日本語・教育・語彙 第9回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(4):「木の掃除機(!?)」をめぐって

2016年 6月 24日 金曜日 筆者: 松下達彦

第9回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(4):「木の掃除機(!?)」をめぐって

 前回、留学生の書いた作文に見られた「海に包まれた街」という表現を紹介した。これはおそらく「囲む」という語を知らなかったために「包む」で代用した結果、期せずして生まれたおもしろい隠喩(メタファー)である。街を小包のようなものに見立て、それを「包む」と表現したことで町全体が立体的に青く包まれているイメージを喚起する。

 語彙が不足しているために、他の語で代用した結果、ユニークな表現が生じるのは、母語話者の子どもにも頻繁にみられる。私の娘の幼児期のおもしろい表現に「木の掃除機」「薬の賞味期限」がある。近所の子どもが「男の犬」と言ったのを聞いたこともある。

 「木の掃除機」は箒(ほうき)のことである。彼女は先に掃除機を知っていて、そのあとで箒について学習したために、このような表現が生じた。「掃除機」が「機械」であるということを知らなかった一方で、掃除機が掃除をするために使われるという機能は理解していたのである。「掃除‘器’」と漢字を変えれば通じる表現かもしれないと思わずうなった。

 「薬の賞味期限」は「賞味期限」が「食品」に使われるということを無視して、それを薬に適用したために生まれた表現である。確かにおいしい薬もあるな、とほくそ笑んだ。「男の犬」は言うまでもなく、オスの犬のことだが、「男」が人間であるという意味を無視している。

 これらの例を見てわかるように、ある語の用法の拡張は、その語の意味を構成する複数の意味要素(意義素とも呼ばれる)の一部を回避することによって生じる。

 例えば「そよ風が微笑んでいる」と言えば風を人に見立てる擬人法(これも隠喩の一種)だが、これは「微笑む」は人がすることという意味要素を意図的に回避している。昔(おそらく1970年代)、「頭がピーマン」という表現が少し流行した。「頭が空っぽ」で中身がないという意味だが、「頭がピーマン」も「頭が空っぽ」も隠喩である。前者はピーマンが持つ属性のうち中が空っぽというところだけに着目し、食品であるという意味は完全に回避している。「頭が空っぽ」は頭を箱か何かに見立てた表現だと感じられるが、「空っぽ」が本来使われるべき物理的な空間の意味は回避されているのである。隠喩は類似性に基づく意味の拡張なので、何かと何かが似ていれば、その他の意味要素は回避される。ある部分が回避されて本来のところからズレることで表現としてのおもしろさが出てくるのである。

 自分の知っている語の意味を本来使われるべき文脈以外のところへ拡張することで、言語運用能力の不足を補うというのは、実はかなり優れた能力で、コミュニケーション上の方略[communication strategy]とも呼べるものである。そのようなことができれば、外国語学習の早い段階からその言葉を「使える」ようになる。そうして生まれた新しい表現が社会に広まって定着すると言語変化と呼ばれるようになる。「頭が空っぽ」や「頭の中が白くなる」なども初めは臨時的な表現として誰かが使ったのであろう。それが優れた表現であったために定着したものと思われる。「アクセスする」はコンピュータの普及に伴って用法が拡張している語だが、このように社会の変化に伴って用法が拡張することもある(注1)。

 このような表現を生み出すチャンスは、子どもや、留学生などの非母語話者にも十分にあり得ることであろう。表現をずらすことで言いたいことが何とか伝えられるようになるからである。

 

参考文献

注1:国立国語研究所(2006)「『外来語』言い換え提案 第1回~第4回 総集編」によると、「アクセス」は「定着に向かっている語だと思われ,「アクセス」をそのまま用いることにさほど問題のない場面も多いと思われる。ただし,60歳以上では半数以上が分からない語であり,言い換えや説明付与が望まれる場合も多い。」とされている。

 

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【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は第4金曜日を予定しております。


人名用漢字の新字旧字:「回」と「囘」

2016年 6月 23日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第114回 「回」と「囘」

新字の「回」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「囘」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「囘」の方が、むしろ、渦巻きの象形に近いのですが、どうしてこんなことになっているのでしょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、新字の「回」を含む2528字が収録されていました。しかし、旧字の「囘」は、標準漢字表のどこにも含まれていませんでした。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも新字の「回」だけが含まれていて、旧字の「囘」は含まれていませんでした。

