「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第8回 「文字印刷」に着目したひと・亀井寅雄

筆者:
2018年11月7日

一出版社が取り組むにはあまりにも冒険的だった、活版印刷による『日本百科大辞典』の制作と刊行[注1]。その刊行困難は、三省堂を経営破綻にみちびいた。崩壊した会社を立て直し、のちにつづく三省堂の基礎を築きあげたのが、創業者・亀井忠一の四男・亀井寅雄だ。

 

寅雄は、三省堂を「文字の印刷」の会社としたひとなのだが、さらには日本の書体デザイン全体に、ある変革をもたらしたひとでもある。彼がいなかったら、日本の書体デザイン手法の進化は、おおきく遅れていたかもしれないのだ。

 

亀井寅雄とは、どんな人物だったのだろうか。

亀井寅雄(1890-1951)

亀井寅雄(1890-1951)

「僕は本の中で生れ―育った。誰よりも本のことは知っている。読者の立場になって作り供給することが何より大切だ」

これは、寅雄がくりかえし口にした言葉だ。[注2]

父・亀井忠一が書店・出版業をいとなむなかで生まれた寅雄は、まさに終生を本のなかで過ごした。

 

亀井寅雄は明治23年(1890)11月20日、三省堂創業者・亀井忠一の四男として神田区神保町に生まれた。3歳下の弟に、のちに三省堂書店の社長となった五男・亀井豊治がいる。

亀井家は、本来11人兄弟だった。生まれた子どものうち、女子はよくそだったが、男子は3人続けて生後数カ月で亡くなってしまった。寅雄が生まれたとき、忠一は「この子もからだが弱く、そだちそうもない。けれども今度だけはそだてたい」と考え、時の皇太子(大正天皇のこと)の侍医をたずねた。何度もことわられたが通い続け、やっと寅雄を診察してもらい、じょうぶな乳母をつけた。翌々年、比較的からだのじょうぶな五男・豊治が生まれると、彼にもよい乳母をつけ、男子2人にはとにかく「健康健康」と注意しながら、山に海に、夏も冬も転地療養をさせて、大事にそだてた。小学校に入ると剣舞を学ばせ、2人のからだはめきめきと強くなった。結果、2人とも小学校は皆勤無欠席、寅雄にいたっては東京府立第四中学校[注3]の5年間も無欠席無遅刻無早退の「完全5年皆勤賞」を得たほどの健康体になったという。

 

寅雄は、東京府立第四中学校から第一高等学校[注4]を経て東京帝国大学法科大学[注5]に入学。三省堂の後継者となることを見すえ、経済科を専攻した。三省堂の経営破綻があきらかになったのは、在学中のできごとだった。まだ学生でありながら、寅雄は父・忠一を助けて善後の計画を立て、組織を株式会社にあらためることを進言。自身も大正5年(1916)に大学を卒業するとすぐに、まだ混乱のさなかにあった株式会社三省堂に入社した。

 

筋肉質のりっぱな体格で、相撲が強かった。一高時代、相撲部の催しで相撲大会がひらかれると、一年生選手として出場し、上級生も手を焼く強さだったという。三省堂の経営者となってからも、社員相手に時おり相撲をとる機会があったようだ。

 

その風貌は印象的だった。彫りの深い顔だちのなかに、おおきな眼が鋭く光る。姪の白石滋子(豊治の三女)は、〈伯父の顔を眺めては和製クラーク・ゲーブルといった感が深く、後姿の腰の太いところなどは一寸日本人離れのしたスタイルだなと、ひそかに思った〉と書いている。[注6] 寅雄本人も、大正10年(1921)に渡米したとき「お前はスパニッシュかとか何とか」と西洋人とおもわれて話しかけられたという逸話を、「僕の眉骨が高くて目が凹んでいるので間違えたのでしょう」と、さもおかしそうに何度も語っていたという。[注7]

 

仕事人としての寅雄は、理論的にものごとを考え、数字にあかるく、経理に長じていた。『亀井寅雄追憶記』の序文を読むと、そのことがよく伝わってくる。『亀井寅雄追憶記』は、寅雄の没後、七周忌のおりに、在りし日の亀井寅雄をしのんで、同窓生、会社、取引先、親族など彼と関係の深かったさまざまなひとの寄稿をまとめた一冊だ。

