大正元年(1912)10月18日、三省堂の経営破綻があきらかとなった。当初最終巻の予定だった『日本百科大辞典』第6巻が刊行されて2か月後のできごとだった。
経営破綻は、社員にも突然のできごとだった。明治44年(1911)2月、数え年16歳で三省堂に入店し、小僧[注1]としてつとめていた高岡一雄[注2]が三省堂の経営破綻をふりかえった文章[注3]には、「明治45年(1912/7月30日から大正元年)に入ると、なんとなく店内に陰気で落ちつかない気分がみなぎっているように感じた」「突如として、三省堂の破産が新聞に伝えられた」「辞書といえば三省堂、三省堂といえば辞書というぐらいに全国津々浦々まで知られていたので、私はじめ、一般のおどろきは非常だった」「店の前でさえ、夕刊の売り子が三省堂の破産とどなって売っていた」と書かれている。その夕刊には、『日本百科大辞典』のまさかりをもって三省堂を破壊している風刺画が掲載されていたという。
三省堂は、経営破綻の発表後、出版事業と書店を分離することになった。そうして大正4年(1915)9月8日、資本金7万円の株式会社三省堂が誕生した(出版事業と工場部門のみ)。書店は亀井家の個人商店として継続することになり、代表には忠一の五男・亀井豊治が就いた。
出版と書店の分離を提唱したのは、忠一の四男・亀井寅雄だった。明治23年(1890)生まれの寅雄は、当時まだ東京帝国大学法科大学に在籍中の学生だったが、経済科を専攻しており経理にあかるかった。
寅雄は、大学を卒業した大正5年(1916)、まだ倒産で混乱中だった三省堂に入社し、大正8年(1919)には常務取締役となった。そして大正12年(1923)には専務、昭和5年(1930)7月には社長に就任した。
亀井家としては二代目の社長にあたるこのひとこそ、三省堂の活字を築きあげ、同社を「うつくしい文字印刷」を誇る会社へとおしあげた人物である。
なお、三省堂の経営破綻後、『日本百科大辞典』の編修はいったん中止された。しかし大正2年(1913)、各方面の支援と出資を得て日本百科大辞典完成会が設立され、大正5年(1916)3月に第7巻、大正6年(1917)3月に第8巻、大正7年(1918)4月に第9巻、そして大正8年(1919)4月に第10巻が刊行。ついに完成となった。
[参考文献]
- 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
- 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
- 『故亀井万喜子刀自追想録』(三省堂、1928)
[注]