日本語・教育・語彙 第13回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(8):そもそも美しさとは何か

2017年 8月 18日 金曜日 筆者: 松下達彦

第13回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(8):
そもそも美しさとは何か

 多忙に加えて専門外のところに踏み込んでしまったことで、長らく原稿執筆できなかったが、これからはさぼらずに書き続けたい。

 第11回第12回では「ことばの美しさ」について音と意味の面から考えてみた。音は意味につながり、意味は人間につながっている。美しいものに触れたいという人間の願望も底に流れている。では、ことばの問題を離れて、そもそも美しさ、美とは何だろうか。私は美学や芸術の専門家ではないが、この世の中で「美しい」と言われているものの共通点に思いを巡らせてみたい。

 まずはネット検索で「美しい」と呼ばれているものを片っ端から調べて、心に引っかかったものを挙げてみよう。

 

 美しいといわれて思い浮かべる芸術には、「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」などが挙げられる。整った顔立ちや魅惑的な微笑、また黄金比などが美しさの要因と一般には言われる。そうした造形的・芸術的な美以外にはどのようなものがあるだろうか。

 「私が醜いものを最高に美しいと感じる理由」(jMatsuzaki http://jmatsuzaki.com/archives/15414)では美しいものを「意義深いもの」「飾らず、原始的で、純粋なもの」と定義づけている。「泣きじゃくる人間や怒り狂う人間の顔は、すましたモデルの顔より綺麗ではないかもしれませんが、純粋であることによって美しいのです」とある。ここでいう純粋さというのは、利害や打算を超えてある一つの方向性や価値を象徴するものということではないか。これは私の考える美の定義に近い。純粋な方向性というものを定義に含めないとさまざまな美しさを一つの定義で語ることは難しいと感じるからである。

 「醜い」とされるものを美しいと捉える意見はほかにもある。例えば「美しさを支える醜いアート」(ぐのっち https://matome.naver.jp/odai/2135541309174212901)、「世界に認められた「醜い」からこそ「美しい」モデル」(Asuka Yoshida http://beinspiredglobal.com/ugly-is-new-beautiful)、「こんなに醜いのに「もっとも美しい賞」を勝ちとったヤギ」(らばQ, zeronpa http://labaq.com/archives/51040806.html)である。なぜ「醜い」ものを書こう(見せよう/見よう)とするのだろうか。芸術を真実の表現と理解だと考えれば、真実が美しさにつながるのだ、と考えることができる。醜いことが美であるというのは形容矛盾だが、美をある種の方向性を持つものと考えれば、半端でないことが真実を焦点化して伝えるのだと言えよう。

 音楽の世界にはいわゆる不調和音の連続で構成される前衛的な音楽がある。シェーンベルクが完成させたといわれる十二音技法の曲などは現代の前衛音楽にも多大な影響を与えたと言われるが、いわゆる心地よい音楽ではないだろう。なぜシェーンベルクが無調性の音楽を志すようになったのか、ここで語る用意はないが、既存の権威的な美しさからの解放、あるいは挑戦であったことは間違いない。これも真実の表現の一つだといえるかもしれない。

 ところで、上述の醜くて美しいヤギの話はサウジアラビアで行われたコンテストの話で、紹介者の書いた文章の冒頭に「美しさの基準なんてものは文化や時代によって変わるもの」とある。当然だが、何を美しいと考えるかは時代や場所により大きく変化する。平安時代にふくよかな頬と切れ長の目が美しいとされていたことは有名である。そこには、見る側は一方的に美しさを消費しているだけではなく、美しさの社会的な概念を構成する主体でもあるという考え方がある。例えば山田良治氏は景観形成の公共性を論じる中で「(美は)対象を反映する人間の主観に属する」という立場に立つと述べている(山田2009, p.279)。さらに狩猟の対象としての動物を描いた洞窟壁画を例に「労働対象に対する関心の生成が美意識形成の萌芽である」(山田2009, p.280)と述べ、都市景観などの人工的景観について労働との関連を論じている。「社会的美意識」について「道徳やイデオロギー,科学的認識など他の意識諸形態の影響を受け,それらとの相互作用の中で存在」し、「多層的に形成される社会的意識の構成要素として,社会的意識一般との相互関係の中で多様に変化・発展」し、「労働生活・消費生活の多様化・高度化とともに」「人間の美意識と美しさへの感動もまたその形態及び内容の両面で同様に進化していく」としている(山田2009, p.281)。

 「ジョブズは、醜い技術の世界を、美しくした」(“R.I.P. Steve Jobs. You touched an ugly world of technology and made it beautiful.”)とはニューヨーク・タイムズに引用された言葉であるらしい(茂木健一郎 http://blogos.com/article/20787/)。言うまでもなくAppleの創業者であるスティーブ・ジョブズの美学について述べた言葉である。ここで茂木氏は、ジョブズがユーザーの「エクスペリエンス」の質を重視したことをたたえている。そしてそれに賛同するユーザーがいたからこそ、そこに一つの新しい美の形が生まれたのだといえる。美は商品化され消費の対象にもなるが、機能を一義的な目的に制作される製品であっても美は重要な要素になる。

 これらに共通するのは、人々からの働きかけによって美が作られ、そして形を変えてゆく、ということであろう。人々の体験を高めることによって美しさを得ようとする、その試みはいつの時代でも行われていることなのだろう。

 

 ここで論じてきたことをまとめると、おおむね以下の2点に集約できる。

 第一に、個性や真実が、ある一つの方向性や価値をもつものとして純粋に表現されたものが美しさの一つの要件ではないか、ということである。

 第二に、美しさの社会的な基準は時代や文化によって変わりうるものであるということである。人々が持っている美しさの基準によって、その産物として作品や環境・景観が作られるが、出来上がった産物自体がまた人々に働きかけ、新たな美しさの基準を生み出していく。人々と作品・景観の間の相互作用が美しさに影響するということである。