人となり沈黙寡言、喜怒を色にあらわさず、しかも大胆にして周到、いかなる難局に処するも意気沮喪することなく、沈着果断、社務については自ら細事に携わることなく、よく衆に任じて自らその大綱を統べ、一定の方針の下に万難を排して所信に邁進せられたことは、部下並びにこれを知る人々のみな敬服せしところであった。蓋し稀に見る聡明の人で、その非凡の天分は随時随所に発揮せられ、その特色について語るべきことは少なくないが、就中、特筆すべきは計数に明るい点であった。即ち数字的頭脳超凡であったことは、経理の専門家を驚かせ、その出版事業の如きも常に数字の上に立脚し、極めて統制ある企画の下に科学的、合理的に経営せられた。
[注8]

公人としての寅雄しか知らないひと、面識のすくないひとには、その眼光の鋭さもあり、親しみにくいとか、こわく感じられることもあったようだ。しかし実は茶目っ気あふれる洒落好きの一面があったと、『亀井寅雄追憶記』のあちこちに証言がよせられている。たとえば寅雄のあとに三省堂社長となった今井直一の記述はこうだ。

社長を追想するとき、すぐ浮かんでくるのはあの温顔と、軽妙なしゃれであります。入社以来三十年近く御指導を受け、その間いろいろの出来事がありましたが、いついかなる時でも、笑みをたたえた温顔と、思わずふき出すようなしゃれとが、ないことはありませんでした。困難な仕事に当面した場合でも、いつもこれによって救われ、勇気づけられてきたようであります。[注9]

なかでも寅雄の洒落がふるっているエピソードを、ひとつ紹介したい。三省堂の出版部長・平井四郎が寅雄の私邸を訪ねたおりのことだ。

 

寅雄が「平井くん、きみは英語が得意だから、これを訳してください」とプラカードのようなものを差し出した。そこには「CANNOT MUST BE OVERCOME」と大きくうつくしく印刷されていた。平井は「ああ、キャナットとマストと助動詞が2つ重なって、主語に当たるような語がないので、亀井さん訳せないのだな」と思いながらも、「亀井さんのことだから足をすくわれるかもしれない、うっかり返事はすまいぞ」と緊張を走らせているうち、なにかの本で読んだナポレオンの「The word ‘impossible’ can only be found in a dictionary for fool」という言葉が頭にひらめいた。そこでこれを話して「同工異曲ですよ」と婉曲回答したものの、寅雄に「それならそれでどう訳すのか。ちゃんと訳してくださいよ」と迫られてしまった。平井はもう、なにか一発やられるなという予感をいだきつつ、「不可能というなかれ」と訳を答えた。しかしこれでは落第という。

 

寅雄の答えはこうだった。

「僕ならこう訳しますよ――出来ないなどとは大馬鹿目――どうです?」(下線筆者)

 

いたずらっぽく笑う寅雄の顔が目に浮かぶようなエピソードだ。[注10]

 

『亀井寅雄追憶記』には、父・忠一が情熱的で冒険的な「動」のタイプだったのに対し、寅雄は母・万喜子に似て、ともすると「静」のタイプだったように伝えられる記述も散見されるが、忠一が「よいものは必ず、うつくしい」という信条のもと、うつくしい印刷にこだわって自社工場をもったのと同様に、寅雄もまた、よい出版物をつくることに情熱を燃やしたひとであった。

 

父が築いた「うつくしい印刷」にくわえ、よりよい出版物をつくるために三省堂に必要だと寅雄が着目したもの。それは「文字」だった。

 

※写真は『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

[注]

  1. 明治41年(1908)~大正8(1919)、全10巻で完結。途中、第6巻を刊行した大正元年(1912)10月18日、三省堂の経営破綻があきらかになった。
  2. 喜多見昇「断片記」『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)P.124
  3. 現・都立戸山高校
  4. 東京大学教養学部ならびに千葉大学医学部・薬学部の前身
  5. 現・東京大学
  6. 白石滋子「伯父の追憶」『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)P.374
  7. 岡本経紀「亀井寅雄様追憶記」『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)P.67
    ※岡本経紀は中井商店(現・日本紙パルプ商事)の支配人だった
  8. 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)序文より
  9. 今井直一「それは一九二二年のこと」『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)P.49
  10. 平井四郎「変った思い出」『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)P.273-274

[参考文献]

  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。