昭和21年11月5日、国語審議会が答申した当用漢字表にも、やはり新字の「回」が収録されていて、旧字の「囘」はカッコ書きにすら含まれていませんでした。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「回」は当用漢字になりました。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。

字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。活字字体整理案の目的は、当用漢字の部分字体の統一にありました。「面」と同じ部分字体にするために、「回」を「囬」に整理することが提案されていたのです。

報告を受けた国語審議会では、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する主査委員会を組織しました。主査委員会では、ところが、当用漢字の画数を減らす方向で議論が進みました。活字字体整理案で画数が増えてしまっていた「囬」は、「回」に戻すことになったのです。この間、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には新字の「回」が収録されていたので、「回」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。「囘」や「囬」は子供の名づけに使えなくなりました。

昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表にも、新字の「回」が収録されていました。その後、常用漢字表の時代になっても、新字の「回」だけが出生届に書いてOKで、「囘」や「囬」はダメでした。

平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、「常用平易」な漢字であればどんな漢字でも人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。「囘」は、漢字出現頻度数調査の結果が15回で、JIS第2水準漢字で、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区はありませんでした。「囬」は、漢字出現頻度数調査の結果が1回しかなく、しかもJIS X 0213に収録されていませんでした。この結果、「囘」も「囬」も、人名用漢字の追加候補になりませんでした。

その一方で法務省は、平成23年12月26日に入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、「回」に加えて「囘」が書けるようになりました。ただし「囬」はダメで、外国人の子供の出生届に「囬」と書いても、住民票では「回」に直されてしまいます。また、日本人の子供の出生届は「回」だけがOKで、「囘」や「囬」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


絵巻で見る 平安時代の暮らし 第50回『年中行事絵巻』巻四「射遺の参内」を読み解く

2016年 6月 18日 土曜日 筆者: 倉田 実

第50回『年中行事絵巻』巻四「射遺の参内」を読み解く

場面:射遺(いのこし)のために公卿が参内するところ
場所:平安京大内裏東側の待賢門(たいけんもん)付近
時節:1月18日

(画像はクリックで拡大)

建物:Ⓐ待賢門、Ⓑ柱、Ⓒ・Ⓜ白壁、Ⓓ戸、Ⓔ三級の石階、Ⓕ基壇、Ⓖ瓦葺き屋根、Ⓗ鴟尾(しび)、Ⓘ妻、Ⓙ三重虹梁蟇股(さんじゅうこうりょうかえるまた)、Ⓚ瓦、Ⓛ・Ⓞ・Ⓡ築地(ついじ)、Ⓝ大膳職(だいぜんしき)、Ⓟ四脚門(よつあしもん)、Ⓠ東雅院(とうがいん)、Ⓢ土門
地上・衣装:①大宮大路、②中御門(なかみかど)大路、③溝、④高欄、⑤橋、⑥物見、⑦檳榔毛車(びろうげのくるま)、⑧文(もん)の車、⑨牛、⑩轅(ながえ)、⑪飾り紐の付いた軛(くびき)、⑫榻(しじ)、⑬馬、⑭立烏帽子(たてえぼし)、⑮端折傘(つまおりがさ)を入れた袋、⑯置道(おきみち)、⑰・⑳太刀、⑱壷胡簶、⑲弓、桶、荷、揉(なえ)烏帽子、
人物: [ア] [サ]童、[イ]口取り、[ウ]牛飼童(うしかいわらわ)、[エ]傘持ち、[オ]上卿(しょうけい)の参議、[カ]随身、[キ]矢取り、[ク]沓(くつ)持ち、[ケ] 布衣小袴(ほいこばかま)姿の男、[コ] 壷装束の女性

絵巻の場面 今回と次回で『年中行事絵巻』の「射遺」を読み解くことにします。今回は、射遺のために公卿が参内する様子を描いた「射遺の参内」を見ます。

 射遺とは、前日に行われた射礼(じゃらい)と呼ぶ弓を射る儀式に参加できなかった武官が、改めて射る儀式です。実際に射る場面は次回になりますので、射遺や射礼の説明はそこですることにして、早速この場面を見ていくことにしましょう。