 この2点を、前回までの言葉の美しさに議論に引き付けて考えると、言葉の美しさにも様々なタイプのものがありえるのであり、しかもそれは言葉と、それを使う人々が相互に影響しあって変化していくものだ、ということになるであろう。言葉の美しさとは、例えば朗誦される名作などの中だけに閉じ込められて存在するようなものではなく、使い手の創造性、受け手の想像力によって次々と生み出されていくものであるし、日常の中にもハッとさせられるような真実があり、それを含む言葉に気づかされることでもある。

 

参考文献

山田良治(2009)「美意識の発展と景観形成の公共性」(『和歌山大学観光学部創設記念論集』2009, pp.279-292)

 

※上記URLの最終確認日:2017年8月7日

 

<< 前回

 

◆この連載の目次は⇒「日本語・教育・語彙」目次へ

 

【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は不定期の金曜日を予定しております。


『日本国語大辞典』をよむ―第14回 レストランお江戸のメニュー

2017年 8月 13日 日曜日 筆者: 今野 真二

第14回 レストランお江戸のメニュー

 『日本国語大辞典』をよんでいくと、さまざまな食べ物や料理が見出しとなっており、こんな料理がかつてはあったのか、と驚く。使用例が載せられていないために、いつ頃の時代の料理か確認できないものもあるが、だいたいは江戸時代にあった料理であると思われるので、「レストランお江戸のメニュー」という題にした。

アチャラづけ【阿茶羅漬】〔名〕《アジャラづけ》漬物の一種。蓮根、大根、カブなどや果実などを細かく刻み、トウガラシを加え、酢と砂糖で漬けたもの。近世初期にポルトガル人によってもたらされたものか。

 「方言」の欄を見ると、「(1)刻んだ野菜を三杯酢に漬けた食品」で、滋賀県蒲生郡では干し大根と昆布で、福岡市では瓜と茄子とで作ったものをいうことがわかる。「アチャラづけ」は和風のピクルスのようなものと思えばよさそうだ。アチャラは外国語を思わせる。調べて見ると『日本大百科全書』(小学館)は「「あちゃら」とは外国の意味とも、またポルトガル語のachar(野菜、果物の漬物)に由来するともいわれる」と記し、『大辞泉』(1995年、小学館)は見出し「アチャラづけ」の語釈に「《(ポルトガル) acharは野菜・果物の漬物の意》」と記している。

あつめじる【集汁】〔名〕野菜、干し魚などをいろいろ入れて煮込んだみそ汁。または、すまし汁。五月五日に用いると邪気をはらうといわれる。あつめ。

 井原西鶴の「浮世草子・世間胸算用〔1692〕」が使用例としてあげられているので、江戸時代に食されていたことがわかる。「みそ汁。または、すまし汁」と説明されているが、味噌汁とすまし汁とではだいぶ違うようにも思うが、具がポイントということでしょうか。5月5日に作ってみてはいかが? 

あなごなんばん【穴子南蛮】〔名〕かけそばの一種。アナゴの蒲焼(かばやき)と裂葱(さきねぎ)とをそばの上にのせ、汁をかけたもの。近世から明治の初め頃の料理。

かけそば【掛蕎麦】〔名〕そばをどんぶりに入れ、熱い汁をかけたもの。ぶっかけそば。かけ。

 「あなごなんばん」の語釈で「かけそば」が気になる方がいるだろうと思って見出し「かけそば」も並べておきました。例えば、『三省堂国語辞典』第7版(2014年)は「かけそば」を「熱い しるをかけただけの そば。かけ」と説明し、対義語として「もりそば」を示している。見出し「もりそば」の語釈には「①せいろうに もった そば。しるに つけて食べる。もり」とある。もりそばを起点とすれば、もりそばが熱い汁に入っているものがかけそば、ということになるが、筆者の認識もそれだ。

 『日本国語大辞典』の「かけそば」の語釈は少し異なっているようにみえる。つまり「熱い汁をかけた」から「かけそば」ということだ。そばだけかどうかはポイントではない。結果としてそばだけということもあるが、何か具が入っていてもよい、ということだろう。さて、それでアナゴとネギとが入っているのが「あなごなんばん」であるが、現在は「かもなんばん」があるので、それのアナゴ版と理解すればよいのだろう。

 ここからはもう少し「えっ?」という料理を紹介しよう。

あゆどうふ【鮎豆腐】〔名〕おろした鮎をうらごし豆腐ではさみ、板につけて蒸した料理。椀盛(わんも)りの実に用いる。また、うらごし豆腐に魚のすり身をまぜ、だし汁、卵、くず粉を加え、みりん、しょうゆ、塩で味つけしてすりまぜ、おろしてみりん、しょうゆにつけこんだ鮎を並べて蒸した料理。一尾ずつ切り分け、汁をかけて供する。鮎寄(あゆよせ)。

 現代では鮎といえば、塩焼きがほとんどのように思うが、鮎と豆腐とをいっしょに食べるというのが、意外な感じがする。この見出しには使用例が載せられていない。

あられたまご【霰卵】〔名〕料理の一種。煮立っている湯の中に割った卵を入れてかき回し、大小さまざまな形としたもの。形があられに似ているところからいう。料理の添え物の一つとして用いられる。

あわびうちがい【鮑打貝】〔名〕アワビ料理の一種。大きなアワビの肉のふちの堅い部分を切り取り、残りの肉をシノダケでたたき、これを酒で煮たもの。

あわびのぶすま【鮑野衾】〔名〕料理の一つ。タイの作り身を霜降りにしたものと、小鳥のたたき肉を団子にしてゆでたものとを、アワビの肉の薄片をすまし汁で煮たもので包むようにして、椀に盛ったもの。

いかの黒煮(くろに) 料理の一つ。イカを細かく切って湯がき、しょうゆと酒少量とに、イカの墨を加えて煮込み、山椒(さんしょう)の若芽をたたいて合わせたもの。

 いかの黒煮は作れそうですね。さて最後に強烈なのを1つ。

めすりなます【目擦膾】〔名〕(「めすり」は、蛙は目をこするという俗説による)蛙を熱湯に入れてゆで、皮をむき、芥子酢(からしず)であえる料理。めこすりなます。

 なんと。カエルの料理です。日本でもカエルを食べていたのですね。この見出しには使用例もあげられていて、「俳諧・俳諧一葉集〔1827〕」に「蛙子は目すり鱠を啼音哉」とあることがわかります。料理の強烈さに、俳諧の句もかすみ気味かもしれません。『日本国語大辞典』をよむと、江戸時代にどんな料理が食されていたか、あれこれと想像することができます。

