「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第9回 「文字の印刷」と「文字ならざるものの印刷」

筆者:
2018年11月21日

明治42年(1909)3月13日に刊行された『新訳和英辞典』という辞書がある(井上十吉 編著、発行兼印刷者 亀井忠一、印刷所 三省堂印刷部、発行所 株式会社三省堂)。木活字の名手・臼井翁が種字を彫刻した三省堂独自の「辞書用七号活字」をもちいはじめたころの一冊だ。[注1]

 

この辞書の第24版は大正5年(1916)9月15日、株式会社三省堂が設立された約1年後に発行されている。[注2] 巻末には「稟告」として、経営の都合により株式会社化したが、組織上の改編にすぎず、出版方針は依然かわらないことを報告し、ますますの引き立てを願う文章が掲載されている。

 

『新訳和英辞典』第24版(三省堂、1916)

『新訳和英辞典』第24版(三省堂、1916)

『新訳和英辞典』第24版の誌面。この和文が辞書用7号活字(三省堂、1916)

『新訳和英辞典』第24版の誌面。この和文が辞書用7号活字(三省堂、1916)

 

依然かわらないという三省堂の出版方針は、こうだ。

ますます良好の図書を出版しかつ出来得る限り廉価にて発売せんことに勤め編輯に印刷に将又た用紙に装釘に其の他一切の細事に至るまで努力と費用とを傾注して惜まず如何にせば御勉学上に御利益あるべきや如何にせば御使用上に御便利あるべきやと日夜苦心致して居ります

『新訳和英辞典』(前出)巻末広告P.1

よりよい本を、できるかぎり安く発売する。三省堂のいう「よりよい本」とは、内容はもちろんのこと、紙や印刷製本をふくんだ装丁に至るまですべてにこだわった本である。

 

その実現のために、創業者・亀井忠一は、印刷製本の自社工場をつくった。そして寅雄は、父の信条であった「よいものは必ず、うつくしい」を実現するために「活字の字母の改良」が必要だと着目していた。「なんとかして(三省堂独自の)優秀なる字母をつくりたい」というのが、彼の入社初期からの志だったのだ。[注1] このころ、三省堂ではおもに秀英舎(大日本印刷の前身)系の書体=秀英体の活字をもちいていたという。

 

寅雄がどんなに「文字」にこだわっていたかということは、彼の談話や文章にくりかえし登場する、2つの対となる言葉からうかがえる。ひとつは「印刷をする工場」と「書籍をつくる工場」、もうひとつは「文字の印刷」と「文字ならざる印刷」だ。

 

いわく、他社の工場は「印刷をする工場」であり、印刷するものが書籍であろうと、チラシや包装紙など他の印刷物であろうと、印刷によって経営が成り立ちさえすればよい。しかし三省堂の工場は「書籍をつくる工場」であるという点で、おおきくことなるというのだ。

 

印刷は通常、その版式によって凸版、平版、凹版といった種類にわけられる。しかし三省堂の印刷工場においては、以前から「文字の印刷」と「文字ならざるものの印刷」に大別してかんがえていた。「文字ならざるものの印刷」というのは、カラー印刷や写真印刷などのことで、洋の東西を問わずむずかしさにかわりはない。しかし「文字の印刷」においては、欧米諸国と日本ではおおきなちがいがある。

 

欧米ではアルファベット26文字分の優秀な字母をつくりさえすれば、それを活字にし、組版して、りっぱな印刷物をつくることができる。ところが日本では、漢字の数が多いため、数千字から、場合によっては万単位の字母が必要となる。単純に比較しても欧米に対して200倍以上の手間がかかり、コストもかさんでしまうのだ。

 

だから通常の印刷工場は、文字印刷ではなく文字ならざるものの印刷に力を注ぐ。紙幣やたばこ、ビールのラベルほか、あらゆる方面のカラー印刷をおこない、利益をあげる。しかもこうした印刷代は、その商品の原価のほんの一部分にすぎない。だからこそ発注者は、印刷に費用をかけることができる。

 

ところが三省堂で主体としているのは「文字の印刷」だ。それが、三省堂の工場は「書籍をつくる工場」だという所以である。書籍において印刷代は、おおきな比重を占める。しかも、「文字の印刷」において優秀な印刷をおこなおうと思ったら、まず、優秀な字母をつくり、それをもちいて活字を鋳造し、組版しなくてはならない。字母そのものが欧米に比べて数百倍もの手間をかけてつくられるので、その組版・印刷代は非常に高いものになる。高い費用がかかるということは、書籍の値段があがるということだ。だから出版社は、印刷会社に文字印刷で高い金額を支払うことを躊躇する。

 

「しかし、印刷が文化に貢献するところの大部分は、文字印刷によって占められているのは言うまでもない」(亀井寅雄)

だから忠一も寅雄も、文字印刷に異常なる熱意をついやし、よりうつくしい印刷によるすぐれた本をできるかぎり廉価に提供するには、自社で印刷製本をおこなうしかないと考えていたのだ。

 

よい書物をつくるためには、すぐれた活字が欠かせない。けれども取り組もうとすれば、数千という字母を一からつくる――種字彫刻師に1本1本手彫りしてもらわなくてはならない。莫大な時間と費用をかけなくては不可能なのだ。ゆえに、よい活字をつくることの重要さに気づく者はいたとしても、積極的に着手する者はあまりいなかった。

 

しかし三省堂に入社した寅雄の胸には、「なんとしても優秀な字母をつくる」という熱い思いがうずまいていたのである。

 

※写真はすべて筆者撮影

[注]

  1. ガリ版刷りの『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂社内資料、1955)によると、「辞書用七号活字」を最初に用いたのは『新訳英和辞典』とのこと(亀井寅雄「三省堂の印刷工場」P.5)。寅雄は、忠一が臼井につくらせた「辞書用七号活字」を「当時としては他の追随を許さぬ立派な字母であった」と回想している。
    ※『新訳英和辞典』については、境田稔信「三省堂辞書の歩み 第11回 新訳英和辞典」、『新訳和英辞典』については、同 境田稔信「三省堂辞書の歩み 第18回 新訳和英辞典」にくわしい。
  2. 株式会社三省堂の設立は大正4年(1915)9月8日。

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」
  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。