絵巻の場所 まず場所を確認します。画面中央に見える立派な門は、大内裏の東側に設けられた、宮城門の一つのⒶ待賢門になります。画面は南方向から描いていて、門の左側が大内裏の内側、右が外側になります。大内裏の外側(東側)は、南北に通る①大宮大路に面します。待賢門の東方向(画面右方向)は②中御門大路になりますので、この門を中御門とも言いました。

待賢門 それでは、待賢門を詳しく見てみましょう。門の大きさは、何間で幾つ戸(扉)があるかで表されます。待賢門はどうでしょうか。何間かは、右側のⒷ柱(原画では朱塗)を数えればいいわけでしたね。六本ありますので、五間の門となります。全面が戸でないことは、原画でⒸ白壁になっている所が北側に一間分見え、南側も同じことですので、Ⓓ戸は三つになります。そうしますと、五間三戸になり、大きな門と言えます。これだけの大きさですので、Ⓔ三級の石階が付いた、頑丈な石のⒻ基壇の上に建てられています。

 屋根はⒼ瓦葺きでⒽ鴟尾が置かれ、Ⓘ妻(側面)は、装飾的になっていて立派な門であることも分かります。屋根の下の妻は、Ⓙ三重虹梁蟇股式という複雑な構造になっています。虹梁は、化粧をした梁のことで、これが三重になっていて、その間に蟇股がある構造を言います。蟇股は上下二つの横木(ここでは虹梁)の間に置かれた部材で、上部の横木を受け、蛙が股を開いた形になりますので、こう言います。装飾用にもなりますね。画面では分かりにくいのですが、『信貴山縁起』「尼公の巻」にも待賢門が描かれていて、それを見ますと、この構造がよく分かります。ぜひご覧になってください。なお、待賢門は、『年中行事絵巻』巻一「朝覲行幸」、『平治物語絵詞』「信西巻」にも描かれています。

待賢門大路側 今度は、門の右側の大路側を見ましょう。Ⓔ三級の石階を上がろうとしている[ア]童の後ろ側は、雨水を流す③溝に架けられた、④高欄の付いた⑤橋になります。門の南北はⓀ瓦を載せたⓁ築地で、Ⓜ白壁で描かれています。

 築地の前には、牛車が描かれていますが、車種は二つになるのがお分かりでしょうか。右端の車には、車輪の上に⑥物見(窓)が見えていますが、左の二両には、ありませんね。物見のないのが屋形を檳榔という植物で編んだ⑦檳榔毛車、あるのが網代(あじろ)で覆った網代車の一種となる⑧文の車で、線描では省略しましたが、花の文様が描かれています。檳榔毛車が高い身分の人の乗る高級車とすれば、文の車は殿上人が常用する普及車と言えましょう。牛車も身分によって、車種が違っていたのです。今は、降車していますので、⑨牛は放たれて、長く伸びた⑩轅の先端の⑪飾り紐の付いた軛を、乗降時の踏み台となる⑫榻に置いています。

 牛車の回りでたむろしているのは、車に従う供人たちです。また、⑬馬を引く役の[イ]口取りもいます。これらの人たちの中で一人だけ姿が違う者がいますね。そう、牛を引いている者は⑭立烏帽子をかぶっていません。これは、牛を扱う[ウ]牛飼童と言い、成人しても童姿で狩衣を着ました。

 Ⓜ白壁際も見てみましょう。ここには、長い袋のような物を持っている人が何にもいますが、これは何でしょうか。本シリーズをご覧いただいている方は、見たことがありますね。これは長い柄の⑮端折傘を入れた袋で、第9回で扱いました。供人の[エ]傘持ちたちの姿が描かれているのです。

 さて、なぜここに牛車が置かれ、供人たちが待機しているのでしょう。それは、大内裏の中には、特別な勅許(牛車宣旨。ぎっしゃのせんじ)がないと牛車で通ることができなかったからです。ですから、ここで降車して大内裏に入ったのです。宣旨があって、乗車したまま門を通過する場合、ひどく揺れることは請け合いで、『枕草子』「正月一日は」段に、その様子が記されています。大臣や后妃などの高い身分の者で、輦車宣旨(てぐるまのせんじ)を受けている場合は、人力で引く輦車に乗り換えて、内裏の春華門(しゅんかもん)の外側まで行くことができました。

