなくラテン語訳で引用されていたことです。これはなぜでしょうか。
推測に過ぎませんが、二つばかり考えられることがあります。一つには、ヨーロッパにおいて長きにわたり種々のラテン語訳でアリストテレスが読まれてきた伝統があるからではないかと思います。また、英語のscienceやartの淵源は、古典ギリシア語の「エピステーメー」と「テクネー」にあるにしても、語の形の上からも直感的に見てとりやすいのは、そのラテン語訳であるscientiaとartesだという事情も働いているのかもしれません。
とにもかくにも議論の源である古典ギリシアの様子を見ましたので、再び西先生のほうへと引き返しましょう。「百学連環」そのものの読解に戻ります。
<< 前回
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
2012年 1月 19日 木曜日 筆者: 山口 治彦
第20回 『ドラゴンクエスト』の呪文
辰年になったからという訳ではありませんが,『ドラゴンクエスト』の呪文についても考えてみましょう。『ハリポタ』のあとは『ドラクエ』です。
『ドラクエ』は,コンピュータゲームの人気シリーズです。1986年に第1作『ドラゴンクエスト』が発売されて以来25年あまり。今では日本だけでなく世界的にヒットしています。2009年に発表された『ドラゴンクエストⅨ:星空の守り人』は,累計出荷本数で530万本を突破しました。
『ドラクエ』は,プレーヤが主人公となって冒険と戦いを繰り広げるロールプレーイングゲームです。たとえば,第1作目ですと,世界を絶望に陥れる竜王を倒すため,「選ばれし」勇者であるあなたは,竜王の手下と戦って経験値を上げ,隠されたアイテムを探し出す。そして,物語の最後に竜王と相見える。そういうゲームです。
敵と戦うときには魔法が使えますが,その呪文が秀逸なのです。
ただ,白状しますが,私は『ドラクエ』で遊んだことがありません。取り扱うデータに深く沈潜したことがないのは,談話研究者として恥ずかしいかぎりです。
そこで,今回,この文章を書くにあたり,『ドラクエ』デビューを目論みました。やはり,フィールドワークはとっても大切ですから。
ですが,性格からしてゲームにハマるのは目に見えています。仕事は結構忙しいですし,いい年をしたオヤジが何を今さら『ドラクエ』?と周囲は冷ややかな反応。で,この微妙なプレッシャーに負けてしまい,あえなくデビューを逃してしまいました。
閑話休題。
前置きが長くなりました。『ドラクエ』シリーズに出てくる呪文の観察からはじめましょう。第5作目あたりまでの呪文を中心に扱います。比較的初期の呪文のほうが,その体系と制約が見えやすいからです。コマで区切ったひとつひとつが呪文です。『ドラゴンクエスト25thアニバーサリー:冒険の歴史書』からおもなものを抜粋します。
| (26) |
a. |
攻撃呪文: |
メラ,メラミ,メラゾーマ,ギラ, ベギラマ,べギラゴン,ヒャド,ヒャダルコ, ヒャダイン,マヒャド,ライデイン,ミナデイン, ギガデイン,ドラゴラム |
|
b. |
回復呪文: |
ホイミ,ベホイミ,ベホマ,ベホマラー, ベホマズン,キアリー |
|
c. |
補助呪文: |
ラリホー,ラリホーマ,マホキテ,マホカンタ, メダパニ |
呪文の意味は適宜説明することにして,まずは,(26)に挙げた呪文を『ハリー・ポッター』の呪文と比べてみましょう。
(27) Petrificus Totalus(ペトリフィカス・トータラス), Expelliarmus(イクスペリアーマス), Expecto Patronum(イクスペクトー・パトローナム), Wingardium Leviosa(ウィンガーディアム・レヴィオーサ), Obliviate(オブリヴィエイト), Reparo(レパーロ), Finite Incantatem(フィニーテ・インカンテイタム), Alohomora(アローハモーラ), Lumos(ルーモス)
『ドラクエ』の呪文が,『ハリポタ』のそれと共通する部分は,①真性型呪文である,②ことば遊びがある,ところです。そして,異なるのは,③短い,④オノマトペの語感を利用している,⑤類似する呪文に階層性がある,という点です。
この特徴はどのような動機に支えられているのでしょうか? この連載の第1回で考えたことですが,モグラの形態的特徴がその生息環境に適合していたように,『ドラクエ』の呪文はコンピュータゲームというジャンルに見合ったものではないでしょうか。次回以降で考えてみましょう。
<< 前回
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【筆者プロフィール】
山口治彦(やまぐち・はるひこ)
神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。
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【編集部から】
雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。
2012年 1月 19日 木曜日 筆者: 安岡 孝一
タイプライターに魅せられた男たち・第22回
ユタ州成立後のマッガリンは、銀行家および実業家として、どんどん成り上がっていきました。1899年にはソルト・レーク・ストック&マイニング社の設立に携わり、1905年にはソルト・レーク・セキュリティ&トラスト社の頭取に就任しています。また、この間に、家庭用ゴミ焼却炉の生産・販売にも手を染め、それに関する特許を3つ取得しています(United States Patents Nos.704359,779960,and 835311)。
一方、マッガリンとLDSの確執は、ますます深まるばかりでした。連邦議会上院は1904年1月、LDSのスムート(Reed Owen Smoot)上院議員に対する査問を開始しましたが、これに際してマッガリンは、スムートの議席剥奪を主張し、あちこちの新聞インタビューで「反モルモン」の旗印を前面に押し出したのです。結局、1907年2月20日の罷免投票でスムートは勝ち、上院の議席を保持しました。しかしそれは、マッガリンとLDSの確執を、さらに助長する結果となったのです。