 * 

※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

* * *

【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

*

【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。


シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから― 第五回:トナカイ橇(ぞり)から見る人とトナカイの関係

2017年 8月 11日 金曜日 筆者: 大石 侑香

第五回: トナカイ橇(ぞり)から見る人とトナカイの関係


天幕の周りに置かれた橇

 現在では燃料で動くスノーモービルやモーター付きのボートも使用しますが、燃料の不要なトナカイ橇は、変わらず現地の人々の便利な交通手段であり続けています。トナカイ牧夫の住んでいる深い森の中には車が通ることのできるような道はありません。トナカイ橇は木を切り倒しただけの獣道や凍った湖川の上を走ります。天幕を運んで季節移動するときだけでなく、狩猟や漁撈(ぎょろう)へ行くとき、家畜トナカイの群を探しに行くとき、親戚たちの家を訪ねに行くとき、村へ買い物や電話をしに行くときなど、普段の乗り物としてもトナカイ橇を活用しています。


木々の間を行く

 トナカイにひかせる橇はすべて手作りです。ナイフや鉋(かんな)で木を削りだして作ります。橇の先には牽引(けんいん)のための革紐を結び、もう一方の端をトナカイの頭と胸のあたりに革と骨で作られた馬具のようなもので取り付けます。そして、2~4頭のトナカイを並列にして一台の橇をひかせます。橇には大人1~2人が乗ることができ、さらに荷物も縄でしっかりと縛り付けて載せることができます。橇を含めて重さが150kg以上になることもありますが、トナカイの脚力は強く、数十kmを駆けることができます。


トナカイの群

 さて、そのトナカイ橇ですが、どのトナカイに橇をひかせてもいいわけではなく、牧夫達はそのときどきで最適な個体を選んでいます。写真の群には約1400頭のトナカイがいますが、驚いたことに、牧夫たちは誰のどんなトナカイを見分けることができます。家畜の個体を見分けて群の管理を行うことを個体識別といいます。個体識別は、耳印、体毛の色・模様、顔つき、首輪・鐘の装飾、雌雄、年齢、去勢の有無、出産経歴、親子関係などで、それぞれ誰のどんなトナカイかを見分けています。

 上記の性質を持つトナカイは一つの群に混ざっているので、我々から見ると、群れは均一な個体により構成されているように見えますが、牧夫にとってはそうではありません。上記の性質によって分類し、さまざまな小グループに分けています。一つは所有者による分け方です。この群の場合、約1400頭のうち約1050頭は農業企業所有のトナカイで、残りの約350頭が個人所有のトナカイ、つまり牧夫たちあるいは村人が飼育委託したトナカイです。これらを5名の牧夫で管理しています。

 個人所有のなかでも橇をひくのは、去勢された雄と不妊雌、年老いた雌です。雌も出産数か月前になると橇をひかせないようにします。雄は3、4歳になると種雄にする個体を残してほとんどを去勢してしまい、群の中の種雄:雌が1:7になるようにします。個人所有のトナカイを人によく馴れさせ、名前を付け、調教して橇をひかせたり、群を先導・誘導させたりします。調教は仔トナカイが3、4歳になってから春か秋に行い始めます。調教過程でトナカイと人の関係が次第に親密になっていきます。かわって、農業企業所有のトナカイは企業の計画どおりに毎年200~300頭ほど食肉用に屠畜していきます。これらに名前や首輪をつけてかわいがることはあまりありません。こちらは人との関係が疎遠なトナカイといえます。


トナカイ革製のロープを投げてトナカイの角・頭に引っ掛けて捕らえる牧夫

 このようにトナカイを性質により見分けて分類することで、牧夫は人に良く馴れた個人所有のトナカイをそのときどきで選んで捕らえて、橇をひかせることが可能になっているのです。単に雄か雌かだけでなく、調教はどのくらい進んだか、最近橇牽引に働かせすぎて疲れていないか、お腹に仔がいるか、おとなしい性格か、健康状態はどうかなど、常に細かくトナカイを観察しています。トナカイの個体識別ができないと、橇をひかせる個体すら選び出すことができません。個体識別はトナカイ牧夫たちの重要な技術のひとつです。

ひとことハンティ語

Сора сора! 
読み方:ソーラ ソーラ!
意味:「速く、速く!」
使い方:人を急かすときや、トナカイに速く走れと命令するときに使います。

* * *

◆この連載の目次は⇒「シベリアの大地で暮らす人々に魅せられて―文化人類学のフィールドワークから―」目次へ

【筆者プロフィール】

■大石侑香(おおいし・ゆか)
東北大学東北アジア研究センター・日本学術振興会特別研究員PD。修士(社会人類学)。2010年から西シベリアの森林地帯での現地調査を始め、北方少数民族・ハンティを対象に生業文化とその変容について研究を行っている。共著『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会)など。

*

【編集部から】

トナカイ(学名Rangifer tarandus)という呼び名はアイヌ語(tunakay)から来ています。ツングース系のウィルタが飼っていた動物に対して樺太アイヌがトナカイと名付けました。英語のreindeerのreinは手綱ですので、橇の手綱をつけるようになった鹿という意味ですね。トナカイは漢字では馴鹿(じゅんろく)と記し、人に馴(な)れた鹿という意味です。英語も日本語も人からの視点で名付けられているのが面白いですね。家畜化しなかったアラスカ、カナダは野生の同種のものをcaribouと呼びます。野生だからreindeerとは呼びません。
トナカイの話はしばらく続きます。次回の更新は9月8日を予定しています。


夏期休業のお知らせ(8/11~8/20)

2017年 8月 10日 木曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部

8/11~8/20 夏期休業

小社では上記期間中、夏期休業となります。
この期間にも一部の連載については掲載いたしますが、予約投稿となります。

この期間中にいただいたお問い合わせなどは、8月21日以降の対応となりますので、ご了承いただけますよう、お願い申し上げます。
引き続き当サイトをご愛読いただけますよう、お願い申し上げます。