大内裏の内側 続いて、大内裏の内側に目を転じましょう。門から西に、少し高く、長く伸びた道が作られていますね。これを⑯置道と言い、勅使や上卿(しょうけい。儀式などを指揮する中納言以上の公卿。時に参議の場合も)だけが通ることができました。そうしますと、⑰帯剣した束帯姿の人は、射遺の[オ]上卿となる参議になります。

 上卿の後ろに従う者たちは置道を避けて両側を歩くことになります。すぐ後ろの二人は[カ]随身で、⑱壷胡簶を背負い、⑲弓を持ち、⑳帯剣しています。その後ろの二人は、[キ]矢取りと[ク]沓持ち役のようです。

 置道の手前に見える建物は、饗膳などを司るⓃ大膳職と呼ぶ役所です。Ⓞ築地に、北門となるⓅ四脚門(二本の主柱にそれぞれ二本の副柱がある門)が描かれています。

 置道の向こう側は、Ⓠ東雅院で、西雅院と並んでいました。Ⓡ築地と、その中にあけたⓈ土門が見えます。雅院は以前には前坊(東前坊・西前坊)と呼ばれ、平安時代初期には、東宮の居所となっていて、妃もここに局を置くことがありました。

 東雅院の前には、桶や荷を担いで揉烏帽子をかぶった[ケ]布衣小袴姿の男に犬が吠えかかっています。後ろの、頭に荷を載せた[コ]壷装束の女性は、連れ合いでしょうか、その様子を指差して笑っているようです。犬は男を怪しいと見たのでしょう。[サ]童二人が、犬を追い掛けてはしゃいでいますね。

画面の構図 射遺は、連続式絵巻で描かれています。画面右側には牛車や人々の待機する様子が描かれて、待賢門を入ると置道が左方向に長く続いています。この長い置道によって、絵巻を見る人にも、そこを歩ませ、射遺への興味をかきたてているという構図と言えます。今回は、これくらいにして、次回で置道の先で行われる射遺をみることにしましょう。

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◆この連載のほかの回をお読みになる方は⇒「絵巻で見る 平安時代の暮らし」目次へ

【筆者プロフィール】

『全訳読解古語辞典』■文:倉田実(くらた・みのる)
大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝人の婚姻と信仰』(編著、森話社)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)など、平安文学にかかわる編著書多数。

■画:須貝稔(すがい・みのる)
※本連載の文・挿絵の無断転載は禁じられております

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【編集部から】
三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員の倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載。次回は、今回取り上げた「置道」の先にある、射遺のシーンへと続きます。どうぞお楽しみに。

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◆紙面例:おんやうじ(クリックで拡大)

【『三省堂 全訳読解古語辞典』について】
全国高校からの推薦数NO.1の学習用古語辞典『三省堂 全訳読解古語辞典』〈第四版〉では、ワイドな絵巻型の図版と絵解き式のキャプションを採用。文章からだけでは想像しにくい時代背景や古典常識などを、絵を通して、より具体的に深く学ぶことができます。

 

 

 

タイプライター博物館訪問記:菊武学園タイプライター博物館(16)

2016年 6月 16日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・番外編第20回

菊武学園タイプライター博物館(15)からつづく)

菊武学園の「Blickensderfer No.5」

菊武学園の「Blickensderfer No.5」

菊武学園タイプライター博物館には、「Blickensderfer No.5」が複数台、展示されています。中でも、写真に示す「Blickensderfer No.5」は、さすがに完動はしないものの、状態は比較的よく、本体の右奥には製造番号「35149」がハッキリ刻印されており、1898年の製造だと推測されます。

菊武学園の「Blickensderfer No.5」の製造番号

菊武学園の「Blickensderfer No.5」の製造番号

「Blickensderfer No.5」は、ブリッケンスデアファー(George Canfield Blickensderfer)が、1893年から1900年頃にかけて、コネチカット州スタンフォードで製造したタイプライターです。「Blickensderfer No.5」の特徴は、タイプ・ホイール(type wheel)と呼ばれる金属製の活字円筒にあります。タイプ・ホイールには84個(28個×3列)の活字が埋め込まれており、このタイプ・ホイールが、プラテンに向かって倒れ込むように叩きつけられることで、プラテンに置かれた紙の前面に印字がおこなわれるのです。