他方、マッガリンは、ユタ州やその周辺地域の開発事業にも力を注ぎました。ネバダ州トノパー近郊の鉱山発掘を手始めに、ハモンド運河(カトラー・ダムからブリガム・シティに至る高低差1300mの運河)の開発、各都市でゴルフ場の造成をおこなったのです。ところが、開発事業も中途の1915年10月、ソルト・レーク・セキュリティ&トラスト社が乗っ取られました。LDSのキャノン(George Mousley Cannon)が仕掛けたもので、SLCC (Salt Lake Commercial Club)議長のウッドラフ(Edward Day Woodruff)が、理事取締役の座に着きました。その直後にマッガリンは頭取を辞職し、カリフォルニア州オークランドに脱出しました。
オークランドの郊外には、マッガリンが造成の一翼を担ったセコイヤ・カントリー・クラブというゴルフ場がありました。54歳のマッガリンは、オークランドで開発をおこなう実業家として、また、このゴルフ場をホームとするプロゴルファーとして、残りの人生を生きることを決意したのです。そして18年後の1933年8月17日、マッガリンは永眠しました。72歳でした。マッガリンの葬儀は、セコイヤ通り9000番地の自宅でおこなわれ、セント・ルイス・カトリック教会で安息のミサがおこなわれました。
セコイヤ・カントリー・クラブのすぐ北側には、マッガリン通りと名づけられた袋小路が、今も残っています。セコイヤ通り9000番地の袋小路を、マッガリンにちなんで改名したのです。しかし、オークランドの東のはずれにあるこの小さな袋小路が、タッチタイピングの祖にちなむ通りであることを知る人は、もうほとんど残っていません。

マッガリン通り入口
(フランク・エドワード・マッガリン終わり)
【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)、『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。
編集部から
安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
2012年 1月 18日 水曜日 筆者: 泉山 真奈美
歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌物語~ 第15回

●歌詞はこちら
http://www.azlyrics.com/lyrics/steviewonder/livingforthecity.html
曲のエピソード
1970年代、天才の名をほしいままにしたスティーヴィー・ワンダー。彼の音楽的感性が極限まで研ぎ澄まされていた頃の傑作『INNERVISIONS』(1973/R&Bアルバム・チャートNo.1、全米No.4/タイトルはスティーヴィー自身による造語。「内なる視覚」という意味)からのシングル・カット曲で、R&Bチャートでは堂々のNo.1を獲得した。スティーヴィーがこれまで世に送り出した数あるメッセージ・ソングの中でも、際立って辛辣な言葉が綴られていると言っていいだろう。
曲の主人公は、故郷ミシシッピでの貧しい暮らしから脱出するべく、一旗揚げようとニューヨークへ向かう少年。邦題の「汚れた街」は、彼がニューヨークで大気汚染(air pollution)に辟易する、というフレーズから着想を得たもので、現在も日本盤のCDで使われているもの。この曲がヒットした2年後、スティーヴィーが幼少期から憧れていたレイ・チャールズ(Ray Charles/1930-2004)がカヴァーした(R&BチャートNo.22、全米No.91)ことが、スティーヴィーをいたく感激させた、というエピソードが伝わっている。
曲の要旨
働きづめの両親、兄弟姉妹と共にミシシッピ州に暮らす一人の少年。貧困と人種差別が渦巻く故郷での暮らしに耐え切れなくなり、彼は大都会のニューヨークを目指す。が、そこで待っていたのは、息もできないほど汚染された空気、そして街中でうごめく麻薬の売人たちの魔の手だった――。ついに彼もその魔の手に堕ち、麻薬の密売に手を染めてしまう。警察に捕まった彼は、麻薬密輸の罪に問われ、10年の刑をくらう羽目に……。
1973年の主な出来事
| アメリカ: |
アメリカ軍が南ヴェトナムから完全に撤退。 |
| 日本: |
韓国の政治家、金 大中が都内のホテルで拉致される。世に言う「金大中事件」。 |
| 世界: |
第4次中東戦争に端を発する石油危機。 |
1973年の主なヒット曲
Killing Me Softly With His Song/ロバータ・フラック
Crocodile Rock/エルトン・ジョン
My Love/ポール・マッカートニー&ウィングス
Let’s Get It On/マーヴィン・ゲイ
Angie/ローリング・ストーンズ
Living For The Cityのキーワード&フレーズ
(a) hard time Mississippi
(b) four walls
(c) living for the city
今では全米の50州で施行されている“King Holiday(毎年1月の第3月曜日)”。または“Martin Luther King, Jr. Day”とも呼ぶ。公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング Jr. 牧師(Martin Luther King, Jr./1929-68)の誕生日を記念した国民の祝日だが、1983年に制定され、1986年に施行された当初、昔から人種差別が根強く残っていた南部の一部の州では、施行が見送られた。そこには、南部の州の中でも最も人種差別が激しいとされたミシシッピ州も含まれている。
スティーヴィーがまだ“Little Stevie Wonder”を名乗っていた10代の頃、たまたまツアー先でキング牧師と遭遇し、「君は盲目なのに頑張っているね」と励まされ、その時以来、キング牧師の信奉者となった。“King Holiday”の実現に向けてスティーヴィーが奔走したのには(1980年代初頭、熱心にその運動に関わっていた)、そうした過去の経験があるからである。アルバム『HOTTER THAN JULY』(1980/R&Bアルバム・チャートNo.1、全米No.3)の収録曲「Happy Birthday」はキング牧師に捧げたナンバーで、“King Holiday”が施行される前までは、必ずコンサートのアンコール曲としてパフォーマンスしていた。