広告の中のタイプライター(13):Caligraph No.2

2017年 8月 10日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・補遺

『American Railroad Journal』1882年1月7日号

『American Railroad Journal』1882年1月7日号
(写真はクリックで拡大)

「Caligraph No.2」は、ヨスト(George Washington Newton Yost)率いるアメリカン・ライティング・マシン社が、1882年に製造・販売を開始したタイプライターです。72キー(12個×6列)のキーボードに、大文字26種類、小文字26種類、数字8種類、記号12種類「($&):;’?”.,-」を配置しているのが特徴で、シフト機構なしに72種類の文字を打ち分けることができます。なお、数字の「0」は大文字の「O」で、数字の「1」は大文字の「I」で、それぞれ代用することになっており、スペースキーは、キーボードの左右に配置されています。

「Caligraph No.2」のキー配列

「Caligraph No.2」は、大文字も小文字も数字も記号も、全て一打で打つことができる、という点を売りにしていました。ただし、大文字のキー配列と小文字のキー配列は、互いにほとんど関係づけられておらず、どのキーがどこにあるのか覚えにくく探しにくい、という弱点がありました。また、活字棒(type bar)も72本あり、それら72本が全て、プラテンの下に円形にぐるりと配置されていました。各キーを押すと、対応する活字棒が跳ね上がってきて、プラテンの下に置かれた紙の下側に印字がおこなわれます。プラテンの下の印字面は、そのままの状態ではオペレータからは見えず、プラテンを持ち上げるか、あるいは数行分改行してから、やっと印字結果を見ることができるのです。「Caligraph No.2」は、いわゆるアップストライク式タイプライターで、印字の瞬間には、印字された文字を見ることができないのです。

72個のキーと72本の活字棒による、かなり巨大な印字機構にもかかわらず、可鍛鋳鉄で造られた「Caligraph No.2」は、全体の重さが20ポンド(約9キログラム)に抑えられていて、しかも値段は80ドルでした。値段を安く抑えたため、「Caligraph No.2」の売れ行きに較べて、経営は火の車で、ヨストは1885年にアメリカン・ライティング・マシン社を、コネティカット州ハートフォードのフェアフィールド(George Albert Fairfield)に売却してしまっています。ヨストの手を離れた後も、アメリカン・ライティング・マシン社は「Caligraph No.2」の製造・販売を続けており、少なくとも19世紀の終わりまでは、製造が続いていたようです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


モノが語る明治教育維新 第15回―文部省発行の家庭教育錦絵 (5)

2017年 8月 8日 火曜日 筆者: 唐澤 るり子

第15回―文部省発行の家庭教育錦絵 (5)

 第13回の「西洋器械発明者の像」と同様に、西洋の科学技術力に追いつける人材の育成を目当てに出版されたのが5の物理を扱ったシリーズです。殖産興業を進め、国を豊かにするためには、産業革命を成しえた西洋の知識を広く普及させる必要がありました。西洋の輸入書やその翻訳書に書かれた科学的なものの見方を、普段の生活や仕事の場面を例に引くことで、子どもにもわかりやすく教えています。

 例えば「陸地の物一ツとして空気の包まざるはなし」の詞書で始まる1枚は、目には見えない空気の存在を説くものですが、これは福澤諭吉が明治元年に出版した『訓蒙窮理図解』(きんもうきゅうりずかい)を参考にしています。

monogakataru-15_11.jpg

『訓蒙窮理図解』は諭吉が英国と米国の書物から知りえた科学的な知識を、初学者用にかみ砕いて解説したものですが、この中の第二章「空気のこと」に書かれた内容の一部を、錦絵では言い回しをかえて詞書としています。

 例えば、絵図中の団扇(うちわ)で風を起こすと盤上の升が動く様子は「風は即ち空気なり 風なきときも団扇にて扇げば風の起らざることなし」の1文を図解したと考えられます。もろ手を挙げて驚く男の子は、西洋の知識に目を見開かされた当時の日本人を、象徴しているようです。

monogakataru-15_22.jpg

 この他の物理図は、梃子(てこ)や滑車、斜面の原理といった力学を教える内容が主で、この中の梃子と斜面を解説した絵図には、開化絵らしく洋装の少年が描かれています。

 6の切り取って遊ぶものには、女の子向けに西洋人形の着せ替え図、男の子向けに器械体操図などがあります。1枚の錦絵を図柄に沿って切り抜き、組み立てることで、平面的だったものが三次元的に楽しめるわけですが、この手法は江戸期からのもので、立版古(たてばんこ)の名前で親しまれてきました。器械体操図には、木製の平行棒や馬、鉄棒、吊(つ)り輪など、当時は珍しかった体操風景が外国さながらに描かれています。


(写真はクリックで拡大)

 これらの錦絵は「当省製本所ニ於テ拂下(はらいさげ)」と布達にあるように、一般の家庭でも入手ができましたが、学校では学習のご褒美として生徒に渡していた事例も残されています。

 江戸から明治へ、伝統と開化が入り交じった過渡期の様相を今に伝える錦絵の数々です。

◆この連載の目次は⇒「モノが語る明治教育維新」目次へ

* * *

【筆者プロフィール】

『図説 近代百年の教育』

唐澤るり子(カラサワ・ルリコ)

唐澤富太郎三女
昭和30年生まれ 日本女子大学卒業後、出版社勤務。
平成5年唐澤博物館設立に携わり、現在館長
唐澤博物館ホームページ:http://karasawamuseum.com/
唐澤富太郎については第1回記事へ。

※右の書影は唐澤富太郎著書の一つ『図説 近代百年の教育』(日本図書センター 2001(復刊))

*

【編集部から】

東京・練馬区の住宅街にたたずむ、唐澤博物館。教育学・教育史研究家の唐澤富太郎が集めた実物資料を展示する私設博物館です。本連載では、富太郎先生の娘であり館長でもある唐澤るり子さんに、膨大なコレクションの中から毎回数点をピックアップしてご紹介いただきます。「モノ」を通じて見えてくる、草創期の日本の教育、学校、そして子どもたちの姿とは。
更新は毎月第二火曜日の予定です。


続 10分でわかるカタカナ語 第22回 バイアス

2017年 8月 5日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「バイアス」の意味と使い方

どういう意味?