菊武学園の「Blickensderfer No.5」のタイプ・ホイール

菊武学園の「Blickensderfer No.5」のタイプ・ホイール

菊武学園の「Blickensderfer No.5」(製造番号35149)のタイプ・ホイールでは、上の列に、小文字の活字がzxkg.pwfudhiatensorlcmy,bvqjの順序に、上から見て時計回りに埋め込まれています。真ん中の列には、大文字の活字がZXKG.PWFUDHIATENSORLCMY&BVQJの順序に埋め込まれています。下の列には、記号や数字の活字が-^_(./’”!1234567890;?%¢$)@#:の順序に埋め込まれています。この「Blickensderfer No.5」のキー配列と同じ順序であり、上段のキーほど、タイプ・ホイールが大きく回転する仕組みになっているのです。大文字はキーボード左端の「CAP」キーを、記号や数字は「FIG」キーを、それぞれ押すことで印字され、実際にはタイプ・ホイールの高さが変わる仕掛けになっています。

キーボード左端の「CAP」と「FIG」キー

キーボード左端の「CAP」と「FIG」キー

このように、精巧な印字機構を持つ「Blickensderfer No.5」ですが、印字精度を上げるために、タイプ・ホイールがプラテンにかなり接近して配置されています。また、84個の活字を3列に収めるタイプ・ホイールは、思いのほか巨大なものであり、印字直後の文字はオペレータから必ずしも見えません。タイプ・ホイールの横から覗き込むか、何文字か打った後に見えてくる、というのが現実でした。また、高速な印字にも適しておらず、その結果、なかなかシェアを拡大できなかった、というのが現実のようです。

菊武学園の「Blickensderfer No.5」を斜め後から見る

菊武学園の「Blickensderfer No.5」を斜め後から見る

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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人名用漢字の新字旧字:「体」と「體」

2016年 6月 9日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第113回 「体」と「體」

新字の「体」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「體」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。「体」と「體」は、元々は意味の異なる別字なのですが、ここでは「体」を新字、「體」を旧字ということにしておきましょう。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されていました。標準漢字表の骨部には「体」が含まれていて、その直後に、カッコ書きで「體」が添えられていました。「体(體)」となっていたわけです。簡易字体の「体」は、「體」に代えて一般に使用すべき漢字、ということになっていました。

昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字には、骨部に「体」が含まれていて、その直後にカッコ書きで「體」が添えられていました。「体(體)」となっていたわけです。国語審議会が11月5日に答申した当用漢字表でも、やはり「体(體)」となっていました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「体」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、新字の「体」が収録されていたので、「体」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし、旧字の「體」は、あくまで参考として当用漢字表に添えられたものなので、子供の名づけに使ってはいけない、ということになりました。

昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表では、やはり「体(體)」となっていました。これに対し、民事行政審議会は、常用漢字表のカッコ書きの旧字を子供の名づけに認めるかどうか、審議を続けていました。昭和56年4月22日の総会で、民事行政審議会は妥協案を選択します。常用漢字表のカッコ書きの旧字355組357字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを子供の名づけに認める、という妥協案です。昭和56年10月1日に常用漢字表は内閣告示され、新字の「体」は常用漢字になりました。しかし、旧字の「體」は人名用漢字になれませんでした。旧字の「體」は、常用漢字表のカッコ書きに入ってるけど当用漢字表に収録されてなかったからダメ、となったのです。

平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、常用漢字や人名用漢字の異体字であっても、「常用平易」な漢字であれば人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、平成12年3月に文化庁が書籍385誌に対しておこなった漢字出現頻度数調査、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。旧字の「體」は、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区は無く、JIS第2水準漢字で、漢字出現頻度数調査の結果が83回でした。この結果、旧字の「體」は「常用平易」とはみなされず、人名用漢字に追加されませんでした。

その一方で、平成23年12月26日、法務省は入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、新字の「体」に加え、旧字の「體」が書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、新字の「体」はOKですが、旧字の「體」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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古語辞典でみる和歌 第25回 「さつきまつ…」

