『日本国語大辞典』の見出し「あまなう」には次のようにある。
あまな・う【和・甘─】【一】〔自ハ四〕(「なう」は、ある事を行なう、ある状態にするの意の接尾語)(1)(和らぐ状態になるのをいうか)和合する。和解する。仲よくする。また、同意する。*日本書紀〔720〕仁徳一六年七月(前田本訓)「玖賀媛を以て速待に賜ふ。明日(くるつひ)の夕(よ)、速待、玖賀媛が家に詣りぬ。而れども、玖賀媛、和(アマナハ)ず」*日本書紀〔720〕継体二三年四月(前田本訓)「奏(まう)す所を推ね問ひて、相ひ疑ふことを和解(アマナハシム)」*観智院本類聚名義抄〔1241〕「和 アマナフ」(2)そのことに甘んずる。満足する。*大智度論平安初期点〔850頃か〕一三「一切世人の甘(アマナヒ)て刑罰形残考掠を受くることは、寿命を護るを以てなり」*大日経義釈延久承保点〔1074〕一三「其の情に愜(アマナフ)に因りて、方便化導して、其をして仏恵に安住せしむ」*中華若木詩抄〔1520頃〕中「此菴に、尤甘ない得たることのあるは」(以下略)
上に続いて、ハ行四段活用の他動詞、ハ行下二段活用の他動詞についての記述があるが、今それを省く。そしてそれに続いて次のような「語誌」が記されている。
奈良時代の仮名書き例はなく、平安時代の例も漢文を訓読した文献に限って現われる。「あま」の語源は未詳だが、「書紀」古訓に見える例からすると、原義は「和合する」「仲よくする」で、そこから「満足する」「それをよしとする」の意が生じ、「甘」と意識されるようになり、「甘んず」と同義語となっていったと思われる。
「アマナウ」は現代日本語では使わない語であるが、現代日本語母語話者は「アマナウ」が〈なかよくする〉という語義であることがわかると「アマ」は〈甘い〉ではないかと直感的に思うであろうが、「語誌」欄はそれは後のこととみている。「アマナウ」の「アマ」が〈甘い〉とつながるかどうかはわからないので、そのことについては措き、ここでは「ナウ」という接尾語について話題にしたい。
現代日本語でも使う「イザナウ」という動詞がある。『三省堂国語辞典』第八版は「文章語」の略号を附した上で「さそう。すすめる」と説明している。『三省堂国語辞典』はやはり「文章語」の略号を附して「イザ」という語を見出しにして、「人をさそうときのことば。さあ」と説明している。現代日本語では「イザ参ろう」とは言わないので、感動詞としては使われていないと思うが、「イザという時」という使い方はする。つまり副詞「イザ」は現代日本語でも使う。この感動詞、副詞の「イザ」に接尾語「ナウ」が下接したものが「イザナウ」ということだ。
「ウラナウ」であれば、名詞「ウラ(占)」に、「オトナウ」であれば、名詞「オト(音)」に、「トモナウ(伴)」であれば、名詞「トモ(友)」に、「ニナウ(担)」であれば、名詞「ニ(荷)」に、接尾語「ナウ」が下接して、動詞をつくったことになる。『日本国語大辞典』は見出し「おとなう」の「語誌」欄に「名詞「音」に、ある現象を生じる意の接尾語「なふ」の付いて出来た語で、音がする、聞こえるというのが原義であろう。「おとづる」より古く、上代はこの意で用いられており、「源氏物語」の名詞形も「きぬのおとなひ」(帚木)、「このはのおとなひ」(朝顔)のように、おおむね原義が生きている」と記している。
現代日本語においては、「トモナウ」「ニナウ」は漢字「伴」「担」と仮名とによって「伴う」「担う」のように文字化する。そうすることによって、「トモナウ」「ニナウ」に含まれていた「トモ(友)」や「ニ(荷)」は見えにくくなる。逆側からいえば「伴う」「担う」と文字化されていると、「トモ(友)」や「ニ(荷)」を抽出しにくくなるということだ。
最初は一音節の語ができて、次には一音節の語同士が複合して二音節の語となり、二音節の語と一音節の語とが複合して三音節の語、二音節の語同士が複合して四音節の語ができるというように、だんだんと音節数が多い複合語がうまれていったと考えるのがもっとも自然である。したがって、「アマナウ」「イザナウ」「ウラナウ」「オトナウ」「トモナウ」のような四音節語が二音節語+二音節の接尾語「ナウ」に分解できることは不思議なことではない。しかし四音節ぐらいの語はたくさんあって、ふだんはそれをひとまとまりの語、すなわち一語としてみているのだから、上のように「ナウ」とそれ以外の部分に分かれるとなると、少し驚くかもしれない。
筆者は大学で「日本語学概論」という授業をずっと担当してきている。その授業で、いつもは一語と思っているけれども、調べてみると複合語だったという語を探してくださいという課題を出すことがある。学生はいろいろ考え、いろいろと調べてそういう語を探してくる。そして、そういう「探索」がけっこう新鮮でおもしろかったと言ってくれることがある。日頃使っていることばを接尾語ということをきっかけにみなおしてみるのも時にはおもしろい。