 「偏(かたよ)りを生じさせるもの」です。「バイヤス」ともいいます。

もう少し詳しく教えて

 バイアス(bias)は英語で、「偏り」に関係する様々な意味を持つ言葉です。日本語でも、おおむね英語と同様の意味で用いられます。

 もっとも一般的に使われる意味は「偏りを生じさせるもの」です。例えば「評価にバイアスがかかっている」と表現した場合、「評価者が持つ先入観や偏見が影響して偏った評価がなされている」ことを意味します。

 いっぽうで一部に「斜め」を意味するバイアスも存在します。英語の bias も、もともとの意味は「斜め」です。

どんな時に登場する言葉?

 「偏り」のバイアスは、思考・心理・思想などが関わる分野や、統計学・心理学・社会学・疫学・電気・電子・経済などで登場します。また「斜め」のバイアスは、機械・服飾などの分野で登場します。

どんな経緯でこの語を使うように?

 戦前にも見られる言葉です。例えば河北新報の1919年(大正8)6月23日付けの記事「講和条約雑感」には、国際連盟の発足に関するこんな記述が登場します。「蓋し(けだし=思うに)委員長は勿論(もちろん)是等(これら)諸会議の委員等は皆各時その国家の下(もと)に於(お)ける一国民なり(中略)国家本位主義にして厳存(げんぞん)する以上到底国家的バイアスを免(まぬか)れざるものなり」(参考:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫、外交(26-114))国際連盟の会議の委員長も委員たちも、それぞれの国の国民である以上は国家という観点を取り除くことはできません。ここではそうした立場の偏りを「国家的バイアス」と言っています。

 ただし、現在のように一般的に使われるようになったのは、80年代ごろと考えられます。

バイアスの使い方を実例で教えて!

「バイアスがかかる」

 バイアスには様々な言い回しが存在します。何らかの原因によって偏りが生じている場合は「バイアスがかかる」、意図的に偏りをつくる場合は「バイアスをかける」「バイアスを加える」、何らかの要因によって偏りが大きくなっている場合は「バイアスが強い」、偏りを生む原因を排除する場合は「バイアスを排除する」などのように表現できます。 

「ジェンダーバイアス」

 男女の役割について存在する固定観念を「ジェンダーバイアス(gender bias)」とよびます。例えば「男性は外で仕事をするべきだ」「女性は家を守るべきだ」といった考え方が、これに相当します。なおジェンダー(gender)とは「社会的な性」という意味。「生物的な性」を意味するセックス(sex)と区別するための言葉です。

統計の「バイアス」 

 統計学でもバイアスという言葉が使われています。分析に使う標本の選び方に偏りがある場合や、分析によって推定した結果が実像とかけ離れている場合などに、バイアスという用語が使われます。

心理学の「バイアス」

 いっぽう心理学では、人が抱きがちな思い込みのことを「認知バイアス」と呼んでいます。例えば火災報知器が鳴った時に「たぶんこれは訓練だろう」と思い込む心理である「正常性バイアス」もそのひとつ。また詐欺に騙(だま)されている人が「自分は騙されていない」と信じたい一心で、周囲の助言に耳を貸さず詐欺師の言うことだけを聞いてしまう心理である「確証バイアス」も認知バイアスのひとつです。

電気・電子の「バイアス」

 電気回路・電子回路の世界にもバイアスが登場します。ただしその具体的な意味は場合によって大きく異なるので注意が必要です。例えばトランジスタを用いた回路の場合、動作の基準とするためベースに与える電圧をバイアスとよびます。

斜めの「バイアス」

 自動車などで用いるタイヤのひとつに「バイアスタイヤ」があります。骨格(カーカス)が進行方向に対して斜め方向に配置されているタイヤのことで、大型貨物自動車などに使われています。なお現在乗用車で主流となっているラジアルタイヤの場合、骨格が放射状に配置されています(ラジアルは放射状の意)。

 いっぽう服飾(裁縫)では、布の織り目に対する斜め方向をバイアスといいます。またこの向きに裁断された「帯状の布」を「バイアステープ」と呼びます。これは縁取りや裾(すそ)上げなどに用いる部品です。

言い換えたい場合は?

 多くの場合、バイアスは「偏りを生じさせる何か」を意味します。したがって、バイアスを言い換える場合は「何か」を探り当てることが大切です。「何か」の正体は文脈にもよります。一般には「先入観」「偏見」「偏向」「思い込み」「贔屓(ひいき)」「色眼鏡」などの言葉で表現できるでしょう。また「バイアスがかかっている」という表現も「先入観にとらわれている」「偏見がある」などのように言い換えることが可能です。

 なお専門分野におけるバイアスは、単純な言い換えが困難であることがほとんどです。その場合は文章で意味を補足してみてください。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

現在志向バイアス ある有名な実験があります。実験者がマシュマロを1つ置いた部屋に子どもを残し、実験者が戻るまでそのマシュマロを食べずにいたらもう1つマシュマロをあげる、と伝え、子どもの行動をみるものです。実験の結果、大部分の子どもが実験者が戻ってくる前にマシュマロを食べてしまったそうです。
 目の前のマシュマロを食べてしまった子どもたちの心理は、行動経済学でいう「現在志向バイアス」で説明できます。未来により多くの利益が得られるとわかっていても、将来と現在をはかりにかけると、現在目の前にある利益の方を優先してしまう心理をいいます。

  *  

◇次回は8月26日(土)の公開予定です。

◆この連載の目次は⇒「続 10分でわかるカタカナ語」目次へ

◆以前の連載は⇒「10分でわかるカタカナ語」へ

* * *

【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

*

【編集部から】

 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
 毎週土曜日更新。

【関連書籍】

●『見やすいカタカナ新語辞典 第2版』
大きく見やすい活字でカタカナ新語が引ける。約13,000語収録。詳細は こちら

●『コンサイスカタカナ語辞典 第4版』
定評あるカタカナ語辞典の第4版。約56,300語収録。詳細は こちら


人名用漢字の新字旧字:「蝉」と「蟬」

2017年 8月 3日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第138回 「蝉」と「蟬」

新字の「蝉」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「蟬」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。「蟬」は出生届に書いてOKですが、「蝉」はダメ。どうして、こんなことになったのでしょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されていました。標準漢字表の虫部には、旧字の「蟬」が収録されていましたが、新字の「蝉」は収録されていませんでした。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも旧字の「蟬」だけが含まれていて、新字の「蝉」は含まれていませんでした。