2016年 6月 7日 火曜日 筆者: 古語辞典編集部

古語辞典でみる和歌 第25回

五月まつ花橘(はなたちばな)の香(か)をかげば昔の人の袖(そで)の香ぞする

出典

古今・夏・一三九・よみ人しらず / 伊勢・六〇

五月を待って花開く橘の花の香りをかぐと、昔親しんだ人のなつかしい袖の香りがするよ。

「香をかげば」の「ば」は、順接確定条件、ここは偶然的条件を表す。

参考

平安時代の貴族は、男も女も衣服に香(こう)をたきしめていた。「昔の人」は、橘の花の香りに似た香をたきしめていたのだろう。この歌以来、橘の花の香りは昔を思い出させるものとされた。

(『三省堂 全訳読解古語辞典〔第四版〕』「さつきまつ…」)

今回は、袖を詠んだ歌のうち、五月(今の6月頃)の橘の香りに関わる歌を取り上げました。『三省堂 全訳読解古語辞典』で「袖」を引くと、「橘の花の香りから昔の恋人の袖の香を思いおこすという叙情性豊かな歌であるが、「恋の部」ではなく、「夏の部」に収められている。選者の意識には「花橘」に重点が置かれていたのであろう。」と書かれています。

この「橘の香」がどんなイメージだったのか、『三省堂 全訳読解古語辞典』辞書で「たちばな」を引いてみると、以下のようなコラムがあります。

(たちばな 2016年5月 編集部撮影)

[読解のために]香りと生命力が賞賛された「橘」
時じくの香の木の実 橘の実は古くは「時(とき)じくの香(かく)の木の実(=季節を問わずいつも香ぐわしい木の実)」といった。大伴家持の「橘の歌」〈万葉・一八・四一一一〉によれば、「橘」は次のようなものだという。五月の初花の枝を娘たちへの贈り物にし、袖にしごいて香りを移し、果実は緒に通して腕輪とする。また、ほかの植物がかれる秋の時雨(しぐれ)、冬の霜雪(そうせつ)にもたえて、果実はいよいよ黄金の輝きを増し、葉も枯れない。
橘姓の由来 そのような季節を超えた生命力が賞賛されて、元明(げんめい)天皇は葛城王(かずらきのおおきみ)(=橘諸兄(もろえ))らに橘姓を賜ったという〈万葉・六・一〇〇九〉。
橘の花 平安京の内裏(だいり)にある紫宸殿(ししんでん)の右近(うこん)の橘は有名だが、個人の家の庭にも好んで植えられた。和歌用語の「花橘(はなたちばな)」は、初夏の季節感や懐旧の情を連想させ、ほととぎすと取り合わされる。

◆三省堂 創作和歌コンテストについて

弊社では、現在「三省堂 高校生創作和歌コンテスト」の和歌を募集しております。本年度の歌題は「題詠 袖」です。ふるってご応募ください。以下のバナーから、募集要項や昨年度の受賞作品などがご覧いただけます。

創作和歌コンテスト結果発表バナー

 

三省堂の学習用古語辞典

三省堂 全訳読解古語辞典
高校からの推薦数No.1の古語辞典。授業から入試まで、古典学習のポイントがひと目でわかる。最新版の「第4版」では、好評のコラム「読解のために」約570項目が全面リニューアル。

 

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アルバイト募集のお知らせ

2016年 6月 3日 金曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部

下記業務にてアルバイトを募集しております。

【業務内容】

学習辞典の編集補助、簡単な校正作業

【募集人員】

若干名

【勤務期間】

2016年7月~8月の間(3週間程度)

【勤務地】

三省堂 東京本社(東京都千代田区三崎町2丁目22番14号)

【勤務時間】

平日9:30~17:30のうち勤務可能な時間(応相談)

【待遇】

時給1,160円(交通費支給)

【必要なスキル・環境】

辞典に興味のある方。どんな辞典の編集作業でも楽しんで行える方。
校正経験のある方大歓迎。

【応募方法】

以下の書類を下記応募先までメール添付にてお送りください。
  ・MS WordまたはExcelにて作成した履歴書(A4サイズ2枚まで)
   ※写真は証明写真のようなものでなくてけっこうですので、ご本人のはっきり写ったものをお願いします。
   ※メールは添付ファイルも含め5MB以内にお願いいたします。
   ※メール件名には今回の応募とわかるよう明記し、また添付ファイルのファイル名にはお名前を入れるようお願いいたします(2016.6.6追記)。