そのキング牧師の有名なスピーチ“I Have A Dream.”には、1960年代の南部でとりわけ人種差別が根深かったことをうかがわせる箇所がある。具体的に州の名前を挙げており、もちろん“Mississippi”も含まれていた。スティーヴィーの頭には、恐らくそのスピーチがあったと思う。ゆえに、(a)のフレーズが生まれたのではないだろうか。ここの“hard time(困難、厄介、迷惑…)”は形容詞的に使われており、(a)を意訳するなら「生活が苦しいミシシッピ」となる。もちろん、その苦しさの中には「(周りから受ける)人種差別」も含まれているだろう。3文字から成る(a)のフレーズだけで、主人公の青年がいかに苦労して育ったかが判る。
生活の苦しさは、狭い住居にも滲み出ている。(b)は、「四方の壁」、つまり、住居がワン・ルームであることを示唆している。「四方の壁に囲まれて……云々」というフレーズは、愛しい人と別れてしまった失恋ソングにも散見される表現で、そうした場合は「独りっきりになってしまった部屋で」という意味で使われることが多いが、この曲の場合は「自分が住んでいる家にはひと部屋しかない」ことを示しているわけだ。その空間で、主人公の少年は、両親、兄(もしくは弟)、姉(もしくは妹)と共に、合計5人家族で肩を寄せ合うようにして生活している。何でもないフレーズのようでいて、実は(b)はこの一家の貧しさを表現しているのだった。英文のセンテンスに“four walls”と出てきたなら、それが“a room”を表すと思ってまず間違いない。
“live for ~”は、「~を糧に生きる、~を生き甲斐として生活する」という意味だが、ここではいささかニュアンスが異なる。根拠は、タイトルにはない“just enough”の部分。“enough”には「充分だ」の他に「もうたくさんだ」という意味もあり、(c)に“just enough”を付け加えて解釈するなら、「こんな街で暮らすのはもういい加減にウンザリだ!」となる。「ここで暮らすのは、もう我慢の限界を超えている!」という解釈もアリ。そこでこの青年は、大志を抱いて大都会ニューヨークへと旅立つのだった。
1970年代のニューヨークは、犯罪率も高く、いわゆるゲットーと呼ばれる貧民街(ハーレム、サウス・ブロンクスなど)では、麻薬も氾濫していた。が、歳月を経て、ニューヨークはこぎれいでこじゃれた街へと変貌する。特に、1994年から2001年までニューヨーク市長を務めたジュリアーニ(R. W. L. Giuliani/1944-)が敢行した街のクリーン・アップ大作戦以降、マンハッタンの性風俗の店は一掃され(その分、行き場を失った街娼が5番街のビルの陰に潜んでいることもあった)、実際、犯罪率も低下した。ニューヨークに代わって全米の犯罪発生率の上位にランクされたのは、アトランタ、デトロイト、ワシントンD.C.などである。仮にこの曲が1990年代半ば頃に作られたとしたら、スティーヴィーは主人公の青年をニューヨークへ赴かせただろうか? 最近、この曲を聴く度に、漠然とそのことを考えてしまうのである。
【筆者プロフィール】
泉山真奈美(いずみやま・まなみ)
1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。
筆者: 泉山 真奈美
カテゴリー: コラム
キーワード: 歌詞, 洋楽
2012年 1月 15日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 93
Unnatural passages in authoritative famous quotes (Part 3)
In the previous two parts (92 ・ 93), we saw that the younger brother in Natsume Soseki’s Koujin used ..desu ze and …de saa when addressing his older brother. In Sakaguchi Ango’s Furenzoku Satsujin Jiken we saw a famous detective who used …de saa and …masen ze and the maid who said Okusama, ojoosama wa gero haite… (Madam, the young miss puked). The heroine in Tsuboi Sakae’s Nijuushi no Hitomi uses …masu na and her smile is described as “sneering.” Wouldn’t looking at these kinds of unnatural expressions, no matter how authoritative these famous quotes are, muddy the connection between Japanese language and character, and warp their mutual relationship?
That is definitely a possibility. But we needn’t worry about it too much. This is because the problem we are most concerned with is the realm of “modern Japanese,” which, in its own way, we are sufficiently capable of understanding by intuition.
To be sure, the …desu ze, …masen ze, and …de saa of the brother in Koojin and the detective in Furenzoku Satsujin Jiken, and the …masu na in Nijuushi no Hitomi would be unnatural as modern language. However, this is something that we intuitively understand. We needn’t consider these to be examples of modern Japanese. That’s all there is to it.