昭和21年11月5日、国語審議会は当用漢字表1850字を、文部大臣に答申しました。この当用漢字表で、国語審議会は、旧字の「蟬」を削除してしまいました。当用漢字表は「使用上の注意事項」で「動植物の名称は、かな書きにする」としており、このルールに従えば、新字の「蝉」も旧字の「蟬」も、当用漢字表には不要だと判断されたのです。当用漢字表は、翌週11月16日に内閣告示されましたが、やはり「蝉」も「蟬」も収録されていませんでした。そして、昭和23年1月1日に戸籍法が改正された結果、「蝉」も「蟬」も子供の名づけに使えなくなってしまったのです。

それから半世紀の後、平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、「常用平易」な漢字であればどんな漢字でも人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。旧字の「蟬」は、JIS X 0213の第3水準漢字で、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区は無く、出現頻度数調査の結果が664回でした。新字の「蝉」は、JIS X 0213の第1水準漢字で、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区は無く、出現頻度数調査の結果が30回でした。この結果、旧字の「蟬」は人名用漢字の追加候補となり、新字の「蝉」は追加候補になりませんでした。

追加候補選定基準 漢字出現頻度数調査
200回以上 50~199回 1~49回
不受理の法務局数 11以上 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1・2水準
8~10 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1水準
6~7 JIS第1~3水準 JIS第1水準 JIS第1水準
0~5 JIS第1・3水準 - -

平成16年9月8日、法制審議会は人名用漢字の追加候補488字を答申し、9月27日の戸籍法施行規則改正で、これら488字は全て人名用漢字に追加されました。この結果、旧字の「蟬」は人名用漢字になり、子供の名づけに使えるようになったのです。しかし、新字の「蝉」は、人名用漢字になれませんでした。

平成23年12月26日、法務省は入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、旧字の「蟬」に加えて、新字の「蝉」も書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、旧字の「蟬」はOKですが、新字の「蝉」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


『日本国語大辞典』をよむ―第13回 懐かしいことば

2017年 7月 30日 日曜日 筆者: 今野 真二

第13回 懐かしいことば

 『日本国語大辞典』をずっとよんでいくと、懐かしいことばに出会うことがある。

もっこう【目耕】〔名〕読書することを田を耕すことにたとえていった語。

 中国、明の王世貞が、5世紀半ば頃に成立した『世説新語(せせつしんご)』に、唐や宋の記事を加えて改編した『世説新語補』の使用例があげられているので、中国でも使われた語であることがわかる。ちなみにいえば『世説新語補』は江戸時代によく読まれていたと思われる。

 筆者は鎌倉に生まれた。鎌倉といっても、JRの駅でいえば、北鎌倉で、幼稚園は円覚寺の中にある円覚寺幼稚園に通っていた。その北鎌倉で唯一の本屋さんが「目耕堂」だった。なにしろ北鎌倉唯一だから、本といえば何でもそこで買っていた。亡父が毎月講読していた雑誌や筆者が買ってもらっていた子供用の雑誌は配達してもらっていた。それゆえ、「モッコウドウ」という名前はすぐに覚えたし、包装紙には「目耕堂」と印刷してあったので、ある時期からは漢字もわかっていた。しかし、「目耕堂」の「目耕」がどういう語義をもった語であるかは考えたことがなかった。なかなかしゃれたネーミングであったことが上の見出しをよんで初めてわかった。ちょっと感慨深い。

 そういえば筆者が子供の頃、クリスマスなどには少したくさん本を買ってもらうことがあった。そんな時には「おでかけ」をして横浜(伊勢佐木町)の「有隣堂」に行った。そこで数冊本を買ってもらい、地下の食堂で食事をして帰るのが「おでかけ」の決まりのコースであった。「有隣」は『論語』里仁編第4 25章の「徳不孤 必有隣」(徳は孤ならず、必ず隣有り)に由来しているのだということは、漢文で『論語』を習った時に、気づいた。こういうネーミングは少なくなっているように思う。

かわりばん【代番・替番】〔名〕(1)互いにかわりあって事をすること。交替でつとめること。順番。かわりばんこ。かわりばんて。かわりばんつ。(2)交替で当たる番。また、それに当たっていること。

かわりばんこ【代番―】〔名〕(「こ」は接尾語)「かわりばん(代番)(1)」に同じ。

かわりばんつ【代番―】〔名〕「かわりばん(代番)(1)」に同じ。

 「カワリバンコ」は現代でもひろく使う語であると思われるが、筆者は子供の頃に「カワリバンツ」を聞き、かわった語形だと思った記憶がある。いつ頃聞いたか定かではないが、小学校高学年だったような気がしている。筆者がかわった語形だと思ったのだから、筆者の周辺ではあまり耳にしない語形だったということだろう。「カワリバンツ」は自身が使う語ではないが、耳にした時の驚きのようなものが鮮明によみがえった。これも「懐かしいことば」だ。ちなみにいえば、見出し「かわりばんこ」において「「こ」は接尾語」と記していることからすれば、見出し「かわりばんつ」においても、「つ」に関しての記述があったほうが、記述の一貫性が保たれるのではないかと思う。記すとすれば、接尾語ということになりそうだが、他に「つ」が接尾語としてつく語がすぐには思い浮かばない。そんなことが「つ」についての記述を省いた理由かもしれない。

きよう【崎陽】(江戸時代の漢学者が、中国の地名らしく呼んだもの)長崎の異称。

 崎陽軒のシウマイは子供の頃から食べていたが、「キヨウ(崎陽)」が長崎のことだとはある時期までは知らなかった。調べてみると、創業者久保久行が長崎出身であることがわかった。そういえば、日本の活版印刷の先駆者として知られる本木昌造(もときしようぞう)が日本最初の地方新聞として印刷したものが『崎陽雑報』という名前だった。この冊子は木製活字と金属活字とで混合印刷されている。

