『日本国語大辞典』をよむ

第131回 ツィゴイネルワイゼンと嵐が丘

筆者:
2025年6月22日

シューマン(Robert Schumann:1810-1856年)が1840年に作曲した「Zigeunerleben」は、もともとは4重唱の作品でしたが、日本では石倉小三郎(こさぶろう)(1881-1965年)の訳詞で、「流浪の民」というタイトルの合唱曲として歌われています。筆者は小学校の時に、この曲を歌った記憶があります。ドイツ語「leben」は〈人生・生活〉という語義なので、「Zigeunerleben」は「Zigeunerの人生・生活」というような意味になりますが、石倉小三郎は「Zigeunerleben」全体を「流浪の民」と訳したのでしょう。

「流浪の民」は「ぶなの森の葉隠れに、宴(うたげ)寿(ほが)い賑わしや、松明(たいまつ)(あか)く照らしつつ、木の葉敷きて倨居(うつい)する」という歌詞から始まります。「ウタゲ」はともかくとしても、「ホガイ(ホカイ)」や「ウツイ」は小学生には難しい語でした。

『日本国語大辞典』は「ホカイ」を「神を祝福し幸いを招くこと。ことほぐこと。転じて、神仏に食物などを供えてまつること」と説明しています。「ウツイ」は見出しを引用しておきましょう。

うつい[‥ゐ] 【俯居】〔名〕うつむいて、うずくまっていること。うずい。*白羊宮〔1906〕〈薄田泣菫〉冬の日「かかる日よ、在巣(ありす)の鳥も、うらびれし目路(めぢ)の眺めに、さへづりの徒音(あだね)を絶えて、俯居(ウツヰ)すらめ」*大辞典〔1912〕〈山田美妙〉「うつゐ(俯居)〔名〕古言。うつむきゐること」*流浪の民〈石倉小三郎訳〉「松明あかく照しつつ、木の葉しきて倨居(ウツヰ)する、これぞ流浪の人の群」

見出し「ウツイ」に使用例としてあげられている文献は、いずれも20世紀になってからのものです。そして「流浪の民」もあげられています。現代日本語母語話者の「感覚」では、「ウツイ」はいかにも古語ですが、あるいは明治末期頃に作られた「擬似的な古語」である可能性があるかもしれません。

さて、サラサーテ(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz:1844- 1908年)が作曲した「ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)」という作品があります。出だしは現在でもいろいろな場面で使われていると思います。この曲は、1904年に、サラサーテ自身のヴァイオリンによる録音が行なわれていますが、この録音には途中に謎のつぶやき声が入っており、内田百閒(1889-1971)はそのつぶやき声をモチーフとして1948年に短編小説「サラサーテの盤」を書きました。その「サラサーテの盤」をもとにして、映画監督の鈴木清順(1923-2017)は1980年に映画「ツィゴイネルワイゼン」をつくっています。鎌倉でロケが行なわれたこともあって大学生の頃にみた記憶があります。

「Zigeunerweisen」の「weisen」は〈旋律〉ということなので、「ツィゴイネルワイゼン」は「Zigeunerの旋律」という意味になります。

「流浪の民」は「Zigeunerleben」、「ツィゴイネルワイゼン」は「Zigeunerweisen」、さて「Zigeuner」は? ということになりますが、この「Zigeuner」を「Google翻訳」を使って日本語に翻訳すると「ジプシー」と翻訳をします。(編集部注:翻訳結果は原稿執筆当時のもの)『日本国語大辞典』は「ジプシー」を見出しにしています。見出し「ロマ」とともに示してみましょう。

ジプシー〔名〕({英}Gipsy, Gypsy )(1)バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリアなどに広く分布する民族。一〇世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、一五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買、鋳掛け、占い、音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽、舞踏はハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。自称は人間の意のロマ。(以下略)

ロマ〔名〕(Roma ロマニー語で人間の意)ジプシーの自称。

小型の国語辞書『三省堂国語辞典』第八版(2022年)も「ジプシー」「ロマ」いずれも見出しにしていますが、見出し「ロマ」を「ヨーロッパの各地を移り歩き、音楽などで暮らしを立てる民族。チゴイネル。ボヘミアン。ロマ人。〔もと、ジプシーと呼ばれた〕」と説明しています。「ロマ」がおもに使われるようになれば、辞書の見出しのたてかたや語義の説明のしかたも変わっていくかもしれません。

さて、『日本国語大辞典』はエミリー・ブロンテの「嵐が丘」を見出しにしていますが、その説明は次のように記されています。

あらしがおか[あらしがをか] 【嵐が丘】(原題{英}Wuthering Heights )長編小説。エミリー=ブロンテ作。一八四七年刊。荒涼たるヨークシャーの自然を背景に、ジプシーの捨て子ヒースクリフのキャサリンへの激しい愛憎を描いたもの。

登場人物「ヒースクリフ」はそういう人物設定になっていたことに今まで気づいていませんでした。Queenには「ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)」という曲がありますが、この「Bohemian」もロマということになるかもしれませんね。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。