On the other hand, when the maid in Furenzoku Satsujin Jiken, said Okusama, ojoosama wa gero haite, kurushiminasu tte imasu ga… (Madam, the young miss puked and said she’s in pain), we can sufficiently understand, even from a modern perspective, the obtuseness of her use of refined words, like okusama (madam) and ojoosama (young miss) together with the vulgar gero haite (puke) to be the behavior of a certain type of “country folk” character.
The “sneering” of the heroine in Nijuushi no Hitomi probably also seems normal, even from modern aesthetics, when we consider that it takes place in an opening scene eight years after the previous chapter, and the heroine is being introduced not as a heroine, but as an unidentified woman.
Thus, we cannot dismiss “the young miss puked” or the “sneering” as artifacts of the olden days that do not apply in modern times. We should recognize them as modern Japanese, but as examples of twists on speakers and scene.
These are simple examples because they are things that we understand intuitively. In cases where it is best to use intuition, there is no reason not to.
Unfortunately, our understanding is extremely limited when it comes to the root problem of linguistic communication —that is, the problem of what we are doing with language when we get together in groups. It is still very difficult for us to know even what position a given behavior occupies in the world of linguistic communication at large. Even if we try to find its position, we cannot even plot its longitude and latitude, as we haven’t yet discovered where the poles are on the globe of linguistic communication nor the equator. This is the extent to which we do not understand the world of linguistic communication.
The fact that our understanding of it is so limited indicates that what we call meaning within this world is something created by the people living in it, and not something that can be measured objectively from the “outside.” If we try to observe something in a straightforward manner, this tends to eliminate intuition. However, uniquely in the case of our own linguistic communication, intuition is a crucial tool, apart from objective measurement, when making observations.
In backing up my assertion that the concept of character is necessary in observing the Japanese-speaking community, I have not produced any byzantine formulae or graphs. Rather, I think it is best to use fragments of noted literary works, because these will give readers an intuitive understanding of character.
And also, I admit, because I like such literary works.