 『甲陽軍鑑』という軍学書がある。『日本国語大辞典』は次のように説明している。

こうようぐんかん【甲陽軍鑑】江戸前期の軍書。二〇巻二三冊。武田信玄の老臣、高坂昌信の口述による、大蔵彦十郎、春日惣次郎の筆録で、元和七年(一六二一)以前に小幡景憲の整理を経たものという。(中略)甲州流軍学の教典とされ、江戸初期の思想や軍学を知る史料となっている。

 ここに「コウヨウ(甲陽)」がみられる。「「甲陽」は甲州のミヤコである甲府を指す語」(酒井憲二『老国語教師の「喜の字の落穂拾い」』、2004年、笠間書院、132ページ)であると思われる。『日本国語大辞典』は単独の「コウヨウ(甲陽)」は見出しとしていない。上の本には「紀陽」「薩陽」「周陽」という語が存在していたことが記され、それぞれ、紀州和歌山、薩摩鹿児島、周防山口を指すという、山田忠雄の見解が紹介されている。『日本国語大辞典』は長崎を「中国の地名らしく呼んだもの」が「キヨウ(崎陽)」であるということは記しているが、どこが中国の地名らしいのかについては記していない。実はそこが考え所であるが、山田忠雄は「洛陽」に由来すると考えていたことがやはり上の本の中に紹介されている。

らくよう【洛陽・雒陽】【一】〔一〕中国河南省北西部の都市。黄河の支流、洛水の北岸に位置する。(略)後漢・西晉・北魏などの首都となり、隋・唐代には西の長安に対し東都として栄えた。(略)【二】〔名〕(転じて)みやこ。

 もともとは中国の地名であった「ラクヨウ(洛陽)」が一般的な「ミヤコ」という語義をもつようになったということだ。【二】の使用例として「日葡辞書〔1603~04〕」があげられているので、17世紀初頭にはそうした使われ方がされていたことになる。

 崎陽軒から少し固い話になってしまったが、『日本国語大辞典』をよんでいると、このような「懐かしいことば」に出会うことがある。そのことばはいろいろな記憶をよびさましてくれるし、そこからまた別の記憶につながっていくこともある。ことばがそのように記憶の中に埋め込まれていることを改めて知ることができるのも、辞書をよむ楽しみの1つかもしれない。

 * 

※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ http://japanknowledge.com/)の表示に合わせております。

◆この連載の目次は⇒「『日本国語大辞典』をよむ」目次へ

* * *

【筆者プロフィール】

今野真二(こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

*

【編集部から】

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。隔週連載。


続 10分でわかるカタカナ語 第21回 ドローン

2017年 7月 29日 土曜日 筆者: もり・ひろし & 三省堂編修所

10分でわかる「ドローン」の意味と使い方

どういう意味?

 「無人飛行機」のことです。

もう少し詳しく教えて

 ドローン(drone)は英語がもとになった言葉で、「無人飛行機」のことです。

 昨今よく見聞きする「ドローン」は「回転翼を複数持っている小型ヘリコプター」がほとんどですが、それはドローンの概念の一部にすぎません。例えば機体の形状が回転翼のヘリコプターであっても固定翼の飛行機であっても、どちらもドローンです。また機体がどんな大きさ(小型・大型)か、どんな操縦方法(遠隔操作・自律飛行)かによらず、「無人の飛行体」のことを「ドローン」と言います。

 なお音楽の分野ではドローンに「同じ高さで鳴り続ける(低い)音」の意味もあります。くわしくは後述します。

どんな時に登場する言葉?

 もともとドローンは軍事分野で使われる言葉でしたが、用途の広がりとともに農業(農薬散布など)・物流・土木(建設物の点検など)・災害対策・娯楽(動画撮影など)・報道・警備など、民生の分野でも多岐にわたり使われています。

どんな経緯でこの語を使うように?

 そもそも英語の drone は「蜂(はち)の羽音」や「オスの蜂」のことを意味します。この言葉がなぜ「無人飛行体」を表すのでしょうか。その答えは、軍用機の歴史に隠されています。

 イギリス海軍で1935年から運用されていた、DH82Bという標的機(訓練用の標的とする飛行機)がありました。この標的機DH82Bは、Fairey Queenという偵察用複葉機をもとに作られ、DH82の「B」モデルであることからか、 Queen Bee(女王蜂)との通称を持っていました。このQueen Beeを参考にアメリカ海軍も標的機を自主開発。女王蜂を参考にしたという意味を込めて、自主開発した機体にオスの蜂を意味するdroneと名付けたのです。以後英語では、標的機をtarget drone(ターゲットドローン)と呼ぶ習慣が定着しました。こうして、オスの蜂と無人飛行機が結びついたわけです。

 また1980年代にアメリカで製造開始された無人偵察機「プレデター」が開発されて以降は、無人偵察機や殺傷を目的とした無人機が実戦で使用されるようになりました。これらの無人機もドローンと呼ばれてきました。

 いっぽう、2010年代には「回転翼を複数持つ小型ヘリコプター」をさすドローンが登場します。2010年にフランスのパロット社が「AR Drone」と名付けたクアッドコプター(意味は後述)を発表。以後、ドローンの民生市場が急拡大したのです。日本では2015年にマスコミなどでの注目度が一気に高まり「空の産業革命」という表現も登場しました。

ドローンの使い方を実例で教えて!

「ドローン○○」

 民生利用の拡大に伴い、ドローンを冠した複合語も増え続けています。例えば「ドローンビジネス」(ドローンを応用したビジネス)、「ドローンレース」(ドローンの競争)、「ドローン映像」(ドローンによる空撮映像)などの表現が存在します。

飛行機ではない「ドローン」

 船舶や潜水艦など「飛行機以外の無人機」もドローンと呼ぶ場合があります。「ドローン船」や「水中ドローン」などの表現も登場しました。

音楽の「ドローン」

 音楽の世界では同じ高さで鳴り続ける(低い)音をドローンと呼びます。バグパイプでずっと鳴っている低い方の音などを指します。またそのような音を積極的に用いる「ドローン音楽」と呼ばれる音楽ジャンルも存在します。このジャンルを単に「ドローン」と呼ぶ場合もあります。

言い換えたい場合は?