【応募先・問い合わせ先】

三省堂 辞書出版部 荻野 ogino[at]sanseido-publ.co.jp
[at]の部分を@にしてご送信ください。

【応募後の流れ】

応募メールが到着しましたら、1週間以内に確認のメールをこちらからいたします。
その後、選考のうえ、採用の場合は最初の出社日をメールにてご連絡いたします。

【個人情報の取り扱いについて】

今回ご応募いただく際の個人情報は、このアルバイト採用業務のみに使用し、それ以外の目的には利用いたしません。

【その他】

応募は6月下旬まで受け付ける予定ですが、募集人員に達したときなど、予定を繰り上げて締め切る場合があります。


タイプライター博物館訪問記:菊武学園タイプライター博物館(15)

2016年 6月 2日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・番外編第19回

菊武学園タイプライター博物館(14)からつづく)

菊武学園の「Crandall New Model」

菊武学園の「Crandall New Model」

「Crandall New Model」は、クランドール(Lucien Stephen Crandall)が1886年から1894年頃にかけて、ニューヨーク州グロトンで製造したタイプライターです。「Crandall New Model」の特徴は、タイプ・スリーブ(type sleeve)と呼ばれる金属製の活字円筒にあります。タイプ・スリーブには84個(14個×6列)の活字が埋め込まれており、このタイプ・スリーブが、プラテンに向かって倒れ込むように叩きつけられることで、プラテンに置かれた紙の前面に印字がおこなわれるのです。

菊武学園の「Crandall New Model」のタイプ・スリーブ右側面、最上列の活字はkbdsefl

菊武学園の「Crandall New Model」のタイプ・スリーブ右側面、最上列の活字はkbdsefl

菊武学園の「Crandall New Model」のタイプ・スリーブでは、一番上の列に、小文字の活字がzprchmilfesdbkの順序に、上から見て時計回りに埋め込まれています。その次の列には、小文字の活字がjvxunw.,toagyqの順序に埋め込まれています。「Crandall New Model」のキー配列と同じ順序であり、外側のキーほど、タイプ・スリーブが大きく回転する仕組みになっているのです。また、タイプ・スリーブの3番目の列には、大文字の活字がZPRCHMILFESDBKの順序に埋め込まれており、その次の列はJVXUNW.,TOAGYQです。これらの大文字は「CAP’S」キーに対応しています。同様に、タイプ・スリーブの5番目の列と一番下の列は、「F.&P.」キーに対応しています。

「Crandall New Model」では、印字がプラテンの前面でおこなわれることから、印字した文字が、すぐ直後にオペレータから見えるようになっています。また、タイプ・スリーブの交換は、オペレータが簡単におこなえるようになっており、別の種類の活字や字体に対応可能、というのが売りでした。ただ、タイプ・スリーブを回転させる機構は、とても繊細なもので、正確な回転には常に調整が必要でした。結果として、「Crandall New Model」は高速な印字には適しておらず、しかも故障が発生しやすい、という弱点がありました。なお、菊武学園の「Crandall New Model」は、スペースキーの奥に「17325」という製造番号が記されており、かなり後期の製造だろうと推測されます。

菊武学園の「Crandall New Model」の製造番号

菊武学園の「Crandall New Model」の製造番号

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


日本語・教育・語彙 第8回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(3):「海に包まれた街」をめぐって

2016年 5月 27日 金曜日 筆者: 松下達彦

第8回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(3):「海に包まれた街」をめぐって

 以前、日本語の授業で自分の育った場所を紹介する作文課題を出したことがある。するとある学生が「大連は海に包まれた街です」と書いた。私は前回、ことばの正しさを「意図したとおりに通じる」「受け手の気分を害さない」の二つから説明できるとした。ここでは「海に囲まれた街」と言いたいことはよくわかった。その意味では、意図は通じていると思われるし、特に気分を害する表現でもない。

 日本語教育を担当していると、このような表現によく出会う。そして考えさせられる。これに赤ペンを入れるべきかどうか、と。「包む」と「囲む」を比べると、前者は立体的で、後者は平面的だ。大連は、ご存知の方もいるかと思うが、海に突き出した半島の町で、三方を海に「囲まれて」いる。