 まず軍事分野のドローンは「(無人)標的機」「無人偵察機」「無人攻撃機」「無人(航空)機」などと言い換えることができます。また民生用のドローン(遠隔操作・自律飛行が可能な小型のヘリコプター)は、新聞などのマスコミで「小型無人(飛行)機」「無人小型(飛行)機」などの言い換えが定着しています。なお音楽のドローンについては「同じ高さで鳴り続ける音」などの表現を試してみてください。

雑学・うんちく・トリビアを教えて!

マルチコプター 世間一般のドローンのイメージが「回転翼を複数持つ小型のヘリコプター」であることは前述したとおり。このようなヘリコプター(回転翼が3つ以上のもの)を「マルチコプター(multicopter)」と呼びます。このうち特に回転翼が4つのものを「クアッドコプター(quadcopter、クワッドコプターとも)」と呼びます。

マリリン=モンロー 20世紀を代表する女優の一人、マリリン=モンロー(Marilyn Monroe)。彼女のデビューとドローンには、ちょっとした関係がありました。彼女はデビュー前、標的機(ターゲットドローン)の製造工場で工員として働いていたのです。この工場に取材で訪れた米陸軍の報道記者が彼女を撮影。その写真がきっかけとなり、彼女は芸能の道を歩みはじめました。ちなみにその報道記者の上司が、のちに米大統領となる俳優ロナルド=レーガンだったといいます。

  *  

◆この連載の目次は⇒「続 10分でわかるカタカナ語」目次へ

◆以前の連載は⇒「10分でわかるカタカナ語」へ

* * *

【筆者プロフィール】

もり・ひろし & 三省堂編修所

■もり・ひろし
 新語ウォッチャー(フリーライター)。鳥取県出身。プログラマーを経て、新語・流行語の専門ライターとして活動。『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「流行観測」コーナーや、辞書の新語項目、各種雑誌・新聞・ウェブサイトなどの原稿執筆で活躍中。

*

【編集部から】

 「インフラ」「アイデンティティー」「コンセプト」等々、わかっているようで、今ひとつ意味のわからないカタカナ語を詳しく解説し、カタカナ語に悩む多くの方々に人気を博したコンテンツ「10分でわかるカタカナ語」が、ふたたび帰ってきました。
 「インテリジェンス」「ダイバーシティー」「エビデンス」など、日常生活の中で、新たなカタカナ語は引き続き、次々に生まれています。世の中の新しい物事は、カタカナ語となって現れてくると言っても過言ではありません。
 これら悩ましいカタカナ語をわかりやすく考え、解説してゆきます。
 毎週土曜日更新。

【関連書籍】

●『コンサイスカタカナ語辞典 第4版』
定評あるカタカナ語辞典の第4版。約56,300語収録。詳細は こちら

●『見やすいカタカナ新語辞典』
大きく見やすい活字でカタカナ新語が引ける。約13,000語収録。詳細は こちら


広告の中のタイプライター(12):Crandall New Model

2017年 7月 27日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・補遺

『Scribner's Magazine』1888年12月号

『Scribner’s Magazine』1888年12月号(写真はクリックで拡大)

「Crandall New Model」は、クランドール(Lucien Stephen Crandall)が、1886年から1894年頃にかけて、ニューヨーク州グロトンで製造していたタイプライターです。ただし、クランドールは一夫多妻主義者で、グロトン以外にも複数の生活拠点があったらしく、「Crandall New Model」の注文販売は、ニューヨーク州ビンガムトンのアイルランド・ベネディクト社にまかせていました。「Crandall New Model」の特徴は、タイプ・スリーブ(type sleeve)と呼ばれる金属製の活字円筒が、プラテンのすぐ手前にそびえ立っていて、他には印字機構が見当たらない点です。タイプ・スリーブには、84個(14個×6列)の活字が埋め込まれていて、このタイプ・スリーブが、プラテンに向かって倒れ込むように叩きつけられることで、プラテンに置かれた紙の前面に印字がおこなわれるのです。84個の活字は、最上列とその次の列が小文字、真ん中の2列が大文字、下の2列が数字と記号になっています。

キーボードも特徴的で、29個のキーが、上段に14個、下段に15個(空白を含む)、扇状に並んでいます。上段のキーはzprchmilfesdbkと並んでおり、下段のキーは真ん中に空白があってjvxunw. ,toagyqと並んでいます。各キーを押すと、タイプ・スリーブが回転し、対応する文字がプラテン側に来ると同時に、倒れ込むように叩きつけられて、印字がおこなわれます。前面右側の「CAP’S」キーを押し下げると、タイプ・スリーブが上がって、大文字が印字されます。ただし、ピリオド・空白・コンマは、そのままです。前面左側の「F&P.」キーを押し下げると、さらにタイプ・スリーブが上がって、上段のキーは12345&’-;67890に、下段のキーは!$¢_/#. ,:%”()?になります。この仕掛けにより、最大84種類の文字が印字できるのですが、通常はピリオドとコンマの活字を3個ずつ重複して埋め込んでおり、全部で80種類の文字となっていたようです。

「Crandall New Model」では、印字がプラテンの前面におこなわれることから、印字した文字が、すぐ直後にオペレータから見えるようになっています。また、タイプ・スリーブの交換は、オペレータが簡単におこなえるようになっており、別の種類の活字や字体に対応可能というのが、上の広告にもあるとおり「Crandall New Model」の売りでした。ただ、残念ながら「Crandall New Model」の印字機構は、高速な印字には向いておらず、調整もかなり面倒でした。それに加え、傷んだ活字だけを単独で交換することができず、タイプ・スリーブ全体を交換しなければいけなかったのです。独創的な印字機構が、むしろ「Crandall New Model」の寿命を縮めた、と言えるのかもしれません。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


次のページ »