 だが、私は「海に包まれた街」という表現を見た瞬間に、かつて大連の海辺を訪れた時の青い空と青い海に「包まれた」ような、美しい光景を思い出した。いや、正確には街全体が立体的に包まれたようなイメージを喚起されたのである。

 「海に包まれた街」は隠喩(メタファー)である。「街」をモノに見立て、「海」を、それを包む布か紙に見立てたような比喩である。おそらくこれを書いた学生は、ただ「囲む」と「包む」の違いがわかっていなかったか、「囲む」という語を知らなかっただけであろう。この2語の違いは、日本語教師としては教えるべきであろう。しかし、「海に包まれた街」があまりに素敵な表現だったので、そこに赤を入れることはためらわれた。これは「月曜日」を「火曜日」と間違えるのとは、質もレベルも異なる“誤り”である。

 このことは、少し広げて考えると、近年、母語以外の言語で書く作家や、クリオール(二つの言語が混ざってできたピジン[pidgin]が母語化した言語)の作家が全世界的に注目を集めていることとも関係していると思われる。すなわち、母語使用者にはないような発想が新たな表現を生んでいるということである。

 私の好きな日本語作家のひとり、デビット・ゾペティは、スイスで生まれ育ったが、母親がアメリカ人で、家では英語、学校ではフランス語を使い、ドイツ語もイタリア語も身に着けて育った人である。そんな彼が日本語で書いたデビュー作『いちげんさん』(集英社)は、すばる文学賞を受賞し、芥川賞の候補にもなったが、そのレトリック(修辞、表現技巧)が評価された面が大いにあるであろうことは読んでみればすぐにわかる。

 ことばの規範(正しさ)も美しさも、その言語社会の中で時間をかけて作られていくものであり、その時々に少しずつ変化していくものである。母語でない人がそれを作ることに参加できないわけがない。

 

参考文献

デビット・ゾペティ(1997)『いちげんさん』集英社

 

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【筆者プロフィール】

松下達彦(まつした・たつひこ)
『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

【編集部から】

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は不定期の金曜日を予定しております。


人名用漢字の新字旧字:「法」と「灋」

2016年 5月 26日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

第112回 「法」と「灋」

新字の「法」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「灋」は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。旧字の「灋」にいる「廌」は、古代中国における神獣の一種で、その角に触れると立ちどころに罪の有無がわかるらしいのですが、新字の「法」ではどこかに逃げてしまっています。

昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表2528字を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、新字の「法」が含まれていました。昭和17年12月4日、文部省は標準漢字表を発表しましたが、そこでも新字の「法」だけが含まれていて、旧字の「灋」は含まれていませんでした。

昭和21年11月5日、国語審議会が答申した当用漢字表にも、やはり新字の「法」が収録されていて、旧字の「灋」はカッコ書きにすら含まれていませんでした。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「法」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には新字の「法」が収録されていたので、「法」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。旧字の「灋」は子供の名づけに使えなくなりました。

それから半世紀の後、平成16年3月26日に法制審議会のもとで発足した人名用漢字部会は、「常用平易」な漢字であればどんな漢字でも人名用漢字として追加する、という方針を打ち出しました。この方針にしたがって人名用漢字部会は、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213(平成16年2月20日改正版)、文化庁が表外漢字字体表のためにおこなった漢字出現頻度数調査(平成12年3月)、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。旧字の「灋」は、JIS第4水準漢字で、漢字出現頻度数調査の結果が0回で、全国50法務局のうち出生届を拒否された管区はありませんでした。この結果、旧字の「灋」は「常用平易」とはみなされず、人名用漢字に追加されませんでした。

その一方で法務省は、平成23年12月26日に入国管理局正字13287字を告示しました。入国管理局正字は、日本に住む外国人が住民票や在留カード等の氏名に使える漢字で、JIS第1~4水準漢字を全て含んでいました。この結果、日本で生まれた外国人の子供の出生届には、新字の「法」に加え、旧字の「灋」が書けるようになりました。でも、日本人の子供の出生届には、新字の「法」はOKですが、旧字の「灋」はダメなのです。

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。


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